2020年10月31日土曜日

少人数学級は実現できるか

 学級担任の時間的労力の大きさは、どこで決まるか。

これは、学級の人数である。

当り前だが、10人程度しかいない学級と40人いる学級では、日々の時間的労力が全く違う。

個々の対応の大変さももちろん違うのだが、それ以前に、単純な作業量が違う。


私自身も両方経験していて、この点については保証する。

11人の学級担任だった時は、テストの採点も日記の返事もあっという間である。

評価の目も行き届きやすく、通知表もあっという間に出来上がる。

当然、各種書類関係の処理時間も少ない。

提出物があってもあっという間に集まるし、集計できる。


これが40人の担任であれば、全てに先の4倍かそれ以上の時間がかかる。

今までのペースでやろうとしていたら、当然、残業という力技でカバーすることになる。

結果、多くの学校では慢性的残業が習慣となっていく。


算数の問題だと、次のようになる。

「A先生はテスト1枚あたり1分で採点ができます。

10人を担任した時は何分かかるでしょう。

40人を担任した時は何分かかるでしょう。

40人の時にかかる時間は、10人の時の何倍でしょう。」


小学生レベルの算数で考えても、当たり前のことである。


さて、現状の40人学級を、30人学級の実現へということで政府が動いている。

これ自体は、望ましいことである。

先の話でいうと、40人から30人では、25%減であるから、時間的労力が全く違う。

一教師の視点から見ると、これに越したことはない。


しかし、何事も、部分最適ではなく、全体最適として見ることが肝要である。

この教師個人にとって望ましい傾向が、全体としても望ましい結果になるか、ということである。



以下、突然30人学級が実現するという、架空の想定をしてみる。


A先生は、40人学級を担任している。

A先生にとって、30人になること自体は助かる。

そしてA先生がもつはずだった10人は、別の人が担任することになる。


同じことが全ての先生にいえる。

そうなると、一人の先生ごとに10人もてなくなる子どもが出る。

その分、他の人がもつことになる。


校内に余剰人員はいないので、新しく大量に採る必要が出る。

単純計算して、現状の担任3人あたりに1人の増員である。

全体の4分の1は、増員した人が担任することになる。

増員されるのは、新規採用の人たちである。


そうなると、育成に時間と費用がかかる。

育成期間中は、やりながら鍛える、という方向をとることになる。

これも当然である。


支援級を除いて各学年5学級、現状で30人の担任がいる児童数1200人の大規模校だと、10人増員することになる。

さて、この10人全員が30人の学級を担当できる力があれば何も問題はない。

実際は、急募されたほぼ未経験の10人であるので、それを望むのは難しい。


つまり10学級は、常にケアが必要な状態である。

各学年7学級中2学級にケアが必要な状態。

集団を扱う技術が未熟なのだから、荒れる学級も当然出る。


これは、担当人数25%減の恩恵ではカバーしきれない。

火消しや治療に費やす労力は、予防の労力より何倍も大変である。

元々が各々労働時間がオーバーしていたのだから、無理が生じる訳である。

結局、全体最適という観点からしてもマイナスだし、個々にもしわ寄せがいくのは間違いない。


以上は、非現実的な架空の想定である。

現実は、一気に採用を増やすということはできない。


だから「段階的に採用」という方向になる。

政府の出した方向だと、実現に10年間かけるという。

現時点の採用試験でも2倍を切っている自治体が多いという現状。

そこで余剰人員が全くいないために講師に頼っているという現状からすると、10年でもかなりの急ピッチである。


「教育は人なり」という言葉が示すように、成否の鍵は人次第である。

教育におけるICTの活用は、あくまで人の補助である。

工場やシステム管理のように、ロボット中心になることはない。

だから、未来になってもなくならない職業なのである。


30人学級の実現は、担任の現状からすると、夢のような話である。

今回は理想、ビジョンを明確に掲げている以上、時間をかけて必ず実現はする。


素晴らしい試みであるものの、現場から見た問題点も数多くあるので、今後の動向が気になるところである。

2020年10月28日水曜日

学級は環境づくりが第一

 前号で「子どもの裁判所」について書いた。

要は、集団には子どもが自主的に守ろうとするきまりが必要という話である。


今回は、そこに関連して、学級の「荒れ」やトラブルについて書く。


子ども集団の話をする前に、まず自分自身を振り返ってみて欲しい。

自分は、意志力が強く、忍耐力がある方か。

あるいは、継続力がある方か。

社会生活上のルールや約束、〆切等をきちんと守れる方か。


多くの人は、ここに「No」と答えるのではないだろうか。

前にも書いたが、これらには環境が大切である。

安きに流れやすい環境があれば、意志を貫くのは難しい。


いつもついテレビを観てしまう人が、それをせずに勉強しようと思ったとする。

しかし夕飯時にテレビを観る習慣がある家庭であれば、そうでない家庭に比べ、一気に遂行が難しくなる。


明るく前向きに生きようと決意する。

そのために、嫌な言葉を使ったり、他人にマイナスな感情をなるべくもたずに生きようと決意する。

しかし、マウンティングや言葉の暴力に溢れているようなSNSにすぐふれることができる環境にあれば、これは難しい。


つい飲み過ぎてしまうので、付き合いの酒を減らそうと決意する。(ここ最近はその心配は不要かもしれないが。)

