2018年4月30日月曜日

「わかりやすい」「懇切丁寧」への疑問

最近ふと気付いたこと。
子どもの将来を考えた指導や手助け、授業の在り方について。

例えば、家で丁寧に勉強を見てあげるとする。
子どもがテキストを読んでわからないところを解説する。
子どもは「わかった!」と言って、嬉々として「正解」を書き込む。
それ自体はいい。
しかし、それから先、ずっとそれができるか、ということである。

中学生になっても、教えてあげられるか。
高校生になっても、教えてあげられるか。
大学生になったら
社会人なったら。

多くのお母さん方から出るのが
「最近、算数が難しくて教えられなくなって」
という声である。
5年生ぐらいから特に多い。
複雑になってくるし、まして入試を考えている場合、妙にひねった問題が多く、当然である。

どこかで、手放さないといけない。
どうせいつか手放すならば、可能な限り、早い時期の方がよい。
(だからといって、教えられなくなったからすぐ「塾」という他人の手に委ねる発想もまた違う。
塾は、もっともっと勉強したい子どものレベルアップのために活用する機関である。
決して保育所ではない。)

学校における教育全般でもこれはいえる。
わかりやすい授業自体はいい。
懇切丁寧に教えてあげるのもいい。
友だちがわかりやすく教えてくれることもいい。

しかしである。
この先もずっとわかりやすい授業や、親切に教えてくれる人が待っているとは限らない。
大切なのは、「本人の自力がついたかどうか」という点である。

「わからないから、やらない」で逃げるようでは、一番困る。
「わからないからこそ、わかるようになるまでやる。」のである。
それが現実社会での生き方、働き方である。

現実に待っている各種テストでは、原則「独力」である。
テスト中に親切に教えてくれる友だちはいない。
辛くても面倒でも自力で戦い抜ける能力を、何が何でもつけさせねばならない。

叱られない世界が将来待っているなら、叱る必要はない。
ほめられまくる世界が将来待っているなら、ほめまくってあげればいい。
練習がそのまま生きる。
ただし、その先に練習と逆の現実が待っているなら、悲劇である。
(大学入試で計測される能力と、一般社会に必要な能力の違いこそが、それである。
だから、大学入試改革が必要なのである。)

その先に、どんな世界があるのか。
それを見据えた上で、現状目の前の子どもに何をしてあげるべきか、考えるようにしたい。

2018年4月28日土曜日

比較は常に二者択一

ものの見方、考え方、観の話。

師の野口芳宏先生からの学びである。
何気ない会話の中で、自分には目から鱗だったのでシェアする。

曰く
「比較は常に二者択一」
という。

たくさん選択肢があるようでも、頭の中では常に二択。
ABCと一見三択のようであっても、一度の思考は二択。
この繰り返し。

Aを検討する時はまずBと比較する。
A対Bである。

次にCと比較する。
A対Cである。

この時点で、Aがどちらにも勝っていたら、Aに決定ということで終了。
Aがどちらかに負けていたら、Aに勝った方を選んで終了。
Aが両者に負けたら初めてB対Cの検討である。

ABCというたった3つの場合でこれである。
ABCDの四択になったら、複雑度は飛躍的に跳ね上がる。

だから、授業でも○か×かと問うのが最も思考を集中させられる。
三択以上は、思考が拡散しすぎるのである。
だから、訳がわからないぐちゃぐちゃ授業になる。
早い段階で絞るべきである。

たかがこれだけのことなのだが、私には結構な衝撃だった。
「だからどうした」と思う人もいるかもしれない。
しかし、私には
「どうしようかよく考える」
「比較検討する」
ということの実態が掴めていなかった。
突き詰めるとこの二者択一の繰り返しなのだとわかった喜びは、言い表しようがない。

真理は、常にシンプル。
○か×か。
やるかやらぬか。
この繰り返しである。

2018年4月26日木曜日

教育における「おそれ」の必要性

前号で、教育の世界はポジティブ用語を好むという話を書いた。
ポジティブは必ずネガティブと裏表セットである。

教育において、恐怖という言葉は、忌み嫌われやすい。
しかし、安全・安心とルールを担保するために、恐怖は必要になる。
恐怖という言葉にどうしても抵抗があるなら、「こわさ」と表現してもいい。

先日の教員セミナーでは、某国民的マンガの横暴な少年を例に出した。
「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」
という名言をもつあのキャラクターである。

あの乱暴者が完全服従する人物がいる。
先生ではない。
「かあちゃん」である。
理由は「こわい」からである。

しかし、彼は「かあちゃん」を嫌いかというと、決してそんなことはない。
本当に寂しくなると「かあちゃ~ん」と泣く。

大好きで、こわい。
これは、両立する感情なのである。
親子間だけでなく、教師と子どもの関係、職場の人間関係にもいえる。

凛とした人がいる。
この人には、「こわさ」がある。
決して暴力的とか攻撃的とかではない。
穏やかなのに、内に秘めた迫力もある。
「畏怖」に近い。
「この人には逆らえない」
「この人を怒らせてはいけない」
といった感覚である。
学年団の教師の中の誰か一人には、この雰囲気が欲しい。

もちろん、柔らかさで惹き付ける人もいる。
そこに魅力を感じて、人がついてきてくれているとする。
しかし、好きになるほど、その人に嫌われたくないと思うものである。
つまり、そこも「こわさ」につながる。

本当に偉い人、魅力的な人に近付くのは、嬉しい反面、どこかこわい。
尊敬しているからこそのこわさである。
魅力的な人を「敬遠」したくなるのは、そのためである。

大抵、親はこわい。
大好きだけど、こわいのである。
特に父親や祖父などは、「父性」の言葉の通り、こわさの一面がその役割である。

こわい教師になれとは言わない。
しかし、こわさを感じさせない教師には、横暴を止める力はない。
「力無き正義は無力」ということを肝に命じる。
気は優しくて力持ち。
そこに、「悪」を行っている人間は「恐怖」を感じて、横暴を止めざるを得なくなる。
優しさだけでは、世界は救えないのである。

「こわさ」に救われるのは、力無き者たちである。
正しい心をもちながらも、搾取される民衆である。
ここを救うのが、「こわい」リーダーなのである。
誰にとってこわいかというと、暴力で支配しようとするものにとって一番こわいのである。

愛があるなら、怖さがある。
楽しい、優しいだけの教師生活は、天国以外の環境ではあり得ないと心得たい。

2018年4月24日火曜日

叱る・怒るを考える

教育においては、「人気者」と「嫌われ者」の用語がある。
それぞれ、ポジティブな用語とネガティブな用語である。

当たり前だが、本来言葉自体に善悪、良否はない。
ポジティブ用語の方が、「何か、いい感じ」なのである。
感情的、感覚的な問題である。

しかしである。
教育用語はどの時代も基本がポジティブ寄りの傾向である。
「褒めて伸ばす」「生きる力」「アクティブ・ラーニング」「楽しい授業」「主体的・対話的で深い学び」
・・・

注意すべくは、ポジティブとネガティブは裏表でセットということである。
片方だけで成立しない。
片方だけをもてはやして肯定しても、ダメなのである。

一時期散々もてはやされた「ゆとり」という言葉は、教育界のスターの座から突如最低の地位まで貶められた。
教育界の「サタン」「ルシファー」である。
まあ、もてはやされるなんてことの末路は、大抵そんなものである。
何でも図に乗っていると、加速度をつけて地面に叩きつけられるだけである。

ただし、本物は、もてはやされようが蔑まれようが、泰然自若としているものである。
実は「ゆとり」という言葉だって、その価値がなくなった訳では決してないのだが、周りが勝手に評価しているだけである。
「ゆとり」も、虎視眈々かつ粛々と、その出番を待っている状態である。

そんな中、「叱る」という言葉が、その背後にネガティブ感を漂わせながらも、相当に見直されつつある。
「叱らないと話にならない」というのを学校現場が実感しているからである。
理論で通用しない生身の人間を相手にしている実感である。

むしろ、本気で教育に当たっている人の多くは、「叱る」を片時も手放さずに、その価値を認めて堂々と続けている。
「褒める」が最大に作用するのは、裏で「叱る」が最大に作用している状態である。
普段厳しいコーチに、たまに褒められるからこそ、最高にやる気になるという面が確実にある。

「怒る」も同じで、何か悪者扱いされやすいが、それも違う。
いじめを「楽しんで」いる子どもに対し、怒りを示すことに意義がある。
方法も、別に怒鳴るのではなく、「怒っている」ということが言葉や表情でしっかりと伝わればいい。

馬鹿にしている相手から、本気の怒りをぶつけられることで、初めて真剣に考えることだってある。
「怒り」の裏には「哀しみ」が隠れていて、その感情の両方が大切なのである。
親や教師が本気で「怒り」「哀しむ」姿を見ることが、子どもの心に大きな価値を生む場面がある。

喜怒哀楽に上下はないのに、何か勘違いしてしまう傾向がある。

アドラー心理学においては、「怒り」は目的から発するというスタンスである。
そう、目的達成の手段として自覚し、有効活用すればよい。
否定する必要はない。
怒りは、自然と発する感情であり、否定するものでも操作するものでもない。
怒りは、途方もなく高い目標を成し遂げるエネルギーにもなる。
例えば多くの優れた文学作品を貫くものは、自己、あるいは世に対する「怒り」のメッセージである。

では、「恐怖」はどうか。
この世から恐怖がなくなればいいと誰もが思う。
では、教育から恐怖が完全になくなるとはどういう状態か。

長くなったので、次号、引き続き考えていく。

2018年4月22日日曜日

他人にちょっかいを出す子をどうするか

担任が学級のルールを守らせることについて。

私の尊敬するある先生から、メルマガを読んでのご意見をいただいた。
ご本人の許可をいただき、以下引用して掲載する。

===================
(引用開始)
「完全無視」

これは,言うほど簡単では無いですね。
ワタシもこの年になってさえ,まだまだ,
完全無視は困難であると感じています。

誰かにちょっかいを出す子をなかなか
「構わないでおきなさい」とは言いにくいからです。

先生ならどうしますか?

わたしは,やはり「叱ります」
一喝です。
「相手の気持ちを考えてそうしてるのか?
 自分さえ良ければ良い!では社会は滅びます。
 戦争も起きます。
 相手が困っているのが分かりませんか?」

最後には謝罪させ,反省文を書かせます。

とまあ,4月当初のファーストコンタクトがモノを言いますね。
(引用終了)
===================

なるほど、その通りで全く同感である。
特に、他の子どもにちょっかいを出している以上、放置できないというのはその通り。
一喝するのも手である。

具体を示していただいたので、その辺りについて、私のやり方も紹介する。

叱ることについては、学級開き初日に基準を示す。
学級の根幹となる絶対のルールを一つだけ示す。
「自分がされて嫌なことを他人にしない」
これだけである。

裏返せば、
「自分がされて嬉しいことを人にもしよう」
ということにもなる。

根底にあるのは、自分を大切にして、人を大切にするという、シンプルな考えである。

だから、次のような行為は、叱責、場合によっては怒りを伴って対処することを伝える。

誰かに迷惑をかける行為。
命に関わる危険な行為。

例えばいじめは、この両方の要件を満たす。
これらに対しては、即時その場で対応し、徹底的にたたかう姿勢を示す。
この気概を、初日に伝えることが肝である。

加えて、軽微なルール違反等であっても、三度目はアウトということも伝える。
「仏の顔も三度」という言葉も教える。
(誤解されていることが多いが、仏様でも三度目はもうアウトである。)

