2017年1月31日火曜日

いいクラスの見分け方

間が空いてしまったが、赤坂真二先生のクラス会議セミナー合宿からの学びの続き。

いいクラスの見分け方があるという。
それは、学習参観をした時に、参観者が
「特別支援の必要な子どもが、どの子どもだかわからない」クラスだという。

考えてみると、なるほど、わかりやすい基準である。
ありがちなダメパターンが、教師がその子どもにべったりくっついてしまうというもの。
善意からやっているとは思うが、故に余計に質が悪い。
周りの人に「この子はできない」と宣言しているに等しい。

一方、子ども同士で協力して教えているクラスがあるが、こちらは余程上等である。
ただ、支援が必要な子どもが傍目にも目立つという点では惜しい。

本当に上質なかかわりのあるクラスだと、ここすら目立たない。
なぜなら、どの子どもも当たり前のようにコミュニケーションをしているからである。
どっちが教えてどっちが教わっているかもよくわからない。
むしろ互いが学び合っているといえる状態である。
これだと、どの子どもが支援の必要な子どもかは、傍目にはさっぱりわからない。

こういった「視点」を持っているかどうかで、参観の質もがらりと変わる。
それだけでなく、自分の授業を見る視点も変わる。
自分の視座を上げていきたい。

2017年1月29日日曜日

ホームで人が倒れていたら

今回の記事は、ネットニュースに取り上げられたものである。
http://www.mag2.com/p/news/232955/2

公衆道徳の話。

人を助けることは大切。
道で倒れている人がいたらどうするか?
当然「助ける」と答える。
普通の答えである。
「急いでいるから放っておく」「どうしていいかわからないから助けない」
と子どもが答えたら、どう思うか。
親や教師なら「その考えを改めさせたい」と思う。
しかし、現状でそれはなかなか難しいのがわかった。

先週、実際その場面に出くわした。
私は現在、電車通勤である。
目的の駅についてホームに降りた。
すると、前方50mほど離れた別車両から人が降りて、うずくまるように倒れた。
大勢の人がいるが、誰も近寄らない。
歩きながらちらっとは見るが、脇を通り過ぎて行く。
「スルー」または「傍観」である。

その場まで行ってみると、倒れているのは二十代ぐらいの男性である。
苦しそうに荒く息をして、目をぎゅっとつぶっている。
車内は満員に近く、多くの人が車両の中から立って男性を見下ろしている。

先に降りた人も含め、誰も助けないのである。
お陰様で私が「いい人」の役をおおせつかった上にこうしてメルマガのネタにもなる訳である。
そういえば、銀座まるかんの創業者、齋藤一人さんが「歩道橋前で重い荷物を持ったおばあちゃん」を探し求めて数十年。
やっと見つけた瞬間に急いで声をかけてつかまえたという話があるが、あれと同じである。
人を助けて自分を役立てることは、赤ん坊すらもつ本能的欲求であり、「助けさせてもらった」こと自体が感謝&報酬である。

しかし、この「ラッキーな事態」に周りの誰も動かなかった。
多分、先に挙げたような「どうしていいかわからない」心理ではないかと思う。
気持ちとしては助けたい人も多いのではないかと思うが、実際動かない(動けない?)のである。

道徳は、心の学習であるが、最終的にそれが行動につながっていくから意味がある。
どんなにいい意見を言おうが書こうが、やらないのでは意味がない。
日本人なら、助けて当然であると思うのだが、自分のことを優先&周りの目を気にしすぎである。
自分を「お節介」「偽善者」と思われることをかなり嫌う。
しかし、それでは社会が冷たくなるばかりである。

私はわざわざここに書くぐらいの超偽善者なので、その場でその男性に話しかけ、駅員さんを呼んだ。
駅員さんも朝のラッシュ時で忙しいので、「そこにいてください」と頼まれた。
待つ間、男性に話を聞くと、私が常々やめようと呼びかけている、体調不良で無理矢理出勤しているパターンである。
それぞれ事情があるので断定はできないが、基本的に体調不良の時は自分と他人のためにも休むべきである。
5分も待つ内に駅の担当の方が来たので、引き渡してその場を離れた。

何を思ったかというと、これでは子どももこうなるだろうと思った次第である。
子どもは、常に大人の背中を見ている。
歩きスマホも交通違反も、子ども以前に大人が問題である。
公衆道徳や思いやりも然り。
学習指導要領の改訂や道徳の評価化や心の教育云々以前の問題である。

今回の件が「たまたま」であったならいい。
ただ、私は常々「その瞬間たまたまできないことは、必要な瞬間にもできない」と考えている。
避難訓練でふざけていて、本当の災害時に大丈夫なはずがないのである。
一事が万事である。

