「不親切の哲学」シリーズその3。
今回のテーマは「その移動は整列すべきか否か」。
学校には「並んで移動」というきまりがあることが結構多い。
これは、周囲への配慮によるものである。
子どもがバラバラに勝手に廊下を移動すると、周囲に迷惑だったり不都合だったりするからである。
例えば、授業中なのにも関わらず、廊下を大騒ぎして歩く子どもたち。
確かに邪魔である。
声の小さな子どもの発言中だと尚更困る。
担任と共に整然と並んで歩くことで、「静かに」と指導しながらこの時間を短縮することができる。
後は、大人数が一堂に会する時。
入口が一つしかない体育館へ全校児童が集まる場合などである。
一定の秩序が必要になる。
最も大切なのは、緊急避難時。
学校規模が大人数であればあるほど、集団として規律ある素早い整然とした移動が必要になる。
逆に言えば、こういった「時間と空間の制限」がある特別な条件下でなければ、移動に整列は必要ない。
例えば休み時間中に運動場に出て授業時間までに集合するのであれば、移動は三々五々で構わない。
また、もしも「静かに素早く目的の場へ直行」が個々にできるのであれば、授業中であっても問題ない。
(大方、これができないので不採用になりがちである。)
また、近くの特別教室に移動する時にも整列は必要がない。
(理科や図工、音楽などの専科教員の授業があって移動する際には、指示の都合などで一斉に入ってきて欲しい場合があるので、この限りではない。
ただし、整列が遅い一部の子どもを待ったせいで遅刻して全員が叱られるという事態も全国的によくみられる現象である。)
また、一斉に大人数が移動するよりも、個々で移動した方が空間的にも余裕ができる。
大行列で移動されていると、その間は他の人が横断できない。
要は、「何のために」が抜けると、画一的になるということである。
確かに、全てに思考を働かせていては能率が悪いというのは事実である。
脳はそれを嫌うので、無思考で動ける習慣を多くにデフォルトとして採用する。
「何でも移動は整列」となりがちなのも、脳の性質からして当然なのかもしれない。
考える面倒を省いているのである。
しかしである。
学校とは、考える力を鍛える場である。
ある意味、面倒なことやちょっとした無理をわざわざするための場である。
無思考で従うだけの場面は極力なくしていかねば、今の教育の現状は変えられない。
整列文化は日本独自であり、被災時の無用な混乱を避けられるという大きなメリットもある。
だからこそ、「何のために」の視点を常にもちたい。
その移動には「整列」が本当に必要なのか、否か。
その行為は子どもをどう育てることに繋がるのか。
こんな些細なことの中にも、ねらい、考え、哲学をもってあたりたい。
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