メルマガタイトルの「二十代で身に付けたい!」の通り、二十代や新卒の人に向けて、仕事観の話。
「置かれた場所で咲きなさい」
「石の上にも三年」
といった類の言葉がある。
現状を肯定し努力する心は大切である。
一方で、
「朝令暮改」「君子は豹変す」
という言葉もある。
一般にコロコロ考えややり方を変えるのはよくないとされがちである。
しかし変化の多いこの時代、この姿勢も大切である。
辛い現状であっても、耐え抜ける覚悟をもてるならいい。
強い思いをもって就いた職で、理想の実現を目指すのであれば、ある程度の困難はセットである。
現に私自身も、新卒から数年は毎日数時間の残業&土日仕事は当たり前で、22時を過ぎることもざらだった。
それでも、自ら強く望んで就いた職だったからこそ、何とかがんばろうと思えた。
しかしもし、それほどの思いがなく就いた職であったのならば、この働き方の継続は無理だったとも思う。
内的な動機があったからこそ、「石の上にも三年」で結果が出なくても頑張り続けられたのかもしれない。
あるいは、外的な動機であっても、強いものであれば頑張れたのかもしれない。
例えば貧しい子ども時代を経て「安定的な収入」を強く望んで就いたのであれば、困難にも耐えうるかもしれない。
しかし、親や世間体などの周囲の求めに応じたとか、とりあえず就いた、というのであれば、続けるのはかなりしんどかったと思う。
適材適所である。
自分が、材としてのその使い所に適しているかどうかである。
それを「好き嫌い」と「得意不得意」の二軸で考える。
好きで得意なことなら、文句なしに最高である。
ただし、いきなりこれを感じられることはあまりないかもしれない。
好きだけどうまくできないという場合も、それは耐え抜ける可能性が高い。
やがてできるようになるはずである。
問題は、好きではないことをやっている場合である。
好きでもないのに割とできてしまうこともある。
その場合は成果が出ているだけに途中で抜けづらく、かつ楽しくないのに仕事をどんどん任される。
これはこれで結構しんどいかもしれないが、やがてやりがいが生まれる可能性もある。
好きじゃなくて得意でもないと感じているなら、これは次を考えておく方がいい。
好きでも得意でもないことで人生を棒に振る理由はない。
他に適所がきっとある。
仕事のしんどさを、ざっくり大きく次の二種類に分ける。
1 人間関係
2 仕事内容
自分の感じている辛さはどちらなのか。
人間関係であれば、職を変えずとも場が変わることで改善の可能性は確かにある。
(ただし自分が嫌な人間関係を引き寄せている可能性もあり、その場合は次も同じような人が出てくる。)
仕事内容であれば、将来的に転職か部署の配置転換の希望を検討する必要がある。
学校であれば、担任のような直接子どもに教える仕事内容と、事務職の仕事内容、管理職や行政のような仕事内容は全く違う。
年齢どうこうの問題ではなく、どちらがより自分に向いているかである。
人と向き合ってコミュニケーションをするのが好きな人もいる。
コンピューターや数字に向き合うのが好きな人もいる。
また、人と向き合うといっても、大人はいいが子どもはだめ、あるいはその逆という場合もある。
お年寄りや介護といったものに適性の高い人もいる。
難関進学校への受験のための学習塾で輝く人もいれば、特別支援教育のような場で最も輝く人もいる。
適材適所である。
ちなみに、進学塾といえば「今でしょ!」のフレーズで有名な林修先生がいる。
氏は塾の講師という仕事に対し、好きで始めた訳ではないということをご自身の著書の中で答えている。
仕方なく始めたが努力していく中で輝くという場合もあるので、好きが大切と一概には言えないのかもしれない。
しかし少なくとも好きと得意の適性の内、一つは当てはまる方がいいだろうということは推測される。
現職が十年も続いている人は、少なくとも自分にある程度の適性はあったと考えるのが自然である。
好きだからやっていたのか、あるいは何となくうまくやれるということである。
「耐え抜いたからだ」というかもしれないが、それ自体ある程度うまくやれる能力があった証である。
要するに、スタートは大抵の人がみんなしんどいということである。
その前提がある上で、目標がある人はある程度のことには耐えてがんばってみる。
そうでない人は、肩の力を抜いて休み休みやっていってくれればいいと思う。
結論、人に教える仕事であれば、教えている相手が自分の仕事をしている姿をいいなと思えるかどうか。
大変そうでも目標に向かっている姿、あるいは楽しくリラックスして働いている姿もいいかもしれない。
自分を大切にしていることが、結果的に良い仕事につながると考える次第である。
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