社会にいる大人を育てたのが学校教育だといわれたらぐうの音も出ない。
だから、道徳教育は真剣に考える必要がある。
ただ、それが口先のものでは全く効果がない。
学校で、クラスでできないことは、社会に出てもできないということである。
社会にいる大人がやらないことを、子どもがやるはずがない。
子どもは素直に全部真似するのである。

自主、協働。
助け合い・思いやり。
どれも格好良く、きれいな言葉だが、実行時は自分が泥をかぶる覚悟が必要である。
美辞麗句に終わらず、実行できる子どもを育てることを真剣に考えていきたい。

2017年1月27日金曜日

子どもの姿が事実

前号に続き、次の本から。

『喜びの種をまこう』
東井義雄 著 柏樹社

=========
(引用開始)
教育は、理屈ではありません。
「この子をみてください」といえるような子どもを育てることです。
(引用終了)
========

研究発表や実践発表では、いくらでもいいことを言える。
「こんなにすごいことをしました」
「こんなすごい成果が出ました」
いくらでもいえる。

何なら、授業研などで公開する時だけいい格好もできる。
その時だけ違う姿を見せることもできる。
そんなものは、全部嘘とまでは言わないが、無意味である。

子どもの普段の姿が事実である。
その学校の子どもが、どうなっているかである。
道徳でどんな感想が書けるかではなく、どんな心根でどんな行動をしているかである。
「掃除をきちんとすると気持ちがいいです」などと感想を書いているのに、翌日さぼっているなんてことはざらにある。
子どもも大人と同様「口当たりのいい言葉」を述べられる。
「こう書いておけば相手が喜ぶだろう」ぐらい簡単に考えられる。
道徳の評価化が敬遠される所以である。

この点において、掃除はわかりやすい。
褒められるため、叱られないためにやっているのは、すぐわかる。
そこに理屈がなく、やるのだと決めて徹底的にやる子どもは、輝きが違う。
ここばかりは、いやでも見えてしまうものである。
可能であれば、研究発表会そのものより、掃除をしているところを見た方がその学校の子どもの育ちがわかる。

どんなにキレイゴトを並べても、たとえば掃除ができないようであれば、事実として子どもが育っていないと考える。
理論と実践の乖離である。
私も普段うまいことを言っているわりに、ここを見てがっかりすることがよくある。
その時は落ち込むが、ここに気付けることは収穫である。

結局、子どもの姿がすべてである。
これから先、色々と実践発表の機会を与えられているが、理屈や美談で語らないようにしたい。
教育実践で見栄をはろう、すごいと思ってもらおうと考えはじめたら、実践家としての教師人生は終わりである。
いつでも事実と実践で語ろうと思えば、生涯本物を貫くことも可能である。
師の野口芳宏先生の仰るように「本音・実感・我がハート」に背かないよう生きていきたい。

2017年1月25日水曜日

『喜びの種をまこう』より

良本の紹介。

『喜びの種をまこう』
東井義雄 著 柏樹社

伝説の教師、故・東井義雄先生の本である。
若干紹介が憚られるのは、今購入すると、非常に高いのである。
かなりのプレミアがついてしまっている本である。
ネット上だと元値の6倍~10倍の値段で売られている。

ただ、真の教育書とは、こういうものなのだと納得の書籍である。
私の本もお陰様でよく売れてはいるが、最終的にはこういう本を書ける境地に達したいものである。

もう珠玉の言葉の数々なのだが、その中の一節を紹介する。
「忘れ得ぬ言葉」という小タイトルにある話である。
=============
(引用開始)
「もしも、明日、雨が降っても、
 決して
 天に向かって ブツブツいうな
 雨の日には
 雨の日の生き方がある」
(引用終了)
=============
ある体育主任が、運動会準備後、子どもに向かって話した言葉だという。

天に向かって ブツブツいうな
雨の日には
雨の日の生き方がある

素晴らしい言葉だと思う。
良い日も悪い日も、良い事も悪い事もない。
誰かのせいでもない。
すべては、自分が決めることである。
すべては自分の責任である。

こんな詩もあった。
=============
(引用開始)
川は
岸のために流れているのではない
川のために
岸ができているのである
川は
岸にそって流れているのではない
川にそって
岸ができているのである
(引用終了)
=============
中学三年生の女の子が書いた詩であるという。
見事という他ない。
そして、この詩は教育の在り方そのものである。

教師は、ともすると自分たちの都合に子どもを合わせてしまう。
子どものために教師がいるのであって、子どもがいるから、そこに教育内容がある。
逆になってはいけない。
子どもに携わるすべての人にとって、自戒の言葉となり得るので、紹介してみた。

