2020年10月12日月曜日

教育的に意味があるとは

 前号の続き。

私のコメントが悪用された例の番組だが、教育において考察すべき点があるので記す。


コメンテーターの一人が次のように述べた。


「俺は自分が掃除の時間に学んだこと一つもない」


もう一人は次のように述べた。


「無駄なことをやらせたがっている人が

教育的に意味があるとか言っちゃう」


恐らく、この二人の実感自体は、「やらせ」ではない。

多分本音である。

これが、今まで学校教育を受けてきた大人の内の相当数が抱いている悪感情である。

学校教育への恨み、憎悪ともいえる。


ちなみに、後者の一人が述べている

「無駄なことをやらせたがっている人」とは、

この場において恐らく私を指している。

この番組内で捏造された使い方において、私は時代遅れの頭のカタい人にしか見えない。

さもありなん、である。


さて、そこは百万歩譲って置いておくとして、なかなかここが考えどころである。

学校における様々なことが子どもに「無駄なこと」と捉えられていないか、という点である。

突き詰めると、教える側がきちんと意義を腹の底から理解し実感し、教えているかという点である。


子どもに「罰」として何かやらせる、という古くからの手法がある。

罰の対象となる行為は、その本質的価値に関わらず貶められ、忌み嫌われる。


掃除。

漢字の書き取りや計算。

ランニング。

給食。


どの行為も、本来悪いことでは決してない。

むしろ、意義を感じて毎日進んでやる人もいるようなことである。

成長するという視点から「教育的に意味がある」行為である。


しかし、「罰」にしたり「強制」と感じさせたりした時点で、これらは教育的な意味を瞬時に失う。

無意味などころか、害悪にすらなり得る。

結果、あのような残念な捉え方しかできないようになる。


もし教師が清掃や勉強に対し、そのような見方をしていたとしたら、恐ろしいことである。

恨みつらみの大量再生産である。


自分の才能を磨く素晴らしい権利行為であるはずの勉強が、義務になる。

自分の心と向き合う機会であるはずの清掃が、単なる苦役、労役になり下がる。


子どもが

「今日もいいこと学んだ!」

「これには意味がある」

と実感できるようになるには、教える側の教育観次第である。


教える立場にある人は、自分に問う。

自分は、今教えていることの意義を理解しているか。

本音で必要だと思って、子どもの真の成長を願って教えられているか。


教育実習生には、毎度次のように教えている。

「自分が受けてつまらないと思う授業はしない。

自分が受けたい、面白いと思えれば大丈夫。

今まで受けきたやり方とかは一旦忘れて、それを思い切りやろう。」


それは、私の教育観そのものである。

自分が楽しい、意義があると思って教える。

教師の仕事の魅力を高めるに、それをみんなで実践していく。

そうして意欲溢れる若い先生が増えれば、学校教育は明るいものになる。


学校教育を本当に意味のあるものにしていきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング