2020年8月31日月曜日

ロボットとペット

 今更なのだが、少し前に、お掃除ロボットを買った。

前々から興味があって、何年も前に人にプレゼントしていた割に、自分では使っていなかったのである。


きっかけは、犬である。

保護犬である我が家の犬は、予想に反して結構な大きさになった。

そして譲渡時に「室内で飼うこと」と契約してある。

たくさんの毛が、家の中で年がら年中抜ける。

掃除が、とにかく大変なのである。


そこで、ロボットの投入である。

これがいい。

何がいいって、床がきれいになる。

ついでに、床に物を置かなくなるので、家が散らからなくなる。

毛が多く抜けるペットのいる家には、たまらない快適さである。


ペットといえば、世の中にはペットとしてのロボットもいる。

20世紀当時、ロボット犬ということで話題になった。

私もたまたま、伯父が会社の関係で手に入れて、貸し出してくれたので「飼って」いた経験がある。


感情表現が組み込まれているのだが、やはり本物とは全く違うと感じた。

感情表現ができるということと、本当の感情が表に出ているということは、全く違うのである。

生き物としての犬や猫というのは、やはり心の底の感情が隠せないからこそ、可愛いと感じられる。


しかし、ペット型ロボットの先駆けとして、その意義は深い。

ここをベースに、ロボットと人の共存の在り方も考えられてきている。


その証拠として、今でも一部で根強い人気をもっている。

最近は「仮面ライダー」でも出演があったという。

千葉県のお寺では、人形供養と同じような形で、「ペット供養」としてもされているようである。

やはり、人形と同じで、感情移入することで、それには魂が宿るとも考えられる。

(そして買ってきた生き物のペットを途中で飽きて捨てるぐらいなら、ぜひロボットのペットの方を飼って欲しいと思う。)


ところで、お掃除ロボットにも、ペット型ロボット的な可愛さがある。

道に迷ったり、椅子の脚にはさまったりする。(高性能なやつだと、すぐ抜け出る。)

放っておけば掃除をしてくれるのに、つい見てしまうのが難点である。


他に書きたいことがあったのだが、ペットとしてのロボットの話が長くなってしまったのでこれまで。

ロボットも、付き合い方次第というところである。

2020年8月29日土曜日

共存共栄のための競争

 本来ならば、今週はパラリンピックが開会されていたはずである。

今回は、競争の在り方に関して。


次の本から引用する。

『商売心得帖』 松下 幸之助 著  PHP文庫


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(引用開始)

すなわち、お互いが日々行う競争というものは、戦争のように相手を倒すためのものではなく、

共存共栄のための競争というか、ともに成長し発展していくためのものでなければならないと思うのです。

(引用終了)

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「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助の言である。

松下幸之助は、適正な競争や適正な利潤追求というものに対して、総じて肯定的である。

そこに私心による不正をはさむからおかしなことになる、という至極真っ当なことを、繰り返し訴えている。


共存共栄のための競争は、よい競争である。

オリパラなどスポーツの祭典は、そういうものでなくてはならない。


「科学的に考えて人類には不可能」と言われていた100m9秒台。

これが一人出た途端に、続いて9秒台の人間が世界中に出現した。

競争による共栄、成長、発展の一つの形である。


学校教育においても、競争を完全に排除することはできないし、そうすべきではない。

競争自体が悪いのではなく、競争にも質的な違いがある、ということである。

学校教育で、共存共栄につながらない競争がなされているのが問題なのである。


例えばそもそも、学校の受験はなぜ存在するのか。

各人の能力に応じた適正な教育をするためである。

そのための選別であり、善意の強制といえる。


受験があることで、教える側も、ある程度のレベル以上のものからスタートできる。

目指す方向が似た集団になることで、共存共栄のための適切な競争も生まれやすくなる。

いい意味でライバルと磨き合いやすい環境になる。


受験のない公立小中学校では、ここが揃っていないため、学力差が絡むような競争はうまく機能しない。

競争に依らない、バラバラな方向性に沿った教育が求められる。

公立で教える側は、その意味で、受験のある私立小中学校よりも難しい面があるともいえる。


ここを勘違いして、受験を戦争のような「相手を倒す競争」だと思い込んでいる人もいる。

これはそのまま、大人になってからの生活にも反映する。

お隣の子どもや旦那と比べる、というのは一昔前の時代の話。

今では世界が戦争の対象で、例えばSNSで人よりいい評価を得たい、という自己顕示欲に発展する。


受験は全て自分自身とのたたかいであり、他者がどうであろうが、自分の記録には本来関係ない。

オリンピックに出る陸上や水泳の選手と同じである。

意味があるのは、共存共栄のための競争相手としてであり、共にがんばっている仲間として奮起するためである。


学校において必要な競争。

それは、戦争のように、相手を倒すための競争ではない。

オリンピックのように、自分自身を仲間と磨き合い、共存共栄するための競争である。


オリンピック以上に、パラリンピックがより美しく見えるのは、そういう動機の人が多いからなのかもしれないとも思う。

2020年8月27日木曜日

「学校のルールになっとくがいかない」

 次の本から。


『モヤモヤそうだんクリニック 』 池谷 裕二 文  ヨシタケ シンスケ 絵 NHK出版


子どもの「モヤモヤ」質問に脳科学者の池谷裕二氏が答えるというものだが、これが質問も回答も面白い。


例えば「学校のルールになっとくがいかない」というものがある。


これに対し、様々な知見から述べていくのだが、このルールの分類がわかりやすい。

ルールAを「自分に影響の及ぶもの」

ルールBを「自分には影響の及ばないもの」

の二つに分類する。


Aの例は、交通ルール。

Bの例は、はポイ捨て。


Aだけ守ればBはいいじゃないか、となるが、当然そうはならない。

その辺りを脳科学者らしく、非常にわかりやすく論理的に説明してくれている。


さらにヨシタケシンスケ氏の挿絵には次のようにある。

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「わたしのルールは

わたしがつくるわ!」

「もちろんいいわよ!

あなたのへやはあなたのルール、

みんなのばしょはみんなのルールね」

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私もよく「自分の部屋が一番自由」という話を子どもにする。

「私」の場である自分の部屋でどう過ごそうが、全く構わない。

しかし、学校は「公」の場であり、「私」ルールは最優先とはならない。


今、世間で問題となっているのが、「頭髪」に関するものである。

頭髪に関するルールが設定されている学校というのは、かなり多い。

この問題は長年続いているが、今後どうなるのか、見守っていきたい。

2020年8月25日火曜日

学校での失敗経験は、ワクチン

 現在、COVID-19のワクチン開発が世界中で切望されている。


ワクチンは、弱い毒を植え付けることで、免疫を作るというものである。

小さなダメージを与えることで、強いダメージに対抗できるようにする。


これは、「失敗学」と同じ思想である。

失敗を知り、小さな失敗体験することで、より大きな失敗を防げるようになり、成功に導いていく。


何だか自分で着想したかのように書いたが、実は違う。

前号の「学校教育は失敗を経験する場」を読んで、読者の方が「それはワクチンだ」と教えてくれたのである。


そう。

学校教育で大切なのは、ワクチンの発想である。

無菌状態の温室で育った生物というのは、弱い。

一生その状態をキープできるのならいいのだが、実際は途中で弱肉強食の自然の中へ放り出される。


日本でいうと、学校と社会との断絶である。

幼稚園から大学までは「ほめて伸ばす」「手とり足とり」「あなたは自由」だったのが、社会に出た途端、一変する。


社会に出て「会社でほめられた」という経験がどれぐらいあるだろうか。

ほぼないはずである。

そもそも、仕事とは他者貢献こそが全てであり、自分への称賛を求める場ではない。


社会に出て、「手とり足とり教えてもらえた」という経験がどれぐらいあるだろうか。

ほぼないはずである。

何もかもが「見よう見まね」で、失敗して叱られまくって落ち込みまくって、それでも奮起してきたはずである。

社会は「即戦力」を求めているのであって、いつ辞めるかわからない新人に膨大なコストをかける余裕はない。


社会にでて、「自由にやれた」という経験がどれぐらいあるだろうか。

ほぼないはずである。

公官庁や会社に雇われた場合は言うに及ばず。

起業した場合は自由だろうと思ったら、経理やら何やら、やるべきことは山ほどある。

(この面では、多分、会社に雇われている方がむしろ楽で自由である。)

社会は「やるべきこと」を私に求めてくるのであって、私のやりたいことを求めている訳ではない。


学校教育は、社会のシビアな面を無視してはいけない。

そこを逆に勘違いして、やたら厳しくしたり統制したりするが、それがまた余計に悪い。

従っていれば安泰というような状況に慣れることで、全く動けない人間にしてしまっている可能性がある。


学校では、きちんと失敗をさせるのである。

こちらで全てを掌握せずに、ある程度の責任と権限を与え、チャレンジさせてみる。

まず間違いなく、色々と「やってしまう」。


しかし、そこで終わらせないで、改善を加えながら、何度もトライさせる。

そこで初めて本物の「成功体験」ができる。

失敗もせずにいきなりできることを「成功体験」とは言わないのである。


学校の失敗は、ワクチン。

失敗を恐れないのではなく、むしろ積極的にとっていく姿勢をもちたい。

2020年8月23日日曜日

学校教育は失敗を経験する場

 今回のCOVID-19対策として、学校で「オンライン学習」という形をとってきた。

教師対子ども、あるいは子ども同士のコミュニケーション手段は、チームズというクローズドの中ではあるが、SNSである。


そうすると、SNS特有の様々なトラブルというのが、当然起きる。

肖像権や著作権等のルール違反も、当然起きる。


ここが大切なのである。

こちらからもある程度見えるクローズドの世界で起きるので、対応できる、指導ができる。

いきなりオープンなネットの世界で大失敗をしてしまうと、助けようもないし、取返しがつかない。


つまりは、学校が、ICTの活用やネットの世界に関連する様々なことの、練習になるのである。

いきなり本番よりも安心である。


データを見ると、小学校ではスマホ所持率は3割程度である。

しかし中学以降で子どもにスマホをもたせる家庭が7割を超える。

そこで持たせることに不安な保護者は多い。

当然である。


いきなりネットやSNSの世界に出ることになるので、危険なのである。

きちんとそこへの教育を受けた人間が出たのであれば、多少なりとも安心感が出る。

つまり今の時代、先に学校がICTやSNSに関する教育をする必要がある。


最初は、ある程度自由にさせてみる。

すると、問題が起きるので、制限をかけていく。

その制限がかかっている場でしばらく様子を見る。

上手くなってくるので、それらの規制を、段々と緩めていく。

通常の学級指導と同じである。


学校で、来たるべき危険への対処練習をしておくことが大切なのである。


これに関連して、長年問題となっているのが、日本の性教育である。

海外に比べて、学校教育で扱う範囲が大変小さい。

また、家庭教育でも「タブー」のようになっていて、更に範囲が小さい。

結局先延ばしして、見ないふりで終わり、という方向性である。


では子どもたちは実際それをどこで学び覚えるのかというと、インターネット上などの歪んだ性の世界である。

もちろんきちんと子どもの性の悩みに正対した心理カウンセリングなどのページも多くある。

しかし、そういったものとは違ったところから、誤った知識を先行して得てしまうというのが現状である。


これらは、学校におけるケガの大切さと根本は同じである。

学校で、仮に全くケガをしないように完璧な環境整備とルールの徹底をしたとする。

子どもは木や高いところから落ちることはないし、転ぶこともない。

小さなケガを全くしないのである。

こうした子どもたちが学校を卒業した後に直面する世界は、危険だらけである。


実際は、学校ではたくさん転ぶし、危険な目にもあう。

大怪我だけはないように細心の注意を払うが、小さなケガまでしないように全て制限してしまっては、体育などできようもない。

転ぶから、手をつけるようになるのである。

柔道でも、最初に学ぶのは受け身だし、自転車でもスノーボードでも、転び方からスタートである。


正しい知識を得て、正しい失敗への対処の仕方を学ぶ。

それがあって、初めて危険も多い外の世界に安心して踏み出せる。


失敗も含めて、学校でICTを活用し、疑似でもSNSを体験しておくべきである。

そのためには、環境整備。

今後は、GIGAスクール構想も本腰を入れていくようなので、期待していきたい。


学校は、社会に出る前の失敗を経験する場。

成功ばかりが注目されがちだが、失敗にこそ学校教育の本質があると考える次第である。

2020年8月21日金曜日

個人面談は宝の山

まぐまぐニュースでも取り上げられた記事。

 