しかし、車で通勤の人に比べて、電車通勤の人は、道すがら飲みにいきたくなる可能性が格段に高まる。


その仕事の〆切日より、大幅に早く仕事を終わらせようと決意する。

しかし、進捗を確認する人がいなければ、〆切ぎりぎりにならないと、やる気が起きない。

途中経過を報告しないといけない上司や顧客がいる人に比べて、早めに取り掛かる確率は大幅に下がる。


どれも、環境のなせる業である。

個々の人間がだらしないとかしっかりしているとかだけではなく、環境の影響がかなり大きい。

同じ人間でも、環境次第で、行動は180度変わる可能性がある。


ここまでを前提に、学級集団の話に戻る。

学級集団が「荒れる」原因は、この環境要因が大きい。


例えば、ルールについて。

いちいち細かなルールが決められている割に、それらが平気で破られ、破った場合も特にお咎めなしだとする。

こうなると、坂道を転げるように、一気に様々なルールを破るようになる。


対策の方向は大きく二つ。


一つは、ルール順守の推奨。

ルールをきちんと守っているかのチェックをし、きちんと守っている人が認められる。

逆にあまりにひどい人には、何らかの制限、ペナルティが粛々と課される。

「子どもの裁判所」は、ここをきちんと担保しているため、集団づくりへプラスに機能する。


もう一つは、ルール撤廃の方向。

守られないでも何ら問題ないようなルールは、そもそもルールとして不要である。

全員で、撤廃を検討すべきである。

前号の話でいうと「子どもの法典」の見直し作業である。

これを全員で検討した上で「やはり必要」と議決された場合、初めて本物のルールとして作用し始める。

「以前からある」「そういうものだから」というような誰にも明確な理由が言えないルールは、ルールとはいえない。


こういったルールに対する適正な環境を作るのが、担任の仕事である。


また、トラブルが多い学級は、不要な物が多い。

端的にいって、散らかっている。

もっとはっきり言うと、ぱっと見た瞬間から汚い。


物も環境である。

高学年によくあるが、不要な物を多くの子どもが持ってきている環境。

それを持ってこないと、仲間に入れてもらえない感じがする状態。

それを放置していたら、将来的なトラブルの種が育つのは目に見えている。


ひも類が、いたる所にだらしなく床に垂れ下がっている教室。

誰かが足を引っかけて転ぶのは時間の問題である。

これも、ケガを誘発する環境である。


集団がだらしないほど、いちいち細かく指示するのが、担任の仕事である。

(私はよく子どもに言うが、「何度もいちいちしつこい」のは、何度も言ってる側ではなく、何度言われても直さない側の方である。)

