2015年11月30日月曜日

お互いを大切にする

先日、同僚の先生と話していて、深く納得した話。
要約すると、実習生を教えるのも子どもに教えるのも、教える側の心構えは一緒ということ。
大切にしようということ。

実習生を考える。
教育実習生は、教員免許をとろうとする人である。
それも、このご時世に。
仕事は他にいくらでも選択肢があるはずである。
教職の大変さは、いくらか知っているはずである。
そこも含みおきで、教育学部に通っている。

大学生である以上、当然、未習のことも多い。
だからこそ、知っている現職の教員が教える意味がある。
そこがうまくいかないとしたら、本人たちの問題ももちろんあるが、結局は自分自身の指導も省みる必要がある。

これは、子どもにもいえる。
何はともあれ、学校に子どもが登校してくるという事そのものが有難い。
勉強が好きで好きでたまらない子どもがいる。
(そんな子どもはいないという人が時々いるが、これは現実にいる。
 知識欲や探求心が人並み外れて高い子どもである。)
一方で、勉強が嫌で嫌でたまらない子どももいる。
色んな子どもがいても、全員教えるのが仕事である。
うまくいかないとしたら、自分の教え方を省みるのが第一優先である。

一方で、うまくいかないことを全て自分の責任だと思いすぎないことも大切である。
世の中のすべてのことは、波や流れがある。
自助努力で波に乗ったり流れを引き寄せることもできるかもしれないが、満潮の状態を干潮に戻すことはできない。
自分でどうにもできない面もあると割り切ることも同時にしないと、真面目な人は倒れる。

少し話しが逸れたが、要は、相手も自分も大切にするということである。
それは、単に甘やかすのではなく、指導すべきをきちんと指導するということ。
へとへとで倒れそうな状態なら、いたわる。
単に依存しているだけなら、指導して自分でやらせる。
これらの対応は、自分自身へのセルフケアとしても同じことがいえる。
相手や自分の状況に応じて、臨機応変に動くが、要は「相手を大切に」ということが根本・本質・原点である。

目の前で一所懸命に学んでいる相手を、大切にしたい。

2015年11月28日土曜日

受容したくない関係性もある

前号で、教えを受容すべしということを書いた。

しかし、これは師弟関係を例に出して書いた。
つまり、良好な関係性が前提である。
教えられたい人と教えたい人の関係である。

逆に言えば、この関係性がない相手とは成立しないともいえる。

自分が教えられたり指導される側の時を例にして考えてみる。
単純に立場が上という相手がいる。
考えの合わない人かもしれないが、こちらが下の立場という場合である。
従わざるを得ない相手である。
たとえ嫌でもきく。
場合によっては、きかないかもしれない。

これが、関係性の問題である。
「指導的立場にあるから相手が従うべき」というのは、上の立場の側の一方的な論理である。
師弟関係とはかなり意味合いが異なる。
そもそも、ききたくないという関係の相手では、心から受容できない。

逆に、自分が教えたり指導したりする側の時を例にして考えてみる。
これが、教師と子どもの関係である。
子どもにとって教師は、従わざるを得ない相手である。
たとえ嫌でもきく。
場合によっては、きかないかもしれない。
先に出した例の、自分が下だった場合と同じである。

つまり、教えが入るかどうかは、すべて関係性である。
教え方以前の問題である。
アクティブ・ラーニングどうこう以前の問題である。

良好な師弟関係のように、がっちりとした絆で結ばれていれば、何でもすっと入る。
野口先生は「教育の成立条件は信・敬・慕」と明確に仰っている。
「信頼・尊敬・慕う」の意味である。
この関係性がすべてである。

教えを子どもが受容するかどうかも、関係性が全てである。

2015年11月26日木曜日

教えをまずは受容する

相手が間違った行為をする。
つい遠慮して言わないとする。
すると、次も同じことをする。
同じどころか、少し程度がひどくなるかもしれない。
そう考えると、間違いを教えてあげることは必要である。