一度目の注意に対し二度目も行い、直そうとしないで三度目をした際は叱るし怒ることを伝える。
ルール違反そのものというより、教えてくれる相手に対し「聞く耳をもたない」その生き方の姿勢に対して叱るのである。

もう少し詳しくステップを示すと
1回目=教えてあげる(知らないこと・意識していないことによる失敗という前提。)
2回目=注意・警告(二回目は別物。)
3回目=叱る・怒る(アウト。改善の意思が見られない、または確信的とみなす。)
という流れである。

三度目でアウトになって一通り指導したら、野球と同じで一旦「チェンジ」である。
こちらもとりあえず忘れてあげる。
しつこすぎないのも大切である。
(そして、次も見逃さない。)

ちなみに、引用文の最後に「反省文を書かせる」とある。
かなり昔からある手段だが、批判もある。
「反省文を書かせても反省しない」というものである。

確かにそういう子どももいるかもしれない。
では、この方法に効果がないのかというと、決してそんなことはない。
私も使ったことが何度もあるし、自分を客観視させるのに有効な手段の一つである。
反省しないとしたら、その手法が相手に合っていないか、あるいは書かせる側のもっていき方に問題がある可能性が高い。

怖いのは、「〇〇の方法が正しい。××法は間違っている。」
という一面的で盲信的な信念の形成である。
特に、権威者が書いた文章には影響されやすいので要注意である。
権威者が間違えない保証など一つもない。

実際に目の前の子どもに使ってみて判断することである。
それも、Aさんには効き目抜群で、Bさんには悪影響ということだってある。
だから、安易に白黒つけてしまわず、あらゆる手法を認めて、自分の引き出しにしまっておくことである。
そうすれば、あらゆる場面に様々な方法で対応できる自分になれる。

包丁が料理に万能だからといって、何でもそれで切るのが正しい訳でもない。
にんじんの皮を剥くのには、ピーラーを使ってもいいのである。
幼い子どもに初めてやらせるのなら、そっちの方がいいかもしれない。
いや、料理人の子どもとして厳しく育てるのなら、本格的な包丁を使わせる手もある。
時と場合によりけりである。

話が二つになってしまった。
叱ること。
どういう手法をとるか。
そして、やはり最初が肝心ということである。

叱ること一つにも、哲学と信念をもって行いたい。

2018年4月20日金曜日

懇談会前に 保護者へのリスペクトの気持ちをもつ

前号の続き。
保護者と担任が、互いにリスペクトの気持ちをもつということについて。

ここに関しては、担任の側から先にはたらきかけることが大切である。
上っ面ではいけない。
心から思うことが大切。
それには、やはり知識が前提になる。
「自分が知らないことを相手は知っている」という、自分の無知に対する知識である。

担任が知らなくて、保護者が知っていること。
その最たるものは、子どもそのもののことである。

担任は、「学級」という集団単位での知識に関しては長けている。
しかし、「〇〇さん」という個人に関していえば、到底保護者に及ぶはずがない。
接している時間が桁違いである。
また、これから接していく時間も、桁違いである。

担任は一年、ないし長くて二、三年のほんの一時期しか一緒にいられないが、保護者は一生の付き合いである。
覚悟が違う。
だから、教育の方針は、保護者優先である。
こちらの教育方針を示しつつも、個人に関しては、可能な限り家庭の側に寄せる。
(ここに関しては、拙著『切り返しの技術』にも詳しく書いた。)

わかりやすい例を挙げれば、宗教。
「豚肉を食べない」という宗教をもつ家庭の子どもに対し、豚肉の入った給食を食べさせる学校はない。
そこに合わせるのが当然である。
一方で、「だから豚肉は全校の給食に一切出さない」というのも違う。
あくまで、個人への個別対応である。
それが全体の方針を示しつつ、個人に寄せるということである。

各家庭の教育方針を尊重するということである。
ここまでその子どもを育ててきたという事実に尊敬の念を抱くことである。
実際、自分で一人の子どもを育てるとなると、相当な困難が予想される。
そこに関してリスペクトの気持ちをもつということである。

大体、私は家に関する大部分をパートナーに任せて仕事に思い切り打ち込ませていただいている以上、家庭の子育てに関してあまりどうこういえない。
休日にいい顔して、子どもが寄ってきて、「いいとこどり」していると思われても、仕方がないと思っている。
母親としての生みの苦しみも一生知れないし、母親なりの本当の苦労、心労も、喜びもわからないと思う。

どの家庭にも、その家庭なりのストーリーがある。
苦労も喜びも、千差万別である。
つまり、それぞれの保護者は、確実に「私の知らない世界を知っている」のである。

子育てに関しての知識自体なら、インターネット上に溢れている。
だから、「こうすればこうなりますよ」と言うこと自体はできる。
しかし、所詮、一般論である。
10人中1人当てはまれば、当たっている方ではないかと思う。
(以前、「幼児にも割れる食器を使いましょう」という記事でも書いた。
「食事の度に毎度割られてたまるか」というのが我が家の本音である。)

今の時代は、玉石混淆、様々な情報が無料で手に入る。
親の側が学校教育に関する「知識」を得られる機会が無限にある。
教師の側にも、家庭教育に関する「知識」を得られる機会が無限にある。

そして巷に溢れる情報は
「こういう風に育てればこうなる。」
「こういう子どもになるのはこういう育て方だから」
というものが大半である。

それが成立しないことは、当事者にしかわからない。
「我が子が言うことをきかないのはしつけが悪いから」
「落ち着きがなく乱暴なのはしつけのせい」
ということになる。

