2013年6月30日日曜日

調子を考える

絶好調の日がある。
体調が良く、何をやっても疲れない。
授業をしていても楽しい。
残業してでも仕事をやりたい意欲に溢れている。

絶不調の日がある。
体が重く、何をやっても疲れる。
授業をしていても気が乗らない。
一刻も早く帰って寝たい。

子どもの側も同様である。
一人一人に事情が異なる。
どうしても気が乗らない日もある。
調子が悪い日は、何をやってもダメである。
ダメな行動をとるので、余計に叱られる機会も増え、さらに落ちる。
指導者側はそのあたりを見抜かないと、いつもと同じ指導でも、誤った指導となる。
つまり、指導がマイナスに働いてしまうことがある。

寝不足などの疲れから来る、単純な体調不良かもしれない。
親が風邪で倒れたのかもしれない。
大事にしていたペットが亡くなったのかもしれない。
家で大げんかしてきたのかもしれない。
指導者側に余裕がないと難しいが、そういう配慮は必要である。

2013年6月28日金曜日

毎日1mmの成長を

子どもは学校に何をしに来ているか。

色々言いようはあるが、私は「良くなりに来ている」と捉えて教えている。
学校に来て、来る前より悪くなって帰るなら、来ない方がよい。
だから、「毎日1mmの成長を」と子どもに言っている。

そのためには、意識化が大切である。
運動でも勉強でも日々の生活でも、意識がないと成長しない。
いつも通りでは変化が起きない。
意識して、ほんの少し努力する必要がある。

運動で例を挙げると、走り方。
普通に走ってもタイムは上がらない。
子どもは上がった下がったで一喜一憂するが、そこに指導がない場合、速くなった訳ではなく、偶然の産物である。
本当に速くなった状態というのは、毎回高いパフォーマンスが発揮できる状態である。

本当に速くなるには、正しい走り方に改造する必要がある。
人間は変化を嫌う生き物なので、これは、結構苦痛である。
本能で恒常性(ホメオタシス)が働き、今まで通りでいようとするからである。

なので、「不自然」なフォームで走ることになる。
当然、最初はタイムも落ちる。
しかし、この時期を越えないと、向上しない。

勉強でも生活でも同じである。
ぼーっとしてたら、手を挙げられない。
勇気と言う気を持って、ガッと気合いを入れて手を挙げる覚悟がいる。
指導者側は、挙手した子どもを、誉める必要がある。
わずかな成長を自覚させる。

生活のわずかな場面でも、何か意識させる。
ごみを拾うでもいい。
ありがとうを言うでもいい。
お願いしますと言うだけでもいい。
昨日の自分より良いと思われる自分を意識させ、変化させ、認めて自覚させる。

こうした1mmの積み重ねを、何百日と続けていけば、必ず成長する。
昨日より今日、今日より明日と、日々の成長を自覚させたい。

2013年6月26日水曜日

道徳の時間と教師の道徳性

道徳が教科化される方向に動いているようである。
この是非についてはここでは問わない。
今日は、他教科と道徳の時間との特異性と、道徳の授業のあり方について。

ある本に、次のように書いてあった。

算数や国語においては、子どもよりも教師の方が絶対的に学力が上である。
(そうでないと、教えようがない。)
しかし道徳については、
「教師である私は、生徒より確実に正直である」とか、
「生徒より確実に真心がある」
というわけにはいかない。
むしろ、大人になるにつれてずるいことも考えるようになる面がある。
例えば純真さや誠実さにおいて、子どもの方が上ということが多々あり得る。
(以上、『子供と語り合う「道徳の時間」寺門光輝著 モラロジー研究所』より要約)

この記事を書いていて、先日、私の尊敬するある先生が酒席で話していたことを思い出した。
宿題を毎日やることを子どもに課している。
だから、率先垂範して自分にも課題を、ということで毎日学級通信を出しているということだった。
その先生にとっては「毎日発行」にねらいと意義がある。
修行であり、修養である。
素晴らしいことだと思う。
(誤解ないように言うと、学級通信を毎日出す先生が偉いということでは決してない。
一切出さなくても全く問題ない。
あくまでねらいに対する手段の、たくさんの選択肢の中の一つである。)

子どもに宿題を出すからには、自分にも宿題を課す必要があろう。
そうでないなら、宿題をやってこない子どもを責められない。
徳目で言うと「努力」「誠実」「正直・明朗」あたりだろうか。
自虐的だが、自分ぐらいこの徳目ができていない人間はこの教室にいないのではないかと思う時がある。
集めた作文や提出物を見きれないとか、テストが返せないとか、あるいは授業の準備不足だとか。
それぐらい、自分もこの辺りが弱いと思う。

道徳の時間が避けられがちなのも、ここにあるのではないか。
つまり、自分ができていないことを白々しく教えられない、という思い。
ここに誤解がある。
道徳の時間は「教師も生徒も一緒になって理想を追求する」という学習活動である。
自分もできてないけど、一緒にここを目指したいという思いを教師は持って授業する。

大学時代、ある道徳の有名教授が講義で
「道徳を教える教師が必ずしも道徳的であるとは限らない(必要はない、だったかも)」
と話していたのを思い出した。

全ての授業の中で、学び合いが最も大切なのが、道徳の時間ではないかと思う。
一生学び続け、磨き続ける以上、教師の道徳性も完成されてはいない。

苦手から目を逸らさずに、道徳の授業は自分自身も見つめ直す時間にしたい。

2013年6月24日月曜日

損得よりも尊徳で選べ


私が思いついた、ありがたいほどでもないお話。
(いいかもと思って、試しに検索したら同じ言葉が出るわ出るわ。
先人に負けました。でも紹介。)

損か得かで計算することを「損得勘定」という。
あまり良い意味では使われない。
損得勘定で動く人間では、あまり歓迎されない。
しかしながら、人間だから、どうしてもこうなりがちである。

「尊徳感情」で考える。
つまり、自分を磨いて自尊心が高まったり、徳を上げる行為かどうかで判断する。

たとえば、何かの係や役員に立候補する。
子どもなら何かの委員長、親なら学年役員等である。

自分の時間が削られることになり、そこは損かもしれない。
でも、人の上に立って指示を出せたり、注目されるという面では得かもしれない。
そういう迷い方が損得勘定での判断である。

尊徳感情で考える。
この役を引き受けることで、誰の役に立てるだろうか。
人がやりたがらないなら尚更、引き受けただけでも価値がある。
大変な分、自分自身の成長につながるのではないだろうか。
引き受けなかった場合と比べて、どちらが自分を誇れるかで迷う。
そういう迷い方が、損得感情での判断である。

実際にその役についた時にも、どちらの選び方をしたかで、仕事ぶりも変わるだろう。
掃除をする時、挨拶をする時、生活のあらゆる場面で応用できる。

子どもには「損得よりも尊徳で選べ」と教えたい。

2013年6月21日金曜日

ストロークは誰の為にうつ

今日はストロークの効果と対象について。
(ストロークとは、言葉や身振りで相手に働きかけることを指す。)

ストロークは心の栄養である。
表情一つとってもストロークになる。
ちなみに幼児は表情筋を読み取る能力があるらしい。
相手の目と表情筋の動きで判断する。
だから、大人が自分に対してどう思っているか本能的に読み取れる。
生き残るため、この人物は自分に対して良いか悪いかをそこで判断する。
恐るべき能力である。
子どもの前に立つ教師は、かなり心してかからないといけない。

肯定的ストロークをたくさんうつ。
誰が元気になるかというと、相手は勿論だが、自分が元気になる。
本当に機嫌の良い表情をしていると、自分も相手も元気になる。
子どもを誉めると、自分も子どもも気持ちが明るくなる。

否定的ストロークをたくさんうつ。
誰が凹むかというと、自分が凹む。
不機嫌な表情をしていると、自分も相手も元気がなくなる。
子どもを責めると、自分も子どもも気持ちが暗くなる。
(もちろん、悪い行為は正すべきである。
相手の成長を願う、部分否定のストロークは時に必要である。)

毎日自分が元気ないなぁと思ったら、ストロークを意識してみる。
子どもや同僚、家族、周りの人々に対して、否定的ストロークが多くなっていないか。

自分を認めることが、他人を認めることの第一歩。
同時に、他人を認めることが、自分を認めることの第一歩。
子どもや仲間のいいところをたくさん見つけて、疲れた自分自身にも肯定的ストロークをうってあげたい。

2013年6月18日火曜日

「ありがとう」の反対の言葉は?

土作先生のありがたいお話のシェア。

「ありがとう」の反対の言葉は何か。
答えを考えてから読み進めて欲しい。

ありがとうは漢字にすると「有難う」。
有ることが難しい、つまり滅多にないぐらいの出来事に感謝するということである。
では反対は?