個人面談をやっていると、度々子育ての素敵な話を伺える。

長年、通算何百人もの方々とやってきたので、素敵な子育てのコツをたくさん教えていただいてきた。

私だけが抱えていても宝の持ち腐れになるので、ごく一部だがシェアする。



1.「うちでは『お手伝い』はないのです。」

今でも尊敬する、初任の時の保護者の言葉。


「先生。うちでは『お手伝い』はないんですよ。

家の事は、全員がやるものなので。

手伝うのではなくて、それぞれの役割なのです。」


初任の時に子どもへ「家でお手伝いをしましょう」と言ったことへの箴言。

学級における当番活動の意義にも通ずる言葉である。



2.「うちでは、勉強をやれとは言いません。『クイズやる?』と言ってます。」


大変に思考力の高い子どもがいて、どうやってそれを育てているのか聞いた時に教えてもらったコツ。

勉強ではなく、楽しい算数クイズ合戦で、子どもが学校で習ったものを出すこともあり、うんうん唸って解き合うという。

子ども目線に立った、素敵な言葉がけである。



3.「夜、子どもの脚をさすってあげるんです。」


親子の強い信頼関係が感じられたので、何かしているのかと聞いた時に教えていただいたコツ。

ついつい何でも我慢しがちな子どもとのコミュニケーション手段だという。

ちなみにこれは決して「甘やかし」の類ではない。

夜、「脚が痛い」という子どもの脚をさすってあげると、ぽろぽろと出来事や悩みなどを話してくれるという。

身体も心も温まる素敵なコミュニケーション手段である。



4.「先生に全てをお任せしております。」

1年生から高学年まで、それまで所属した全ての学級で「崩れ」があった子どもの保護者の言。

さぞ学校不信が強いだろうと思っていた時に聞いたので、驚いた言葉。

ちなみにこの子どもは学業も優秀だが、幼少より続けている武道では全国大会一位をとっているほどの腕前。

何があっても「それも全て勉強」と割り切って、見守ってきたという。

ある意味、これを言われたらこちらはもう頑張るしかないという言葉。

こんな理想的な保護者を教員側が求めるのは図々しいにも程があるが、全てを「道」と割り切る強さを教えていただいた。


まだまだまだまだまだまだあるが、紹介するときりがないので一旦この辺で終わりにする。

(好評であれば、また紹介するかもしれない。)

個人面談は教師にとって、子育てについて学べる最高の場である。

2020年8月19日水曜日

「すぐに役立つ」は「すぐに陳腐化する」

タイトルは、アジア太平洋大学学長の出口治明氏の言葉。

(出典:出口治明が語る「リーダーが学ぶべき教養」 Audible)


ちなみにこれは、学生がプログラミング言語を習得するに際しての言葉である。

科学の進歩は、日進月歩。

大学を終えるまでにプログラミング言語を修得しても、それは既に使えなくなっている。

(iPhoneなど、コンピューターは新機種が続々出ることを例に考えるとわかるという。)


一方でリベラルアーツ(「一般教養」と訳されるが正確な定義なし)は、即座に役に立つことはない。

ただ、即座には役立たない広汎な学びが、後々にどこでどう役に立つかはわからない。

「専門馬鹿」にならないためには、必要なことである。


学校教育の世界においてこそ、これは言える。


「テストに出る」や「受験に役立つテクニック」は、即座に使える。

しかしながら、受験後や学校卒業後に使えるかというと、そうでないものが多い。


一方で、テストには出ないが興味をそそられるものもある。

卒業後には、先生が授業中に横道に逸れた時の、どうでもいいような話ばかり覚えているものである。


それで、それが後々に役立たたないかというと、そうとも言い切れない。

長い人生の中で、広汎な知識の何がどこでどう役立つかは、わからないのである。


学校では、テストの点数に直接反映しないものの方が、大切なことが多い。

例えばあいさつができることや礼儀正しいこと、掃除へ真摯に取り組む姿勢などは、テストの点数にはつながらない。

授業中、何のために今学んでいるのかを考えない方が、点数が取れるということも往々にしてある。

公式を違和感なく丸暗記してしまえる人と、納得いくまで考えないと使えない人では、後者の方が点数に結びつくまで時間がかかる。


しかしながら、これらのことの方が、長い目で見ると役立つことが多いのである。


「即座に役立つ」というのは、インスタントである。

促成栽培的な教育を考えると、この方が能率がいいように思えてしまう。

子どもの理解どうこうは置いておいて、小学校でもとにかく知識先行で詰め込む。

点数も取れて、安心という訳である。


ただ、そういう方法で学んだ知識は、剥落しやすい。

短期のテストだと点数に出るが、大きな実力テストだとイマイチ、というのは、この辺りに原因がある。


じっくり時間をかけて学んだことは、本質的に身に付きやすい。

また自らの興味から学んだことは、強く記憶に残る。

よく親からは「〇〇ばかりやっていて心配」という声が出るが、子どもが殊更に何か集中していることがあるなら、万々歳である。


(ちなみにこの○○について、ゲームは無条件には当てはめらないことが多い。

多くのゲームは、作り手が刺激となるエサを次々に用意して提供し続けているからハマるのであり、子ども発の本質的な集中力とは異なる。

脳科学的には「報酬系」というものを刺激し続けて依存を引き起こしている状態である。

「報酬系」をエサとして与えられているだけか、そうではないのか、どういう熱中の仕方をしているかという本質が大事である。)


教育する側にも当てはまる話である。


「こうすれば上手くいく」的なノウハウは、短期で結果が出ることがあるので、満足しやすい。

しかし、そこから本質的なことを学べないのであれば、害悪の方が大きい。

「以前はあれで上手くいった」ということに拘り始めるからである。


「ほめる教育」などは、その典型である。

言葉自体が甘くポジティブで、かつ即座に効果が出るので、良いものだと鵜呑みにしやすい。

しかしこれは間違えて使い続けると、取返しのつかない大やけどになる。

という記事を書いたこともあるが、あれである。

(参考記事:「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる プレジデントオンライン


本質的には、ほめることが大切なのではなく、何をどうほめるか、が大切なのである。

「的確にほめる」というのは、実はかなり難易度が高い手法である。


教育者が学ぶべきは、ノウハウよりも、教養である。

他者を変えようとする研究よりも、自己を変えるための修養である。

バランスではあるが、やはり学校の研修現場を見ると、他者改善のノウハウの方に力を入れているように思えてならない。


すぐに役立つは、すぐに陳腐化する。

心に留めておきたい言葉である。 

2020年8月17日月曜日

知能の発達はやりたいことから

今年度に入ってから、学活の時間を3学級分見ている。

それぞれの学級で当番活動や係活動を設定し、どの学級でも生き生きと過ごす子どもの姿が見られる。


一番「生きてる」感じがするのは、係活動(通称「会社活動」)の時である。

各会社では「理念」を掲げ、「自分たちはどういう思いで、どんな貢献をするのか」が宣言されている。


先生方や学級の仲間にインタビューをし、新聞記事にまとめている子どもたち。

花紙や折り紙等を休み時間もせっせと折り続け、教室の飾り付けに余念がない子どもたち。

「コリントゲーム」の箱作りに燃える子どもたち。

掲示物の位置やら、何をどう掲示すると良いのかに頭を使う子どもたち。

立派な「宅配依頼ボックス」を完成させたものの、利用者の少なさに頭を抱えて悩む子どもたち。


どの学級の、どの姿も面白くて、「学校で生きる」とはどういうことかを考えさせられる次第である。


さてそんな折、次の本からインスピレーションを得た。


『からだとこころを創る 幼児体育』 伊東昭義 著 NHK出版


一見「体育の本」のようにしか見えないが、中身はどちらかというと、教育心理学や自然哲学である。

現在フォトグラファーでもある著者が、自然に最も近い「からだ」と「幼児」に着目した、という次第である。


この本の、次の文章が自分の中にひっかかった。


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(引用開始)