そんなはずがない。
同じように育てていても、「種(たね)」が違うのだから、同じものが咲くはずがない。
向日葵の種を薔薇だと思って育ててもうまくいくはずがない。
同じ花からとれた二種類の種でも、同じように育つはずがない。
みんな、そここそが「個性的」なのである。

「個性を生かす」というが、「個性は生きる」というのが持論である。
同じような条件下で育てていても、違いが出てくるのが個性。
むしろどんなに潰そうとしても、潰れないのが個性。
ルールは一律・一定にしている上で、なお違う結果が出てくるというのが個性という実感である。

そんな「個性的」な子どもを、悲喜こもごも、保護者はここまで育ててきたのである。
宝物を、預けてくださるのである。
そこへの感謝なくして、学級担任の仕事は有り得ない。

学級には、色々と、手がかかり、「大変な」子どもたちがいる。
担任である「私」は、大変な思いをするだろう。
しかしそれは、保護者も大変な思いをしているのである。
つまり、保護者は、担任と苦労を共にする仲間である。

初めての学級懇談会には、まず保護者へのリスペクトの気持ちをもって事に当たりたい。

2018年4月16日月曜日

学級のルールを保証しているのは、担任

前号の続き。
学級が荒れる方法について。

今回は「ルール破り」への対応について。

学級で、ルールを破った子どもがいて、それを見つけた子どもがいたとする。
基本は、見つけた子どもが注意できればいい。
しかし、なかなかそれが難しい子どもは、教師に相談する。

ここの対応はかなり大切である。
「きちんと対応する」
「対応しない」
どちらが正解か。

意地悪なようだが、「どちらも正解かもしれないし、不正解かもしれない」が答えである。

どういうことか。

これが単なる「告げ口」目的である場合、対応しない。
目的に「仲間が叱られるのを楽しむ」面が見られる時である。
自分が正義になって懲らしめようとする時である。
相手を悪に見立てて自分が正義になろうという二項対立が見えた場合、対応しない。
下手に対応した場合、学級の人間関係がぎすぎすして、荒れの原因となる。
この場合は「自分でやってみて」と突き放す。

しかし例えば内容が「いじめ」に関わるものなら、即時対応する。
社会的にも法に抵触する見逃せないルール破りであるいじめに対し、仲間を救いたいという切実な相談である。
これを「自分たちでやって」と突き放す訳にはいかない。

これは、前号で例を挙げた、何かのために列に並んでいる場面を考えればわかる。
係員の指示に従って、みんな整然と並んでいる。
その中で、割り込みをする者がいる。
見つけた人が係員に「割り込んでますよ」と伝える。
その時、係員が「あなたが注意してください」と言ってきたらどうか。

完全な間違いである。
あなたは一体何のためにいるのだと言いたくなる。

なぜなら、ここでルールを司っているのは、係員だからである。
係員が、ルールを守ることを保証しているのである。
違反者には毅然とした対応が期待されているから、みんな真面目に守っているのである。

学級も同じ。
学級のルールを保証して安全を担保しているのは、学級担任である。
紛れもなく、学級担任その人である。
だから、いじめであれば、当然100%自分の責任という覚悟をもって、解決に当たる。
間違っても「知らなかった」とか「見つけた人が解決して」とは言わない。
だからこそ、子どもは担任の言うことを進んで聞こうということになる。

この対応を間違えた時、学級担任への信用・信頼は崩れ、権威は地に落ちる。
学級が荒れ放題に荒れること請け合いである。

学級のルールを保証しているのは、担任しかいない。
学級経営の鉄板ルールである。

2018年4月14日土曜日

学級づくりを学級だけで考えない

先月は、学級開きについて連続で語る機会があった。
学級開きの話をする前には、必ず学級づくりについて話す。
初日に学級の基礎を築くからである。
初日に学級のルールを伝えるからである。

この時必ず語る、「学級を確実に荒らすコツ」がある。
繰り返すが、「荒らすコツ」である。
万人がうまくいく方法は非常に少ないが、万人がコケる方法はかなりの汎用性、再現性がある。

その最たるものが
「真面目な人に損をさせる」
ということである。

裏返して言えば、
「不真面目を優遇し、ルール破りを許容する」
ということである。

「敢えてそんな馬鹿なことはしない」と思うかもしれない。
どっこい荒れている学級では、これが大抵まかり通っているのである。

不真面目を優遇するとは、どういうことか。

例えば、話を遮って妨害してくる子どもを優先的に相手する。
例えば、授業中に真面目にやらない子どもに「一生懸命」「丁寧に」「情熱をもって」優先的に指導をする。
例えば、掃除をさぼっている子どもにも同様な指導をする。

全部ダメ、「ダメ×100」ぐらいダメである。
「注目は報酬」=「叱責も報酬」というキーワードを忘れないことである。
話を妨害する子どもにわざわざ報酬を与えてはいけない。
味をしめて、何度でも繰り返すように行動を強化することになる。

ちなみに、授業を真面目に受ける、掃除を真面目にやるというのは、ルールではない。
有無を言わさぬ「当然のこと」「義務」の類である。
だから、叱責などという高級な贅沢品は与えてあげない。

不適切な行動には、基本的に「意図的な無視」で切り返す。
(正確には、目にも意識にも入っているのだが、表面的に全く相手にしない。
一瞬目線を移して、小さく頷く程度の反応である。)

叱責の時間を、真面目にがんばろうとしている子どもへの称賛にすべて費やす方が、100万倍良い効果がある。
授業をきちんと受けて伸びたいという姿勢の子どもを「優先的」に相手することである。
(不適切な行動を繰り返してしまう子どもには、後でゆっくり話を聞いて、とっくり語ってあげることも大切である。)

