2020年10月24日土曜日

「泣いている」にどう対応するか

 ちょっと注意したら、子どもが泣いて(あるいは暴れて)困ったという経験をした人はかなりいるだろう。


私は以前から再三述べているが、ふてくされる子どもというのが一番大変だと思うタイプである。

どんなに泣いてもわめいても、後できちんと反省できる人ならいいのだが、ふてくされて逆恨みするタイプは、正直大変である。


泣くという行為と怒るという行為は、目的がある。


感情の素直な表出という面が一つ。

これは必要である。

感情的に傷ついたから泣く、あるいは怒る。

表現である。


本当は泣きたいのにぐっと我慢する。

あるいは、嫌なのに嫌といわずに笑顔で対応してしまう。

「いい子」はこれが行き過ぎることがある。

感情の表出を抑え込んだその結果、とんでもなく心を痛めていることがある。


こういう人には

「泣いていい」

「怒っていい」

と、優しく穏やかに伝えればいい。


もう一つは、人を操作する手段としての泣きや怒りである。

こちらが注意すべき、厄介な方である。


元々、赤ちゃんは泣くことしか要望の伝達手段がない。

だから、赤ちゃんにとっては、泣いて人(特に母親)を操作するのは、正当な手段といえる。


しかしこれを、言語を操れるようになった年齢になっても使い続けてしまう。

いわゆる「泣けば通る」というものである。

(大人でも、相手に罪悪感を植え付ける手段として使う人がいる。

「そんなつもりじゃない」と無意識の人の場合だと、余計に厄介である。)


だから、大人でも感情を目的遂行の手段として使う人は「幼稚」と言われる。

子どもに対する際、何でも怒って何とかしようとするのは「下手」「未熟」と言われる。

(これは、教員でもコーチでも親でも同じである。)


子どもが、自分の落ち度を脇に置くために、泣いて誤魔化す。

これは、教育で正すところである。

泣いてもわめいても、通さない。

昔ながらの「おもちゃ場でひっくり返って泣く」は、この場面である。

感情的に傷ついているのではなく、相手を操る手段なのである。

(これは、要望が通らなくて怒っている場合も同じである。)


つまり「泣いていいよ」と「泣くな」は、相手の状況が違うのである。

感情の表出か、要望を通すための手段か、という違いである。


「痛いから泣く」も、要は訴えの手段である。

泣くことで、助けを求めている。

この時に助けるべきか否かは、先週号でも書いたが、状況によりけりである。


注意して泣く、怒る、ふてくされるという相手は、その場で教育するのは無理である。

なぜなら、幼稚だからである。

あまり育ってない幼児を相手に論理的な説明をしても、無駄なのは自明である。


ここは誤解されがちだが、年齢が低いから通じないのではない。

わかる子どもは、就学前だろうが、何歳でも通じる。

一方、わからない人には、何十歳でも通じないのである。


泣いても怒っても一旦放っておいて、落ち着くまで放置しておくしかない。

とにかく「泣いたから(怒ったから)うまくいった」という誤った成功体験を積ませないことである。

これは、大人同士の人間関係においても全く同じことがいえる、重要なポイントである。


「平等に扱う」とは、全ての子どもに同一の対応をすることではない。

相手に応じた、合理的な対応をする、ということである。


それでは、その手段を使ってくる相手をどうするか。


カウンセリングマインド的には、徹底的に話を聞いてあげるところである。

これは、癒しという目的のためである。


一方、教育的には、相手をしないことである。

これは、矯正という目的のためである。


家庭の状況が悲惨で、心が荒れている子どもなら、優しく包み込む必要があるだろう。

一方で、十分な環境に育っているのにも関わらず、単にわがまま放題が目に付くようなら、相手はしない。

(注意すべきは、一見裕福で何不自由ないと見える家庭の中に、心が荒んでいる子どももいることである。)


原則はいつも同じ。

弱っている相手なら、癒し、支援の方向。

健全な相手なら、鍛え、育てる方向。


その子どもは、何で、どういった背景で泣いているのか、あるいは怒っているのか。

たった一つの場面でも、見極め、見抜く力が大切である。

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