この辺りは、漢字の習得と同じである。
子どもが、漢字を間違って覚えて、そのままテストを受ける。
正しくない字形だが、見過ごしてしまったり、「おまけ」で〇にしてしまったりする。
そうすると、その間違えのまま進む。
やがて、大人になって、手紙を書く場面などでミスをして、相手に苦笑いされるはめになる。
もっと前に、受験の場面で間違えて書いて、大きな損をするかもしれない。
きちんと間違いを正してもらえなかった不幸である。

私は二十代後半の頃、師匠の野口芳宏先生に、間接的にだが、次のようなことを言われた。
「教えは素直にきく。いちいち自分はこうだとか言わない。それはずっと後でいい。」

自信過剰だと、相手がどんな人であろうと、平気で自分の論を並べ立てる。
自分の論が正しいと思い込んでしまっている。
経験と知識の差だとか、読んでいる本の量とかを考えたら、恥ずかしくて言えないはずなのだが、そこが若さである。

もちろん、意見を述べることは大切だが、あくまで「聞いた上」である。
一旦教えを受容する。
そのずっと後で、熟考した後、「やはり、違うと思うのですが」というのは、有りである。
それをその場でやり返してしまうようでは、教えを受ける資格がないと言っていい。
それなら、別の場で学んでと言われてしまう。
師の教えは「守破離」の「守」である。
その段階にオリジナリティは必要ない。

外に学びに出る時も同様。
批判的に見るのは、それを深く知った後でいい。
まずは、そういうものだと受け容れること。
その上で、自分の考えを入れていく。

素直に受容する姿勢を身に付ける。
批判的な大人からは批判的な子どもが育つ。
子どもに教えたいことは、先に自分が身に付ける必要がある。

2015年11月23日月曜日

言うべきを言えるか

言うべきを言う。
大切なことである。
しかし「言うと面倒だから」ということで、言わないことは多い。
つまりは、言う相手による。

先日は、それなりに混んでいる電車の中で、早朝から大酔っ払いの4人組のおじいさんたちが乗り込んできた。
私は、離れた位置だが同車両内にいた。
まったくかみ合わない会話を大声でわめき散らし、朝の静寂な空気を完全にぶち壊した。
しまいには、歌を歌い出した。
近くにいる人からすると、かなりの脅威である。
(席が遠く離れている私からすれば、お笑いでよくある「酔っ払いコント」をきいているようでもあった。)
明らかに迷惑行為である。
しかし、誰も注意しない。
言っても聞かなそうであり、かなりの高確率で絡まれそうである。
いや、聞かなそうというより、話しかけた時点で確実に噛みついてくる勢いである。
何と言っても、酔っ払った人間に道徳を説くほど無駄なことはない。
強制力のある警察ですら苦戦するのである。
当たり前のように、放置である。

おじいさんズの演説は、その後5駅分続く。
よくまあしゃべるものである。
やがて降りていき、車内に平和が戻った。
周囲はじっと耐えていただけであり、理不尽ながら、悪の勝利である。

こういうことは、生きていると結構ある。
学校でもある。
たとえばお祭りや運動会、陸上大会などで、言ってもきかない大人を説得するのは容易ではない。
マナー違反もどんとこいという人もいる。
注意すると、十倍の文句で返してくる。
そんな人を注意するよう任じられているPTA役員さんは、大変である。
教頭は地域の方々に頭を下げて回るはめになる。
大変である。

ちなみに、電車内の人はまだしも、学校に来る人の方は名前まで覚えられている。
「注意してもきかない〇〇さん」「駐車違反をしていた〇〇さん」になる。
悪い噂はすぐに回る。
地域の保護者として運動会に参加する際にも気を付けたいことである。