逆に、集団がしっかりしてくるほど、細かい指示は一切不要になる。


だから、担任として楽しく快適に過ごしたいのなら、よい環境ができるまでは、苦労し続けることである。

それまでは、楽しい学級担任ライフはお預けである。

細かく物やらルールやらの環境の指導をして、いちいち同じことを何度も言って、やっと良くなったと思ったらまた物が散らかって。

その繰り返しで、だんだんと良くなるものである。


何事も、環境づくり。

具体的には、手をつけやすい物の環境整備から。

学級の荒れが心配になるなら、まずはそこからである。

2020年10月26日月曜日

子どもの裁判所

9月22日は「孤児院の日」で,そこにちなんで書いた記事。

岡山の医師である石井十次という偉人が、1887年に日本初の孤児院を創設した日だという。

まだ憲法も制定されていない明治の時代に、そのようなものをつくった人がいたということに、ただただ敬意である。


偶然、私も海外の孤児院創設者の本を読んでいたところだった。

最近、子どもの権利や教育に関することを記事にしていたのも、その影響である。


「子どもの権利条約」に大きな影響を与えた、ヤヌシュ・コルチャックの伝記である。

(参考:日本ユニセフ協会 T.NET通信


一年前にも、このコルチャックの作った孤児院を舞台にした本をメルマガ・ブログ上で紹介している。

(参考:「教師の寺子屋」自治的学級づくりと信頼関係


教育における子どもの自治の原型を作った人といえる。

孤児院という、ほとんどが子どもだけの空間の中で、子どもの子どもによる子どものための生活と学びの場を作っている。


コルチャックは孤児院を「ホーム」と呼ぶ。

「ホーム」の子どもたちが共同生活をしていく中で、次の3つを作ろうとしていた。


それが

「子ども議会」

「子どもの法典」

「子どもの裁判所」

である。


「子ども議会」では、クラス会議のような自治的教育が、生活に密着した形で既になされている。

「子どもの法典」は「子どもの裁判所」と連動して、かなり細かく決められている。

中でも特に深いのが「子どもの裁判所」である。


裁判というといかめしいが、その強調されるところは

「人間はまちがいを犯す」

「まちがいを赦す」

という二点である。


つまりは、まちがいを自覚させ、それを赦すための裁判といえる。

それを、子どもの中から選出された裁判官が中心となって行うというものである。


裁判の一例が書かれている。

例えば、三人の少年が、小鳥の卵の入った巣を興味本位で分解した。

これを見た子どもが「ひどい」と咎めて、訴えられた。

それぞれの言い分も聞いた上で、裁判の判決は、有罪。

ただし少年の中の一人は、実際に壊していない上に十分に反省が見られるということで、無罪。


有罪の少年には罰として「今晩、みんなと一緒の部屋で夕飯を食べらない」というものである。

つまり、反省は促すものの、最終的には罪を赦すという方向である。


この裁判には「正直な人、一生懸命に努力している人を守るべき」という考えがベースにある。

他人を傷つける、怠けて真面目な者に不利益を生じさせるようなことがあってはならないという考えである。


ちなみにこの裁判、先生も子どもと全く平等に法定に立つ。

子どもを訴えることもできるし、逆に被告人として立たされることもしばしばである。

このコルチャック氏自身も何度も裁判にかけられ、「裁判官から叱られる」という割と重い罰を受けたこともあり、子どもに謝っている。


このような仕組みがあれば、保護者が介入するような、妙なもめ事にならないのではないかと思う。

きちんと子どもと先生が向き合える仕組みである。

先生の方からも不服申し立てができるというのもいい。


100年以上前に、このような進歩的教育思想・システムが機能していたということは、特筆すべきことである。


このような真の自由を愛する教育を施していたにも関わらず、最終的にはナチスによるホロコーストの犠牲となる。

国家間戦争は、全ての理不尽がまかり通る最悪の暴力である。


話を自治、子どもの権利に戻すと、権利には義務がセットということである。

子どもの個人の権利を最大に尊重するためには、集団内の各子ども個人の権利を侵害してはならない。

「何をしてもいい」というのではなく、権利を得る集団の一員としての責務を果たし、他人の権利を侵害しないという前提がある。

これは、ここに携わる大人も同様である。


この「ホーム」における子どもの権利の大原則を、学級集団に落とし込んで考えてみる。

学級の自治に必要なのは何か。

きまりである。

それも、子どもによる子どものためのきまりである。

また、きまりを単なる理想論にせず、それを機能させるだけの仕組みも必要である。


現代において、子ども同士の「裁判」は難しいかもしれない。

しかしながら、子ども同士のけんかを大人が解決する、というのではなく、子ども同士の話合いで解決するというのは、理想形である。

仲間や先生への不満を子どもが公的に訴え、反省を促し赦す場が学級内にあるというのは、理想的である。


そのためには、集団内のきまりが作用すること。

適切なきまりが自治をつくる。

この重要性を改めて感じた次第である。

2020年10月24日土曜日

「泣いている」にどう対応するか

 ちょっと注意したら、子どもが泣いて(あるいは暴れて)困ったという経験をした人はかなりいるだろう。


私は以前から再三述べているが、ふてくされる子どもというのが一番大変だと思うタイプである。

どんなに泣いてもわめいても、後できちんと反省できる人ならいいのだが、ふてくされて逆恨みするタイプは、正直大変である。


泣くという行為と怒るという行為は、目的がある。


感情の素直な表出という面が一つ。

これは必要である。

感情的に傷ついたから泣く、あるいは怒る。

表現である。


本当は泣きたいのにぐっと我慢する。

あるいは、嫌なのに嫌といわずに笑顔で対応してしまう。

「いい子」はこれが行き過ぎることがある。