答えは、「当たり前」。

朝ご飯を作ってくれるのが当たり前。
洗濯してくれるのが当たり前。
掃除してくれるのも当たり前。
育ててもらって当たり前。
「親なんだから当然でしょ。こどもの権利、親の義務。」
もしそういうこどもがいたらどうだろう。
そこに感謝の念は存在しない。

同様に、教室で当てはめて考えてみたり、友達関係で当てはめて考えてみたりする。
「先生なんだから教えてくれて当たり前でしょ」と言われたら、やる気が出なくなる。
(親も教師も実際そうであるからこそ、余計に、である。)

同時に、教師自身にも当てはめて考えてみたい。
こどもが登校してくるのを当たり前とみるか、感謝すべきこととみるか。
ゴールデンウィーク空け、もし全員揃って登校していたら、どうだろう。

当たり前のことの中に、感謝を見いだせるか。
ここを支えるのも、哲学である。

2013年6月17日月曜日

「ありがとう」にも哲学を

プリントを渡す時に「どうぞ」「ありがとう」を必ず言う。
有田和正先生の有名な指導である。
私も毎年やっている。

これについて、考えさせられる話をきいた。
前に何度か紹介した土作彰先生の講座での話である。

「どうぞ」「ありがとう」を実践している先生は多い。
全国各地に広まっている。
ところでそれを、プリント以外の時にもしているのか問うと、数が激減する。
物の受け渡しでは?
給食の配膳では?
他のあらゆる場面では?

「どうぞ」は思い遣りで、「ありがとう」は感謝。
そこの教育であるのなら、全ての場面でやっていないと筋が通らない。

要はそこに「哲学」があるのかという問いかけだった。

正直に言うと、初めて実践してから数年は「全くありませんでした」と言わざるを得ない。
型通りに従っていただけである。(やらないよりマシだとは思う。)
ここ数年は「そこまで深く考えてませんでした」という感じである。
いずれにしろ、残念賞である。

次回、もう一つ関連して、土作先生の「ありがたい」お話を紹介する。

2013年6月15日土曜日

休み空けはゆるゆると勝負

2ヶ月が過ぎた。
(メルマガ上では、ゴールデンウィーク空けに書いた記事である。)
学級作りの「3:7:30」の法則に当てはめて考えると、最後の大事な時期が終了した。
(野中信行先生の提唱する、学級経営に重要な3日間、1週間、1ヶ月間のこと。)

最初の3は基本の関係作り。主として興味や安心感を伝える時期である。
次の7で基本のルール作り。主としてルールや態度教育。
最後の30が定着。確認と徹底反復の時期である。

3と7は教師側の気合いも入っているので、意識してれば落としにくい。
問題は、30である。
慣れてきて、ぐだぐだになりやすい。
教師側が相当意識していても、最初の3や7で確認した理念やルールがゆるむ。
特に、ゴールデンウィーク空けの落ち方はひどい。
今までは何だったのかと思うぐらい、レベルが落ちる覚悟で構える。
最初の3や7のつもりでやり直す気合いが必要である。

ここが難しい理由は教師の側にもあり、こちらも5月病的なけだるさに包まれる点である。
リズムが崩されるので、どうしても疲れやすい。
(6月も、無理してきたことが表出しだす時期である。)

疲れやすい自覚を持ち、ゆるゆると、しかし確実にルールの確認等を行っていく。
私は、4月にとったアンケートをもとに、学級目標を作り、それ使ってひっぱろうと思っている。
目指す方向がはっきりしていると、エネルギーが湧くと思うからである。
運動会なども、そういう点で非常に使える行事である。

頑張りすぎず、抜きすぎず。
休み中に「顔晴って」いける準備を整えたい。

2013年6月14日金曜日

「こども座右の銘」より 勉強にやる気を

タイトルは、先日購入したおすすめ書籍である。
(「座右の銘」研究会編 メトロポリタンプレス)

タイトルの通り、座右の銘が400ほど入っている。
名言好きなので、簡単にぱくっと食いついて買った。
朝の話とかで使えそうだなぁという安易な発想である。

児童書のコーナーにあったのだが、中身は大人にも十分な内容。
大抵のこども向けと書かれた本は、つまらないと読んでもらえないので、見やすさ&わかりやすさ抜群である。
(絵本や図鑑などは、その最たるものである。)

一つ引用して紹介。
「無理に食べればからだに悪い。
それと同じでやる気がないのに勉強しても身に付かない。」
レオナルド・ダ・ヴィンチ

教育も同じである。
やる気がない相手にそのまま教えても無駄。
100教えても1も入らない。
むしろ害悪(マイナス)にすらなる。
それなら、心の指導を優先して、1教えて10学びとれるようにした方が良い。