要は、言ってもらえない人になるということである。
悪いことをしても注意されない人。
その大人だけでなく、これがその子どもにも伝染する。
ここは防げない。

だから学校では、子どもに「素直」であることの良さをきちんと教える。
悪い点を教えてもらえることは、良くなるチャンスを与えられていること。
いちいち口ごたえしたり屁理屈をつけると、「面倒な人」や「どうでもいい人」になって注意されなくなること。
その怖さも伝えておく。

子どものより良い成長のためには、「ダメなこと」もきちんと伝える気概が必要である。

2015年11月22日日曜日

嫌われる勇気

次のベストセラーがある。
『嫌われる勇気』岸見 一郎/古賀 史健:著 ダイヤモンド社
http://www.diamond.co.jp/book/9784478025819.html

アドラー心理学の本である。
私は、1年半ほど前、発行された当初に書店手で手にとって気に入ってすぐ買った。
対話形式ですらすら読める。
今調べたら、未だに密林書店の現在心理学入門部門の1位だそうである。
読んだことがないなら、確実におすすめの一冊である。

ところで、これまで、受け持った学級の子どもによく言っていた言葉がある。
「自分は嫌われても構わない。ダメなことはダメと言う。いいものはいいと言う。そのつもりでいて欲しい。」

「嫌われる勇気」の一つであるように思う。
自分の信念から曲がった行為は嫌である。
仕事を志事にするためには必須であると初任の頃からずっと思っている。

併せて、次のことも伝えていた。
「どうでもいい相手には何も言わない。自分が担任したからには、自分の子どものつもりで言う。」

それぐらいの気概は必要ではないかと思う。
すべて相手の要求をのんでいれば、波風は立たない。
その方がいいという人も多いかもしれない。

迎合しない。
そうすると、色々と叩かれやすくなる。
あまりいい気分ではない。(どころではないこともある。)
しかし、嫌われないように無理して生きるよりいいのではないかと思っている。
この辺りは、「価値観」であるので、人におすすめはしない。

合う人にはかなり合う本ではないかと思い、紹介してみた。

2015年11月19日木曜日

腹が立つのは自分のせい

結果が完全に予想できたら動けないという話を書いた。

しかし、ある程度の予想は必要である。
危険回避を無視した行動は危ない。

予想できた失敗は、防げた可能性がある。
対策をとった上での失敗は、プラスの失敗。
積み上げであり、次に生きる。
一方で、予想して防げたはずの失敗は、マイナスの失敗。
掘り下げで、次も同じかもっとひどい失敗になる。

失敗を予測できたのに、多分大丈夫だろうと鷹をくくったらダメだった。
これは一番後悔する。

苦しいので、原因を色々探す。
あの人が悪いという結論を出す。
そうしないと、自分の責任になるからである。

そうすると、次は相手に腹が立つ。
何でちゃんとやらなかったの!とか言うとこになる。

心の深い部分では知っている。
自分が対策を怠ったためである。
大抵の叱責は、掘り下げると自分が原因である。

他人の悪口をよく言う人は、自信のない人だという話にも繋がる。
周りを下げて自分を上げるという点で先の叱責と同質の行為である。

怒ったり叱ったりすると嫌になるのは、言えば言うほど自分のことだからのことが多い。

怒っても叱ってもいいが、最後は自分の責任だと自省したい。

2015年11月16日月曜日

やる気を出す以前の自分ルールの設定

前号のやる気スイッチオンの話の続き。

とにかくやることが大切ということを書いた。
何でも、結果をあまり予想しすぎると動けないものである。
「こんな風に思われたらどうしよう」とか想像力を膨らませるほど、動けなくなる。

実際動ける人は、結果はわからないと思っていたり、そうならないと思いこんでいたりするからである。
特に小さい子どもは、失敗することまでは考えていないからいつでも「GO!」である。
子どもが未知のものへもどんどんチャレンジできるのは、この辺りの特性による。

何でも、失敗することが前提である。
もっというと、結果を突き詰めて予想すれば、失敗する可能性の方がはるかに高い。
考えすぎると、動けなくなる訳である。
結果を冷静かつ的確に分析できる「大人」な判断ができる人は、それが故に逆に挑戦しなくなることがある。