感情の表出を抑え込んだその結果、とんでもなく心を痛めていることがある。


こういう人には

「泣いていい」

「怒っていい」

と、優しく穏やかに伝えればいい。


もう一つは、人を操作する手段としての泣きや怒りである。

こちらが注意すべき、厄介な方である。


元々、赤ちゃんは泣くことしか要望の伝達手段がない。

だから、赤ちゃんにとっては、泣いて人(特に母親)を操作するのは、正当な手段といえる。


しかしこれを、言語を操れるようになった年齢になっても使い続けてしまう。

いわゆる「泣けば通る」というものである。

(大人でも、相手に罪悪感を植え付ける手段として使う人がいる。

「そんなつもりじゃない」と無意識の人の場合だと、余計に厄介である。)


だから、大人でも感情を目的遂行の手段として使う人は「幼稚」と言われる。

子どもに対する際、何でも怒って何とかしようとするのは「下手」「未熟」と言われる。

(これは、教員でもコーチでも親でも同じである。)


子どもが、自分の落ち度を脇に置くために、泣いて誤魔化す。

これは、教育で正すところである。

泣いてもわめいても、通さない。

昔ながらの「おもちゃ場でひっくり返って泣く」は、この場面である。

感情的に傷ついているのではなく、相手を操る手段なのである。

(これは、要望が通らなくて怒っている場合も同じである。)


つまり「泣いていいよ」と「泣くな」は、相手の状況が違うのである。

感情の表出か、要望を通すための手段か、という違いである。


「痛いから泣く」も、要は訴えの手段である。

泣くことで、助けを求めている。

この時に助けるべきか否かは、先週号でも書いたが、状況によりけりである。


注意して泣く、怒る、ふてくされるという相手は、その場で教育するのは無理である。

なぜなら、幼稚だからである。

あまり育ってない幼児を相手に論理的な説明をしても、無駄なのは自明である。


ここは誤解されがちだが、年齢が低いから通じないのではない。

わかる子どもは、就学前だろうが、何歳でも通じる。

一方、わからない人には、何十歳でも通じないのである。


泣いても怒っても一旦放っておいて、落ち着くまで放置しておくしかない。

とにかく「泣いたから(怒ったから)うまくいった」という誤った成功体験を積ませないことである。

これは、大人同士の人間関係においても全く同じことがいえる、重要なポイントである。


「平等に扱う」とは、全ての子どもに同一の対応をすることではない。

相手に応じた、合理的な対応をする、ということである。


それでは、その手段を使ってくる相手をどうするか。


カウンセリングマインド的には、徹底的に話を聞いてあげるところである。

これは、癒しという目的のためである。


一方、教育的には、相手をしないことである。

これは、矯正という目的のためである。


家庭の状況が悲惨で、心が荒れている子どもなら、優しく包み込む必要があるだろう。

一方で、十分な環境に育っているのにも関わらず、単にわがまま放題が目に付くようなら、相手はしない。

(注意すべきは、一見裕福で何不自由ないと見える家庭の中に、心が荒んでいる子どももいることである。)


原則はいつも同じ。

弱っている相手なら、癒し、支援の方向。

健全な相手なら、鍛え、育てる方向。


その子どもは、何で、どういった背景で泣いているのか、あるいは怒っているのか。

たった一つの場面でも、見極め、見抜く力が大切である。

2020年10月22日木曜日

「子どもを大事にする」とはいかなることか

子どもは大事にすべきである。

「児童の権利に関する条約」は、ちょうど30年前の9月2日に発効された。

世界では、長らく子どもは大人の下の劣等なものとして扱われてきた。

つまり「この子どもを大事にする」というのは、比較的最近の考え方である。


今、女性差別や人種差別を口にすれば、たちまち袋叩きにあう。

子どもの権利も、近代に入ってからのスタンダードである。

そういう意味では、世界は良くなってきているのではないかと思う。


さて、問題はこの「子どもを大事にする」ということを、教育で行う時である。

保護するという面はもちろんあるのだが、教育においては育てる、鍛える、伸ばすといった視点が必要になる。

(保護が優先的に必要なのは、様々な事情で劣悪な環境下に置かれている不幸な子どもたちである。)


子どもが転んだ。

大声をあげて泣いている。

その子どもを抱き起こして「痛かったね」という。

これは、子どもを保護するという視点からは、正解である。

確かに、大事にしているといえる。


しかしながら、教育においては、この反応は必ずしも正解ではない。


子どもが転んだ。

泣いている。

しかし、しばらく黙って見守ってみる。

自分で立ち上がる。

「よく自分で立ったね」と認めて、軽く砂をはたいてあげる。

この場合は、ほめてあげてもいい。

子どもは涙が乾ききらない目で「うん!」と精一杯の返事をする。


しばらくして、次も、同じ子どもが転ぶ。

今度は、泣かない。

むくりと立つ。

「おお、平気なの?」と聞いてみる。

「うん!」と力強く返事し、膝の砂をぱっぱと払って、また遊び出す。


またしばらくして、次も、同じ子どもが転ぶ。

転んだことも気にならないぐらいにすぐ立ち上がって、また走り出す。

こちらが声をかける暇もない。


子どもを鍛え育てるという、ごく単純化した縮図的な例が、これである。


これは、大人からすると、少し寂しいぐらいである。

どんどん、自分を必要としなくなっていくからである。

しかし、これが教育である。

子どもが自分自身で生きていく力強さを身に付けさせるのが、教育である。


師の野口芳宏先生の言葉の中に、次のものがある。


「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」


『心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道』 さくら社 

  より引用)