2017年1月23日月曜日

哲学的テーマでクラス会議

クラス会議合宿での学び。

クラス会議では、基本的にはクラスの諸問題について話し合う。
しかし、時に哲学的なテーマでやると、互いの理解が深まる。
「共同体感覚」を育むのが目的なので、相互理解を深めるのは大切である。

先日は「幸せ」とは何かというテーマで話し合った。
(ただし、通常のクラス会議としての学活ではなく、道徳の時間である。)

これが、なかなか盛り上がる。
最終的には「今ここに生きていること自体が幸せ」という結論に達する子どもが多くいた。
別にこちらが道標を出した訳ではないが、本質的な学びである。
これが、友だちとの「対話」の中から生まれる。
対話の絶対ルールは「否定しない・肯定的にきく」である。

時に、哲学的テーマで話し合うのはおすすめである。

2017年1月21日土曜日

目覚まし時計の衝撃

土曜日ということで、久々にゆるくエッセイ。

先日、衝撃の事実が判明した。
みなさんは、目覚まし時計を使っているだろうか。
私は、使っていない。
今回は、目覚まし時計に関わる話である。

事の発端は、携帯のアラーム。
私は普段、携帯アラームを目覚ましに使わない。
何なら、携帯の着信音も鳴らすことがない。
小動物系なので、音にびっくりするのが嫌なのである。

ところがその日の前夜は、珍しく夜更かしをしてしまい、朝起きられない可能性があった。
万が一に備えて「アラーム機能」というのをセットしておいた。
携帯電話ごときに驚いて目を覚ますのは癪だが、なに、アラームより先に起きればいい話である。
多分大丈夫であろうとその日は床に就いた。

翌朝。
すっきり目覚めた。
アラームをかけたことはもはや記憶の外。
安心して仲間の集う食堂に行った。(ちなみに、学習会の合宿中である。)

食堂の席につくと、近くで聞き覚えのない謎の着信音が鳴り響く。
誰のかと思ったら、自分のポケットからである。
例のアラーム。
こんな音がするとは知らなかった。
驚いていると周りから「普段はアラーム使ってないの?」との声。
「いや、使わないでしょ?」と答えると「いやいや。使う使う。」とのこと。

普段、目覚まし時計で起きているのか。
毎朝、さぞびっくりして目を覚ますことだろう。
早朝からご苦労なことである。
憐れみの目で「そうなんだ。」と優しく答えた。

「〇〇さんは使ってないでしょ?」と聞くと、「いや。使う。」とのこと。
ここにもいた、レアな方。
逆の席にも聞いた。「使ってないよね?」「いや、使う。」
変わった人の集まりのようである。

冷静に見ると、既に使う派と使わない派の数は3:1。
明らかに自分が劣勢である。
同じ早起き仲間の親友I氏に尋ねた。
「使わないよね?」「使うよ。」
かなり醒めた感じでバッサリ。

まさか、そんなはずはない。
ここにいるのが、全員が変な人という可能性がある。
或いは自分が変わり者なのか。
周りの人の「変わり者を見る目線」が刺さる。

その後、誰に聞いても「使う」の一点張り。
10人目にしてやっと「使わないでも起きられる」と答える仲間を発見。
「でも使いますけどね。」

常識は、突き詰めると個人の中にしかない。
そういえば、ずっと前に読んだ、リリーフランキーの『マムシのanan』という本にも同じようなことが書いてあった。
家の中では全裸が普通とか、
成人している妹の髪をブローする兄とか、
トイレのドアを全開にして用を足すとか、
そういうことである。

自分の世界の当たり前は、当たり前ではないと思い知った。
それにしても、毎朝目覚ましの爆音が鳴り響くのは、落ち着かないのではないのだろうか。
恐怖ではないのだろうか。

書けば書くほど、読者の皆様の心が離れていく気がするので、この辺りでやめておく。
自分の中の常識は、世間の常識ではないかもしれない。
目覚まし時計が教えてくれた真実である。

2017年1月20日金曜日

一人が鍵を握る

前号の続き。
一人を粗末にしない、ということを具体的にどうするか。

例えば算数の授業。
ある子どもは1分で解けるが、ある子どもは自力で45分ねばっても解けないということは多々ある。
達成すべき学習進度がある以上、いつまでも解けない子どもに合わせている訳にもいかない。
ただそんな時、「この人は無理」となってしまったら、そこで終わりである。
そこを何とかするのが、わざわざ学校に集まって授業を受ける意味である。
早く解けた子どもが、自分の力を誇示するためでなく、本当にその仲間に「わからせたい」と願う時、チームは成長する。

学級担任ができるのは、「見捨てない」という信念を持つことと、そのシステムづくりである。
教え合うことができる環境づくりである。
心の中までは踏み込めないのだから、45分動かない子どもたちに怒鳴ってもぼやいても無駄である。
「きちんと着席」で「黒板を向いて」の状態を求めるのであれば、子どもが入る余地はなく、教師が教え込む他はない。
それは、仲間を無視して自分のことだけに集中させる手段である。

そうではなく、友だちに教えることができるシステムづくりが先。
班で向かい合って話し合える形。
席を立ち歩ける。
畳や丸テーブルのような、リラックスして教える場がある。
話は肯定的に聞くというような約束。
黙って聞くだけでなく、つぶやきやおしゃべりの容認も必要になる。

やがて、どんな環境やシステムかはお構いなしに、困っている仲間を助けるようになる。
行動より心が先、であって欲しいのだが、実際は心は後に来る方が多い。
よく運動や掃除などで「最初嫌だったけど、やっている内に楽しくなった」なども、やはりそうである。
だから、最初は嫌がったり面倒がったりしても、何とか工夫してやらせるというのが、学級担任の仕事である。

これら一連のことは、大人の社会でも当てはまる。
一人の客を粗末にする時。
一人の社員を粗末にする時。
その店なり会社なりの未来は覚束ない。

この理由は明白で、粗末にされた一人の人間だけでなく、構成員のすべてが「下がる」からである。
自分だけが大事で、人を差別したり粗末に扱う自分に、健全な自尊感情が育つはずがない。
それを見ている自分や流してしまう自分に、自尊感情が育つはずがない。

いいことは、陰でやってもいいことなのである。
「天知る知知る人ぞ知る」というが、その誰よりも間近で自分の目と脳が認識する。
本当の自分にだけは嘘をつけない。
自分は誰かの、何かの役に立っているという自尊感情の威力は、最強である。
逆もまた然りである。
誰かを助けて、感謝された時の自尊感情の高まりは、言葉にできない。
「どうでもいい相手」から、お互いが「大切な存在」になる。

要は、一人が鍵を握る。
チームの中で、しんどいのは誰か。
この仲間のしんどさに共感し、一緒に解決しようとしているか。
学級や学校はもちろん、すべてのチームの成長の分岐点は、ここに尽きる。

2017年1月19日木曜日

一人を粗末にしない

最近感銘を受けた、次の本を紹介する。

『自尊感情が育つ元気教室』
https://www.amazon.co.jp/dp/4759220372
園田雅春著 解放出版社

まえがきにある、次の一節が光る。
「一人の子どもを粗末にするとき、その学校その教室は光を失い、その地域は未来を失う」

この言葉は、多くの現場の教師の胸に厳しく刺さる。
学校では、どうしても全体として進めなくてはならない場面が多く、ここに苦悩する。
「私は一人も粗末にしていない」と胸を張って言うのは、かなり勇気のいることである。

しかしながら、ここをクリアしない限り、時代が求めている教室にはならない。
一人たりとも、見捨ててはいけないのである。
一人を見捨てる教室は、全員を見捨てる教室である。

個を大切にする一方で、「チーム」として目標を達成するよう成長させる。
「個か全体か」ではなく、「個も全体も」が求められるのが難しいところであり、肝でもある。
個と全体は、数珠のように連動しているからである。

学校の具体的な場面でいうと、どんな場面が当てはまるか。
長くなったので次号。

2017年1月17日火曜日

良い位置付けをする

12月10日にアップした、プレジデントオンラインの次の記事がある。
「上の子下の子の“格差”」を生む親の傾向
http://president.jp/articles/-/20850

タイトルが多少刺激的なのは、オンライン記事の宿命としてお許しいただき、内容を見ていただきたい。
子どもは、集団の中で自分をどのような位置付けに認識しているかで、成長が変わる。
まず家庭の中で自分が劣等感をもてば、それを外の社会にも適用する。
外の社会でも自分を位置付けし、そこに対応した振る舞いをする。

例を挙げると、校内でサッカーが一番上手いと言われている子どもがいるとする。
しかしこの子どもも、クラブチームでは最も下という認識をしていることはざらにある。
そうすると「自分はサッカーが下手」という認識(誤認)をもってしまうことがある。
どちらにおいても、実力的は同じなのだが、集団の位置付けへの認識の違いである。

要は、人間は位置付けする性質そのものからは逃げられない。
そこから自尊感情も発生する。
だとしたら、位置付けの認識の仕方を変えればいいのだが、これがなかなか自力では難しい。

そこで、家庭や学校で何をすべきか。
子どもの優れた面に光を当ててやることである。
テストで測れるような学力はわかりやすいが、それが全てではない。
授業を例にとると、よく発言する子どもは活発でいいと評価される。
しかし、人の話をよく聞ける子どもや、よく書く子ども、深く考えられる子どもも同様に評価されるべきである。
学級であれば、話をよく聞ける子ども、人を笑わせられる子ども、優しい子ども、色々である。

これは師の野口芳宏先生に教えていただいたことだが、人間は無限多面体であるという。
一人の人間が様々な面をもつ。
本人も気付かない面に光を当てて、子どもが「自分もなかなかだ」と思えれば最高である。

元筑波大附属小学校の名物教師、有田和正先生は、学級のすべての子どもを「〇〇名人」と認定していたという。
これこそ、集団の中で自分を良い位置付けにする手段の好例である。

これは、子どもに限らず、大人でも同様である。
大人だって、家庭や会社で、自分で気付かない面を認めてもらえたら、気恥ずかしいけど嬉しい。
そういうものを探そうとする視点を常にもっていきたい。

2017年1月16日月曜日

月曜日はさっさと帰るべし

月曜日に関連する話。

私は、週の内に「残業デー」を決めることを推奨する。
多忙するぎる現代の教員には「ノー残業デー」という発想を転換した方が合うのではないかと考えている。
本来、残業しないのが普通なのだから、逆に残業デーが必要になるという考え方である。

私の考える残業デー設定のポイントは、月曜日だけは避けるということ。
月曜に残業すると、翌四日間をへとへとで出勤することになり、結果担任する子どもにしわ寄せがいく。
月曜に無理をすると、確実に後で疲れが出て、一週間分のパフォーマンスが落ちる。
月曜は元気な気がして頑張りすぎることができるので、特に注意が必要である。
(ただし、今週のように、その週の内に祝日等の休みがある場合は例外で、残業可としてもよい。)

週二ならば「火曜または水曜&金曜」がおすすめである。
週三ならば「月曜&水曜&金曜」になる。
この場合、「月曜の残業だけは二時間」というように時間の上限設定をするのが大切である。

自分なりのルールを設けて、行動を律するのが大切ではないかと思う次第である。

2017年1月15日日曜日

意見は、人格。

上越教育大学の赤坂真二先生からの学びのシェア。
赤坂先生より受講者に対し「学んだことを周りに広げるべし」との話があった。
よって、遠慮なく紹介していく。
山ほどあるので、少しずつ。

次が、一番心に残った言葉。

「意見は、人格。」

つまり、意見をその人そのものと捉えるということ。
そうなると、簡単に否定することはできない。
「人の意見を聞く」「意見を大切にする」という言葉の本質がある。

これが、対話において大変重要な心構えになる。
批判はいらない。
肯定的に聞く。
なぜなら、「意見は人格」だからである。
仲間を否定していいはずがないのである。

この言葉を意識するだけで、かなりのことが変わる。
授業中や休み時間、子どもの話を聞く時にも必要な心構えである。

2017年1月12日木曜日

保護者面談の前に役立つおすすめ本

保護者面談が苦手という人は多い。
大人同士とはいえ、立場も違い、若手だと保護者が年上のことが圧倒的に多い。
得意という人の方が特異である。

そんなあなたにおすすめの一冊。

子どもの話にどんな返事をしてますか? ―親がこう答えれば、子どもは自分で考えはじめる
2005/10/20 ハイム・G・ギノット (著), 菅 靖彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4794214510

11年前の本であるが、書いてある内容は未だ「最新」である。
ちなみに、管理職の先生が職員におすすめしたので即買いした。
私は、身近な人や信頼している人がおすすめしてくれたものは、即買いすると決めている。
(ただし、車のようにあまりに高価すぎるものは例外で要検討。)
役立つと確信するからおすすめしてくれるのであって、買って後悔することはまずない。

さて、例えばこんな問い。
何もかもがうまくいかない忙しい朝。
電話は鳴る、赤ん坊は泣く、トーストは焦げるで散々な朝。
その状況で遅れて起きてきた夫。
夫は妻に、何と声をかけるか?
(それぞれ、自分だったらどう声をかけるか、または声をかけて欲しいか、想像してから読み進めるとよい。)