知能が発達するということは、「自分の考え」や「自分のしたいこと」にめざめることです。

幼児の行動を、親が「いけません・いけません」……と、おさえつけてしまうと、子どもの欲求は満たされませんから、

たちまち情緒不安定におちいることになります。

(引用終了)

=================


ここでいう知能の発達とは、「育ち」そのものである。

前号で書いた「教育」の「教える」と「育つ」の関係である。

「いけません」は、「教えて」いて、過剰な禁止は「育ち」を阻害する。

こうなると、早合点で「教えるのはいけない」となるのだが、そうではない。


全てを教えてはいけない訳ではない。

赤信号で渡れないことは、何がなんでも教えるべきである。

全てをおさえつけるのではなく、失敗しても回収できそうで、命の危険が伴わないなら、やらせてみるということである。


さてこれは幼児教育のことかと思いきや、大人にも適用される話である。


大人の方も、いくつになっても知能は発達する。

しかしながらこれは、「自分の考え」や「自分のしたいこと」にめざめていれば、という話である。


自分の考えも、自分のしたいこともわからない。

こうなると、大人も知能の発達が止まっているということになる。


どうすればいいのか。


これこそ、幼児や、小学校の子どもたちに倣うべきところである。

子どもたちの、あの元気いっぱい、そして落ち着かなさはどこからくるのか。

それは「好奇心」である。

未知のものへの飽くなき欲求である。

特に乳幼児には、見るもの全てが新鮮で、面白いことだらけである。


小学校でも、落ち着かない子、動きまわる子ども、空気を読まない言動をする子どもはかなり多い。

分類すると何かの病気のように扱われるが、実は好奇心が強くて、心身ともに健康な証拠である。

フル回転で知能が発達し続けているからこそ、落ち着かないし、よくしゃべるのである。


常識的な大人から見たら信じられないほど馬鹿なことをやってしまうのも、同様である。

(私は小学生の時分、「書けなくなったボールペンのインクは、温まると溶けるから書けるようになる」と信じて、

ファンヒーターの吹き出し口にそれを何本もつっこんで、ありえないほどボールペンを変形させたことがある。

下手すると、火事一歩手前である。やはり安全面だけは、きちんと見てあげた方がよい。)


大人の我々も「こんなことやったら面白いかも!?」と思いついたら、やってみること。

多分、周りの人には「いけません・いけません」と言われるようなこと。

「大人の常識」的に考えて、失敗するから反対される、拒否されるようなこと。

これらのことに挑戦していく中で、知能は発達すると考えられる。


惰性的に生きていては、知能の発達はない。

それでは、死んでいないだけで、生きているとはいえない。


正しいと思うことを教えるのも、大人の大切な役割である。

ただ「宿題をやりなさい」は正しいかもしれないが、言う側も今現在真面目に宿題をやっていることが、言う側の資格の大前提である。

話がやや逸れるが、「宿題はやる意味があるんですか」の子どもの問いかけへの、イチローの答えが秀逸である。

「大人になったら、やりたくないことでもやらないといけないことが多い。そのための練習。」

と答えていた。


自分は惰性的に生きていて、子どもに将来のためだの夢だのを説いても、空虚である。

夢を追い続けている人が言うからこそ、「教える」にしても説得力があり、言葉に命が宿る。


毎日、たくさんの子どもに会える立場だから、断言する。

子どもは、素晴らしい。

間違いなく全員、素晴らしい。

それぞれが素晴らしい知能をもち、その発達途上である。

しかし、子どもの前に立つ大人たち、周りに見える大人たちが、必ずしもそうであるかは、別である。


大人に、自分の考えや心の底からしたいことがあるか。


この大前提に立ち、子どもにものを言える立場か、それを言うべきか否かを判断すると、誤りはないように思われる。

2020年8月15日土曜日

戦争と平和と教育と

今日は、終戦記念日である。

1982年に定められた正式名称は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」。

追悼と平和を祈る日である。


ちなみに8月15日は、正確には天皇が日本の降伏を国民に玉音放送で発表した日である。

国連に通告したのは前日の8月14日であり、日本政府が正式に調印したのは9月2日である。


一方、旧ソ連(現ロシア)における対日戦勝記念日は調印翌日の9月3日となっている。

すなわち、旧ソ連からすれば、それ以前は「戦争中」というみなしである。

よって、8月末から9月頭にかけて旧ソ連が北方領土に進出したことは、戦争中のことであり問題ない、というのがロシアの側の主張である。

ここに日ソ中立条約の一方的な破棄も絡んで、実にややこしいことになっている。


北方領土も竹島も尖閣諸島も、近隣諸国との国防面から見て最重要地であるため、話もおいそれとはいかない。

歴史をまともに学ばずに大人になり、「離れた島の一つや二つぐらい」という考えの日本人がいるが、とんでもない。

そういうことは、自衛的に十分国防ができる力があってこそいえる。

日本がアメリカの傘下にある上、今の緊迫した世界情勢の中では、とてもではないが、どうでもいいといえない。


教育メルマガとしてここで言いたいことは、これらは教育がすべて、ということである。

国をどのようにしたいか、というのは、教育をどのようにするかということとイコールである。


これを負の方向に利用したのが、戦争中の学校教育であり、国民教育であったといえる。

恐ろしいことに「国民全員が戦争に向かう教育」も「異国人差別教育」も可能ということである。

絶対に教育の方向を誤ってはならない。


話を今に戻して考える。


今の教育を続けていれば、文科省が示す、目指す人間が育成され、国際社会の中で活躍する日本人として巣立っていけそうか。

文科省が示す人間像自体に、誤りはないように思える。

例えば「学びに向かう力、人間性」を育むという方向性は、変化の激しいこれからの時代にぴたりと合っているといえる。


現在の問題は、理念よりも実際の具体の方である。

素晴らしい理念に対し、実際の現場でやっていることが、かけ離れている(というより真逆)というのが現実問題である。


今の、大学受験合格をゴールとした、定められた正解を予想して当てていくような教育をしていて、この力がつくのか。

人と違うことを恥じたり馬鹿にしたり疎外したりするのを促すような教育をしていて、国際社会でやっていけるのか。

みんなが揃って同じことをしていて、この先の社会で役立つ見通しがあるのか。

(軍隊教育にはこれが大いに必要である。一糸乱れぬ揃った動き、上官の命令に常に忠実に従う教育が必要である。個の尊重はいらない。)


