2020年8月17日月曜日

知能の発達はやりたいことから

今年度に入ってから、学活の時間を3学級分見ている。

それぞれの学級で当番活動や係活動を設定し、どの学級でも生き生きと過ごす子どもの姿が見られる。


一番「生きてる」感じがするのは、係活動(通称「会社活動」)の時である。

各会社では「理念」を掲げ、「自分たちはどういう思いで、どんな貢献をするのか」が宣言されている。


先生方や学級の仲間にインタビューをし、新聞記事にまとめている子どもたち。

花紙や折り紙等を休み時間もせっせと折り続け、教室の飾り付けに余念がない子どもたち。

「コリントゲーム」の箱作りに燃える子どもたち。

掲示物の位置やら、何をどう掲示すると良いのかに頭を使う子どもたち。

立派な「宅配依頼ボックス」を完成させたものの、利用者の少なさに頭を抱えて悩む子どもたち。


どの学級の、どの姿も面白くて、「学校で生きる」とはどういうことかを考えさせられる次第である。


さてそんな折、次の本からインスピレーションを得た。


『からだとこころを創る 幼児体育』 伊東昭義 著 NHK出版


一見「体育の本」のようにしか見えないが、中身はどちらかというと、教育心理学や自然哲学である。

現在フォトグラファーでもある著者が、自然に最も近い「からだ」と「幼児」に着目した、という次第である。


この本の、次の文章が自分の中にひっかかった。


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(引用開始)

知能が発達するということは、「自分の考え」や「自分のしたいこと」にめざめることです。

幼児の行動を、親が「いけません・いけません」……と、おさえつけてしまうと、子どもの欲求は満たされませんから、

たちまち情緒不安定におちいることになります。

(引用終了)

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ここでいう知能の発達とは、「育ち」そのものである。

前号で書いた「教育」の「教える」と「育つ」の関係である。

「いけません」は、「教えて」いて、過剰な禁止は「育ち」を阻害する。

こうなると、早合点で「教えるのはいけない」となるのだが、そうではない。


全てを教えてはいけない訳ではない。

赤信号で渡れないことは、何がなんでも教えるべきである。

全てをおさえつけるのではなく、失敗しても回収できそうで、命の危険が伴わないなら、やらせてみるということである。


さてこれは幼児教育のことかと思いきや、大人にも適用される話である。


大人の方も、いくつになっても知能は発達する。

しかしながらこれは、「自分の考え」や「自分のしたいこと」にめざめていれば、という話である。


自分の考えも、自分のしたいこともわからない。

こうなると、大人も知能の発達が止まっているということになる。


どうすればいいのか。


これこそ、幼児や、小学校の子どもたちに倣うべきところである。

子どもたちの、あの元気いっぱい、そして落ち着かなさはどこからくるのか。

それは「好奇心」である。

未知のものへの飽くなき欲求である。

特に乳幼児には、見るもの全てが新鮮で、面白いことだらけである。


小学校でも、落ち着かない子、動きまわる子ども、空気を読まない言動をする子どもはかなり多い。

分類すると何かの病気のように扱われるが、実は好奇心が強くて、心身ともに健康な証拠である。

フル回転で知能が発達し続けているからこそ、落ち着かないし、よくしゃべるのである。


常識的な大人から見たら信じられないほど馬鹿なことをやってしまうのも、同様である。

(私は小学生の時分、「書けなくなったボールペンのインクは、温まると溶けるから書けるようになる」と信じて、

ファンヒーターの吹き出し口にそれを何本もつっこんで、ありえないほどボールペンを変形させたことがある。

下手すると、火事一歩手前である。やはり安全面だけは、きちんと見てあげた方がよい。)


大人の我々も「こんなことやったら面白いかも!?」と思いついたら、やってみること。

多分、周りの人には「いけません・いけません」と言われるようなこと。

「大人の常識」的に考えて、失敗するから反対される、拒否されるようなこと。

これらのことに挑戦していく中で、知能は発達すると考えられる。


惰性的に生きていては、知能の発達はない。

それでは、死んでいないだけで、生きているとはいえない。


正しいと思うことを教えるのも、大人の大切な役割である。

ただ「宿題をやりなさい」は正しいかもしれないが、言う側も今現在真面目に宿題をやっていることが、言う側の資格の大前提である。

話がやや逸れるが、「宿題はやる意味があるんですか」の子どもの問いかけへの、イチローの答えが秀逸である。

「大人になったら、やりたくないことでもやらないといけないことが多い。そのための練習。」

と答えていた。


自分は惰性的に生きていて、子どもに将来のためだの夢だのを説いても、空虚である。

夢を追い続けている人が言うからこそ、「教える」にしても説得力があり、言葉に命が宿る。


毎日、たくさんの子どもに会える立場だから、断言する。

子どもは、素晴らしい。

間違いなく全員、素晴らしい。

それぞれが素晴らしい知能をもち、その発達途上である。

しかし、子どもの前に立つ大人たち、周りに見える大人たちが、必ずしもそうであるかは、別である。


大人に、自分の考えや心の底からしたいことがあるか。


この大前提に立ち、子どもにものを言える立場か、それを言うべきか否かを判断すると、誤りはないように思われる。

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