そして、これを実現するコツは、事前に全体に周知しておくことである。
「私は、真面目にがんばる人を優先したいから、後で聞いてあげるね。」
ということを、特に「やんちゃ」な子どもには、十分に事前に伝えておくことである。
(この辺りについては、拙著『ピンチがチャンスになる「切り返しの技術」』に詳しい。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

原則としての順番がある。
ここを間違えないことである。

しかし。
実際は、この下手打ちをしまくる。

なぜなのか。

それは、実際の社会が、この対応でまかり通っているからである。
ニュースを見れば、不正をしている者が、最も多くの注目を受けている。
外を歩けば、不正を行っている者が、不当に多くの利益を受けている。
(以前記事にして反響のあった「荒れる成人式報道」の問題提起と同義である。
参考URL http://www.mag2.com/p/news/139065

真面目に長時間整列している人々の間に、「知り合い」を使ってしれっと入っていく人間を見ることは、決して珍しくない。
そして、自分に面倒がふりかかるのを誰もが嫌がり、無関係を決め込み、誰も不正を咎めない。

「無関心」「利己主義」は、会社や学校など、全ての組織の内部が腐る構造の最大要因である。
それが、残念ながらまかり通っているのが、現実なのである。
世の中は、かなり理不尽だという前提に立つことである。

しかし、これをそのまま学級に「自然に」もちこむと、とんでもないことになる。
子どもには、「基本としての善」を与えるべきである。
(私の師の野口芳宏先生は、これを原理・原則・原点としての徳、「原徳」と表現している。
例えば、かつての日本の原徳は「忠」「孝」であったという。)
「悪が勝つことが多い」とか「正義が通らないこともある」ということは、ベースとして教えることではない。

学級づくりについて話すことはできる。
しかし、大人の社会についてつっこまれた時、ぐっと答えに窮するのも事実。

日本の子ども社会の諸問題、いじめや不登校などの教育問題について真剣に考える。
その前に、日本の大人社会の抱える闇についても考える必要がある。

理想の学級づくりは、学級の中だけではできない。
学校、保護者、そして地域ぐるみでこそ、実現する。
そう実感している昨今である。

2018年4月12日木曜日

選べることは幸せか

最近は、何でも選択肢が多い。
あらゆるモノ・コトが、自分でオーダーできる。

職業選択の自由は、今や当然の権利である。
江戸時代の日本では、親の家業を継ぐことに決まっていた。
だから、原則として就職先に悩む人はいない。
伊能忠敬のように、商家から地図づくりの仕事を始めるなど、例外中の例外である。

ところで、江戸時代の日本というのは、他に類を見ないほど、平和だったという説がある。
しかし、国民の暮らしぶりを見れば、今のように便利でも自由でもない。
江戸時代は、何かと選択肢がない。
ただし、比べる対象もない。
だから、選べないことへの不自由感はない。

損失回避という行動経済学の理論がある。
人は、得る喜びより、失う恐怖の方が大きいので、そのように行動するという理論である。

選択肢が多いということは、他を全て失うことを指す。
選択した後まで、「あっちがよかったかも」と迷うのである。

選択肢の多さは、この不幸感にもつながる。
今の時代は、インターネットで世界中が比較対象である。
本来は一生自分に関係ないレベルのことまで比較対象に入ってくる。

自由で選択肢が多いことが、本当に幸福感につながるのか。
逆に、選択肢もなく決まっていた方がいい場合も多いのではないか。
なぜこの疑問を抱いたかというと、教育実践でこの手の失敗をすることが多いからである。

どこからどこまでを自由にするか。
どこをきっちり決めるか。

不用意に「自由」を与えすぎることが、かえって子どもを不自由にしていないか、疑問に思った次第である。

2018年4月11日水曜日

誰かのためは自分のため

東日本大震災から7年と1ヶ月になる。

私も過去何度もお世話になっている『被災地に学ぶ会』は、6月23日(土)にまた福島の南相馬市へ赴くという。
私は既に先約があって今回参加ができないが、今年も何かしらの形で関わっていく予定である。

大きなことというのは、自分一人の力ではどうにもならない。
正直、被災地でボランティアさせていただいても、自分ができることは、たかが知れている。

ただ、「自分ががんばってもどうせ」という精神は、あらゆることへの後退を促す。
あらゆるマナー違反もこの類である。
選挙の投票率がふるわないのもそうである。
そして、最後には「自分なんかどうせ」という、自分自身の存在への諦めにもなる。

ボランティアをして、救われたという話はよく聞く。
動物愛護センターの職員の方なども、動物を救うつもりが、いつの間にか自分が救われていたという話も聞く。
教師の仕事でも、教えてあげているつもりが、教わっている。
子育ても同様である。

要するに、他の人のためにやれることをやると、望むと望まざるとに関わらず、自分の生き方に影響を及ぼすということである。
ボランティアは、やったことのない人にとっては、やる前の敷居が高い。
やるためには、一度、一念発起して飛び込んでみるしかない。
そして、一度やってみれば「次も行こう」と思う人が多い。

このブログ一つが、何かを思い起こし、行動するきっかけになれば幸いである。

2018年4月10日火曜日

道徳教育は清濁併せのむ覚悟で

「考え、議論する道徳」第4弾。

以前にも紹介した次の本から。
『スタンフォードの自分を変える教室』
ケリー・マクゴニガル著 神崎朗子訳 だいわ文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4479305580/

この本の中で「モラル・ライセンシング効果」というものが紹介されている。
ごく簡単に言うと、
「良いことに関わると、悪いことをしてしまう」という心理である。

この例として挙げられているのが、某有名ファーストフードチェーン店のメニューを使った実験。
カロリーたっぷりのメニュー群の中に、「サラダ」という選択肢を入れてみる。
すると、サラダを選択した被験者は、最もカロリーの高い、ヘルシーでない商品も併せて購入する傾向があるという。