素直ということと、無思考ということは、全く違う。

素直さとは、人間として伸びていく上での最重要の資質である。

それは、正しいことを正しいと判断して忠実に従い、誤っていることは自ら正しい方向に修正できることでもある。

素直であるということは、特定の信念に凝り固まっていないということである。

だから、多様性を受け入れられる。


いじめは、多様性への不寛容が最も端的に表れている現象である。

「みんな他と違っていい」となれば、基本的にいじめは起きない。

いじめが人類の文化始まって以来なくなっていないのは、我がナワバリを守り、異質を排除する本能に負け続けてきた動物的な結果であると思う。


とどのつまり、いじめとは、支配の一形態である。

多様性を認め、自分中心の考え方をせず、思いやりと助け合いが当たり前なら、起きないはずの権力争いである。

戦争中の他を攻撃しようという時勢には、いじめ思想はちょうどよいのかもしれないが、今求められているものとは真逆である。


教育の具体を、根本から変えていく。

個の多様性を認め、他とゆるやかにつながりながら、社会に貢献する力と、人間性を育む教育。

現場レベルでできればいいのだが、実際、無理があるように見える。

一部のインターナショナルスクールなどでは実現している様子だが、未だ広まるには至らない。

ゴールの大学受験、その先の就職競争という概念が変わらない限り、少なくとも公立の現場での変化は求められない。


それでも、市井の人である私たちにだって、できることはあるはずである。


平和を祈念する日の今号を、平和の人、宮沢賢治の言葉で締めくくる。


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

2020年8月13日木曜日

不易と流行は往還で成り立つ

 

先日、サークルで師の野口芳宏先生から「不易と流行」というお話があった。


不易と流行は、対義語である。


不易とは、根本・本質・原点に当たるもの。

流行は、その時代において流れ行くもの。


しかしながら、これら二つは両立する。

不易を大事にしながら、流行を取り入れていくということは可能である。


同じように「温故知新」という言葉があるが、これも意味するところは同様である。


ここからは私見。


不易とは普遍的価値であり、左右されないもの。

一方で流行とは、時代の求める必然性をもつものである。


この必然性が大切で、単なる流れ行くものでは意味がないということである。


流行の後にそれが不易になる、ということもある。

その価値は、流れて行かず、押し留まったというようなものである。


逆に「ある時期にはとても大切なことだったが、今はそうではなくなった」ということはたくさんある。

それは、真の不易ではなかったということである。


教育で考える。


例えば今年から始まったプログラミング教育は、現在の見方では「流行」である。

しかしながら、時代の裁きを受け続ける中で、不易としての地位を確立しないとは言い切れない。


(一般に誤解されがちだが、全員がプログラミング言語を用いてプログラミングができるようにする、というための教育ではない。

プログラミングの時に必要となるような、論理的思考を身に付けさせるための教育である。

プログラミング言語を用いてロボットを作れるエンジニアを育成することを目的とした教育ではない。

それは、学校で数学を教えるのが数学者を育てるためではないのと同様である。)


もっと根本的に、教育の不易の価値は何なのか。

これはやはり、よい人間になるように教え、育てることである。


野口先生も仰っていたが「教えてはいけない」というのは、昨今の流行である。

流行は、時代の求める必然性を備えているとはいえ、根本的に正しいとは限らない。


実際は、教えずして育つことはない。

educationの語源通り、子どもの内から引き出すための働きかけも、広義には教えるという行為である。

その上で「育つ」のが行為の主体である教わる側、子どもである。


「教える」が問題なのではない。

子どもが「育つ」という主体性を奪おうとするから、それが間違いなのである。

植物に例えると、思うように大きくならないから「育て」と強制して茎をひっぱり、枯らすような行為である。


教えるという行為は、それとは全く違う。

その種から何が出るかはわからないけれども、土を作り、水をあげ、日光が当たるように周りの環境を整える行為である。

そして個体によっては、他の一般的なものが好む環境を好まないものもあり、そこがとても難しいのである。


また計画的に作る作物とは違い、作為的にこちらが望むものが出てくるかどうかはわからない。

種のもつ生命力を信じて、水をあげるだけである。

一見「育てている」ようで、あくまで、「育つ」の主体は、その種自身なのである。

我々にできることは「教える」に当たる、環境整備の部分だけである。


言葉に踊らされないことである。

「教えてはいけない」という流行に惑わされて、本質を外さないこと。

逆に「教えるのだ」と意気込んで、育ちまでをも奪おうとしないこと。

流行の必要な部分を取り入れて、よりよい不易を確立することである。


不易と流行というのは、常に両者の往還で成立するものである。

2020年8月11日火曜日

教育のリスクをとる

メルマガをよく読んでくださり、感想を送ってくれる読者の方々がいる。
有難いことである。
以下、私の問題意識に強くひっかかったものを、ご本人の承諾のもと、引用して掲載する。
以前の記事「要望をやたらに飲まない」を読まれてのものである。

=================
(引用開始)
「当事者意識」と「責任」で考えさせられたことが、仕事上でありました。
(「責任」はおおむね「法的責任」です)
弊社で提供するサービスでお客様のお客様に迷惑がかかる事態が起きまして、
お客様はフォローで大変な作業(と多分、金銭的な損失)を強いられました。
ここで、弊社の担当者は、
自分には(あるいは自社には)責任はない、ということに固執するんですね。
だから、再発防止策も自分にできることはない、という発想になるみたいです。

でも、できることはあるんです。
おかしいと思ったことを、相手を怒らせてでもしつこく確認する、とか。
子どもが瀕死の重傷だったら、
診療時間外の病院でも、たたき起こすくらいするだろうと思うんですが。


だから、子どもが当事者意識をもつよう、教育が機能してほしいのですが、、、
息子の学校が、コロナに関してちょっと残念な対応をしています。
ま、とにかく安全運転なんですね。
私学なので、保護者の理解力や協力度合いは高いはずですけど。

そういう学校、というか、大人の姿勢から、子供たちが学ぶはずです。
「責任が自分に来ないように行動するんだな」とか、
「先頭を行くのはやめておくのが無難なんだな」とか。


