2021年7月31日土曜日

その期待には合意があるか

 「願い」と「期待」について。


合意形成という言葉がある。

クラス会議でもよく使う言葉である。

様々な意見が出る中で、対話の中から、合意形成をねらう。


合意形成とは、様々な立場からの願いの、丁度いい「落としどころ」である。

合意形成されたものについては、概ねの納得があり、その決定の遂行や遵守が期待される。


ただし「概ね」というのが重要ポイントで、全員が完全に納得、というのが現実的には難しい。

何だかんだ、ある程度の面をがまんする人が出るという場合が多い。

集団の人数が多くなればなるほど、願いの方向が多方面になるので、そうなってくる。

たった35人程度でもかなり難しいものである。

(今回のオリンピック開催の諸々もそうである。

 たとえ合意形成を図っても、国民全員が納得という状況を作り出すのは不可能である。)


合意というのは、意志の一致であり、互いの願いを共有しているといえる状態である。

合意の上での互いの期待というのは、利害関係が一致しており、期待する、される両者にとって心地よい状態である。


自らの夢に向かってまっしぐらな少年少女と親やコーチという関係や、オリンピック選手団と応援団のような状態である。

「がんばって!」と応援する人と「がんばる!」と心から張り切っている人という、願いの一致した関係である。


もっとドライな例だと、免許交付における

「法律を破らずに安全な運転を期待します」

「ご期待通り、法律を守って減点なしで安全に走りたいです」

という関係も、一種の合意のある期待である。


入試や就職での面接の類も全てそれである。

採る側は期待していて、採られる側は進んで期待に添うつもりである。


一方、不幸を引き起こすのは「合意なき期待」である。


一方的な「皆さん、〇〇しましょう」を破った子どもに対して「約束したでしょ」「言ったでしょ」は、これに当たる。

子どもからすれば「約束なんてしてないし。言われたけど。」という感じで、不合理である。

期待した側が勝手に期待し、された側は全く応えたいと思っていない状態である。


また、仮に期待通りに相手が動いているからといって、相手が合意しているとは限らない。


例えば一生懸命勉強しているけど、それはそうしないと期待している親が怒るから、がっかりするからという場合もある。

大会には出場するけれど、失敗すれば責められるという恐怖で動いている場合もある。

心から期待に応えたいと思っている訳ではなく、危険回避や他人の機嫌を損ねないための動機である。

(ちなみに人間の本能的欲求は、この危険回避の方を最優先に機能する。)


この、合意なき期待は、哀しみか怒りのいずれか、あるいは両方の感情を引き起こす「時限爆弾的仕掛け」になる。


この合意なき期待は、逆の場合もある。

相手は期待していないのに、勝手に自分が「期待されている」と勘違いしている時である。


例えば、会社側は普通、新卒の新入社員に対し、完璧な仕事ぶりなど求めていない。

新人で初めてづくしなのだから、ミスも含みおきである。


しかし、ミスをする度、激しく落ち込む人もいる。

一方的に「こんなに期待されているのに!ミスするなんて!」と思い込んで、本人が勝手に不幸になっているだけである。

新入社員あるあるだが、自分で自分に勝手にプレッシャーをかけて潰れるというパターンである。


拙著『捨てる仕事術』の表紙のメッセージの人物もそれである。 

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5


新入社員に限らず、根が真面目すぎる人は、場合によっては泣いたり怒り出したりして、周りを非常に困惑させる。

「いや、そこまであなたに過剰な期待を誰もしていないのに・・・」という感じである。

完全自爆である。



また一方で、互いにあまり期待していないという場合もあるが、これはこれは問題が起きない。

長年連れ添った夫婦のような状態である。

互いに過剰な期待はなく、されているとも思っておらず、ほどほどの関係である。

付き合って1年未満のカップルのように「こんなことするなんて!」とか「もっと私を見て!」というような期待が互いにない。

大きな刺激もないかもしれないが、その分安定したものである。

(ただし、どちらが幸せと感じるかは主観による。)


要するに、互いの期待する、されるの方向が一致しているというのが大切なポイントである。


まとめると、両者の関係は次のようになる。(完全な私見による私案)


A:期待している&期待に応えたいと感じている=◎

B:期待している&期待に応えたいと感じていない=×

C:期待していない&期待に応えたいと感じている=△

D:特に期待していない&特に期待に応えたいと感じていない=〇


AとDは両方よくて、その差についても前述の通りである。


BとCは両方よろしくないが、その差については解説がいるかもしれない。


Cでは、自分が期待されていると勘違いしている側なら、それに気付けば済む話だからである。

完全自己解決できる。

問題は、その勘違いしている側が相手の場合である。

そんなことまで自分は期待していないのだからと、目を覚ますよう説得するのに苦労するかもしれない。


一方でBは、完全に期待している側次第である。

自分に対し、勝手に過剰な期待を寄せてくるので、やられる側はしんどい。

「何でできないの!」って、できないまたはやりたくないから、できないのである。

期待している側が諦めて自分の願いを手放すしか解決策はない。

(下手にがんばって期待に応えてしまうと、更に高い要求を出され、また大きく期待される。)


辿り着く先は、哀しみと怒りである。

場合によっては最悪、命に関わる恐ろしいことにもつながりかねない。

相手に過剰な期待を寄せすぎている場合は、相手と自分両方の心身への危険を考えるべきである。

(ちなみに子どもの不登校や自傷行為等には、ここへのSOSや復讐という面が潜んでいることがある。)


合意なき期待に要注意。

相手への期待は、お互い適度にしておきたい。

2021年7月29日木曜日

忠誠心を考える

夏休みということで、本の紹介。


最近、また小説を少しずつ読むようになってきた。

機会あって、次の本を読んだ。


『日の名残り』カズオイシグロ著 土屋政雄訳 ハヤカワepi書房

https://www.amazon.co.jp/dp/4151200037


イギリスのお屋敷で働く執事の物語である。

読もうと思う人もいるかもしれないので、ネタバレしない程度に感じたことを書く。


引っかかったのが、忠誠を誓うということは、本当に正しいのかということである。

妄信的に主人に従う執事。

一見、忠実でいい執事であるようだが、主人の過ちと思われる点を見つけても、指摘できない。

むしろ、それが正しいことであるかのように錯覚してしまう。

忠実であることが正しいという強い信念を持っているので、それ自体を疑わない。


これは、働き方の話につながる。

会社への忠誠心。

あった方がいい仕事をする。

しかし、それ故に、会社が明らかな過ちを犯しているのに、指摘できなくなる。

これはまずい。


更に、ルールに忠実であることが、人間味を失うことにもつながる。

判断基準に感情を入れないために、人間の心の機微を無視した言動になる。


これは意見が分かれるところだが

「親の死に目」という場面で、仕事を優先するかどうかという問題にも関わる。

ビジネスマンとしては仕事優先でいい。

しかし仕事が果たして自分の人生に寄り添ってくれるのかどうかである。


人がいい、ということに関しても考えるところがあった。

うまい人間に利用されていることに気付けないと、人がいいほど、好都合な対象になる。


教師として立つ時にも、ここは考えどころである。

気の利く子どもに負担をかけすぎていないか。

また、忠実を求めてしまっていないか。

正しさを押し付けてしまっていないか。

自問すべき点である。

2021年7月27日火曜日

学習意欲が高いとはいかなる状態か

 学習意欲の重要性と誤解について。


私自身、「どうすればやる気が出るか」についてはとても関心が高い。

実際、初の著書のタイトル通りである。


(参考:『やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり』

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1 )