どういうことか。
つまり、「一緒にヘルシーなものを食べてるんだから、高カロリーなものを食べても大丈夫!OK!」
と考える訳である。
気が大きくなる訳である。
論理的に考えると、全く整合性のない言い訳、免罪符である。
(サラダをどんなに食べても、カロリー自体は消えない。)

ちなみに「ダイエットコーラ」の類にも同じ傾向があるという。
個人的には、日本なら「脂肪を分解する」と謳われたお茶を飲むと、余計に脂っこいものを食べる傾向があるのと似ていると思う。
アルコール分解を促進するドリンクを飲んで、二日酔いするほど酒を飲んでしまうのも同じである。

要は、「良いことをすれば、その分悪いことをしても大丈夫」という免罪符的心理が、モラル・ライセンシング効果である。

先の例には、もっと衝撃的な結果がある。
「メニューにサラダがある」だけで、件のNO.1高カロリー商品の売り上げが2倍になったという。
つまり「身体にいいものを見ただけ」でもいいものを食べた気分になるということである。

道徳の授業や、道徳教育を考える上で、これは重要である。
つまり、「良いこと」を述べたり聞いたりしただけで、自分が善人になったような錯覚に陥る可能性がある。

例えば、ある子どもが道徳の授業で、素晴らしく「道徳的」な発言をする。
その子が、裏では結構な悪さをしている。
追随して、あんなにキラキラしたいい目をして聞いていた、周りの子どももやっている。
一方で、無関心だったり悪態をついていたりした割に、やることはちゃんとやっている子どももいる。

学級担任をしたことのある人なら、心当たりがあるのではないだろうか。
かなりよくあることである。

道徳的な価値を知っていることと、道徳的な行動をとれることは、イコールではないということである。
大人の卑近な例だと、誰しも食べ過ぎ・飲み過ぎがダメで、早寝早起きが身体にいいことは知っている。
「毎日たった5分のエクササイズで見違えるスタイルに!」という商品の多くは、決して詐欺ではない。

問題は、「実行できるかどうか」だけである。
価値はわかっているし、正しいのもわかっているのである。
ただ、「買ったから満足」してしまったので、全くやらないで、むしろ買う前より運動不足に陥って悩む訳である。

真に道徳的である人は「不言実行」のことの方が多い。
たった一人で地域のごみ拾いを始め、時にうるさがられながらも止めずに、何年、何十年と続けている人など、その好例である。
(ただし、この場合にも、ご本人は「いいことをしている」という気持ちはないかもしれないというのが、重要な点である。)

「考え、議論する道徳」では、多様な「道徳的価値観」を知ることができる。
これ自体はいい。
しかし、それによって「いいことをした気分」になってしまうのは避けられない。

学級担任として(または親として)は、むしろ「悪いことをするのが当然」ぐらいに思って構えることである。
学級でいじめどころか、けんかやいたずら一つ全く起きないという状態は、かなり疑った方がいい。

それは多分、単に学級担任への「情報の風通し」が悪すぎるのである。
子どもも保護者も問題があるのを知っているのに、「言いづらい」ので肝心な担任には伝わってこない。
その状態は黄色信号どころか、赤信号である。
(だから保護者から相談されたら、それはクレームではなく「御の字」で感謝なのである。)

子どもは、悪さも通して学ぶ。
喧嘩をしないと、痛みもわからないし、問題解決の方法も身につかない。
いじめられれば辛い分、心の痛みも知る。
教室におけるいじめの問題の深刻さは、それが起きること自体ではなく、気付かれず放置されることである。

善と悪は表裏一体で、実はどちらも善悪がなく「在る」だけともいえる。
両方を経験して、そこから初めて真理が導きだされていく。

コピー用紙を買う時に「印刷するのは表だけなので、表面だけください」とお願いしたら、
「裏面はサービスです。」と返されたという冗談がある。
表を買いたいなら、裏もついてくるものである。
表裏一体、両方で一つである。

道徳教育においては、促成栽培は不可能である。
それは、「考え、議論する道徳」に方向転換しても同様。
突然子どもが「良くなる」ことはない。
「悪いこと」「避けたいこと」も経験してこそ、教師も子どもも、人間らしく伸びる面がある。

清濁併せのむつもりで、ゆったりとかつ長期的視点を大事に、道徳教育を行っていきたい。

2018年4月9日月曜日

「考え、議論する道徳」に値するか

「考え、議論する道徳」について第三弾。

本気で、実際にどうやるか。

まず、話し合いを中心とした授業のベースとして「共通の土台」が必要である。
例えば「クラス会議」では、クラスの諸問題や、やりたいことについて話し合う。
話題自体が、子ども間の共通の土台に乗っているのである。
そこに関する知識がある程度共有されているのである。

ここで、前号に挙げた「電車で席を譲る」の授業場面を例に考える。

そもそも、電車に乗ったことがほとんどない子どももいるかもしれない。
しかし、ここについては、ある程度の想像はできるかもしれない。

お年寄りや妊婦が立って電車に乗っているというのは、どれほどの負担なのか。
これは、正直わからない。
(私にもわからない。)
完全に、想像の域を出ない部分である。

ところで、「優先席ではお年寄りや身体の不自由な方、妊娠中の方に席をお譲りください」と明示され、アナウンスもされている。
そう考えると、ここについては、もはや「道徳」以前のレベルである。
罰せられないだけで、マナーというよりもルールに近い。
「譲らない」という選択肢が、道徳抜きに、本来はありえない場なのである。

それでも平気で譲らない人は、道徳以前に単なるルール違反である。
こういうのはよくある。
つまり「ルールを守る」という前段階の徳目が前提にないと話が進まないということである。

