2023年6月26日月曜日

不親切の哲学「その移動は整列すべきか否か」

 「不親切の哲学」シリーズその3。

今回のテーマは「その移動は整列すべきか否か」。


学校には「並んで移動」というきまりがあることが結構多い。

これは、周囲への配慮によるものである。

子どもがバラバラに勝手に廊下を移動すると、周囲に迷惑だったり不都合だったりするからである。


例えば、授業中なのにも関わらず、廊下を大騒ぎして歩く子どもたち。

確かに邪魔である。

声の小さな子どもの発言中だと尚更困る。

担任と共に整然と並んで歩くことで、「静かに」と指導しながらこの時間を短縮することができる。


後は、大人数が一堂に会する時。

入口が一つしかない体育館へ全校児童が集まる場合などである。

一定の秩序が必要になる。


最も大切なのは、緊急避難時。

学校規模が大人数であればあるほど、集団として規律ある素早い整然とした移動が必要になる。


逆に言えば、こういった「時間と空間の制限」がある特別な条件下でなければ、移動に整列は必要ない。

例えば休み時間中に運動場に出て授業時間までに集合するのであれば、移動は三々五々で構わない。

また、もしも「静かに素早く目的の場へ直行」が個々にできるのであれば、授業中であっても問題ない。

(大方、これができないので不採用になりがちである。)


また、近くの特別教室に移動する時にも整列は必要がない。

(理科や図工、音楽などの専科教員の授業があって移動する際には、指示の都合などで一斉に入ってきて欲しい場合があるので、この限りではない。

ただし、整列が遅い一部の子どもを待ったせいで遅刻して全員が叱られるという事態も全国的によくみられる現象である。)


また、一斉に大人数が移動するよりも、個々で移動した方が空間的にも余裕ができる。

大行列で移動されていると、その間は他の人が横断できない。


要は、「何のために」が抜けると、画一的になるということである。


確かに、全てに思考を働かせていては能率が悪いというのは事実である。

脳はそれを嫌うので、無思考で動ける習慣を多くにデフォルトとして採用する。

「何でも移動は整列」となりがちなのも、脳の性質からして当然なのかもしれない。

考える面倒を省いているのである。


しかしである。

学校とは、考える力を鍛える場である。

ある意味、面倒なことやちょっとした無理をわざわざするための場である。

無思考で従うだけの場面は極力なくしていかねば、今の教育の現状は変えられない。


整列文化は日本独自であり、被災時の無用な混乱を避けられるという大きなメリットもある。

だからこそ、「何のために」の視点を常にもちたい。


その移動には「整列」が本当に必要なのか、否か。

その行為は子どもをどう育てることに繋がるのか。

こんな些細なことの中にも、ねらい、考え、哲学をもってあたりたい。

2023年6月19日月曜日

不親切の哲学「家庭教育へ干渉しない」

不親切の哲学シリーズ第2弾。

家庭教育への干渉について。


不親切教師は、基本的に家庭教育に干渉しない。

次の条文がその法的根拠である。


教育基本法(家庭教育)

第10条 

父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,

生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,

心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

2 国及び地方公共団体は,家庭教育の自主性を尊重しつつ,

保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。


(以上、文部科学省H.P.より引用)


この条文にあるように、子の教育について第一義的責任を有するのは「父母その他の保護者」である。

当たり前だが、たまたま一年程度を一緒に過ごすだけの「担任教師」ではない。

教師が保護者と同じだけの責任を有するはずはなく、当然それに伴ってそんな大きな権利ももっていない。

両者を比較することすら憚られる。


ただし、一切干渉しないという訳ではない。

上記2にあるように、「家庭教育を支援する」ということも時に必要だからである。

(一切必要ない家庭が多数ある。)


例外的な干渉の場面として、子どもを守るために行動することがある。

例えば虐待の疑いがある家庭とその子どもを放置する訳にはいかない。

しかしそのような子どもの最低限の権利を守るという目的以外であれば、余計な干渉をしないのが基本である。


土日の子どもの過ごし方や服装にまで指導が入る学校も結構ある。

学校の生活指導との一貫性をもたせたいのかもしれないし、やむを得ない事情があるのかもしれない。

ただ、家庭の側からすれば、はっきり言って、大きなお世話と思われている可能性もある。


しかし逆に言えば、もし土日の過ごし方そのままで子どもに学校に行かせる保護者がいるとすればどうか。

家庭教育の方針でやっていることの失敗を、学校に何とかしてくれと要求してくる保護者がいるとすればどうか。

その学校の過干渉は、そういった実態があるせいでもあるかもしれない。

家庭の方針を学校に持ち込まれれば、学校も家庭教育の方針にいちいち細かく口を出さざるを得なくなる。


このまた逆もありきで、学校が無駄に家庭の教育方針に口出しすれば、家庭の側も無駄に学校の教育方針に口出しをするようになる。

物体は押した分だけ同じ力で押し返すという物理の法則にも沿った、自然の摂理ともいえる正常な反応である。


我々は、知性があるのだから、選択ができる。

お互いで首を絞め合うか、お互いで支え合うか、どちらか選べる。

どちらが幸せかは明白である。


不親切の哲学として、節度をもつことである。

家庭と学校の線引きをする。

それも、お互いにである。


保護者が学校に

「うちの子がオンラインゲームのボイスチャットで暴言を吐かれた。相手の子どもを指導してくれ」

と相談したとする。

もうこれは既に「今後、家庭教育に学校が口出し、制限してもよい」ということと同義である。

この場合の学校として最も有効な対策は、全家庭にボイスチャット付きゲーム全般を一切禁ずることである。

それに有無を言わさず全員従ってもらう。

それ以外にない。


該当の子どもに「暴言を吐くな」と指導しても無駄である。

興奮している状態で悔しい思いをすれば暴言も出る。

ゲームをした経験のある人ならわかることである。

発達心理学的に見ても、社会行動心理学的に見ても、至極当然の反応である。


それが嫌なら、家庭の側で100%完全に何とかすべき問題である。

この例は、明確に家庭教育の課題である。

「相手の子どもの口が悪い、指導して相手を直せ」とかそういう問題ではない。

そういうことが起き得ると想定しているからこそ、ゲームには推奨年齢や年齢制限がある。

自らの選択に伴うトラブルが嫌なら、家庭内で制限して、その選択自体をやめるべきである。


これは、スマホ所持や習い事、地域スポーツ、その他全てのトラブルに言える。

家庭教育で選択した結果の不満を、学校に怒鳴り込むのは完全にお門違いである。


一方学校の立場で言えば、子どもの学力が全体的に低いのは、学校の責任であると捉えるのが健全である。

学力をつけるのが学校の存在意義だからである。

家庭教育の時間にそれを強く求めるのは間違っている。

授業改善など学校として、学校内でできる対策が必要である。


一方で、我が子が他と同じようにできないことの責任のすべてを、学校にあまり追求しすぎるのも考えものである。

例えば授業中にやるべきことをやらずにぼーっと過ごしたり寝たりしていれば、優れた授業であっても学力をつけようがない。

学校に要求する前に、生活習慣を整えてきちんと寝かせてくださいと言いたい。

そこには、家庭教育として考えるべき課題も混在する。