教育心理学では「学習動機付け」という言葉もある。

やる気、意欲は、学校教育に限らず、学習と切り離せない関係である。


実際、学習指導要領の変遷においても、この学習意欲の地位は向上し続けてきている。

いかに子どもの学習意欲を高めるか、が関心事の中心になってきた。


実際、現場で指導していると、他人にやる気を出させるほど難しいことはない。


確かに、知識・技能面はある程度まで詰め込める。

本人の意思とは無関係に、やらざるを得ない環境に放り込めば、やる。

これはやる気を出しているのではなく、逆に諦めている状態である。

当然意欲面は低くなる一方である。


しかし、思考力・判断力となると、これは学習意欲を無視しては育たない。

なぜならば、これらは「なぜ」「何のために」「どのように」を考える部分である。

無思考に従って勉強させられている状態になるには、これらを捨て去る必要があるからである。

真に意欲的に学習している状態では「何のために」が内側からエネルギーを無限に供給し続けてくれる。


真に学習意欲が高い状態は、静かであり、落ち着いている。

当たり前のように淡々とこなす状態である。

もう誰のためでもなく自分のためにやるのだと決めており、動機付けをする必要もなく、勝手にどんどんやる。


動機付け、という言葉も誤解を生むのかもしれない。

やる気は、粘土の作品と同じで、外付けしてもすぐ落ちる。

内側から捻りだすものである。

しかも、本人が自分自身の手で捻りだすものである。


そう考えると、親や教師は子どもに何ができるのか。


一つは、見守ることである。

不安で声をかけたくなるが、やるとなれば本人が決めてやると、信じることである。


一方で、強制しないことである。

強い権限で、やらせることができてしまう。

そのやり方で付けたものは、必ず剥落する。

従順な子どもは、見た目は意欲があるように見せるので、余計に誤解しやすい。


強制しないということは、何もしないということではない。

提案してみる、試してみるよう促す。

何のためにできたものなのか、どんな役に立つことなのかを示してみることはする。


それでもやらないものは、しょうがない。

それは、残念ながら本人の心の琴線に触れないのである。

そもそも全員が同じものに関心を示しているようでは、世界は成り立たない。

諦めも肝心である。


全員万能論が前提にあると、諦めることができない。

何度も書いている「やればできる」の誤解である。


それ以上に、本人がそれをできるようになりたいと思えるかどうかである。

この気持ちが全てで、魂が、腹の底が、本能が求めるものである。

だから、幼児期に熱中したものを大人になって思い返すのが大切という話は、理にかなっている。

これは他人がどうこうできるものではない。


学校教育ができることは何か。

それは、本来、その子どもが意欲をもてるはずのものを、落とさないことである。

あくまで、それを提示できるかどうかまでである。


点数や成績表に記載されるものは、その子どものもつごくごく一部のものでしかない。

見えやすい面に執着しすぎて、大切なものを落とさないようにしたい。

2021年7月25日日曜日

ルールと思考停止

ルールの有用性と危険性について。


学校ほど細かなルールがある場所も珍しい。

特に時間ルールは細かい。

5分単位で全てのスケジュールが決まっており、目まぐるしい限りである。


ただ、このルールには大きな有用性がある。

ルールがあると、思考停止状態でも行動できるという大きなメリットがある。

全ての行動についていちいち「なぜ」とか「どうする」とか考えて行動計画を立てるのは負担が大きい。


習慣化すればそれを繰り返すだけでいい。

生活に良いルーティンを作れれば、それだけで人生が向上するというメリットもある。


大きな集団を管理するのにも大変有用である。

それに従わせられれば、考えさせないで集団にとって望ましくない行動を制限することができる。

集団を管理する者にとっては大変都合がいい。


ただ、物事は全て両面セットである。

メリットが大きいということは、デメリットも大きいということである。


ルール化とは例えるなら、公式化のことである。

勉強での公式丸暗記などと同じである。

無思考で公式的に当てはめていけば、一応の正解にたどり着く。

さっぱり理解していなくても、丸暗記さえすれば小学生で高校生の問題だって解ける。


ただこれは言うまでもなく、点数という大きなメリットを手に入れる一方、失うものも大きい。

公式化による高得点の弱点は、本当に理解しているかどうかは全く判別できないところである。


同じように、ルール化されたものを守っているからといって、その意味や意義を理解しているとは限らないということである。

ルールに無思考に従うというのは、人間のロボット化である。


ルールの設定には大前提があり、状況に応じて変えられるという点である。

状況に応じてより厳しくすることもできるし、無くすこともできる。


このルール改変の仕組みがないと、集団の成員にとって不都合が起きる。

理不尽なルールと気付いても、変える術が自分にないとなれば、それは絶望や諦めにつながる。


逆に言えば、集団の成員がルール改善を提案できることが、ルール設定の大前提である。

更に言えば、そのルールを成員が変えたいという場合、集団がそれに相応しい状態になっていることが条件になる。

例えるなら、自分勝手な運転が横行している以上、交通ルールの厳罰化は必然になっていくのと同じである。

ルール撤廃が妥当という集団の状態でなければ、撤廃要求が受け入れられることはない。


ルールというものの力は大きい。

だからこそ、無思考に従っているものに対しては、定期的に見直す必要がある。

学校にある無数のルールは、普遍の真理と呼べるものか、単なる慣習なのかは考え直す必要がかなりある。


今まであったルールを減らすことで、不都合が起きるかもしれない。

しかしその不都合を体験することも、思考力や判断力を伸ばす重要な学習機会になり得る。


ルールは無思考を促すツールにもなり得る。

カーナビ同様、考えずに従うことで便利な道案内にもなるが、行くべき道を考えられなくもなる。

親や先生の言ったしつけやルールに素直に従うというのは、成長におけるメリットも大きい。

しかしそれが従うに値すべきものであるかどうかというのは、一つ考えものである。


本当にそのルールは妥当か。

それで苦しんでいる人はいないのか。

むやみやたらに反対するでも従うでもなく、冷静な視点で客観的に見つめ直したい。

2021年7月23日金曜日

悩みをメタ認知するには

 主宰している学級づくり研究会「HOPE」での学びのシェア。


参加者にその場で悩みを出してもらい、答えるという形をとっている。

悩みの具体はシェアできないが、すべてに共通点がある。


それは

「相手が何を望んでいるのかを理解することで解決することが多い」

という点である。


あらゆる悩みに、大概は他人が関わってくる。

本当に自分だけの悩みというのは少ない。

(病気などはここに当てはまるかもしれない。)