カリスマ体育教師の原田隆史先生は、部活動だけでなく全ての指導において「態度教育」を何よりも優先する。
心のコップを上向きにすれば、指導内容がどんどん入る。

「勉強嫌い」と「野菜嫌い」の直し方は似ていて、メリットを示すことである。
野菜を食べると、体によい、だけでは「わかってるけど」で終わる。
相手のニーズは何なのかを見抜く。
別に体にいいことは求めないけど「きれいになること」は求めているかもしれない。
「部活動のパフォーマンスが上がる」ことにつながるとなれば、嫌でも食べ始める場合もある。
一緒に食べて「結構おいしいね!」と言う必要もある。

勉強も同様である。
ただ「成績が上がる」「偏差値の高い学校に入れる」というような理由では動かない子どもが多い。
(その動機で動けるこどもは既に勉強を自分からしている。)
勉強ができる楽しさ、素晴らしさを教師自身が腹の底から感じていることが大切であるように思う。
そして、確認の意味も込めて全員に「勉強って、楽しいね!」という雰囲気作りも大切である。

学校に通って勉強ができることは、世界中のこどもの願いランキングNo.1である。
無条件で学校に行ける日本のこどもには、その恩恵の深さも教える必要がある。

2013年6月9日日曜日

学級づくりセミナー~子どものやる気スイッチの入れ方~IN千葉

宣伝です。
8/31(土)13:20~市川にて開催
 学級づくりセミナー~子どものやる気スイッチの入れ方~IN千葉
 講師:飯村友和・河邊昌之・松尾英明 
 →こくちーず http://kokucheese.com/event/index/91981/
上のリンクをクリックすると、詳細がわかります。

ブログ内にもリンクを貼りました。
もう既に知り合いの方からいくつかお申し込みをいただいております。
読者の皆様にお越しいただければ幸いです。
私の話は大したことありませんが、飯村先生と河邊先生のお話は絶対面白いです。
飯村先生が主催の会なので、盛会にしたいと願っています。

よろしくお願いいたします。

主体変容につきる

礼儀正しく、相手を大切にする、社会に通用する人を育てたいと思う。
その為に、教師としての自分は何をするべきか。

「子どもは大人の鏡である」という原理を使う。

先の例でいくなら、同僚の先生への自分の接し方である。
クラスの仲間というのは、教師の社会に置き換えると、同学年教師集団が一番近い。
子どもは、先生同士の関係ややりとりをよく見ている。
どの先生が立場が上だとか、この先生は軽く扱われているとか。

どのクラスの子どもにも絶対、「うちの担任は軽く扱われている」というような思いを抱かせてはいけない。
それは、教室での不当な差別を生む。
教師集団である以上、教師は互いに尊重する態度を見せたい。
一方で、年上の方を敬う姿勢、年下の先生に対しても尊敬する姿勢が必要である。
校長先生は絶対に先生達のトップであることも示す必要がある。
教頭、教務なども同様である。

立場の上下は礼儀を持ってきちんとし、人間としては互いに尊重する。
能力の違いについても同様である。
教師がそういう態度を見せないで、子どもが助け合う集団になろうはずがない。

勉強しない。
あいさつしない。
歌わない。
掃除しない。
態度が悪い。
いじめや差別がある。
・・・

子どもに対して問題を感じたら、それは悔しいが、認めたくないが、全て自分のことである。
つまり、主体変容につきる。

私は、冒頭に述べたようなことを子どもに身に付けさせたい。
だから、同僚の先生方を大切にして尊重することが一番の近道である。

理想の子どもの姿から、自分の理想の姿を意識するのもいい方法だと思う。

2013年6月7日金曜日

素材研究 「ごんぎつね」の名前の由来は?

教材研究という言葉が一般的である。
教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。
(まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。
以下同様。)

教材研究の前にすべきは、素材研究。
教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む。
一時期流行った某国民的有名漫画の「○○家の秘密」とかは、この素材研究が本になったようなものである。
(と、個人的に解している。)
とにかく、教師面して読むのではなく、読者として楽しむ研究が素材研究である。
当然、教えなくてもいいような知識もたくさん身に付く。

例えば、「ごんぎつね」の名前の由来である。
新美南吉のつけた原題は「権狐」。
「きつね」はわかるが「ごん」とは何か。

まず、辞書で調べてみる。
「ごんた(権太)」という言葉が広辞苑にある。
浄瑠璃の「義経千本桜」の登場人物をもとにつけられた意味らしい。
1 わるもの。ごろつき。
2 いたずらで手におえない子供。