これは、教師と子どもという関係性にも当てはまる。

子どもの課題には首を突っ込まないことである。

そして教師の課題に対し、子どもの責任を求めないことである。

アドラー心理学でいう「課題の分離」である。


不親切の哲学その2をまとめる。

不親切に見えても、線引きをする。

首を絞め合わずに、支え合う。

以上である。

2023年6月11日日曜日

哲学ある不親切

 月に一度程度だが、様々な場の清掃活動をやらせてもらっている。

「ボランティア活動」と勘違いされそうだが、明確に違う。

単純に、それをやっている人と仲間が好きだからである。

そこに行くと、楽しいからしているのである。

早朝の活動に間に合うように、わざわざ近くに前泊して向かうこともある。

好きでやっている趣味や学習の一環である。


大体そういう場に集まる人は、みな一様に明るく社交的でエネルギーに溢れている。

そういう場にいるからそうなるのかもしれない。

ニワトリが先か卵が先かはわからないが、そういう場である。


こういった活動に参加する時は、やることがないという手持ち無沙汰状態が最も困る。

勿論そうならないよう、自分でやれる仕事を自分で探して動くのが基本である。

清掃の場合、あまり綺麗すぎる場よりもそうでない場の方が仕事が多く、取り組みやすい。


この活動の場で誰かに「これをお願いできますか」と言われると、嬉しい。

自分の役割が明確化するからである。

わざわざ何かしに来ているのだから、やれることが多くあった方がいいのは当たり前である。


学校や職場全般でもこれは言える。

遠慮して頼めないという人は、実は相手にとって有難くないことが多々ある。

全部自分でやれる能力のある人、責任感のある人ほど、陥りがちである。

それをやれる人、得意な人にはどしどし頼んで、自分は自分がすべきこと、得意なことに注力すればよい。


不親切教師のススメ』では、ここを強くすすめている。

子どもが自分でやれそうなことは、一切やらない。

子どもができそうなことは、全て頼みまくる。

結果的に、やっている子ども自身に力がつき、自信につながる。


では一方で教師は何をするかというと、教師にしかできないことをする。

ここのみに集中する。


例えば、授業をすること自体は、明確に教師の仕事である。

学びの主役はもちろん子どもだが、授業自体は教師の仕事である。

例え子どもが中心となって進める授業のファシリテーター役であっても、やはり明確に教師の仕事である。


また、学校におけるグランドルールの担保も教師の仕事である。

「廊下を走らない」は子ども同士が声かけをすることはあれど、その秩序を破って事故が起きた場合、責任は教師にある。

つまり、子どもの行動に対する責任を取るのが仕事ともいえる。

この責任は絶対に子どもに委ねられない。


そして最終的に教師が処理できない場合は、管理職の責任となる。

教室でも学校でも「上の立場」というのは、人間的に偉いとか尊いとか関係なく、仕組み上そういうことで上なのである。

(それをしてくれるからこそ、偉いともいえるし、多少口うるさく言う権利もあると言える。)


一方で、学級会で決めたルールであれば、子どもたち自身が責任を担保する必要がある。

自分たちで選び取ったものなのだから、当然である。


子ども同士のけんかもそうである。

子どもが自分で解決できること、解決せねばならない課題であり、本来教師がやるべきことではない。

(教師がいつも解決してあげていると「けんかしてます!」と子どもが嬉しそうに報告するようになり、悪循環にはまる。)