続いて「優先席でなければ譲らなくても良いのか」という疑問が浮上する。
「優先席でなくても、困っている人には譲るべき」というのが、道徳的な価値判断である。
一方で、「だとしたら優先席の意味がない」という声も出る。
これも一理ある。
「優先席存在意義問題」である。

この辺りを中心に「考え、議論する道徳」でやっていく。
なぜかというと「それをより必要とする人に席を譲る」というのは、前提であり、話し合うべき内容ではないからである。
(こういう下らないことの「議論ごっこ」に時間をかけると、例の「しっちゃかめっちゃか授業もどき」になる。)

しかし「優先席は必要か」ということになれば、個人の価値観の違いが出る。
「ルールとしてやるのか、マナーとしてやるのか」という違いが出るからである。
「優先席があるからこそ、安心する」という意見もあれば、
「どちらにせよ譲るべきなのだから必要ない」という意見も出る。

この議論の中に、価値観の違いが表出するはずである。
それを知ること自体が、押しつけでない価値観の獲得になる。
「自分の価値観とは違う価値観が存在する」という認識である。

実際に授業をする時は、この「焦点化」がポイントになる。
「席を譲るべきか」といった、わかりきったことをきかない。
つまり、社会の中でも正解がはっきりしないことであれば、白熱した本気の議論になりやすいということである。
(「幸せとは」といような哲学的な議題を選ぶと、同じような結果が得られる。)

ただし、である。
まだ世に生まれ出てから数年から十数年しか生きていない子どもに、それを議論させる意味が本当にあるかどうかである。

何が正しくて、何が正しくないのか。
それを明確に背中で示してくれる大人がいるからこそ、思考が成り立つ。
議論するには「まだ早い」というのが本音である。
そういうのは、「志学」の15歳以降でもいいのではないかと思う。

考え、議論する道徳の目指す方向はわかる。
しかし、子どもには「考え、議論する」以前をきちんと教えておくことも大切である。
それには「日常がすべて」であり、道徳の授業以外の場面でこそ教えられることかもしれない。

2018年4月8日日曜日

「考え、議論する道徳」の授業への疑問

前号の続き。
「考え、議論する道徳」を、どう考えるか。
人間とA.I.の比較という、ちょっと変わった観点から切り込んでみる。

道徳の教材でよくある「電車でお年寄り等に席を譲る場面」を例に考える。
(そもそもロボットが電車の座席に敢えて座る必要がないのは百も承知で、座るものとする。)

A.I.に道徳的行動を仕込む場合から考える。
まずは「こういう人が来たら席を譲る」という画像データを大量に入力する。
高齢者想定なら白髪、顔の皺、体型や服装など、あらゆる場合を想定して入力する。
人種の違いにも配慮する。

高齢者だけでなく、妊婦やけが人、身体が不自由な人の場合もある。
妊婦の中には、初期の人や見た目でわかりづらい人もいる。
全てパターン化して入力する。

それでも「例外」が必ず出る。(統計用語において「外れ値」という。)
場合によっては、まだ若いのに「高齢者」と判断されたことに腹を立てて怒る人も出るだろう。

要するに、たったこんな一つのことでも、A.I.にはきちんと教えるのがかなり困難なのである。
A.I.が最も苦手なのは「常識」の判断であるという。
そもそも、世界中の共通項といえる「常識」は、果たして存在するのかもわからない。

それでも「正解」を仕込まれたA.I.なら、面倒だから席を譲らないとか、断られて逆切れするといった明らかに不適切な行為はしない。
入力が「素直」に入るからである。
そこに「主体性」はないからである。
(前号の繰り返しだが、ここには逆に怖さ、脆さもあることは付け加えておく。)

では、それも踏まえて、人間の場合を考える。
こちらは文科省の方針に従い、「考え、議論する道徳」でいってみる。
A.I.の時のように「特定の価値観を押し付ける」ことはしない。
「主体性をもたず言われるままに行動するよう指導」もしない。
その前提で授業する場面を想定する。

「どういう場合に席を譲ればいいか」と発問し、投げかける。
あらゆる「譲るべき人、状況」のパターンが出てくる。
譲ると怒る人がいることも出るかもしれない。
A.I.と違い、これらができる理由は、それぞれ個別の経験があるからである。
つまり、「入力」作業が事前に別の場で行われてきたといえる。

ちなみに、全く出ない場合は教師から出すしかなさそうだが、「特定の価値観を押し付けない」制約があるため、出せない。
その場合は「沈黙」の時間が続くことになる。

中には「僕は譲りたくない。近所のお年寄りが意地悪で嫌いだから。」という子どもが出るかもしれない。
他にも、そもそも座らない方がいいとか、座ってるからこそ譲れるのだとか色々出る。

まあ多分、しっちゃかめっちゃかである。
「特定の価値観を押し付けない」のだから、話し合いの方向性もつけられない。
事前に相当周到な用意がない限り、「議論」というより、「言いたい放題」からの「喧嘩」必至である。
そして本来然るべき終着点は「状況を見て判断し、席を譲ろう」であるのだが、これもダメである。
なぜなら、「席を譲るべき」というのも「特定の価値観」なので、子どもにおすすめすることができない。

よって「どれもそれぞれの価値観でいいね」として認めることになる。

しかしである。
「お年寄り全般が苦手なら譲らなくてよい」
「こっちも毎日塾通いで遅くまでがんばっている場合、疲れてるから譲らないでよい。」
これらの選択肢を、道徳的な一つの価値観とみなしていいか。

ここには明確に否定・反対である。
少なくとも、ここは日本である。
「おもてなし」の国として世界に発信している以上、最低限のホスピタリティは必要である。

それぞれの家庭独自の価値観はありうる。
それは認めるべきだろう。
しかし、現在の世の大人の道徳、価値観が、果たして子どもの将来にとって適切な模範になりうるか、ということである。