学級担任の悩みは当然、子どもや保護者に関することが多い。

しかし、悩んでいるこちらの意図とは別に、子ども自身は全く違うことを考えているかもしれない。


一番不幸なのは、こちらがよかれと思ってしていることが、子どもにとってありがたくない場合である。

逆に、こっちが悩んでいるだけで、相手は平然としているという場合、あるいは楽しんでいるという場合さえある。

これは自分で不幸を想像して、現実世界に作り出しているともいえる。


どうやったらそれに気付けるか。

他人に聞いてもらうのが一番てっとり早い。


本人にとっては世界が破滅するほどの悩みでも、外から見たら「え?」ということもかなりある。

私はよく「髪型が決まらないから学校に行きたくない」と真剣に悩む思春期に例えて言う。

「みんなが私を見て笑うんだ」と思っているのである。

残念ながら、実際はみんな自分のことに精一杯で、笑うどころか誰も見てくれてすらいない。


客観的視点をもつことである。

メタ認知である。

それには、練習が必要で、最初は他人に聞いてもらうのがいい。


実際、それを体験した、乗り越えた経験のある人からすれば、その悩みの大体の解決方法がわかっている。

聞いてみてやってみればいい話である。


個人の悩みの共有の場。

これこそが、今の現職の先生たちに一番必要な場なのではないかと思っている次第である。

2021年7月21日水曜日

後始末をつけられるようにする

 毎年、学級で子どもによくする話。


「後始末」が大切である。


椅子をしまう。

周りのごみを拾う。

靴を揃える。


全て後始末である。


しつけは漢字で「躾」である。

心身、あるいは身の周りを美しくする行為である。

放っておいても自然にはそうならないので、教える必要がある。


後始末をつけるというのは、人に余計な迷惑をかけない、手間をかけさせないという意味もある。


例えば給食の片づけ方、あるいは残し方も、後始末。

トイレを使った後も、後始末。

ごみの分別も、後始末。


これを片付けてくれる人、次に使う人のことを想像できるかどうかである。

想像力が全てを決める。


そして子どもたちは教えられないと、意外とここの想像ができない。

スーパーで売っている鮭の切り身の状態で泳いでいると思っている子どもがいるという笑い話がある。

知らないと、そうなる。


例えば給食一つだって、食べ残した後の片付けの場面を想像できない。


なぜなのか。


自分で後始末をした経験がないからである。

食べっぱなしでも、親が片づけてくれるとなれば、想像できない。

食べ残したごみがどうなるのか、お皿の油汚れはどうなるのか、わかるはずもない。

まして、それを片付ける時の、作った人の気持ちなぞ想像できる訳がない。


外食は、全く見えないので、もっと学べない。

ファーストフードに至っては洗い物どころか単にごみが出るだけである。

クリック一つ、ボタン一つの世界である。


本来は、そんなことは家庭教育の分野である。

しかし、時代が変わったのだから、学校が担保するしかない。

躾をなされずに育って大きくなった親に育てられていたら、子どももそうなるのは自然である。

全ての教育は学校に責任があるのだから、この負債も返す必要がある。


この家庭教育については、地域によって大分差がある。

きちんと教育がなされている家庭が多い地域もあれば、そうでない場合もある。

どの場合においても、学校は不足分を補う責務がある。

それは、面倒がらずに、やるべきことである。


具体物で後始末をつけられるようになると、他の面に波及する。

生活や学習のあらゆる面で、後始末を意識できるようになってくる。

「これをしたら迷惑になる」「これをすると誰かが助かるかもしれない」ということの想像力が身につく。


後始末をきちんとつけられるように教育する。

これをするだけでも、学級の様子ががらりと変わることは間違いない。

授業以前の学級経営の重要ポイントである。

2021年7月19日月曜日

学校と強制

 言葉について。


教室でなるべく使いたくないという言葉がある。

これは人によって異なると思う。


例えば、「好きな人同士」。

人間、好き嫌いはあって当然だし構わない。

しかし、わざわざ公表しなくてもいい。

大人同士でそんなこと言われたら、結構傷つくかもれない。


わざわざ仲間を好きとそれ以外と分けなくてもいい。

みんな仲良くしなくてもいいが、差別的である。

好きな人がいない場合だってあって当然である。

他の表現方法はいくらでもある。


あとは、マイノリティや弱い立場などの特定の人を差別する用語。

これは世界の人権意識の高まりと共に、少しずつ変わってきている。

学力や家庭の状況、経済状況、人種や性的マイノリティに対するものも含まれる。


本題として取り上げたいのは「強制」「やらせる」という言葉。

指導案に「~させる」はあり得るのだが、使う際にかなり抵抗感がある。


4月から次の質問をよくする学年の子どもたちが、かつてあった。

「それは強制ですか?」


作業や課題はもちろん、仲間の企画したイベントも、「~しよう」は全部「強制」という言葉の括り。

この用語を出されると、何だか重々しい感じになり、胸が苦しくなる。

課題や義務とも提案ともいえるし、強制といえば強制とも言えるのである。


必要なことを教える、あるいは課題を与える。

個々の相手が欲しいかどうかまではわからない。

そもそも学校に登校すること自体が、大人たちによる善意の強制である。


根本的原因は、行き過ぎた権利意識である。

人は当然のものとして与えられたものに、恩恵は感じない。


恐らく、世界の紛争地域や貧困地域の学校では出ない言葉である。

彼らにとっての「強制」とは、労働や兵役を指すかもしれない。


「ヤバい」だけで全てを表現することができるという。

インスタントな表現であり、言葉の機微を学ぶ教室には相応しくない言葉でもある。


どんな言葉でそれを表現するのか。

そこにその人間の観と教養が滲み出ると思われる。

2021年7月17日土曜日

目の前の具体的事実が全て

 前号の話の補足で、指導の在り方の多様性について。

前号では主体性をもった子どもの育成のために、許可制をいかに撤廃していくか、という話だった。


私が以前からよくお世話になっている方から、前号のメルマガを読んで

「私はガンガン指導しています」

というメールをいただいた。

私の書いた意図も全てわかった上でのメールである。


こういう教育があってもいいのではないか。

先生もいろいろあってもいいのではないか。

そういう趣旨のお話だった。


全く同感である。

そしてこれは、全くの説明不足で、補足説明がないと、特に素直な人には誤解される可能性があると考えた。


「教育は、教師はこうあるべき」という一律の姿が押し付けられるせいで、教育崩壊が起きているように思う。

例えば叱る褒めるについての論争も同様で、色々な方法があっていい。

基本的には本人が落ちている状態には褒めた方がいいことが多いが、時には叱る方がいいことだってある。


時代が進化するということは、現実も日々進化する。

常に目の前の具体への対応でしかない。

教育における抽象化された万能論は存在しない。

その上での様々な教育情報である。


「トイレに行ってもいいですか」を報告させないと危険な学級も現実に存在する。

その通りである。

そうせざるを得ない状況、その方が良いという場合は、私もきっとそうする。


一律にこの方法は全部だめ、あるいはどの方法も全部オッケーという論は、どちらも危ない。

目の前の具体的事実によるのである。


そしてこれを読んで

「じゃあやっぱりトイレに行く時は報告させるべきなのだ」

というのが恐れている誤解であり、早合点である。


すべては、目の前の具体による。

それはつまり、教室にあるすべての指導やルールに意図があるということである。

そして、それは目の前の具体的事実によって、取るべき方策が異なるということである。


それを無思考に「慣例」や「以前うまくいった方法」でやってしまうことが問題なのである。

「ハンマーしか持たない者には全てが釘に見える」という言葉の指すところである。

ドライバーという道具を知らないから、ネジの場合もハンマーで叩き込もうとしてしまう。

(加えて言うと、ハンマーを用いても、滅茶苦茶ながらもネジがめり込んでしまうところが更に問題である。)