学校が温暖化(軟弱化?)していくのとは対照的に、社会が冷酷化しています。
私が社会人になった平成初期のころは、
いまより学校と社会がスムーズにつながっていたと思います。
私はむしろ、大学に入った時に、ものすごい断絶を感じました。
(入学時にガイダンスの冊子を渡されて、あとは放置)

一方で、会社はまだ、新人は何もできなくて当たり前、の時代だったので、
割と、手取り足取りな感じで教えてはくれました。
(教え方がうまいとは言えないですが)

いまは、大学までもが手取り足取りになって、
低い能力のまま巣立たせている一方で、
(今の大学生は昔の高校生と思っていい、と恩師が言ってました)
会社は即戦力を求めてきたりする。
この断絶は辛いです。
学校には、この断絶を克服できるよう、子供たちを鍛えてほしいです。
(もちろん、家庭でもやります)
(引用終了)
=================

ご自身で会社を経営されている方である。
人材育成や採用には、人一倍関心の高い方の意見である。

要点は「当事者意識」への教育である。
他人任せ、責任転嫁の教育では、いけないということである。
それを、教育する側の姿勢から見せる必要がある。

特に、この部分については、強く共感した。
>そういう学校、というか、大人の姿勢から、子供たちが学ぶはずです。
>「責任が自分に来ないように行動するんだな」とか、
>「先頭を行くのはやめておくのが無難なんだな」とか。

我々がこういう姿勢を見せている以上、未来の社会は良くならない。
社会が、どんどん他責的になっていく。
当事者意識がなくなっていく。

「安全運転」は大切なのだが、それも適当な具合がある。
「安全第一」を究極に優先してくと、何もしないのが一番安全ということになる。

前号のアタッチメントの話にもつながるが、「避難場所」と「安全基地」が確保されていれば、人間は挑戦できる。
不安で挑戦できないのは、安全・安心が確保されないからである。

我々大人は、何を不安に思っているのか。
学校において、教師が挑戦できないのはなぜなのか。
誰の目を気にして、何を恐れているのか。

>学校が温暖化(軟弱化?)していくのとは対照的に、社会が冷酷化しています。

この一文とも関連している。
恐れが軟弱化を生んでいる面が多々ある。
我が身がかわいいと、毅然とした対応はできない。

責任を取る覚悟。
これは、立場が上にある人にほど、求められる。
そして、先頭を切る勇気。
この辺りの姿勢を子どもに見せない限り、学校教育は変わらない。

学校の教師に安全・安心を与えられるのは誰なのか。
文部科学省か。
教育委員会か。
管理職か。
学年の同僚か。

どこからなら、自分が手をつけられるか、考えるところからである。
文科省は言うに及ばず、教育委員会にどうこうしようなどとできる人は、ごく少数である。
できるとしたら、身近な同僚・仲間への接し方である。
少しでも何か仲間の力になれる立場にあるなら、「一緒に責任を取る」という姿勢を見せられるようにしたい。

子どもの教育にとって本当に何がリスクなのか、これからは今まで以上に真剣に考えていきたい。

2020年8月9日日曜日

知識は不要か必要か

先月末、お茶の水女子大名誉教授の外山滋比古氏が亡くなったというニュースが流れた。

偶然にもその時、ちょうど外山氏の次の著書を読んでいたところだった。

次の本である。


『「考える頭」のつくり方』外山滋比古 著 PHP文庫

https://honto.jp/netstore/pd-book_28830658.html


この本の内容が、前号までの「知識が大切」という話と一見真逆の論理を展開しているのである。

例えば次のような文章がある。


===========

(引用開始)

このようにして知識を増やしているうちに、考える頭はどんどん縮小していく。

教育を受けて知識が増えれば、思考力はよけいに落ちてくる。

これを「知的メタボリック症候群」と言うことができる。

(引用終了)

===========

また例えば、次のような著名な人の言葉を引用して紹介しているくだりがある。


「学術的根拠をもっているバカほど始末が悪いものはない」(菊池寛)

「世の中にはなんでも知っている馬鹿がいる」(内田百閒)


・・・ここまで読んで「なるほど、知識は不要なのだ」と考えたら、それは枝葉末節な見方であり、拙速である。


一方で、次のようにも書いている。

===========

(引用開始)

われわれの生活の中には、矛盾したこと、反対のことが、ごく普通に共存している。

(引用終了)