だからやる気を起こすには、「淡々とやる」に限る。
ルールを決めてしまう。
例えば「頼まれたら断らない」や「返事は0.2秒」といったことは、決断のためのルールである。

やってもやらなくても結果が得られないなら、やった方がいいというのが持論である。
すべてにおいて「不戦敗」が最低最悪である。何も得られない。
「大敗北」は痛い分、得られるものも多い。

私なら「二日に一回メルマガ発行」が「淡々とやる」の具現の一つである。
「こんなこと書いてこんなこと思われたらどうしよう」と想像力豊かにしたら、何も書けない。
書くと決めて書く。
ルールを決めて、淡々と続ける。
結果はあまり気にしない。
反応・反響はあったら嬉しいが、なくても気にしない。
やる気スイッチを入れるコツの一つではないかと思う。

2015年11月11日水曜日

科学によるやる気スイッチオンの方法

前号の続きで、脳のやる気スイッチを入れる方法。

脳内のやる気物質は、有名なアドレナリンを始め色々あるが、まとめて「アミン系神経伝達物質」という。
やる気スイッチオフという状態は、この物質が脳から出ていない状態を指す。

で、気になるのが、どうすれば出るのかという点。
極めてシンプルである。

答えは、とにかくやること。

行動を起こすと、アミン系神経伝達物質は勝手に分泌されるらしい。
やる気がなくても、とりあえずやればスイッチオンになるという仕組みである。
つまり、動き出すきっかけ作りや、仕掛けの仕込みが肝心といえる。

例えば私なら早起きするために、起きた時のコーヒーを楽しみの仕掛けにしている。
コーヒーを飲みたいからとりあえず起きようという仕掛けである。
単純だが、かなり効果がある。

逆にいうと、脳は必要もないのにいつまでもダラダラと寝させてしまう構造をしている。
やらないとやる気が出ないからである。
十分睡眠時間は足りていてもダラダラしてしまう原因がここにある。
(寝ていて最高に幸せなら、寝ていればいいと思う。本人に罪悪感がある場合は、嫌でも起きた方が良いと思う。)

つまり、今後「私のやる気スイッチをオンにする方法は何ですか。」または「クラスの子どものやる気スイッチオンにする方法は?」
と聞かれたら、「やることですね。」と答える。
「何だその答えは!?」と思うが、結構重要である。

子どもの自主性を重んじるあまり、すべて子どもに選ばせようとする。
すると、やったことのないものや自信のないもの、不得意なものには興味を示さないか、抵抗を示して選ばない。
理由は、前号の話で紹介したように、人間は基本的に新しいものへの興味よりも失敗への抵抗の方が強いからである。

だから、時に教師が子どもに「やろう」というきっかけを作ることは大切である。
そこにやる気を出すかどうかは、その後の話になる。
「アクティブ・ラーニング」の自主性を履き違えて、何でも子ども任せにしては、せっかくのチャンスを逃す。
「指導」の言葉が示すように、ある方向を指し示して導くためのきっかけづくりは、教師の重要な仕事である。

2015年11月9日月曜日

脳のブレーキとアクセル

やる気スイッチに関わる話。
次の本を読んだ。

『海馬 脳は疲れない』池谷 裕二 糸井 重里 著 朝日出版社 他
↓こちらの「ほぼ日刊イトイ新聞」のH.P.で、本に編集前の原文が結構詳しく読める。
https://www.1101.com/brain/2005-07-06.html

脳科学者の池谷氏が、脳科学の観点からやる気について詳しく述べている。
ごく簡単に言うと、脳には次の相反する性質がある。
1 脳は新しいものに反応してやる気を出す
2 脳は新しいものに反応して警告を出す

つまり、新しいものを取り入れて変化して生き残ろうという本能と、
危険を避けるために新しいものを拒絶しようとする本能が共存しているということである。
どちらも生き残るために必要な本能である。