例えば、授業の前に全員で揃って礼をする。

あるいは、食事の前後に手を合わせる。


これらは、何のためなのか。

意味も考えず、ただやっているだけなら、有害である。

幼少期のしつけなど、最初は意味もわからずやる時期があってもいい。

(しつけの有用性と有害性の問題も、論じるべき点がかなりある。)

ただ、いつまでも意味がわからないままでいいのかというと、それは違う。


どんな声かけが最適なのか。

やる方がいいのか、やらない方がいいのか。

揃える方がいいのか、揃えない方がいいのか。

一律の答えはなく、すべては目の前の具体的事実が規定する。


例えば手を合わせるという行為自体、宗教違いの場合は形式が異なる。

食事のマナーだって異なる。

アレルギーのような身体的理由の場合にも、食事時の最適解は異なる。


要するに、一つの方法や理論を妄信しないことである。

「一斉指導」「個別指導」「強制」「自由」「素直」「従順」「反抗」・・・

すべてはそれ単体では、単なる「単語」でしかなく、善悪も正解不正解もない。

どの文脈でどのように用いるかがすべてである。

ハンマーがいい時もあればドライバーがいい時もあるし、そもそも何もしない方がいいこともある。


この論理でいくと

「じゃあ本やメルマガを読むことも意味がない」

と考える人もいるかもしれない。


それは違う。

様々な道具があった方がいい。

引き出しに様々な道具(選択肢)がしまわれている人と、ハンマーしかもっていない人は違う。

そして、時代の変化によって、必要な道具は進化する。

だから教える立場にある者の学びには永遠にゴールはなく、常に学び続ける必要がある。


目の前の具体的事実が全てである。

最も大きな事実は、自分と子どもたち一人一人である。

そこへの最適な方法を考え得るのは、自分自身しかいない。


私もよく他者から誤解されていて

「先生はもうやり方が確立しているからいいですね」

と言われる。

全くの誤解である。


例え以前と同じ学年だったり、持ち上がりであったとしても、同じ方法を同じように使えた試しなどない。

それどころか、今担任している子どもたちに対しても、変化に応じてやり方をどんどん変えている。

子どもの側も私も、常に変化しているからである。


目の前の具体的事実が全て。

教師のやり方も多様性がある。

どんなやり方であっても、共通点として大切なのは、指導への教育観をもって臨むことである。

2021年7月15日木曜日

先生、〇〇してもいいですか?

 主体性をもった子どもを育てる。


もはやこの文自体に矛盾を感じるが、逆に主体性のない子どもの育て方なら確実に存在するので、逆はまた真である。

命令による受動的、ロボット的な子どもの育て方である。

これさえ知っていれば、少なくともそれをしないという方向での育成はできる。


ごく単純なことで、日常の中に「許可申請」の場面があればあるほど、受動的になる。

ちなみに今回の話は、大人の社会にもそのまま当てはまる。


代表的なのが、休み時間における

「先生、トイレに行ってもいいですか」

である。


勝手に行けばいい。

そんな個々の生理現象の発露まで教師が管理できるはずがない。

何なら授業中でも勝手に行って静かに帰って来るのが当然のことである。

(大人が研修中にいちいち講師の話を遮ってまでそんな個人的な許可を求めるのかという話である。)


この言葉が出ること自体、普段から許可制をしいている証である。

安全のため云々で何かと管理したいのだろうが、縛れば縛るほど動きたくなるのが子どもである。


トイレを下手に我慢されて困るのは、子ども自身ももちろんだが、教師の側も同様である。

勝手に行けるようにすればいい。


今まで散々引き継いできた

「勝手に教室を飛び出してしまう困った子ども」

「歩き回って落ち着かず迷惑をかける子ども」

たちは、それを禁止しないと逆に落ち着く。

これは経験上間違いない。


なぜなのか。


動いてはダメと言われるから動きたくなるのである。

禁止されたことをしたくなるという基本性質を知っていれば、わかる話である。


ちなみに、それでも禁止していることもある。

他人を傷つける行為や妨害行為の類である。

(一方、迷惑をかけることがあっても仕方ない。誰でも失敗するからである。)