授業をするのは教師だが、学習そのものは、子どもの課題である。

子ども自身が自分の課題と自覚して取り組まない限り、真の学力向上はあり得ない。


学級経営は教師の仕事だが、教室とその人間関係は子どもたち自身のものである。

教室のあらゆることについて自分たちでケアして、改善して、楽しいものにしていく権利がある。

教師はそこを助けることはあるとしても、中心となって手出し口出しをすべきことではない。


教室のことを、どんどん子どもに頼むこと。

大抵のことは気持ち良くやってくれる。

いや、頼む、やってくれる、という表現さえもおかしいのかもしれない。

教室のあらゆることは、子どもたち自身のものだからである。

学校そのものが、子どものために存在するものだからである。


不親切教師のススメ』における不親切とは、単なる不親切ではない。

哲学のある不親切である。


学校は、何より子どもが成長するために来ている場である。

子どものできる力、伸びる力を信じて、積極的に任せていきたい。

2023年6月4日日曜日

歴史を否定して肯定する

 6年生で歴史の授業をする。

そうすると、子どもたちからは当然

「何でそんな馬鹿なことを?」

という疑問が出る。


一番わかりやすいところだと、卑弥呼の時代はシャーマンが最高の地位であり占いで全て決めていた、というようなことである。

あるいは、平安時代は病気になると悪霊が憑りついているとみなして、お祓いで治そうとしたことなどである。

どちらも、論理的とも科学的とも言い難い方法である。


しかし、当時としては意味があるし、実際にそれで世の中が動いていたのである。

雨雲レーダーなどない時代の人々にとっては、雨乞いの効果を信じることは心の救いになる。

ウィルスの概念など到底ない時代のお祓いによる病気の治療に関しては、プラセボ効果があったと考えれば、無意味とは言えない。


戦国時代に国内で殺し合って天下統一の平和を目指すことも無意味に見えるし、他国と戦争をしたこと自体も過ちにしか見えない。

(実際は天下統一が世の平定への道筋にもなっている。刀狩りも実は人々の無用な争いを防ぐことに貢献している。)


野口英世が発見した数々の研究実績は現代では誤りとなったが、それらが無意味だったということでは決してない。

科学は常に否定を繰り返してきており、現代では量子力学の登場によってニュートン力学は既に「古典力学」と呼ばれている。

地球が丸いとわかるまで、かつて地球は平らだったし、海の果てには全てを食らいつくす怪物がいたのである。


つまり、後の世で「間違いだった」というものでも、その時代にとっては正真正銘の「解」なのである。

タイムマシンで過去へワープして正すべきことではない。


実際その当時生きていた人たちになってみれば、考え方は全く違うはずである。

歴史を学ぶ上で「過ち」と感じるのは、それが既に過去となった未来にいるからこそである。

事が起きた後に「自分はこうなるとわかっていた」と言うのと同じレベルである。


正誤の判断は、その時代の価値観がベースである。

つまり、今から見て過去を非科学的とか誤りと見えたとしても、大切なのは、それを今にどう生かすかという視点である。


前置きがとんでもなく長くなったが、『不親切教師のススメ』で主張していることもそれなのである。

今それをやり続けるのは、もう誤りになるのではないかということである。

かつての時代に、それに対し全身全霊かけてやっていたこと自体を否定しているのではない。


例えば私は、集団競技に熱中していた時期がある。

「クラスみんなで」「一丸となって」を信条としていた時期がある。

今は、ほぼ一切やらない。

やらざるを得ない場面になっても「ぼちぼち楽しもう」という感覚である。

一方で、その当時の子どもたちに申し訳なかった、とも思っていない。

その時考え得る最善を尽くしたつもりである。


初任者の時にもった子どもたちが私から受けた授業レベルは私史上最低だったが、やり直すべきとも思っていない。

ただ、同じ授業を今目の前の子どもたちにやりますかと言われたら、明確に「やらない」と答える。


全ては、過去に最善と思われる解だったのである。

今やっていることだってそうである。

やがては否定される時が来る。

そうでなくては困る。


だから、変わる必要がある。

かつて良かったからといって、過去と全く同じままというのはまずい。

一方で、過去を全否定して全部変えてしまえばいいというのも違う。

「不易流行」の言葉の通り、不易と流行の二つは同根である。


ルールを見直す必要があるという主張もそこからである。

例えば、服装や行動様式その他に関して厳密なルールがある学校も存在する。

それは、かつて必要だったのかもしれないが、今にマッチしているだろうか。

学校が滅茶苦茶に荒れていた時代の基準を今にもってきていないだろうか。

また一方で、学校の掲げる理念によっては、それが今も明確に必要という場合だって十分に有り得る。


否定と肯定は正反対の概念ではない。

禅問答的に表現すれば、否定とは肯定である。


例えば子どもを叱り正すことも、否定を伴う肯定である。

叱る行為を全否定するのも違うし、全肯定するのも違う。

叱る行為一つをとっても、否定であり肯定なのである。


不親切教師のススメ』は、現在の教育について否定しながら肯定している。

教育の未来は必ずよくなるのだから、その一助になりたいと切に願う。

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