子どもを大事にしているからこその言葉である。

子どもを、なめていない。

厳しい困難を乗り越えられる力強い存在、自ら伸びようとする存在という子ども観がないと、何でも保護の方向になってしまう。

何でも甘やかして保護の方向は楽だし、大人の側の自己有能感を味わえるので、中毒になりやすい。

(ちなみに、管理や指示が細かいのも、甘やかしと同じくロボット教育の方向である。子どもを常に命令で動かせる。)


子どもは大事にすべきである。

それは言い換えれば、子どもを決して甘やかさないということ。

それを乗り越えられる子どもには、少し高い壁を提示することである。

転んでも、自ら立ち上がる力のある者に、力強くエンパワメントしていくことである。


それは、実は大人の側にも痛みを伴う行為である。

厳しすぎる、口うるさいと避けられたり、反抗されたり、非難されることもある。

それは、必要な痛みである。


何なら甘ったれには、もっと褒めて欲しいと言われたり、優しさが足りないなどと言われることもあるかもしれない。

はっきり言おう。

褒めないのは、褒めるに値しない程度のことだからということ、あるいは、あなたが褒める必要のない相手だからである。

もっと心底弱っていて、どうしようもない状態なら、きっと褒めてあげるし、もっと優しくしてあげるのである。

「あなたはもっとできる人」「強くなれる人」だから、褒めないのである。


大人の側が逃げてしまっては、子どもの側が育ちようがない。

真意がわかってもらえるのが、すぐの時もあれば、10年、20年後のこともある。

一生、わかってもらえないことだってある。

それでも覚悟して、やる。


「それは認められない」と、はっきり言う。

「自分でやりなさい」と、はっきり突き放す。

教育において、肯定と同じぐらい、否定は重要な要素である。

心身共に健全な相手であれば、否定も立派な教育として成り立つ。

(ただし、部分否定であること。「あなたはダメな人間だ」というような全否定は、非教育的である。)


今しているその行為は、誰のためなのか。

真の意味で、子どもを大事にしていきたい。

2020年10月20日火曜日

大人は子どもより偉いか

 かの松下幸之助氏は

「周りのみんなが自分より偉くみえるから、ぼくは素直に人にものを頼める」

と常々話していたという。


また「身体が弱かったことが強み」というようなことも言っている。

自分の身体が弱いから、人に頼まざるを得なくなり、結果的にその人が良い成果を出してくれる。


これは経営者としての話である。

しかしながら、これは学級を運営する立場の教師にとっても、大変有益な考え方である。


同じ発想で、子どもにも対する。

つまり、自分一人の力よりも、子ども集団の方が力がある。

このことをまず認めることである。


また、目の前にいるのは子どもであるが、子どもが大人よりも優れていないという訳ではない。

たまたま、自分の目の前に子どもとしているだけである。

私はよく冗談半分、本気半分で

「目の前にいる子どもは、将来口をきいてもらえないぐらいになる人かもしれない」

と考える。


授業で行き詰まる。

これは、困る。

しかし、子どもたちに委ねると、上手く料理してくれることが結構ある。

教師が必死に掴んで離さないから、子どもは手出しできないだけなのである。


自分が一生懸命やっていると、疲れる。

年齢を重ねると、ますます疲れるようになる。

疲れる割に、子どもには全く力がつかない。

だから、子どもがやれることは、全部子どもに任せる。


子どもは、かなりの運動量を求めても、なかなか疲れない。

多分、子どもが疲れているのは、そういったものとは全然違う別のことである。

(高学年だと「塾疲れ」というのが一番多い。その手のストレスは、友達などの人間関係悪化の連鎖をも引き起こす。

ちなみに、自発の目標をもって主体的に取り組んでいる子どもは別で、塾でどんなに大変でも真っ直ぐでへこたれない。)


授業は、子どもが子ども自身を鍛える場なのである。

教師が自分のためにやる授業では意味がない。

塾や習い事も同じで、親のためではなく、本来は子どもが子ども自身のために取り組んでいるはずである。

教師や親のために子どもが頑張っているというのは、本末転倒である。


大人である自分は、大人であるだけで、別に子どもより偉い訳ではない。

子どもは子ども自身で、自ら伸びる力をもっている。

この自覚をもつことが、教育ではかなり大切である。

2020年10月18日日曜日

教育は、サービス業か否か

教育は、サービス業か否か。

かなり前から意見が分かれて議論されているところである。


人にプラスの働きかけをするという視点からすると、サービス業である。

しかしながら、あれこれお膳立てするツアーパッケージや、楽しませる遊園地のような場所かというと、これは違う。


学校に限らず、教育という名のつくものの必須条件は、自力でできる力をつけていくことである。

あれこれお世話をしてあげることは、サービスにはなるが、自力はつかない。

だから、保育や介護は、教育とは区別されている訳である。


自力ではできないことを、自力でできるようにさせる。

あるいは、上達させる。

ここが教育に求められている機能である。


自力でできないことを、いつまでもやってあげている。

上達するはずの能力がそのままにされている。

こうなると、教育とはいえない。


別に必ずしも相手を喜ばせなくてはいけないというものではない。

辛いことを辛抱させるのも、楽をとって避けたいことに挑戦させるのも、教育の一つの役割である。

やりたくなくても相手の成長のためにやるべき課題を与えるのも、教育である。


こうなると、やはり通常のサービス業とは大分性質を異にする。

相手が「お客様」であるならば、意に沿わないご機嫌を損ねるようなことはできない。

旅行やレジャーに快適を求めて来ているのに、苦難を与えられたら、次に来なくなってしまう。

しかしながら、それはサービス業だからであって、鍛える要素のある教育の場合、辛いことも避けて通れない。


授業や学校行事が、教員プロデュースのツアーパッケージ化していないか。

子どもがツアー参加のお客様になれば、サービスが悪いと不平不満も出るようになる。


子どもたちを、池の中の鯉のような状態にしていないか。

エサが欲しければ自分で取りに行くことを教えるのである。

他人が与えてくれた一つのエサに、我先と群がるような集団にしてはならない。

池でのんびり暮らすことを教えるのではなく、自由に泳ぎ回る力をこそつける。


教育がサービス業か否かの議論は難しい。

ただ教育は、単なるサービス業とは一線を画す。

短期的・即時的な享楽ではなく、長期的・将来的な幸福を考えてなされるべきことである。

2020年10月14日水曜日

挨拶は身を救う

最近の気付き。


自分の力だけで生きていると思えるのは、幼稚な証である。

だから、幼稚であるほど、誰の世話にもなっていないと思っている。

(子どもに「今日お世話になった人」を思い浮かべさせても、誰も思い浮かばないというあり得ないことが結構ある。)