これはその子の権利を認めるということは、周りの子どもの学ぶ権利も認めるという原理原則からである。


この点に反発する子どもは見たことがない。

「あなたを認める。だから、他の人も認める。」

なるほど納得、当然のことである。


さて、この許可制の撤廃を、全ての言動において注意してみる。


こんなことはないだろうか。

「先生、この手紙折っていい?」

「先生、外に出て遊んでいい?」

「先生、給食残してもいい?」

・・・・


先も述べたが、こういう質問が飛び交うこと自体、子どもたちが許可制に心身の底から馴染んでいる証である。


この際の私の切り返しは単純で

「どう思う?」

である。


そう返されると、子どもは一瞬、びくっとする。

叱られたと感じるのかもしれないし、変なことをきいてしまったと思うのかもしれない。

しかしこれは、子どもが自ら考えることを放棄して、言動の責任をこちらに押し付けている行為である。

断じて受ける訳にはいかない。


確かに、こちらが禁じていることもある。

例えば勝手に学校の外に出ないなどは、最低限の禁止事項である。

これすら自由にするのは、学校の責任放棄であって許されることではない。


しかし、生活の細部に至るまで許可制ではいけない。

そんなこと、自分で考えろという話がほとんどである。


ちなみに「前年度までの担任のルール」というのが馴染んでいる4月では、ある程度ここは情状酌量の余地がある。

場合によっては「給食を絶対に残してはいけない」という指導をされてきたのかもしれない。

そのあたりは、全体に尋ねて確認した方がいい。

自分が当たり前だと思っていても、全員がそう考えているとは限らないからである。


とにかく、心理的に不安定な学級であるほど、些細なことに許可を求めてくる。

自分の言動に責任がもてず、不安なのである。


子どもが許可をやたら求めてくる。

そうだとしたら、自分自身がそういう不安な生き方・働き方をしていないか、見直す必要がある。


「〇〇してもいいですか?」に何と返すかは、学級経営の要注意ポイントである。

2021年7月13日火曜日

仕事の適性 好きと得意

 メルマガタイトルの「二十代で身に付けたい!」の通り、二十代や新卒の人に向けて、仕事観の話。


「置かれた場所で咲きなさい」

「石の上にも三年」

といった類の言葉がある。

現状を肯定し努力する心は大切である。


一方で、

「朝令暮改」「君子は豹変す」

という言葉もある。

一般にコロコロ考えややり方を変えるのはよくないとされがちである。

しかし変化の多いこの時代、この姿勢も大切である。


辛い現状であっても、耐え抜ける覚悟をもてるならいい。

強い思いをもって就いた職で、理想の実現を目指すのであれば、ある程度の困難はセットである。

現に私自身も、新卒から数年は毎日数時間の残業&土日仕事は当たり前で、22時を過ぎることもざらだった。

それでも、自ら強く望んで就いた職だったからこそ、何とかがんばろうと思えた。


しかしもし、それほどの思いがなく就いた職であったのならば、この働き方の継続は無理だったとも思う。

内的な動機があったからこそ、「石の上にも三年」で結果が出なくても頑張り続けられたのかもしれない。


あるいは、外的な動機であっても、強いものであれば頑張れたのかもしれない。

例えば貧しい子ども時代を経て「安定的な収入」を強く望んで就いたのであれば、困難にも耐えうるかもしれない。


しかし、親や世間体などの周囲の求めに応じたとか、とりあえず就いた、というのであれば、続けるのはかなりしんどかったと思う。


適材適所である。

自分が、材としてのその使い所に適しているかどうかである。

それを「好き嫌い」と「得意不得意」の二軸で考える。


好きで得意なことなら、文句なしに最高である。

ただし、いきなりこれを感じられることはあまりないかもしれない。


好きだけどうまくできないという場合も、それは耐え抜ける可能性が高い。

やがてできるようになるはずである。


問題は、好きではないことをやっている場合である。


好きでもないのに割とできてしまうこともある。

その場合は成果が出ているだけに途中で抜けづらく、かつ楽しくないのに仕事をどんどん任される。

これはこれで結構しんどいかもしれないが、やがてやりがいが生まれる可能性もある。


好きじゃなくて得意でもないと感じているなら、これは次を考えておく方がいい。

好きでも得意でもないことで人生を棒に振る理由はない。

他に適所がきっとある。


仕事のしんどさを、ざっくり大きく次の二種類に分ける。


1 人間関係

2 仕事内容


自分の感じている辛さはどちらなのか。


人間関係であれば、職を変えずとも場が変わることで改善の可能性は確かにある。

(ただし自分が嫌な人間関係を引き寄せている可能性もあり、その場合は次も同じような人が出てくる。)


