2023年11月11日土曜日

ブログ移行のお知らせ

 長らく続けてきたこちらのブログですが、今後の最新記事は「note」へ移行します。

こちらのブログは過去記事等を保存し、継続して使用していきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2023年11月5日日曜日

荷物を捨てる 人命優先

道徳教材からの気付き。


2年生の光文書院の道徳教材に『モムンとヘーテ』というお話がある。

徳目は「友情・信頼」なのだが、自分は違うことを考えた。

(この「同じ教材なのに人によって違うことを考える」というのが、今の道徳の授業で大切なことではないかというのが持論である。)


このお話は、ざっくり言うとケンカした二人の小人が仲直りする話である。

島が水没直前の状態で、二つしかない小舟に積んだ荷物をすべて捨てることで、友人を助けることにする。

二人はそれぞれ一つずつの小さな小舟に乗って、無事に島を脱出する。

そんなお話である。


自分は正直、ここに、友情や信頼どうこうはあまり関係ないと感じた。

この状況で荷物よりも人命優先は当然の判断である。

相手との人間関係がどうかも全く関係ない。

飛行機における避難時の脱出の際のルールと全く同じである。

(そういうことの正しさや判断基準を教える意味ではいいのかもしれない。)


この教材でどう授業するかを考える際、全く違うことを考えた。


まず、他人の分まで責任をもつ必要はないのである。

人生においては、各々、自分の荷物を自分で背負うことが大切なのだ。


背負えない人の分の荷物は降ろさせる。減らす。捨てる。

安易に代わりに持ってやってはいけない。

一緒に沈んでしまう可能性が一気に高まる。


もし持ってあげるとしたら、それは一生寄り添う覚悟がある場合のみである。

家族という最も親密な関係の間ですら、果たしてどうか考えるべきところである。


そして、救うなら、モノ(仕事)ではなく、人間を優先する。

当然のことである。


仕事においてもこれは言える。

仕事をどんなに優先しても、その人自身が救われる訳ではない。

仕事は、それをこなす限り永遠に増えてやってくるものだからである。

そもそもその荷物が多すぎる、重過ぎるという可能性を疑うことが先である。

人命救助が優先である。


多分、社会全体が、真剣に教員について考えてくれていると思う。

以前にも書いたが「教員はお気楽な仕事だ」と思っている人は、当事者はもちろん、世間的にも少数派であると感じている。


総仕事量自体が、全職員の「積載可能量」を完全にオーバーしているのである。

たとえ誰かを楽にしても、その分のしわ寄せが誰かにいく構造である。

その原因は、捨てていないからである。


要らない荷物が多すぎる。

かつては輝いてたその品物も、もはや骨董品というより単なるガラクタである。

例えるなら何十年前に流行った服など、クローゼット内を圧迫するゴミ以外の何物でもない。

さっさと捨てた方がよい。


色々な人が言っているが、もうあと2~3年以内に、学校現場は人手不足によって破綻するという。(既にしかけているが。)

私もこの意見に同感である。

人が更に減るということは、自分にその荷物が回ってくるということと同義であり、自分自身への危機と真剣に受け止めている。

当然、私のところに回ってきたら、大部分は捨てさせてもらうつもりである。

どうでもいいような荷物と心中する気はない。


国レベルの問題であるから、政治家でもない現場の自分たちが主体的にできることは限られる。

足元の仕事を捨てることである。

全部真面目にやってるからいけない。

砕けた言い方をすれば、そもそも設定自体が「無理ゲー」なのである。


本質的な、捨てられない仕事とは何か。

わかりきったことだが、子どもと向き合う仕事である。

そして、子どものよりよい成長に寄与する仕事である。


学習指導の在り方は、今後根本的に変わる必要がある。

申し訳ないが、義務教育においてもある程度以上の学年からは、一斉対面授業でなくてもいいというのが本音である。

特に中学・高校以降は、受験を考えるなら間違いなくYouTubeのようなオンデマンド型の手段か個別指導が有効である。

クラス内の個々の理解力の差が大きすぎるからである。

また一斉配信による指導は、もう何十年も前から大手予備校が採用して実績を上げている有効な方法でもある。


コロナ禍において、対面することの意味や価値が再確認された。

同時に、実はなくてもいい仕事がかなりあることもはっきりした。

わざわざ復活させる必要は全くない。

かつて要るものだったものは、もう要らないのである。


本当は、国レベルでなくして欲しい作業は山ほどある。

一度作ったら二度と見ない書類を日々山ほど量産しているのが学校現場である。

しかし、それを言っても仕方がない。


学校裁量、学年裁量、学級裁量でなくしていける仕事をどうにかするだけで、大きく変わる。

常々言っているが、「ドリルの〇つけ」や「教室掲示」は、子ども自身にもできる作業である。

「それぐらいのたかが小さな仕事」が積り積もっているから、とんでもない莫大な量になっているのである。

旅行が下手な人の、「万が一」に備えてパンパンに膨らんだバカでかいスーツケースのようなものである。


そもそも、たかが担任というだけで、子どもの人生の荷物を代わりに背負ってあげる訳にはいかないのである。

「担任」が「担い、任されている」のは、子どもたちの人生そのものではない。

少ない知識と人生経験から「こうするといいと思われます」という程度のものを提示するだけである。

それだけでも、後々の影響を考えれば「蝶の羽ばたき」どころではない大きな仕事である。


教員の仕事は、本来大変さもあるが、楽しいものである。

子どもたちが喜ぶ姿、成長する姿を目の当たりにした際に得られる感覚は、恐らく他の仕事には代え難い。

今は、楽しさや喜びの方のサイズや質の問題ではなく、大変さのサイズが度を越しているのが問題なのである。


要らない荷物は、捨てる。

自分自身を含め、人命を優先する。


働き方改革を考える上で外せない視点である。

2023年10月29日日曜日

働き方改革の本丸は徒労感の解消にあり

 働き方改革について。


現場教員としてのリアルな感覚を述べる。

100%主観であり全ての教員に一律に当てはまるものではないが、私という一つのモデルの示す事実でもある。


まず第一に、労働時間について。

これについては、かなり的外れな指摘や「改善」提案が多いと感じている。

教員の長い労働時間自体は、今に始まったことではない。


はっきり言えば、教員の仕事自体が辛いのではない。

やり甲斐を感じられない作業や無意味だと思える仕事が多すぎるのが辛いのだ。


法的に決められている仕事がある。

例えば出席簿等の学籍関係、あるいは指導要録や抄本などの記録関係書類の作成等である。

これらは法が改正されない限り拒否できない。

やる意義や必要性どうこうを考える前に、やるしかない。


何の見返りもリアクションもない各種アンケート類や報告書への回答。

どこぞの各担当部署から出る「ちょっとした調査」が積み重なり、湧き水がやがて大河になるが如く、雪崩のように押し寄せてくる。

(これはどちらかというと、管理職など外部との折衝が多い立場の人の方がより苦しいかもしれない。)



内容はさておき無節操に増え続ける各種年代毎の悉皆研修。

(せっかく免許更新講習がなくなったのに元の木阿弥状態である。)


ウィルスや事件・事故、あるいは「新教育」と連動して常に増え続ける「〇〇対応チェックリスト」系への記入。

最初に作って指示した人はもう既におらず、「もういいでしょう」と誰も言えない、旧制度の残滓の数々である。


当然のように過剰サービスを求められ続ける各種の「丁寧な」対応。

「教員の使命」の名のもと、「これぐらいやるのが当たり前」のレベルが高すぎる作業の数々。


それら無意味としか思えない事柄に時間を食われることが辛く、徒労感という大きな疲労に繋がっているのである。

無意味の中に意味を見出すことはもちろんできるが、それはこの問題の本質的解決にはならないどころか、真逆の方向である。

どうでもいいことをより能率よくこなせばこなすほど、より事態は悪くなっていくのである。

どこかで「NO!」をはっきりと突き付ける必要がある。


「日々の授業準備に追われている」というが、これも表現的には誤っている。

大抵の教員にとって、授業準備自体は、嫌なものでも辛いものでもなく、本来、楽しみですらある。

しかしそれを始められるのが確実に勤務時間外、日がすっかり沈んでからという現状が日夜続くことに、絶望感を抱くのである。


そして「仕方ない」「下らない」と思う、我々の手の届かない位置から降りてくる各種命令に従うほどに増す徒労感。

過剰なほどの準備・対応を命じられ、それに従う際の拭いきれない違和感。


これらあらゆる「使役」のもたらす精神的疲労感は、子どもを相手にしたり授業準備したりといった爽やかな仕事の疲れとは一線を画す。


次に話題を変えて、各種手当について。

これも完全に的外れであると感じている。


ここは手当が増えれば嬉しいだろうという単純な構造ではない。

給与自体が倍増するというような劇的な変化でない以上、大した効果は生まないどころか、逆効果にもなりかねない。

(そもそも教員を志すような人の多くが最初から強く求めているのは、そこではないはずである。)


ここについてはよく指摘されているが

「残業手当を増やすということは残業を認めるということ」

でもある。

つまり、よりよい対価を支払われるのだからもっとがんばれということにもなり得る。


私は部活動指導がないので直接関係ないが、休日に4時間以上部活動指導をすると一律3600円が支給されるという。

4時間「以上」で初めて支給され、一日中だろうが同じ「一律」の金額である。

この金額を「多い」と感じる人は少数派だろう。

ほとんどの自治体の最低賃金で定められている時給より低いレベルである。

自分が実際に毎週のように指導してみれば、その大変さがより顕著になるはずである。

そして根本的に、部活動指導は、時給換算のアルバイトでは決してない。


そこでもし「税金からきちんと支払われてるんだからもっとがんばれ」と言われたら、相当やる気をなくすのでないかと推察される。

休日を返上してまで部活動に情熱を注いでくれている(あるいは仕方なしにでもがんばってくれている)教員が主として求めているのは、そこでないことだけは確かである。


なぜこれら「奉仕的」教育活動に対して「お金で解決」が良くないのかというと、お金という存在自体がその対価として見合わないからである。

例えば、気持ちよくボランティア活動をしている人々に対し、時間や成果に応じてお金が支払われたら、かなりの違和感である。

やるせない感じと、やる気が一気に失せること必至である。

部活動指導の対価として求めているのは、そこではなく、学びや満足感、充実感など、知的な面や感情的な面の方である。

(あるいは義務感でやっている場合、きちんと休日ぐらい休ませてくれという切実な思いの方である。)


ちなみにこの考え方には、基になる参考文献がある。


世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 

近内悠太著 ニューズピックス



贈与というのは、資本主義的な交換の原理、ギブアンドテイクの原理と根本的に違う。

その考え方では、贈与という行為と折り合いがつかないのである。


この本を読むと、我々の仕事の「やりがい」と呼ばれるものの真の正体は、贈与であると考えられる。

それが将来誰にとってどう役立つのかはわからないし見届けられないが、それが後で「役に立っていた」と感じる瞬間がある。

しかも、その瞬間がいつ来るかも、あるいは来ないかもわからない。

加えて、その鍵を握っている主体は、贈与を与える側ではなく、受けとる側である。


それでも、信じて、ひたすらやる。

教員の仕事の本分は、まさにここにあるといえる。


やりがいは、それをやること自体に価値を見出しており、その対価を求めないのである。

「やりがい搾取」という言葉があるが、真のやりがいは他によって搾取されない。

なぜなら、心の底からやりたくてやっていることの場合は、周りがどんな意図であれ、絶対に他に「やらされていない」からである。

(例えば大好きなゲームやマンガに没頭している時、あるいは気の合う大好きな人と一緒にいる時、「やらされている」「読まされている」「いさせられている」と感じている人はいないだろう。)


これらの全ての事柄についてまとめると、働き方改革の本丸は、労働時間短縮や金銭の問題以上に、徒労感の解消である。

くだけた表現をすれば「どーでもいいことをしない(させない)」に尽きる。


どーでもいいことをしない主体は、働く側にある。

これは『不親切教師のススメ』で提唱している数々の事柄などが例に挙げられる。


一方で、どーでもいいことをさせない主体は、管理者など命じる側にある。

「働き方改革」で経営陣側に求められている点は、ここである。

例え本質的に「どーでもいいこと」であっても、それを命じられた側にとっては、何とかして消化するしか選択肢がないからである。


そしてこれは、学級担任から子どもに対してでも当てはまるので、一般の教員にとっても無関係ではない。

「どーでもいいこと」に服従することに慣れた子どもが、どんな大人になるかである。

働き方改革について真剣に考えることは、目の前の子どもへの教育について考えることにも繋がる。


働き方改革は、どうでもいいことではない。

現場が真剣に考え、それが本当に意味があることなのか、真実を探っていく作業である。

2023年10月22日日曜日

多様性の尊重の自己矛盾問題をどうするか

多様性の尊重について。


「多様性を認めよう」という声は、もはや世間に浸透しきり、当たり前、常識と化してきた。

ただしそれが実際に当たり前に行われているということとはまた別である。

「いじめをなくそう」「差別はいけない」といったスローガンが浸透しているのと同じである。

ただ世の中で賛成する声が多い考えになったというのがポイントである。


以前にも書いたが、これがどうしても矛盾を生む。


「多様性を認めよう」を全てに適用する場合、「多様性なぞ認めない」というような人の「多様な」意見も認めるしかない。

しかし、それを認めれば「多様性を認めよう」という正義に反する。

必ず自己矛盾に陥るのである。


全ての「○○しよう」は、正義の主張である。

つまり、○○に反する△△は、排除の対象となる。

△△派からすれば、○○も正義に反する意見である。

正義の主張は、必ず対立を生むという構造上の宿命を背負っているといえる。


「多様性を認めよう」は、一つの正義の主張である。

即ち、確実に対立を生む。


教える内容がある程度決まっている学校教育においては、特にこれが難しい。


多様性を認めるとは、例えば使用言語もバラバラでいいということだろうか。

これでは、会話自体が成立せず、カリキュラムが決まっている内容の教育は、ほぼ不可能である。


多様性を認めるとは、学校に来なくても、あるいは勉強をしなくてもいいということだろうか。

教師の言うことを全く聞かないことすらも「多様性の尊重」になる。

それでは、一切の教育が成り立たない。


多様性を認めるとは、何をしてもいいということだろうか。

それは、ルールを一切守らないことすらも認めざるを得なくなる。

そうなれば、社会としての崩壊状態である。


つまり「多様性を認める」は、全ての思想や行動を認めるという意味で受け取ると、不都合だらけになる。


また、多様性の尊重は、自由という概念と深く結びついている。

自由であるということは、自らの他によらないことであり、個々がその行動の結果責任をとる状態である。

つまり、何が起きても自分の選択の結果であり、他がどうであっても干渉しないということである。

(ここで、自分を攻撃してくる相手への抵抗をすると、またしても矛盾を生む。)


例えば、食べ物を粗末に扱う自由があってよいのか。

学校の授業中、好き勝手に寝ている自由があってよいのか。

自分がそうしたければ、他人を攻撃する自由があってよいのか。


自由や多様性の尊重を称賛する際、こういった負の面も大いに考える必要がある。


例えば、人の言うことや命令をよくきくというのは、本当に悪いことなのか。

会社のために尽くして働くというのは、本当に個人を尊重していない良くないことなのか。

何もすべきことが決まっておらず、全てが個人の自由な選択でいいというのは、本当に素晴らしいことなのか。


全面的にそうだということが難しいことだらけである。


そこで、多様性の尊重を、全ての考えに賛同することではなく、多様な存在自体を認めることとして考えてみる。

多様な存在があることを認める。

自分という存在にとって不都合、賛成できないものであっても、存在としては認める。

自然界自体、そうやって成り立っている。


そういう取り決めになったと考える。

もともと、それを認めないという取り決め(理不尽な差別)が常識だったのが、変わったと考える。

「多数派」「みんなと同じ」が絶対の正義ではないという考え方である。


そうすると、学校教育のあれこれについても、矛盾が解消できる。

何をしてもいいということと、そこに存在しているのを認められていることは、イコールではない。

あくまで、存在自体の承認である。

そう考えれば、多様性の尊重自体は、前向きに捉えられる概念となる。


多様性を認めるとは、教育の前提を引っくり返していいということではない。

あくまで多様な存在の一つとして認めるということである。

教育の前提としてやるべきことをしなくてよいという概念では決してない。


言葉は強力である。

だからこそ、言葉への単なるイメージに振り回されないようにしたい。

2023年10月14日土曜日

誰も救わない優しさに『不親切教師のススメ』

 「食事を抜いても読書は欠かさない」というぐらい、読書を大切にしている。

(単に好きなだけである。)