===========


知識の話においても、矛盾したことが、ごく普通に共存している。

つまり、著名な知識人達が「知識はいらない」と説得力をもって述べているのである。


知識はいるのかいらないのか。

このように二者択一的に考えると、問題は解決しない。

世の中には、矛盾が普通に存在するのである。


さて、結論から言うと、知識は必要である。

しかし、あるレベルを越えた時点から、それが逆にゴミのように邪魔なものになってくる。

それは、以前は自分にとって便利だったものが、今や不要になって無為にスペースを埋めているのと同様である。

しかし、ある人にとっては、今でもやはり有用な道具である。

そういうものである。


さて、どうしてこのような矛盾が起きるのかというと、一つは文脈の違いである。


前号に引き続き、ファッションで例えるなら、パリコレの服である。

パリコレでモデルが来ている服は、奇抜だがおしゃれでカッコいい。

しかしながら、それを外で何の文脈もなく一般の人が着ていたら、ただの奇特な人である。

また、周りと違うからおしゃれなのだが、周りと違いすぎるとおしゃれではなくなる。

おしゃれの矛盾である。


これは、場の文脈が違うからである。

コレクションのショーは、ブランドにおける主張の場であり、「舞台衣装」である。

普段遣い用の販売をねらったものではない。

とてもではないが通常では着ることが不可能なものも含まれる。

もっと身近な例だと、ジャニーズはかっこいいかもしれないが、あのステージ衣装で外を普通に歩いている人がいたら痛すぎる。


場の文脈同様、個人の文脈も違うのである。

どんな体型の人がどんな文化の下のどんな場で着ている服なのか、ということである。

「正解」はないかもしれないが、「最適解」と思われるものは、それによって全く変わってくる。


世に名を轟かせている大学の名誉教授の述べる「知識はいらない」という話を、一般の人にそのまま当てはめられるか。

まずもって、基準となる知識量のレベルが違う。

「多い」「少ない」の幅も全く違う。


「1」となる基準がどのレベルなのか、ということである。

年間1冊も本を読まない人の「今年はたくさん本を読んだ」と、年間1000冊読む人の「今年は本をあまり読まなかった」を比べる。

どちらがこの1年間で多く本を読んでいるかは、明白である。


それだけ膨大な知識をもった上で「知識はいらない」と言っており、これはこの文脈において恐らく真実である。


教師の学び方にもこれは当てはまる。


全く他に学ぼうとしない「我流」で完全にやっている人がいる。

この人は、少し外で学ぶのもいい。


一方で「セミナーマニア」とでもいうような、外にやたらに学びにいく人がいる。

この人は、内を見て目の前の子どもや同僚から学んだ方がいい。


言っていることが矛盾しているようで、実は単に個人の文脈の違いである。


「考える頭」が必要なのは、万人共通である。

ただ、材料たる知識が全くない頭で考えるということは難しい。

一方で、知識と常識に凝り固まった頭で考えるというのもまた難しい。


今日は長崎の原爆忌である。

この戦争について、どう考えるか。

どこか一方から得た偏った知識だけで物事を考えていないか。

あるいは、詳しく調べて知りすぎて、実は自分の考えをもてなくなっていないか。


自らの感性を研ぎ澄まし「考える頭」をもてるようにしたい。

2020年8月7日金曜日

教えるが大切

昨日、8月6日は広島原爆忌、9日が長崎原爆忌で、15日が日本の「終戦の日」である。

これについて、小さな子どもたちは、当然知らない。
小学校高学年でも、知らないことが多い。
歴史の授業でしか出てこないからである。

また通常、8月のこの時期は夏休みである。
よって、「今日は広島原爆忌です」などと話す機会もない。
今年度は例外的に登校している地域があるので、ある意味話すチャンスかもしれない。

知識については、教えないと知ることができない。
今回、この重要性を改めて問いたい次第である。

ところで、戦争に対する戒めを込めて平和記念像が全国各地に立っている。
千葉県にも「東京湾観音」という高さ56mの巨大な像が立っている。
東京湾から世界の平和を願い見守って立っている白い観音像である。
この像を建立したのが宇佐美政衛という人で、教育に関して次のような言葉を残している。

可愛くば
二つしかって
三つほめ
五つ教えて
良き子育てよ

しかる、ほめる、教える。
どれも必要と認めた上で、その比重まで言及している。
子どもに対する時のこのバランスは、確かにそうだと思える。
見事である。

教えるというのは、やはり普遍的に重要な要素である。
自ら考える子どもを育てる上でも、ベースとなるのは、やはり教えることからである。
私も、これまでたくさん教わってきているし、今でも教わっている。

教えるべきを教える。
これがあって、初めて考える基礎もできる。

1945年の8月に原爆が二つ投下され、それを機に日本が終戦の宣言をしたこと。
これは、教わらないと知りようがない。
だから、子どもたちには、教え伝えていくことが必要である。
子どもたちがオープンになった世界に出た時に困るのは、英語が話せないことよりも、自国の歴史について語れないことの方である。

東南アジア諸国や韓国、中国の人と話す際に、自国の歴史についてどう考えているかと問われたら、どう答えるか。
アメリカの人と話す際に、「真珠湾攻撃についてあなたはどう考えているのか」と問われたら、どう答えるか。
あるいは様々な国の人に「日本人として原爆投下についてはどうお考えですか」と問われたら、どう答えるか。

どういう立場でどんな論に立つにせよ、こういったことに歴史的背景を交えて応答できないとしたら、それは教育の責任である。
教えてこなかった、あるいは教えるのを避けてきた教育の責任である。
教えることを避けることで、考える機会を与えてこなかった教育の責任である。

教えるべきは教える。
十分に学んだその後で、考えることは自然と始まる。

しかるとほめるについては、今回は言及しないが、兎にも角にも「教える」が先に来るということ。
これだけは何にも増して重要なことである。

2020年8月5日水曜日

いじめとウィルスの密な関係

COVID-19が、また広がり始めている。
この感染症の広がり方というのは、いじめの広がり方に似ていると常々思っていた。
それは「集団が知らない内に爆発的に感染する」という点である。

どういうことか。

いじめというのは、無意識に加担していることがとても多い。
子どもに限らず、大人でも同じである。(ニュースやSNSを見ると、むしろ大人の方がはるかにひどい。)
「そんなつもりはなかった」「自分はいじめてない。見ていただけ」という言い訳が大半である。

自覚症状なく大量感染した集団で、一人を追い詰めるのである。
いじめてくる相手が一人ぼっちなら、怖くない。
しかし大抵は、取り巻きがいるのである。
集団対自分一人になった時、多数の力に圧倒されて「自分が悪い」と思い込むのである。
集団圧力は、真実をも曲げる恐ろしく強大な力をもっているのは、周知の事実である。

自分と周りがいじめを平気でしてしまっている精神に感染していることを、自覚していないのである。
だから、人類史が始まってから何千年経っても、いつまでたっても、なくならない。
いつまでたっても自覚症状なし、目覚めないからである。

ちなみに、オランダ語でいじめをPestenという。
語源は、感染症のペストである。
いじめとペストを関連させるあたり、言い得て妙である。

実際、学校現場で一番気にするのが、子どもや保護者、教職員が感染した後のことである。
もしも誰か一人が感染した時に、周りがどう動くかということである。
これまで以上に感染防止策を取るのは当然だが、その一人への精神的なケアはより重要である。

周りが騒がないことである。
予防はもとより、その後に取るべき対策を冷静沈着にとることである。
感染してしまった人とその家族の心情を思うことである。
あたかも感染した方に何か落ち度があるようなことを言う人も中にはいるが、その人こそが「いじめウィルス」の感染者である。
このCOVID-19は、どんなに気を付けて暮らしている人であっても、いつ感染してもおかしくない状況なのである。

もしもこれで先のいじめのようなことに発展したとしたら、このウィルスに人間が負けたことに他ならない。
明日は我が身、自分とその家族だったらと考えて、何よりも心情を思い、ケアすべきである。
こういうところこそ、学校の授業でよくきく「主人公の気持ちを考えましょう」が生きる場面なのである。

それでこそ、学校の勉強には、意味があるといえる。
小説やら文学作品やら物語やらをたくさん読んだ方がいいのは、こういう時の悲しみや苦しみに共感できるようになるためである。
例えば大ベストセラーの『君たちはどう生きるか』を読めば、大切な仲間を裏切ってしまった辛さを体感できる。
同時に、失敗をしてしまった仲間を思いやる気持ちが育まれる。

明確な治療法の見つからないウィルスだが、せめて、これに負けない心を育む。
今学校では、日本人としての、人間としての心の在り方を試されていると考える次第である。

2020年8月3日月曜日

教師は子どもの心の安全基地になり得ない

まぐまぐニュースにも転載された記事。

最近の読んだ心理学の論文からの学び。
課題で読んだ論文なのだが、これが非常にためになった。

次の論文である。

「児童期中・後期におけるアタッチメント・ネットワークを構成する成員の検討
ー児童用アタッチメント機能尺度を作成してー」
村上 達也, 櫻井 茂男 教育心理学研究、2014,62,24-37