ここは、大切なので、繰り返す。
世の大人が、子どもの模範たりうる道徳的行為をとれているか。

子どもが「考え、議論する道徳」をする。
そのベースとなる知識や経験は、周りの大人、とりわけ親から学び取るものを基盤とする。
そこの「入力」が事前にしっかりしているという前提なのである。
子どもにその力が既に内在しているという前提なのである。

現在の日本の状況において、本当に、それで大丈夫なのか。

例えば、中には散歩中の飼い犬のふんの始末をしない家庭の子どももいるということである。
家電の処分にお金がかかるからと、どこかの空き地や山林に投げ捨てる家庭の子どももいるということである。
その子どもが「ごみが落ちてたら拾おう」などとは、いくら考え、議論したところで、思うはずもない。
事前のデータベースが既にダメなのである。

つまり、文科省が言っているからといって、安易にやってみるのは危険だということである。
なぜなら、伝えたい側の真意に対し、受け手のフィルターを通すと、意味が全く変わってしまうからである。
(まさにこれこそ「主体性をもたず言われるままに行動」しないことの発揮ともいえる。
素直には入らないため、「価値観フィルター」によって伝わる内容が大幅に変わる。)

ここについて、しっかりと研究している人もいる。
そういう最前線にいる人が、どういうものを良しとしているのか。
しっかり見極めた上で、実施する必要がある。

今回の授業例だと、どうすればよいのか。
実は、発問自体が間違っている。
どう間違っているかは、読者の皆様に「主体性」をもって判断していただく。
(と、いうことになると、そもそもこのブログの存在価値自体も危うくなる。
 よって、ここについては本当は次号で紹介する。)
「特定の価値観を押し付けない」というのは、そういう状態である。

主体性をもった的確な判断には、膨大な知識がいる。
結構、大変なことである。

「考え、議論する道徳」の理念と方向性はよくわかる。
教科化のねらいもよくわかる。
そもそも、道徳の授業をきちんとやらない教室があることへの問題提起にもなる。

ただ、理念を実現させる側の知識と技能が不十分であることは、無視できない現実である。
今までまともに道徳の授業をやってこなかった教室だって存在するのだから、この要求はかなりハイレベルである。
ここについては、もう少し突っ込んで考えていきたい。

2018年4月2日月曜日

ロボットはどうやって「道徳」を身に付けるのか

今話題の「考え、議論する道徳」については、「これが大切」という論調が世に溢れている。
道徳の教科化にあたり、文科省が明確に打ち出している方針であり、世論として当然である。

よって、ここに敢えて疑問を呈する形で書く。

次の本を読んでの気付き。

『ロボットは東大に入れるか』 新井紀子 著 イースト・プレス
http://eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2125

この本の最後の方で、著者の新井氏が次のように述べている。
==========
(引用開始)
じつは、人間らしい仕事とは、人間が学校に行かなくてもできることなのではないかというふうに考えられる。
学校の勉強のうちの大半は、本当は機械に置き換えることができるんだけれど、
いままでそういう機会がなかったから我慢してやってたんだな、みたいな話。
(引用終了)
==========

「東ロボ君」は、既に8割の大学の合格圏内にいる。
つまり、学校で教えた上でテストしたいことの大半が、機械にできてしまう内容という事実の裏返しでもある。

ただし、ロボットには、「本質的な読解力」がない。
文脈から感情を読み取ることもできない。
ここが致命的なのである。
(だから「東ロボ君」は、国語のテストが一番苦手である。)

この事実から、これからの学校でどんな力を身に付けるべきか、ということを考えるヒントが得られる。

さて、ここから、私見。
学校の教育内容において、ロボットにはどうしてもできなそうなものは何か。
道徳である。
感情も伴う道徳は「人間らしさ」を表す指標になり得る。
そこで、ロボットに、道徳が身に付けられるか、ということを考えてみた。

ご存知、「コルタナ」や「ペッパー君」のように、「会話のようなもの」ができるロボットは既に存在する。
例えば「元気かい?」と話しかければ、それなりの応答をする。

しかしこれは当然だが、感情があるのでは決してない。
会話しているように返してくれることもあるが、ほとんどが的外れな対応である。
なぜかというと、単に気が遠くなるほどの多くの会話パターンが記憶されているだけだからである。
物凄いデータ量の中から、最適と思われる「1対1対応」を選んでいるだけである。
「ビッグデータ」を用いたとしても、文脈を読み取れないA.I.にとって、これはかなり難しいと思われる。

要は、例題と答えに関する膨大な量のデータである。
これをA.I.用語で「教師データ」という。
読んで字の如く、A.I.には「教師」が必要なのである。
そしてその「教師」には、人間以外はなり得ない。
だから、人間が入力する以上、教師データ量には限界があるということである。
(そして新井氏によれば、ここを解決する手段である「シンギュラリティ」は、決して来ないということである。)

そう考えた上で、A.I.に対して道徳を身に付けさせるにはどうするか。
ずばり、文科省が明確に否定している「特定の価値観の注入・押しつけ」をここで行えばよい。
ネット上から集めた膨大な量の「正解」パターンを入力する。
パターンである以上、すべてはありとあらゆる「特定の価値観」の寄せ集めである。

ただしA.I.は、入力に対して道徳的判断もしないし、否定もしない。
だから、「教師データ」自体に悪意があれば、ファシズム讃美のような危険な「道徳」を仕込むこともできる。
(実際、既にそういう事案が発生して問題化している。)

人間の子どもに対し、ここを避けたいが故の、
「特定の価値観を押し付けたり、
主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、
道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」
という文科省のお達しなのである。

ロボットみたいな人間を育てたくないのである。
それは全くその通りである。

では、実際に人間が道徳を身に付けていく過程をどうするか。
「考え、議論する道徳」はどう実現し得るか。

長くなったので次号。
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