当たり前だが教育関連の書籍は否が応でも読む機会が多くなる。

また放っておくと、哲学的なものやドキュメンタリーなどにいきがちなので、小説も意図的に読むようにしている。


小説だと、毎年の本屋大賞の本は読む。

2023年の本屋大賞受賞作品である、次の本を読んだ。


『汝、星の如く』 凪良ゆう著 講談社


小説を読む時は、特に心に残った台詞や文章を書き留めておくようにしている。

今回は、次の言葉がメモされていた。


================

愛と呪いと祈りは似ている


それは誰も救わない優しさだよ


捨てると選ぶは、意味が違うのに限りなく近い

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選んだ言葉を見返すと、共通項が見える。

自分の心の琴線に引っかかる何かがわかる。


今回のものを見ると

「真逆なようで同種」

「表面的な意味と本質的な意味が真逆」

という共通項が見える。

自分が最近感じている教育観のテーマでもある。


『不親切教師のススメ』もこれなのである。

一見親切なことが本質的には不親切。

不親切なように見えて、本質的に親切。


『不親切教師のススメ』でやめようといっている親切とは、まさにこの「誰も救わない優しさ」である。


それは「愛」なのか「呪い」なのか「祈り」なのか。

「あなたのためを思って」の本質を問いたいのである。


『捨てる!仕事術』(明治図書)という本を書いたことがある。

この本のメッセージの本質も「本当に大切なことをやるために、捨てる」である。

『不親切教師のススメ』のメッセージも、本質的には同じなのである。

不要なことをやらないという決断は、やることの主体的な選択ともいえる。


魂レベルでやりたくないこと、やるべきではないと思っていることを、仕方ないからやる。

それは、じわじわと魂を毒殺する行為である。

本当は要らない、むしろ有害だと思っているのに、「みんな」や「常識」「慣例」に合わせてやっていることはないだろうか。

そういうことへの疑問を常にもつのは、結構大切なことだと思っている。


愛、呪い、祈り。

誰も救わない優しさ。

捨てると選ぶ。


全ては、バランスである。

一見真逆なものを両立させることで、バランスがとれる。


哲学的な話になってしまったが、教育にとって本質的に大切なことである。

2023年10月8日日曜日

主張と正しさと多様性の尊重

 前回『くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場』という記事を書いた。

これがまぐまぐニュースになり、ドコモのニュースサイトでも紹介されていた。


くだらないようで結構、人々の興味の対象ということである。


最近はまた

「筆算で定規を使わないと×」

とか

「絶対に下敷きを使わないとダメ」

とか、何十年前にも喧々諤々の論争があったのものが、再燃して色々騒がれる。

ネットやSNSの作用である。

それら全ては「謎ルール」とラベリングされることで思考停止し批判の的になり、一緒くたに処理される。


ただ前回「くだらない」と批判した先の中心は、論争自体の方ではない。

後半の「決断できない教育現場」の在り方そのものである。


正直、どんな議論でもそうだが、どちらの立場の意見にも、それぞれ理は存在するのである。

三分の理すら存在しないということはない。


ただし、全ての「正しさ」は、場が決める。

時代や文化によっても変わる。

時の為政者が決めることもある。

それは即ち、宇宙の真理とも言えるような絶対的な正しさは存在しないとうことの裏返しでもある。


では、そんな中で、現在の日本の学校教育の指導内容の正しさは、誰が規定しているのか。

教育基本法であり、それを受けた学習指導要領であり、つまりは文部科学省が決めているのである。

そこに決断して欲しいのであるが「現場の主体性の尊重」というような言葉でうやむやにされてしまう。


では、現場が主体的に判断しよういうことでいざ決断すると、ここに批判がくる。

もっというと、裁判沙汰である。

そうなるのは嫌なので、「主体性を尊重」された現場の方も、やはりうやむやにする、ということになる。


いわゆる上から下まで全てが「入れ子構造」である。

誰も責任を取ろうとしないのだから、結局決断しようがない。

本来指導すべき内容も「どちらでもいい」となるのである。


ここに関連して、次の「みんなの教育技術」(小学館)の記事は示唆に富んでいる。


ボツになった三つの原稿 ー上司、上役の判断、決断の「気がかり」ー【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第59回】


以下、記事中より引用する。(メルマガの読みやすさの都合上、句点毎に改行)

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(引用開始)

「最も気がかり」なことを述べたい。

上司、上役、責任者の「判断」や「決断」が、「善」や「正義」を貫くことよりも自分の立場や責任上、現在の「平穏、無事」を保つための「保身」に傾くことである。

それは、「公」よりも「私」を重んずることである。

漱石は晩年「則天去私」の境地に到達したとされる。見事である。

(引用終了)

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「公」よりも「私」を重んじて、判断と決断ができないのは、学校だけではないようである。

そしてそのくだらなさと弱腰の姿勢を批判すべきは、「上」ではない。

それをよく考えずに甘んじて受け入れ、付和雷同している、自分自身の方である。


よく言われるたとえ話に次のものがある。

人を批判して指差す時、「人差し指」の1本のみは相手を指している。

他の「中指」「薬指」「小指」の三本は、自分自身を指している。

(私見としては「親指」だけが誰も指していないことも象徴的であると思う。)


結局、現場にいる人間がそれぞれ行動しない以上、何も変わらないということである。

命令する側からすれば、理不尽で変なことでも大人しく従ってくれているのだから、変えようと思わなくて当然である。

それは、本来正しくないことを是とすることであり、公にとっても大きな損失である。


そういう意味では、一見「くだらない」と思われる各種議論には意味がある。

しかしその場合、多様性に対して前向きな議論である必要がある。

なぜならば、「多様性を認めよう」ということは「多様性を認めない」という考え方をも包含するからである。

一見矛盾しているようだが、それが真理である。

真逆の考えは自分にとっては正しくないが、相手にとっては正しい。


「これだけが絶対正しい」という考え方は、危険である。

その前提の上で、指導する時にはとにもかくにも「正解」を示すというのが教える者の仕事だという話である。

たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。


私はネットの匿名で「頭がおかしい」とまで言われたことが何度もある。

恐らく、世の常識や当たり前を問うような、はっきりとした主張をしているすべての人に、不可避の体験である。

なぜならば、記事や書籍等を通じて「私」としてはっきり「主張」しているからである。


一つの主張には、必ず反論が出る。

陰と陽はセットであり、一方の存在により他方が存在できるからである。

つまり、「そうかも」と無意識下で思っていることほど、反論せずにはいられない気にさせてしまう作用がある。

これは、先の一見矛盾する多様性の尊重の話にも通ずる。


結論、当たり前に思っていることにも、議論が必要ということである。

そして、声や権力の大きい者や世間の批判にあっさり引き下がるのではなく、自分の考える正しさを言語化して伝えること。

年齢や立場の如何を問わず、この姿勢が必要ではないかということの一つの主張である。

2023年10月1日日曜日

くだらない「かけ算論争」と決断できない教育現場

 小2で「かけ算論争」というのがある。

昔からある。

何と、半世紀近くも続いて決着しないのだという。

この「くだらなさ」に敢えてフォーカスしてみる。


例えば、次のような問題の場合である。


問:箱が3つあります。1つの箱にはみかんが5つずつ入っています。

  みかんはぜんぶで何個ありますか。


解:1箱あたり5個入りのものが3箱だから

  5×3=15 答え 15個


これで正解である。


ここの立式において「3×5」を認めよ、それが多様性の尊重だ、という議論である。

「多様性」が都合よく濫用されている昨今。

多様性の尊重とは、そういうことではない。


そもそも、この問題設定自体、どう見ても立式の意味理解を測定することを想定して作られている。

そうでなければ「みかんが5つずつ入った箱が3つあります。」という問題にしているはずである。

ちなみにこれは、演算上の「5×3=3×5」が成立するという話とは全く別の話である。

演算の話ではなく「小学校段階におけるかけ算の意味理解」を問うている問題である。


またある調査によると「8割越えの教員や塾講師」が「どちらでもよい」と回答したという。

この「適当」さに違和感しかない。

(授業で国語の学力がつかないことにも通じる。

「正解」がわからない以上、進んでいるのかぐるぐる回っているだけなのかわからない。)


ちなみに、「8割越え」の内訳を考えてみると、数のトリックに気付く。

この調査は「大手予備校」が「SNS」でたった「100人」を対象にしたアンケートである。

塾講師と小学校教員の比率も全くわからない。

(その塾の講師99人と小学校教員1人かもしれない。

もし塾の方針で「両方〇」と共通理解されていれば、当然そうなる。)

塾講師と小学校教員では、求められるものも何もかもが全く違う。


この程度の数字のトリックにほいほいとかかってしまうのが、SNSが主流の現代社会の病理である。

情報量が多すぎるせいで、よく考えずイメージで「適当」に判断する習慣が蔓延してしまっている感が否めない。


実際に、この問題を授業で扱う時、どうするか。

当然「この場合は3×5と5×3、どちらが正解か、どちらも正解といえるか」は必ず議論する。

だから、テストでは当然正解が定まる。

正解でないものは、不正解である。

事前に確認してあることであり、文句の出ようがない。


実際に見たことがないが、首尾よく授業中に見事な「3×5も正解」の説明をする子どもがいた場合はどうするか。

それは、当然真剣な比較検討の対象となる。

その上で、「どちらの式が、意味として誰に対してもすんなり伝わるか」も検討する必要がある。


なぜならば、式とは即ち「算数(数学)語」という共通言語だからである。

読んだだけで、その言語を知っている誰にでも意味がすっと伝わる必要がある。


ちなみに、2段落前に『3×5「も」正解』と表現して違和感があっただろうか。

恐らく、ないはずである。

5×3が立式として正解ということに関しては、異論・反論が出ようがないからである。

どちらがよりよい解であるかは、一目瞭然である。


そもそも、問いたいのが「立式」なのか「演算の答え」のみなのかも曖昧なのである。

だから、「答えさえ合っていればいい」という、台形の公式丸暗記みたいな話になっているのである。

ここで正答率と得点の向上を第一に求められるような立ち位置の人間であれば、「どちらでもいい」と答える可能性が高い。

小学校教員の学習指導において求められるのは、そこではないのである。


こんなものにすら半世紀も決着がつけられないとは、何ということだろう。

世間の言葉に右往左往して、代々上から下まで「決断」できない教育現場の哀れな姿が見受けられる。

それは民主的でも多様性の尊重でも何でもない。

ただ八方美人で優柔不断なだけである。


何が正解で、何が不正解か。

全てがこう割り切れるとは言わないが、少なくとも教える内容が定まっているものについては、堂々と教え、理由を語れるようでありたい。

2023年9月24日日曜日

保育士不足と働き方改革と多忙

何かと話題になる保育園や学童保育の問題。

NHKなどは継続的にこの問題をニュースにして特集している。


参考:NHK首都圏ナビ 保育現場のリアル


そこに関連して、以前からの関心事の一つ、保育士不足問題について。

これは、子どもの虐待問題にも関係する重要事である。


近年、教員に限らず、保育士も慢性的な不足状態が続いている。

保育士には元来、資格が必要である。

誰でもはできない専門職だから、資格が必要となる。

わざわざ壁を作ってまで数を絞っているところへ、ニーズがだけ急増すれば、資格保有者は不足する。

当たり前である。


では、実際の社会はどうなっているか。

保育士の数が足りず、保育園の数も足りないという事態になっている。

認可、無認可関係なく、不足である。

需要と供給の不均衡である。


そうなると、経営側的には資格が「邪魔」になってくる。

現在の法律上、「認可外」であれば、概ね3分の1以上の有資格者がいればいい。

そうなると、大部分の保育者の資格が不要となり、とりあえず数の確保ができる。


ここ数年で、認可保育園でも、「パート」が認められはじめた。

「保育補助」といって、無資格でなれる。

これで現場には、保育の無資格の人が更に増えてきた。


そうなると、実は正規職員の負担は増える。

パートタイマーを雇う場合、基本的に必ず定時で帰す義務がある。

文字通り「パートタイマー」という契約だからである。

原則、時間厳守である。


正規職員に、消化しきれない残務は全て回ってくる。

「派遣、パートの待遇の悪さ」が取り沙汰されがちでそれは一面真実だが、その分の正規職員へのしわ寄せもかなり大きい。

(恐らく、全ての業界において共通である。)


当然、「割に合わない」「〇〇しながらは、きつすぎる」という理由で、正規職員のなり手が減っていくことが予想される。

たとえ資格があっても、それがきつい仕事となれば、パートタイマーなど非正規雇用を選ぶ人も増える。

これは、教員の世界でも同様の現象が起きている。

悪循環である。


また「子どもを育てた経験があるから、保育もできるだろう」という考えは、かなり乱暴である。

それは「小学生相手の家庭教師をやっていたから、小学校で授業をしても大丈夫」というのと同程度の認識である。

やってみてどんな悲惨な結果になるかは、やった人なら知っている。

一人を一人で相手にするのと、一人で集団を相手にするのでは、必要な技能と知識が全く異なる。

あるいは、「自分も小学生だった頃があるから教えられる」「中学生の内容は難しいから無理だけど小学生なら教えられる」という暴論と同様である。


仕事が忙しい親にとっては、とにかく時間いっぱい預かってもらえることが何よりも重要なので、保育内容うんぬんは後回しになる。

内容がどうであっても、長い時間預かってくれるほど助かる。

すると、残念ながらずさんな「保育」が行われるところも出てくる。


これが、保育という重要な分野で行われている。

ぐにゃぐにゃの柔らかい状態の子どもたちへの、保育の影響の大きさは測り知れない。

(年齢による喫煙の被害の大きさの違いのようなものである。)

「入れればいい」というのは、仕事をする親の論理としてはその通りだが、その結果まで引き受ける覚悟も必要となる。


どんなに愛情をもって我が子を育てているつもりでも、ついいらいらしてしまうというのが、人間の心情である。

それが、他人の子どもを複数いっぺんに預って、簡単に育てられるはずがない。

だからこそ「保育士」という資格にも意味があるのである。

(この資格を簡単に出してしまう場合の被害の大きさも言わずもがなである。)