さて、次のように言われたら、それぞれ妻はどう感じるか。

A「なんてこった!いつになったらトーストの焼き方を覚えるんだ!」
→恐らく、多くの人は怒り出すことだろう。泣き出す人もいるかもしれない。

B「うーん、お前、今朝は大変だな。赤ん坊は泣くし、電話は鳴るし、トーストは焦げるし」
→「そうなの!」と共感してくれることにほっとする人が多いだろう。

C「おれがトーストの焼き方を見せてやるよ」
→恐らく、これが最悪。プッツンと切れて飛び出す人もいるかもしれない。

いかがだっただろうか。
これは、教室での対応にも置き換えられる。
うまくいかないで困っている子どもに対し、A、B、Cどのタイプの対応が多いだろうか?
Bの対応を上手にできているだろうか。
私はできていない。
Aが態度に出ていたり、ひどいことにCが多かったりする。
特に忙しいなどで自分の調子が悪い時はダメである。
かなり刺さった。
しかし、自分がダメなことを知ることは、向上の有効な第一歩である。
このページを読むだけでもノックダウンだが、成長のためには立ち上がって読み進むしかないのである。

とにかく面白い。
そして、刺さる。
恐らく、親子関係の悩みも、この1冊に凝縮されている。
面談の前に読んでおくと、何かと役立つ1冊である。

2017年1月8日日曜日

自己主張はアクティブ・ラーニングか

アクティブ・ラーニングの主体的と対話的と深い学びについて。

主体的という点において、自分の意見をもてることは大切である。
しかし、これを「自己主張をして、意見を通す」子どもにしてしまったら、対話的でなくなる。

また「積極的に手を挙げる」姿を無闇に求めると、これも違う方向へ行く。
発問に対して即座に手を挙げるようなら、考えが浅い証拠である。
(または、熟考しないでわかるような、下らない発問である。)
よく考える人間は、問いに対し即座には手を挙げない。
大人を考えればわかる。
ハイハイと手を挙げて自分の発言を聞いて欲しいと主張するのは、パフォーマンスが大切な仕事の場合である。
我々が目にするものであれば、それはひな壇上のお笑い芸人や国会議員ぐらいである。

教室での具体的手段の一つとして、ノートに書かせるというのがある。
「ノートは思考の作戦基地」とは、有田和正先生の言である。
熟思させるには良い手段だが、時間はかかる。
書くのを厭う子どもには、やや苦痛でもある。
それでも、熟考させることを重視するならとるべき手段である。

その求める姿は、大人になった時にどうはたらくか。
そういう視点で見ることが大切であると思っている。

2017年1月7日土曜日

幼児性は、オール・オア・ナッシング

次の本を読んだ。

『ないものを数えず、あるものを数えて生きていく』
曽野綾子著 祥伝社黄金文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4396314639

本の中で、次の言葉が心のフックに引っかかった。

「幼児性は、オール・オア・ナッシング」

つまり、幼児性の高い大人は、白黒はっきりで、グレーを認めない。
差別される者とする者とに分ける。
しかし実際は、どちらにもなるのである。

この文中にある
「平和は善人の間には生まれない」
という言葉(カトリックの司祭の言葉とのこと)も、含蓄がある。

即ち、真の大人になるということは、人間としての幅を広げるということである。
前に野口晃男先生の回で紹介した「清濁併せのむ」という姿勢である。
そしてこれを、子どもへの教育として行っていく必要があるということである。

以下は私見。
「正義のヒーロー」が存在するには「悪の権化」が必要である。
(これは、松下幸之助氏も生前に言明している。)
例えばテレビでもう35年以上続いている戦隊ヒーローものも、悪の組織あってのことである。
アニメも映画もドラマも、どれも悪玉あっての構造である。
少し違った視点だと、健康を「善」、病気を「悪」としている感動ものもある。
私たちは、善悪について、分かりやすすぎる構図で刷り込まれている可能性がある。

実際は、完全な悪者も完全な善人も存在しない。
正義の味方が裁く悪にも、家族や子どもがいたりする。
まさに戦争の構図である。

白黒つけようとすると、争いが起きる。
互いの正義がぶつかり合う。
これは「愛があるから争いがある」という解釈にもつながる。
互いに守るもの、愛するもの、信念の正義がなければ、争いにはならないのである。
(守るものが何もなければ、すべて欲しい相手に譲れる。)

学校で起きる様々な出来事も、そうである。
教師の立場の正義。
子どもの立場の正義。
ぶつかり合ったら、どちらが「正義」か。
強い方が「正義」である。
多くは、教師の側である。
これが怖い。

本来は、擦り合わせるべきところである。
誰かが完全に100%満足する方法は、確実に他の誰かが強い不満を抱く。
折り合いをつけるところである。
「クラス会議」などは、まさにここをねらっている。