実際に我々は、自分だけでは何もできない。

身の回りにあるありとあらゆる物は、人様が作ったものであり、それも元を辿れば、自然からのお恵み、贈り物である。


「自分でお金を稼げる」というが、それがどれほど生産的なことをしているのか考えると、かなり怪しい。

単純にお金を使えることだって、あくまで、周りの人のお陰様あってこそである。


そう考えると、今の社会で生きていく上で必要なのは、周りに支えてもらえることである。

流行りのフォロワー数どうこうだって、要は人支えの数である。


現実の社会でも、周りに応援される人が最終的には強い。

どんなに本人の実力があろうとも、周りから人として疎まれるようでは、先々は覚束ない。


これは、周りを従えることができるという権力や、業務を効率よくこなすことができるという能力の類とは、全く別ものである。

どちらかというと、この人についていきたいとか、そばにいたいと思わせる、人徳に近い要素である。


さて、ここから教育メルマガとしての本題。

そんな難しい要素を、学校教育においてはどう磨いていけばいいのかという話である。


挨拶である。

よい挨拶ができるようになる。

これだけでも、大きくアドバンテージである。


特に知識面や技術面の実力がない内は、よい挨拶は大きな力になる。

挨拶がとてもいいというただそれだけで、ありとあらゆるマイナスをかなりカバーしてくれる。


相手や状況に合わせたよい挨拶というのは難しい。

人によってはこういう時の挨拶はどうこう、という細かい要望がある。


だから、考えないでやる方がいい。

これまでも再三書いてきたが、「とにかく誰が相手でも、同じように、先にやる」と決めてしまうことである。

相手が上司だからとか子どもだからとか考えて調節していると、判断が0.2秒以上遅れる。


とにかく会ったら即やる。

それだけである。

さっき挨拶をした相手にうっかりまたしてしまってもいい。

判断に迷って挨拶すべき相手にし損ねてしまう方が、はるかに大きなリスクである。


特に実習生や新卒など若い人にアドバイスするのは、「ちょっとわざとらしいかなと思うぐらい、礼儀正しく」である。


「元気に」も付け加えて言いたいところだが、なかなかそれを出すのが苦手な人もいる。

しかし、礼儀正しくなら、がんばれば全員できる。

まずは形から入れるからである。


私自身、挨拶が上手いのかというと、到底自信をもってそうだとはいえない。

しかしながら、出会う人様にお世話になっていると意識している分、人後に落つということはないはずである。


とにかく、人に応援されるような人に育つよう、というのは、担任する子どもたちに対して最重要視している部分である。

頭がいいとか実力があるというのも大切なのだが、将来的に人に応援される人、あなたがいてよかったと思ってもらえる人になって欲しい。


だから、私は子どもに対しても、多少口うるさい面がある。

自分のものを散らかして放置しているとか、後始末が悪いとか、そうすべきでない場で大騒ぎしているとか、全部素通りできない。

そういう自己中心的な行動が見える人を、人は応援したくなくなるからである。

注意された側がその時自分に対してどう感じるかは置いておいて、将来的に見ればそれでよいと考えている次第である。


本当に自分を大切にしている人は、自分が本当に大切なので、周りの人にも大切にされるような自分を目指すはずである。

そうなると、必然的に、周りの人を大切にすることになる。

つまり、自分を大切にすることと他人を大切にすることは、本質的に同義であり、両方が成立していないと矛盾が起きる。


つまり与えてもいいが自己を犠牲にするほどではいけないし、頂いてもいいが他者を犠牲にするほどではいけない。

自分の利益のみを追求して、他に損益を被せるようなビジネスモデルは、必ず破綻する。

両者のバランスのとれた共栄以外に永続的な繁栄はない。


話を学校教育に戻してまとめると、とにかく自他を大切にするのは、挨拶からである。

ただこれは、よくある「あいさつ運動」などをして改善される面は、ほとんどない。

個々における、日々の心がけ一つである。

十把一絡げというような安易な方法で何とかなる類のものでは決してない。


難しいからこそ、もしも身に付ければ価値があるというのが、挨拶である。

2020年10月12日月曜日

教育的に意味があるとは

 前号の続き。

私のコメントが悪用された例の番組だが、教育において考察すべき点があるので記す。


コメンテーターの一人が次のように述べた。


「俺は自分が掃除の時間に学んだこと一つもない」


もう一人は次のように述べた。


「無駄なことをやらせたがっている人が

教育的に意味があるとか言っちゃう」


恐らく、この二人の実感自体は、「やらせ」ではない。

多分本音である。

これが、今まで学校教育を受けてきた大人の内の相当数が抱いている悪感情である。

学校教育への恨み、憎悪ともいえる。


ちなみに、後者の一人が述べている

「無駄なことをやらせたがっている人」とは、

この場において恐らく私を指している。

この番組内で捏造された使い方において、私は時代遅れの頭のカタい人にしか見えない。

さもありなん、である。


さて、そこは百万歩譲って置いておくとして、なかなかここが考えどころである。

学校における様々なことが子どもに「無駄なこと」と捉えられていないか、という点である。

突き詰めると、教える側がきちんと意義を腹の底から理解し実感し、教えているかという点である。


子どもに「罰」として何かやらせる、という古くからの手法がある。

罰の対象となる行為は、その本質的価値に関わらず貶められ、忌み嫌われる。


掃除。

漢字の書き取りや計算。

ランニング。

給食。


どの行為も、本来悪いことでは決してない。

むしろ、意義を感じて毎日進んでやる人もいるようなことである。

成長するという視点から「教育的に意味がある」行為である。


しかし、「罰」にしたり「強制」と感じさせたりした時点で、これらは教育的な意味を瞬時に失う。

無意味などころか、害悪にすらなり得る。

結果、あのような残念な捉え方しかできないようになる。


もし教師が清掃や勉強に対し、そのような見方をしていたとしたら、恐ろしいことである。

恨みつらみの大量再生産である。


自分の才能を磨く素晴らしい権利行為であるはずの勉強が、義務になる。

自分の心と向き合う機会であるはずの清掃が、単なる苦役、労役になり下がる。


子どもが

「今日もいいこと学んだ!」

「これには意味がある」

と実感できるようになるには、教える側の教育観次第である。


教える立場にある人は、自分に問う。

自分は、今教えていることの意義を理解しているか。

本音で必要だと思って、子どもの真の成長を願って教えられているか。


教育実習生には、毎度次のように教えている。

「自分が受けてつまらないと思う授業はしない。

自分が受けたい、面白いと思えれば大丈夫。

今まで受けきたやり方とかは一旦忘れて、それを思い切りやろう。」


それは、私の教育観そのものである。

自分が楽しい、意義があると思って教える。

教師の仕事の魅力を高めるに、それをみんなで実践していく。

そうして意欲溢れる若い先生が増えれば、学校教育は明るいものになる。


学校教育を本当に意味のあるものにしていきたい。

2020年10月10日土曜日

木配りと多様性

 クラス会議を実践していると、心から思うことがある。

それは、色々な特性の子どもがいた方がいいということである。


リーダーシップがある。

これは、とてもいいことに見える。

だから、みんなに身に付けて欲しいと願いがちである。


違うのである。

先頭に立つタイプのリーダーシップの強い人間が二人以上集まると、対立が起きやすい。

「船頭多くして船山に上る」の諺の通り、一つの集団において先頭に立って引っ張るタイプは、一人でいい。

逆に言うと、そのタイプも一人出てくれないと、色々と困る。


フォロワー型リーダーシップの得意な子どももいる。

全体に意見をふっていきながら、まとめていく。

しかしながら、このタイプは、自己主張をしないために、自己犠牲にもなりやすい。

そこへのフォローを入れてくれる、あまり目立たないが気遣いのできる子どもも必要になる。


突拍子もない変なことを言う子どもがいる。

これがまたいい。

話合いが膠着した時の起爆剤になる。


あまり積極的に発言しない子どもがいる。

しかし、ぽそりとつぶやく発言が鋭いことが結構ある。


また、会議中には発言しないが、決まったことを、やるとなったら黙々とやるタイプもいる。

逆もあって、会議中は勢いがあるのだが、実行となったらあまり動かないというタイプもいる。


本当に色々いた方がいいのである。

自治を目指すクラス会議に至っては、スムーズに決まらないぐらいがちょうどいい。

様々な角度からの視点で見るからこそ、多数の賛成案に対しての問題点も見つかるので、簡単には決まらない。

(一般的な会議は、原案への承認が主な目的だから、基本的にはさっさと決まった方がいいのである。)


ところで、「木配り」という言葉がある。

建築における木材の配置のことである。

木目や癖によって、配置や向き、見せ方が変わる。

様々な特徴の木が組み合わさることで、強い住宅ができる。


法隆寺の棟梁、西岡常一氏の言葉がある。

「木のことは木に聞け」

「木には癖がある、右に捻れる木と左に捻れる木を組み合すのが極意である」

参考H.P.:「宮大工が語る 世界最古の木造建築」 



要は、どんな人間同士でも、木と同様、使い方、組み合わせ方次第なのである。

適材適所というが、個々の人間には、必ずその特性が生きる場がある。


特に一見すると組み合わせにくそうな木もある。

これはいわゆる「平均」の値から大きく外れた子どもである。

他と明らかに違って組み合わせにくいように見えるが、実は唯一無二の力をもっている。

しかしながら、扱う側にそれを見抜く目がないと、単なる扱いにくい、よくない木材とみなされる。


私は常々「長所進展、短所無視」が大切だと考えている。

短所克服は、労多くして功少なしということが多い。

(しかしこと受験勉強に関しては、不得意な部分が一番点数の伸びしろがあるので、無視できない面があるのも事実である。)

長所を見出し、伸ばすことが教育の要点である。


その特徴は、どう生きるか。

一見欠点だと思っているところは、無視するか周りのフォローで何とかならないか。

あるいは、実は長所に転じられないか。


これは子ども集団だけでなく、職員集団にもいえる。

色々な特徴のある人が集まっている方が強い。

自分が全然ダメだと思っている人もいるかもしれないが、意外なところでみんな役に立っているものである。


多様性を認め合う。

クラス会議は、その入り口として有効な実践である。

ぜひもっと広まって欲しいと願う。

2020年10月8日木曜日

テレビメディアの害悪

ご存知の方もいるかもしれないが、昨日テレビ番組にてコメント依頼をされて放映された。

テレビ番組とは「情報」を発信する媒体である。

つまりは、感情の入った報せ。

意図があり加工されたものである。


私が依頼された内容は以下の通りである。


===============

(引用開始)

企画内容 特集「なぜ? 学校の掃除 掃除機でなくホウキなの?(仮)」

(中略)


▼なぜ掃除機ではなくホウキを使うの?

▼なぜ海外みたいに専門スタッフが掃除するのではなく生徒が掃除するの?

