2021年7月15日木曜日

先生、〇〇してもいいですか?

 主体性をもった子どもを育てる。


もはやこの文自体に矛盾を感じるが、逆に主体性のない子どもの育て方なら確実に存在するので、逆はまた真である。

命令による受動的、ロボット的な子どもの育て方である。

これさえ知っていれば、少なくともそれをしないという方向での育成はできる。


ごく単純なことで、日常の中に「許可申請」の場面があればあるほど、受動的になる。

ちなみに今回の話は、大人の社会にもそのまま当てはまる。


代表的なのが、休み時間における

「先生、トイレに行ってもいいですか」

である。


勝手に行けばいい。

そんな個々の生理現象の発露まで教師が管理できるはずがない。

何なら授業中でも勝手に行って静かに帰って来るのが当然のことである。

(大人が研修中にいちいち講師の話を遮ってまでそんな個人的な許可を求めるのかという話である。)


この言葉が出ること自体、普段から許可制をしいている証である。

安全のため云々で何かと管理したいのだろうが、縛れば縛るほど動きたくなるのが子どもである。


トイレを下手に我慢されて困るのは、子ども自身ももちろんだが、教師の側も同様である。

勝手に行けるようにすればいい。


今まで散々引き継いできた

「勝手に教室を飛び出してしまう困った子ども」

「歩き回って落ち着かず迷惑をかける子ども」

たちは、それを禁止しないと逆に落ち着く。

これは経験上間違いない。


なぜなのか。


動いてはダメと言われるから動きたくなるのである。

禁止されたことをしたくなるという基本性質を知っていれば、わかる話である。


ちなみに、それでも禁止していることもある。

他人を傷つける行為や妨害行為の類である。

(一方、迷惑をかけることがあっても仕方ない。誰でも失敗するからである。)

これはその子の権利を認めるということは、周りの子どもの学ぶ権利も認めるという原理原則からである。


この点に反発する子どもは見たことがない。

「あなたを認める。だから、他の人も認める。」

なるほど納得、当然のことである。


さて、この許可制の撤廃を、全ての言動において注意してみる。


こんなことはないだろうか。

「先生、この手紙折っていい?」

「先生、外に出て遊んでいい?」

「先生、給食残してもいい?」

・・・・


先も述べたが、こういう質問が飛び交うこと自体、子どもたちが許可制に心身の底から馴染んでいる証である。


この際の私の切り返しは単純で

「どう思う?」

である。


そう返されると、子どもは一瞬、びくっとする。

叱られたと感じるのかもしれないし、変なことをきいてしまったと思うのかもしれない。

しかしこれは、子どもが自ら考えることを放棄して、言動の責任をこちらに押し付けている行為である。

断じて受ける訳にはいかない。


確かに、こちらが禁じていることもある。

例えば勝手に学校の外に出ないなどは、最低限の禁止事項である。

これすら自由にするのは、学校の責任放棄であって許されることではない。


しかし、生活の細部に至るまで許可制ではいけない。

そんなこと、自分で考えろという話がほとんどである。


ちなみに「前年度までの担任のルール」というのが馴染んでいる4月では、ある程度ここは情状酌量の余地がある。

場合によっては「給食を絶対に残してはいけない」という指導をされてきたのかもしれない。

そのあたりは、全体に尋ねて確認した方がいい。

自分が当たり前だと思っていても、全員がそう考えているとは限らないからである。


とにかく、心理的に不安定な学級であるほど、些細なことに許可を求めてくる。

自分の言動に責任がもてず、不安なのである。


子どもが許可をやたら求めてくる。

そうだとしたら、自分自身がそういう不安な生き方・働き方をしていないか、見直す必要がある。


「〇〇してもいいですか?」に何と返すかは、学級経営の要注意ポイントである。

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