ごんにも当てはまりそうな意味である。
(以下、2013年の投稿時より改訂)
ただ、この名前の由来には諸説あり、確定されていないようである。

別に教える必要はないが、知っていることは多い方が良い。
10知っていて10教えるのは難しいが、100知っていれば10を選べる。
教材研究以上に、素材研究を大切にしたい。

2013年6月6日木曜日

「ごんぎつね」で何を指導するか

ごんぎつね。
国語の全ての教科書会社で採用されているといういわずもがなの超定番教材。
研究され尽くされている感もある。
先日、サークルでこの教材についての素材研究を行った。
さんざん話し合った結果、結局何を指導するのかが話題になった。

例の如く、以下に野口芳宏先生のご指導をシェアする。

そもそも、児童文学は「子どもの為の文学」である。
子どもが自分で読むことを前提にしている。
授業で扱われたり、大人が介在することを前提にしていない。
だから、授業で扱う際には「ここだけは教えないと」という点に限定する。
それは即ち、教師の読みと子どもの読みの落差がある部分である。
指導しないと、読み飛ばして作品の良さがわからないような部分である。
子どもの「不備・不足・不十分」をつく。
逆に言えば、それ以外を詳細に指導するのは、お節介になるので扱わない。

「ごんぎつね」ならどこか。
一つは、ごんのいたずらについて。
どれもひどいが、特にもみがらに火を付ける行為などは、いたずらの域を越え、重犯罪である。
しかしながら、子どもはごんに好意的な見方をしやすく、ここは読み飛ばすので指導する。

もう一つは、描写の素晴らしさについて。
情景描写が美しい作品であるが、子どもは読み飛ばす。
意味がわからないものも多い。
よって、ここも作品を深く味わえるようにするため、指導する。

文学作品の指導は「焦点精査」し、基本5時間以内に指導するということだった。
(指導書では、「ごんぎつね」は10時間扱いである。)

次回、もう少し「ごんぎつね」の話をシェアする。

2013年6月3日月曜日

一点集中の指導と評価

前々回、指導に対して評価を必ずするということを書いた。
評価が大変なのはなぜか。
評価項目がたくさんありすぎるのが原因である。
だから、一点集中でいく。

たとえば、避難訓練。
「おさない、かけない、しゃべらない、もどらない」とある。
4点あるが、どれができていなのか、見極めておく。
「しゃべらない」が課題であれば、そこを強調して指導しておき、あとで挙手やアンケートをとる。

たとえば、健康観察。
大きな声、目を合わせる、良い姿勢、手を真っ直ぐ挙げる、笑顔・・・欲しい要素はたくさんある。
その中で、まずはこれと決め、一つだけ告げてはじめる。
「今日は、手を真っ直ぐ挙げることだけは、最低限意識しましょう。」
呼名のたび、その一点のみを短く誉める。
できていなければ、必ずやり直し。(流すとマイナスの指導となる。)
できたら誉める。

たとえば、ハードル。
動きが複雑で指導項目も多数ある。
なので、指導部分を分ける「分習法」でいく。
前足を伸ばすことだけを指導したければ、ハードルに半身だけかかる位置で走らせ、後ろ足の心配をなくす。
見る方も、そこだけ集中して一瞬を指導していく。
後ろ足の指導なら、その逆でやる。
一点のみを身に付けさせ、他に進む。

力を確実につける評価をきちんとするためにも、指導者と子ども、双方が意識できる指導項目を決めて指導したい。

2013年6月1日土曜日

今を全力で生きる

私の大学時代の友人の伴侶であり、私の知人でもある方が、先日亡くなった。
相当に優秀な教師で、素晴らしい学級経営をされていたということだった。
入院中も、大変前向きな闘病生活を送ったという。
もう一度子ども達の前で、という強い思いがあったことだろう。

「あなたが虚しく過ごした今日という日は、
昨日死んでいったものが、
あれほど生きたいと願ったあした」
(「カシコギ」趙昌仁著 サンマーク出版 より引用)

今日も、子どもの前に立って教師の仕事をする。
何となく過ごしてしまう日が多いと思う。
しかし、それではいけないのだ。
今を全力で生きる。
教師という仕事を選び、子どもの前に立つ以上の責務であると、今更ながら気付かされた。

気付けば、変わる。
「今」を自覚的に、魂を燃やしているつもりで生きたい。
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