一方、保育士一人で複数の0歳児の保育をしている悲惨な現場を考えてみる。

そうすれば、いかなプロといえど、問題が全く起きないと考える方が難しい。

一人一人への対応も、大雑把にならざるを得ない。

物理的に見て対応する時間がないのは明白である。


更に言うと、人員不足になるほど、本来「合格ライン」に届かないはずの状態であっても、採用になってしまう。

全国の教員採用の抱える問題と同じである。


首都圏のある保育園に勤める知人に聞いた話では、0歳時が自分で哺乳瓶を持って飲めるようになるという。

あまりの数の多さに、抱っこして飲ませることができず、寝っ転がって「自分で飲むしかない」状況になるからである。

驚愕である。


そして、みんなにテレビなどを観させて、一日を過ごさせる。

スマホやタブレットを与えている時と同じで、これで「大人しく」なる。

ある「一斉保育」の現場の現状とのことである。


ここで、「何てひどい保育園だ」というのは簡単である。

問題は、抱っこしようにも、何をしようにも、人出が足りないという根本的リソース不足の方である。

そして、そんな保育園であっても、親はとにかく預けたい、預けるしかないので、預ける。


そうして育った子どもたちの次の行く先は、小学校と学童保育である。

問題が起きないはずがない。


当たり前だが、全ての保育園がこうという訳ではない。

むしろ、懸命に子どものために、健全な保育をしようとしているところが大多数だろう。

しかし、「多忙」と「無理」はすべてを壊す。

健全にやりたいのにおかしくなる保育園や、最初から金儲け主義で始める保育園が出てきても不思議ではない。


考えてみれば、「働き方改革」が進み、幼い子どもを預けて働くことが推奨されている。

そうなると、保育士の「働き方改革」はどうなるか。

これが進むほど、保育士の働き方改革は、悪化の一途を辿るという矛盾が起きる。

正規の保育士が「泥を被る」形になる。

当然、なり手は減る。


そして、その後の煽りを食うのは何よりも子ども自身であり、更には小学校現場であり、ひいては社会全体である。


結論として言いたいのは、社会に「過剰な依存」が蔓延しているということである。

自助努力で如何ともし難い現状に対し、「公」はそこまで助けてくれないというのが現実である。


人に迷惑をかけてもいいし、頼ってもいい。

しかし、誰かに頼ったとしても選択の最終責任は常に自分自身がとらねばならないということは念頭に置いておきたい。

苦しい者同士がお互いに消極的にもたれかかる「共依存」の関係では、落ちていくばかりである。

自立した者同士が積極的に支え合う「相互依存」の関係が理想である。


いずれにしろ、政府先導の働き方改革も何も、これらの問題が厳然とある以上、どこか絵空事である。

子どもを預けて働く親がより増えることへの負の面への解決策が見えない。

そしてこれら全ての根本は、日本の経済の問題であり、見えない貧困の問題なのかもしれない。


子どもを預かる全ての施設は、そういう複雑な問題の受け皿となっている。

保育園や幼稚園、学校に勤める以上、あらゆる複雑な問題は避けがたいという自覚をもって働いていく必要がある。

2023年9月16日土曜日

真理は、証明を索むべからず

 真理は、証明を索(あなぐ)むべからず。


この言葉は、次の本から見つけた言葉である。


『哲人哲語』中村天風著 天風会(1957)


真理というものは、それそういうものとして存在する。

それは、証明する必要がないものである。

この本の中では「西賢の哲」の言葉として紹介されているが、それがソクラテスなのか誰なのかはわからない。


証明しないものは納得できない、というのは、なるほど科学的立場からすると正しい。

科学はどこまでもそういう側面をもつ。


しかし、宇宙には科学で説明できないことで溢れている。

宇宙の真理が解明されるまで納得いかないからと動かずに待っていたら、あっという間に今世が終わってしまう。

その態度を貫くのであれば、自分自身の生命や存在も納得できないということになる。

生きていることの全てが「証明不可能」という真理である。

否、今生きていること自体、生命がここにあるということ自体が、証明不要の紛れもない真理である。


ここまで哲学っぽく書いてみたが、これは単なる前提のおさえである。

教育メルマガとして今回の書くべきことは

「それはそういうもの」

と素直に認識し、そのように生きていくことの大切さである。


問う必要のないものを問うことがある。

それは、何でも問えば科学的に説明できるという誤解があるからである。


例えばそのように出される問の一つが

「なぜ人を殺してはいけないか」

である。

言うなれば「サイコパス」な質問であり、何か特殊な状況でない限り疑問にすら思わない問である。


色々と理由を言えるものの、厳密に考えると答えは見つからない。

例えば「戦争時には英雄として称えられる」という面もある。

凶悪犯罪に対する死刑の場合や深い怨恨による場合など、心情的に正当化することもできる。


この問に対しては、正否どちらに対してもいくらでも後付けで理由はつけられるが、それら一切は必要ない。

人を殺してはいけないのである。

よくわからない力によって人として生まれさせてもらっただけの者。

それが同じように生まれてきた人の命を奪っていいという道理はない。


当たり前のことである。

こういう真理として決まっていることをぐちゃぐちゃとやると、訳がわからないことになる。


教育が崩れてきているのは、こういう面によるところがかなりある。

真理については本来「なんで」も証明も不要なのである。

堂々と教えればいい話なのである。


もし小さい頃に教えるのならば

「人を傷つけてはいけないよ」

だけである。


本来は、それすらも必要ないはずなのである。

生後数か月の赤ん坊ですら、困っている人を助けようとする本能があるという実験結果もある。

(この実験結果は複数の本で読んだことがあるが、どの本かはっきり言えない。

数年前に上越教育大学大学院教授の赤坂真二先生の講座でも聴いたことがある。)


この理由は、人間がどこまでも社会的な生き物だからであるという。

「助け合う」という本能は、生まれた頃から脆弱な人間にとって、集団としての生存確率を大幅に高める。

実に理に適った行動であり、色々とがんばって証明せずとも、真理なのである。


一方で、同種間の生存競争として、排他的になる面もある。(動物の世界、特にオスに顕著である。)

しかしこれも、無理なことをすれば、結局自分の首を絞めることになる。

「困っていたら放っておけない」という、集団における助け合いの精神がデフォルトで備わっているのである。

人間は、放っておいても、実に親切な生き物なのである。

(実生活だと、やりすぎてお節介にもなりがちであるが、本能行為だと思えば仕方がない面もある。)


本題に戻る。

真理は、証明を索むべからず。


つまり、教えるべきことはきちんと堂々と教えよ、ということに繋がる。

特に幼児期から低学年において、「それはそういうもの」については、徹底的に教えればよい。

どうせ何を教えても永遠に「なんで」が出るのだから、自分が上手に証明できないことを気にせずともよい。


ただせっかくの「なんで」を無下にしてもいけないので、自分で知っている小さい範囲である程度説明した後は

「何でだろうね。でもそうなんだって。」で、終結である。

証明できないものを無理に証明しなくてよいのである。(それを証明すること自体が道理に反する。)


何かしてもらったり、受け取る時には「ありがとう」を言う。

何かをしてもらう時には「お願いします」という。

誰かが困っていたら一声かける、助ける。

がんばっている人を馬鹿にしない。

誰かがものを落としたら拾って渡してあげる。


こういうことを、教える際に躊躇しない。

小学生でも「なんで?」ときかれたら、「その方が嬉しいから」くらいでいい。

明確な理由や証明は不要である。


逆を言えば、真理でないことに無思考に従う態度は排すべきである。

おかしいことはおかしいと言えねば、人間としての甲斐がない。

そのあたりは『不親切教師のススメ』で詳しく述べているので参照されたい。


真理は、証明を策むべからず。

心に留めておきたい名句である。

2023年9月10日日曜日

話を聞かないをどうするか

 学級経営に関する悩みと、それをどう考えるかについて。


学級経営に関する悩みで最も多く寄せられるものは「話を聞かない」。

これである。


だから、新刊はここに絞って書いた。

学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』学陽書房


専科などで入る先生もこれで悩むことが結構ある。

学級経営の問題なのか授業技量の問題なのかは断定できない。

しかしながら、専科の時だけきかないとしても、それはそれで学級経営が上手くいっているとは言い難い。


子どもを教える際の大前提がある。

そもそも、子どもというより、人は人の話を聞かないものである。

幼児に近い年齢の子どもなら尚更である。


35人学級で全員きちんと話を聞いている低学年の集団なぞ、想像するだけで恐ろしい。

基本的に「自分だけの世界」というのが標準レベルである。

だからこそ、この時期の指導が重要になるともいえる。


高学年以降になると、意図的に話を聞かないということも起きる。

相手によって態度を変えるためである。

これは「望ましくない」といえるかもしれないが、自立への成長の過程としては必要な時期でもある。

ある意味、主体的に選択している態度ともいえる。(その結果責任まで考えているかどうかは別問題である。)


いずれにせよ、こちらの話は普通にしていたら聞いてもらえると思わない方が健全である。

八方手を尽くして、やっと少し聞くかもしれない、程度である。


長い話はまずダメである。

長くなると、そもそも理解ができない。

集中力も続かない。


つまらない話もダメである。

聞いていても無駄で、聞かない方が得してしまうようなものもダメである。


さて、ダメなことばかり挙げても絶望的になるだけなので、大切なのは、どうするかである。


王道は、少数の優秀な聞き手を育てることからである。

絶対に、一生懸命聞いている子どもがいる。

そこを認め、そこに向かって話す。

一点、風穴を開ければ、そこから打開できる可能性が高まる。


すると、良い聞き手を真似をする子どもが出る。

集団は、認められる方に引っ張られるからである。

逆に、聞かない子どもを叱責したり注目したり丁寧に接してあげたりしていれば、集団もそちらに引っ張られる。

叱責行為も注目行為も「見てとめる」=「認める」の一種である。


全員がしっかりと聞けるようになることは望むべくもない。

そんな集団は大人でもまず見ない。

そもそも耳からの情報が苦手な人間は一定数存在する。

視覚情報を合わせながら話すことも有効であるし、困ったら近くの人に頼るように指導していくことも手である。


それでも、わざと話を遮って騒ぐ子どももいる。

この場合は、注目お試し行動である。

自分でどうしていいかわからずコントロール不全のパニックを起こしていることもある。

ここはその子どものためも含めて、無言の対応や意図的無視を状況に応じて使う。(事前にその説明もしておくのが望ましい。)

大抵の場合、騒ぐ子どもは自信ありげに見えて実は自己肯定感がどん底なので、その裏で「あなたは大切」「価値がある」を伝え続けることが更に重要である。


とにかく基本は、美点凝視、真剣な良い聞き手に注目して話すことに集中することである。


要は、全ての人が、自分を認められたいのである。

良い行動で認めれば、良い方向に伸びる。

悪い行動で認めれば、悪い方向に伸びてしまう。

そして指導者の立場は、その強い実行力をもっているという自覚が必要である。


話を聞かないという悩みは、教育に関わる人にとって永遠の課題である。

2023年8月27日日曜日

夏休みの研修をどう生かすか

 夏は研修やセミナーが盛んである。

多業種、各方面で開催されるが、特に教員関係のものは多い。

夏休みに子どもがいない間は、主に研修期間という位置付けだからである。


これは、教員にとっての夏休みの楽しみ方の一つともいえる。

社会科の大家、元筑波大附属小教諭の有田和正先生は、旅行も兼ねてネタ集めに奔走していたという。

数々の素晴らしい授業実践群は、これら休日を含めた日々の研鑽の賜物である。

やり方次第で、旅行すら立派に研修になりうる。


そんな中、セミナーは傍目にもわかりやすい研修の機会である。

わざわざ休日に身銭を切って時間を使ってまで学ぼうというのはコストが高く、並々ならぬモチベーションである。

特に遠方まで行ってお金を払って学ぶような人は、少なくとも「普通」ではない。


コストをかける分、期待が高まる。

時に、相手が、自分の望む答えをもっているように感じてしまう。

悩んでいるほど「どうやるのが正解か」と他者にききたくなる。


ただこの姿勢だと、なかなかうまくいかない。

うまくいかなくても、変われなくても、相手次第だからである。

実は、どんな研修やセミナーであっても、学び手次第というところがかなりある。

この夏の新刊『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』にも書いたが、受け取る主体は常に「聞き手」にあるからである。


特に「有名講師」と言われる人に学ぶ時は、消化の仕方が肝である。

相手の実績があるだけに、それを真似すればうまくいく気がしてしまう。


実際、やってみるとわかるが、そううまくはいかない。

「変わるぞ!」と熱く燃えて決意したにも関わらず、続かない。

それは、そもそも相手と自分のもつストーリー、文脈が違うからである。


物語に例えると

「普通の暮らしをしていた若者がひょんなことから事件に巻き込まれ、苦労の果てに成功する」

というタイプのストーリーと、

「生まれながらの王族が、内政の困難に立ち向かいながら更なる成功を手にしていく」

というストーリー。

両者の成功譚は全く別物である。

主人公のもつ、そもそものベースも環境も全く違うからである。


様々な地へ行くとわかるが、学校の抱える課題も地域で全く違う。

先日の調査結果を受けて「学力向上」が主な課題になっている地域がある。

一方で、所変われば、「貧困」が問題になっている地域もあれば、「同和問題」が筆頭に来ている地域もある。

私学と公立でも違う。

どこでも同じ手法が同じように通用する土台がないのである。


その研修やセミナーから学んだことを、自分なりにどう解釈して用いるかが全てである。

正解は自分で作る。

学んだ内容とは全く逆の正解を作ることもあり得る。


「この道でみんな成功してますよ」

という話を聞いて、

「それならもうこの道を行っても自分にはチャンスがないから、これ以外を行こう」

と考えるのも自分次第である。


いずれにしろ、経験は意図的に積み、そこに整理を加えないといけない。

これは、師の野口芳宏先生が事あるごとに口にされている教訓である。


せっかくこの夏に学んだ内容、自分なりに主体的に活用していきたい。

2023年8月19日土曜日

発信者には先行実践の調査と明示が必須

 私が長らく、学級経営において大切にしている大原則がある。


真面目な人に損をさせない。

一生懸命がんばる上位2割にこそ注目する。


これらの考えが結構広まってきたようである。

見ると、私以外の誰かも

「真面目な子に損をさせないことが大切です」

と断言して書いている様子を見受ける。


さて、これらのことを書いたり発信する時には、ルールがある。

それは「引用元の明示」である。

論文、書籍、メルマガ、SNS、媒体を問わず「引用元の明示」は、発信の大原則である。


「それは元々誰の話なのか」をはっきりさせるのが、文章を書く上での大原則のルールである。

「自分が思いついた」と思った場合でも、関係する文献、あるいはせめてネットで先行実践を調べてから発信するのが最低限度のモラルである。

そう思ったほとんどの場合、以前に自分が見聞きした文章の記憶からの着想(あるいはそのまま)だからである。


これは自戒の念も込めており、私自身の文章にも当てはまることである。


例えば、『不親切教師のススメ』は新しいことを書いているように思える。

自分でも、色々と考えて書いたつもりである。

しかし実際には、かなり様々な人々の思想に影響を受けている。

思い出せるものはなるべく調べて明記したつもりであった。

しかし、それでも甘いのである。


例えば、この本の参考文献に載せるべきだったと後悔している本がある。

『不親切教師のススメ』と同じく、さくら社刊行の、次の本である。


学級づくりの教科書』有田和正著 さくら社


この本の「教育的良心が足りない」?という項p.154に次のように書かれている。

==========================

(引用開始)

手とり足とりの指導が、子どもにとってよいのであろうか。

わたしは、子どものために尽くすということは、手とり足とりの指導ではなく、ひと言少ないことや、一手少ない指導だと考えている。子ども一人ひとりを主体的に育てることが教育の目的なら、指導過剰はマイナス効果である。

(中略 )

子どもが困っていると、すぐ手を出したくなる。そこをがまんすることが、本当に子どものためになるのである。

(引用終了)

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本に力強く「花丸」の書き込みまで付けてある。

『不親切教師のススメ』は、ここから相当に影響を受けていると考えて間違いない。


2011.8.25発刊で、発売直後に初版を購入してまず一気に最後まで読んだ記憶がある。

表層からは内容についての細かな記憶は薄れていたが、深層で完全に覚えていたようである。

有田実践については『不親切教師のススメ』にも宿題の項でふれたが、今思えば主要な参考文献としてこの本を載せるべきだった。

もう間に合わないため、せめてここの場に明記し、次回作では明言しようと思う。


ちなみに冒頭に挙げた「上位2割に注目」は、イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートの「パレートの法則」からの気付きである。

セットで「下位2割に引っ張られない」という点もここから着想し、提案している。

学級崩壊とは、下位2割が言うことを聞かない状態ではなく、上位2割にそっぽを向かれた状態を指すからである。


この「学級崩壊とは・・・」という考え方のベースは、TOSS代表の向山洋一氏のものである。

また「下位に注目しない」というのは、特別支援教育で用いられる「意図的無視」という配慮からきている。

そしてのその考えのベースは、心理学におけるオペラント条件付けの「負の強化」というものからである。


つまり、どれもこれも私の完全オリジナルな訳ではない。

他の研究や実践から着想を思い切り得ている。

その学びを消化した上で、実践を通して実感したものを言語化しただけである。

私の「真面目な人に損をさせない」という学級経営の大原則も、この「上位2割」の概念から派生した考えである。


そう考えると、「自分の完全オリジナルな考え」などというものは、ほとんど存在しないのかもしれないとも思う。

師の野口芳宏先生もそのように仰っていた。

全ての原理原則は、孔子やキリスト、釈迦あたりに言い尽くされており、先人がどこかしらで主張しているものばかりである。


だからこそ、発信者はそこに対し、謙虚になる必要がある。

誰でも何でも発信できる現代にこそ、個々の情報モラルや情報リテラシーが重要になる。

自分の考えはどれで、引用・参考文献はどれなのか、明示する必要がある。

(ちなみに引用と参考は全く違う。引用は元のそのまま、参考はあくまで参考である。

これも、初任の頃に向山洋一氏の書籍から学んだことである。)