仕事内容であれば、将来的に転職か部署の配置転換の希望を検討する必要がある。

学校であれば、担任のような直接子どもに教える仕事内容と、事務職の仕事内容、管理職や行政のような仕事内容は全く違う。


年齢どうこうの問題ではなく、どちらがより自分に向いているかである。

人と向き合ってコミュニケーションをするのが好きな人もいる。

コンピューターや数字に向き合うのが好きな人もいる。


また、人と向き合うといっても、大人はいいが子どもはだめ、あるいはその逆という場合もある。

お年寄りや介護といったものに適性の高い人もいる。

難関進学校への受験のための学習塾で輝く人もいれば、特別支援教育のような場で最も輝く人もいる。

適材適所である。


ちなみに、進学塾といえば「今でしょ!」のフレーズで有名な林修先生がいる。

氏は塾の講師という仕事に対し、好きで始めた訳ではないということをご自身の著書の中で答えている。

仕方なく始めたが努力していく中で輝くという場合もあるので、好きが大切と一概には言えないのかもしれない。

しかし少なくとも好きと得意の適性の内、一つは当てはまる方がいいだろうということは推測される。


現職が十年も続いている人は、少なくとも自分にある程度の適性はあったと考えるのが自然である。

好きだからやっていたのか、あるいは何となくうまくやれるということである。

「耐え抜いたからだ」というかもしれないが、それ自体ある程度うまくやれる能力があった証である。


要するに、スタートは大抵の人がみんなしんどいということである。

その前提がある上で、目標がある人はある程度のことには耐えてがんばってみる。

そうでない人は、肩の力を抜いて休み休みやっていってくれればいいと思う。


結論、人に教える仕事であれば、教えている相手が自分の仕事をしている姿をいいなと思えるかどうか。

大変そうでも目標に向かっている姿、あるいは楽しくリラックスして働いている姿もいいかもしれない。

自分を大切にしていることが、結果的に良い仕事につながると考える次第である。

2021年7月11日日曜日

無理・無駄・余計を捨てる

前号「セルフネグレクトの連鎖を止める」の話の続き。


自分自身を大切にすることが、仕事全般の向上につながる。

拙著『「捨てる」仕事術』にも書いたが、余計な仕事を捨てることが大切である。


100ある力を、余計な90に配分してしまえば、大切なことに配分できるのが10しか残らない。

小学校レベルの単純な算数でわかる話である。


学級担任に対し「取るに足らない、ほんの些細な仕事」が次々に追加依頼される。

今は感染症対策とICT関連の仕事が大量に追加されている。

子どもの端末の管理、新たな媒体やソフトの活用、発信の要望まで、枚挙に暇がない。

追加された仕事は、今後消えることはない。

感染症対策の仕事も、もはや一時的とはいえないほど継続している。


たとえ1の労力の作業であっても、それが10個あれば相当な労力になる。

今の学校現場は、それが労力全体の半分を優に越えており、最も大切な授業や学級経営の準備に費やせなくなっている。


当たり前だが、余計な仕事に費やす労力を削減すれば、自ずと大切なことに力を注げることになる。

結果的に、子どものよりよい成長につながる。


そして仕事を断れない立場にある以上、やり方が大切になる。


例えば5の労力をかければ8割出来の結果が得られるものがあるとする。

その仕事を10割出来にするには10の労力が必要というものもある。

これは、8割でも構わない程度の仕事なら、倍の労力を費やさず、そこで終えるべきである。


「余計な仕事なんてない」という論もあるようだが、残念ながら学校には本当は要らない余計な仕事が山積している。

過剰サービスともいえるようなものも多い。


また一見大切なようで、実は大切ではないものもかなりある。

見極めは単純化して「子どもの真の成長につながるかどうか」という一点で判断するとわかりやすい。

学校の存在理由は、子どもの保護と成長だからである。


各種書類。

法的に必要だと主張される類のものは、本質的には要らなくても、要らないと言える反論の余地がない。

法的に必要ではなくても、準公簿だ必要なんだと何だかんだ理由をつけて「やらねばならない」ものもたくさんある。

命令を出す側は必要だからと出すのだが、出される側は必要感が全く感じられないものも多い。

「べき」と「ねば」にまみれた「べきねば仕事」である。


これらは、子どもの成長という視点からは、大部分が要らない。

「いざという時に」とよく言うが、本当にいざという時は平時と違うので大概役に立たない。


しかし文句を言っても捨てるわけにはいかず、やらねばならないので、能率よくこなす必要が出る。

探せば、するするいくうまいやり方は書籍などに溢れているはずである。


例えば、〇つけの類。

これを言うと必ず反論が出るが、この仕事は教える側にとって、本質的には要らない。

指導者の立場からすると、理解度の確認さえできればいいのである。


子ども自身ができるなら、子どもがやった方が学力向上のためにもいい。

まして統一テストや学力検査のような選択肢の〇つけなぞ、機械にやらせるのがベストである。

〇つけボランティアが入ってくれる学校もあるぐらいである。

他者に委託しても全く構わない仕事である。


通知表の各種所見。

これは長くなるので次回にするが、ムダの極みである。


上からのこういったムダの命令と強要の山積が、学校が荒れる本質的な大きな要因になっている。

教師の仕事が変なところでしんどくなり、それによって憧れる若者も減り、教育の質の低下という悪循環に陥る。


今は、感染症対策のために様々な作業が追加されている。

世界レベルの問題であり、これを拒否できるはずがない。

ここはやるしかない。

だとしたら、今までの他の「べきねば」を捨てる発想にいかないと、犠牲になるのは授業であり、最終的には子どもである。


全ての現場教員が真っ先に一番捨てるべきは、完璧主義である。

冷静に俯瞰して、今の教員に求められる仕事量は、まともにやりきれる量ではない。

できない自分を責めていたら、あっという間に肉体的にも精神的にも追い込まれることになる。


また、同僚に対しても、互いに完璧を求めないことが大切である。

こんなのできる訳ないだろうと、お互いにちょっとスルーする余裕も大切である。

(これを言うと、また完璧主義の人に怒られるが、それもスルーしておく。)


子どもや保護者との関係でもそうありたい。

完璧にできる子ども。

完璧な子育てをする親。

完璧な教育をする教員。

どれも、互いに無理な話である。


無理・無駄・余計を捨てること。

子どもの成長を大切に願っているのに、自分が仕事をできていないと悩むのであれば、見直すべき視点である。

2021年7月9日金曜日

セルフネグレクトの連鎖を止める

 前号の「自分の人権を認める」という話の続き。


セルフネグレクトという言葉がある。

私はこの言葉を、社会派ブロガーのちきりん氏が、音声媒体の「voicy」で取り上げていたことで知った。

人権についての意識が高まっていた時に出会ったので、偶然ではないのかもしれない。


元々は「ごみ屋敷」に住むような人の心理状態を指したようである。

しかしながら、今はもっと多くの人に当てはまるものとして定義されている。


セルフネグレクトについて、とりあえずの定義をWikipediaから引用する。


===============

(引用開始)

個人自身の基本的ニーズに対して発生するネグレクト行為であり、

それには不適切な衛生、服飾、食事、医学的状況などが挙げられる。

より広義には、個人の保健、衛生、生活環境などのセルフケアが不足している状況をいう。

(引用終了)

================



つまり、セルフネグレクトは、労働問題と直結する。

忙しい人が多い職場ほど、この傾向は強くなる。


自分に余裕がない状態になれば、当然他者のケアはできない。

新人研修や異動者へのケアといった本来必要なものも、冷たいものになってしまいがちである。


学校の場合、このしわ寄せの最終被害者は、子どもである。

子どものために自己犠牲して頑張った結果の犠牲者が子どもという矛盾が生じる。


これは学級担任の場合に限らない。

管理職が忙しくなれば、教務主任に余裕がなくなり、結局学級担任に及ぶ。

逆も然りで、下が余裕なくなれば、上も余裕がなくなる。

結局みんな一蓮托生である。


学校が忙しくなってる原因は至極単純明快である。

最近の先生たちがだらしなくて仕事をしなくなったから、ではもちろんない。


載せすぎである。

トラックだって最大積載量が定められており、これをオーバーすると法で罰せられる。

最大積載量が定められる理由は、それを越えると事故につながり、危険だからである。


教員の労働量については、もう何十年も前からとっくに積載量オーバーである。


満載になってるところに更に積み荷を無理矢理載せたら、やがて崩れることは目に見えている。

なるべくしてなった感が否めない。


学校は、サービス業ではない。

色んな便利サービスを提供する場ではない。

再三言っているが、業務的に近いのは、ホテルやテーマパークではなく、お寺である。

(学校のない時代からお寺というところは、貴重な教育機関である。)


過剰サービスというか、そもそも学校の業務ではないところまで負担しすぎである。

そこまでやらせるのなら、国は法を改正して教職員定数を大幅に引き上げるのが当然である。

(同時に待遇も大幅改善しないと確実に質が落ちる。

人気が出れば確実に競争倍率が上がり、結果的に質も上がる。

逆もまた然り。)