ちなみにアタッチメントというのは、愛着行動のことである。
「恐れや不安の情動がある時に、安全を回復・維持しようとする傾向性」を指す。
つまり、危ない時の「避難場所」であり、次へ挑戦する準備のための「安全基地」の役割である。

その第一対象だが、乳幼児期から低学年ぐらいまでは当然「母親」である。
もうここ以外存在しないに等しい。

しかしこれが、小4から小6にかけて、友達が第一対象に移っていく。
母親は順調に順位を下げて、3番手以降になる。
つまり、親ではなく、友達を自分の「避難場所」「安全基地」にしたいと思うようになる。
これが、自立に向けた健全で自然な発達の姿である。

さて、この論文を読むとはっきりとわかるのが、子どもにとっての教師の存在である。
教師自身は、子どもにとってこの「避難場所」「安全基地」として、どのあたりに位置するのか。

何と、4番手以内にすら入らない。
(ちなみに他の研究によると、小学校高学年の子どものアタッチメント対象の人数は平均4人程度までである。)
アタッチメント対象として教師を選ぶ子どもは、どの年齢においても、ほぼ「0」である。

教師こそが教室の安全・安心を確保する立場だというのに、これはどういうことなのか。

つまり教師の中心的な仕事は、「集団における安全と安心の仕組みづくり」の方なのである。
どちらかというと、ある種システムエンジニアリング的であり、環境づくりの仕事の方である。

一方の個人的なアタッチメント対象はあくまで親、友人。
職場に例えるなら、社長はリーダーとして集団の方針を示してまとめるのが仕事である。
一般的な関係として、上司の立場は、母親でも友人でもない。
(映画「釣りバカ日誌」のような社長と部下との対等な友人関係も、ないことはないが、例外的である。)

教室に求められる教師の役割は、心の治療役というより、問題解決のための具体的かつ実質的な施策をうつ解決者の役割である。

本音で単なる愚痴や甘えが出せるのは、低学年までは母親、高学年以降は友人である。
大人に例えるなら、集団のリーダーである社長に、仕事の愚痴は言えない。
(「評価者」としての側面をもつのであれば、尚更である。)
そういうものである。

「子どもの心に寄り添う」ということは、何よりとても大切である。
しかしそれは、どちらかというと教師の側がもつべき姿勢であり、子どもが教師に寄り添うわけでは決してないということである。

教師に求められる役割は、癒し役ではなく、安全・安心の仕組みづくり。
子どもの苦しみやニーズを読み取り、具体的な策を次々とうつこと。
「いい人」だけではやっていけないというのは、この辺りからもいえそうである。

2020年8月1日土曜日

他力本願の真意

私は、楽器の演奏の類をほとんどできない。
しかし「生演奏」というものに割と価値を置く人間である。
外食でもピアノやジャズの生演奏付き、とかきくと、結構テンションが上がる。

さて、当たり前だが、子どもたちにはそれぞれ誕生日がある。
誕生日が来ると、そこでハッピーバースデーを歌うのが常である。

今年度、隣接学年にギターを弾ける同僚がいる。
職員室にギターが置いてあったので「ハッピーバースデーとか弾ける?」
と尋ねたら「できますよ。」とのこと。
(この質問自体がもはや愚問である。)

「空いている時とか可能な限り」ということを条件に、お願いして、弾いてもらうことにした。
子どもは大喜びである。

お誕生日会が開かれても呼んで弾いてもらう。
そんなに呼ばれて本人は迷惑かもしれないと思いつつ、今は喜んで手伝ってくれているように思う。
(ちなみに、子どもたちが1~2年生の頃の担任の一人でもあり、子どもたちは大歓迎である。
大好評なので、同学年の全学級でお誕生日会の度に依頼させてもらった。)

繰り返すが、私自身は全く弾けないのである。
完璧に「他力本願」である。

人によってはお願いすることを「図々しい」「申し訳ない」ということで、避ける傾向がある。

私は、逆である。
相手が得意な分野と思ったら、積極的にお願いする。
逆に、周りの多くの人が苦手、避けたいことで自分が貢献できるところは、積極的に貢献する。
これは、大人に対してばかりでなく、子どもに対しても同様である。

それが、人が活きて生きる道であると考えている。
自分の能力が活かせるというのは、喜びである。
せっかく自分の得意なものがあっても、求める人が周りにいなければ、宝の持ち腐れである。

だから、教室でも、例えば「算数が苦手な人がいたら有難い」というような話をする。
自分が得意ならば、相手の役に立てるチャンスが訪れるからである。
(教師という職業の存在価値そのものでもある。)

この大原則が、国語や図工や体育等全ての教科で、また掃除や歌や飾りつけや、あらゆることに適用される。
得意の相互提供で、自分の能力のフル活用である。
「助けて!」と「任せて!」が溢れる教室にすることである。

「助けてもらってばかりでは不得意な分野が伸びないのでは」というかもしれないが、それは違う。
助けてもらうことによって、苦手なことも何とかできるようになるのである。
更に、相手への感謝の気持ちと、自分自身も何かでお返ししたいという他者貢献の気持ちが育まれる。
相互リスペクトの関係である。

害悪があるのは、できることもきちんとやらせないような誤った教育である。
それは雨の日の登校に子どもが「濡れるから嫌」「面倒」というだけで、車で親が送り迎えするような行為である。
学校なら、不真面目に話を聞かないでいて、たった今言ったことを質問してくる子どもに、教師がいちいちもう一度説明してあげるような行為である。
そういうだめな態度を放置せず、「自分の足で歩く」「話を聞く」ということを、堂々と教育すべきである。

また「意識すればすぐできる」ことと「努力を重ねてできる」ことは別である。

例えば「雨の日に歩いて学校に辿り着く」は別に努力を重ねずともできることである。
「話を聞く」とか「姿勢を正す」も基本はその時の意識だけの問題である。

一方で「ピアノでショパンの曲が演奏できる」とか「本の原稿を書ける」とかいうことは、意識だけで成り立つものではない。
努力の積み重ねによるものである。
努力の積み重ねの上に、高い技能は身に付いていく。

専門的な技能が必要なものは、人に頼るのも手である。
「外注」というのは、ネットで繋がっている今の世の会社の常套手段である。
どちらかというと、その外注先が信頼を置ける相手であるか見極められることが、今の世では重要である。
(そして受ける側は、そのPRの仕方が重要である。周りが知らないと、頼めない。)

自分が磨くべき技能を見極め、集団や社会に貢献できるようにしたい。
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