情報を得る場合も、それがどこの誰なのか、名前や立場を明示して発信しているのかどうかが最も大切である。

当たり前だが、世に知られた人が立場をもってする発信は、そうでない人に比べて、断然責任が重い。

政治家や有名人が批判されるのは、そういう意味で避けられない必然である。


そして批判一つとっても、批判者側が名前や立場を明示してこそ責任と価値が伴うのである。

匿名の無責任な文章には、宙を漂うような重さしかないのである。


情報を得る側も、そういう視点で見ないと、色々と見誤り、誤ったものが世に広まる。

ニュースに悪い情報の方が多く飛び交うのは、それを無意識に歓迎する読者が多くいるからこそである。


SNS上や書籍上の有象無象の教育情報に、気になるものが増えてきたので、記しておいた。

もしも私の文章に対しても、考えに共感して広めたいという有難い意向がある方は、引用元を明示するか、ご一報を頂ければ幸いである。

2023年8月12日土曜日

音読が大切

今更ながらだが、音読の大切さについて。


最近、サークルでも校内研修でも話題になったのが、音読の重要性である。

特に国語を専門とする先生から、その重要性について、以下に書くように強調された。


そもそも、人間の言語獲得のプロセスは音声を聞き、それを口に出すことからである。

いきなり書き文字から入る訳ではない。

言語獲得のプロセスにおいて、音声言語が文字言語に優先するのである。


音読をすると、理解度がはっきりとわかる。

国語で教科書の文章をすらすら読めるような力を育てることが、他教科へ波及する。


例えば、算数の問題が解けない子どもに問題文を声に出して読ませようとすると、それ自体が読めない。


「読めない」の内訳は様々である。

・漢字が読めない

・その言葉自体を知らなくて読めない

・記号が読めない


特に、漢字が少なく平仮名交じりの文の多い低学年では、その言葉自体がわからないことが多い。

(低学年の教科書の混ぜ書き文章は、大人からしても読みにくい。)


またグラフなど「読み取る」という作業が入ることも多く、ここも音読させると理解度がわかる。


2年生の「時刻と時間」の学習などは最もわかりやすい。

時計を見て「9時」と読むところを「12時」と平気で読むなんてざらである。

短針が「〇時」→長針が「〇分」の順に読むこともわかっていないから、読みようがない。

時刻自体が読めないのだから、時間を問う問題ができなくて当然である。


そして「読めない」状態のままテストになれば、当然問題文が自力で読めない。

何を問われているかわからないのだから、解けなくて当然である。

つまり、内容への理解度どうこう以前の問題が存在しているのである。


普段から自力で問題文を読むという習慣が必要なのである。

授業中も、声に出して問題文を読ませる必然性がそこにある。


5年前、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井 紀子著 東洋経済新報社)という本が話題になった。

タイトルを見て「そんな大袈裟な」「そういう子どもも中にはいる」ぐらいに思った人が多くいたと思うが、これは事実である。

調査をするとわかるが、かなりの割合の子どもが、きちんと教科書を読めない。

そして、その状態でそのまま大人になっているのである。


これは学校側としてはお便り一つ配るにも「本当に読めるかどうか」という視点が必要ということである。

問い合わせに対し「お便りに書いた」というのはこちらの言い分としては正しい。

しかしながら、あの大量の文字情報から本当に必要な情報を読み取るということを誰しもできるか、自問する必要がある。

(むしろ、発行している自分たちですら読むのが大変なのではないだろうか。

例えばどの学校であっても、新入生の保護者向けの説明資料などは、文字地獄である。)


話を戻すと、小学校、特に低学年段階において、音読の重要性は強調しすぎることはない。

高学年でも重要であるが、それも低学年での基礎固めがあった上で成り立つものである。


大人同士の読書会でも、音読を行う。

上手な人によって全力で読まれる文章の音声を聞くのは、耳にも大変心地良いものである。

自分自身の音読の向上にもつながる。

即ち、それが子どもの音読の向上にもつながる。


音読向上につながる実践は、数多くある。


例えば長らく「詩文の暗唱」の実践をしていた。

しかしコロナの影響で近距離で音読を聞くことができず、最近めっきりやめてしまっていた。

こちらも、再開する方向である。

確実に語彙力とリズム感が身に付き、子どもの学力向上につながる。

(先日講師として訪問させていただいた都内の学校では、校長先生が全校児童の詩文暗唱を聞いて認定していた。

素晴らしい取り組みであると思う。)


AI全盛の時代になろうと、この点は変わらない。

言語能力の獲得は必須である。

文字情報を読めないのでは、情報獲得の量に圧倒的な差がつくのは必然だからである。


今、新しい様々な取り組みがどんどん生まれている。

しかしながら、温故知新の言葉の通り、古くから残ってきたものには価値がある。

しばらく、感染症対策によって歌や音読が禁止されてきたが、その束縛もこの5月で完全に終わりである。

音読の重要性が、今こそ見直されるべきではないかと考える次第である。

2023年8月5日土曜日

夏休みの宿題とChat gpt

 夏休みの読書感想文等宿題に関して、文科省よりChat gpt使用についての見解が出された。

それ以前に、Chat gptは13歳以下だとそもそも使用できず、18歳未満には保護者の許可が必要というルールがある。

以前にも書いた通りで、人間は「ダメ」と言ったら止めるものでもないというのが現実である。

メルカリ等に夏休みの宿題代行業者が氾濫して大儲けした現状を見れば明らかである。


さて、この活用は読書感想文コンクールに限らない。

例えば、夏休みの自由研究にも利用できる。

大人の権限でちょっとChat gptに命令して、ものの数分でアウトラインを出してもらった。

以下、Chat gptの出してくれたアイデアである。


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タイトル:浮力の不思議

はじめに

浮力の不思議についてみんなに紹介します。みんなが水に入ると浮くこと、それは浮力という不思議な力が働いているんだよ!この研究では、浮力の仕組みを楽しく学んでみよう!


浮力とは

浮力って何だろう?実験を通じて浮力の不思議な力を見つけ出そう!水に入る物体がどうして浮くのか、どうして沈むのかを調べてみよう。アーキメデスの原理という言葉も覚えようね。


実験1:異なる物体の浮力を比較

いろんな物体を水に浮かべてみよう!例えば、おもちゃや果物、コインなど。それぞれの物体が水に浮く理由を考えながら、不思議な現象を観察しよう。もしかしたら、大きさや形が浮力に影響を与えるかもしれないね!


実験2:浮力と重力のバランス

水に浮かべた物体には浮力が働いているけれど、重力という力もあるんだ。水に浮かべた物体の重さを計って、浮力と重力のバランスを確かめてみよう。ちょっと難しそうだけど、一緒に考えよう!


実験3:船の浮力の原理

船は大きな物体だけれど、なぜ浮くのかな?紙船やアルミホイル船を作って、水に浮かべてみよう。どんな形の船が一番浮きやすいかな?不思議な船の浮力の原理を見つけよう!


実験4:浮力を利用した物体の設計

浮力って素晴らしい力だね!実験を通じて浮力を利用した物体や構造物の設計を考えてみよう。例えば、浮き輪や船、水中のおもちゃなどを自分で考えて作ってみよう!どんな物体が浮力を最大限に使えるかな?


結果と考察

実験の結果をまとめよう!浮力の不思議な力を見つけたり、物体の形や大きさが浮力に与える影響を考えたりしたね。浮力の大切さや日常生活での活用方法についても考えてみよう。


まとめ

浮力の不思議を調べて、たくさん学びましたね!水に浮く現象や物体の設計など、楽しいことがたくさんありました。浮力の力って、みんなの生活にも意外と関係しているんだよ!これからも科学の不思議を追求していこうね!


参考文献

浮力に関する本やウェブサイトのリストを紹介します。これらの情報源からもっと面白いことを学びましょう!


付録

実験の写真や図、興味深い発見のメモなどをまとめた付録を用意しました。楽しい研究の記録を残しましょう!

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何をしたらいいかわからない子どもにとって、これはかなり助けになる。

(そもそもインターネットサイトの存在自体が、相当な手助けになるが。)

このアウトラインに従って実際に実験してみれば、面白そうである。


またそれぞれの項目について「書いて」と言えばここもある程度までは書いてくれる。

子どもが使用禁止だとしても、夏休みの自由研究は実質親の宿題という面もある。

どうしていいかわからない親が手助けのために使うことは十分に有り得る。


明確に「不正」と明言されている点については、使用できない。

しかし時に、設定されたルールの側がおかしいということも考えるべき点である。

ルール設定者(権力者)の都合や好みという面がないかは、常に疑うべきところである。


スポーツの世界はこれが顕著である。

オリンピックの歴史でも、日本が活躍して金メダルをとるとルールが変わるということは度々起きている。

(オリンピックはもはや爽やかなスポーツの祭典とは言い難い、醜悪な面が方々に見えてしまい、残念なことである。)

工夫した側の努力を否定するように、あっさりとルール変更がなされる。


Chat gptをフル活用できるリテラシーのある教員や大人はどれぐらいいるのだろうか。

実際、子どもの方はどうなのだろうか。

良い道具がある時にそれを活用する能力は、旧い制度を守るより大切である。


学校は、新しいものを活用する姿勢が必要である。

そのためには、古いものを捨てる必要がある。

旧態依然とした学び方やその学習内容を抱えたままでは、それができない。


学習指導要領がある以上、内容についての変更はできないが、工夫はできる。

昭和の時代から変わらないのではなく、今の時代に合った形の夏休みの宿題というものを考えてもよいはずである。


自由研究等そのものを否定している訳ではない。

本当に「研究」して大発見をしてしまうすごい子どもたちが存在することも認めている。

だからこそ、課題へ取り組むかどうかも個人の選択にして、使える道具はフル活用していいのではないかということである。


学校教育の実際は、基本的に保守である。

そして「新しいものは怖い」という感覚は「古いものをそのままにしたい」という感情と裏表である。

(ただ一番悪いのは、古いものを抱えたまま新しいものをどんどん取り入れることである。

 それでは、クローゼットがパンパンになって、着られる服もダメになる。

 新しく買うなら古いものを捨てるのが鉄則である。)


せっかく手助けしてくれるものは使った方がよい。

また新しい時代の価値観の流れは、拒否するだけ無駄である。

それを取り入れていくしかない。

だから、古いものを捨てるしかない。


この令和の新時代に、昭和時代の夏休みの宿題が「そのまま」残っていることの方がおかしい。

生成AIを読書感想文に使うなどうこう以前に、学校の在り方のおかしさの方が気になって仕方ない昨今である。

2023年7月30日日曜日

問題解決集団を育てるクラス会議

 ここ最近、研修等でクラス会議について話すことがまた多くなってきた。

自治的学級づくりは長らくの中心テーマなので、当然といえば当然である。


クラス会議は、円になって行われる。

これは「距離の平等」=「全員の立場の平等」を象徴している。

フラットな関係である。


また、輪番で発言するというのも基本的なルールである。

つまり「発言機会の平等」が保障されている。


「発言に対して否定をしない」というのも基本ルールである。

(自分の学級では、反対ではなく「心配」という表現で発言するように指導している。)

つまり、立場によらない自由な発言が保障されているということである。


これらは、問題解決能力が高く、幸せで生産的な組織の諸条件でもある。

(参考:『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ 』 矢野和夫著 草思社


つまり、クラス会議で設定されている基本ルールは、組織論から言ってもかなり合理的なルールといえる。

元々がアドラー心理学の「共同体感覚」を育むことが目的となっていることからも、納得である。


この逆をいけば、クラスとしてあまり良いものにならないといえる。


1 子どもの中に立場の上下がある

2 発言権に偏りがある

3 意見が否定される


ちなみに誤解なきよう一応付け加えるが「否定しない」というのは、授業で誤答もそのまま「いいね!」と認めるということではない。

1+1=3という子どもがもしいたとしたら、その意見自体は受け止めるが、そこは確実に修正指導が必要である。

そうではなくて、「自分はこうしたらいい思う」というアイデアを出したこと自体が否定されないということである。

それが「最適解」ではなくとも、一つの大切な意見として認められるということである。


非生産的で全員が幸福でない組織にありがちなのが

「まだ若造の分際で」「わかっていないなぁ」「また変なことを言って」という態度をとる人間の存在である。

こういう雰囲気、空気があると、確実に非生産的な組織になる。

これは、子ども集団も同じである。

(「全員が」とわざわざ付け加えたのは、そこでマウントを取れている人間は幸せでいい組織だと思い込んでいるからである。)


つまり、その大原則を外さないクラス会議を続けていくことで、クラスは確実に良くなっていく。

難しいのが、その基本ルールの徹底である。

放っておくと、すぐに発言が偏る、否定的な言動をとるといった事態が起きる。

それまでそれを「当然」と考えてきた子どもに指導するのは、なかなかの困難が生じる。(対大人ではもっと困難である。)

そこへの指導を、いかに介入を少なく、かつルールを担保していくかが、学級担任の仕事になる。


クラス会議は、やってみること。

それに尽きる。

できるかできないかではなく、クラスを幸せな問題解決集団に育てるために、やる。


一番多い「どうしたらいいですか」という質問への誠実な回答は、それだけである。

2023年7月24日月曜日

学級運営の困難さの根本・本質とは何か

 前号に続き、ルールの大切さに関する話。


学級を運営する難しさが世に広まって久しい。

かつての「学校の教員ぐらいなら誰でもできる」という認識は、一変したといえる。


これは一面、教員の「専門職」としての地位が向上したともいえる。

誰でもはできないことをするのが専門職だからである。

(例えば外科医をアルバイトでもできると認識している人はいない。)


学級集団は「安全・安心でかつ学習が快適に行えること」が条件である。

学習指導要領上に教えることが定まっている以上、学級の全員が好き勝手に行動されては、学習が全く成り立たない。

(ただし、学童保育のような空間でさえ、安全・安心すら保障するのがなかなか困難なのが現実のようである。)


そこで「全員が素直で大人しくすごしてくれる学級集団」が前提であれば、誰でも運営できるはずである。

かつては「大人の言うことは黙って聞く」が通用した時代があったのかもしれない。


問題は、そうではない現実が多数あるからである。

ある程度の困難や複雑な事情を抱えた子どもが複数いる学級が相手であれば、専門性がないと、肉体的にも精神的にも、もたない。

また子どもの背後には多様な考えをもつ保護者もいて、そこへの対応力も問われる。


学校教員の本分は、授業による学力形成である。

では授業ばかり一生懸命にやっていればいいかというと、そうはいかない。

授業を容易には成立させないあらゆる要因が数多存在するからである。


そうなると、そこの対応への専門的知識も必要になる。

集団への指導法であり「学級づくり」と呼ばれるものである。


学級づくりにも定石は一応あるものの、授業と同様、ほとんどの場合その通りにはいかない。

指導が困難な学級において、イレギュラーな事態が常態である。

またそういった学級に限らず、全ての学級担任にとって、特別な支援を要する子どもへの知識と技能は必須である。


諸々の難しさを生む根本・本質は何なのか。

どういう状態だと「運営困難」と感じるのか。


例えば「学力が低い」は、学校の本分からして、確かに問題である。

問題ではあるが、子どもが「授業を一生懸命に受けて学習している」のであれば、改善の余地がある。

恐らく、それだけで教員がノイローゼになることはない。

学級運営が困難ということとは、全く別である。


例えば不登校ということについても、学級運営の困難さとは別である。

極端な話、不登校の子どもは学級に対し、何か悪いことをしているわけではない。

あるのは問題ではなく、その子どものために学校に来て欲しいという周囲の大人の「願い」である。

(ただしここも無理をすると、子どもだけでなく周囲の大人にとっても苦しさにつながる。)


