「願い」と「期待」について。
合意形成という言葉がある。
クラス会議でもよく使う言葉である。
様々な意見が出る中で、対話の中から、合意形成をねらう。
合意形成とは、様々な立場からの願いの、丁度いい「落としどころ」である。
合意形成されたものについては、概ねの納得があり、その決定の遂行や遵守が期待される。
ただし「概ね」というのが重要ポイントで、全員が完全に納得、というのが現実的には難しい。
何だかんだ、ある程度の面をがまんする人が出るという場合が多い。
集団の人数が多くなればなるほど、願いの方向が多方面になるので、そうなってくる。
たった35人程度でもかなり難しいものである。
(今回のオリンピック開催の諸々もそうである。
たとえ合意形成を図っても、国民全員が納得という状況を作り出すのは不可能である。)
合意というのは、意志の一致であり、互いの願いを共有しているといえる状態である。
合意の上での互いの期待というのは、利害関係が一致しており、期待する、される両者にとって心地よい状態である。
自らの夢に向かってまっしぐらな少年少女と親やコーチという関係や、オリンピック選手団と応援団のような状態である。
「がんばって!」と応援する人と「がんばる!」と心から張り切っている人という、願いの一致した関係である。
もっとドライな例だと、免許交付における
「法律を破らずに安全な運転を期待します」
と
「ご期待通り、法律を守って減点なしで安全に走りたいです」
という関係も、一種の合意のある期待である。
入試や就職での面接の類も全てそれである。
採る側は期待していて、採られる側は進んで期待に添うつもりである。
一方、不幸を引き起こすのは「合意なき期待」である。
一方的な「皆さん、〇〇しましょう」を破った子どもに対して「約束したでしょ」「言ったでしょ」は、これに当たる。
子どもからすれば「約束なんてしてないし。言われたけど。」という感じで、不合理である。
期待した側が勝手に期待し、された側は全く応えたいと思っていない状態である。
また、仮に期待通りに相手が動いているからといって、相手が合意しているとは限らない。
例えば一生懸命勉強しているけど、それはそうしないと期待している親が怒るから、がっかりするからという場合もある。
大会には出場するけれど、失敗すれば責められるという恐怖で動いている場合もある。
心から期待に応えたいと思っている訳ではなく、危険回避や他人の機嫌を損ねないための動機である。
(ちなみに人間の本能的欲求は、この危険回避の方を最優先に機能する。)
この、合意なき期待は、哀しみか怒りのいずれか、あるいは両方の感情を引き起こす「時限爆弾的仕掛け」になる。
この合意なき期待は、逆の場合もある。
相手は期待していないのに、勝手に自分が「期待されている」と勘違いしている時である。
例えば、会社側は普通、新卒の新入社員に対し、完璧な仕事ぶりなど求めていない。
新人で初めてづくしなのだから、ミスも含みおきである。
しかし、ミスをする度、激しく落ち込む人もいる。
一方的に「こんなに期待されているのに!ミスするなんて!」と思い込んで、本人が勝手に不幸になっているだけである。
新入社員あるあるだが、自分で自分に勝手にプレッシャーをかけて潰れるというパターンである。
拙著『捨てる仕事術』の表紙のメッセージの人物もそれである。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
新入社員に限らず、根が真面目すぎる人は、場合によっては泣いたり怒り出したりして、周りを非常に困惑させる。
「いや、そこまであなたに過剰な期待を誰もしていないのに・・・」という感じである。
完全自爆である。
また一方で、互いにあまり期待していないという場合もあるが、これはこれは問題が起きない。
長年連れ添った夫婦のような状態である。
互いに過剰な期待はなく、されているとも思っておらず、ほどほどの関係である。
付き合って1年未満のカップルのように「こんなことするなんて!」とか「もっと私を見て!」というような期待が互いにない。
大きな刺激もないかもしれないが、その分安定したものである。
(ただし、どちらが幸せと感じるかは主観による。)
要するに、互いの期待する、されるの方向が一致しているというのが大切なポイントである。
まとめると、両者の関係は次のようになる。(完全な私見による私案)
A:期待している&期待に応えたいと感じている=◎
B:期待している&期待に応えたいと感じていない=×
C:期待していない&期待に応えたいと感じている=△
D:特に期待していない&特に期待に応えたいと感じていない=〇
AとDは両方よくて、その差についても前述の通りである。
BとCは両方よろしくないが、その差については解説がいるかもしれない。
Cでは、自分が期待されていると勘違いしている側なら、それに気付けば済む話だからである。
完全自己解決できる。
問題は、その勘違いしている側が相手の場合である。
そんなことまで自分は期待していないのだからと、目を覚ますよう説得するのに苦労するかもしれない。
一方でBは、完全に期待している側次第である。
自分に対し、勝手に過剰な期待を寄せてくるので、やられる側はしんどい。
「何でできないの!」って、できないまたはやりたくないから、できないのである。
期待している側が諦めて自分の願いを手放すしか解決策はない。
(下手にがんばって期待に応えてしまうと、更に高い要求を出され、また大きく期待される。)
辿り着く先は、哀しみと怒りである。
場合によっては最悪、命に関わる恐ろしいことにもつながりかねない。
相手に過剰な期待を寄せすぎている場合は、相手と自分両方の心身への危険を考えるべきである。
(ちなみに子どもの不登校や自傷行為等には、ここへのSOSや復讐という面が潜んでいることがある。)
合意なき期待に要注意。
相手への期待は、お互い適度にしておきたい。