2014年12月30日火曜日

御礼 「まぐまぐ大賞」受賞

今回は御礼なので敬体で書きます。

このブログの元になっているメルマガですが、
「2014まぐまぐ大賞」の「教育・研究」部門の「大賞」受賞となりました。
http://www.mag2.com/events/mag2year/2014/free/sch.html
本当に有難いことです。
支えてくださった皆様のお陰です。
感謝しております。
選んでくださったまぐまぐの担当の皆様にも感謝です。

今回の受賞をバネに、今後ともより一層皆様のお役に立つ情報を提供していきます。
今年もたくさんの方にお読みいただき、有り難く思っております。
2015年も、がんばっていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

2014年12月28日日曜日

「これだけで必ずやせる!」の真実

真面目な話が続いているので、今回は雑感。

先月から今月にかけて、とにかく勉強会尽くしだった。
お世話になっている色々な人との関係で、どれもどうしても外せなかった。
(それでも、かぶってしまって参加できない会がいくつもあった。)
こんなに毎週のように方々に出かけたのは、初めてだったと思う。

結論から言うと、素晴らしい御馳走のフルコースで、やや消化不良である。
どれも必ずやれば「確実に効果あり」という感じがした。
ただ、自分の中でまとまっておらず、少しずつの実践になっている。
拙著の「やる気スイッチ」でも、「感動は生もの」「今すぐ」「少し」やることを推奨している。
そういう意味では、書いた通りに実践しているとは思う。

話は飛ぶが、実家に帰る度に、増えているものがある。
母の「通販グッズ」である。
昨年度の大掃除で相当処分したが、まあよく買うものである。
ここ数十年は「ダイエット」系が多かったが、最近は「掃除機」系である。
たしか、先月行った時には、4台あった。
「使ってる?」と聞くと「その内使うつもり」とのこと。
それ以上は追及しないのが、親子の暗黙のルールである。

ここである。
多分、ダイエットグッズにしても掃除機にしても、優れた効果があるものだと思う。
「これだけで必ず!」は、多分真実である。
注意点は、実は書いていない「但し書き」があって、それは「やれば」または「続ければ」である。
新しいものにどんどん飛びついても、やらねば、続けねば意味がない。
どんなに素晴らしいものでも、使わなければ宝の持ち腐れ。
せっかくの学びを埋もれさせないためにも、「即実践の心得」で今週もいきたい。

母の投資は、このためであったと勝手に納得した。
処分されたグッズ達に、合掌。

2014年12月26日金曜日

本質を見抜く視点 水泳「で」教える

以下、西村健吾先生からのメールの引用文の続きである。
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僕の最も重視する水泳「で」教えるねらいは、ずばり、
○自分に勝つ心。特に最も苦しい場面(最後の5m)でこそ、歯を食いしばって、弱い自分に打ち勝つ強い心
です。

水泳はなんとも不思議なスポーツです。
たとえば、陸上の100mではがんばってもその伸び幅は0.何秒の世界です。
ところが、その半分しかないたった50mなのにもかかわらず、タイムは平気で5秒、10秒、へたをすれば30秒近く縮まることだってあります。
しかも、最も苦しい場面でどう泳いだかによって、その伸び幅が断然ちがってくるのです。
これだけ自分の取り組みや、心の持ち様を如実に反映するものって、他にあるでしょうか?
そしてもっと重要なことは、
「苦しいとき(非常時)にがんばれるか否かが、常時のそれよりも、結果にてきめんに反映される。」

この、子ども達が人生の困難を乗り越えるために必要な心の持ち様は、最も重要であることのように思えるのに、それを教えられる場面って、学校生活の中ではなかなかないと思うのです。

だからこそ僕は、「水泳は学級経営だ」という隠れスローガンのもと、まずは子ども達に、
「自分に勝つことの重要性」「苦しい時にこそがんばることの重要性」を、この水泳を通して心と体で感じ取らせます。
そして、ひとたび水泳が終わったら、
「ほら、水泳で学んだことは、水泳のタイムのようにははっきりとは目に見えないだけで、勉強も同じ。生活も同じ。」
と意図的に転移させていきます。
水泳学習を終えた子ども達が、単に泳力が伸びただけの状態にならないことは、容易にご想像いただけるのではないでしょうか。

手前味噌で恐縮ですが、僕の教えた組立体操や学習発表会での子ども達が、あのような状態になるのも、それまでのこうした布石があってのこと。
要するに、春先から秋にかけて、一つ一つの活動を、次なる活動に転移させるように、ずうっと仕掛けております。
これはかなりの自信をもって断言できます。
ところが水泳「を」教える視点しかない場合は、まさに打ち上げ花火…。
きっとこうはならないのではないでしょうか。
(引用は以上。以下、松尾が後略)
=======================

さすが、水泳の県内トップ選手を多数輩出している指導者の言葉だけに、説得力がある。

『水泳「を」教える視点しかない場合は、まさに打ち上げ花火』
という一文は、何にも当てはまる。
研究授業など、特にそうなりがちなので要注意である。
(授業研が終わってからさっぱり、というのでは、やはり寂しい・・・。)
何を教えようが、それそのものを教えるに留まっていては、発展性がない。
「次なる活動に転移」を意識しているか。

以前にも紹介したが「ごんぎつねが終わった」という表現のおかしさと一緒である。
「ごんぎつね」という教材を通して、何の力をつけたのか。
そして、それは次にどう生きていくのか。
さらに、これからの人生の上でどう役立つのか。

そういう先見性を持って指導に当たるのと、その場だけで教えるのでは、子どもにつく力も雲泥の差である。
目的は、本質は何なのか。
常に意識して指導に当たりたい。

2014年12月24日水曜日

本質を見抜く視点 水泳指導

「本質を見抜く視点」シリーズ。
このシリーズのそもそものきっかけである、西村健吾先生からの新しいメールを引用する。

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本質を見抜く視点(西村健吾)

B「その教育が、一面的なねらいにとどまらず、立体的なねらい(裏のねらい)を包含しているかどうかということ」については、先生が十分に実例を示しながら僕の思いを代弁してくださいました。
よって、新たにCの視点を立ち上げ、視点BとCとを絡めながら以下に愚見を書き連ねます。

ではまず、Bについて。「水泳指導」を例に…。

例えば小学校高学年における水泳の目標(あえて技能に限定)を端的に言えば、「続けて長く泳ぐこと」です。
これがまず第一のねらい(表のねらい)であることは、教科の特性からみても言わずもがなです。
水泳「を」教える視点はまさにこれですよね。

その一方で、水泳「で」教える視点こそが、立体的なねらい(=裏のねらい)と合致します。
すなわち、松尾先生のマラソンのねらいでいけば、

○泳力の向上への取り組みに意欲を持たせる
○寒さや苦しさに耐え、心身の機能を高める
○続けて努力することの大変さと意義を体感する
○勝負を知る

といった感じになりますでしょうか。

僕も基本的に同じです。まさしく視点Bです。
ただし、同じなんですが、あえて視点に軽重をつけるとすれば、その根拠となるのが、視点C「別の活動に転移していくかどうかということ」です。
すなわち、そこで学んだことが、例えば学習面、例えば生活面に波及し、生涯にわたって生きて働く力になるかどうか…という視点です。
(先生のマラソンのねらいでいけば、下2つですね。)
===============================
まだまだまだ続きがあるが、今回は引用をここまで。

視点Cについて、この後西村先生の持論が展開される。
水泳における「学習面、生活面に波及し、生涯にわたって生きて働く力」とは何か。
読者の皆様にも考えていただきたい。
(次号に続く)

2014年12月21日日曜日

本質を見抜く 根本に返る

「本質を見抜く視点」シリーズ。
今回は、メルマガを書いていての雑感。

ここ数回、久しぶりに初期の発行当時のように「毎日発行」してみた。
書くネタがたくさんあるから、いけるかもと思った次第である。
正直、きつい。
なぜ隔日にしたか、思い出した。

そこに力を入れた分、しわ寄せがどこかにいく。
特に、仕事の無理は家庭にしわ寄せがいく。
残業すれば、その分帰宅が遅くなるのは自明の理である。
付き合いが多くなるのも同様。
一長一短である。

そう考えると、やはり自分にとってメルマガは「隔日」が適正のようである。
結構な数の方が読んでくださるので、ちゃちゃっと書いて発行、とやりにくい。
たかがこの程度の記事でも、毎回30分から、長いと1時間以上かかっている。
本質に返ると、あまり他にしわ寄せがいくのは正しいと思えない。

学級通信も自分にとっては同様。
毎日書ける人を尊敬する。(まして手書き&イラストとか、神業である。)
学級通信も、自分にはなかなか骨の折れる作業である。

結論。
それは、何のためにやっているのか。
単なるルーティーンになっては意味がない。
せっかくの仕事が「作業」になっては意味がない。
「仕事は志事」にしたいと改めて思った次第である。

2014年12月19日金曜日

失敗の五原則

最近、「本質」と「失敗」について最近考えているので、それに関する情報がひっかかる。
今回は原田隆史先生の著書からの学び。
以下、原田先生の本より引用する。

========================
私は、よくはまる「失敗の五原則」について常々お話ししています。
五原則とは、
人は失敗を
1直視しない、
2後回しにする、
3人のせいにする、
4忘れようとする、
5繰り返す、
の5つです。
(『原田隆史の熱い言葉64』原田隆史著 実業之日本社 より引用)
========================

つまり、うまくいかないと感じた時、上記の5つのどれかに当てはまっているのではないかということである。
これをひっくり返すと、成功に近付く「良い失敗」の原則になるという。

失敗した時、これを思い出すと役に立つのではないかと思い、シェアしてみた。

2014年12月17日水曜日

相手の立場で考える

サークルにて、曽根綾子氏の新聞記事からの学び。
簡単に言うと
「昨今の大きいリンゴは結構だが、一人暮らしの、特に高齢者にとっては食べるのに困る」
というような内容のコラムがあり、それについて考えた。

要は、作り手がいいと思うもの、素晴らしいと思うものでも、相手次第ということ。
作る側の自己満足ではなく、提供される側に立った視点が欲しい、という話だった。
相手は十人十色なのだから、リンゴにしても、一人暮らしの家庭用、大家族用と、
せめて2種類は用意してもらいたいという内容もあった。

教室や部活など、多人数を相手に教える際、個に対応するのは量的な限界がある。
だからこそ、全員一斉に与えるものの場合は、あらゆる立場の視点を慮る必要があると感じた。

自分が持ってない視点に立つのは難しい。
しかしそれに思いを馳せるのは、忘れがちで大切なことであると反省させられた。

2014年12月15日月曜日

本質を見抜く視点 「立体的なねらい」について

前回、西村健吾先生の講座での学びを紹介した。
再度紹介すると、この先生である。
↓「学級通信の極意」西村健吾著(明治図書)
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20140156

西村先生とのやりとりで、次のようなことを書いた。
=================
「立体的なねらい」について(松尾英明)

私としては、「立体的なねらい」について、例を挙げると次のように考えています。
1.算数で「九九の習得」を指導しながら(表)
2.「口に出して繰り返し覚える方法」を習得し
3.「努力はすぐに結果に結びつくとは限らない」「しかし努力は実を結ぶ」という経験を獲得し
4.「(○○さんは)できる・できない」という壁を壊し、
5.「できる感動・喜び」を経験し、かつ仲間ができる喜びを共有し、
6.「人は一度覚えてもすぐ忘れる」という原則を体感し、
・・・・
というイメージです。
1は表で、いわゆる「教材のねらい」と「教科のねらい」といった面が強いです。
1以外は全て「裏」のねらいになります。
まあ、角度を変えてみたところで、見えるのは3面ぐらいです。
立体を真正面から見た時と同じで、「見えないけれどそれが支えている」というイメージです。
いうなれば、まさに豆腐の形です。
====================
この後も、かなりの量の文章のやりとりがあった。
これを読んだメルマガ読者の方々からも、様々な意見をいただいた。
結論から言うと、ねらいは子どもの実態に応じてそれぞれ。
何に主眼を置くかも、必ずこれとはいえない。
ただ、例えば九九を教えるなら「九九の習得」は外せない。
ここを抜きには語れない、というのが大方共通する見解だった。
また、九九を教えることだけに終始しない、というのも大方の共通点である。

教える側にとっても、ねらいや視点は様々であると学んだ。

2014年12月13日土曜日

本質を見抜く視点

先日、鳥取の指導主事である、西村健吾先生の講座を都内で受ける機会があった。
西村先生は「学級通信の極意」という本を明治図書から出したばかりである。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20140156
学級通信を見ただけで、並大抵でないことがわかる。
指導主事にご栄転となり、充実した毎日を送っているらしいが、学級通信が出せないことだけが心残りのようである。
(「だけ」かどうかは、ご本人に聞かないと分からない。)

講座中のQ&Aで、「本質を見抜く視点とは何か」という質問が出た。
講座の「教師の指導の落とし穴」という内容の一つに「本質はどうか」という項目があったことを受けての質問。
なかなか鋭い質問である。

西村先生は「子どもをどうしたいか」と答えられた。
その授業や行事を通して、子どもをどう成長させたいかという視点で見るという。
最高の理想を描いて、そこに向かって実践し続けてきた西村先生らしい回答である。

私なら、「もしこれがなかったら」と答える。
「そもそも論」という点で、西村先生と一致している。
そもそも、この授業や行事がなかったらどうなるか。
指導したいと思う場面で、あえて流したらどうなるか。
もし自分が教えなかったとしたらどうなるか。
・・・
そのように考える。
理想を描くというより、無かった場合の未来を予想する考え方である。

読者の皆様の「本質を見抜く視点」も、是非教えていたただきたい。
思考の幅が、広がると思う。

2014年12月11日木曜日

ちょっと勝つ

先日、岡山に学びに行った。
「通常学級の中の特別支援教育」というテーマの学習会である。
タイトルの「ちょっと勝つ」とは、講師の一人である南惠介先生の言葉。

特別支援教育を必要とする子どもは、教室に多数いる。
その子どもたちは、どうしていいかわからず苦しんでいることが多い。
本人は本気だが、周りから見るとふざけていたり、だらけていたり、反抗的だったり、としか思えない。

いわゆる「不適切」な行動が目立つ。
不適切な行動に対し、指導者は困る。
しかし、実際に一番困っているのは、その子ども自身である。
自分ではどうにもできず「何とかして」と思っている。
内心、子どもは大人に「勝って」欲しいのであるという。

これに、講師の一人であるノートルダム清心女子大学の青山新吾先生が
「大人が勝てば、子どもも勝ち」という言葉を付け加えられた。
逆に言うと「大人が負ければ、子どもも負け」で、両方不幸である。

つまり、ここでいう「勝つ」というのは、指導者の思う適切な方向に導くということ。
(相手を打ち負かすことではない。)
大きく勝ちにいかずに、「ちょっと勝つ」を目指す。
「まあそれぐらいなら、仕方がないかな」と従いやすい。

学級経営は、小さな小さな勝負の連続である。
時に「ちょっと負ける」ことがあってもいい。
トータルで「ちょっと勝つ」を積み上げて、より良い方向に導きたい。

2014年12月9日火曜日

子どもに「時間」をプレゼントする

原田隆史先生の「カリスマの目線」というメルマガを購読している。
週1程度だが、無料で質の高い内容の話が読める。
今号の内容が「時間のはやさ 大人と子ども」というものだった。
以下に紹介する。

===============
(以下、引用)
(前略)
しかし、ここ一番。自分のことを置いておいて、子どもと向き合い、
目をみて、正面から、子どもの時間に身を委ねるということが、重要
なのではないだろうか。

私の娘たちは、取り組んでいることは違うが、それぞれにバレエ、合
唱、ダンス等の舞台で発表するような活動をずっと続けてきた。
なんとか時間を見つけて舞台を観に行くと、こちらが驚くほど喜んで
くれた。それは、「忙しいお父さんが、私の時間(スピード)に合わ
せてくれた」という嬉しさなのである。
親が手を止めて子どもや家族に付き合う、ということは、親が思って
いる以上に、子どもや家族に喜びを与えるものなのだということが、
身にしみてわかった。
(後略)
(以上、引用終了)
===============

この文章に、深く頷いていた矢先、別の本を読んでも似た内容の言葉に出会った。
「大人とは、器の大きな人間。子どもの時間ぐらい待てる人」とあった。
(『「ドジ・グズ・せっかち」のほうが人生は楽しい』経済界 刊 斉藤茂太 著)

集団生活の場である学校において、毎度毎度、待つ必要はない。
ただ、「ここ一番」と思って、子どもに向き合う時間は必要である。

「時短」「スピード」の世の中だからこそ、必要な考え方であると感じた。

2014年12月7日日曜日

先生の授業参観なの??」

自分のクラスで授業研があった。
「詩の花束作り」という実践。
地元の国語の指導主事の先生の講座を受けて、真似してアレンジしたものをやってみようという次第である。
それに、校内の先生方のアドバイスをいただいて、実践してみる。
簡単に言うと、たくさん詩を読んで読んで読み浸った後、好きな詩や自作の詩を鑑賞し合うという単元である。
「クラス会議」の手法も取り入れて、話し合いの場面も設定する。

今日やるので、昨日連絡帳を書く時、子どもに伝えた。
「5時間目、他の先生方が見に来るから、みんなは気にしなくていいけど、一応伝えておくね。
「ぼくたちを見に来るの?」
「うーん、どちらかというと、先生を見に来る感じかな」
「じゃあ、先生の授業参観なの??」
「ん~、まあ、そういうことになるかな。」

言われてなるほどと思った。
通常の「授業参観」とは大分訳が違う。
授業参観は子どもにとってまさに自分を見てもらう時間。
主役は自分である。

一方で、授業研は、何だかはよくわからないが、「自分たち」が見られる時間。
授業研は、嬉しい子どももいる一方で、内向的な子どもにとっては、かなり「いい迷惑かも」しれない。
(取り囲まれて自分のノートをのぞき込まれて、ふむふむ言いながら何かメモされていたら、かなり気になる。)

授業研は子ども対象の研究ではあるが、指導の研究であり、教師の側の研修である。
こちらの都合である。
付き合ってくれる子どもに感謝しながら、授業にあたりたい。

それにしても「先生の授業参観なの??」とは、さすが低学年の子ども。
その率直な表現に感心しきりである。

2014年12月5日金曜日

『失敗学のすすめ』から「仮想失敗体験」の大切さ

次の本を読んだ。

『失敗学のすすめ』畑村洋太郎著 講談社(2000年)

十年以上前に発刊された本だが、とても興味深い内容である。
ここには「仮想失敗体験」というものの大切さが書いてある。

「仮想失敗体験」というのは、要は失敗をバーチャル体験することである。
何かというと、リーダーがあらかじめメンバーに「仮想失敗体験」をさせる。
そうすると、その失敗は実際には起きにくくなる、という話である。
仮想失敗体験をさせておかないと、現実にその失敗が起きてしまう。

例を挙げる。

例えば、家庭科で子どもにミシンを使わせるとする。
ここで怖いのは、ミシンの誤った使い方による事故である。
体育を筆頭に、家庭科や図工、理科という教科には危険なものを扱う実習があり、大けがをする可能性がある。
図工なら、カッターで指を切るかもしれない。
ミシンの場合なら、指を打ち抜くというケガがある。
だから、この事故は絶対に避けたい。

そこでどうするかというと、指を打ち抜く事故があった時の話をリアルに話しておく。
どういう状況でどうなってそういう事故が起きたのか。
実際に見たことがない場合でも、人に実体験を聞いたりして「仮想失敗体験」をしておく。

こういう話をしておくと、似たような同じミスをしなくなる。
例えば理科の実験は、一歩間違えると大変危険であることもわかる。
失敗を仮想体験しておくことで、失敗が防げる。

同僚とこの手の話題で話すのは勉強になる。
取り返しのつかない失敗は、仮想失敗体験を共有することで避けるようにしたい。

2014年12月3日水曜日

掃除は試金石

掃除ができるクラスはいいクラス。
拙著「やる気スイッチ入れてみよう!」にも書いたが、毎年必ず伝える言葉である。
それぐらい、掃除の時間はクラスの状態が出る。
掃除の時の姿に、その子どもの「芯」の部分が出ている。

例えば、個々に見ると大きく次のような子どもの状態が考えられる。

1 常にふざけているだけでなく、周囲への妨害行為がある
2 一応やるが、時々ふざけていたり、さぼったりする
3 教師がいるととても一生懸命やるが、見えない場所でさぼる
4 常にきちんとやり、どんな時でもやる気があり真面目
5 常に進んでやり、人の分まで手伝ったり、楽しんでやっている

これらが、そのまま子どもの普段の学習や物事への取り組み姿勢と重なる。

1なら、あらゆることに対して不真面目な傾向がある(反社会的)
2なら、興味のあるなしでやる気にむらがある(場合によって非社会的)
3なら、あらゆることで自分を必要以上に良く見せることに力を注ぐ。評価や点数に変にこだわる。
4なら、あらゆることに真剣に取り組む。
5なら、あらゆることを楽しんで取り組む。

掃除を一生懸命やらせるというより、掃除は試金石に近い。
そういう見方もあると思って観察しながら掃除するのも面白い。

2014年11月30日日曜日

教育実習生と学級担任 それぞれの指導案のねらいの違い

前々回の続きで、尊敬する先生方からの学び。

教育実習生の書く指導案と、学級担任の書く指導案はどう違うか。
この問いにどう答えるか。
考えてから読み進めて欲しい。

教育実習生の指導案は、「今」に成功基準がある。
精錬実習がうまくいくかどうかである。
うまくいったら「良かったね」で、うまくいかなくても「初めてだから大丈夫」である。
いずれにしても、全力でやる体験をしたこと自体が大切で、プラスであり、前進である。
内容がどうであれ、その後は学級担任が責任をもって引き継ぐのだから何も問題ない。
そこで一旦終わり、本職としての教諭を目指す段階に入る。

学級担任の指導案は、先を見据えている。
短くても、一年間の見通しがある。
年間を通してつけたい力をつける指導案である。
よって、一回の授業研がうまくいったかどうかは成功基準ではない。
むしろ、うまくいかなくても、今後への改善の見通しが持てれば成功である。
子どもの長期的な成長が第一である。
(附属小学校のように「他校の参観者への新機軸の提案」の比重が高い場合は、その限りではないらしい。)

何のために指導案を書くのか、また授業研をやるのか、意識して臨みたい。

2014年11月29日土曜日

第3回やる気スイッチセミナー

宣伝なので今回は敬体で。

「第3回やる気スイッチセミナー」を開催します。
3月7日(土)13:00~
例の如く千葉県(市川駅)での開催です。割と都内から近いです。
↓お申し込み(こくちーず)
http://kokucheese.com/event/index/230864/

岡山の南惠介先生を招いての講座がメインです。
飯村友和先生と、ついでに私も「ちょろっ」とだけ出ます。
告知する前に既に申し込みが結構あったようなので、興味のある方はお早めにどうぞ。
(懇親会の方は、あと8名です。)
今日もお読みいただき、ありがとうございます。

2014年11月28日金曜日

少し上の人からこそ学べる


ここ最近、尊敬する先生方と話せる機会が何度かあった。
当たり前だが、年齢的にはそんなに離れていない人であっても、何年経とうが常に先輩であり、そこが変わることはない。
親がいつまで経っても親なのと同じである。

話題に上ったのが、「どの辺りの人から学べるか」という点だった。
50代のベテランの先生の授業は、技術が血肉化しており、若い人から見ると学びにくいという。
つまり、すごいことをしているのに、普通にやっているから、見る視点がないと見えないということだった。
野球に例えると、プロ野球の守備である。
サッカーに例えると、ワールドカップの代表選手たちのトラップである。
(伝わる人には伝わると思う。)

40代は、そもそも絶対数が少なすぎて、今は見られる機会がほとんどないとのことで割愛。
(実際、30代の人にとっては、一番学べるのがここだけに、惜しい。)

30代になると、意識的にがんばってる感があるので、まだわかるとのこと。
野球に例えると、甲子園のゲームの守備である。(時々まさかのエラーが出る。)
ちょっとハラハラ感があって、見ていて楽しい面もある。
それでも20代の人から見れば、自分からは遠い感じがするという。

20代の人が最も学べるのは、同じ20代の少し上の人だという。
自分にもやれそうな気がして、本気で学べる。

授業を参観した後に、
「下手だな」と思ったら、大体自分と同じレベル。
「これぐらいなら自分と同じ」と思ったら、自分より上のレベル。
「うまいなあ」と思ったら、かなり上のレベル。
「すごい!」と思ったら、自分とは桁が違うほど上のレベル。
そんな風に言われている。

学ぶなら、身近な人。
同年代から少し上の仲間である。

逆に、年齢が上に行けばいくほど、下の人から学べることが増えるともいう。

誰からも学ぼうという姿勢を持ちつつ、重要ターゲットを絞りたい。

2014年11月26日水曜日

図工作品審査会での学び

勤務地の市の図工作品の審査会があった。
自分は図工の審査会自体に縁はないが、作品搬入等を手伝ったり、作品展を見に行ったりしたので、色々な作品をみる機会に恵まれた。
作品を片付けながら、審査員の方々の講評が耳に入り、勉強になった。

審査員の方々の話を聞いていると、発達段階に応じた素材選びが大切だという。
特に、低学年は作品の中に「自分」がいることが大切とのことだった。
発達段階的に、美しいものを表現したいというより、「自分が○○している」という物語のようなものを表現したい。
言われてみると当たり前だが、あまり深く考えてこなかった自分としては、目から鱗が落ちた。

中学年になると表現方法が広がり、選択肢が増える。
高学年になると技能も発達し、うまく作りたいという思いも強くなってくる。

また、何を根拠にその材料でその作品なのかということの大切さも強調されていた。
工作キットは使わない、テープ類は極力使わないとか、常識が色々あるらしい。
難しいものである。

何でも、専門に勉強している人の話を聞くのは大切だと実感した。

2014年11月22日土曜日

何の祝日でしょう

先日は「文化の日」で月曜が休みだった。
日本国憲法の公布記念日。
元々は明治節(明治天皇の誕生日)である。

祝日に休むからには、祝日の理由も少し子どもに教えておく。
「何の日」「本来何をするための休み」ぐらいちょっと触れておく。
ちょっと教えるぐらいしないと、「とにかくハッピーマンデーでしょ?」のような能天気になる可能性がある。
ちなみに、文化の日は「11月3日」であることがとても大切であり、ハッピーマンデーは適用されない。
今年は、たまたま月曜日なだけである。

例えば体育の日も、東京オリンピック開催記念日だから、「10月10日」が大切なはずである。
安易なハッピーマンデーは止めて、次の東京オリンピック開催までに戻そうという動きもある。
「根本・本質・原点」にかえり、意義を考えることは大切なことだと思う。

大人でも、祝日についてきちんと答えるのは結構難しい。
「教えよう」と思うと、こっちも勉強することになる。
お陰様で、こちらも何となくだったのが、よくわかるようになる。

教室でも、子どもに「教えようとするのが一番勉強になる」と教える。
早くできたことで満足させない。
周りの仲間に一生懸命教える姿が見られるようになる。

話が若干逸れた。
休むからには、祝日の意味ぐらいは片隅に入れておきたい。
ちなみ明日は「勤労感謝の日」である。
この仕事ができることそのものにも感謝したい。

2014年11月20日木曜日

ハロウィンの心温まる出来事

ハロウィンの話題。(元々メルマガでの記事なので、時期がずれているのはご容赦を。)

昨今、かなり定着の感があるハロウィン。
スコットランドの祭りに端を発するらしいが、日本人にとってそれ自体はあまり興味のないことである。
子どもにとってはお菓子がもらえる日で、大歓迎。
しかもお化け系イベント。
コスプレブームに妖怪ブームも手伝って、テーマパークでもこれ系のイベント。
かなりの広がりである。
要は、楽しいイベントだからやろうというのが本音だろう。
(若者に煙たがられるかもしれないが、本来はお月見など伝統的な行事をより大切にしたいところではある。)

勤務校でも、各所でハロウィン色だった。
グラウンドで仮装鬼ごっこ(?)をしたり、ハロウィンの英語の読み聞かせがあったり、色々な光景が見られた。

その中で、ちょっと心温まる出来事があった。
昼休み、ハロウィンのシールがもらえるイベントがあった。
そのイベントに参加した子どもたちが、教室にそれを持ち帰り、喜んでいた。
一人、参加しなかったために、シールがもらえないで残念がっている男の子がいた。

ある女の子がそれを見て、折り紙を切り抜いて、自分のシールと同じおばけの形をつくった。
「これ、あげるよ。」
「ありがとう。」
男の子は、とても嬉しそうだった。
私が「○○ちゃん特製だね!」と言うと、「うん」と言ってニコニコそれを眺めていた。

小さな小さな出来事だが、子どもの心が見える、心温まる一コマだった。

2014年11月18日火曜日

雰囲気作り その2 日常が大切

前号の雰囲気作りについての続き。

挑戦心は安全・安心ベースから生まれる。
危険・不安では挑戦できない。
挑戦して失敗しても受け止めてもらえる前提があるからやれる。

これは、学級の日常でどうなっているかが全てである。
中心となるのは、授業。
授業中にどれだけ「挑戦による間違い」が称賛されているか。
子ども同士のコミュニケーションがあるか。
話し合いによる問題解決がなされているか。

このあたりがクリアされているようなら、何をやるにも挑戦する雰囲気ができている。

これは他のことにも言える。
何か一つをやろうとする時、日常のあらゆる場面でできているのが本物である。
そうでない場合、付け焼き刃にしかならない。

これらは全て、教師の率先垂範が前提になる。
「挑戦による失敗は善」を自分の中の価値観として持っているなら、子どもに反映される。
教師が持っていない価値観は、どんなに巧みに口で言っても反映されない。
子どもは、親を筆頭に、今まで受けてきた様々な人の価値観を吸収している。
特に学校において、現担任の価値観は強く反映される。
目の前の子どもに感じる課題は、全て自分の持つ課題だと思ってほぼ間違いない。
(よって、中には解決できない課題もある。)

どんな雰囲気を子どもたちが持っているかは、教師の持つ日常の価値観次第である。
雰囲気を変えたい場合、自分が変わるしかないというのが、これまでの実感である。

2014年11月16日日曜日

雰囲気を重視する

クラス会議の話が続いたので、今回は8の字跳びの話と関連して。

クラス会議と8の字跳びの両方の実践時に共通すること。
それは「手順を覚えた後は自分たちでやる」という点と「雰囲気が大切」という点。

まずはやり方を指導すること。
これには適切なマニュアルが必要になる。
だんだん指導者の手を離れて、自分たちで工夫、創造するようになる。

次に、雰囲気を重視すること。
「心身に危険がない=安全」を前提に、「温かい雰囲気=安心」の両方が必要。
失敗しても大丈夫だと思える状態になること。
もっというと、全員が失敗を挑戦とみなし、称賛する状態になること。
挑戦による失敗をした仲間には、称賛や励ましが入る状態である。

クラス会議では、まず最初に感謝や嬉しかったことなどを一人ずつ順番に言う場面がある。
ここで雰囲気を作る。
8の時跳びでは、入ってひっかかったら「ドンマイ!」「ナイストライ!」と声かけをする。
「ひっかかったのは縄に入ろうとした証拠。勇気の証。」などと指導者側も繰り返し伝える。
また、ひっかかるのは本人以外の要素(回し手、本人の前の数人、全員の作る雰囲気や声かけの仕方)が原因のことが多いこともしっかり教える。

一つの場面で雰囲気が良くなると、他の場面にも波及する。
授業で雰囲気が悪いのならば、クラス会議など他の場面のどこかで一点突破する。

空気の空間支配力は強い。
雰囲気作りには常に心を配るようにしたい。

2014年11月14日金曜日

『いま「クラス会議」がすごい!』

前号の続き。
8の字からちょっと離れて、マニュアルの大切さについて。

前号でも述べたが、「マニュアル」は語感が悪い。
何というか、機械的なイメージがある。
「こうするとこうなる」というのは、例えば自販機でお金を入れてボタンを押すとジュースが出るというような「仕組み」である。
仕組みの詳細まで知らなくても手段(お金とボタン)さえ知っていれば、結果(ジュース)が出る。
確かにそういう側面がある。
しかし、機械がそうであるように、要は使い方次第で便利なものになる。
便利なものは活用した方がよい。
それが目の前の子どもの成長につながるかもしれないなら、尚更である。

例えば学級経営のマニュアルは、既にたくさんあるものの中から選べる。
他の人がたくさん作ってくれているので、いきなり無理してゼロから作る必要はない。
またたくさん知っていれば良いというものでもないが、一つしか知らないのは危ない。
たくさん知っている中で、特に自分に合うものを深めていくのが一番いいと思う。

今、手元に次の本がある。
『いま「クラス会議」がすごい!』
(赤坂真二 編著 学陽書房)

「クラス会議」についての本である。
前書きにある文の
「わたしたちがしたいことは、格好いい話し合いをする子どもたちですか、
それとも、紆余曲折を恐れず問題に向き合い解決をする子どもたちですか。」
という理念にはじまり、やり方から事例、ケース別対処法まで全て出ている。
「クラス会議」をよく知らなくて、興味があるという方には、特におすすめである。
手順としてのマニュアル化がされているだけでなく、クラス会議を通した様々なエピソードも書かれていて、読み物としても楽しい。
これを読めば、現時点の知識がゼロでもとりあえず始められる。
編著者の赤坂先生だけでなく、4人の実践家の先生が、体験を通して書いているのもいい。
様々なケースに対応している。
複数の人が同じ手法でやっても成功例が出るというのは、それが名人芸でなく、マニュアル化された成功手法という証拠である。

マニュアルを覚えたら、まずは試してみる。
「いつか」は「五日」を過ぎれば一生なくなる。
宝の持ち腐れにならないよう、原則は「覚えたら五日以内に実践」である。

2014年11月12日水曜日

マニュアルの多様性を認める

前号のマニュアルについての話の続き。

マニュアル通りにやると、うまくいくことがある。
「ことがある」というのは、逆に言うと、うまくいかないこともある。

前号で「クラス会議」について少しふれた。
多数の成功事例が出ている手法であり、自分自身も取り入れている手法である。

ここで大切なのが、「複数の人がうまくいく」=「誰にでもうまくいく」という勘違いをしないこと。
時々「○○先生の△△という手法をやったけれど、自分のところでは全くうまくいかなかった」という話をきく。
極端な場合「△△の手法はダメ」と周りに公言するのを見ることもある。
これはやめた方がよい。
服装と同じで、合うか合わないかは、人それぞれである。
例えば志茂田景樹さんのファッションは世界に認められているが、正直、私は真似しない。
しかし、それを否定もしない。似合う人には似合うと思っている。

多様性を認めていく。
そのためには、色々なマニュアルを知っておくことが大切である。
可能性が少しでも感じられるものなら、やってみる。
すると、初めて本当の良さも欠点も見える。
うまくいかないのは、やり方がまずいか、または自分と自分のクラスに合っていないのである。

組み合わせも大切で「自分としては合っていると思う手法だが、今年のクラスには合わない」ということもある。
だから、毎年やることが違ってくる。
取捨選択ができるのも、複数の手法(マニュアル)を持っていればこそである。

マニュアルは「手引き書」であり、いわば道具である。
例えば食事をするのに、フォークしか持っていないとする。
すると、カレーが出ても味噌汁が出てもフォークで食べるはめになる。
スプーンや箸があれば、違う選択ができる。
まあ、そんなところである。

マニュアルの多様性を認め、複数持っておく。
そのために、常に学び続け、マニュアルの更新とともに自分自身を更新する。
当たり前ながら、結構大切なことであると思う。

2014年11月10日月曜日

自主性を育てるためのマニュアル化

「子どもに自分でやらせてみよう」という、前号の話の続き。

マニュアル。
自主性の真逆にある気がする言葉である。
実際の「マニュアル」の意味は「手引き書」「取り扱い説明書」である。

自主性を持たせるために、マニュアルを作るのがリーダーの仕事である。
フランチャイズチェーン店には、必ずマニュアルがある。
親会社の社長は、全店舗に指導しに行けない。
だから、手引き書を作る。
マニュアルは「中学生が読んでも分かる」というレベルまで落とし込む。
それで初めてマニュアルとして機能する。
いちいち作成者が説明しないと伝わらないようなものは、マニュアルとはいえない。

マニュアルがあれば、とりあえず自分でチャレンジできる。
マニュアルが身に付いて「当たり前」になると、新しいことにチャレンジしたくなる。
チャレンジしてうまくいったことは、またマニュアルに書き込まれる。
この繰り返しである。

8の字跳びも、まずはマニュアルできちんと教える。
実践を通し、できなかったことをマニュアル化していく。
よって、常にマニュアルは更新される。

マニュアルが浸透しだすと、自主性が生まれる。
ある程度自分たちで基本がわかっているので、どうしたらよりうまくいくか考えるようになる。

注意して欲しいのは、こういう風に書くと、偏って解釈してしまう人がいる点である。
マニュアル作りが先なのだが、自主性ゼロでいいと言っている訳ではない。
割合の問題で、最初が「教える」:「考える」=9:1なのが、
だんだん8:2、7:3と移行していき、最後は1:9になるというイメージである。
だから、最初の教えるためのマニュアルは持っておいた方が良い、という話である。

8の字・大縄レポートは、何年も前から好評で、多くの人の手に渡って活用されている。
(そろそろ、更新バージョンも出さないといけないと思っている。)
普段、何となくやってうまくいっていることは、マニュアル化してみる。
マニュアル化されると、人の役に立てる。
「マニュアル人間」「マニュアル至上主義」などという俗っぽい語感の悪さに惑わされない。
マニュアルも「根本・本質・原点」が大切である。

2014年11月8日土曜日

できることより変わること

8の字&学級経営シリーズ。
今回は次の言葉より。

「できることより変わること」
(『心に刻む日めくり言葉 教師が述べるための 野口芳宏 師道』
野口芳宏著 さくら社 より引用)

8の字跳びに限らずだが、教師はつい「できた」に着目してしまう。
本気でできるようにさせたいと願って、一生懸命熱心にやるほどそうなる。
結果や記録が欲しいのは、当然の心理である。

クラスで一番跳ぶのが苦手な子どもがいる。
何回、何十回やっても、うまくいかない。

「跳べた」という結果だけに着目すると、毎回「変化なし」である。
よく見れば、僅かずつだが変化している。
10回躊躇してから縄に入っていたのが、9回になっている。
中に入って縮こまっていたのが、わずかながらジャンプしようとするようになっている。

そういう小さな変化を認めることが大切である。
「認める」=「見て留める」、つまり見る側の意識にかかっている。
視点がなければ僅かな変化も「あれども見えず」になる。

経験から言うと、毎回ひっかかって跳べない子どもは、「ひっかかるのは悪いこと」というマインドセットがされている。
そうではなくて、縄に入れたこと、入り方が変わったことに価値を見いだせるようにする。
「ひっかかるのはチャレンジした証拠」「ひっかかったら縄に入れたことを喜ぶ」ということを、まず教師がやる。
ひっかかった瞬間に「ナイストライ!」と言うのを口癖にしておく。
主体変容・率先垂範である。
そうすると、周りの子どもにも伝播する。
やがて、本人にも、挑戦意欲が湧いてくる。
「安全・安心」ベースがあっての挑戦意欲である。

挑戦できる安心ベースを作るのは、教師の姿勢。
教師が「できることより変わること」の精神を常に持っておけば、子どもはすぐにできなさそうなことでもどんどん挑戦できる。

忘れがちだが、常に思い出したい言葉である。

2014年11月5日水曜日

子どもにやらせてみる

前号で「うまくできなくてもやらせる」ということを書いたので、そこに関連した話。

地元の国語の指導主事の先生からの学び。
同僚の先生の行った校内授業研の後の協議会(テーマは「学び合い」)で、次のようなことを話していただいた。
「先生の美しい説明よりも、子どものたどたどしい説明を。」
「先生の関わりを、子どもたち自身ができますか。」

つまり、全部教師がうまくやろうとせず、子どもにやらせてみよとのことだった。

以下は、それを聞いての自分の解釈。

子どもにやらせると、うまく伝わらない気がしてしまう。
補足説明程度なら必要かもしれない。
しかし実際は、補足どころか、子どもがやった何倍もの時間をかけて説明してしまう光景をよく見る。
(特に、算数の授業研で顕著である。子どもの発言のまとめは、難しい。)
子どもからすれば「じゃあ、最初から先生が説明すればいいじゃん」と思ってしまう。
やがて「待っていれば、先生が正しい答えを教えてくれる」という受け身の姿勢を作り出す。

子どもが自分の頭で考えないとか、自分でやろうとしないと嘆く時、それは大人の責任ではないか。
我々の立場で言えば、学校教育の責任である。
例えば幼児は、全部自分でやろうとする。
それが経験によって、「失敗するならやらない方がよい」と学んでしまう。
教室で、どれだけ失敗が本当に「称賛」されているか。
これによって、チャレンジ精神の有無が決まる。
自主性を持たせたいなら、失敗を推奨して褒める必要がある。

安全さえ確保できるなら、どんどんやらせてみる。
余計な口や手を出さずに我慢。
辛抱強さが、勝負の分かれ目である。

2014年11月3日月曜日

8の字跳び 子どもだけで回すメリット

8の字跳びの回し手の話に戻る。

8の字跳びを自分で回す。
回しながら、逆の手で苦手な子どものケアをして背中を押したりしながら、さらに並んでいる子どもにも声をかける。
跳び方にも注意しながら、もう片方の回し手の子どもも見て、跳んだ後の動きにも目を配る。
千手観音よろしく、八面六臂のめまぐるしい働きである。
当然、かなりの汗をかく。
そうすると、真面目にやっていない子どもに対して、腹が立ってくる。

こうなると、悪循環が生まれる。
マイナスを注意して、全体の雰囲気が悪くなり、さらにパフォーマンスが落ちる。
その内、「やりたくない」という子どもが出てくる。

教師が一生懸命やればやるほど、陥りがちなパターンである。

ここに陥らないために、一歩離れて見る。
当事者になりきらずに、責任は持ちつつ、あくまで外の視点を持つ。

がんばっているのは教師でなく子どもたちなので、客観的なアドバイスができる。
円座してミーティングする時も、子どもたち自身が当事者意識を持ちやすい。

一緒に回すメリットも勿論あるのだが、個人的にはなるべく子どもに任せたい。
自分と子どもの状態を見て、合う方法を選択することが大切であると思う。

2014年11月1日土曜日

8の字跳び まずは少数精鋭を育てる その2

前号の続きで、先に少数精鋭を育てることのメリットを述べる。

先に少数精鋭を育てるというと、何だか苦手な子どもを放っておいているような冷たいイメージがある。
(便宜上、本稿では8の字跳びに対して「得意な子ども(=○)」「苦手な子ども(=△)」とそれぞれ表記する。)
真実は、真逆。
苦手な子どものために、得意な子どもを育てる必要がある。

どういうことかというと、得意な子どもが、苦手な子どもをカバーしてくれる。
たとえば苦手な子どもは、縄に入るタイミングが遅い。縄から出るのも遅い。
つまり、△△△・・・と並ぶと、後ろにいくほどどんどん跳ぶのがきつくなる。
逆に○△○と配置してもらえば、苦手な子どもも跳べて、後方へのしわ寄せも消してくれる。
この作戦でいくと○△○△○・・・という配置になる。

つまり、得意な子ども(○)は苦手な子ども(△)と同数以上必要になる。
だから、得意な子どもを増やせば、苦手な子どもが救える。
8の字跳びは、チームプレーである。
自分だけ日本一跳ぶのがうまくても、全く記録は伸びないのが特徴である。

また、自分だけモチベーションが高くても、記録が伸びない。
仲間のモチベーションをいかに上げるか。
それは、良い雰囲気作りであり、まずは得意で前向きな子どもが中心に作っていく。
だんだんと周りを巻き込んでいく。
やがて苦手な子どもをみんなが応援、サポートして跳ばせて、全員で喜ぶ。
「クラスで一番運動が苦手」という子どもが跳んだ時は、必ず全員がわっと喜ぶ。
この時一番嬉しいのが本人で、次に嬉しいのが直接サポートした得意な子どもである。

そして、少数精鋭は、育てやすい。
最初からモチベーションが高い。
プラスに目を向けて、まずは長所伸展。
明治維新の志士を育てた吉田松陰先生も
「長所伸展、短所無視」と仰っている。
人間は、短所に着目されるときつい。

短所ばかりを見て、長所に目を向けない事態を避ける。
授業全般でも同様の、学級経営の大原則である。

2014年10月30日木曜日

8の字跳び まずは少数精鋭を育てる

8の字跳び実践編。

跳び手を育てることについて。

8の字跳びをやることになるとする。
校内大会がある場合が多い。
市や県単位の大会があるとなれば、気合いが入る。
インターネットランキング等への参加がきっかけかもしれない。
色々な事情があると思う。

どういう事情で始めるにせよ、「クラス全員8の字跳びが大好き」という状況はない。
始める段階で、好き・得意が半分、嫌い・苦手が半分なら御の字である。
後者が多いことだって往々に有り得る。
やっていく内に良い方向にシフトするにせよ、全員「好き」にはならない。
苦手だけどやるしかない、と腹を括ってやる子どもになってくれたら、感謝感謝である。

この辺りは、歌や清掃の指導と似ている。
まずは、積極的にやってくれる少数に注目する。
休み時間等にもやりたいと言ってくる子どもを鍛える。
そうすると、その少数のメンバーはかなり上手になる。
すると、その少数精鋭が、他の子どもを引っ張り上げてくれる。
「苦手」という子どものカバーにも入ってくれる。

つまり、嫌い・苦手という子どもに最初から着目しない。
特に「嫌い」という場合は、周りの雰囲気に左右されやすいので、本人を直接指導しても無駄である。
無視するのではなく、目の端に入れながら、無理をさせない。
あくまで、一時的に積極的に関わらないだけである。
「大丈夫、その内うまくなるからがんばろう!」と軽く&明るく言っておけばよい。
軽い感じではあるが、長い目で見て、根拠のある励ましである。

まずは、先に少数精鋭を育てること。
成功の秘訣の一つである。

2014年10月28日火曜日

8の字・大縄 回し手は教師か子どもか

8の字・大縄へのブログアクセスが急上昇中である。
需要の高いこのネタでしばらく書いていく。

8の字も大縄も「回し手が8割」である。
特に初期段階ではこれがいえる。
大縄に関していえば、回し手が最低レベルまで育たない内は、中で跳ぶ練習はほぼ意味がない。

そんな大切な回し手だが、これを教師がやるか、子どもがやるかということは違いが大きい。

教師がやる場合を考える。
最大のメリットは、安定感。
初期段階から跳ばせられる。

また、教師も一緒にやっているので、一体感も得やすい。
学級経営における「縦糸」が強くなる。
短所は、自分が回しているため、個別の指導がしにくいことが挙げられる。

子どもがやる場合を考える。
最大のメリットは、子どもたちだけで運営できる点。
回し手さえいれば練習になる。
レベルが上がると、自分たちだけでまとまって真剣な練習ができるようになる。
学級経営における「横糸」が強くなる。
また、教師の手が空くので、外の視点で見ることができ、それぞれの場で個別指導できる。
短所は、初期段階でうまく回せないこと。
最低二人の回し手を育てないといけない。
育つまで、練習の進みも悪い。
いわゆる「初期投資費用」がかかる。

どちらが良いとは言い切れない。
状況やねらいによって、手段は異なる。
低学年か高学年かによっても違う。
たとえ中学生であっても、回した経験がなければ、いきなり回させるのは無理がある。
(正しい知識ゼロで練習に臨むのは、能率が非常に悪い。)
適切な手段の見極めが大切である。

自分の場合を例に示す。
最初は一緒に回す。
ペアで回す子どもは、色々と変える。
良い回し手になりそうな子どもの目安の一つは、上手に跳べること。
良い跳び方が分かっている子どもは、回し方にも気を配れる。
(例えば、僅か1cmでも空中に跳べば縄が通る、というような感覚。)
その内、休み時間などに子どもたちだけで回して遊ぶようになる。
そうしたら、うまく回せるペアが自然発生するので、あとは任せる。

低学年でも高学年でも、そうする。
時間がかかるかどうかの違いだけである。
ねらいが、クラスの絆作りという「横糸」の方にあるからである。

教師も一緒になって回すことで、一体感を味わうのもいいと思う。
それも一つの醍醐味である。

長期的なねらいと現在の状況に応じて、どちらを選ぶのか、意識的に選択したい。

2014年10月26日日曜日

君子固より窮す、小人窮すれば斯こに濫る

地元サークル木更津技法研での学び。
野口芳宏先生による『論語』の講義。
野口先生は、『孔子』(井上靖著 新潮文庫)という本を読んで、次の言葉のくだりの話に、深い感銘を受けたという。

君子固(もと)より窮す、小人窮すれば斯(こ)こに濫(みだ)る

孔子の一団が災難に遭ってすべてを失い、食糧不足で立ち上がることもできないほどになった。
弟子たちが困窮の極みに達した時、弟子の一人が孔子をなじって次のように言った。
「君子であっても窮することがあるのか。」
その問いに次のように答えた。
「君子であっても窮することはある。
 小人は窮すれば必ず乱れる。
 しかし君子というものは、窮すれど乱れることはない。」
この言葉をきいて、弟子は孔子に深い感銘を覚え、一層奮起したという。


以下は講義を受けた私の感想。

例えば職場で、何か失敗をする。
自分はダメだと思う。
色々なことが嫌になる。

そもそも、この思考パターンが「小人」そのものだとわかった。
「窮する」状況に「乱れて」いる。

聖人君子であっても、失敗はする。
(この部分が勘違いしやすい。すごい人たちほど、深くきけばすごい失敗だらけである。)
困ることは起きるという前提である。
しかしそれにどう対処するかが、分かれ目なのだろう。

失敗した。
ではどうするか。
これを客観的に考えられることが、理想の人格に近付くことになる。

失敗から逃げるのが最低の対処法。
失敗に立ち向かう智恵を持ちたい。

2014年10月24日金曜日

「ついでに」読む

先日の木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。

国語の素材研究について。

ある一つの文学作品なり詩なりを授業しようとする。
その時、作品自体をあれこれ読むのだが、そこにもう一作業入れる。
それは、その作者の他の作品を「ついで」に読むこと。
あくまで「ついで」なのだが、これが授業に深みを増すという。

例えば室生犀星の「はたはたのうた」を授業する。
それならついでに犀星の代表作「小景異情」も読んでみる。
興味が出たら他の詩も読んでみる。
そうすると、室生犀星のものの感じ方が何となくわかってくる。
そうすると、「はたはたのうた」の授業が変わってくる。

簡単でかつ楽しい作業なので、「ついでに」の精神でやるようにしたい。

2014年10月22日水曜日

比較の意味

前号と関連して「競う」「比較する」ことについて。

保育園などで行われる幼児の運動会は、ほのぼのしている。
何というか、せかせかしていない。
(そのせいで終了時間が相当延びるのも常ではある。)

そもそも発達段階として、「競争」に対して興味が薄い。

例えば、障害物競走を見る。
ささっとクリアしてゴールできる子どもがいる。
一方、すごくゆっくりな子どもたちがいる。
最下位の二人がすごく遅い。
一人が、最後の障害物を抜け出した。
そのままゴールするかと思ったら、待っている。
お友だちと手をつなぎたかったらしい。
二人でゴール。
いい光景である。
(ちなみに、ずっと以前に話題になった小学生の運動会の「全員手をつないでゴールすべし論」とは本質を異にする。)

リレーなど見ていても、相手のチームの子どもがバトンを受け取るまで待ったりしている。
まあ、レースが二転三転して、見ていて面白いものである。
勝敗に関心があるのは観客側で、当の本人たちは「どこ吹く風」である。

競争というのは「他者との比較」である。
これが「磨き合い」につながる場合は良い。
オリンピックで最高新記録が毎回出るのもこの原理である。
競争原理は、存在価値がある。

しかし比較によって自己肯定感が下がるのであれば、この場合は不要である。
比較によって行動が抑制される場合も同様。
比較によって本質的に不幸になる場合は、全て不要である。

ちょうどいいタイミングで、上越教育大学の赤坂真二先生のお話で関連したことをきいた。
「クラス会議」という一つの手法についての話だった。
うまく実践できる学級がある。
びっくりするぐらいの「クラス会議」ができる学級がある。
自分のところは大したことない。
その比較自体が、無駄だということである。
たとえば「クラス会議」の手法は、実践によってクラスが良くなることが本質。
そこだけである。
そんなこと気にしてないで、さっさと実践して欲しいということだった。

前号の大縄の実践も同様。
回数はどうでもいい。
回数を設定することでクラスがまとまることに意義がある。

どんな実践も、根本・本質・原点を見失わないようにしたい。

2014年10月20日月曜日

大縄100回ストーリー

最近、ブログでまた大縄の記事に関心が集まってきたので、大縄ネタ。

今年の夏、読者の方からいただいたメールを紹介する。
大縄だけでなく、学級経営に大切な要素が凝縮されたストーリーである。
ブログに載せるにはやや長文ではあるが、紹介する価値が高いと思うので引用する。

(以下、メールの引用)
===================
松尾先生

 ○○と申します。
 以前、松尾先生に大縄跳びに関する資料を依頼いたしましたところ、
 ありがたいアドバイスとともに、資料を送ってくださいました。
 お忙しいところ、本当にありがとうございました。

 私のクラスは今年度、6年生34名。
 大縄跳びは見よう見まねでスタート。
 はじめは、縄の長さも10mの縄でやらせていました。
 34名が入りきらないので、出席番号でとびとびの17名ずつ2チームに分けました。
 2チームで競いながら始めました。

 松尾先生に資料をいただいてから、さっそく20mの長縄を2本購入しました。
 もう2チームに分けていたので、チームはそのままで続けています。
 結果を記す折れ線グラフを教室前方に貼り出しました。
 跳び方、回し方の指導もしました。
 回し方では、実際に松尾先生のクラスの子の回し方を見せました。
 教職ネットマガジンの映像です。
 とてもよくイメージがつかめました。
 2チーム4名の回し方が格段によくなりました。

 記録は,松尾先生のクラスのようにはなかなかいきません。
 でも、着実にグラフは右肩上がりになりました。
 視覚化するといいなあと実感です。

 7月。女の子が1名、家庭の事情で急に転出することになりました。
 彼女が来る最後の日。
 お別れ会のプログラムの中に大縄を入れました。
 それまでの最高は、たしか73回と59回だったと思います(ちょっと今、手元に記録がないので)。
 彼女が入っている方は、59回のチームでした。
 この日、ささやかですが、ドラマが作れました。
 両チームとも、100回ジャスト連続で跳べました。
 100回は初めてでした。
 しかも、2チームとも100回。
 はかったようにぴったりでした。
 私も声を枯らして数えていたので、間違いありません。
 始めに79回のチームが100回を達成。
 大歓声が体育館に響きました。
 もう一つのチームも、100回に近づくにつれて、一緒に応援していました。
 これがよかったです。
 そして、刺激をもらったようです。
 次に跳び始めた彼女の入っているチームもどんどん連続で跳び、
 100回ちょうどでとまりました。
 これも全員が大歓声でした。
 互いがいい意味で競い合うことができました。

 ハイタッチやらハグする姿があちこちで見られました。
 子供たちもとてもうれしかったことと思います。

 1学期の思い出を振り返らせたとき、作文に最も多く書かれたのが、この大縄跳びでした。
 大縄跳びは、実は毎日続けられていなくて、週に2回か3回のペースです。
 でも、2学期以降も、できるときを見つけて続けていきます。
 「500回いけるかも」と言っている子供もいますが、
 私としては、たとえ100回でも、クラスが一つになるという目的に近づければ言うことないです。

 次回はたぶん、ガクッと落ちることになると思います。
 でも、それもグラフに記して、ありのままを記録しながら全力でやっていきたいです。
 まだまだクラスは一つになっているとはいえません。
 私自身がプラスの気持ちでこれからも頑張っていきます。

 またこれからも先生のメルマガなどで学ばせていただきます。
 私も年齢の関係で、あとクラスが何回持てるかわかりません。
 クラスを担任できることに心から感謝して、悔いを残さず完全燃焼したいです。
 そして子供の力を引き出したいです。
 言葉にするのは簡単ですが、どこまで実践できるかなあと、弱気になることもしょっちゅうですが。

 お忙しい先生に拙文を送りまして、申し訳ございません。
 どうもありがとうございます。
=====================
(以上、引用終了)

ところどころ、学級経営においても大切なポイントが散りばめられている。
最初のステップからの上達の方法も示されている。
「100回未到達」の時点からの実践報告が、多くの方に参考になると思う。
「目指せ1000回」とは違い、また参考になると思う。

ところで、なぜ突然「両チームジャスト100回」というドラマが生まれたのか。
これはひとえに「信念」の一言につきる。
こういうドラマは、「信念」を持って臨むと、たびたび起こる。
つまり、偶然ではなく必然である。
精神論のようだがそうではなく、信念があると行動がついてくる。
行動があると結果がついてくる。
天地自然の理である。

そして、引用文の中にもあるように、回数は問題ではない。
100回だろうが1000回だろうが、そこは関係ない。(そもそも、他との比較に意味がない。)
目的は「クラスが一つになる」。
そして、「子どもの力を引き出したい」。
これである。
これを外すと、無意味どころかマイナスにすらなり得る。
完璧にここをおさえている点に感動した。

また、この先生は、私よりはるかにベテランの先生である。
すごい先生は、みな謙虚である。
本当に頭が下がる。
私自身、こういう方にずっと教わりたいと思う。
そして、年齢に関係なく、ひたすら学び続けたいと思う。

技術論なら、聞いていただければいくらでも伝えられる。
しかし熱意だけは、本人の内から湧き出るものしかない。
「やる気スイッチ」が教師自身に入っていることが、最大の成功要因である。

2014年10月19日日曜日

「やる気スイッチ」好評の御礼とお願い

今回は敬体で書きます。

「やる気スイッチ」の本がお陰様で好評です。
読者の皆様のお陰です。
ありがとうございます。

読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ほんの少しでいいのでレビューを書いていただけると幸いです。

明治図書オンライン↓(こっちはレビューが0です!)
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1
アマゾン↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4181646149/ref=zg_bs_tab_pd_bsnr_2
よろしくお願いいたします。

2014年10月18日土曜日

授業で最も「おいしい」のはどこか

授業で最も「おいしい」のはどこか。
それは「子どもが間違えるところ」である。
AかBか問うた時、「意見が真っ二つに割れるところ」である。
もっというと「間違えている方がやや多数派」だとさらに面白い。
うまくやれば、逆転現象が起きる。

先日、校内で他クラスの国語の授業を参観した。
教材名は「きつねのおきゃくさま」(教育出版2年上)。
(ちなみに、教務主任が飛び込み授業をかって出た。
そういう先生が校内にいるのは有難いことである。)

物語を知らない読者の方のために解説すると、
1 はらぺこきつねがひよこを見つける
2 食べようと思ったがひよこがやせててとってもフレンドリーなので家で育てる(「太らせてから食べよう」)
3 あひるとうさぎも同様に育てる内に、情が湧いてくる
4 おおかみが、育てた3匹をねらって襲ってくる
5 きつねは命がけで3匹を守って死ぬ
大体そんなお話である。

次の問いを出した。
「きつねが戦ったのはなぜですか。」
子どもから大きく次の二つの答えが出た。
A 3匹を守るため
B えさをとられたくないから

AかBか問うと、1:2の割合でBが多数派。
最も「おいしい」展開である。

この後、きつねがおおかみに挑むことの無謀さについて考えることを中心に授業が進んだ。
それでも頑なにBの立場を貫く子どもが多かった。

ここをしっかり理解するには、前半部の丁寧な読み取りが不可欠である。
つまり、きつねが3匹を育てる中で、気持ちがどう変化していくかを本文を根拠に正確に読む。
最終的に「食べる気」がどれぐらいあるか、また「きつねの愛情の変化」を正しく読み取れれば、先の誤読はいなくなるはずである。
残念ながら今回はその時間はなく、一旦授業が終了した。
その後、担任の先生がどう展開するのか、非常に楽しみである。

授業の中心発問は「意見が割れる」ものを選ぶ。
子どもの「不備・不足・不十分」を見抜いて問う。
「一読しても気付かない」「問われなければ気付かない」ものを選ぶ。
補助発問は必要最低限に抑える。
一読してほぼ全員が分かるものは授業で扱う価値がない。
前菜でお腹いっぱいになってメインが食べられないような事態は避ける。

おいしいものはおいしくいただく。
また、その価値や食べ方を知って食べた方が、よりおいしくいただける。
授業も料理も、そこは同じである。

2014年10月16日木曜日

作品を作者から独立した存在として認める

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。
以前も似たことについて書いたことがあるが、読者の皆様のためになりそうなので書く。

「書誌学」という学問がある。
ウィキペディアによれば、
「書籍を対象とし、その形態・材料・用途・内容・成立の変遷等の事柄を科学的・実証的に研究する学問のこと」
とある。

例えば、ある詩人の作品を授業するとする。
その時、作品そのものだけでなく、作者である詩人の人生を徹底的に調べる。
すると、詩の背景にあるものが見えることがある。
これはこれで大変意味のあることである。

具体例として、次の短歌を見てみる。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

正岡子規の作品である。
これを「病床につき、寝たきりのまま庭を見てつくった」という背景を知ることで、見え方が変わる。
より深く味わえるともいえる。

ただ、これは作品を純粋に鑑賞している姿勢とは異なる。
「病床についた稀代の俳人正岡子規の作品」として見ていることになる。
これが、例えば私が作った短歌だとしたら、大分解釈が変わることになる。

つまり、授業において、作品は「作者の手から独立した存在」として認めるべき、という考えである。
子どもは作者がどんな人生を送ったかをいちいち調べて読む訳ではない。
だから、その作品そのものと向き合って鑑賞する態度が大切だということである。

国語を研究しつづけてきた大家の先生の言葉だからこそ、説得力がある。

余談だが、俳句で句会をする時には、作者が誰だかわからない。
誰が作ったかではなく、作品そのものを選ぶ。
作者は抜きにして、優れた作品が選ばれる。
だから、作品そのものを真剣に見ることになる。

書誌学に疎いことを気にして「私には良い授業ができない」などと言わず、
まずは目の前の作品を自分自身が全力で味わうことが大切である。

2014年10月14日火曜日

「褒める」は縦で「感謝」「共感」は横

褒めるシリーズ第3弾。

前号に書いた通り、「褒める」「叱る」はよく効くが、劇薬の効果がある。

「褒める」の代わりに意識的に使いたいのが、「感謝」と「共感」である。
これらは、「褒める」に比べ、やんわりと効く(ような気がしている)。
「漢方薬」のイメージである。

具体例を挙げる。
例えば、掃除の場面。
一生懸命やっている子どもに対して。
「すごいね」「えらいね」「上手だね」は、褒め言葉。
一方「ありがとう」「○○さんがいてくれて助かる」は、感謝。
また「きれいになって気持ちいいね」や、一緒に掃除をして目を合わせた時に微笑めば、共感。
(ちなみに掃除等の場面で「共感」するには、相手と一緒の作業をしていることが前提条件である。
もし一緒に作業をしていない状態で同じ行為をすれば「褒める」に近くなる。)

褒め言葉が上から下の縦関係に対し、感謝と共感は並列の横関係である。
ちなみにこれはアドラー心理学で言われていることで、この考えでは横関係が望ましいとされている。

個人的には、やはり褒めることも叱ることも必要だと思っている。
ただ、教師と子どもの縦関係がある程度築けたら、なるべく感謝と共感を増やしていきたい。

自分がどちらを多く使っているか、意識して観察してみるのも面白い。

2014年10月12日日曜日

「褒める」の効能 取り扱い注意

「○○したら△△をあげる」という△に「品物」が入っても「褒め言葉」が入っても結局は同じである。
「品物報酬」は、単に物欲が強い人ほど効果が高い。
一方の「褒め言葉報酬」は、教師や親の期待に応えようという素直で真面目で、かつ愛情に飢えている子どもほど、効果が高い。
また、加えて○に「負の行為」が入ると△には「罰」というのも、同様に効果がある。

何のためにやるのか。
先の「○○したら△△をあげる」の思考パターンを刷り込めば、「何のために」は「ご褒美のため」と即答である。
逆に、褒美につながらない=教師が見ていない行為は、価値を失う。
(そう考えると「褒め言葉のシャワー」という実践は、「無条件」で「みんな」に褒められる点が秀逸である。)

何のためにやるのか。
本来は、それぞれの行為毎に明確な目的があるはずである。
掃除を一生懸命やるのは、「自分を磨くため」かもしれないし「人の役に立つため」かもしれない。
隣の友達を助けるのは「人の役に立つのが嬉しいから」かもしれない。
これが「先生や人に褒められるため」では、やはりレベルがまだ低い。
褒めることを報酬にする習慣付けをすると、褒められることが目的化するという弊害が出る可能性がある。

親や教師の褒める行為は、切れ味鋭い諸刃の剣である。
長所と短所とを含んでいる、劇薬である。
何気なく放った一言が、子どもの心に深く入る。

それを自覚し、使いこなすことは、容易ではない。
医者が薬を処方するのと同様、その効果を考えて使用しないと、マイナスの効果も生む。

褒めるという行為は、叱るという行為以上に、取り扱い注意である。

2014年10月10日金曜日

「褒める」は劇薬

自分の参加しているML上で「褒める」が話題になっての一考察。

一般的に「褒める」という行為にはみな肯定的である。
「ものすごい叱られ方をされた」ということが問題になっても、
「ものすごい褒められ方をされた」ということが問題になることは少ない。
(相手を褒めた「つもり」が問題に、ということは稀に有り得るが。)

「褒める」は「陽」で、「叱る」は「陰」のイメージである。
しかし陰と陽は一対で一つの完全体である。
片方だけでは存在しない。
つまり、どちらかが良くてどちらかが悪いというものでもない。
どちらにも長所がある一方、どちらにも短所がある。

褒めることに、果たして短所があるのか。
褒めるブームに逆らうような気もするが、反対意見が全く出ない、出にくいという類のものは、自分の頭で考えないと危ない。
「前提を疑え」である。
よって、褒める行為の短所を考えてみる。
(長所は一般に山ほど言われているので、ここでは割愛。)

いくつか考えられるが、ここでは最大の短所一つだけについて述べる。
一番の短所、それは「褒められるからやる」という価値観の人間を育ててしまうことである。
つまり、報酬で動くということである。
親や教師に褒められるというのは、子どもにとって最大の報酬になりうる。
報酬と行為をセットにするというのは、調教の手法であり、効果は高い。
(ちなみに報酬には「罰」のような「負の報酬」も含まれる。)
褒められることが目的化すると、褒められないとやらないということにもつながる。
よく「ご褒美でつるのはいけない」といわれるが、褒め言葉も立派なご褒美の一つである。

長くなるので次号に続く。

2014年10月8日水曜日

最新の情報は頭の中にあり

ある若い科学者の方とお話する機会があった。

その方曰く、
「雑誌や論文に発表されている時点で、それは最新の情報ではないのです。」
というお話をうかがった。

つまり、本などの形で世の人が見ている時点で、書いた本人の頭の中は先に進んでいる。
「最新の情報は、その人の頭の中にあります。
だから、直接会いに行って聞きます。」
ということだった。
特に日進月歩、一人勝ちの科学の分野は、シビアである。
発表が一日早いか遅いかで、今までの苦労が水泡に帰し、天国と地獄の結果に分かれる。

そういったシビアさこそないが、なるほど、これは特に本やセミナーに通じる考えであると感じた。
この夏に発刊された「やる気スイッチ押してみよう!」についても、同様のことがいえる。
私と共著者の飯村先生と二人で本について話した時のこと。
二人で意見が一致した点が二つある。
一つ目が、有用なとてもいい本に仕上がったという点。
二つ目が、一方で、もう自分の中では理論が進化しているという点。

つまり、本を書いている時期と出版される時期のタイムラグがかなりあるということである。
だから8月16日の「やる気スイッチセミナー」では、本に書かれていない内容が結構入った。
本は、体系的にまとまった情報が入るので有益である。
一方で、セミナーは、情報量としては本より少ないが、最新の情報が入るので有益である。

他分野の方とお話すると、いつも気付きが多い。
時に自分の専門分野以外の職業の方と接する機会を持つことも大切である。

2014年10月7日火曜日

8の字跳び実践 メルマガ配信中のお知らせ

現在、ブログアクセスが8の字・大縄の記事に集中してきている。
それを受けて、メルマガ上で8の字跳びの実践を中心に配信している。

まだ記録の低い初期レベルからの実践記録になるので、取り組み始めの人には特に参考になると思う。
興味のある方はぜひメルマガにご登録を。

2014年10月6日月曜日

「まずは」人気の先生になろう 考察

「まずは」次の本を、項目だけでも読んでいただきたい。

『どの子の信頼も勝ち取る!まずは人気の先生になろう!』
飯村友和著 明治図書↓
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-052640-6

過去何度か紹介している、親友の飯村友和先生の単著である。
大変実用的な本で、自分もよく活用させていただいている。
例えば紹介されているマジックも、びっくりさせるより腰砕けな感じで、とっても使いやすい。
本当に「新卒3年目」までの先生を対象にしているので、使いやすい。
何でもそうだが、本当にわかりやすいものは、誰にとってもわかりやすい。
よくプレゼンや説明は「中学生でもわかる言葉で」という。
難しい教育哲学の本は、後回しでも良いと思う。
「名人」の本は必ず読んだ方がいいが、実践するとなるとかなり難しいことは誰しも経験済みだと思う。
背伸びも意味があるが、読みやすくやりやすい本からとりかかる方をおすすめする。

前にもどこかで書いたが、この本のタイトルの「まずは」の部分が大切である。
特に、新卒3年目までは、人気の先生を目指すのがいい。
実年齢として若く、子どもと年齢が近い。
入りから子どもの目の輝き、期待が違う。
保護者は不安に思う点もきっとあるが、それも「人気の先生」なら子どもがカバーしてくれる。

ベテランにも、「人気の先生」は存在する。
しかし、若手の「人気の先生」とはかなり内実が違う。
こちらは、子どもが担任発表で大喜びするというより、学校だけでなく保護者や地域から全幅の信頼を得ている場合が多い。
安定感抜群で、子どもがぐんぐん力をつける。
子どもの方は、最初は少し「おじさん(おばさん)先生か~」となることもあるが、徐々に惹きつけられていく。
一言でいうと「かなわない」実力者である。

そしてどんな「人気の先生」だって、万人受けはしない。
人間である以上、必ず合う合わないがある。
全ての子どもの好みを一人でカバーするなど、不可能である。
(もしできていると思っていたら、それはかなり危ない。)
また、「信頼しているけど好きじゃない」ということだって有り得る。

何でも、やってみたら視点が変わる。
在学中は鬱陶しいほどに寄ってきていた子どもが、卒業後はさっぱり音信不通、ということはよくある。
逆に、自分は嫌われていたのではと思っていた子どもが、きちんと毎年連絡をくれたりもする。
心の奥までは、わからない。
好かれていようが嫌われていようが、ただ、今やれることをやるだけである。

それを踏まえた上で、「まずは人気の先生」を目指すのがいいかと思う。
「人気の先生」になることも、一つの大切な経験値である。

2014年10月4日土曜日

高熱に思う「感謝」と「予防」の大切さ

熱を出した。
39度を越える高熱が2日続いた。
どんなに高熱でも、1日で治るというのが常だった。
単なる風邪で2日高熱が続いたのは、小学生の時以来である。
さすがに辛かった。
また、なぜか「土日に発熱」という傾向が強かったのが、平日ど真ん中になってしまった。
2日間も学校を休まざるを得なくなってしまった。
出席するはずだった大切な会もパスせざるを得なくしてしまった。
残念な話である。

さて、熱を出したり大きなケガをすると、必ず2つのことを思い出す。
似たようなことを書いたことがあるが、忘れてしまうことなのでまた書く。

一つは、日常への感謝である。

当たり前のことへは、感謝しにくい。
空気のように当たり前にあるものには、存在すら意識しない。
なくなった時に、初めてその大切さに気付く。
風邪を引くと、身に染みる感謝がたくさんある。

まず何より、健康。
「普通に立って歩ける」ということは、有難いことである。
「痛みにさらされていない」ということは、有難いことである。
自分の体を苦もなく自由に動かせることは、当たり前すぎて有り難さに気付かない。

次に、家族。
一人でセルフ看病をしたことのある人は分かると思うが、何をやるのも辛い。
特に、食事など、面倒この上ない。
飲み物や薬が足りなかったら自分で買い物に出ないといけない。
氷枕の用意も交換も、病気の時は何もかもが面倒である。
これを一手に担ってくれる家族がいるのは、この上ない有り難さである。
心配してもらえるのも有難い。
よくよく考えると、病気でない時も、普段から何もかもやってもらっていることに気付く。
感謝が足りていないことに気付く。

職場もそうである。
熱が出たと言えば、管理職から同学年まで誰しもが「ゆっくり休んで寝てなさい」と言ってくれる。
「這ってでも来い」などという人は誰もいない。
必要な時に快く休んでいいと言ってくれる職場にいる有り難さも、気付けていない。
学年のサポート体制も然りで、いつも当然のように色々なことをやってくれている。
有難い限りである。


さて、「感謝」と併せてもう一つ気付くのが、「予防」の大切さ。
予防を軽視した慢心が失敗を生む。
今回の件に関していえば、一週間前から喉がかなり痛かった。
いつもなら「一病息災」の原則で即耳鼻科なのだが、あいにく少しばかり忙しかった。
「大丈夫、大丈夫。」で乗り切って時間を節約したつもりが、この様である。
少しの先手(予防)を怠ったために、大きな代償(治療)を払うことになった。
学級経営にも通ずる話である。

失敗は成功のもと。
神様からのメッセージだと思って、改善していきたい。

2014年10月2日木曜日

「やる気」以前の問題の可能性を考える

前号の続き。
「できない」の原因を考える。

以前も紹介したことがあるが、例えば「動作性IQ」が極端に低い子どもがいるとする。
(特別支援教育のスペシャリスト、川上康則先生からの学びである。)
何度テストをしても、漢字が書けない。
「やる気がない」「練習不足」と思いたくなる。
実際、漢字練習もあまりやってこないし、字もぐちゃぐちゃである。
しかし、真実は「文字が記号にしか見えない」という視覚的な情報処理の問題があったりする。
見えないものは見えないのである。
「そんなはずはない」と思うが、そうなのである。

逆の例で考えればわかりやすい。
例えば私には絶対音感がない。(多分、読者の方々もない人の方が多いと思う。)
だから、単体である一つの音を聞かされても、何の音かはわからない。
絶対音感のある人には、当たり前のようにわかることであるという。
「あかさたな」が聴き分けられるのと同じで、意識する必要すらないことらしい。
絶対音感のある人に言わせてみれば「わからないはずはない」のである。
視覚的にいうと、そんなもの「犬」と「太」の漢字の見分け方以上に簡単なことなのだろう。

しかし、私にはどうしてもわからない。
むこうから言わせてみれば「何でわからないの!?」だと思う。
わからないこと自体が理解不能だろう。
「絶対音感はみんなが持っているものではない」という概念がないとしたら、
「やる気がない」「練習不足」とみなされるかもしれない。

だから、自分と相手の情報処理の方法が違う場合、自分の感覚で考えても伝達がうまくいかない。
ただひたすらやらせてみてもダメである。

「できない」の源は何なのか。
この見極めさえできれば、問題は半分解決したも同然である。
逆に言えば、この見極めを誤れば、全て間違った指導にもなり得る。

教室には本当に「経験不足」なだけの子どもも混在する。
この子どもには経験値をどんどん積ませた方がよい。
叱咤激励も時に必要だろう。
一方で、逆効果になる子どももいる。
ここの辺りの見極めが、難しいところである。

何事も「根本・本質・原点」に着目することが大切である。

2014年9月30日火曜日

「できない」の源に着目する

子どもの「できない」の原因を考える。

先日、体育の表現運動として、フォークダンスの指導をした。
「ジェンカ」「タタロチカ」といった、キャンプファイヤーでもよく使われる踊りである。
学習指導要領上でも1,2年生の運動の例示として挙げられている。
まあ、言うなれば「簡単な踊り」である。

これが、低学年だと、思いの外うまくできない。
覚えていないだけだと思って、何回かやるが、やはりできない子どもがかなりいる。
原因を見てみると、まず、リズムがとれないのである。

思い返しててみると、音楽の授業でも、2拍のリズム打ちができていなかった。
根本的に、リズム感が十分に身に付いていないのである。
踊りの指導以前の問題である。

もう少し深く突っ込んでいくと、なぜリズム感が身に付いていないのか、ということになる。
最も考えられるのは、単なる経験不足。
これまでにリズムに乗って体を動かすような経験が少なかった可能性が考えられる。

しかし、別のもっと根本的な原因もありうる。
聴覚的な問題かもしれないし、手足の協応動作の問題かもしれない。

とにかくその場合、直接的に踊りを直そうと指導してもダメということである。
根性論でいくと悪化する可能性もある。

同じようなことは、例えば、算数の授業や漢字などにも当てはまる。

長くなるので、次回に続く。

2014年9月27日土曜日

外の視点をいただく

自分では、当たり前のようにやっていて、普通ではないことがある。
誰しもある。
例えば先日、同僚の一人の方は、理科の実験用具を作っていた。
ホームセンターで材料を購入して、トンカンやりながら楽しそうに放課後作っている。
この先生にとっては当たり前の風景である。
しかし私のように図工の苦手な人間には、結構腰が重くなってしまう作業である。

誰しも自分にとっては普通にやっていることがあって、そこが当たり前になっていることがある。
無意識にやっていることは、周りの人に聞かれないと、気付かない。

教室に実習生がいたりすると、新鮮な視点には事欠かない。
色々と質問される。
質問されて、「なるほど、なぜだろう」と新たな視点をもらえる。

先日は、大学生の方々にインタビューのようなものを受けた。
授業で心がけていることなどをきかれた。
尋ねられると、初めて考える。
言われてみると、色々意図しながらやっていることに気付く。

やはり、人様に見てもらったり、聞いてもらったりすることが大切である。
「外の視点」を時々いただくようにしたい。

2014年9月25日木曜日

授業に楽しさは必要か

低学年を持ってから、「楽しい活動」を取り入れる率が高くなった。
途中に作業をはさんだり、笑いを入れたりすることが多い。
無意識だったが、確実に高学年の時より多くなっている。

考えてみると、理由は一つ。
子どもの集中力が続かないからである。

高学年の子どもなら「やるべき理由」があれば動けることが多い。
勉強は必要と思えば、多少の苦があっても頑張ってくれる。
「○○しよう」「○○しない」という指導一つとっても、高学年なら理由の説明が重要である。
事前指導が大きな鍵である。

しかし、低学年は「雰囲気」重視である。
あまり深く考えず、何となく楽しそうならやる傾向がある。
そして、楽しければ延々とやる。
逆に、興味がないと全く動かない。
「やるべきこと」に集中させるために、「楽しい感じ」は大きな力になる。

つまり、楽しさは手段である。
楽しい授業がいいのではなく、楽しいと活動に集中するという効果がねらえる。
そして、授業の本質は学力形成。
「楽しいけれど学力はつかない」「活動あって学び無し」では、目的から外れる。
「楽しくはないが学力がついた、できるようになった」ならば、目的は達成である。
しかし、これは現実的に難しく、長続きしない。
やはり「楽しく力がつく」が理想型である。
一般企業のよく売れている通信教材などは、この辺りの工夫がすごい。
商売として成り立っているだけある。

今の子どもは、一昔前に比べて、集中力がないという。
我慢もきかないという。
確かにそうなのかもしれない。
しかし、そこを責めても、相手は変わってくれない。
授業をする側が工夫をして、授業を変えていく。
解決策は、主体変容に尽きる。

楽しさは、集中力を続かせるための手段である。
一方で楽しさは、「学校に来たい」というエネルギーを生み出す源でもある。
楽しく、学力のつく授業を目指したい。

2014年9月23日火曜日

「やる気スイッチ押してみよう!」

今回は宣伝です。

「やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり」
飯村友和・松尾英明著 明治図書

とっても売れ行きがよろしいようです。
皆様のお陰です。
ありがとうございます。

教育書が置いてあるような大手書店にはあります。
立ち読みで結構ですのでぜひ一度手にとって読んでみてください。
オンラインで立ち読みもできます。
明治図書オンライン↓
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1
アマゾン↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4181646149/ref=zg_bs_tab_pd_bsnr_2

2014年9月22日月曜日

空気を温めるのは表情

休み明け。
身体が重いのは大人だけではない。
生活リズムが元に戻るまで時間がかかる。
夏休み中に早起きを続けていようが、通常の勤務はやはり圧倒的に疲れる。
子どもも同様である。

しかし、どんより空気で進むのは良くない。

心が重いから体が重いのか。
体が重いから心が重いのか。
心と体はどちらが先かというと、相互関係である。

しかしながら、意思でコントロールできるのは、体の方である。
「ペンフィールドのホムンクルス」というものがある。
大脳の運動野と感覚野のどの部分が体のどこと繋がっているかを図示したものである。
その大部分が、顔、特に表情筋に使われるという。

つまり、表情を変えることで、脳に刺激を与えられる。
良い表情が、良い心理状態を作り出す。
ここを押さえる。

「鏡の法則」で、まずは教師の側が笑顔を心がける。
さらに「笑顔リレー」などの実践で、子どもの表情筋を動かす。
(「ニン!」と言いいながら、笑顔をクラス全員でリレーしていく実践。)
楽しい話で笑わせられたらなおいい。
笑わせること自体は目的ではなく、あくまで手段である。
良い空気作りが、良い授業、良い学級経営につながる。

表情一つ、できるところから心がけたい。

2014年9月19日金曜日

朋あり遠方より来る、また楽しからずや

またメルマガ上と時期がずれてしまうが、夏休み明けの記事。

夏休み明け、2学期初日。
やることはたくさんある。
子どもたちと久しぶりに会う。
何を最も大切にするか。
何にもっとも力を入れるか。

人によって違うが、自分なら「感謝と喜び」を伝えることを最重要視する。

兎にも角にも、重い身体を引きずって学校に来た。
普段の生活がしんどい子ほど、来るだけでもがんばっている。
来て顔を見られただけで、こんなに有難いことはない。
実際は、学校があるから来たに過ぎないだろうが、それでも来たこと自体が素晴らしい。

私の尊敬する野口芳宏先生は、講演をすると冒頭に必ず感謝の念を述べる。
論語の「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」だという。
わざわざ会いに来てくださることほど有難いことはないという。
講演の後に片付けをした後でも、もうその場にいない人への感謝の言葉を延々と口にしている。
本当に嬉しいようである。
「知恩・感恩・謝恩・報恩」の、気付きの力であると思う。

前号で書いたように、宿題忘れもいるかもしれないが、それでもよい。
最悪「宿題をやっていないから休んだ」という事態だって考えられる。

来てくれただけで、花丸。
子どもがいるから「先生」でいられる。

いつでも休み明けは、久しぶりに出会えた感謝と喜びを伝えたい。

2014年9月15日月曜日

夏休みの宿題のねらいは何か

前号の続き。
夏休みの宿題のねらいは何か。

本来は「生活習慣の形成」であると思う。
前号に書いた「ダラダラ防止」である。
これには、日記のような、日々やらないといけない課題が適切である。
毎日コツコツ続けることで、学校がある日に近い理想的な学習習慣をねらう。
(しかし、大抵ねらいが達成されないのも、この課題の持つ問題点である。)

自由研究や工作の場合はどうか。
「長期休みならではの豊かな体験・継続的な活動」
「創造性を育む」
「自由な表現の場」
というあたりでないかと思われる。

本来の目的とは別に、自由研究や工作を「親子のふれあいの場」とも捉えられる。
正直、低学年の子どもが自力で全てやるのは難しい。
「海の生き物を調べたい」となれば、海に連れて行く必要が出る。
写真を撮ったりプリントしたりも手伝う。
まとめ方や書き方も、一緒にアドバイスしながらやる。

本来は「全部自分でやらせればいい」と思うが、理想論であって現実的でない。
授業で算数の問題を解く時と同じである。
自力でどんなに考えたって、わからないものはわからない。
「自律と自立」が基本なので、自力でやれることは極力手を出さないが、やれないことは手伝う。
親と子どもが協力する場となる。

逆に考えると、親が協力できない環境にある子どもには、本当に厳しい課題となる。
どこにも連れて行ってもらえない子どももいるかもしれない。
一緒に課題をやれない家庭もあるかもしれない。
たくましい子どもや要領のいい子どもなら、それでも何とか終わらせるだろう。
可哀想なのは、そうでない子どもたちである。
そういう子どもにとっては、どうしたらいいのかわからないまま、夏休みが終わることとなる。

始業式、夏休みの課題をたくさんの子どもが持ってくる。
中に、忘れる子どももいる。
担任として「忘れました」ならまだしも「やってません」は、「1ヶ月もあったのに!?」と思う。

ここで、一呼吸。
家庭環境に思いを馳せることが一つ。
もう一つは、我が身を振り返ること。
自分自身「夏期休業中にやるべきことは完璧にやれました」と胸をはって言えるか。
自律の力が高い(はずの)大人にだって難しい。

どう対応するか、マニュアルは無い。
ここは子どもによって、多少違いが出る。
ただし芯は「育てる」ことである。

宿題忘れを、予想しておく。
忘れたら、「想定内」の対応。
もし持ってきたら、めちゃくちゃ褒める。
2学期をお互い気持ち良く過ごすために、こんな作戦でいってみた。
(結果、最終的に全員きちんと課題提出が完了し、めでたしめでたし。)

2014年9月13日土曜日

夏休みの宿題は何のため

メルマガからちょっと時期がずれてしまったが、夏休みの自由研究の話。

子どもに宿題として出した方が多いことと思う。
地域の審査会等もあるので、必須課題にしているかもしれない。

この自由研究、実際やってみると、かなり大変である。
1年生などは、字を習いたての状態で、文章を書く経験も少ない。
論文にまとめるというのは、一部の例外を除き、自力では厳しい。
材料集めだけで数日間、作るのも1日がかりかそれ以上である。

選択なのだから、工作にいけばよいものをと思う。
しかし、工作も自力でやるとなると、これまた大変。
工具やら材料やらがたくさん必要になる。
わざわざ手作り風になる「自由研究・工作キット」なるものも販売されているのも頷ける。

そんな世の親子の悲鳴、ニーズに応えて「夏休みの自由研究教室」もたくさんある。

ここで、何のための夏休みの宿題なのか、と考える。
「夏休みにダラダラしないため」という人もいるが、宿題があろうがなかろうがダラダラする人はダラダラする。
その考えなら「ダラダラする子どもを苦しめ、自責の念を負わせるため」の方がまだ真実に近い。

逆に、自律ができる子どもは、課題を自分で見つけて、与えられずともどんどんやる。
大半の子どもは「宿題があるからやる」というのが本音である。

一体、夏休みの宿題の存在意義は、何なのだろうか。
昔からあるので続けているが、これがないと、どんなデメリットがあるのだろうか。
「自由研究・工作」は、なぜ必要なのか。

この辺りを、考えていきたい。
(長くなったので次号へ続く)

2014年9月10日水曜日

切っていいもの、ダメなもの その対策

前号の続き。
休み時間にやる作業をいかに減らすか。
切っていいもの、ダメなものはどれか。

端的に言うと、「子どもの命や安全に関わるかもしれないもの」だけは切れない。
他は、後回しでも大丈夫である。

一つが、連絡帳や「マラソンカード」「プールカード」のチェックである。
保護者からの大切な連絡や、健康状態について書いてあることがある。
「コメントがある場合はこちらへ」などというように、他と区別して回収するなどして能率化を図る。

テストはどうするか。
放課後に全て回せば、とりあえずは解決する。
しかし、忙殺に拍車をかけることになるので、一工夫。
「終わった人から提出」で○つけするのはよくある手法。
漢字テスト程度なら、隣同士で○つけ&回収で、ざっとチェック。
点数の記録もまた時間がかかる。
少し勇気がいるが「点数を記録しない」という手もある。
単元を絞って記録する先生もいる。
「クラスのほぼ全員が100点」のような状態であれば、○つけも記録も楽々である。
つまり、「良い授業をする」ことが、能率化にもつながる。
(そもそも、それができれば苦労ないが。)

宿題も、なかなか切れないので工夫。
自主学習などは、班や隣同士でコメントする。
○つけも答えを掲示したりして、自分達でできるシステムにする。
相互交流にもなる。
また「きちんと見るけど基本的にコメントしない」と宣言しておく手もある。
真の理由をきちんと伝える。
ずばり「休み時間はみんなと話したり遊んだりしたいから」である。
(書くことが早い&得意な人は、本当はコメントも書いた方がいいとは思う。)
どうしてもじっくり見たいものは、子どもに頼んで預からせてもらう。

他にも色々あるが、視点は
A能率化できないか
Bやめられないか(他の時間に移せないか)
の2点。

2学期は、1学期よりも子どもと話をしたい。

2014年9月7日日曜日

子どもの話を聞くための余裕を作るには

前号の続き。
休み時間に、子どもの話を聞くための余裕を作るにはどうするかというテーマ。

休み時間に、「子どもとふれあうこと」以上に大切な仕事があるのか。
これは本当は「ない」のだが、現実として「やるべきこと」は厳然と存在する。
重要度はそこそこでも、緊急度が高い(毎日が〆切)という仕事が多い。

具体的に、細切れの休み時間中にやらねばならないことをいくつか例に挙げると
1テスト等の丸つけ
2連絡帳を見る
3宿題に目を通してコメントする
4次の授業の準備

ざっと見ても、これぐらいは日常的にある。
これに「提出物チェック&回収」や「探し物」などのようなものが加わる。
更に、生徒指導のような突発的トラブルが不定期にでも入るとなると、もうお手上げ状態である。
「話を聞く」どころか、宿題も見られず返却というような状態に陥る。

対策をうたない限り、同じ状態が繰り返される。
気合いや心がけの問題ではないからである。

対策を、大きく二種類で考える。

一つは、A「能率を上げる」。
つまり、スピードアップを図る。

もう一つは、B「やめる」。
つまり、そのものをなくすか、他の時間に回す。

どちらを先に考えるべきか。
真面目で一直線な人は、Aを選択して頑張る。
やれる能力があるなら、その方がいい。
頑張れる人も多い。

しかし私のように、いつも人よりちょっと遅れがちになる人なら、先に考えるべきは、Bである。
やらなくていいものは、やらない。
文字通り「決断」する。
その上で、どうしてもやめられないものに厳選し、Aの能率化を図る。

先の例で考える。
絶対切れないものはどれか。
また、ご自身の休み時間であれば、何がどうできるか。
次号でまた考えていく。

2014年9月5日金曜日

聞き方の「あいうえお」とは言うが

やる気スイッチセミナーでも話した、「聞く」ということについて。

ある指導の一場面。

話を聞くときは、「あいうえお」を意識しましょう。
あいての目を見て
いっしょうけんめい
うなずきながら
えがおで
おもしろがって
・・・・・・

実際に自分もそう指導する。
しかしこれが、自分自身できているかというと、かなり怪しい。
いや、正直に言うと、できていない。

どれができていないかというと、どれもできていないことがある。
どういう状況かというと、余裕のない時である。
具体的に言うと
・テストの丸つけ中
・連絡帳を見ている時
・宿題のコメント中
・探し物
といった作業中が主である。
制限時間があるので、急がざるを得なくなる。
作業を中断しないと、子どもの話を「あいうえお」で聞くことができない。
一言で言うと「余裕」が全てである。

対子どもだけでなく、職員室でも同様のことが起きる。
特に朝が要注意である。
朝の準備時は、みんな忙しい。
忙しいところへ、放課後顔を合わせられなかった人から「ちょっといいですか?」というのも頻繁に起きる。
同僚へのあいさつすら顔を上げないという事態になりかねない。
かなり意識しても、「あいうえお」が難しい。
やはり、「余裕」が全てである。

余裕は、自然発生したり、気合いや心がけだけで生まれたりはしない。
やるべき作業が消える訳ではないからである。
話を聞くための余裕を生むにはどうするか、きちんと考えていく必要がある。

2014年9月3日水曜日

素材研究は授業の「基礎」づくり

先月行った「やる気スイッチセミナー」で、素材研究について扱った。
しかしながら時間が足りず、「詳しくは次回!」ということになってしまった。
(そもそも、前半の「ゲーム」ワークで楽しくなりすぎて時間をオーバーした。
セミナーだけでなく、授業でもよくあるパターンである。)

今回の本の中にも、素材研究の大切さは書いてある。
この大切さは、なかなか伝わりにくい。

そんな折、たまたま関連する記事を見付けた。
大体、次のような内容である。

「オリジナリティ(独創性)の語源は、オリジン(起源)。
つまり、独創性を発揮させるためには、素材そのものを深く理解していること。
何より基礎基本が大切。」

気にしていると「心のフィルタ」に引っかかるものである。

授業で当てはめて考えてみる。

「授業名人」の授業を見る。
実に単純明快で、すぐにでもやれそうである。
実際に自分でもやってみる。
全然うまくいかない。

こういうことはよくある。
授業で見える部分は、いうなれば氷山の一角。
簡単にやっているように見えて、見えない部分がとても大きい。
素材研究の深さが違うのである。

そうすると、対応の厚みが違う。
子どもの言動の「予想外」がぐっと減るので、本当に価値のある発言に気付ける。
また、表面的な理解であることも見抜けるので、浅いと思ったらつっこんだ対応ができる。
わざと間違えるとか、意見が割れる発問をするとか、高度な対応ができる。
それらの発言を、最終的に束ねることもできる。
意見をかき混ぜるのも固めるのも自在にできる。

逆に素材研究が浅いと、「予想外」の発言にひっかき回される。
または、「宝石の原石」の発言の価値に気付けず、捨ててしまう。
本線から全く外れられない、まさに指導案通りの授業にしかならない。
(それにすら至らないことも多い。)

家なら、土台(基礎)。
木なら、根っこ。
何でも、見えない部分が見える部分をがっしり支えている。

素材研究は、授業の「基礎」づくりである。
素晴らしい実践に憧れるなら、見えない泥臭い部分をこそ真似したい。

2014年9月1日月曜日

「必要」か「欲しい」か

前号の続き。
素材研究の大切さについて。

素材研究は、一見余計な作業である。
極端な話、やらなくても授業できる。
教科書と「赤本(指導書)」を見て授業することもできる。
これで指導案を書くこともできる。
ではやらないでよいではないかというと、そうとも言い切れない。

「必要」と「欲しい」は別物である。
読者のみなさんは、どちらが大切だろうか。
どちらに、よりお金や労力をかけるだろうか。

「必要」の方が、上に見える。
しかし、人間にとって、実際は「欲しい」の方が、上位である。

例を挙げると、車好きな人は、車にものすごいお金をかける。
車に興味の無い人にとっては、別にタイヤのホイールが標準だろうがアルミだろうが変わらない気もする。
どちらでも「走る」という必要性からすると、全く同じである。
しかし「欲しい」から、お金をかける。
車好きにとって、標準ホイールのタイヤで走るなど、言語道断なのである。
別の例だと、服を買う時に「あなた同じ物持ってるじゃない」と周りに言われるのも同様。
同じように見えるものでも、やはり違うのである。
よく考えると「必要」はないかもしれないが、「欲しい」ので、お金をかける。
より理想に近づけたいのである。

「必要最低限の授業」であれば、何もしないでできるかもしれない。
しかし、理想を持って授業をする人にとっては、「欲しい姿」がある。
そのために、素材研究である。
授業で実際に使う部分は一部かもしれないが、周辺部分を持って授業に臨める。
そうすれば、指導案の流れと関係ない様々な意見にも対応できる。
授業自体を楽しめる。

少し無理してでも時間をとって、素材研究はしておきたい。

2014年8月28日木曜日

素材研究

教材研究以前の素材研究について。
本の方でも取り上げている内容である。

夏休みは、素材研究にうってつけである。
本を楽しむのは、素材研究になる。
国語の文学作品は、あくまで文学作品である。
「国語教材」を目的に書かれたものではない。
作品を「教材」としてとらえる以前に、一作品として見て、一個人として読む。

たとえば、「きつねのおきゃくさま」という作品がある。
(教育出版2年 上 あまんきみこ作)
題名を見て、どんなことを考えるだろうか。

一見すると、「きつねがお客様としてやってきた」と読める題名である。
しかし読み進めるとわかるが、「の」は、所有格の「の」である。
きつねにとって、「おきゃくさま」は自分に属している存在である。
また「きゃく」ではなく「おきゃくさま」である。
きつねにとって、大切な存在であることが強調される。
「ゆうかんなきつね」「やさしくなったきつね」などの「きつね」が主の題名ではなく、「おきゃくさま」が主である。
物語をすべて読んだ後で題名を読み返すと、きつねが「おきゃくさま」を心から大切にしていたことが改めてわかり、ここに主題がこめられていることに気づく。
・・・・・

こういったことを、延々とやっていく。
教えるかどうかは一旦置いておいて、ひたすら気になった部分を精査に読んでいく。
細かいところまで読みこむ。
そうする中で、「ここは教えたい」「ここは読み飛ばしそうだ」といったことが浮かび上がってくる。

いきなり「教材研究をしよう」となると、「どこを教えよう」と突然考えることになる。
素材研究→教材研究→指導法研究(発問等)→授業
という流れが本来の形であるという主張である。

素材研究をきちんとして、土台を固めておきたい。

2014年8月26日火曜日

やる気スイッチ「期待してる」

メルマガ上の質問で、「どうして今回、本の出版が実現したと思うか」というものが多かった。
目標はあるけど、どうしていいかわからないという人が多い。
自分も、その仲間である。

要因はたくさんあるが、「モチベーションの維持」は結構大切なポイントだと思う。
子どもに教える立場として役に立ちそうなエピソードを一つだけ紹介させていただきたい。

数年前、ある研修会に参加した時のこと。
知り合いの先生が声をかけてくれた。
私を大変可愛がってくれている先生である。
その先生が、別の会で、私の尊敬する先生に会って話してきたとのこと。
その際に、私の話をしていたという。

「彼は、これから伸びるよ」

そう言っていたと、教えてくれた。
ご自身が本当に言ったかも定かではない。
この教えてくれた先生も、相当な「できる人」である。
しかし、そう言われて、当然気持ちが一気に鼓舞された。
「期待に応えたい」という一心である。


さて、次の話は、ある本で読んだ教育に関わるエピソードである。

ある中学校に、荒れた少年がいた。
自他共に認める、いわゆる「札付きの不良少年」である。
その彼が、卒業前に校長室に呼ばれ、こう言われた。
「君は将来、必ず大物になる。
 私はたくさんの子どもを見てきたから、それがわかる。
 君だけは特別だ。
 期待しているよ。
 しかし、周りに差別ととられるから、この話のことは私たちだけの秘密だ。
 誰にも言ってはいけないよ。」

後日、成人して本当に立派になった彼は、同窓会で仲間と集う。
仲間と話していて、校長先生に言われた話をした。
すると、仲間がみんな驚いたという。
「俺も言われた」「私も言われた」・・・・
何と、全員が同じことを言われていたという。
校長先生、「してやったり」である。


「あなたに期待している」というメッセージは、プラスの暗示を引き起こす。
真実がどうかでなく、そう言われたことが真実となる。

子どものやる気スイッチを入れる一つの手法である。

2014年8月24日日曜日

夢が叶うまでの「今」を楽しむ

今日は、思うところがあり、敬体で書きます。
やや長文ですが、誕生日ということでお許しください。

何度もお伝えしていますが、本が出ました。
親友の飯村友和先生との共著です。

私は20代の頃から、「本を出したい」と公言していました。
何のあてもやれる根拠もありませんでしたが、本気ではありました。
主に、一部の気のおけない仲間や、尊敬する先輩方に話していました。
みんな「本当にやりそう」「それだけ本気で思ってればできる」などと言ってくれました。
感謝しています。
今回のきっかけになった飯村先生には、出会った初日に話しました。
誰とどこで実現するか、本当に分からないと思います。

担任してきた子どもにも、自分の夢を様々に語ってきました。
子どもの方がより大きな夢を抱いているので、彼らは決して馬鹿にしたりしません。
かなり大きく出ても「おぉ~」と反応してくれます。
そんな子どもたちの夢も、きっと叶うと私自身が信じています。
とてつもなく大きい夢を抱く子どももいますが、それも「叶うかどうかは願いの強さ次第」だと伝えてきました。
「できるかどうか」の尺度でのアドバイスは、余計だと思っています。
(今回の本の第一章にも、そのようなことを書きました。)

大体、自分自身が相手の夢の姿になっていない段階で、アドバイスは難しいです。
例えば「東大に入学する勉強法」は、東大合格者、またはそれを育てた人でないと信憑性がありません。
「中卒でも何とかなる」というのは、そういう叩き上げの経験のある人しか言えません。
適当なアドバイスは、無責任だと思っています。

なので、本に書いてある内容は、実践を通したものだけです。(当たり前ですが。)
ただ、「今の自分」が、書いてある内容通りに完璧にできているかというと、そうでもありません。
右往左往しながら生きてきているので、「以前は心がけていたのに抜けていた」というものもあります。
書いていて、それが自分自身への戒めにもなりました。

そして残念なことですが、夢を語ると「そんなこと言ってないで」というアドバイスをくださる方もいました。
本当に残念なことですが、私のためを思って言ってくれていました。
「ドリームキラー」という言葉がありますが、身近で自分を大切に思ってくれる人の方がなりやすいそうです。
それを知っていたので助かりました。
(腰塚勇人さんという方の講演でその言葉を知りました。今でも感謝しています。)

夢の一つである、自分の本の発刊。
叶ったら、きっと最高に幸せな気分になると思っていました。
そうでもありませんでした。
思えば、今まで何でもそうでした。
「あれが手に入れば」と思うものが手に入っても、いざ手に入ると「次」が待っています。
永遠に「次」が来る以上、手に入れるまでの「今」の過程を楽しむことが本当に大切だと実感しています。

まだまだやりたいことがあり、そこに向かっていることで「今」が充実しています。
本の方は、私の一つの形なので、立ち読みでも見ていただければ嬉しいです。
メルマガの方は無料なので、登録していただくか、お知り合いの方に紹介してくださると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。

2014年8月22日金曜日

やんちゃ君への名言

すべての「元気がよすぎる」子どもたちに贈りたい名言。

「百、悪いことをしたら
 百一、良いことをすればいい。」(大越俊夫)

そうだなぁ~と、腹の底から納得。
ザ、未来志向。
また、いつ「良いこと」が「悪いこと」を上回るかだが、ずっと後でもいいと考える。
将来にわたって、長い目で見る必要がある。

なぜか。

「何回言われれば分かるの?」と子どもにきく。
「ごめんなさい」と子どもは言う。

でも

「あきらめるまで言われるの」
が本音かもしれない。

あるいは

「そのうち直すから、一生待ってて。」
だったりしたら、どうしようと思う。

いつかは良くなると信じる。
これしか方法はないのかもしれない。

親と教師向けだと

「百、裏切られたら
 百一、信じればいい」

になる。
「それができれば苦労ない」と反論したくなる。
しかし、最終的には、腹を据えて覚悟するしか方法はない。

「諦める」=「明らかに認める」らしい。
自分の子ども時代を思い出し、ダメだったことを認めてみる。
思い出すと、今も直ってないことに気付く。
それでも、まあ、それなりになっている。

そのうち良くなると思って、やることをやったら気長に構えたい。

2014年8月20日水曜日

物語文の読み方指導の型

先日参加した「鍛える国語教室 全国大会」での学びのシェア。

8月の夏休み中であるにも関わらず、子どもを登校させての授業研究会。
これを実現させられる会場校の校長先生はじめ職員の方々がすごい。
保護者の方々も理解がある。
そして来る子どもたちがえらい。
なかなか実現できないことである。
そんな貴重な場で学ばさせていただいた。

2年生での飛び込み授業の様子。
授業者は私の勤務地域の有名な実践家である、国語科の指導主事の先生。
「昔話の読み方を知ろう」ということで、「おおきなかぶ」を教材に次の方法を指導した。

1 何が、誰が変わったのか →かぶ
2 どのように変わったか →抜けた
3 なぜ変わったか →協力

これに答えていく中で、主題に迫るという読み方。
よく見ると、いわゆる「5W1H」(「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「なぜ」+「どのように」)の型である。
ただし、必要性が低いのでwhen,whereは省略されている。

この手法は、かなり汎用性があると思った。
筑波大附属小の国語部の研究で提案されている方法らしい。
「主人公の気持ちが大きく変わった点=クライマックス」を読み取る、という指導法に近いが、より使いやすい。

思いつくままに、自分の解を国語科の教材で考えてみた。

4年「ごんぎつね」
1 兵十のごんに対する思い
2 憎悪の気持ち、誤解が解けた
3 命をかけた献身的な行為(償い)

2年「かさこじぞう」
1 おじいさん、おばあさんにとっての正月
2 豊かに過ごせた
3 見返りを求めない生き方(清貧)

6年「川とノリオ」
1 ノリオ
2 辛抱し、自立して生きようとする姿勢
3 家族との死別(戦争による日常の喪失)

書いてて気付いたが、書こうとすると難しい。
「川とノリオ」は、とりあえずなのになかなか書けず、散々悩んでこれである。
思いつくまま書いてはみたが、かなり異論が出ると思う。
何べんも読んで分かっていると思い込んでいるが、「素材研究」としてもっともっと読む必要が出る。
教える側が、深く考える必要があることに気付かせてくれる。
そういう意味でも、大変有益な手法ではないかと感じ、紹介してみた。

2014年8月18日月曜日

「個」だけでなく「子」

今回は、「やる気スイッチ」共著者の飯村友和先生のブログから。
↓イートモ日記
http://etomo.exblog.jp/

ここに書かれている「個とだけでなく,『子』そのものとしてみている」
という点に、とても共感した。
こういうことに気付く「O先生」という方もすごいと思う。
同じ話をきいたはずなのに、どう受け取るかも「個」の違いである。

詳しくはブログ内の記事を読んでいただくとして、以下は読んでの私見。

「○年生だからできる」という視点で見るのは、少し気を付けないといけないと思っている。
学習指導要領上に最低基準として示されている内容は全員に教える義務があるが、発達から見て合わない子どももいる。
肢体不自由のように誰が見ても無理があるとわかる場合と、LDのように外からは見えないけれども実際には無理な場合がある。
だから学年とか年齢ではなく、「個」として見る。
さらに、「子」として見れば、「発達」も考慮され、子どもらしく「今」を育てるという視点が持てる。

子どもは、今のままではないし、一方でいきなり発達もしない。
植物が育つのと同じで、周りの恩恵を受けつつも、自力で伸びていく。
種の時期には水やりで、双葉が出たら虫に食べられないようにしないといけない。
葉が出た後には日光も必要になる。
蔓が伸びる時期には絡まる部分が必要だし、花が咲けば虫が必要になる。

学級には、「人間」という点で同じ種が集まっているものの、発達の状態はまるで違う。
よって、「個」によって適切な方法がまるで違う。
「平均的」に見て、本葉が生えているものが多い時期に、双葉のものも当然ある。
その双葉を伸びろ伸びろと無理矢理引っ張ったら、ダメになるだけである。
双葉は双葉として適切な手立てをとって、後は自力で育つのを待てば良い。
これが「個」として見るということだと思う。
そして、「子」だと思ってみれば、いつか大きく育つという目で待てる。

色々書いたが、学級経営で大切なことは飯村先生の
「子どもが子どもらしくいられるクラス」
「一生に一度しかない子ども時代を子どもらしく幸せに」
という言葉に集約されていると思った。

絶対到達目標がある以上、現実的には難しいこともあるが、そういうクラスを目指していきたい。

2014年8月16日土曜日

感動は生もの。「今すぐ」「少し」やる

8月1日、に発刊された拙著

「子どもの顔がパッと輝く!
やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり」
飯村友和・松尾英明著 明治図書

今回はこの本から、夏休みの学びに関する記事を引用する。

(以下、引用)
==========================
~感動は生もの。「今すぐ」「少し」やる~

「よーし!やるぞ!明日から。」こういうことは、よくあります。
特に、研修会やセミナーでたくさんネタを仕入れた後などに起こるやる気です。

やる気や感動は、生ものです。
放っておけば、どんどん鮮度が落ちます。
ネタも同様。語感からして、まさに生ものです。
感動したネタを、お刺身だとします。
そうだとしたら、いつ食べるのがベストですか?
間違いなく「今すぐ」でしょう。
そのまま放置して「三日後に食べる」という人は、いないと思います。

感動は、鮮度が命です。今のタイミングを逃さないことです。
しかし、実際には多くの感動を、使わないまま腐らせてしまいます。
すぐやれない原因は何でしょう?
その一つに、「大きく構えている」ことがあげられます。
実践前からあれこれ悩んで、取りかかりが遅れていないでしょうか。
ここで提案したいことは「小さく始める」ということです。
たくさん仕入れたネタの内、やれそうな一つをまずやってみるということです。
簡単にできるものがいいと思います。
=============================
(引用終了)

この後、夏休みにやる気いっぱいになって、正月には忘れている、というイラストが続く。
そうならないためにどうするか、という話である。

夏休み中の研修内容は、すぐに実践できないのが悩みの種である。
インプットした分だけアウトプットするというのが原則なのに、子どもが目の前にいない。

だから、何かしらアウトプットの形を自分で決めておく。

メルマガやブログ、SNSなどで発信するのが一つ。
アナログに「やりたい実践ノート」などを作っておくのが一つ。
人に話すのも一つ。

できれば、全部やれた方が良いが、できないものもあると思う。
せっかくの学びを、自己満足で終わらせない為に、必ずアウトプットを心がけたい。

2014年8月14日木曜日

ミニマムスタンダード

植草短大の佐藤愼二先生からの学びのシェア。

教育のユニバーサルデザインをどう進めるか。
その中で全校の「ミニマムスタンダード」を持つことの大切さを話された。
直訳すると、「最低基準」である。

特別な支援を要する子どもの中に「変化が苦手」というものがある。
臨機応変、予定変更というものに対応できない。
そういう子どもには年度が変わって担任が変わり、やり方が変わることがとても負担になる。

だから、「板書のきまり」「掃除の仕方」などを全校統一しようというものである。
そうすることは、支援が必要な子どもはもちろん、他の子どもにとっても助かる。
加えて、教師集団の側も、余計な指導をしないで済むので、他に力が注げる。

何でも統一すると不自由なイメージがあるが、ある程度の統一があった方が、逆に自由が増える。
自分の学校の全校統一のミニマムスタンダードはどんなものがあるか、考えてみるのも面白い。

2014年8月13日水曜日

自己開示と「教師理解」

夏休みの記事再録。

夏休みは、様々な研修会に出席する。
教師向けのものから一般向けのものまで様々である。
内容が面白い、感化されるという人の話し方には、共通点があった。

「自己開示」である。
自分の生い立ちや失敗談、苦労話や家族のことなどのエピソードが必ず入る。
「仕事術」みたいな、一見関係ない内容のものでも、そういう話が入る。

野口芳宏先生が次のようなことを話された。

教師の仕事は、大きく2種類である。
1つは、知識と技能の伝達。
もう1つは、感化と影響。

知識や技能は、外付けであるので、どうしても剥落する。
(大学受験の試験勉強を思い出すと、よくわかる。)
一方、感化・影響を受けたことは、内側からわき出るものであるから、一生残る。

30年経ってもなお教え子が覚えていることは、素晴らしい授業の内容ではなく、
「君はすごいね」などと何気なくかけた一言の方だそうである。

この感化・影響に直結するのが、自己開示である。
自分のことを話してくれる相手に、人は心を開く。
最近の教師は、自分のことを語りたがらないという。
(教師が自分をさらけだすと、色々と言われてしまう時代だからかもしれない。)
プライベートだからとかいって分け隔ててしまわず、自分のことを話す必要がある。
「教師の子ども理解」と同時に「子どもの教師理解」が大切である。

2014年8月12日火曜日

「いつか」は五日以内に

以前の記事の再アップ。


夏休み中、ある研修会での講師の先生の言葉が心に残った。
「今日は素晴らしい実践をたくさん知れましたね。
いいと思ったら、すぐに使ってみることです。
夏休み中なら、二学期にすぐ、です。
すぐやらなかったものは、もうきっと永久にやりません。」

本当に、そうだと思う。
これまで、様々な本や研究会でたくさんの実践を知った。
しかし、残っているものは僅かである。
すぐに実践したものだけである。
知識が技術になるのは、実践を通した場合だけ。
技術が技能にまで高まるのは、何度も実践したものだけである。

すごく感動して「いつかやろう!」と目を輝かせたものがある。
この、「いつか」が来ない。
覚えていないのである。
感動したことは覚えているのだが、何だったか思い出せない。
食べ物と同じで、いつか食べようと思ってしまっていたら、冷蔵校の奥で腐る。
刺身と同じで、鮮度が命である。

「いつか」やろうと思ったら、休日を除いて「五日」以内にやる。
つまり、学んだ次の週までである。
ダジャレでしかないが、日数も妥当で、覚えやすいのではないかと思う。

夏休みの学びを活かせるかは、スタートダッシュ命である。

2014年8月11日月曜日

「静けさ」もユニバーサルデザイン

先日受けた研修での学びシェア。
講師は植草短期大学主任教授の佐藤愼二先生。
元教員の大学教授である。
特別支援教育のスペシャリストである。

「教育のユニバーサルデザイン」がテーマだった。
「教育のユニバーサルデザイン」とはどういうことかというと、
「特別支援の必要な子には必須。
その他の子どもにとっても、ありがたい。」
というもの。
気付かずにやっていることもあるし、気付かないでやれていないこともある。
それを意識してやっていこうという提案である。

わかりやすい具体例で、「静けさ」が挙げられた。
「静けさ」は授業環境の基盤であるという。
いわずもがな、授業中は静かな方が集中できる。

「活発な発言が出る」のと「騒がしくて落ち着かない」のは、全く異なる。
「静けさ」が基盤で「活発な発言」は有り得る。
「静けさ」が基盤で「騒がしくて落ち着かない」は有り得ない。

「静けさ」の中であれば、教師の指示がよく通る。
「静けさ」の中であれば、友達の発言がよく聞こえる。
「静けさ」の中であれば、思考が深まる。

要は「静けさ」というのは、聴覚的に余計な情報が入らない状態である。
聴覚情報の処理が苦手な子どもは、どの教室にも確実にいる。
そして、それ以外の子どもにとっても、静けさの中の方が学習しやすい。

極端な話、教師一人に生徒一人が一番集中できる。
これが、特別支援教室である。
しかし、現実的に考えて、これを全員にやることは不可能である。
だから、大勢いる教室での一斉指導の中でも、「静けさ」を作る必要がある。

教育のユニバーサルデザインというのは、様々な場で研究会も行われている。
これからの教育のスタンダードになる考え方であると思う。

2014年8月9日土曜日

「親は一生、教師は一時」だが

先日受けた研修会での、講師の先生の言葉。

「親は一生、教師は一時」

親は、一生。
これはよくわかる。
一生、離れられない。
子どもの最高の理解者であり、責任者である。

教師は、一時。
その通り。
大抵、一年程度しか関われない。
転出等があれば、数ヶ月である。
ここで話が終わらず、
「しかし、この一時に意味がある」と続いた。

この一時が、子どもの人生を大きく左右することがあるという。
この一時の関わりが、生きていく上での力を与えることがあるという。
この講師の先生の娘さんは知的障害があるが、これまでの先生方のお陰で立派になれたという。

私はちょうどこの日、この研修会の前に、これと関わる話を、偶然ばったり会った元保護者の方から聞いたばかりだった。
その子どもにとっては、6年生で過ごした一時が、人生の支えの一つになっていたという。

有り難さと同時に、この逆もありき、という恐ろしさも感じた。
「教師は一時」ながら、決して疎かにできない。
もう一度、心身を引き締め直して、子どもの前に立ちたい。

2014年8月7日木曜日

成功のコツは二つ

大分前になるが、イエローハットの鍵山秀三郎氏からのお言葉。

成功のコツは二つある。
「コツ コツ」

駄洒落のようだが、本当にそうしてきた人の言葉だと、含蓄がある。

夏休みは、あっという間に過ぎる。
コツコツやれるかどうか。
これにかかっている。

夏休みが終わった後、リフレッシュはもちろん、成長した姿を子どもの前に見せたい。

2014年8月5日火曜日

『やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり』

8月になったところで、一つお知らせがあります。

飯村友和先生との共著
『やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり』
が明治図書のホームページにアップされました。
 ↓
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1

今回の本では、全4章の内、2章ずつをそれぞれが担当して書き上げました。
飯村先生をはじめ、本当にたくさんの方々にお世話になって、今回の発刊に至りました。
実際に店頭に並ぶのは、8月20日の予定です。

編集部の方々、中のイラストを描いてくださった先生、カバーデザインをしてくれた友人。
これらの方々が、「本」という手に取れる形にしてくださいました。

しかし、ここに至るまでにお世話になった方々を考えると、数えきれません。
そもそも本の題材の中心は、当然ですが学校現場での様々な経験です。
これまで一緒に働かせていただいた皆様、関わらせていただいた全ての方々。
その中心は、これまで関ってきた子どもたちと保護者の皆様。
文字通り「叱咤激励」をしてくれた先輩の先生方も大勢います。

「学んだことを自分だけでためこまないで、人のために」という思いを、
何か形にしたいと思い、始めたのがこのブログとメルマガです。
そしてこれが、本の発刊のきっかけとなりました。
ここまで続けられたのは、読者の皆様のお陰です。

本当に「1人」の読者の方から始まった第一号が、本という一つの形になりました。
様々な困難もありましたが、これからも続けていきたいと思っています。
読者の皆様に、心から感謝申し上げます。
本の方も、手にとっていただけると幸いです。
これからもよろしくお願いいたします。

2014年8月3日日曜日

仕事の満足度を上げる二つの要因

教師塾での学びシェア。

先月末に、OECD国際教員指導環境調査(TALIS)の結果が出た。
調査対象は世界34ヵ国の中学校教員。

教員の勤務時間としては、日本は週に54時間勤務で参加国中1位。
しかし、多忙だと感じている一方で、充実感もある人も多いというのが日本の教員であるという実態もある。
充実感も勤務時間も、部活動が大きな要因である。

また、仕事の満足度が高い教員には、次の二つの要因が関係しているという。
一つは、「校内にメンターとなる人がいる」ということ。
もう一つは、「校内に非公式な学びの場がある」ということ。

逆もありきで、校内にそういった人がいない、自由な学びの場がないと、仕事が辛い状態になりやすい。
興味深い結果である。

2014年7月31日木曜日

学級の成熟段階

先日の教師塾での原田隆史先生からの学びのシェアの続き。
組織の成熟段階については次の通り。
    5勝負
   4強化
  3教育 
 2称賛
1帰属

以下は、これを受けての私見。
学級に当てはめて考える。
何月にどの段階にいればいいか。
そして、今はどの段階なのか。

4月は1と2が中心の段階である。
褒めて関係を作る。
しかし、褒めてばかりでは次のステップに進めない。
きちんと叱る必要が出る。
叱っても受け容れられる段階になったら、少し厳しくしていく。

それもできたら、「強化」段階として、自由度を上げて色々と挑戦させてみる。
成熟するほど、自由度が上がる。

3月には、「勝負」の段階として、完全に手放す。
まとめ、完成である。

この見極めを誤ると、色々と不都合が起きる。

私のかつての教育実習担当の先生は、
「学級のはじめの内は、とにかく褒めて関係を作る。
厳しく叱るのはその後。」
ということを教えてくれたのを思い出した。
要するに、今回の学びに当てはめると、
「ラ・ポールを築く段階(称賛)でリレーション段階(教育)の対応をするな」
ということだったのだと思う。
成熟度の見極めが大切である。

また、チーム(学級)が「調子に乗っている」「自信不足」のどちらに寄っているのかを見極めることも大切である。
個別に見ると、学級では両極端の子どもが混在している。
従って、「叱る」「褒める」にしても同一の対応ではなく、子どもにあった個別の対応が必要である。
自分の学級は、目の前の子どもは、今どの段階なのか、見極めることが大切であるように思う。

2014年7月29日火曜日

組織の成熟段階を見極める

先日の教師塾での原田隆史先生からの学びのシェア。
組織の成熟段階について。

学級、部活動、会社、あらゆるチームには、成熟段階があるという。
次のように、階段状のステップと考える。

    5勝負
   4強化
  3教育 
 2称賛
1帰属

1の「帰属」段階では、まずは統一されたものを持つ必要がある。
それがユニフォーム、ロゴ、合い言葉といったものである。

2の「称賛」段階では、褒めるを中心に、ラ・ポールを築く。

3の「教育」段階では、褒める+叱るで、リレーションの段階。

4の「強化」段階では、経験値を積ませる。

最後に5の「勝負」段階に持っていき、試合等の本番に臨む。
自分のチームがどの段階か見極められれば、手立てがうてるという。

部活で、チームが4「強化」の段階に入っているとする。
その時、調子に乗っているようなら、5「勝負」段階の強いチームと練習試合を組む。
格上の相手に完敗することで、謙虚さを取り戻せる。
逆に、自信を失っているようなら3「教育」段階のチームに当てて、自信を取り戻させる。
これを逆にやると、練習試合が逆効果になる。
(次号に続く)

2014年7月27日日曜日

正義は、悪?

群馬県の高崎で行われた「パワーアップセミナー」での学び。

「誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪」
というような話が出た。
(どなたが話したかが、記憶が明確でない。)

宗教間、民族間の争いはそれが顕著に出る。
日本が経験した戦争も然り。
正義というのは、見方の問題で、裏から見れば悪にもなり得る。

学校内にも正義はある。
「正義感が強い」というのは良いことかもしれないが、諸刃の剣である。
相手にも、相手の事情がある。
対子ども、対保護者、対同僚、対地域。
相手の正義を考慮しないと、痛い目に遭う。
自分にとって心からの善意と思った行動は、相手にとって迷惑な「悪」ということも有り得る。
良かれと思ってやった行為が悪い結果、というのは往々にして起こる。

正義は、悪。(かもしれない)
含蓄のある言葉である。

2014年7月25日金曜日

評価は価値づけ

適切な行為を価値づける。
子どもの行為は、どう反応するかで決まる。

悪い行為を注意して正す方へ力を入れれば、悪いことをしなくなる。
良い行為を取り上げて褒めれば、良い行為をするようになる。

悪い行為にいちいち反応すれば、そこに注目してさらにその行為を繰り返す。
良い行為を見逃さず反応すれば、そこに注目してさらにその行為を繰り返す。

通知票をつけると、何を重視していたかがわかる。
通知票をつける自分自身の評価にもなる。

もし1ばっかりの子どもがいたら、1ばっかりになる指導をした証拠である。
相手のせいにしたくても、それは自分の責任と謙虚に重く受け止める必要がある。

評価は、子どもを伸ばすことが目的である。
良い評価をするために、良い行動に着目して反応していきたい。

2014年7月23日水曜日

教育が促成栽培でよいのか

先月あった群馬のパワーアップセミナーでの学びのシェア。
今回は上越教育大学の准教授である赤坂真二先生のお話から。

この日の午後の会の冒頭は「シンポジウム」という形で講座の概要説明を行った。
(超余談だが、シンポジウムという言葉は、ギリシア語で「一緒に飲む」というのが語源。
「饗宴」と訳すが、現在では主に和やかな雰囲気で行われる「討論会」の意味として使われる。)

そこで赤坂先生より「教育が「タンキ」になってきている」という話が出た。
気が短い「短気」。
少しの期間で結果が出ることを求める「短期」の教育に関心が集まる。
赤坂先生はこれを「促成栽培の教育」と表現された。

どこに手間ひまをかけるのか。
今、結果が出ればそれで良いのか。
もっと長期的に見て、本当の意味での「生きる力」をつけるべきではないか。
そういう視点から講座では「かかわり」をテーマに講座が展開された。

以下、私見。

本来、教育とは将来の「人格の完成」を目指すものであって、非常に長期的なものである。
「教育は国家100年の大計」というように、長期的な視点で見るものである。

一方で、短期の結果というのも、見過ごせない。
一時間の授業で、何の力がついたかを評価する。
一学期間で、どれだけ伸びたかを評価するのが通知票。
一年間で、どれだけ伸びたかが、学級経営の成果。

サッカー日本代表が何かと叩かれたのも、「勝利」という結果を出せなかったことは見過ごせない。

結論。
長期の結果(目的)を見据えて、確実に短期の結果を出す。
どちらか一方が欠けないこと。
促成栽培の方法では、最終的に無理が生ずる。
やはり、土作りからしっかり行い、その上でよりよく成長するよう手間暇かけていくことが大切ではないかと感じた。

2014年7月21日月曜日

昇降口の傘立て

前号で紹介した「学校の実力を瞬時に見抜く20項目」の中での1番、
「昇降口の傘立て」に、いきなり躓いた。

正直、あまり意識したことがなかった。
靴箱を見て状態を把握することはあった。
しかし、恥ずかしながら、傘立てへの気配りはなかった。
(きちんとしている人なら、初任の頃からやっていることなのだと思う。)

野口晃男先生曰く、
「放課後、児童・生徒用の傘立てに傘が残っていたら、
翌日の降雨で子どもが困ることを想定できない担任と言えます。」
【「校長室の窓から」(別冊)今からの子育てに役立つ「99の言葉」と「50の校長講話」より引用】

雨のことだけでなく、相手を最後まで見送ろうという精神の表れでもある。
「人を大切に」と教えているくせに、そういう足元ができていなかった。
だから、「鏡の法則」に従って、子どもにもそれが反映していることがあるのかもしれない。

傘立ては「現象」でしかない。
この現象の「根本・本質・原点」は、「子どもを大切にしている」ということだと思う。
その末端部分として、傘立てに傘が残っている事実があった。

靴のかかとを揃えることと同じで、傘立てに傘がないことそれ自体が目的ではない。
しかしながら、そこにすら気付けないようでは、他は推して測るべし。
残念ながら、相当な敗北感である。

他の項目についても、一つ一つ見ていくと、色々と至らない点に気付く。
「主体変容、気付いて変わる」。
気付くと痛いが、気付けば変わる。
謙虚に受け止め、主体変容していきたい。

2014年7月19日土曜日

学校の実力を瞬時に見抜く20項目

前号で反響の大きかった「校長室の窓から(別冊)」からの抜粋。

「学校の実力を瞬時に見抜く20項目」と見えるものは次の通り。

1昇降口の傘立て・・・担任の心(傘が残る=児童を玄関まで見送っているか)
2掲示物・・・学校の感性
3教職員の挨拶・・・礼儀指導と危機管理意識
4掃除用具入れ・・・生徒指導の力量
5教材室・体育用具室・・・教科指導のレベル
6保健室・・・養護教諭の実力
7用務員室の道具置き場・・・用務員の仕事ぶり
8トイレ・・・教職員全員の生活感覚・センス
9印刷室・・・教職員の感性と仕事ぶり
10出欠黒板・・・教職員のチームワーク
11教室の戸のレール・・・担任の心の余裕と清掃指導の実力
12子どものロッカー・・・子どもの自覚の様子
13担任用のガラス戸棚・・・担任の思い・研究レベル・思考レベル
14蛍光灯・・・健康意識と環境への意識
15職員室へ来訪者が来た瞬間の在室中の職員の行動・・・気配りレベル
16職員室の棚の上・・・教務主任の整理力
17玄関のスリッパ・・・お客様に対する学校の心
18廊下の物品・・・危機管理意識
19職員室の電話付近・・・教職員のとっさの場合の行動
20教職員の服装・・・けじめのある指導をしているか

・・・こんな感じのことが、更に詳しく解説されている。
(結構、書いてて「うっ」と痛い部分があった。)
項目だけでも参考になるかと思い、紹介してみた。

2014年7月17日木曜日

子どもを悪くする三つの方法

先日、群馬での「学級作りパワーアップセミナー」でお話をさせていただいた。
その中の講師のお一人、野口晃男先生について。
「校長室の窓から」という本を刊行している。
その中から、インターネット上にも載っている本文の一部を掲載する。

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子どもを悪くする三つの方法………入学式で話しました。

入学式で入学のお祝いを述べたあとで、保護者の皆様方に子どもを悪くする三つの方法を話しました。

一つ目の方法は、子どもの前で近所の人にあいさつをしないという方法です。
近所の人だけでなく、知っている人にもあいさつをしないようにするのです。
そうすれば子どもは間違いなく陰気で礼儀知らずの人間に近づいていきます。

二つ目の方法は、家の中で手伝いをさせないという方法です。
家のみんなが働いているのに、遊んでいても平気でいられるような子にするのです。
そうすれば、子どもは学校でもそうしますから、そのうちに多くの友達からの信用を失い、最後にはひとりぼっちになってしまいます。
特に掃除をさせないのがこの場合の一般的な方法です。

三つ目の方法。それは子どもの頭を悪くさせる方法です。
それは子どもの前で友達の悪口や近所の人の悪口や先生の悪口を言うことです。
この方法が効果的である理由は、とてもはっきりしています。お父さんやお母さんが悪く言っている人の話は、どんなに素晴らしい話でも、その子の心には響かないのです。

いま、皆さんに、子どもを悪くする三つの方法を話しました。
反対に、子どもを良くする方法はたくさんあります。
これから一つ一つ実践し、子どもを良くする方法を工夫し、ご家庭の皆様とともに協力して育てていきたいと考えています。
(以上、掲載文から引用)
===========================

内容が充実しており、こういう話がたくさん入っている。

「クラスのやんちゃな男子が、いきなり大人しい女子にバケツで水をかけた。どうするか。」
という問いもある。
この答えが、また興味深い。

すごい実践家の方がいるものだと、勉強になった一日だった。

2014年7月15日火曜日

負荷を高め続けられる場に飛び込む

東京教師塾での学びシェア。
前号の「負荷を高め続ける」と関連しての話。
ここでの学びを、自分自身のここまでの経験と「ブリッジング」(=関連づけ)してみた。

人は、自分のできること(尺)を下げると、くさる。
実力よりも低い負荷で続ければ、実力はどんどん落ちていく。
「現状維持」と思っている場合、実は大抵、じりじりと落ちている。
誰にでもある経験だと思う。
身体については、目に見えるのでわかりやすい。

では、負荷は誰が与えてくれるのか。
本来は、「セルフマネジメント」として、自分でやるべきである。
だが、実際はやれない。

私の師事している野口芳宏先生は
「他律的自律」
という言葉を提唱している。

つまり、他からの強制によって、自分自身を律する。
それも一つの「自律」の姿ではないか、という考えである。

負荷を高めてくれそうな場へ飛び込むのは、自分でできる。
その時に必要なのは「決意」だけ。
「やる」という選択だけ。
何か誘われた時に、あれこれ理由をつけないで、0.2秒で「ハイ」と返事。
「頼まれたら断らない」というのも、野口先生の言葉の一つである。

あれこれ理由をつけて、逃げない。
実害がないものなら、OKしてやってみる。
「人生の最後に後悔するのは、やったことでなくやらなかったこと」
という名言もある。

負荷を高め続けられる環境に意図的に身を置くようにしたい。

2014年7月13日日曜日

負荷の高め方を教える

東京教師塾での学びのシェア。

塾頭の原田隆史先生から、次の言葉があった。
「成功は、技術である」
つまり、成功には手法があるということ。
陸上部指導で日本一を13回出した実績の裏には、偶然ではなく成功の技術が存在する。

その肝を一言で表すと
「負荷の高め方を教える」だという。
同じ負荷で続けていても、維持はあっても向上しない。
「負荷を永遠に高めるメニューにしていけ」とのこと。

ある中学での部活動練習の例。
「腕立てふせ50回」がメニューにある。
これ自体はいい。
しかし、1年生も3年生も同じ50回であることに問題があるという。
もっというと、3年生の中にもそれぞれ個人で取り組み回数が違って然るべきである。

オーダーメイドの個別指導。
これをしてもらえれば最高なのだが、一人の指導者が個別にそれをするのは5人が限界という。
しかし、上記の方法をとれば、何百人でも何百万人でも対応できる。
自分自身でオーダーメイドの個別指導(セルフマネジメント)ができるからである。
学級経営でも同様で、35人全てに個別指導をしていくというのは理想的だが現実的ではない。
個人が自分自身で負荷を高められるように指導していく必要がある。
「自律」と「自立」そのものである。

そういえば、「追究の鬼」を育てる有田和正氏の実践などを振り返っても、そうである。
子ども自身が進んで追究するというのは、セルフマネジメントができている状態である。
自分自身で、負荷を高めていっている状態である。

負荷の高め方を教える。
短いながらも、深い言葉である。

2014年7月11日金曜日

子どもを読書好きにするには?

自分のいる地方の研究会で、子どもを読書好きにする、ということをテーマに話し合いがあった。

読書好きにする、というのは、なかなか難しい。
自分自身は本が好きな方に入ると思うが、なぜ読むかと聞かれたら、「好きだから」としか答えようがない。
ラーメンを食べるのと同じ動機である。
栄養価とか体のためとかは、あまり考えていない。
(むしろ、そこを中心に考えると、夜遅くに食べることは有り得ない。)

本を読まないとどんな悪いことがあるのか。
悪いことはない。
ただ、読むと世界が広がることだけは間違いないように思う。

「財団法人 出版文化産業振興財団」が2010年に調べた『現代人の読書実態調査』によると、
成人が1ヶ月に読む本は
0冊・・・24%
1冊・・・29%
2冊・・・19%
3,4冊・・・18%
5冊以上・・・10%
である。

ざっくり見ると、成人の半分は1ヶ月1冊以下である。
日々本を読む習慣があるというのは、意外と珍しいということになる。
(ちなみに「読書量が一番少ないのが30代」だそうである。)

生涯を通して本を読むようになるきっかけをつくれたら、それは教育として効果があったといえる。
何かいい方法があったら、ぜひ教えていただきたい。

2014年7月9日水曜日

マズローの欲求段階説

今回は「やる気スイッチ」をテーマに。

目の前の子どもを、今より少しでも輝かせたい。
「やる気スイッチオン!」にしたい。
担任なら誰しも持つ思いである。
だから苦労してでも色々準備するし、叱ることや本気で怒ることがある。
輝く姿が見られたら心から嬉しい。

さて、子どもの側はどうか。
誰しも認められたいと思っている。
しかし輝きたい、良くなりたいというより、見てもらいたい、認めてもらいたいという欲求の方が強い。
つまり、それは「他者への欲求」である。

マズローの欲求段階説では、次の順になる。(実際に図にすると1が一番下でベースになる。)
1生理的欲求
2安全の欲求
3所属と愛の欲求
4承認欲求
5自己実現の欲求

1から順に満たされる度に欲求レベルが上がる、という見方である。

つまり、冒頭の教える側の意識はレベル5の欲求に近い。
子どもが輝く手立てをうつことが、自分の選んだ職業に対しての誇りにつながる。
もう少し低いと4で、周りの人々に「すごい」と認められたい段階の場合もある。
異動したてなどは、2や3の段階から始まる。
慣れることに精一杯である。
(そこで忙しすぎて睡眠不足とかになると、レベル1まで落ちる。)

子どもの側は、1~3が中心である。
きちんと食事をして寝てきている状態なら1は満たされている。(この段階で躓いている子どもは、可哀想である。)
学級が通常の機能を果たしていれば、2も満たされている。
3が学級への所属感である。
4が、認められている感覚。
5が、目標に向けて輝いている姿なる。

一生懸命教えても、「やる気スイッチ」が入らないという場合がある。
それは、教える側が教わる側の欲求レベルを見抜けていないのかもしれない。
欲求が食い違っている可能性がある。
一生懸命自分を磨いて欲しいと願っていても、相手は睡眠不足かもしれない。
場合によっては、病気にかかっていることもある。

朝の健康観察の段階から、一人一人の欲求レベルの測定スタートである。

2014年7月7日月曜日

サッカーワールドカップから

サッカーワールドカップ。
残念ながら日本は敗れたが、サッカーにおいてはまだまだ発展途上の国。
これからだと思う。

一時期、代表選手の特集番組がテレビでたくさん流れた。
その中で、中心選手である香川選手の少年時代を紹介する話があった。
香川選手は、小学生の頃から、家の中でも四六時中ボールに触れていたというエピソードがあった。
常にサッカーのことだけを考え、ねらいを定めて具体的に行動していたことがわかる。
さすが、普通とは違う。

こちらは野球だが、イチローにも似たようなエピソードがある。
イチロー選手のインタビューでの言葉で
「何もせずに成功した人を天才というなら、僕は天才じゃない。
努力をし続けて成功した人を天才というなら、僕は天才だと思う。」
というような感じの言葉があった。
(手元に資料がなく、正確ではない。)

「チャンスは幸運でなく勇気の成果である。」という言葉もある。
ワールドカップも、挑戦したことにまず意義がある。
負けてしまうと色々言われるが、失敗は挑戦の証であり、成功の種である。
結果が得られるまでがんばるしかない。

色々と教訓が得られたワールドカップであったと思う。

2014年7月5日土曜日

ことわざカルタ

ことわざカルタ。
以前にも紹介したが、山口県の福山憲市先生の実践である。
(ちなみに、次の本にも載っている。
 スペシャリスト直伝! 学級づくり“仕掛け"の極意 ―成功に導くキラー視点48
 福山 憲市著 明治図書)

取り札の裏にはことわざの全文が載っており、表はことわざの下半分が印刷されている。
例:裏「犬も歩けば棒に当たる」表「棒に当たる」
エクセル等を用いれば、割と簡単に作れる。
ことわざは難しい漢字も多いので、すべて振り仮名付きで作る。
五色百人一首と同じルールでやる。

これがなかなか面白くて、役に立つ。
指導の言葉として使える。
上半分で問いかければ、下半分で返ってくる。

おしゃべりするより話を聞いて欲しい時は「言葉多ければ?」「品少ない」
「二度聞いて?」「一度もの言え」

立て続けに注意を受けてしまう子には「仏の顔も?」ときけば「三度まで」と返してくる。
仏様ですら三度まで、ということを強調する。

失敗した時には「転んでも?「ただでは起きない」
間違いを認めない時には「鷺を?」「烏」
(「さぎ」を「からす」と言い張る様子から、物事の道理を反対に主張すること。
間違いを認めない態度を指す。)
・・・
いくらでも応用が効く。

ことわざの選択も、そういう視点から自由にできるのも強い。
大体、1ヶ月もしない内に全部覚えてしまうので、新しいものに更新する。
楽しくて語彙が増え、内容的に生きる上でも役に立つ。
イチオシのおすすめ実践である。

2014年7月3日木曜日

マクロ視点とミクロ視点、それぞれでみる

東京教師塾での学びからの、自分なりの気付きをシェア。
目的に対しマクロ視点、ミクロ視点それぞれでみる、ということを学んだ。

今目の前にいる子どもに何か教えるとする。
教育は人格の完成が目的。
一番大きな視点(マクロ)でみると、それが世界を良くすることにつながる。
少し小さめの視点(ミクロ)でみると、その子の人生が良くなることにつながる。(これは、逆も有り得る。)
もっともっと一点を拡大してミクロ視点でみると、それが様々な具体的な像として見える。
かなり短絡的な例だが、ミクロに落とし込むと次のようになる。

自信がつく→学力の向上→算数ができる→計算ができる→九九ができる→7の段ができる→・・・

逆の見方もできる。これも短絡的な例だが、ミクロ→マクロという視点を広げる方向。

逆上がりができる→成功体験をする→自信がつく→自分を磨くようになる→・・・→人格の完成→・・・
(実際、生きていく以上、人格は完成しない。あくまで迫るだけ。)

マクロに見た「何のため」というのは、一点の「目的」。
ミクロに見て具体的行為まで落とし込むと、目的への道標となる「目標」になる。

大きなマクロ視点で「未来」の像を持ちつつ、ミクロ視点で「今」目の前の子どもに何をすべきか考える。
この考え方は何かにつけて使えると思うので、紹介してみた。

2014年6月30日月曜日

自分自身の健康マネジメント

一日の気温差がすごい。
さすが梅雨時。
何だか、一日中じめっとしている。

こういう時は、いらいらしやすい。
湿度が高いのは肌にはいいが、体と心によろしくない。

環境を整えることである。
それも、自分自身の環境である。

具体的には、こまめな水分補給、適度な運動、汗の始末、トイレに行くこと等々。
扇風機やクーラーなどを利用して、教室環境の気温調節も大切である。
こういうことを無視して、精神論で何とかしようとしてはいけない。

「心頭滅却すれば火もまた涼しい」とは言うが、火のそばは熱いに決まっている。
一部の特殊な修行僧ならまだしも、こちらは普通の人間である。
火が涼しいはずはない。
この諺はあくまで心の在り方を説いているだけで、実際火は熱い。
梅雨時は暑い。
だから、対策をきちんと取る。

こういうことを怠っては、子どもの前に立てない。
自分自身の健康管理も仕事の内である。
まして、教室の環境を整えるのは、教室の責任者である担任の責務である。
可能な限り、自分も含めた全員にとっての快適環境を作るべきである。

何が言いたいかというと、体と心もリンクしているということ。
身体的に負の状態に持っていかない。
身体的に負の状態のままがんばらない。
体のケアは心のケアであり、ひいては子どものためのケアである。

お疲れモードの時は、無理をしないこと。
自分のマネージャーは自分。
自分のコーチは自分。
自分自身の健康状態を把握し、そこへの声かけも大切である。

2014年6月27日金曜日

多数に流されない

先日、総選挙があったらしい。
「え!?」と思って焦ったが、どうやら、政治の話ではないとのことだった。
流行についていけていないのは、テレビを観ないことの弊害である。
(本当に、そう思う。何でもほどほどが大切である。)

投票で決まる。
多数決で、いかにも民主的である。
一方で、この多数決という方法は、気を付けないと誤った判断になりやすい。

社会心理学で、「集団心理」というものがある。
集団心理を支配するものは「空気」であり、正しさではない。
「みんなと同じが正しい」となり、これに支配されると善悪は度外視される。
負の方向だと、集団いじめにもつながる心理である。

周知の通り、某総選挙などは、メディア上で「人気がある」と報道されているものが圧倒的有利である。
「単純接触効果」という心理学用語もあり、要はたくさん接すると好意を持ちやすい。
CMで何度も見れば、なんだか良いものに見えてくる心理である。

私のように疎い人間には、「人気がある」と言われる人物以外、目にすることすらない。
(しかし、無関心のこの層は、投票もしないので票への影響は出ない。)
そんなにコアでもない中間層ファン(最も厚い層)はここに流れる。
「人気がある」と言われると、良いものに見える。
ブランドものや流行に振り回されるのも、この心理の一種である。

判断力の低い子ども時期であるほど、集団心理にはまりやすい。
「自分が確定していない」=「判断力がない」ということにつながる。
だから、本来その子どもの性格からなら有り得ないような、陰湿かつ悪質な集団いじめに荷担してしまう。
ニュースで報道している恐ろしいいじめも、「普通の子」によるものである。
集団心理の負の力の大きさを感じさせられる。

教室では、「自分の判断」を大切にさせる。
例えば朝読書の時間、教室の中が話し声でザワザワしているとする。
「朝読書は静かに行う」ということは、全員知っている。
しかし、「周りがやっているから大丈夫」なのである。
先に述べたように、集団心理の正しさに善悪はない。
ここを流していれば、そういう集団に育っていく。
10回や20回言っても直らない。
1年間通して、「気付かせて」いく。
要は「気付かない」だけである。
指摘して「気」をそこに「付ける」ようにする。
やがて、指摘されない姿を目指す。

学級の合い言葉に「良いことは良い、悪いことは悪い」がある。
周りがどうこうではない。
自分で判断せよということを繰り返し繰り返ししつこくしつこく指導していく。
授業では学問を教えるため、正解は多数決で決まらない。
たった一人でも、正しい方が正しい。
そういう意味でも、どんな授業をするかは大切である。

いつでも正しい判断ができる人間の集まりなら、学校に来る必要はない。
大人にだって難しい。
そうでないから、これは学校で指導をする。
アイドルの総選挙なら多数派でもOKだが、教室での多数派には、要注意である。

2014年6月25日水曜日

やる気スイッチは誰が押す

子どもを「やる気スイッチオン!」に持っていきたい。

教師自身のやる気スイッチオンにすることはできる。
極論、そうしようと思えばこれはできる。

しかし、子どものやる気スイッチオンにするというのは難しい。
やる気スイッチをオンにしようと思うようになるための手助けはできる。
しかし、実際にやる気を出すかどうかは、結局本人次第である。

やる気スイッチは自分が持っていて、自分にしか押せない。
そこに気付かせる指導が時に必要である。

子どもは(大人も?)勘違いしていることがある。
どこかに自分のやる気スイッチをオンにして、すごい力をつけてくれる人が現れると思っていることがある。
努力して勉強しなくても、いつか上手に教えてわからせてくれる人が現れると思っていることがある。

自分の頭の中身は、他人がいじることはできない。
手足を周りの人が一生懸命動かしてくれても、自分の筋力はつかない。
自分の足で立って、歩き出すしかない。
自分のやる気は、自分で出す。

そういう当たり前のことが、結構おざなりになっていないか注意する。
何でもやってもらおうという癖がついている子ども。
結果が悪いとすぐに周りに原因を求める子ども。
忘れ物の理由を聞いた時に「お母さんが準備し忘れた」など、言語道断。
全部自分の責任である。親や周りの大人に責任転嫁させない。

やる気を引き出す方法は色々あるが、やはり基本は目標をきちんと持たせることである。
やる気を引き出せないのは、教師として謙虚に受け止める。
しかしそこから先は、結局自分次第。
自分に起きることには自分で責任を持つ、という基本は、小さい内からでも教えておきたい。

2014年6月23日月曜日

「やらない」のか「やれない」のか

子ども、特に小さい子どもを相手にしていると、感じることがある。

それは、
「やらない」のか「やれない」のか。
言い換えると、
「単に甘えている」のか「本当に困っている」のか。
この見極めが大切だと思っている。

何年前だかに、遠足での記事を書いた。
1年生と6年生のペア遠足。
遠足の復路で疲れた1年生が「おんぶして」と6年生のペアに頼む。
おんぶしてあげるべきか、という記事である。
遠足のねらいからすれば、特別な事情がない限り歩かせるべきである。
「ペアの仲を深める」ためにおんぶするという人もいるかもしれない。
しかし、状況にもよるが、その多くは「信頼」というより「依存」であるように感じる。
「信頼」と「依存」は紙一重である。

教師は、子どもに「信頼」されるのはいいが「依存」されてはならない。
「子どもを育てる」=「人格の完成を目指す」のが教師の仕事である。
やれることをやらせないで余計な手を出せば、子どもの成長の機会を逃す。

子どもは、大人のようにうまくやれないかもしれない。
しかし、うまくやれないから、危ないからという理由でやらせなければ、いつまでたっても成長しない。
口を開けて餌を待つ雛鳥のまま大きくなられては、社会の役に立つ人間を育てたことにはならない。

応援指導然り。
学習指導然り。
給食指導然り。
掃除指導然り。

それは、やらないのかやれないのか。
教師の仕事は、その判断の連続である。

これは、自分の哲学に関わる部分だと思う。
相手のことを思うからこそ、相手の成長を願い、できることへの甘えは許さない。
優しさの中に厳しさを、厳しさの中に優しさを常に意識したい。

2014年6月21日土曜日

負けるが勝ち、勝ったが負け

陸上記録会、運動会という運動系の大きな行事が終わった。
運動系の行事は、勝負事がついて回る。
結果の分析と取り扱いが大切である。

まず表面的な結果として、勝ったか負けたか。
賞をとったとか優勝したとか、そういうことである。
この段階をクリアすることが「目標」である。
しかしこういった賞などは、あくまで目標(道しるべ)であり目的(まと、ねらい)ではない。

より大切なのは、実質的な結果として、勝ったか負けたか。
行事を通して、どんな成長や変化があったかということである。
ここが目的である。

目標の方で思う結果が得られなかった時は、反省しやすい。
悔しさや反省が次へのバネになり、実質的な結果として「勝ち」になりやすい。
目標も、依然として目標として存在し続けてくれる。
どちらかというと、目標の結果が得られた時の扱いの方が難しい。
実質的に「負け」にならないよう、事後指導が大切である。

勝ったのに残念なパターンを考える。

A 勝ったが周りに文句を言われる
勝ち方に問題があった場合。
何か不正と思われてしまう行為があった時にクレームとして起こる。
本人達としては一生懸命やったのに、そうとられることもある。
友達同士のトラブルなどに発展する。
モラル面の指導や、やり方に原因があることが多い。

B 勝って傲慢になる
勝利至上主義でいくと陥りやすい。
負けた相手を馬鹿にしたり、勝ったことを自慢したりする。
日常指導の負の遺産。
自分勝手な問題行動に発展する。

C 勝ったが燃え尽き症候群
それ一本に絞ってやらせすぎた場合に起こる。
目標を急に見失い、他のことまでやる気を喪失する。

D 勝ったのにもうやりたくないと言い出す
駅伝やマラソン指導、水泳など、苦しさに耐える競技で起きやすい。
びっちりやらせすぎて、中学に上がったら全くやらなくなるというパターン。
親や指導者の期待に応えようと無理をし続けた後に起きる。

まだまだあると思うが、経験上多いのが上記4パターンの「勝ったが負け」パターンである。
ひっくり返せば、「勝って勝ち」パターンも見える。
A「勝って周りからも称賛」
B「勝って感謝し、謙虚になる」
C「勝って他のことにもやる気アップ」
D「勝ってもまだ続ける」

その先が見えていれば、指導の仕方も自ずから変わる。
経験から見えることも多いので、なかなか難しい面もある。
「勝たせる」ための技術的な指導と同時に「心づくり」の指導も日常的に心がけたい。

2014年6月19日木曜日

5月病対策「溺れている時はもがかない」


もう6月だが、引きずっている人もいる「五月病」について。

5月から6月は、子どもも大人も疲れている人が多い。
この時期に「私は元気いっぱいです!」という人は、変な人だと思ってよい。
(そういう人は、あなたは変だと言われても大丈夫な人だと思うので、あえて言う。)

事実、厚生労働省の出す自殺統計を見ても、過去何十年から現在まで、どの年度も大体4月から6月がピークである。
日本では学校や職場などの環境の変化に加え、季節の変わり目ということもある。
むし暑くなると、どうしても疲れやすくなったりイライラする。
教師の仕事は、学級開きから授業参観に家庭訪問、陸上に運動会やらで、朝から晩まで働きづめである。
大体、そういう最高に忙しい時に限って、生徒指導の問題が出るのも全国共通である。
なぜなら、子どもたちだって疲れているからである。

諸事情重なって、ぐったりしている人が多い。
ぐったりしている感が出せる人はまだいいが、元気に振る舞って実はぐったりしている人が一番危ない。
無理に無理を重ねている証拠である。
特に4月に新しい職場に異動した人は、愚痴一つこぼす相手もいなかったりする。
そうなると、もう心も体もくたくたである。

心理系の本が好きなので、そういうストレスマネジメントみたいなものもよく読む。
色々書いてあるが、一番自分に効果があったのは
「溺れている時は、もがかない」というアドバイスである。
サーフィンで波にのまれた時の対策と同じで、丸まって浮かぶのを待つ。
(下手に出ようとすると、海の底の方に泳いでいることがある。)
潮の満ち引きと同じで、一生懸命押し返しても引き潮の時に上げ潮にすることはできない。

「現状から脱出するためにやれることをやれ」というのは、それができないから困っているので、あまり役立たないことがある。
ただ「トラブルは育つ」という言葉もあるので、何もしないより動いた方が後でダメージは少ない。
そういう時はいい策が思いつかないので、やはり人に相談するのが一番である。
同僚や信頼できる上司や管理職がいたら一番いいが、いなければ誰でもいい。
電話相談やメール相談でもいい。
家族でも誰でもいいので、相談が絶対条件であるように思う。
別に解決策が出なくても、愚痴るだけでかなり救われると思う。

最近自分を含め、周りに疲れている人が多いような感じなので、書いてみた。

2014年6月17日火曜日

体を止めて聞く

以前紹介した次の本からの学び。

3ステップ「聞く」トレーニング
上嶋 惠著 さくら社

体を止めて話を聞く。
これができない子どもは結構いる。
注意をするが、なかなか直らない。

これはつい「やる気がない」「態度が悪い」だけと思ってしまう。
実は一部の子どもにとって、「トレーニングによる改善以外は不可能」とのこと。
著者の上嶋氏は最初の「床に寝る」からのステップを踏んだトレーニング方法を提唱している。
「体を動かす」=「聞いていない」の状態のため、当然色々なことができない。
「聞く」は学力形成の中心になる部分だからである。
体のコントロールの仕方がわからないだけで、トレーニングで改善可能だという。
つまり、その指導技術を持っていれば、聞けるようにできるということらしい。

自分のやり方が間違っていないか。
悔しいが、できないのは、結局教える側の責任である。
「その道のプロ」が教えたら、改善してしまう。

「同じことを何度も何度も繰り返し、異なる結果を期待すること。これを狂気という。」
とは、アインシュタインの言葉である。
謙虚に受け止め、自分自身をまず改善していきたい。

2014年6月15日日曜日

第121回 授業道場野口塾IN木更津

今回は宣伝なので敬体で書きます。

昨年度、大雪のため中止となった「授業道場野口塾IN木更津」が今週開催されます。
せかっくの企画でしたのでほぼ同じ内容で、再チャレンジすることといたしました。
スタッフ一同今度こそはという気持ちですので、ぜひご参加ください。
告知ページ→ http://ryomoedu.exblog.jp/22352563/

1.期 日   2014年6月22日(日)

2.会 場   木更津市民会館 小ホール
         〒292-0833 千葉県木更津市貝渕2丁目13番40号
         TEL:0438-22-4184   FAX:0438-22-4186
         http://www.kisarazu-shimin.jp
         ●JR内房線木更津駅西口より徒歩約20分

3.日 程
  9:10~ 9:30  受付
  9:30~10:30  【第一講座】 素材研究・教材研究の方法/木更津技法研
               「わすれられないおくりもの」(教育出版 3年下)
 10:30~10:40  野口先生による講評
 10:40~10:50  休憩
 10:50~12:10  【第二講座】 野口流詩の授業(模擬授業)/野口芳宏先生
              ~あの伝説の授業を再現!
 12:10~13:00  昼食 (お弁当)
 13:00~13:30  【第三講座】 教養講座~「私の教育観」(仮題)/地元小学校校長

 13:35~14:30  【第四講座】 思考力を鍛える説明文指導の方法/木更津技法研
 14:30~14:40  野口先生による講評
 14:40~14:50  休憩
 14:50~15:50  【第五講座】 野口流道徳の授業(模擬授業)/野口芳宏先生

4.参加費  4000円(昼食・飲み物付き 昨年参加された方は3000円)
        *当日受付でお支払いください。なお当日キャンセルの場合は、
         昼食代として、1000円をお支払いいただきます。
        *懇親会あり(16時半頃より2時間程度 駅周辺にて
         野口流宴会術が学べます!
         初参加の方大歓迎です。会費4000円程度の予定)

5.その他
  *お申し込み希望の方は、上記リンクにアクセスして直接事務局へメールしていただくか、メルマガ登録した後、メルマガに記載されているメールアドレス宛に以下の項目を記述をして送信してください。
メルマガ登録→ http://www.mag2.com/m/0001211150.html
   (連絡事項) 1)氏名 2)学校名 3)連絡先 4)懇親会の出欠
  
たくさんの方のご参加をお待ちしております。      

2014年6月13日金曜日

声出しも主体変容、率先垂範

運動会といえば、応援。
応援といえば、声。
声は大切である。
言葉の内容以上に、声の持つ雰囲気が大切である。
声の雰囲気でほぼ何が伝わるか決まる。

運動会で教師が失敗しがちなのが、声の出し過ぎ。
聞かせたくて、ついつい大きく高い声になってしまう。
大きな高い声が聞こえると、それに呼応するように更に騒ぎ声が大きくなる。
正しい方法は真逆で、聞かせたい時には、少し声を抑えて低い声を出す。
そうすると、「おや?」と耳をそばだてるようになる。

逆に、応援係は、テンションの低い声は禁物。
低く抑えた声は、気分を落ち着かせたり緊張させたりする効果がある。
応援のように、元気な声を出して欲しい時には逆効果である。
だから、説明させる時にも、それを意識させる。
「応援係はみんなの鏡」を合い言葉に、なりたい姿に先に自分がなるようにする。
応援係の「もっと声を出してください」は、応援係である自分自身への注意である。

試しに、全校での応援練習が終わったら、応援係だけを集めて次のように尋ねてみる。
「今日のみんな(応援係以外)の問題点とか気に入らない点ある?」
すると、応援係の子どもから色々と不満が出る。
やる気が感じられない、声が小さいなど。
全て出させ切ったら、最後は「それが、応援係自身の課題だよ」と伝える。
何をすべきかはっきりする。

声を出させたかったら、まず応援係から。
そして、応援係を指導するのは教師である。
主体変容、率先垂範を心がけたい。

2014年6月11日水曜日

呼称を考える

私の参加しているML上で、呼称が話題になった。
「さん」「君」づけか呼びすてやあだ名か、姓で呼ぶか名で呼ぶか。
意外とばらつきがある。

次に紹介するのは、野口芳宏先生の言葉。
「公的話法」
相手本位のしゃべり方をせよというもの。
思いやりにつながる考え方である。

野口先生は男女で「君」と「さん」を使い分けることも話されている。
男言葉と女言葉があるのは、国の文化であり、使い分けがなされるものという考え方。
(ちなみに「君」は元々尊敬すべき目上の人につける呼称が、同輩以下に使われるように転じた。
一方の「さん」は「様」の転じた形の敬称である。)

結論、子どもとの距離感がポイントなのかと思う。
呼び捨てやあだ名は距離感を最短(自分と同格)まで縮める。
だから、私は基本的に子どもの名前には呼称付きである。
そういう学級経営方針だからである。
一方、あだ名で呼び合って、素晴らしい学級を作っている先生もたくさんいる。
だから、必ずしもどっちがいいとは言えないような気もする。
学級経営の在り方にも関わる部分である。

2014年6月8日日曜日

低学年への応援練習は率先垂範

応援指導シリーズ。
今回は低学年への応援練習における「率先垂範」について。

応援係の子どもが、一生懸命低学年の子どもに説明する。
「手をこうして、こうやって・・・」と実に丁寧にがんばって説明する。
しかし、全く伝わらない。
なぜか。
低学年は、かなりを「イメージ」でとらえる。
細かな動きや言葉は、言われてもよくわからない。

「言ってきかせ、やって見せ、やらせてみせて、誉めてやらねば人は動かず」
とは山本五十六が用いたという有名な言葉だが、低学年にはこの「やって見せる・・・」以降の部分が重要である。
とにかく、やって見せて、やらせる。
この繰り返し。
コツは3つ。

1 手本がばっちり見せられること
2 たくさん何度もやらせること
3 誉めまくること

修正をかけたい点は、誉めた上で一言付け加えればOK。
それでまたやって見せれば「なるほど」となる。
「かなりできてるかも!?」と勘違いさせてのせることが大切である。
応援は音楽と同じで、説教をせずに「アゲアゲ」の雰囲気でやるのが原則である。

楽しくやるためにも、まずは応援係自身ができるようになって、自信を持って前に立たせたい。
それには「プライドを根付かせる」ことも必要である。

2014年6月6日金曜日

応援の声は「不自然」で

応援指導シリーズとして、昨年度の記事を修正再録。

「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
例の如く、野口芳宏先生の言葉である。
指導とは、まさにここにあると思う。
現状維持は楽。
負荷をかけ続けて少し無理させるから伸びる。

極端なことを言うと、普通にできることは指導する意味がない。
わざわざ導かなくてもできる。
下のレベルだけに合わせると、ほとんどの子どもにとって意味のない指導になる。
「底上げ」というのなら、底の上にある全部を上げないといけない。
上のレベルを基本にして、下まで含めて全体を引っ張り上げるのが指導である。

例えば、日直のスピーチ。
自分の普段通りのしゃべり方で話していては、よく聞こえない。
教室で全体に向かって話すのだから、無理が必要である。
(野口氏はこれを「公的話法」という言葉で教えている。)
「不自然でよい」のである。
自然ではいけない。
無理をするから、伸びるのである。

応援での声がよく出ない子どもは、無理できてないのである。
普通に出そうとしている。
応援などは「パフォーマンス」なのだから、演技が必要だ。
これは意外と難しい。
教師が前に立ってオーバーに演技することで、殻が破れることもある。
相手に少し無理を強いるのだから、教師はその倍は無理をする。

応援係はここが最重要になる。
全校の前で手本として立つのだから、恥ずかしがったりしていてはアウト。
応援団長が自ら「バカ」になって大げさにパフォーマンスをする必要がある。
山口の福山憲市先生の言葉だが「バカ」が大切である。
「バカ」の読み方は「馬力(ばりき)」であり、「心力」である。(「バ」の字を崩して「心」に変化させる。)
エネルギーと心がないとできない。
これを、団長ができるようになるために、先に教師が応援係への指導でやる。
教師が「バカ」になって、まず応援係にエネルギーを入れる。
応援係全員がこの「バカ」になれれば、ものすごい力を発揮する。

自分のキャラとかはあるが、そこは置いておく。
それは「自然」であるが、殻を破れない。
まずは、教師が無理をしてでもバカになる。
自分が無理をしてから、初めて子どもにも無理を求めることができる。
指導全般の鉄則である。

2014年6月4日水曜日

応援係の自主性の尊重と指導すべき事

運動会シーズンとうことで、再録記事。
応援係への指導について。

応援係は、応援を自分達で考える。
応援歌を作ったりもする。
振り付けを考えたりもする。

ここで考えるべきなのは、どこまで任せてどこまで指導するかである。
応援係だけの動きや声だしであれば、本人達のやりたいようにやらせればよい。
本人達が考え、そうしようと決めたのだから、複雑だろうが、歌いにくい歌詞だろうが、放っておいてもよい。

しかしながら、応援係は、全校児童に応援を教える係である。
そこが、係の仕事としての重要なポイントである。
その場合、複雑だったり歌いにくかったりするのは、よくない。
ここは、指導を入れるべきである。
応援練習は短い時間で仕上げる必要がある。
応援係の児童の自主性も大切だが、この場合、圧倒的多数である全校児童の方を優先する。

こういう失敗をしない為には、予めポイントだけを指導しておく。
たとえば応援歌であれば、高学年だと人気アイドルの歌や流行の歌に走りがちである。
しかし、低学年の児童は、そういうものに興味ないことが多く、知らない児童が多数である。
だから、応援歌などは、低学年の児童でも知っているような歌を選ぶとやりやすい。
ロングヒットのアニメの主題歌などであれば、確実である。
大きな声を出しやすいものを選ぶのもポイントである。
低音のものや、やたらな高音部のあるものは歌いにくい。

応援係が「自分達で作った」ことを自覚しつつ、きちんと全校児童に伝わるもの。
そういう方向で指導していきたい。

2014年6月2日月曜日

応援係はみんなの鏡

この時期に役立ちそうなので、昨年の記事の再録。

応援係の仕事は、ずばり全校児童に応援を教えること。
応援係の児童の声が小さければ、当然教えられる側も声が出ない。
無表情にやっていれば、教えられる側も無表情である。

「応援係はみんなの鏡」と教える。
つまり、自分達の姿勢がそのまま投影されるということ。
そして、教える側以上のレベルになることはないということ。
だから、自分を高めることがみんなの応援のレベルを高めることになる。
そういうことをちょくちょく伝える。
基本的に精神論を指導して、どんな応援をするかという方法論は、団長はじめ応援係に任せる。

ちなみに、日直の児童にも同じようなことをよく言う。
朝、みんなの前に立つその日のリーダーが暗い顔と声では、他の人が可哀想だと。
だから、努めてなるべく元気な声を出しなさいと。
日直という「務め」の、がんばりどころである。

これは、そのまま教師にも当てはまる。
基本的に、全体のレベルは指導者のレベル以上にはならない。
一部の天才的な子どもを除き、普通は指導者側のレベルに収まる。
そう考えれば、自分を高める必要性が出てくる。
個人的にテンションが上がらない朝であっても、「務め」としてがんばりどころである。

応援指導にも率先垂範、主体変容が常である。

2014年5月31日土曜日

応援係指導の心構え

応援係を指導する際の教師の側の心構えについて。

子どもには、何のための応援係なのかを自覚させるということを前回書いた。
同様に、教師の側も目的意識をはっきりさせる。

応援係がどうなれば良いのか。
職員会議の提案文書に目的が記載されているはずである。
例えば自分が担当の時には、応援係の目的については次のように書いた。
「自主的に動き、創意工夫をして物事をつくりあげていく体験をさせることで、
高学年としての自覚とリーダーシップを育む。」

要は
1 自主的に動く
2 創意工夫してつくる
の2点を通して自覚とリーダーシップがつけばねらいは達成される。

そうなるように教師の側は指導する。

全部準備してあげると、1も2もやる機会を奪う。
だからといって放っておいたら、1も2もできない。
(できるなら、ねらい自体を変えている。)

どうすると自主的に動くか。
やることが明確であれば自主的に動ける。
当面の目標として、何と何をするかを示す。
これは指導者の側の役割である。

どうすると創意工夫をするか。
いくつかの例があれば、組み合わせたり変化させたりできる。
創意工夫には、材料が必要である。
ゼロから全てを生み出すのは、時間に余裕がある時だけである。

つまり、指導者側は
1 まず何を決めて活動すればよいか
2 いくつかの応援の型(基本型、応援歌、つなぎ、導入と終わり方)
この2つを最低限心構えとして準備しておく。
そうして、はじめてスタートラインに立てる。

応援係の子どもは、最初やる気はあるが迷っている。
だから、最初は多めに手をかけてよい。
しかし、本番が近付いて応援ができあがらずに困って、指導者が頑張るのは本質が違う。
その段階では、応援団長を中心に応援係の子どもが悩むべきである。
リーダーとしての自覚が育ち、創意工夫しようと努力している子どもになっているはずである。

短期であることを除けば、学級作りと根本・本質は同じである。
短い時間で成果が出るよう、最初の段階で一番力を注ぎたい。

2014年5月29日木曜日

応援係の指導の根本

春の運動会シーズンである。
高学年だと、応援係を指導する。

応援係の指導法にも、自分なりの基本がある。
応援合戦に勝つことを目的化している訳ではないが、毎年結果的に良い集団に育っていると思う。
指導したことがないという方のために、根本に当たる部分を述べる。

応援係は、比較的活発な子どもが集まる。
最高に目立つ役なので、自然とそうなる。

どうやってなったかにもよるが、なった以上は役割を自覚する必要がある。
勘違いで多いのは「自分が輝く」が目的化している子ども。
そうではない。
応援係は、応援を通して全員を盛り上げる係である。
1年生から6年生までの全員の力を引き出す係である。
応援合戦では、自分が声を出すのは当然で、全ての仲間に声を出させる方が重要である。
この辺りの役割は、教えてあげないとわかっていないことが多い。
1年生からの「憧れ」で立候補していることも多く、経験は無いのだから当然である。

応援係には根底に「周りへの感謝」を絶対に忘れさせない。
特に立候補して選んでもらった場合は必ずである。
なれなかった仲間もいるのだから、その仲間が納得いく姿を見せる責任を負う。
光が濃ければ影も濃い。
最高に輝く分、影の部分が必要になる。
前に立つ分、多くの努力や責任を負う。
団長なら、応援の全てを家で何度も繰り返し練習して、一番に完全に暗記してくるぐらいは当然やって欲しい。
周りを輝かせようとしている結果として、自分も輝くことになる。

これは、部活動や陸上記録会などの全ての「選手」にも当てはまる。
周りの支えがなければ、練習もまともにできなかったはずである。
選手が共にがんばってきた仲間に応えようとするから、周りも必死に応援する。
その応援により、結局選手である自分にも良い結果が出る。

「選ばれる」ということの誇りと責任の自覚。
おごりが出るぐらいなら、選ばれない方がその子にとってプラスになる。

そういう気持ちを持たせて、凜とした応援係を育てたい。

2014年5月27日火曜日

ネタ、モノ、手法の共有化

先日、友人と話していたところ、興味深い話が出た。

例えば、子どもの目が輝くネタやモノ、手法がある。
それぞれの先生が持っている。
しかし、同僚であっても意外と知らないことが多い。

良いものなのに、なぜ知れないのか。
原因を考えた。

知らない側の原因は、こちらが知ろうとしないことが考えられる。
これは更に大別できる。
1つ目は、自分の中にニーズがない場合。
特に困っていないから、いらない。または合わないと思っている。
2つ目は、単に気付いていない場合。
困ってはいるが、身近に解決法を持っている人がいるとは思っていない場合。
3つ目は、相手が聞きにくい場合。
話しかけにくいとか、教えてくれなそうな雰囲気を持っている。

持っている側の原因としては、教えようとしないことが考えられる。
これも更に大別できる。
1つ目は、教えるほど価値のある実践だとは本人が思っていない場合。
普通にやっていることだから価値を感じていない。
2つ目は、教えたくない場合。
自分以外の人もできるようになると、自分の価値が下がると思っている。
3つ目は、教えたいけどどうしていいかわからない場合。
自分が嫌われていると思っていたり、有り難迷惑になりそうだから控えている。

原因は様々だが、総括すると「コミュニケーション不足」に尽きる。
互いを知らないから、高い価値を感じない。
風通しの良い職場では、自由な実践とその共有化がしやすい。
雑談や飲み会のような場にこそ、学びの種がありそうである。

2014年5月25日日曜日

受け身は極悪

教師塾での学びのシェアの続き。

「受け身は極悪」

語感が痛烈だが、受け身になってしまいがちな弱い気持ちを戒めるためと捉える。

何か学んだら、必ず子どもや周りの人に還元する。
頼まれる前に実行する。
自分から進んでやる。
トラブルが起きたら、すぐにできる手を全てうつ。
「悲観的に最悪を想定して、最高の準備をし、楽観的に臨む」
トラブルにも受け身でなく、攻める。
予防的生徒指導に力を注ぎ、治療的生徒指導の負担を減らす。

どれも当たり前のことだが、意識していないと意外と難しい。
心に残った言葉なので紹介してみた。

2014年5月23日金曜日

応援係の指導ステップ10

メルマガ上で応援指導についての記事を発信中。
いつものペースでアップすると運動会シーズンが終わってしまうので、こちらにも先に掲載。
元々2号分なので長いのはご容赦を。

応援係指導のやり方が、人によってかなりまちまちであることに気付いた。
教科書や指導書がないのだから仕方ないが、ある程度マニュアル化されていると、工夫もしやすいのではないかと思う。
よって、自分なりの「応援係の指導ステップ10」を公開してみる。
(大したことは書いてなく、分かっている人には当たり前のことばかりである。
ただ、初めて応援係を指導する人には役立つと思う。)

1.心構えの指導
最も大切なのが心構えの指導なので、最初に行う。
農業で言うと土づくりの部分に当たる。
土で野菜の出来が決まる。

指導すべきは「応援係とは何なのか」ということ。
間違っているのは、自分が目立ちたいという思い。
それは別のところへ行ってやってもらう。
応援係とは全校児童に応援を教えるのが第一の仕事である。
その上で、自分達の動きを考えればよい。
放っておくと、自分達の派手な動きばかり考え、全体の動きが忘れられがちである。
本来の重要な役割を自覚させる。

さらに「人は口だけの人には教えられたくない」ということも指導しておく。
リーダーとして前に立つからには、生活態度から改める必要がある。
普段人の話を聞けないと思われている人に、「話を聞け」と言っても誰も聞く訳がない。
「声を出して」と言っている本人が出ていないでは、話にならない。
掃除などを一生懸命やる、ルールを守るといったことについても同様である。
リーダーとしての言行一致が求められる。(教師にも当てはまる。)

2.立ち方の指導
姿勢は大切。
肩幅の2倍程度に開く。
腰骨は立てる。
腕は後方、手の甲を腰に当てて組む。(腰より下げない。)

3.声の出し方の指導
「声が出る」というのは、応援係に立候補した時点でクリアしているべき項目である。
ここでは応援用の「より良い声」を出すための指導をする。
腹の底から声を出す。
顔は斜め上方に向けることで、腹の底からまっすぐ声を出しやすくなる。
口は当然、目一杯開ける。
声を出す時にはひざを深く曲げる。
頭のてっぺんから足の裏まで全身を使って声を出す。

4.動きの指導
静と動にメリハリをつける。
流れるような動きにしない。
止まるところは止まる、動かす時は素早く動かす。
そして、指先までピンと張り、目一杯動きを大きく見せる。
「空間」を最大限に表現する。

5.表情の指導
「応援係は顔が命」と教える。
別にイケメン、美女軍団になれという訳ではない。
顔を引き締めろということ。
口元をきゅっと結び、目は一点を「ギン」と見つめる。
特に大切なのは「目力」。
とかく応援は「声」と勘違いしがちだが、合唱等と同様に、全身のパフォーマンスであることを確認する。

6.基本の型を一つ徹底する
様々な応援を考える前に、まず一つを徹底する。
いわゆる「フレフレ」である。
大声を出せて、基本的な動き(腕から指先までピンと伸ばす)等が指導しやすい。
この基本がきちんとできるようなら、他の応援は自然にできるようになる。
だから、基礎をきちんと固める。
間の取り方や声の出し方、スピード等を指導する。
表情や立ち方もここで再確認し、統一する。
ここで教えたことを、応援係は後で全校児童に指導することになる。

7.応援歌を作る
応援歌は、歌いやすくてみんなが知っている曲を選ぶ。
その場で「考えよう」だとすぐ出てこないので、宿題にして一人一案持ってこさせる。
その中から、良いものを選べばよい。
原案の歌詞がうたいにくい、内容が不適切な場合は、相談して改めて決定する。
時間の節約の為に、教師が一時預かりして選別してくるのも手。

8.他の応援を作る
これも一人一案、宿題にする。
選ぶコツは「声が出しやすい」、「やってて楽しい」または「かっこいい」こと。
CMや流行モノをちょっと取り入れるのもいい。(お笑いは人気。)
オリジナリティを存分に発揮させたい。
どうしても出ない場合のみ、教師から提示することもありえる。(基本的に必要ない。)

9.組み立てを考える
いくつか作ったものを、どの順番で組み立てるのか。
制限時間内におさまるよう、速さの調節も必要である。
応援と応援の「つなぎ」もここまでに考える。
「つなぎ」は隊形移動の時間かせぎでもあるので、短すぎても長すぎてもいけない。

10.応援係の動きを考える
ここまで考えた応援の動きは、全て「全校児童の動き」である。
まずそこを作れば、安心である。
各学級で練習してくれる。
逆に、ここを変更するとなると、伝達にかなりの手間がかかる。
応援係自体の動きは、前日に変更しても大丈夫。
それぐらい自由度の高いものであるので、本当に後回しでよい。
また、応援係が一番楽しみにしている部分でもあるので、最後までとっておくという意味もある。
側転でも騎馬でも組体操でも「EXILE」でも派手にやりたいようにやらせればよい。
ただし、安全面にだけは絶対留意する。

以上の10ステップ。
ちなみに、「宿題」が多いのだが、応援をその場で考える時間はない。
全体の場は、あくまで「合わせ」の場である。
個人でじっくり考えるのは、家で一人の時の方が良い。
私はよく、朝の日直のスピーチでも「みんなの前に立つ1秒は30秒の価値」などと教える。
応援係が集まる貴重な時間に、個人活動は無駄である。(学校での各種会議でも同様。)
まして、全校児童の前に立つ時には、1秒の価値が100倍以上になる。
「気合いを入れて立て」と指導する。

なお、今年度作った応援については、ビデオにとるなどして記録しておいた方がよい。
(私は、映像を見直すのが面倒な質ので、文書化して保存している。)
必ずまた指導する機会が来るからである。
(そして、数年経過しているので忘れているのが常である。)

少しでも参考になれば幸いである。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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