2021年7月3日土曜日

時代の人権意識にチューニングする

前号の「人権意識」についての続き。


散々「よろしくないのではないか」と批判的に書いたが、これらは全て私自身もやってきたことである。

つまり、実は自己批判でもある。


例えば「背の順」を自分の学級と学年でやらなくなったのも、せいぜい3年ほど前からである。

実際、避難訓練から保健関係まで、整列はすべて「名前番号順」で事足りると気付いた。(気付くのが遅い。)

更に、避難後にも名前順の方が「〇〇さんがいない」を圧倒的に確認しやすい。


多分、炎天下でも全員が外に整列して立ったまま朝礼台からの話を聞く「全校朝会」では、背の順の方が都合がよかったのである。

それぐらいしか「背の順」が適当な理由が思い当たらない。


並び方が複数あると、特に緊急時に混乱するというのが、並び方を単一化したいという際に一番に挙げる理由である。

学校は、人権という視点よりも、安全上の問題の方が重要事項として扱ってもらいやすいからである。


「じゃあ背の順一択でいいじゃないか」とはならず、身体計測等で番号順は必ず必要になる。

そして背の順の最大の欠点は「変動」することで混乱が生じることである。

正にどんぐりの背比べ的無駄な争いにもつながり、冷静に見て悪いこと尽くしである。


それをきちんと上にも確認して「確かに必要ない」と言われてから、背の順をやめた。

ただ会議上でも疑問を呈して呼びかけはしたが、自らきちんと文書にして提案した訳ではなく、公の実行力としてはゼロに近い。

我ながら、ある意味無責任な話である。

(このメルマガ読者で納得された方は、ぜひ自校でもトライしていただきたい。救われる子どもが大量に出ること請け合いである。)


「書写の掲示」に関しても、疑問を呈しておきながら、今年度たまたま作品がないからやっていないというだけである。

基本的に、毎年掲示してきている。

必要性を感じているかもわからないが、子ども自身からも不要という声も不満の声も上がったことがない。

当然、自然のことであり、何も問題にならない。

そんなことは、騒ぐだけうるさがられるだけである。


あくまで、自分の考えがそこに至るようになって、気になり出したにすぎない。

あるいは、変だ、変えた方がいいと思っていたが、従っていたという場合もある。

いずれにしろ、基本的に全体へ「変えよう」という提案は労力がかかり、特に忙しい現場では歓迎されない。

だから、変だと思っても、余程の理由がない限り、黙っていることがほとんどになる。

個人でやっても問題ない範囲は、変えていくという程度である。


以前当たり前だと思っていたことが「変だ」と思うようになるのは、自然な変化である。

特に人権意識というのは、個人の考えどうこうの問題ではなく、時代と共に常に変遷しており、180度変わるものもある。


ご存知の通り、私世代の子ども時代というのは、先生にもので叩かれる程度は世間で「当たり前」だった。

「竹刀をもった体育教師」像を知っている人にはよくわかる話である。

「当たり前」のことだから、多少のことでは誰も騒がない。


私よりもっと上の世代の方々なら、ものが飛んでくることもあるし、ビンタやグーすら珍しくなかったという。

今なら大問題であるが、当時であれば大きな問題にならない。

時代の人権意識が異なっていたからである。


ジェンダーについても同じである。

世界標準に比較してかなり遅れてはいるものの、性にまつわる様々な選択が日本でも段々と認められるようになってきた。

少し前なら、差別されていても誰も何も言わなかった(言えなかった)のにである。

今では差別的とされる用語や表現についても、当時ではテレビという公の電波に乗ってすら問題にならなかった時代があった。

学校は小さな社会であるから、ここでも公に差別がまかり通っていた。

この時代から比べれば、この点は大きく人権意識が変化し、浸透してきたといえる。


学校を人権意識という観点から見ると、様々な疑問が浮かんでくる。

子どもだけでなく大人に関しても、個々の人権が本当に守られているかという視点で当たり前を見直すと、発見がある。

働き方改革はここが大前提であり、子育てや介護等はじめ、各種の個人事情に配慮しない職場に未来はない。

無配慮のしわ寄せを全員が受けて、結局全員が潰れるからである。

学校には、昭和の時代から変わっていないものが、令和の今もミスマッチに現存している可能性がある。


今の時代に合わせた人権意識へ、学校もチューニングしていく必要がある。

今はインターネットの普及も手伝って個人の時代に突入しており、個人の人権への配慮が一層必要な時代である。


一方、権利ではないものまで個人の「権利だ」と騒ぐのもまた違う。

学校が子どものための教育機関とはいえ、学校の何もかもを一個人の思い通りにする権利など存在しない。

また全ての職場は社会のためにあるのであり、私のためにあるのではない。


行き過ぎた平等主義もそれで、全てが異なる個々の全てが平等に扱われる権利というのはない。

先の書写の掲示の是非についても、この辺りについては考える余地があり、比較の全てが悪いということでは決してない。


まず、変だなと思うことを見つける。

そして、個人レベルでもいいので、少しだけ変えてみること。

これぐらいから始めてみるのが、現実的ではないかと考える次第である。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング