不親切の哲学シリーズ第2弾。
家庭教育への干渉について。
不親切教師は、基本的に家庭教育に干渉しない。
次の条文がその法的根拠である。
教育基本法(家庭教育)
第10条
父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,
生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,
心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は,家庭教育の自主性を尊重しつつ,
保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
(以上、文部科学省H.P.より引用)
この条文にあるように、子の教育について第一義的責任を有するのは「父母その他の保護者」である。
当たり前だが、たまたま一年程度を一緒に過ごすだけの「担任教師」ではない。
教師が保護者と同じだけの責任を有するはずはなく、当然それに伴ってそんな大きな権利ももっていない。
両者を比較することすら憚られる。
ただし、一切干渉しないという訳ではない。
上記2にあるように、「家庭教育を支援する」ということも時に必要だからである。
(一切必要ない家庭が多数ある。)
例外的な干渉の場面として、子どもを守るために行動することがある。
例えば虐待の疑いがある家庭とその子どもを放置する訳にはいかない。
しかしそのような子どもの最低限の権利を守るという目的以外であれば、余計な干渉をしないのが基本である。
土日の子どもの過ごし方や服装にまで指導が入る学校も結構ある。
学校の生活指導との一貫性をもたせたいのかもしれないし、やむを得ない事情があるのかもしれない。
ただ、家庭の側からすれば、はっきり言って、大きなお世話と思われている可能性もある。
しかし逆に言えば、もし土日の過ごし方そのままで子どもに学校に行かせる保護者がいるとすればどうか。
家庭教育の方針でやっていることの失敗を、学校に何とかしてくれと要求してくる保護者がいるとすればどうか。
その学校の過干渉は、そういった実態があるせいでもあるかもしれない。
家庭の方針を学校に持ち込まれれば、学校も家庭教育の方針にいちいち細かく口を出さざるを得なくなる。
このまた逆もありきで、学校が無駄に家庭の教育方針に口出しすれば、家庭の側も無駄に学校の教育方針に口出しをするようになる。
物体は押した分だけ同じ力で押し返すという物理の法則にも沿った、自然の摂理ともいえる正常な反応である。
我々は、知性があるのだから、選択ができる。
お互いで首を絞め合うか、お互いで支え合うか、どちらか選べる。
どちらが幸せかは明白である。
不親切の哲学として、節度をもつことである。
家庭と学校の線引きをする。
それも、お互いにである。
保護者が学校に
「うちの子がオンラインゲームのボイスチャットで暴言を吐かれた。相手の子どもを指導してくれ」
と相談したとする。
もうこれは既に「今後、家庭教育に学校が口出し、制限してもよい」ということと同義である。
この場合の学校として最も有効な対策は、全家庭にボイスチャット付きゲーム全般を一切禁ずることである。
それに有無を言わさず全員従ってもらう。
それ以外にない。
該当の子どもに「暴言を吐くな」と指導しても無駄である。
興奮している状態で悔しい思いをすれば暴言も出る。
ゲームをした経験のある人ならわかることである。
発達心理学的に見ても、社会行動心理学的に見ても、至極当然の反応である。
それが嫌なら、家庭の側で100%完全に何とかすべき問題である。
この例は、明確に家庭教育の課題である。
「相手の子どもの口が悪い、指導して相手を直せ」とかそういう問題ではない。
そういうことが起き得ると想定しているからこそ、ゲームには推奨年齢や年齢制限がある。
自らの選択に伴うトラブルが嫌なら、家庭内で制限して、その選択自体をやめるべきである。
これは、スマホ所持や習い事、地域スポーツ、その他全てのトラブルに言える。
家庭教育で選択した結果の不満を、学校に怒鳴り込むのは完全にお門違いである。
一方学校の立場で言えば、子どもの学力が全体的に低いのは、学校の責任であると捉えるのが健全である。
学力をつけるのが学校の存在意義だからである。
家庭教育の時間にそれを強く求めるのは間違っている。
授業改善など学校として、学校内でできる対策が必要である。
一方で、我が子が他と同じようにできないことの責任のすべてを、学校にあまり追求しすぎるのも考えものである。
例えば授業中にやるべきことをやらずにぼーっと過ごしたり寝たりしていれば、優れた授業であっても学力をつけようがない。
学校に要求する前に、生活習慣を整えてきちんと寝かせてくださいと言いたい。
そこには、家庭教育として考えるべき課題も混在する。
これは、教師と子どもという関係性にも当てはまる。
子どもの課題には首を突っ込まないことである。
そして教師の課題に対し、子どもの責任を求めないことである。
アドラー心理学でいう「課題の分離」である。
不親切の哲学その2をまとめる。
不親切に見えても、線引きをする。
首を絞め合わずに、支え合う。
以上である。
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