学校は、子どもを育てるための機関である。

子どもを育てることと関係のない業務を減らしていかない限り、この本来の目的に打ち込むことは不可能である。


滅私奉公からのセルフネグレクト教員集団から子どもが学ぶのが「学校の先生にだけはなりたくない」ということになりかねない。

これは、教員採用試験の低倍率化の根本的な部分である。

質の低下→問題増加→多忙化という負の連鎖である。


一教員にとって、この問題はどこから手をつければよいのか。

それは、セルフネグレクトからの脱出である。

昭和的ガンバリズムを脱して、自分の時間を最優先確保するところからである。


無理してでも早く退勤することは、周りに気後れすることかもしれない。

自分の時間を楽しむことも、何だか悪いことをしているように思えるかもしれない。

病気にでもならない限り一切年休が取れないという状態かもしれない。


しかしそれは、完全な誤解である。

あなたが自分を大切にすることで、周りも幸せにできる。

先にも述べた通り、疲れて不機嫌な担任の一番の被害者は子どもである。

そして同僚の不機嫌をも引き起こし、同僚の担任するクラスの子どもの不幸にもつながる。


一生懸命死ぬほど頑張ることが、逆に悪いことが繰り返し起こる根本的原因なのである。

それに気がついたら、負の連鎖を断ち切る必要がある。

そのための行動は、自分を大切にすることである。


ガンバリズムの先にあるのは、いつか楽になれる天国のような世界ではない。

互いに自己犠牲をいつまでも強要し続ける地獄のような世界である。


やれないことはやれない。

とりあえず帰る。

自分の時間を確保する。

生活空間を清め、栄養ある美味しいものを食べて、体と心をメンテナンスする。


これは決して快楽主義ではなく、仕事も含めた人生を大切にするが故の行為である。

元気で上機嫌な方がみんないい仕事ができるに決まっているのである。


こういう当たり前のことを今まで意識してきたかどうか。

セルフネグレクトからの脱出は、学校の問題を解決するための糸口になるはずである。

学校現場からの実感である。

2021年7月7日水曜日

自分自身の権利を認める

前号の「一人の権利は全員の権利」の続き。

そして七夕に「もっと私の人生を幸せにしてください」と願う人にこそ伝えたい内容。


どんな上司、あるいは先生が理想かを考える。

上司や先生に限らず、自分がその教えや指示・命令を受けるべき相手である。


あなたを見ると、いつも良いところを見つけて伝えてくれる。

がんばりを認め、失敗した時には改善の仕方を示すと同時に励ましてくれる。

顔を合わせれば、いつも温かい言葉をかけてくれ、ユーモアや余裕を感じさせてくれる。

体調を気遣い、不調を見とったらすぐに「今日は早く帰って休みなさい」と労わってくれる。

平時にも「楽しむ時間も大事だ」といって気持ちよく帰してくれて、自分自身も仕事に趣味にと楽しんでいる。


いかがだろうか。

「そんな上司や先生がいるはずあるか」と怒りを覚える人もいるかもしれない。

多分、現在進行形でひどい目にあっている人、あるいは自分が嫌いな人は、その種の怒りや絶望的な諦めを感じると思う。


さて、逆に、次のような上司や先生はどうだろうか。


あなたを見ると、いつも悪いところを見つけて伝えてくる。

がんばりを無視し、改善できる点も放置し、「やっぱりあなたはダメな人だね」と蔑むか、無言の態度でそれを示す。

顔を合わせれば、いつも冷たい嫌味で皮肉な言葉をかけ、焦りを感じさせる。

体調に無関心で、不調を見つけても「みんなも忙しいんだからがんばって」と休ませずに無理を強いられる。

平時から「自分が楽しむのは後回し」「私ががんばればいいから」といっていつも無理してがんばっている。

それが実は無言の圧力で残業を周りにも強くことにつながっており、本人も生きてて楽しいように見えない。


いかがだろうか。

「そんなひどい上司や先生がいるはずないでしょ」と呆れる人がいるかもしれない。

逆に「それが普通」と思っていて、実際にそんな人の元にいて、辛い日々を送っている人もいるかもしれない。


さて実は、この上司や先生というのは、他でもない、自分自身のこととして考える。

自分の自分自身への接し方のことである。

自分自身こそ、自分が指示・命令を絶対に聞かざるを得ない直属の上司である。


理想の上司と嫌な上司、どちらの扱いに自分は近いか。

自分を宝物のように大切にしているか、自分を人権のない奴隷のように扱っているか。

もし先の「嫌な上司や先生」の例で怒りや哀しみを感じたら、自分自身をこそ、そう扱っている可能性が疑われる。


前号の言葉を繰り返す。

「一人の権利は全員の権利」

である。


つまり、自分の権利を認めない人は、他人にもその権利を認めていない。

「私が辛いんだからあなたも辛い思いをするべきだ」という不幸と負のスパイラルである。

そしてそれは鏡の法則で、周囲の人の自分への態度としても跳ね返ってくる。


逆である。

自分の権利を認め、他人にもその権利を認めるのが本質的な在り方である。

私の権利を認め、周りの人にも当然それを認める。

「お互い様」が+の、正のスパイラルで働く。


自分を労わることが先決である。

自分自身すら労われない人に、他人を心から救えるはずはない。


私が今でも尊敬して止まない学年主任の先生や管理職の先生は、どの方も例外なく自分を大切にしている人たちである。

仕事にも一生懸命だけれど体調管理や自分自身へのご褒美を忘れず、自分の趣味をもち、周りにも寛大である。

平日「私、これからコンサート行くから!」と部分年休をとって北海道に行き、翌日早朝便で帰ってきたというツワモノな人もいる。

「年休」とは病気だからとるものではなく、本来こういった使い方も認められているものである。


自分自身の人権・権利を認めること。

心と体の健康管理はもちろん、運動やご褒美なども大切である。


自分自身を奴隷のように扱っていないか。

それこそが、なぜか自分の人生に奴隷の主人のような、人権無視の嫌な人物が多く登場する根本的原因かもしれない。


自分自身を大切にすることは、周りの人を大切にすることと同義である。

自分の内側から元気が外に溢れるようにしていきたい。

2021年7月5日月曜日

一人の権利は全員の権利

 前号の続きで、学校現場における人権について。


次の映画の中の台詞からの学び。


「それでも夜は明ける」

https://eiga.com/movie/79401/


奴隷制度撤廃運動を続けた人物の物語である。

2014年のアカデミー賞受賞作品であり、観た人もいるかもしれない。


この作中では、黒人奴隷の人権が全く無視され、蹂躙されている。

奴隷は家畜と同様かそれ以下であり、むしろ人権という概念自体が与えられていない。

恐ろしい世界である。


作中で、ブラッドピット演じる人権意識のある数少ない白人が、次の台詞を言う。


「一人の権利は全員の権利」


そしてこれを「普遍の真理」とも述べている。


普遍の真理ということは、全ての場に通ずる大原則ということである。

ある一人の人に認められている権利は、他の全員にも認められているということである。


ただしこれは「万人が平等の権利」ということではない。

あくまでこの作中では、人間という立場での「人権」における権利ついて述べている。

人間という立場から見た人権に上下はない。


一方で、集団においての立場が別にある場合、人権は平等でも、その立場のもつ権利は同じではない。

船の中で船長とコックが同じ権利を有するようでは困る。

コックに行先を指示する権利はないし、船長には厨房で自由に指示を出す権利がない。


例えば教室は、立場の役割分担が明確にある。

最も明確な違いは、教師と児童生徒という二つである。


児童生徒に対し、指導の権利と義務を有するのは、教師のみである。

児童生徒同士は、その権利において平等である以上、誰も教師と同じ権利を有する者はいない。

例外は、会議中の司会の立場というように、部分的に違う役割を与えらえた場合のみである。


つまり、児童生徒には、他の児童生徒に指導する権利はない。

例え相手が間違った行為をしていても、指導も命令もできない。

これを勘違いしている子どもがいるから、トラブルになるのである。


子どもたちは、自分が今「正しい」ことをしていると思うと、そうでない人を注意する。

「正義」の立場にいるので、かなり強い言葉と態度で「こうしなさい」と言う。

しかし、自分がどんなに正しかろうと何だろうと、本来子どもにその権限はない。

指導権は、あくまで教師の権利である。


一方で、自分が誹謗中傷等を受けている、あるいは自らの学習に対する妨害行為があるのなら、相手に「やめろ」ということはできる。

これは指導しているのではなく、自分の権利を守っているだけである。

自分にも相手にも認められた権利である。

(これは、授業中立ち歩くこと自体は問題ないが、他の邪魔となる行為をしてはならないという話にも通じる。)


子どもを見る時には、全員の学習権を互いに奪われないという視点が大切になる。

だから教師は、すごくやる気がない子どもというのはある程度放っておけても、周りへの妨害行為は放っておけない。

成員全員の権利を守るのは、上の立場に置かせてもらっているものの責務だからである。


長くなったのでこれぐらいしておくが、この

「一人の権利は全員の権利」

という言葉は、至言である。


例えば「クラス会議」などは、この大原則をよく踏まえて行われている。

一人の意見を無下に捨て置かないことを求める。

そして何かを決定するのが難しいのも、ここによるといえる。


今後も、この言葉は意識していきたい。

2021年7月3日土曜日

時代の人権意識にチューニングする

前号の「人権意識」についての続き。


散々「よろしくないのではないか」と批判的に書いたが、これらは全て私自身もやってきたことである。

つまり、実は自己批判でもある。


例えば「背の順」を自分の学級と学年でやらなくなったのも、せいぜい3年ほど前からである。

実際、避難訓練から保健関係まで、整列はすべて「名前番号順」で事足りると気付いた。(気付くのが遅い。)

