月2回程度で開催している学級づくり研究会「HOPE」で話題になったことのシェア。
学校において「当たり前」になっていることが、果たして妥当かということについて話題になった。
例えば、掲示物としての習字の作品。
ほとんど当たり前のようにあるが、あれを教室後方等に並べて掲示する必然性は本当にあるのかということである。
私も毎年掲示しているが、理由は「当たり前」だからであり、何も考えていなかった。
全く同じ言葉を並べられるので、否が応でも比べられる。
芸術としての「書道」ではないので、どちらかというと「上手」と「下手」とが厳然と存在する世界である。
またあれを見るだけで、その子どものもつある種の困難や性質が見えるという面もある。
図工作品の展示は、各々の表現活動だからわかるのである。
しかし書写は、お手本をそっくりに書き写す学習である。
お手本を真似ることで、とめ、はね、はらいなどを学ぶ。
これ自体はとても意義があるが、その書いた字を「人に見せるため」にやっているかというと、これは違うように思う。
書写の授業と、希望して「書道コンクール」に応募する場合とは全く訳が違うのである。
それでも明確な目的があって掲示するのならば、それはいいのである。
物事には長短両方あって当然だからである。
しかしながら、漫然と掲示しているだけなら、それは教育的意義からして+なのか-なのかということである。
何度も言っているが「背の順」もこれである。
背丈という本人にはどうしようもない身体的特徴を並べて比較し、小さい方から大きい方に並べる。
一番小さい人と一番大きい人を確定して公表する。
これなど明確な身体的差別ではないかとも見える。
それでも納得のいく明確な理由があればいいが、大抵はこじつけにすぎない。
実際は、慣例として行っていることがほとんどだからである。
しかしながら、これらのことは過去何十年にもわたり、問題にすらなっていなかったのである。
つまり、そんなことは問題ではない、ということになる。
ここに誤り、盲点があるように思う。
実際に問題だと感じて苦しんでいる子どもは、この点において不利な立場にいる。
つまり、自分が弱い立場であるので、声をあげづらい。
まして、これをクラスメイトを差し置いて先生に自ら進言するなど、考えるだけでも恐ろしいのではないだろうか。
つまり、教師の側に完全な権限と責任がある。
教師が是とすれば是である。
教師が非とすれば非である。
先に挙げた二つの例は些細こと、末端にすぎない。
学校にはこのような「当たり前」になっていることが他にも多くありはしないかということである。
それら多くの問題の根本は「人権意識」の欠如ではいだろうか。
立場の弱い者の視点が、明らかに欠けているように思える。
今やっている「当たり前」が、ある人の視点からすると、苦しいものになっていないか。
他にも「当たり前」と思われるものについて、再検討してみたい。
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