上記2つの質問に、現役教員の立場から

学校教育上での掃除の狙い、目的などについてお教え頂ければと思います。

(引用終了)

===============


「(仮)」が最も姑息なところで、実際に放映される際には


「学校に掃除機の導入 あり?なし?」


となっていた。

一見似ているようで、全く違う内容であることに注意してほしい。

そして私は、あたかも「なし」の立場でコメントする人であるかのように放映された。


上記依頼内容(▼)と併せて見比べてもらえばわかるが、質的に全く異なる内容である。

元々の依頼内容はつまり「日本における掃除の教育的意義とその歴史について」である。

私はここについて、荒れていた子どもが清掃を通して変わっていった姿など、1時間近く熱く語ったのである。

しかし、そんな素敵エピソードは全て不要だったらしい。

完全に相手の都合よく加工された形で、切り取って使われた。


元々の依頼に対し「掃除機の導入はありかなしか」というのは、テーマのレベルが低すぎる。

そんなの、両方うまく使えばいいというだけの話である。

というより、私もインタビューの中で「人手が足りない学校は使えば良い」とはっきりコメントしている。

何なら、現任校でも十年前に勤務していた学校でも、カーペットの部屋など必要な箇所ではとっくに導入している。


ほうきと掃除機の二者択一なぞ、馬鹿馬鹿しくて議論のテーマにすらならない。

「給食は全て米にすべきかパンにすべきか」と同じくらい無意味なテーマである。

小学生に討論を教えるために練習として扱う

「毒にも薬にもならない、どっちでもどうでもいい議題」

である。


とてもいい質問だと思って、間隙を縫って真摯に誠実に答えただけに、大変遺憾である。

学校現場で頑張っている全国の仲間たちの一助にと思いやったのが、裏目である。

真面目に頑張っている子どもたちと先生方に大変失礼な内容にされており、大変憤慨している。


今回の最大の学びは、メディアの教育への害悪である。

テレビの教育問題へのコメンテーターは、大概全く学校現場に携わっていない人たちだけである。

制作者も同様である。

今回の番組でも、現場で必死に何年も清掃指導をしてきたという人は、当然皆無である。

それら「業界人」や「芸能人」の意見が「正しい意見」として世間に通っている限り、メディアは教育にとって害悪でしかない。


また、メディアの意図に踊らされているのは視聴者だけではない。

実は出演者たちも、ずれたものを提示されて、それに対してコメントしているのである。

そう考えると、番組制作者に全ての人が踊らされているといえる。


唯一、清掃の意義は自分の手を汚して周りをきれいにすること、というところだけは放映された。

(勝手に「奉仕の心」などという口にもしてないテロップが入ったのは癪であるが。)

自分を汚して周りをきれいにすることで、自分を役立たせると言ったのである。

それは、結果的に、本物の自信につながる。


テレビをはじめとするメディアはこの真逆である。

自分の手を汚さずに事を行う。

しかも周りを更に汚す。


私は、自分の手が汚れてでも、この教育の世界をきれいにしたいと強く願っている。

それは奉仕の心からではなく、自分の命を最大限に輝かせたいからである。


根本・本質・原点という、師の教えに従い、これからも精進していきたい。

2020年10月6日火曜日

正解主義が意見の出なくなる原因

 学級会、あるいは授業で、意見が出ない。

この根本的原因を考える。


一般的に、低学年はどんどん意見を言う。

相当に変な意見やまとまらないものも含まれるが、とにかくどんどん言う。

それが、高学年に近づくにしたがって、減ってくる。


まずここの理由の一つは、節度である。

敢えて自分が言わずとも、周りが言うとわかっている場合、言わなくなるという面がある。

話合いを円滑に進める上で、これはこれで必要である。


もう一つの理由が問題で、正解主義の空気である。

これは、作りたくなくても、よほど意識していないと、自然にできていってしまう。

正しい意見が優先的に賞賛されるようだと、人は自信がなくなって、言わなくなる。


一番わかりやすいのは、正解がはっきりとわかりやすいもので、教科でいえば算数である。

算数では答えが一つである。

したがって、知識・技能面では評価もしやすい。

しかし本当に評価すべきは、考え方、道筋の方である。


最も意見が言いやすいのは、はっきりとした正解がないものである。

例えば、道徳では話合いの柱となる価値項目はあれど「正解」は一つにならない。

価値観の多様性を学ぶ場だといえる。


授業者が、日常的に何を評価しているかである。

正解を尊重して取り上げているばかりなら、正解主義になる。

多様な意見を取り上げて尊重しているようなら、意見は出やすくなる。


特に、誤答と思われるものや、他とは変わった考えに価値を置いて評価する。

真剣に言ったのであれば、一風変わった意見でも検討する。


この「真剣に」の部分は大切である。

明らかにふざけただけの意見や悪意のある意見と、真剣に言った意見とは、明確に区別する力量が必要である。

そこを平等に扱うのは、悪平等である。

「自由に意見を言い合える」というのには、その土台にみんなでよりよくなろうという気風があることが大前提である。


そして大人社会を見るとわかるが、変に学識が高い人がいる場合、意見がしにくくなることがある。

学識の高い人の中には自分が「正解」だと思っており、心のどこかで見下す傾向のある人がいる。

そこに自分の知見の低さを指摘されるのが嫌だからである。

当然の心理である。

つまり、メンバーに皮肉屋(ニヒリスト)がいると、発言は一気にしにくくなる。

全体の利益を考えると、ここはリーダーが制していく必要がある。


自由に意見を言い合える場というのは、その点で平等でなくてはならない。

知識は平等でなくてもいい。

知識があろうがなかろうが、発言の機会が出席者全員に保証され、真剣に発せられた個々のどんな意見も尊重される。

その点においての平等こそが重要である。


職員会議などであれば、管理職やベテラン教員が、どれぐらい新卒や若い先生方の意見を真剣に受け止めて尊重するかである。

例え知見の浅いものであっても、その思い自体は受け止めて、採用できない理由を真摯に説明した上で、議論を進める。

「市井の声をきく」という姿勢が、どの時代でもよきリーダーと呼ばれる人物に求められる所以でもある。


正解主義の空気をどう変えていくか。

ここに現代の日本の教育の、抜本的に改革すべき根幹があるように思える。

2020年10月4日日曜日

楽だと思う方の逆をやると楽

 思考法で何度か紹介しているが、「逆」を考えるというのは、物事を明確に捉える時に便利な考え方である。


例えば「なぜこれがあるのか」を考える時は、「ないとどうなるのか」を考えるとよい。

ルールの存在意義を考える時などにも有効である。


同じように、行動様式にもこれを採用してみる。

思い込みの逆をいってみると、うまくいくことが多い。


何でも使えるのだが、例を挙げて考える。


身体が疲れるから、姿勢を崩す。

実は逆で、姿勢を正して立腰を心掛けると、負担が減って腰が疲れなくなる。


お腹が空くから、たくさん食べる。

これも逆で、たくさん食べているのが、もっと食べたくなる原因である。

胃が拡張する。

食べる量を少しずつ減らしてゆっくり食べるようにすると、お腹が空きにくくなる。


疲れているから、不機嫌な表情、声になる。

これも意識的に表情を変えることで、逆に元気になる。

次のウィリアム・ジェームズの名言の通りである。

「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」

We don’t laugh because we’re happy. we’re happy because we laugh.