「アクティブ・ラーニング」の一番の要件は
「対話的な学び」である。
対話とは、創造的コミュニケーション。
つまり、白か黒か、AかBかに決定するのではなく、灰色やCを新たに生み出すコミュニケーションである。
(このCを生み出す理論は、上越教育大学の赤坂真二先生からの学びである。)

オール・オア・ナッシングの思考になっていないか。
自分自身を常に注意してみたい。

2017年1月6日金曜日

小学館95周年記念セミナー

今回はセミナーの告知。
2017年3月25日、以下のセミナーが開催される。↓
http://www.kokuchpro.com/event/facdf3da82269f55366624166d5ebf98/
小学館創立95周年記念イベントで、
鈴木寛×陰山英男×菊池省三
という、滅多にない顔ぶれのセミナーである。

午後には関東の4人の実践者の発表があり、その最後に、私も発表することになった。
いつものノリで「いいですよ!」と爽やかに返信したが、ふたを開くといつもと違った。
持ち時間は30分だが、プレッシャーがかなりある。
参加者が多い。
そして、アウェイ感満載である。
知り合いやブログ読者の方が点在してくれていれば、少し気が楽である。
残席がない場合は、キャンセル待ちとなってしまうので、決断はお早めがおすすめである。
お申込みは、こちらへ。
https://www.kokuchpro.com/event/facdf3da82269f55366624166d5ebf98/entry/

2017年1月5日木曜日

薬か毒か

病気になって気付いたことについて。

高熱と頭痛と呼吸困難とで、とにかく苦しかった。
あまりに苦しいと、痛み止めの薬が欲しくなる。

この痛み止めの薬というのは、苦しんでいる人間にとっては、まさに「楽」につながる「薬」である。
一方、健康な人にとっては、「毒」でしかない。

つまり、薬そのものに良し悪しがある訳ではない。
相手が欲しているかである。
医者が処方箋を作る際、その患者を診て決める理由がそこにある。

これは、「楽しい」授業でも説教でも有難い話でも何でも当てはまる。
相手が欲しているかである。
ニーズに合わせたものしか受け容れない。

私はクラスの子どもによく、
「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることは出来ない」
という話をする。
要は、勉強のきっかけは与えられるけど、結局自分で選んでやるものだよということを伝えるためである。
(ただし、君たちは馬ではなく人間であり、例え話だということも必ず付け加える。
誤解を防ぐことも大切である。)

どんなにこっちが親切でやったことでも、相手にとってはお節介でしかないかもしれない。
そういう想像力を持って子どもの前に立つことが大切だと思った次第である。

2017年1月4日水曜日

病床にて 自分の存在意義を考える

昨年、お休みをいただいた日があった。
39℃越え。
久々に本当の高熱な感じの発熱である。

私がいなくても、学級も学校も何とかなってしまう。
有難いと同時に寂しいことだが、それが事実である。

そう考えると、何のために自分は仕事をしているのか、考えざるを得なくなる。
自分がいることでどんな付加価値があるのか。
頭数としてはいないと困る面もあるだろうが、それ以外ならいなくても同じか。

職場の空気を悪くするのなら、マイナスの付加価値である。
自分に会うことで不快な思いをする人がいたら、これはマイナスである。

逆に、自分がいることで元気が出たり雰囲気が良くなるのであれば、これはプラスである。

あるいは、どちらでもないかもしれない。
可もなく不可もなし。
それがダメかというと、そうでもなく、人員の役割としてはきちんと果たすのだから、あながち悪くもない。

そう考えると、役割として子どもの前に立つというのは、意味はあるのだが、実につまらないことである。
その立場にある人であれば、誰でもいいということになる。
自分自身を一人の人間として出しながら接しない以上、付加価値はない。
子どもだって、本当に一人ずつ違うのだから、一人ずつとして見て接することに価値がある。

結局、うまい授業をするとか以上に、子どもと接することである。
様々な「やるべきこと」に追われて、子どもと話せない、遊べないほどつまらないことはない。

休みをいただくことで、自分はどうあるべきか考え直すきっかけになった。

2017年1月3日火曜日

清濁併せのむ

昨年11月のセミナーでの、野口晃男先生からの学び。

参加者全員で、相手の様々な言動にどう対応するかということを話し合った。
「切り返しの技術」に通じるものがある。
やはり野口先生の対応は、どれも上をいっている。
何というか、俯瞰した視点である。

どういうことかというと、何事も善悪で判断しない。
無礼な態度をとられても、否定しない。
ユーモアで返したり、相手を慮ったりする。

共通していることは、相手の成長を見据えているという点である。
例えば、校長としての入学式の保護者への話では「子どもを悪くする3つの方法」。
耳に心地よい話をするだけでなく、子どもの本当の幸せを願って、敢えてどきりとする話もする。
道を譲ったのに礼一つ言わない相手に腹を立てず、道を譲った自分自身は何のためにやったのを振り返らせる。