子どもに「主体性がない」「無気力」というのも問題になる。

しかしこれも、それで学級担任が病気になるようなことではない。

より良い向上のためには必要だが、あくまでゼロであり、マイナスの要因とはいえない。


では、結局何が困難さの本質なのか。

昨今の学級運営において困難、苦しいといわれることの根本・本質は「暴力・暴言」及び「身勝手なふるまい」の存在である。

そこで誰かしらが傷つき、困った状態が生まれることである。

端的に言って「人を傷つけない」というグランドルールが守れないことにある。

今挙げた学力低下や不登校というような諸問題の根本も、ここに原因があることが珍しくない。


暴力全般は、言うに及ばない。

誰でも痛いことは嫌であり、これは幼児でも十分にわかる。

学校で理不尽な暴力を振るわれるのにわざわざ行こうと思う訳がない。


暴力・暴行とは、物理的な力を無法、あるいは不当な目的に使うこと全般を指す。

人に限らず、器物破損や物への不当な扱い等も暴行の一種である。

学級運営で考える場合、「ほうきを振り回して遊ぶ」や「消しゴムや鉛筆を折る」「もの隠し」なども暴行の一つであるといえる。


暴言の方は、より幅が広い。

人の受け止め方次第だからである。

傷つく思いや不快な思いをするのは誰でも嫌である。


何かができないことを揶揄する。

馬鹿にする、罵る。

汚い言葉を使う。

相手が嫌がる言葉を言って喜ぶ。


全て暴言である。


暴言を意思の力で防ぐのは難しい。

自分以外の他者への暴言も苦痛である。

音声については、聞きたくなくても聞こえてしまうというのが、さらに厄介である。


これらを防ぐ手立てはないのか。

暴力・暴言に対抗し、社会において現実的に秩序をもたらしているものは何なのか。

それが、ルールの存在である。


ルールは本来、安全・安心を担保し、明るく楽しい社会をつくるためのものである。

ルールが無ければ、そこにあるのは混沌と混乱である。


このブログ上では繰り返し述べているが、学校教育とはルールの学習そのものである。

何が正しく、何が正しくないのかを判断する力をつけることである。

そのためには、ルールを守るということの意義と良さを教えていく必要がある。


ルールを守ろうとする態度がモラルである。

ルールを守らせる指導と同時に、自ら守ろうとするモラルを育てる指導が必要である。


ルールを守るというのは、集団社会における前提として存在する必須事項である。

「守らなくてよい」というようなものは、もはやその時点でルールとはいえない。


例えば、民主的教育の一つとしての「クラス会議」を考える。

クラス会議においては、ルールが明確にある。

「全員に平等に発言権が回ってくる」

「発言中は黙って聞く」

「否定しない」

等々である。

ルールを守るということが前提に指導され、運営される。


ルールを担保するのは誰なのか。

学級においては明確で、学級担任その人である。

ここを譲ったり緩くしたりすれば、学級は確実に大変になる。


「楽しく自由な学級」を目指すほど、ルールの遵守は必須である。

暴言や暴力が横行する場に、楽しさも自由も存在し得ないからである。

乱暴な言動に対してはずばりと指摘し、指導する気概をもたねば、やがて馴れ合いになり崩れていくのは目に見えている。


ルール指導の肝は、線引きとけじめである。

「時間を守る」などは、この代表格である。

原則は「この線から出たらアウト」という単純なものである。

ダメなものはダメとはっきりと言えることである。


だからこそ、ルールは多くし過ぎないことが大切になる。

無駄に多いと、ぎちぎちになり、苦しくなる。

一方で、ある程度設定しないと、多くの不都合が生じる。

最低限の絶対のもの、ぎりぎりまで絞り込むことである。


その点で「人を傷つけない」は、全ての社会的集団におけるグランドルールでもある。


ルールを守る指導の大切さは、強調し過ぎることがない。

夏休み明けは、4月の最初に設定したルールを再度確認することを怠らないようにしたい。

2023年7月17日月曜日

ルールの誤学習をどうするか

 前号に続き、ルールについて。

前号の最後に書いた通り、学校における学びとは、ある意味全てがルールの学習である。


英語の「rule」を辞書で引いてみる。

「ジーニアス英和辞典」によれば

1 規則、規定、規約、ルール

2 習慣、常習;常のこと、通例、習わし

3 支配、統治;支配の期間

4 規則;公式、解法

5 定規、ものさし

6 標準、基準

7 法理;原則;規範;裁判所規則

8 罫、罫線


訳語を見るだけでも、かなりの意味が網羅されているのがわかる。


例えば「空気」というのもルールに関わっている。

「空気」とは「暗黙のルール」である。


前号に取り上げた「風習」も「慣例」も、ルールである。

教育を通して、きまりを身に付けることになる。


学習の解法や公式もルール学習である。

生活全般において「こうすればこうなる」ということを知るのもルール学習である。


例えば「人を傷つければ叱られる、周りと距離を置かれる」というのもルール学習である。

ここを誤学習することがある。

「騒げば注目してもらえる」「人をからかうとみんなが笑って喜ぶ」「悪いことをすると先生が話しかけてくる」等々である。


学校生活において、誤学習は確実に起きる。

これをいかに防ぐか、そしてどう修正していくかの2点が学級経営のカギとなる。


ところで、最近「Chat gpt」というものが一挙に注目を浴びている。

簡単に言うと、ロボットチャットである。

AIが質問に答えて、作文をしてくれる。

文科省もこの導入に向けた取り扱いのガイドラインを出すほどの勢いである。


今後、読書感想文はこれにとって代わられる可能性が高い。

(なお、この文章を書いたのは4月のことであり、7月現在、文科省からは読書感想文にChat gptを使用することは「不正」だと明言されている。)


例えばこのロボットに「〇〇の読書感想文を書いて」と頼んでみる。

すると、現時点ではとんちんかんな作品の読書感想文を書いてくるが、文章自体はきちんと書けている。


以下『きつねの窓』を「小学生ぽく」という注文をつけて、数秒でレスポンスされて生成された文章である。


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「きつねの窓」は、真山仁さんによる児童文学作品です。

主人公の「ぼく」と白いきつねが出会ってから、お互いを認め合って仲良くなっていく話です。


きつねは最初は怖かったけど、次第にお互いを理解し合い、いい友達になります。

きつねには人間にはない感性があり、それを通して自然の美しさも教えてもらえます。


でも、ある日きつねは人間に追われることになってしまいます。

主人公はきつねを守るために、勇気を出して奮闘します。

そこから物語は、主人公の成長やきつねとの絆が描かれます。


この本からは、自然や異なる生き物との関わり方を学ぶことができます。

きつねとの交流を通じて、思いやりや勇気を育んだり、大切なものを守るためには努力することが大事だと感じました。


文章がやさしくて、きつねと主人公のやりとりが楽しいので、読んでいてほっこりした気持ちになりました。

自然や動物が好きな人には特におすすめです!


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いかがだろうか。

冒頭からもはや別の作者で違う物語になっているが、これがもし正確に把握されるようになったら、という話である。

何なら、ベースの部分としてとりあえずロボットに書いてもらって、これに適当に修正して付け足しても完成する。

更に言うと、文章が気に入らない場合、注文をつけて「再生成」の命令をすれば、また違った文章を提案してくれる。


そうなると、自分で考えて書いた作文なのかの「不正」かどうかの判別がかなり難しい。

というより、自分で文章に修正を少しかけた時点で、ほぼ完璧に不可能である。


夏休みの読書感想文の「最優秀賞」が実はほぼロボットだったという事態になる日は眼前で、既に空想科学の世界ではない。

今(4月)の時点でこの性能なので、夏休み明けまでには相当成長しているはずである。

今年度、夏休みの宿題として読書感想文を出すべきかどうかは、検討に値する。

「真面目な子どもが馬鹿を見る」という事態になりかねないからである。

(「熱心な親」が「少し手伝った」作品が高評価されるというのと根本は同じかもしれない。

 夏休みの宿題は、子ども時代から大人になっても、いつも空虚である。)


このAIプログラムは、ディープラーニングによって機能改善していく。

みんなが改善の提案をする、即ち教育することで、ルール学習により、より賢くなっていく仕組みである。


この学習方法には欠点がある。

誰かが悪いことや誤ったことを教えると、それをデータとして学んでしまう。

誤学習である。

その数が一定数を越えると、それが正しいと思い込んでしまうのが大きな欠点である。


この誤学習を防ぐことは難しい。

悪意のある人間でも容易にアクセスできる以上、情報の混乱は避けられない。

集団で動けば「特定の思想」を学ばせることもできる。

ここに対しては、集団で修正をかけていくしかないが、いたちごっこになる可能性がある。


この学び方は、子どもが学ぶ場合と共通点が多い。

要は、所属集団がどういう思想をもっているかで、子どもがそれを自然と学ぶのである。

そしてそこに修正をかけられる存在が、教師である。


学級の最初は、子ども同士のつながりが希薄なことが多い。

そうなると、分断された空気に支配される。

「自分を守る」ために、放っておくとあまり関わらなくなる。

ここをつなげていくのが、担任の最初の仕事になる。


話があちこちにとんだが、要はルールに対しての修正とディープラーニングが大切ということである。

修正担当は教師だとしても、ディープラーニング担当は、子ども集団になる。

よりよいルールを学べる集団に育てていきたい。

2023年7月9日日曜日

学校における服装、髪型からルールの意義を考える

 以前、卒業式と髪型に関することが世間で話題になっていた。

本人の「出生ルーツ」にまつわるというあの話である。

学者や芸能人もコメントをしており、いわゆる「炎上」状態であった。


不親切教師のススメ』第5章において、髪型や服装の問題についていくつか書いている。

これらの問題については、以前より関心事であり、今号はここについて補足的に書く。


先に断っておくが、件のニュースそのものについては、コメントできない。

なぜならば、どのような背景や前提条件、事実があったのかが、外部からさっぱりわからないからである。

ルールの有無も事前交渉の有無もそれまでの指導のやりとりの経緯や人間関係等、背景となる文脈が全くわからない。

見えない、知らない、わからないという情報不足の状況に対して、いずれかの善悪を公平に断じることは不可能である。


ニュースとは別に、学校における服装、髪型におけるルールや風習ということについて書く。


まず、服装や髪型においても、場のルールに従うというのは大前提である。

例えばスポーツの各種大会において、ユニフォームを着ないで試合に参加することは認められない。

ドレスコードのあるレストランにおいて、そこに引っかかる服装では入店拒否があり得る。

接客業等であれば、髪型が規定されている場合、それはアルバイトであっても守る義務が生じ、守れない場合減給や解雇につながる。


学校の場合も、それが正式に規定されている時には、児童生徒にはそれを守る義務が生じる。

ただ学校が他の組織と全く違うという特殊性は、児童生徒に対し懲戒を加えることができるが、罰を与えられないという一点にある。

特に義務教育においては、ルールを守らなくても、一般社会のように「除外」が認められることはまずない。

罰を与えられない以上、ルールを守るどうかは、児童生徒自身の自己決定に全てがかかっているといえる。


そして、そのルールが妥当であるかということへの検討も常に必要である。

問題があると思われるルールの改変や例外規定についても検討する必要がある。

時代の流れにおいてもはや不要になったルールというのもかなりある。

様々なことが旧くなってしまった現代の学校には、この検討こそが重要である。


ルールではない風習のようなものもあり、これもあだやおろそかにはできない。


例えば高校野球においては、長年にわたり坊主頭が「常識」として風習化していた。

(高野連は坊主頭をルールとしては規定していない。)

しかしここ最近の世界の潮流に沿って、少数派ではあるが坊主頭以外で出場する学校も出てきた。

そもそも坊主頭はルールではないので、大会運営上も一切構わないはずである。


それでも、依然として坊主頭が「正しい」という風潮はある。

坊主頭を部活動参加上のルールとしている学校やスポーツ少年団等も、恐らくかなりある。


その設定ルール自体が悪い訳では決してない。

各組織には、組織をよりよく維持していくためのルール設定の権限がある。

設定ルールに合理性があるなら、尚更である。

そこに文句があるなら、組織のメンバーが自らルールを変える運動をする必要があるというだけである。

かつて理由があってできたルールであり、下手に変えない方がいい場合もあり得るため、関係者同士でよくよく検討する必要がある。


学校においても同様である。

ルールにおいて「〇〇を認めない」と明示されていることに対しては、個人の勝手な判断で破ることは認められない。

個人的にその「○○」をどんなに良いことだと思っていても、である。


不親切教師のススメ』P.143より引用する。(ブログ上での見やすさを考えて一部改行)

==============

(引用開始)

「木登り禁止」というルールがある学校は多い。公園にもある。

子どもの主体性の向上を目指す不親切教師としては、余計なことまでわざわざ禁止しない方向で考えるのだが、

学校ルールとして予め禁止されていることに対しては守る方向でよりよい指導を考えていく必要がある。

(引用終了)

==============


個人的には、運動機能の発達のために木登りはした方がいいと考えている。

しかし、安全第一の学校という組織においてそれは認められない。

木には蜂の巣が作られていることもあり、確かにそこに一定以上の危険性がある。

その合理性にもある程度以上納得しているため、そのルールを変えようとも思っていない。

(大規模校ほど子どもの数が多すぎて目が行き届かず、色々な子どもが在籍しているため、大きな事故の可能性が高まる。)


だから、ルールを守った上で、次善の策をとっていく。

例えば「教師が見ている場合のみ可」というような条件付きの場合のルール改変を交渉する。

あるいは、登り綱のような「運動機能の発達に貢献する」という目的に合致する、木登りに代わる別の手段をとる。


「ルールに従う」を基本にして、問題があると感じるなら「なくす」や「一部変える」といった交渉をする。

あるいは、ルール上で行える次善の手を打っていく。

こういったことを、教職員や児童生徒がそれぞれ主体性をもって行うようになっていくことが大切である。


卒業式の服装や髪型については、各校の判断に任されている。

例えば「出席に際し、なるべく華美な服装や髪型はお控えください」という学校からの便りを出す場合がある。

これは「禁止」というルールではなく「お願い」である。

破っても罰せられることはないが、できればこうして欲しいという緩やかなスタンスである。


ちなみに、なぜ「華美」を避けたいとわざわざ伝えるのか。

いくつかあるが、最も合理的な理由は、家庭間経済格差や経済負担に対する配慮であることが多い。

不親切教師のススメ』で制服や体操服の合理性について書いたが、あれと同様である。

ルールやお願いには、単に学校の都合の場合もあるかもしれないが、そうでない場合もかなりある。


こういう風にすると、大方が華美な服装や髪型は避けて出席する。

一部敢えて華美にしてきたとしても、それは各家庭の判断であり、ルール上も問題なく、特にふれる必要はない。

家庭の方針によっては「ここ一番」に力を入れたい気持ちもよくわかる。


大体が守ってくれてさえいれば、大まかにはお便りの目的が達せられることになる。

全くお便りとして出さない場合を考えると、各ご家庭で「他のみんなはどの程度まで着飾るのか」とやきもきする可能性が出る。

ある程度緩やかに「スタンダード」を示したといえる。


一方これを「禁止」と明示する場合、そんなに穏健にはいかない。

学校側としては、公にルールとして示した以上、徹底的に守らせる必要が出る。

禁止事項に従えないやんごとなき事情があるのであれば、交渉に応じる必要も出る。

「ルール」として定めるというのは、それなりの覚悟が必要になるのである。


まとめると、ルールというのは強力な「正義の諸刃の剣」である。

設定されたからには、それを正義として守る必要と守らせる必要が出ることで、戦いや争いに発展する可能性を含む。


なぜならば、破ったことを放置しておけば、不当に破った側に実権を奪われる形になってしまうからである。

加えてもっと悪いことに、誠実に守った人間が組織に対し大きな不信感と反発心を抱くからである。

何が正義かわからないという状況は、組織を混沌に陥れる。


ルールというものは効果が大きい分、負担も大きい。

ルールの妥当性を常に吟味し続ける必要も出る。


学校教育とは畢竟、ルールの学習と言っても過言ではない。

ルールをどう考えるかは、教育をどう考えるかと直結しているといえる。

2023年7月2日日曜日

マスク着脱問題から教育の本質を考える

 3月末、学校でマスクを外すことを奨励しはじめた頃にメルマガ上で書いた記事。

今とは、感覚的に多少ズレがあるかもしれないが、それを比較するにもいいのでそのまま転載してみる。



最近、行く先々で「不親切教師の」という枕詞付きで紹介される。

認知度を上げてもらい、有難いことである。


「自分もそれ(不親切)を心がけてきた」という方にも多く出会う。

教育の本質を真剣に考えた場合、手のかけすぎの弊害は大きいため、必然的にそうなる。


さて、そうやって子どもの主体性を求めていくと、壁にぶつかる。

「やるべきことをやらない」あるいは「自分から動きださない」という類の壁である。


見守っていればやがて動く、という考え方もある。

しかしこれは、あまねく全員に、あるいは全てのことに当てはまることではない。


なぜならば、その価値について、肚落ちしていないからである。

価値を感じてない以上、いつまで経っても主体的に取り組むことはない。


しかし「価値がないと感じることはやらない」という姿勢は、成長の妨げになる。

その価値を見出すというのは、体験を通して初めてわかるからである。


ごみ拾いやトイレ掃除一つとってもそうである。

道端や公園等に落ちているごみなんて拾わなくても自分には何も問題ないと思える。

公共の場のトイレなんて汚した人が掃除すればいいのであって、自分には関係ないと思える。


全くその通りである。

自分の家の敷地ならまだしも、公共の場のごみをそのままにしておいても、自分に何ら影響はない。

ましてどこかのトイレが汚いのだったら、担当の清掃員さんの仕事であると考えるのが(特に欧米諸国では)自然である。


しかし、意味がないと思っても拾ってみる。

汚いから嫌だと思っても、トイレの掃除を思い切ってやってみる。

実際に「意味がないと思っていること」をやってみると、自分の中に何かしらの「気付き」が生まれることがある。


その「思い切って」は、きっかけがないと難しい。

ここが「善意の強制 価値ある強制」の教育の出番である。

(何度も紹介しているが、『師道』(さくら社)にある、野口芳宏先生の言葉である。)