糸井氏はこの危険回避の本能を脳の中の「ストッパー」や「ブレーキ」と表現している。
ストッパーを外すと、すごい力が発揮される。
しかし、これは例えば肉体が耐えきれないほどの力を出して自己破壊をしてしまう危険も出る。
蛇やキノコなどの毒のあるものにも、興味を持って平気で手を出してしまうこともある。
だから、ストッパーは安全面で絶対必要なのだが、挑戦したり力を発揮したりするには邪魔でもある。
ブレーキなしの車でアクセル全開では、速いが危険すぎる。
だから、両方の本能が備わっているらしい。
何ともよくできているものである。

さて、大自然の中で暮らすためには、ブレーキ側の本能がより大切である。
ジャングルも草原も海も、危険がいっぱいである。
同じ場所に留まって環境変化で絶滅するリスクもあるが、やたらに動いた方がより危険である。
だから、ある程度のテリトリーを持って、その場に留まる。
このように、生物は本来、挑戦本能よりも保守本能の方が強い。
命最優先が故である。

この本能の原則は、教室にも持ち込まれる。
変化や刺激がないこと以上に、危険なことはより避けたい訳である。
例えば何か発言したりやったりした時に、すぐ否定されたりバカにされたりしているようでは、当然ブレーキの方が強くなる。
もし失敗しても大丈夫な環境であれば、刺激を求めてアクセルの方が強くなる。

安全・安心が全てのベース。
挑戦のやる気スイッチも、アクティブに動けるかどうかも、安全・安心面が確保されていることが本能的な前提である。
______________________________

2015年11月6日金曜日

相手に応じて変える

最近、以前よりも指導が「ゆるやか」な感じがしている。
自分の中では、いい傾向だと思っている。

あまりびしっとしていないという分、自由度を上げるようにしている。
理想型は「自由な雰囲気を持ち、やる時はやる」という集団である。

これも、子どもたちのレベルに応じてである。
つまり、相手による。
もっと自分たちでやれそうなら、もっと自由度を上げる。
自分たちでやるのは難しそうなら、自由度は下げて教師側の指導性を強く出す。
全て、相手に応じてである。

子どもたちには「信用と自由」の天秤図で伝えている。
(出典:『子どもたちが身を乗り出して聞く道徳の話』平光雄 著 致知出版社
http://online.chichi.co.jp/category/BOOK/1052.html
信用が大きくなるほど、自由が大きくなる。
また、自由が大きくなるほど、責任も大きくなるということも伝える。
これは、社会における融資の仕組みと似ていると思う。
そうすると、子どもたちは自由が欲しい分、やるべきことをきちんとやるようになる。
結果、ますます自分たちがやれることが増えて、さらに自由になるという好循環である。

アクティブ・ラーニングの実践は、能動態である以上「自由度」が結構重要になってくる。
教室には、やるべきはやり、かつ自由な空気というのを醸成していきたい。
______________________________

2015年11月4日水曜日

アクティブ・ラーニングは、状態 国語科の例

前号の続き。

アクティブ・ラーニングが実現されている実践は、教室でなされているのか。
これは、もうずっと前から各地で実践されている。
ただ「アクティブ・ラーニング」という言い方がなされていなかっただけである。
ラベリングの差である。

少し前に「言語活動の充実」が提唱されてからは、特に増えたはずである。
例えばこれが一番実現されやすい国語科の学習では、「単元を貫く言語活動」ということで、全国で様々な実践が広がった。
物語文を読んで内容理解をして終わりにしない。
パンフレット・リーフレット作り、帯作り・推薦文作り、劇化、インタビュー活動、手紙、絵日記、ディベート、再話、続きの話や類似した話の創作、同じ作者の物語の比較、問題作り、評論文・・・
これらの言語活動を単元全体に設定することで、能動的かつ協同的に子どもが動くように仕掛ける実践が山ほどなされた。
この中で今求められている「アクティブ・ラーニング」の実践が実現されていた教室もたくさんあったはずである。