一つ一つの対応に、人間的な温かみが感じられた。
一方で、必ずしも「善」な対応ではない話もあった。
その「清濁併せのむ」感じが、素敵なのである。

善悪で判断しない。
白黒で割り切らない。
幅を広げることの大切さを学べた有意義な会だった。

2017年1月2日月曜日

表が裏 裏が表

最近思うこと。

人間性というのは、隠し立てできない。
初めて接する人ならいざ知らず、何度も顔を合わせる相手なら、誤魔化しは効かない。

言葉より、行動である。
それも、誰も見ていないところでの行動に、人間性が滲み出る。

つまりは、本人にとっての裏である。
自分とっては裏で見えていないであろうと思える面が、他人からは表になる。
自分の顔は、自分では見えないが、他人からは容易に見える。
顔に出るというのはそういうことであろう。

逆に、表をどんなにきれいに取り繕っても、他人からは裏に見える。
化粧が上手なのと同じで、それ自体はいいのだが、それは素顔ではないと見られている。

学校の指導の場面でいうと、掃除が一番わかりやすい。
誰も見ていないところで黙って地道にやっている子どもは、何より周りの子どもが知っている。
他に知られない訳がない。

逆も然りで、教師がいる時だけきちんとやっているふりをしても、周りの子どもが知っているし、教師にも残念ながら見えてしまう。

どちらも、知らぬは本人ばかりである。

裏が表で、表が裏。
人間性を磨くには、地味で目立たない行動を積み上けまるしかない。
日々、修行である。

2017年1月1日日曜日

習慣化は元日に始める

新年1本目ということで、目標達成に関する話。

ここまで、毎年様々な変化があった。
自分の中でずっと残っている変化は何かというと、習慣化されたことである。
新年に目標を立てる人は多いと思うが、そのためには、習慣化が命である。

原田隆史先生主催の「東京教師塾」で学んだことだが、目標の習慣化には手入れが必要である。
原田先生の手法は、あの大谷翔平選手も、五郎丸選手も学んで実践しているもので、その効果はお墨付きである。
(余談だが私が受講中、大谷選手が同じ場に参加している回があった。
野球に疎い私は、その時大谷選手のすごさを知らなかったのが残念無念である。
「どうも、野球選手らしい」ぐらいの残念な認識である。
価値を知らないというのは、学びのチャンスを逃す。)

大変だが具体的に必要な最低限の手入れ行為は、毎日振り返りの日誌を書くこと。
目標に対して近付いているか、日々軌道修正ができる。
これがかなり大変なのだが、これ無しに目標達成は難しい。
すべてが運任せになる。

習慣化できたことであれば、自動で目標に近付く。
習慣化すると、苦痛も全く感じない。
例えば私は毎朝「体幹運動」というものを10分程度する習慣があるが、かれこれ10年続いている。
毎日決まった運動をするというと、拒絶反応を示す人も多いが、習慣化すれば楽勝である。
むしろ、やらないと気持ち悪くなる。
私は、例えば宿泊研修先や旅行先でもやる。
修学旅行や宿泊学習の時の朝も、一人密かにやっている。
当然、元日もやる。
高熱などの病気の場合を除き、基本的に例外はない。
それぐらい習慣化すると、体型はそのままに好きなものを食べて生きていける。
幸せである。
私は「食べること」がかなり幸せを感じる瞬間の上位にあるので、ここは外せない。
しっかり食べて幸せ感があるから、他のこともがんばれるという理論である。

メルマガも同様。
書くことが習慣であり、苦痛は全くない。
ただ、他にも色々やりたいことがあり、時間的制約があるので、2日に1回発行なだけである。
(時間に余裕が作れるなら毎日書きたい。)

私が考える習慣化のコツは一つ。
今この瞬間から目標に近付いていることを想像して、楽しむことである。
自分の目標の姿を想像して、そこに一歩近付いていることを実感する。

もう一つ。
向いていることは、習慣化がしやすい。
そうでないことは、難しい。
それを見つけるためには、色々チャレンジすることである。
おせち料理と同じで、少しずつでいいから、色々食べてみる。
想像と違った味のものもあるが、これは食べてみないとわからない。
特に「これは苦手だろう」と思ったものの中に、食べてみると意外とヒットがある。

明日できることなら、今日からできる。
何か目標があるなら、そこに近付く習慣行為を元日に始めることがおすすめである。
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