できればやりたくないと思っているだろうことを、やらせる。

あるいは、やるものだと思う状況に追い込む。

この価値と効果は大きい。

(効果が大きいが故に、誤った方向に導く可能性があることも、常に頭に入れておく。)


「やりたいことをやればいい」

ということと

「やった方がいいことはやるべき」

という二つを両立させる必要がある。

「中庸」ではなく、両方とるのである。


最近「マスクを外すかどうか」がよく話題に上がる。


今までは「マスクを付けること」の方を強制していた。

これは教育的な「善意の強制」ではなく、国としての安全確保のための強制、命令、ルール化である。

これには当然のことながら、反発心を抱く人も少なくなかった。


今、選択できる状況になった。

文科省からもマスクの着用を求めないことを基本とする方針が出ている。

「どちらでもいい」という選択肢である。


本当にそれで良いのだろうか。


マスクは本来、健康上の理由で付けるものである。

ウィルスの脅威が以前のようなものではなくなった今、学校生活で日常的に付ける必然性はかなり低いといえる。


人間の顔に表情があるのは、コミュニケーションのためである。

マスクがあると、そこがかなり阻害される。

そもそも、表情以前に個別の顔自体がわからないのである。


選択肢があると「周りの人が外さないから」という理由で外さない。

顔を隠す目的の正当化である。

特に思春期においては自分の外見が周りにどう見られているかが必要以上に気になり出すので、尚更である。


ここは思い切って外すということを「強制」して求めないと、なかなか外せない。

これは良くも悪くも日本人的なところで、全員そうするとなれば、そうする。

「自分は本当は外してもいいのだけれど周りが・・・」と思っている子どもたちが、ここでやっと外せる。


確かに、いきなりそれをやるのは横暴である。

散々「マスクを付けろ」と命じてきたのはどこの誰なのかという話にもなる。

ある程度段階的に求めていく必要はある。


ここで言いたいことは「善意の強制 価値ある強制」が存在するという点である。

子どもの主体性を信じる、自主性に任せるということ自体は時代に合っているし、価値がある。

しかしながら、教師が子どもに一切求めることを止めた時、それは教育ではなくなる。


『不親切教師のススメ』でも述べているが、子どもを自立へと促す行為が本当の親切教育である。

放っておいて自立するなら苦労はない。

自立に役立つこと、価値あることならば「強制」してでも求めていく覚悟が必要である。


子どもの成長にとって何が価値あることなのか。

時代の流行を掴みつつ、その底流に流れる本質の不易も忘れない不断の努力が必要である。

2023年6月26日月曜日

不親切の哲学「その移動は整列すべきか否か」

 「不親切の哲学」シリーズその3。

今回のテーマは「その移動は整列すべきか否か」。


学校には「並んで移動」というきまりがあることが結構多い。

これは、周囲への配慮によるものである。

子どもがバラバラに勝手に廊下を移動すると、周囲に迷惑だったり不都合だったりするからである。


例えば、授業中なのにも関わらず、廊下を大騒ぎして歩く子どもたち。

確かに邪魔である。

声の小さな子どもの発言中だと尚更困る。

担任と共に整然と並んで歩くことで、「静かに」と指導しながらこの時間を短縮することができる。


後は、大人数が一堂に会する時。

入口が一つしかない体育館へ全校児童が集まる場合などである。

一定の秩序が必要になる。


最も大切なのは、緊急避難時。

学校規模が大人数であればあるほど、集団として規律ある素早い整然とした移動が必要になる。


逆に言えば、こういった「時間と空間の制限」がある特別な条件下でなければ、移動に整列は必要ない。

例えば休み時間中に運動場に出て授業時間までに集合するのであれば、移動は三々五々で構わない。

また、もしも「静かに素早く目的の場へ直行」が個々にできるのであれば、授業中であっても問題ない。

(大方、これができないので不採用になりがちである。)


また、近くの特別教室に移動する時にも整列は必要がない。

(理科や図工、音楽などの専科教員の授業があって移動する際には、指示の都合などで一斉に入ってきて欲しい場合があるので、この限りではない。

ただし、整列が遅い一部の子どもを待ったせいで遅刻して全員が叱られるという事態も全国的によくみられる現象である。)


また、一斉に大人数が移動するよりも、個々で移動した方が空間的にも余裕ができる。

大行列で移動されていると、その間は他の人が横断できない。


要は、「何のために」が抜けると、画一的になるということである。


確かに、全てに思考を働かせていては能率が悪いというのは事実である。

脳はそれを嫌うので、無思考で動ける習慣を多くにデフォルトとして採用する。

「何でも移動は整列」となりがちなのも、脳の性質からして当然なのかもしれない。

考える面倒を省いているのである。


しかしである。

学校とは、考える力を鍛える場である。

ある意味、面倒なことやちょっとした無理をわざわざするための場である。

無思考で従うだけの場面は極力なくしていかねば、今の教育の現状は変えられない。


整列文化は日本独自であり、被災時の無用な混乱を避けられるという大きなメリットもある。

だからこそ、「何のために」の視点を常にもちたい。


その移動には「整列」が本当に必要なのか、否か。

その行為は子どもをどう育てることに繋がるのか。

こんな些細なことの中にも、ねらい、考え、哲学をもってあたりたい。

2023年6月19日月曜日

不親切の哲学「家庭教育へ干渉しない」

不親切の哲学シリーズ第2弾。

家庭教育への干渉について。


不親切教師は、基本的に家庭教育に干渉しない。

次の条文がその法的根拠である。


教育基本法(家庭教育)

第10条 

父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,

生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,

心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

2 国及び地方公共団体は,家庭教育の自主性を尊重しつつ,

保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。


(以上、文部科学省H.P.より引用)


この条文にあるように、子の教育について第一義的責任を有するのは「父母その他の保護者」である。

当たり前だが、たまたま一年程度を一緒に過ごすだけの「担任教師」ではない。

教師が保護者と同じだけの責任を有するはずはなく、当然それに伴ってそんな大きな権利ももっていない。

両者を比較することすら憚られる。


ただし、一切干渉しないという訳ではない。

上記2にあるように、「家庭教育を支援する」ということも時に必要だからである。

(一切必要ない家庭が多数ある。)


例外的な干渉の場面として、子どもを守るために行動することがある。

例えば虐待の疑いがある家庭とその子どもを放置する訳にはいかない。

しかしそのような子どもの最低限の権利を守るという目的以外であれば、余計な干渉をしないのが基本である。


土日の子どもの過ごし方や服装にまで指導が入る学校も結構ある。

学校の生活指導との一貫性をもたせたいのかもしれないし、やむを得ない事情があるのかもしれない。

ただ、家庭の側からすれば、はっきり言って、大きなお世話と思われている可能性もある。


しかし逆に言えば、もし土日の過ごし方そのままで子どもに学校に行かせる保護者がいるとすればどうか。

家庭教育の方針でやっていることの失敗を、学校に何とかしてくれと要求してくる保護者がいるとすればどうか。

その学校の過干渉は、そういった実態があるせいでもあるかもしれない。

家庭の方針を学校に持ち込まれれば、学校も家庭教育の方針にいちいち細かく口を出さざるを得なくなる。


このまた逆もありきで、学校が無駄に家庭の教育方針に口出しすれば、家庭の側も無駄に学校の教育方針に口出しをするようになる。

物体は押した分だけ同じ力で押し返すという物理の法則にも沿った、自然の摂理ともいえる正常な反応である。


我々は、知性があるのだから、選択ができる。

お互いで首を絞め合うか、お互いで支え合うか、どちらか選べる。

どちらが幸せかは明白である。


不親切の哲学として、節度をもつことである。

家庭と学校の線引きをする。

それも、お互いにである。


保護者が学校に

「うちの子がオンラインゲームのボイスチャットで暴言を吐かれた。相手の子どもを指導してくれ」

と相談したとする。

もうこれは既に「今後、家庭教育に学校が口出し、制限してもよい」ということと同義である。

この場合の学校として最も有効な対策は、全家庭にボイスチャット付きゲーム全般を一切禁ずることである。

それに有無を言わさず全員従ってもらう。

それ以外にない。


該当の子どもに「暴言を吐くな」と指導しても無駄である。

興奮している状態で悔しい思いをすれば暴言も出る。

ゲームをした経験のある人ならわかることである。

発達心理学的に見ても、社会行動心理学的に見ても、至極当然の反応である。


それが嫌なら、家庭の側で100%完全に何とかすべき問題である。

この例は、明確に家庭教育の課題である。

「相手の子どもの口が悪い、指導して相手を直せ」とかそういう問題ではない。

そういうことが起き得ると想定しているからこそ、ゲームには推奨年齢や年齢制限がある。

自らの選択に伴うトラブルが嫌なら、家庭内で制限して、その選択自体をやめるべきである。


これは、スマホ所持や習い事、地域スポーツ、その他全てのトラブルに言える。

家庭教育で選択した結果の不満を、学校に怒鳴り込むのは完全にお門違いである。


一方学校の立場で言えば、子どもの学力が全体的に低いのは、学校の責任であると捉えるのが健全である。

学力をつけるのが学校の存在意義だからである。

家庭教育の時間にそれを強く求めるのは間違っている。

授業改善など学校として、学校内でできる対策が必要である。


一方で、我が子が他と同じようにできないことの責任のすべてを、学校にあまり追求しすぎるのも考えものである。

例えば授業中にやるべきことをやらずにぼーっと過ごしたり寝たりしていれば、優れた授業であっても学力をつけようがない。

学校に要求する前に、生活習慣を整えてきちんと寝かせてくださいと言いたい。

そこには、家庭教育として考えるべき課題も混在する。


これは、教師と子どもという関係性にも当てはまる。

子どもの課題には首を突っ込まないことである。

そして教師の課題に対し、子どもの責任を求めないことである。

アドラー心理学でいう「課題の分離」である。


不親切の哲学その2をまとめる。

不親切に見えても、線引きをする。

首を絞め合わずに、支え合う。

以上である。

2023年6月11日日曜日

哲学ある不親切

 月に一度程度だが、様々な場の清掃活動をやらせてもらっている。

「ボランティア活動」と勘違いされそうだが、明確に違う。

単純に、それをやっている人と仲間が好きだからである。

そこに行くと、楽しいからしているのである。

早朝の活動に間に合うように、わざわざ近くに前泊して向かうこともある。

好きでやっている趣味や学習の一環である。


大体そういう場に集まる人は、みな一様に明るく社交的でエネルギーに溢れている。

そういう場にいるからそうなるのかもしれない。

ニワトリが先か卵が先かはわからないが、そういう場である。


こういった活動に参加する時は、やることがないという手持ち無沙汰状態が最も困る。

勿論そうならないよう、自分でやれる仕事を自分で探して動くのが基本である。

清掃の場合、あまり綺麗すぎる場よりもそうでない場の方が仕事が多く、取り組みやすい。


この活動の場で誰かに「これをお願いできますか」と言われると、嬉しい。

自分の役割が明確化するからである。

わざわざ何かしに来ているのだから、やれることが多くあった方がいいのは当たり前である。


学校や職場全般でもこれは言える。

遠慮して頼めないという人は、実は相手にとって有難くないことが多々ある。

全部自分でやれる能力のある人、責任感のある人ほど、陥りがちである。

それをやれる人、得意な人にはどしどし頼んで、自分は自分がすべきこと、得意なことに注力すればよい。


不親切教師のススメ』では、ここを強くすすめている。

子どもが自分でやれそうなことは、一切やらない。

子どもができそうなことは、全て頼みまくる。

結果的に、やっている子ども自身に力がつき、自信につながる。


では一方で教師は何をするかというと、教師にしかできないことをする。

ここのみに集中する。


例えば、授業をすること自体は、明確に教師の仕事である。

学びの主役はもちろん子どもだが、授業自体は教師の仕事である。

例え子どもが中心となって進める授業のファシリテーター役であっても、やはり明確に教師の仕事である。


また、学校におけるグランドルールの担保も教師の仕事である。

「廊下を走らない」は子ども同士が声かけをすることはあれど、その秩序を破って事故が起きた場合、責任は教師にある。

つまり、子どもの行動に対する責任を取るのが仕事ともいえる。

この責任は絶対に子どもに委ねられない。


そして最終的に教師が処理できない場合は、管理職の責任となる。

教室でも学校でも「上の立場」というのは、人間的に偉いとか尊いとか関係なく、仕組み上そういうことで上なのである。

(それをしてくれるからこそ、偉いともいえるし、多少口うるさく言う権利もあると言える。)


一方で、学級会で決めたルールであれば、子どもたち自身が責任を担保する必要がある。

自分たちで選び取ったものなのだから、当然である。


子ども同士のけんかもそうである。

子どもが自分で解決できること、解決せねばならない課題であり、本来教師がやるべきことではない。

(教師がいつも解決してあげていると「けんかしてます!」と子どもが嬉しそうに報告するようになり、悪循環にはまる。)


授業をするのは教師だが、学習そのものは、子どもの課題である。

子ども自身が自分の課題と自覚して取り組まない限り、真の学力向上はあり得ない。


学級経営は教師の仕事だが、教室とその人間関係は子どもたち自身のものである。

教室のあらゆることについて自分たちでケアして、改善して、楽しいものにしていく権利がある。

教師はそこを助けることはあるとしても、中心となって手出し口出しをすべきことではない。


教室のことを、どんどん子どもに頼むこと。

大抵のことは気持ち良くやってくれる。

いや、頼む、やってくれる、という表現さえもおかしいのかもしれない。

教室のあらゆることは、子どもたち自身のものだからである。

学校そのものが、子どものために存在するものだからである。


不親切教師のススメ』における不親切とは、単なる不親切ではない。

哲学のある不親切である。


学校は、何より子どもが成長するために来ている場である。

子どものできる力、伸びる力を信じて、積極的に任せていきたい。

2023年6月4日日曜日

歴史を否定して肯定する

 6年生で歴史の授業をする。

そうすると、子どもたちからは当然

「何でそんな馬鹿なことを?」

という疑問が出る。


一番わかりやすいところだと、卑弥呼の時代はシャーマンが最高の地位であり占いで全て決めていた、というようなことである。

あるいは、平安時代は病気になると悪霊が憑りついているとみなして、お祓いで治そうとしたことなどである。

どちらも、論理的とも科学的とも言い難い方法である。


しかし、当時としては意味があるし、実際にそれで世の中が動いていたのである。

雨雲レーダーなどない時代の人々にとっては、雨乞いの効果を信じることは心の救いになる。

ウィルスの概念など到底ない時代のお祓いによる病気の治療に関しては、プラセボ効果があったと考えれば、無意味とは言えない。


戦国時代に国内で殺し合って天下統一の平和を目指すことも無意味に見えるし、他国と戦争をしたこと自体も過ちにしか見えない。

(実際は天下統一が世の平定への道筋にもなっている。刀狩りも実は人々の無用な争いを防ぐことに貢献している。)