ただ、表面的に方法を真似をしたからと言って、必ずしもうまくいかないのが現実である。
物語を読んでから台本作りと劇化を設定したが、思ったように子どもが動かない。
尻すぼみになって終わってしまう。
よくある話である。
なぜなら、その実践に対しての教師の理解度が違い、かつ子どもの実態に合っていないからである。

だから、アクティブ・ラーニングの方法は、具体的に示されていない。
「学習問題を書いてみんなで比較検討して正解が出たから、問題解決学習ができた」とはいえないとの同じである。
やり方だけが先行して、内実が伴わないという事態を防ぎたい意向があるのかもしれない。

文科省が全国の教室に求めているのは、各自が工夫をすること。
従来通りではなく、一工夫して欲しいということ。
少し前に紹介した「プレミアム授業」を標準仕様にして欲しいということであると解釈している。

繰り返すが「これをしたからアクティブ・ラーニングの授業」ということはない。
アクティブ・ラーニングは、そうなった「状態」である。
同じ時間の同じ教室の中にも、そうなっている子どもとなっていない子どもがいる。
すごく興味を持って意欲的に活動している子どもとそうでない子どもがいる、というのが普通である。
だから、なるべく全員がそうなるようにやり方を改革してくださいということである。

曖昧なことを求められている感じもするが、これは文科省からの「頼まれ事」である。
そして「頼まれ事は、試され事」。(この言葉は中村文昭氏の講演CD『しゃべくり』より引用。)
各自の工夫の余地がたくさんあると解釈して、前向きに取り組みたい。

2015年11月2日月曜日

『みんな』やる気があれば、アクティブ・ラーニングの授業か

アクティブ・ラーニングの具体を考える。

仮に、子どもが能動態でかつ協同的に学んでいることを必要条件とする。
世の解釈が揺れているため、十分条件はここでは定義しない。

では、例えば、算数の授業で考える。
学習問題を子どもが見出して、解決の方法を自力で考え、さらに意見を比較検討してみる。
みんなであれこれ考えて、様々な方法で正解に辿り着けた授業があったとする。
授業も「活気に満ちて」いて、「協同的な関わり」も随所に見られた。

これなら、アクティブ・ラーニングの授業といえるか。

これは、正直、これだけの情報では、わからない。
なぜなら、全体の「内訳」を見て、さらに子ども一人一人に対して見てみないとわからないからである。

能動態でやる気を出していたのは40人中30人だとする。
これぐらいの状態だと『「みんな」やる気がある授業でした』という印象を持ちやすい。
実際、必要条件を満たしているのは30人で、残り10人は満たしていない。
更に発表をしたのは、10人であるとする。(ちなみにこの10人は全員が能動態の30人とも限らない。)
残り30人の動きが気になる。
また、その10人の考えがそれぞれどこから来たのかも気になる。
4人の班であっても、完全に1人で考え出したものかもしれない。
または、事前知識があって発表しただけかもしれない。

もっと言うと、この例だと教師の動きが不明である。
授業である以上、子どもを高みに導く働きかけが欲しい。
「教師がいなくても大丈夫な状態」を子どもには求めつつ、実際には指導する。
アクティブ・ラーニングの「授業」に対して考えているのであるなら、教師の動きは必ず問題になる。
現在、有効な働きかけや関わり方を探っている段階である。

以上、くどくど述べたが、自分の結論としては、次のような解釈である。
『「これをしたからアクティブ・ラーニングの授業ですよ」ということは、ない。』

要は、アクティブ・ラーニングとは、方法論ではなく、状態を指すと考える。
〇〇をすればアクティブ・ラーニングで、××だとアクティブ・ラーニングではない、という単純な性質のものではないと考える。

今、様々な場での取り組み、提案がなされているので、これからの動きに注目していきたい。
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