毎日ランニングを続けるのはきついから、週1で走ろうと決意する。

そうすると、続かない。

実は、週1よりも毎日走る方が続けられる。

毎日やることには意志力も判断も不要なので、精神的に楽である。

他のあらゆることがそうである。


さっぱり勉強しようとしない我が子に、勉強をしろという。

これはほぼ確実に、余計に勉強を進んでしなくなる。

ここへのアプローチ方法は様々にあるが、少なくとも正攻法ではうまくいかないのはもはや自明である。

逆説的に考えると、勉強しようとしないのは、十分に遊んでいない可能性がある。


・・・挙げればきりがないが、そういう考え方もある。

楽だと思う方に流していることが、実は苦を生んでいるというのが基本パターンである。


自分がつい安きに流しているものに対し、試しに実行してみると、何か変わるものがあるかもしれない。

2020年10月2日金曜日

やり抜く力は根性か技術か

前号、評価の在り方について書いた。

そこに関連して、関心や意欲、態度といった心の面をどう評価するか、あるいは向上させるかという点について。


新学習指導要領の3つの柱は、以下の通りである。


「知識・技能」

「思考力・判断力・表現力等」

「学びに向かう力・人間性等」


一方で、ここにおける学習状況評価の3観点は次の通りである。


「知識・技能」

「思考・判断・表現」

「主体的に学習に取り組む態度」


学校での勤務経験のある人はご存知の通り、以前の4観点が3観点に整理されたわけである。


「技能」の観点が独立していたのが、知識と統合されたのは大きい。

知識なき技能、技能なき知識(「畳の上の水練」)というのは、存在自体がややこしい。

統合してみるべきものである。

その点、以前よりは評価がしやすくなったように見える。


さて、どれが一番、評価が難しいか。

言わずもがな「主体的に学習に取り組む態度」である。

これによって「学びに向かう力・人間性等」を育む方向にもっていくのである。


ちなみにここへの評価は、話をよく聞くとか挙手回数が多いとかノートをきちんと書くとか、そういう目に見える類のことではない。

学習の調整や試行錯誤等、学び方そのものを見るというのだから、その評価の難しさは他とは桁違いである。


さて、自分自身を振り返ってみてみる。

大人である自分は、学びに向かう力・人間性等が、十分に成熟しているだろうか。

あるいは、学生時代に「主体的に学習に取り組む態度」に「A」評定をつけられるだろうか。

ここに自信をもって答えられる人は、そういないのではないかと思う。


とにかくこの「学びに向かう力・人間性等」は、対象が広範なのである。

そして、「主体的に学習に取り組む態度」という観点だけでは、到底計りきれない力なのである。


それでも、部分的には測定ができる。

ここから、心理学の話。


何度か紹介しているが「マシュマロ・テスト」の話である。

将来の2個のマシュマロ獲得のために、目先の1個のマシュマロを我慢できた幼児は、将来的にも成功する。

ここには、れっきとした結果が出ている。


さて、これを「意志力(グリッド)」とみなすこともできる。

目標に向けて、やり抜く力である。

やり抜く力は、学びに向かう力・人間性の一つである。


しかし、違う観点もある。

マシュマロを食べなかった子どもは、対象から気を逸らす工夫が上手だった、という観点である。

余計なものから関心を逸らす「見ない技術」ともいえる。

これが高いと、余計なものを見なくなるので、それに誘惑自体をされなくなり、当然目標達成の確立は高まる。


「根性」と見るか「技術」と見るかの違いである。


「根性」でいくと、鍛えるのがなかなか難しそうである。

昔の部活動のように一切水分をとらずに運動し続けたり、滝に打たれたりするのを想像してしまう。

意志力を、筋肉のように文字通り「鍛える」のである。


「技術」と見ると、何とかなりそうな気がする。

知っているか知らないかという知識ベースで、明暗が分れるのが技術である。

(泳ぐということへの知識を科学的に解明しているから、技術となる。従って、新しい知識からは新しい技術も生まれる。)


マシュマロを食べない根性。

我慢の力である。

目標のために、甘い物、お酒、たばこといった嗜好品、あるいはショッピングや動画閲覧をはじめあらゆる娯楽にふけらない力である。

誘惑が多い現代の中においては、かなり辛い状況である。


マシュマロから気を逸らす技術。

マシュマロのこと自体を考えない技術である。

これがあると、誘惑されないので、目標に近づける。

何かしら工夫のしようがありそうである。


ちなみに、食べなかった子どもの多くは、この気を逸らす工夫をしていたという。

違うことをしたり、違うことを考えたりする。

生得的なのか後天的なのかどうかはわからないが、それが身に付いているのである。

(ちなみに食べてしまう子どもは、とにかくマシュマロを凝視している。見ていて可哀そうなぐらいである。)


現実的に考えて、社会で誘惑されないための一番の方法は、それから離れることである。

SNSを惰性で見ていれば、当然誘惑の機会は格段に増える。

目標に向けて集中することも難しく、気が休まることはないと思われる。


何事もやり抜ける人というのは、根性があるというより、余計なものにふれていない、選択肢がないと思われる。

何事もやり抜けないという人は、選択肢が多すぎるのではないかと思われる。

お寺の修行で山に籠るという論理的な理由には、こういう側面が強くありそうである。


集中を妨げるものが多くある中で、学習に集中するのは難しい。

もしも授業をしてその学び方を評価をするのであれば、その授業に集中できるような環境づくり自体が大切といえる。

ぼーっとネットを眺めてしまうのを許すような環境を作ってしまっては、一人一台タブレットも泣くというものである。


そして評価できるのは、あくまでその結果である。

学びを調整できている子どもは、そのやり方が身に付いているのである。

言われるがままにやるしかできない子どもは、そのやり方が身に付いているのである。

(これは多分後天的である。ある意味、学校教育や学習塾等の訓練の賜物である。)

タブレットは刃物と同様、使い手のリテラシー次第で善にも悪にもなり得る強力な手立てである。


人間性といわれているものすら、技術的な側面がありそうである。


評価できるかどうこうを考える以前に、どうやればその力がつくのかを考えるのが前提として大切である。

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