野口英世が発見した数々の研究実績は現代では誤りとなったが、それらが無意味だったということでは決してない。

科学は常に否定を繰り返してきており、現代では量子力学の登場によってニュートン力学は既に「古典力学」と呼ばれている。

地球が丸いとわかるまで、かつて地球は平らだったし、海の果てには全てを食らいつくす怪物がいたのである。


つまり、後の世で「間違いだった」というものでも、その時代にとっては正真正銘の「解」なのである。

タイムマシンで過去へワープして正すべきことではない。


実際その当時生きていた人たちになってみれば、考え方は全く違うはずである。

歴史を学ぶ上で「過ち」と感じるのは、それが既に過去となった未来にいるからこそである。

事が起きた後に「自分はこうなるとわかっていた」と言うのと同じレベルである。


正誤の判断は、その時代の価値観がベースである。

つまり、今から見て過去を非科学的とか誤りと見えたとしても、大切なのは、それを今にどう生かすかという視点である。


前置きがとんでもなく長くなったが、『不親切教師のススメ』で主張していることもそれなのである。

今それをやり続けるのは、もう誤りになるのではないかということである。

かつての時代に、それに対し全身全霊かけてやっていたこと自体を否定しているのではない。


例えば私は、集団競技に熱中していた時期がある。

「クラスみんなで」「一丸となって」を信条としていた時期がある。

今は、ほぼ一切やらない。

やらざるを得ない場面になっても「ぼちぼち楽しもう」という感覚である。

一方で、その当時の子どもたちに申し訳なかった、とも思っていない。

その時考え得る最善を尽くしたつもりである。


初任者の時にもった子どもたちが私から受けた授業レベルは私史上最低だったが、やり直すべきとも思っていない。

ただ、同じ授業を今目の前の子どもたちにやりますかと言われたら、明確に「やらない」と答える。


全ては、過去に最善と思われる解だったのである。

今やっていることだってそうである。

やがては否定される時が来る。

そうでなくては困る。


だから、変わる必要がある。

かつて良かったからといって、過去と全く同じままというのはまずい。

一方で、過去を全否定して全部変えてしまえばいいというのも違う。

「不易流行」の言葉の通り、不易と流行の二つは同根である。


ルールを見直す必要があるという主張もそこからである。

例えば、服装や行動様式その他に関して厳密なルールがある学校も存在する。

それは、かつて必要だったのかもしれないが、今にマッチしているだろうか。

学校が滅茶苦茶に荒れていた時代の基準を今にもってきていないだろうか。

また一方で、学校の掲げる理念によっては、それが今も明確に必要という場合だって十分に有り得る。


否定と肯定は正反対の概念ではない。

禅問答的に表現すれば、否定とは肯定である。


例えば子どもを叱り正すことも、否定を伴う肯定である。

叱る行為を全否定するのも違うし、全肯定するのも違う。

叱る行為一つをとっても、否定であり肯定なのである。


不親切教師のススメ』は、現在の教育について否定しながら肯定している。

教育の未来は必ずよくなるのだから、その一助になりたいと切に願う。

2023年5月28日日曜日

これを好む、楽しむものには如かず

 『不親切教師のススメ』とそれに関連する記事が各所で反響を生んでいる。

有難いことである。

今年の頭にも、毎日新聞の小学生版の1面で持久走についてのインタビュー記事を載せて頂いた。


毎小ニュース『その持久走、時代遅れ?』


ここで一つ、メルマガ読者の皆様は知っているかもしれないが、はっきりさせておきたいことがある。


例えば私は、ドッジボール遊びが好きである。

基本的にサッカーやバスケなどのスポーツや競争、ゲームといった対戦型の勝負を好み、やるからには勝たないと気が済まない。

そして、小学生の頃から断続的ではあるが、早朝ランニングを今でも続けている。

(そのせいかこれまでの生涯を通して早寝早起きである。

一方で夜遅くまで起きているのは大の苦手で、ここ十数年は除夜の鐘をきいたためしがない。)

今年の正月には市の元旦マラソン大会(マラソンと名はついているが走行距離3kmのレジャー参加)にも出ている。


なぜそういうことをするかというと、私がそういうことをするのが好きな人間だからというだけである。

他人が自分と同じ感覚である必要など全くないと考えている。


苦手分野の話もする。

書字が苦手な分、書の見事な人に対し、年齢を問わず心底敬服している。

賞状を筆で見事に書ける人には頭が上がらない。

一年生担任をさせてもらった時に書家の先生が筆で

「まつおひであきせんせい」

と書いてくれた新入生向け担任紹介のための長い紙を今も大事にとってある。

立派な習字作品や整った字を書く子どものノートを見ると、心からすごいと思い尊敬する。


では、各種記事との整合性がないかといえば、全くそんなことはない。

私が批判しているのは「みんなで」「一斉に」「揃えて」という点である。

ドッジボール、マラソン、ランニング、書き初め等、それそのものへの否定では決してない。

(もちろん成人式という行事自体も、新成人になる未来を担う若い方々も素晴らしいと思っている。)

嫌がっている人たちに無理にさせること、それによってそれらを憎み誤った方向へ導くことへの疑問を呈しているのである。

給食で苦手なものまで無理矢理食べさせない方がいいというのと同じ方向の理由である。


思い浮かべてみて欲しい。

自分自身の大好きなもの、こと、人などのことを。


そこに対し、誰かが強制的に嫌々ながら関わるとする。

例えば、自分が心から大好きなことや人、あるいは自分の大好物の○○。

これを無理矢理与えられた人が「嫌だ」とか「嫌い」とか「まずい」とか罵っている。

自分はそれをどう思うだろうか。

自分の好きなものをわざわざ嫌いになられて、何か嫌な気持ちになったり、傷ついたりしないだろうか。


それを、無理にでも嫌がる人に与えたいだろうか。

私自身がそれを好きならば、もうそれでいいのではないだろうか。

別にそれを好まない他人が無理に手にする必要はないのではないか。


動物は、見事な食物連鎖のバランスの中に生きており、自分の好まないものは絶対に口にしない。

モンシロチョウの幼虫は決まった葉しか食べないし、逆に羽化したら葉は食べないで蜜を吸う。

羊は生涯草を食み、肉は食わない。

そして、全ての生き物同士は、食う食われるの必要な関係はあれど、わざわざ無用な争いをしない。

また、環境的にも自らが適応できる場所でのみ生きる。

他の生物の生きる場を侵略することもない。


つまり、好まないものを食べたり、好まないことを無理にしたりするのは、地球レベルで見ても不自然な姿なのである。


自らが好むものをするのが一番である。


ただ人間である以上、社会に生きる上で、強制されるべきこともある。

それは、安全など公共の福祉に関する義務やルールである。

日本で車を使って走行したいなら、世界スタンダードに合わせて道路の右側を走りたくても、左側を走ることを強制される。

ここは当たり前である。

選択肢なぞ一切ない。

強制されて素直に従うべきところである。

(世界スタンダードに合わせて法改正をしようとかいう話とは全く別である。)


一方で、運転したくない人、運転に自信のない人が無理矢理運転をする必要はない。

むしろ積極的に止めて欲しい。

同様に、走りたくない人が無理にマラソンを走る必要はない。

安全面から考えても、逆に危険である。


実際、全国の学校謎ルールは合理的とは言い難いものがかなりある。

それらは本当に一斉強制されるべきものなのか、見直しませんかというのが提案の内容の主旨である。


やりたくないことを嫌々無理してやったところで、その成果などたかが知れている。

合理的に考えても、好きでやっている、楽しくてやりすぎてむしろ止められているような人間に、かなう訳がない。

文科省でも個性と多様性とを認めようと大々的に旗を上げているのである。

公務員なのだから、その命ずるところにきちんと従うべきである。


好きこそものの上手なれ。

無用な一斉強制教育の洗い出しと排除は、現在の教育改革の大きなポイントである。

2023年5月20日土曜日

無理なく選べる働き方改革を

 無理をしないということについて。


働き方改革とは、定時に帰ることではない。

それぞれの願いに沿った働き方ができるようになることが肝要である。


働く人の中には「定刻退勤」こそが願いに沿う人たちがいる。

子育てや介護、あるいは仕事とプライベートを分けて生きている人など、事情も理由も十人十色である。

ここにとっては、望まない残業は理不尽であり「無理」になる。


働く人の中に「仕事こそ生き甲斐」という願いをもつ人たちがいる。

仕事をしている時間が何より好きで、プライベートは一切興味なしという人もいる。

大学に勤めているような研究肌の人には特に多いのかもしれない。

あるいは、時間外になってゆっくり仕事をしたいという人も多くいる。

ここにとっては、定刻で早く帰らされることが「無理」になる。


要は、無理強いそのものがよくないのである。

残業時間自体が多いことが問題となっているが、そこは問題の表層であり、本質ではない。

規定時間外の枠を、本人の願いに沿ってどうするか選べなかったことこそが問題の本質である。


部活動の地域移行についても同様である。

部活動に嫌々従事していた人にとっては、万々歳だろう。

しかし放課後でも土日でも部活動をしたい人にとっては、それを取り上げられる形になるかもしれない。


今は多様性の時代なのだから、「選べる」がキーワードである。

子どもたちの立場からしても、部活動は本来「選べる」ものだからこそいいのである。

教える立場からしても同様である。


この点は、学校教育の中において、子どもの側の方が早く移行してきた。

部活動自体を選べるのはもちろん、入るか入らないかも決められる。

小学校の時点から放課後の時間の使い方について裁量権が与えられており、家庭教育に委ねられてきた。


ここで働く大人の側も、裁量権を多くして無理なく働こうという動きである。

流れとしては正常化としてとてもいいのである。

しかし、これまでの体制と大きく異なるために、あちこちで一時的に歪みが起きている状況である。

今までと大きくやり方を変えるというのは、一時的にパフォーマンスが落ちることが多い。


教育メルマガなので、身近な指導の例で考える。


例えば、各校で取り組んでいるであろう縄跳び。

ある日、一年生の子どもが二重跳びを上達させたいらしく、休み時間に一生懸命に跳んでいた。

3~4回ほど跳べるのだが、そこで毎回引っかかる。

縄が回し切れないのである。


さてよく見ると、縄が身長に対して非常に長い。

片足で縄を踏んで両手で引っ張ると、頭の上まで上がる。

逆によくこの長さで二重跳びが数回できていたものだと感心した。

(ちなみに、前跳び等を覚える初期段階や交差跳び系は長めの方がやりやすい。)


私は親切にも、この子どもの縄跳びの長さを調節してあげた。

「常識」的に二重跳びで回しやすいであろう、胸の上ぐらいの位置の長さに調節してみたのである。

言うなれば一般的に「正解」の長さである。


どうなったか。


跳べずに1回目で引っかかった。

次も、次も、そのまた次もそうである。


よくよく考えたら、本人としてはあの長さで回していたやり方のままなのだから、当然である。

急に短くしすぎたと思ったので、目の高さぐらいまでに再調整したら、一気に連続で跳べるようになった。

(心からホッとした。)


要は、旧来のやり方が身に付いている以上、急激な変化には対応できないということである。

よかれと思って「正解」を押し付けず、ある程度本人が無理なく選べるようにしないと、大幅にパフォーマンスを落とす。


とにかく、無理をしないことである。

選べるようにすること。

現場は何かと改革が進むが、この辺りの意識をもって取り組むことがスムーズな働き方改革につながると考える次第である。

2023年5月14日日曜日

個別最適な学びと裁量権

 教育について考える時、学校教育以外の分野の視点から見ることも大切である。


例えば、看護。

ホスピタリティという言葉はここから来ているため、看護の分野からは学ぶところが大きい。


「個別性のある看護」という言葉がある。


「対象者の状態を望ましい方向へ移行するために、対象の置かれている状況およびその背景を把握し、

それをもとに既存の看護を組み合わせる、調節・変更・改善することで創造される看護」


と定義されている。

(日本看護技術学会誌/8巻(2009)3号「個別性のある看護」に関する概念分析 漆畑 里美 抄録より引用)


これは教育における「個別最適な学び」と共通する部分が多い。

ここには「指導の個別化」と「学習の個性化」の二つがある。

個に応じた学びの機会を提供することの大切さはもはや「常識」として共通理解されていることである。


しかしながら、その「常識」が実現しているかというと、残念ながらそうはなっていない。

どうしても「全体性」への比重が高く、「個別性」への比重が低くなりがちである。

つまりは、個に応じていない。

(少数の教員が一斉に大量の人数に対して教えることが前提となっているので、当然といえば当然である。)


個に応じるということについて、ホテル業界の視点から考える。

ホテル業界の大手、リッツカールトンはその顧客サービスの質の高さで知られている。

「お客様」を一人の個として見るホスピタリティがすごいという。

ここについては、リッツカールトンホテルの元日本支社長の高野登氏が数々の著書で書いている。


例えば、あるお客様が、宿泊中にプロポーズをするつもりだということを聞いたとする。

夕暮れ時の浜辺にテーブルをセットし、シャンパンなどのお酒を用意する。

さらに、いいタイミングでウェイターが指輪を届ける。

担当スタッフの判断で、そんな個別サービスがなされるという。


なぜそのようなことが可能なのかというと、ホテルスタッフに裁量権が与えられているからだという。

そんなことに人員を割いてサービスをすれば、当然様々なお金がかかる。

しかし、スタッフには月々いくらまでならサービスのために必要経費として使えるという規定があるという。

その費用をお客様を喜ばせるための車や人の手配に使ったり、花束のサービスに使ったりとできる訳である。

すごい仕組みである。(もちろん、その分宿泊費もそれなりの金額になるだろうが。)


つまりは、裁量権の大きさである。

スタッフ一人一人が細かくチェックされて同じ動きを求められる状態では、到底実現できない。

上司にいちいち報告しないと動けないようでは、到底実現できない。

スタッフの個としての裁量権の大きさが、お客様を個として見るホスピタリティに直結しているのである。


教育に話を戻す。

毎年文科省ががんばって予算を獲得してくれているが、やはり十分とは言い難い。

国は、色々ありすぎて教育になかなか予算を割けないというのが現実である。

教育において、お金を潤沢に配ってもらえることは到底期待できない。

(そんな中でも、GIGAスクール構想は、例外的なかなりの大盤振舞いである。)


では、何を頂けると有難いかというと、先の裁量権である。

とにかく、管理がきつい状態というのは、他者よりも自分自身に目が行きがちになる。

自分自身が注意されたり叱られたりしないように「警戒モード」に入るからである。

これは、大人であっても子どもであっても同じである。


教師にも裁量権があるほど、子どもに対しての個別最適な学びの機会を提供しやすくなる。

一律に決まったことばかりの中で、違う動きをすることはできないからである。


「揃える」というのも同様。

集団単位として揃えることが多ければ多いほど、個別の裁量権は小さくなる。

そして、裁量権の小さい教師が教える子どもたちへ与えられる裁量権は、更に小さくなる。


個別最適な学びを実現するために、お金が必要なのではない。

裁量権が欲しいのである。

(お金ではない、とは言ったが、学級費の使い方すら裁量権が小さすぎる学校も多い。

4月に買うと決めたものしか年間通して買えないという、裁量権の小さい地域もある。

先人たちによる公費の不適切な使用の前例があるためである。

不正が前の世代で一か所出るだけで、その後の全体への管理締め付けが過剰にきつくなり、それはもう緩まない。)