更に、避難後にも名前順の方が「〇〇さんがいない」を圧倒的に確認しやすい。


多分、炎天下でも全員が外に整列して立ったまま朝礼台からの話を聞く「全校朝会」では、背の順の方が都合がよかったのである。

それぐらいしか「背の順」が適当な理由が思い当たらない。


並び方が複数あると、特に緊急時に混乱するというのが、並び方を単一化したいという際に一番に挙げる理由である。

学校は、人権という視点よりも、安全上の問題の方が重要事項として扱ってもらいやすいからである。


「じゃあ背の順一択でいいじゃないか」とはならず、身体計測等で番号順は必ず必要になる。

そして背の順の最大の欠点は「変動」することで混乱が生じることである。

正にどんぐりの背比べ的無駄な争いにもつながり、冷静に見て悪いこと尽くしである。


それをきちんと上にも確認して「確かに必要ない」と言われてから、背の順をやめた。

ただ会議上でも疑問を呈して呼びかけはしたが、自らきちんと文書にして提案した訳ではなく、公の実行力としてはゼロに近い。

我ながら、ある意味無責任な話である。

(このメルマガ読者で納得された方は、ぜひ自校でもトライしていただきたい。救われる子どもが大量に出ること請け合いである。)


「書写の掲示」に関しても、疑問を呈しておきながら、今年度たまたま作品がないからやっていないというだけである。

基本的に、毎年掲示してきている。

必要性を感じているかもわからないが、子ども自身からも不要という声も不満の声も上がったことがない。

当然、自然のことであり、何も問題にならない。

そんなことは、騒ぐだけうるさがられるだけである。


あくまで、自分の考えがそこに至るようになって、気になり出したにすぎない。

あるいは、変だ、変えた方がいいと思っていたが、従っていたという場合もある。

いずれにしろ、基本的に全体へ「変えよう」という提案は労力がかかり、特に忙しい現場では歓迎されない。

だから、変だと思っても、余程の理由がない限り、黙っていることがほとんどになる。

個人でやっても問題ない範囲は、変えていくという程度である。


以前当たり前だと思っていたことが「変だ」と思うようになるのは、自然な変化である。

特に人権意識というのは、個人の考えどうこうの問題ではなく、時代と共に常に変遷しており、180度変わるものもある。


ご存知の通り、私世代の子ども時代というのは、先生にもので叩かれる程度は世間で「当たり前」だった。

「竹刀をもった体育教師」像を知っている人にはよくわかる話である。

「当たり前」のことだから、多少のことでは誰も騒がない。


私よりもっと上の世代の方々なら、ものが飛んでくることもあるし、ビンタやグーすら珍しくなかったという。

今なら大問題であるが、当時であれば大きな問題にならない。

時代の人権意識が異なっていたからである。


ジェンダーについても同じである。

世界標準に比較してかなり遅れてはいるものの、性にまつわる様々な選択が日本でも段々と認められるようになってきた。

少し前なら、差別されていても誰も何も言わなかった(言えなかった)のにである。

今では差別的とされる用語や表現についても、当時ではテレビという公の電波に乗ってすら問題にならなかった時代があった。

学校は小さな社会であるから、ここでも公に差別がまかり通っていた。

この時代から比べれば、この点は大きく人権意識が変化し、浸透してきたといえる。


学校を人権意識という観点から見ると、様々な疑問が浮かんでくる。

子どもだけでなく大人に関しても、個々の人権が本当に守られているかという視点で当たり前を見直すと、発見がある。

働き方改革はここが大前提であり、子育てや介護等はじめ、各種の個人事情に配慮しない職場に未来はない。

無配慮のしわ寄せを全員が受けて、結局全員が潰れるからである。

学校には、昭和の時代から変わっていないものが、令和の今もミスマッチに現存している可能性がある。


今の時代に合わせた人権意識へ、学校もチューニングしていく必要がある。

今はインターネットの普及も手伝って個人の時代に突入しており、個人の人権への配慮が一層必要な時代である。


一方、権利ではないものまで個人の「権利だ」と騒ぐのもまた違う。

学校が子どものための教育機関とはいえ、学校の何もかもを一個人の思い通りにする権利など存在しない。

また全ての職場は社会のためにあるのであり、私のためにあるのではない。


行き過ぎた平等主義もそれで、全てが異なる個々の全てが平等に扱われる権利というのはない。

先の書写の掲示の是非についても、この辺りについては考える余地があり、比較の全てが悪いということでは決してない。


まず、変だなと思うことを見つける。

そして、個人レベルでもいいので、少しだけ変えてみること。

これぐらいから始めてみるのが、現実的ではないかと考える次第である。

2021年7月1日木曜日

「当たり前」と人権意識

 月2回程度で開催している学級づくり研究会「HOPE」で話題になったことのシェア。


学校において「当たり前」になっていることが、果たして妥当かということについて話題になった。


例えば、掲示物としての習字の作品。

ほとんど当たり前のようにあるが、あれを教室後方等に並べて掲示する必然性は本当にあるのかということである。

私も毎年掲示しているが、理由は「当たり前」だからであり、何も考えていなかった。


全く同じ言葉を並べられるので、否が応でも比べられる。

芸術としての「書道」ではないので、どちらかというと「上手」と「下手」とが厳然と存在する世界である。

またあれを見るだけで、その子どものもつある種の困難や性質が見えるという面もある。


図工作品の展示は、各々の表現活動だからわかるのである。

しかし書写は、お手本をそっくりに書き写す学習である。

お手本を真似ることで、とめ、はね、はらいなどを学ぶ。

これ自体はとても意義があるが、その書いた字を「人に見せるため」にやっているかというと、これは違うように思う。

書写の授業と、希望して「書道コンクール」に応募する場合とは全く訳が違うのである。


それでも明確な目的があって掲示するのならば、それはいいのである。

物事には長短両方あって当然だからである。

しかしながら、漫然と掲示しているだけなら、それは教育的意義からして+なのか-なのかということである。


何度も言っているが「背の順」もこれである。

背丈という本人にはどうしようもない身体的特徴を並べて比較し、小さい方から大きい方に並べる。

一番小さい人と一番大きい人を確定して公表する。

これなど明確な身体的差別ではないかとも見える。


それでも納得のいく明確な理由があればいいが、大抵はこじつけにすぎない。

実際は、慣例として行っていることがほとんどだからである。


しかしながら、これらのことは過去何十年にもわたり、問題にすらなっていなかったのである。

つまり、そんなことは問題ではない、ということになる。


ここに誤り、盲点があるように思う。

実際に問題だと感じて苦しんでいる子どもは、この点において不利な立場にいる。

つまり、自分が弱い立場であるので、声をあげづらい。

まして、これをクラスメイトを差し置いて先生に自ら進言するなど、考えるだけでも恐ろしいのではないだろうか。


つまり、教師の側に完全な権限と責任がある。

教師が是とすれば是である。

教師が非とすれば非である。


先に挙げた二つの例は些細こと、末端にすぎない。

学校にはこのような「当たり前」になっていることが他にも多くありはしないかということである。


それら多くの問題の根本は「人権意識」の欠如ではいだろうか。

立場の弱い者の視点が、明らかに欠けているように思える。


今やっている「当たり前」が、ある人の視点からすると、苦しいものになっていないか。

他にも「当たり前」と思われるものについて、再検討してみたい。

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