裁量権があれば、もっと教師の仕事は自由に楽しくやれる。

学級経営でもそれぞれの学級カラーが思い切り出せる。

掲示物から学習規律、行動様式まで細かく一律に決まった学校で、生き生きとした学級実践が生まれることを望むべくもない。

今の時代、それらは本物の「スタンダード(基準)」程度にして、他も選べるようにするのがベターである。


繰り返すが、裁量権の大きさがカギである。

そのためには、個々の教師の側も裁量権を大きく与えられるように、信用と信頼を得る必要がある。

これは、子どもに自由と権利とを教える時と全く同じである。


個別最適な学びを実現するためのツールはICT環境の整備だけではない。

個々の学校の裁量権の大きさ、個々の教師の裁量権の大きさというのも、重要なインフラの一つである。

2023年5月6日土曜日

言語化して脳の回路を開く

 学級づくりに関する話。


学級では、言語化が大切である。

特に、学級集団が荒れている場合、ここに根本的な原因が存在することがある。


わかりやすい例を挙げる。


言い争いや暴力によるけんかが絶えない子どもたちがいるとする。

気付けば取っ組み合いのけんかをしている。

お互いを離してから何があったかをを聞くと

「こいつが馬鹿だから!」

「うるさい!」

「うざい!」

「死ね!」

というお世辞にも語彙が豊かとは言えない言語の応酬。

落ち着いてから聞こうとしても、結局言葉足らずで、何があったか、さっぱりわからない。


つまり、言語化して伝えられないからこそ、暴力に転じた訳である。

幼児の中にすぐお友達を叩いてしまうという子どもが多くいるというのと、同じである。

自分の気持ちを伝える適切な言葉を知らないためである。


これは、性格とか心の問題ではない。

言語の有無の問題である。

言葉にできれば理解できることに対し、その感情に対する適切なコードがないため、情報処理できていない状態である。

脳内の適切な回路が開通していない状態であるともいえる。


「なぜ怒っているのか」を周囲が言語化してやる必要がある。

「○○って言われたのが嫌だったんだよね?」

「悔しかったね」

「○○っていう言葉を、相手が嫌だと感じるとは思わなかったんだね」


七面倒な気もするが、これしかない。

こういうところは丁寧に対応した方が、長い目で見て、全員にとって楽になる。


この時、無理に納得させないことがコツである。

相手が謝ったからといって、許せないままでもいい。

「謝ったら許してくれる」という勘違い、誤学習の回路自体も正す必要がある。


「ごめんね」「いいよ」の定型は、世の中では通用しない。(裁判を見れば一目瞭然である。)

その方が、実際の社会に出た際に適用できる。

そして、許されるどうこうは関係なく、人を傷つけた際には謝るという行為は最低限必要であるということも、学ぶべき認識である。


脳の誤学習を防ぐことである。

適切な行為に対し報酬を与え、不適切な行為に対しては報酬を与えないことである。


次のようなことも、誤学習である。


例えば、子どもが、失敗や悪さをしてしまった。

隠そうとしていたが、それを問いただされ、正直に話したところ、「とんでもない!」と激怒された。

ここから脳は自らの身の安全を保つために、次のような回路を開く。

「失敗を正直に言わないこと。嘘をつき通すこと。これが正解。」

言うなれば、適切な行為に対し、不適切な懲罰が与えられた状態である。


繰り返されるほどに、この回路は強化される。

「また嘘をついて!」と叱るほど、怒るほどに、悪化の一途である。


嘘をつくのは生存本能である。

嘘自体は悪くない。

嘘に対する、周囲の扱い方が悪いのである。


ここも、言語化してやることで、適切な回路が開く。

「嘘をつきたくなっちゃうことがあるよね」

「本当のことを言うのは怖いね」

「本当のことを言っても、絶対に怒らないよ」

「先生も失敗したことたくさんあるから」


定型はなく色々あるが、とにかく追い詰められた相手の気持ちに寄り添った言語化が必要である。

そして、こちらのお願いに対して正直に言った場合、絶対に、絶対に怒ったり叱ったりしないことである。

正直に言った場合、絶対に、絶対に怒ったり叱ったりしないことである。(敢えての二度書き。)

これは正直に言った相手との「契約」である。


こういう経験を積み重ねる内に、子どもの中に回路が開き、言語化されるようになる。

「やってしまいました」

「ごめんなさい」

「これをされたのが嫌でした。でも自分はここが良くなかったです」


こうなると、けんかやトラブルの解決までの時間も労力も、10分の1以下になる。

初期に投資した大きな労力、忍耐も十二分に報われる。


言葉を豊かにすることである。

言語化を促すことである。

国語の学習は、その点でも大いに意味がある。


豊かな学級づくりは、豊かな言語環境から。

言語を軽んじた時、その集団は確実に崩れていくと自覚したい。

2023年4月29日土曜日

掃除で自分を大切にする子どもが育つ

 国際比較において、日本の子どもの「自分のことが好き」という割合がダントツで低いことはよく知られている。

もちろん、日本人の謙虚な精神が表れている、という面もあるかもしれない。


しかしそれにしても、本当に低い。

自分を大事にするということは、かなり大切なことである。

この感覚は、長年社会問題となっている自殺率増加の歯止めにも関係する。


また、自分を大切にできないと、他人も大切にできなくなる。

ブログ上でも何度か書いているが、

「自分が幸せ&周りも幸せ」という形でない限り、双方の幸せが続かないからである。


例えば

「自分だけが幸せ」→「周りは不幸」→「自分にも不幸が及ぶ」という構造になる。

だから自分が幸せな分は、周りにも還元していく必要がある。


また「周りが幸せ」だと、自分もその恩恵を受けやすい。

精神的に安定した家庭に育った子どもの自己肯定感が高くなりやすいのも必然である。

一方で、そうでない家庭に育った場合にどうなるかも想像に難くない。


そして

「自分が不幸」→「周りにも不幸をまき散らす」

という構造にもなりやすい。

自分が不幸だと感じることは、周りへの妬みや嫉み、恨みに繋がりやすいからである。

その極端に行った例が、「自分が不幸だから」という理由で罪のない人に対して行われる犯罪の類である。


「自分が本当に好き」だと、こういった間違いが起きにくい。

「本当に」と付けたのは、単なるのナルシシズムとの区別のためである。

(ナルシシズムは強い劣等感の裏返しでもある。SNSで大量の「いいね!」を集めたい心理と同じである。)


「自分が本当に好き」だと、自分の心や体を大切にする。

さらに、そんな自分の住む世界を、より良いものにしたいと考える。

考えにくい人は、「自分」のところを「自分にとって大切な人」に置き換えるとよくわかる。


だから、周りの環境もより良くなって欲しいと願う。

周りの人にも幸せになって欲しいと願う。

恩恵を与えてくれる自然にも感謝し、物も大切に扱う。

ごく当然の話である。


問題は、ニワトリが先か卵が先かという話である。

つまり

「自分が好き」→「周りもいい環境になる」

なのか

「周りがいい環境」→「自分も好きになる」

なのかである。


どちらもあり得るが、主体的に行動を起こせるのは前者のみである。

周りが悪いと言っていても、何も変わらないからである。


自分を大切にする行動なら、自分で選んでできる。

例えばよい食事・よい睡眠・よい運動は、自分を大切にする行為である。

頂きものにして代替のきかないこの身体を大事に扱うのは当然である。


なるべく心身の病気にかからないようにケアすることも大切である。

休みをとってリラックスしたり、楽しみのための活動をしたりすることも、自分を大切にしているといえる。

リフレクソロジーやエステ、ネイル、買い物に使うお金などは、単なる散財ではない。

コンサートや映画、読書、あるいは「推し活」やラーメン店巡りなどの趣味も同様である。

自分を大切にしている行為である。

(ただ過ぎたるは猶及ばざるが如しで、「中毒」にまでなると、これは自分と周囲を害するのでいけない。)


掃除も、自分へのケアである。

例えば年末に大掃除をしたと思うが、新年を気持ちよく迎えるための行為である。

汚い環境で年を迎えるのは、自分と周りの両方を大切にしていないことに繋がるからである。

埃やカビにまみれた環境で過ごせば、当然病気にかかりやすくなり、それは自分も周りも大切にしていないといえる。


掃除とは、自分と周りの両方を大切にする行為なのである。

(やっと今日のテーマにたどり着いた。)

掃除をすることで、自分自身を磨くことにも繋がる。

ごみ拾い、トイレ掃除などはその最たるもので、傍から見れば非論理的で一見意味不明である。

「やればわかる」の世界である。


学級づくりにおいても、掃除については放置していると改善は見込めない。

指導が必要である。


荒れている学校はトイレを見ればわかるということ同様に、荒れてしまっている学級は、とにかく教室が汚い。

掃除はおろか、整理整頓も全くできていないので、一目瞭然である。

日常的に必要な指導をされていないことが、掃除の場面に端的に表れている。


道具の扱い方やしまい方などは、指導しないとわからないし、面倒だから整理整頓や手入れもしないのが普通である。

「きれい」「整っている」「使いやすい」を体験しないと、良さがわからない。


掃除の指導が低学年時にしっかりと行われていると、後の学年ではある程度放っておいても大丈夫である。

それは物の扱い方であったり、掃除の良さを体感して、主体的にできているということである。


「掃除ができるクラスはいいクラス」とは二十年ほど前から言っているが、実感として間違いないと確信している次第である。

2023年4月24日月曜日

学びの選択肢とICT活用

 昨年、東洋経済オンライン×ICTで次の記事がアップされた。


運動嫌いを増やしてしまう学校の体育の常識、「全員できる教」が大問題の訳 

「体育嫌い」なくす不親切教師的体育指導の勧め


この記事では「全員できる教」と書いている。

これは「みんな教」+「できる教」の二つを合わせたものである。


全員一律、揃えることを是とする考え方を「みんな教」と呼んでいる。

「みんな教」は、トップダウンが基本で、実は民主主義とは折り合いが悪い。

「みんな」で揃えるという価値観は、個を消していくことにつながるからである。


「制服」や「指定の髪型」などはこれにあたる。

「持ち物」なども揃えることで、面倒が起きることを防げる。


また、個を消した方が、様々な面での統率がしやすくなる。

それぞれの考えを尊重していると、物事がなかなか進まない。


もちろん、「みんな」で揃えることには、大きなメリットがある。

もしメリットがないなら、とっくの昔に消え去っているはずだからである。


みんなで揃えると、まず余計なことを考えないで済む。

工夫がいらない。

さらに、何か言われた時にも「みんなこうしています」という防御壁になる。


また、集団内における個の違いを考慮しないので、たくさんの人数を一気に一律に網羅できる。

学校の一斉授業は、そこが基本設計である。


デメリットはこの逆になる。

自分の頭で考えない、工夫しない。

個の違いに対応できない、といったことである。


学校は、集団教育を基本設計にしている。

学習指導要領が定められていることからも、明らかである。

そして、これがうまく時代のニーズに合っていて、システムとしてはまっていたといえる。


しかし、『不親切教師のススメ』でも書いた通り、今は基本設計はそのままに、「個別最適な学び」が求められる。

無理矢理にでも、バランスを取ることが求められている。


そのバランスの取り方だが、今回の記事の中では「選択」をポイントに挙げている。


例えば課題が一律でも、方法に選択肢があれば、個に対応できる。

今回の記事だと「10分間走る」は一律の課題である。

しかし「ペース」には選択の余地がかなりある。


課題を選択する方法もある。

鉄棒運動や跳び箱運動で、どう学ぶか、どの技を身に付けたいかは、選択ができる。

「できる」だけを追い求めると、ここを落とす。

「できる」には価値があるが、結果だけを追い求めると、誤った競争主義に陥りやすい。


もちろん体育以外の授業でもこれは適用できる。


算数などの積み上げ学習は他と違い、課題として教科の学習内容を身に付けることが外せない。

「簡単な筆算ができなくても大丈夫」「面積が求められなくても大きな問題はない」とは言えない。

課題側を変えられない以上、学び方の選択肢を広げる方を考える必要が出る。


一律に一斉伝達というのが、集団においては最も能率がよかった。

しかし、今は集団を優先して個を捨てることが是とされないのだから、やり方を変える必要がある。

ICTの活用は、ここを大きく変換する強力な手段となる。

「GIGA」の頭文字通り、タブレット端末は個別最適な学びのために配付されたツールである。


今後、授業にICTの活用は外せない。

理科や社会科などは、教科書に加えてタブレット端末を利用すれば、動画資料からも自力で十分に学べる。

一方、実際の実験や見学に勝る学びはないので、ここは方法として外せない。


学び方の選択肢を広げる、が授業におけるキーワードの一つになると考える次第である。

2023年4月15日土曜日

学校の子どもに「罪と罰」は存在するか

「罪と罰」と聞けば、ドストエフスキーの作品を想像するかもしれない。

今回は文学作品ではなく、罪と罰そのものについて。


社会においては、罪を犯すと罰せられる。

罰とは感情的なものではなく、ごく具体的な働きをもつものである。


例えば

「スピード違反」という罪を犯せば

「罰金」「減点」という具体的な罰が課される。

お金の罰と権利の制限という罰である。

より重い罪の場合、「一発免許取り消し」であり、さらには禁固刑のような身体的拘束をされる場合もある。


スポーツで考える。

例えばサッカーの場合だと、危険なファウルという罪を犯せば

「イエローカード」という形で警告の罰がつく。

この場合の「警告」とは単なる感情的な注意ではなく、累積2枚で退場という具体的な罰に発展する。

そうなると、それ以降のプレーには慎重にならざるを得ない。

ひどい場合は一発退場の「レッドカード」が出される。

つまり、参加権利の剥奪という具体的な罰である。


社会やスポーツで罪に対して罰がつくことは前向きに受け入れられている。

それが健全な在り方やプレーを支える大切な役割を担ってくれるからである。

社会に警察や裁判所が、スポーツに審判がなかったら、悲惨なことになる。


さて、学校はどうか。

基本的に、義務教育において子どもに罰は課されない。

教師には「懲戒権」があるが、これも子どもの権利を制限するためではなく、改善を求めるためのものである。

懲らしめ、戒めのための説諭、説教はできるが、罰は与えられない。


私の子ども時代は「長時間の正座」や「竹刀等で叩かれる」という正真正銘の罰があった。

しかしこれは昨今、あってはならないこと、誤りであったと認識され、周知徹底された。


さて、子どもたちに聞いてみると「学校でも罰を受ける」と考えている。

具体的にどんな罰かと聞くと「悪いことをすると、怒られる」という。


これは興味深い認識である。

子どもにとっては

「怒られる」=「罰を受けた」

という認識のようである。

これは多分、一般的にどこの学校の子どもたちでも、そうではないかと思う。

大人の側もそういう認識かもしれない。


我々大人の場合で考える。

例えば、社会に損害を与えるミスをしてしまった、あるいはミスではなく意図的な不正がばれたとする。

それに対し「すごく怒られた」という「罰」を受けて「ごめんなさい」で終わったとする。


これは、社会から見て、罰を受けたと言えるか。

間違いなく「許された」「罰を免れた」という認識になる。

軽犯罪ならまだしも、重犯罪の場合でそれだったらどうかと考えれば更によくわかる。


子どもは学校で、社会でいうところの罰は受けない構造になっている。

相当に悪質なことをしても「怒られた」で終わる特殊な社会である。


怒ったところで、実は何も変わらない。

ではなぜ怒るかというと、再発防止という面と自分の感情的な口惜しさの両面である。


学校の先生や親が子どもに対して怒るのは、それ以上どうにもできない、手詰まり状態だからである。

罰を一切与えられない分の、せめてもの感情的なはけ口である。


だからこそ、もし怒らないで済むようにできるなら、怒らない方がいいに決まっている。

そしてそれができれば苦労ないというのが大方の本音である。


そして学校の子どもがしたことの場合は、罪とは呼ばない。

それは「間違い」と呼ぶ。

未熟な子どもたちは、学校で間違えることが許される。

社会に出てからの間違いは致命傷になるため、安全な場での練習をしているといえる。

叱責その他諸々は、間違いを正し善導するための方策である。


つまり、叱る、褒めるという行為は、教育上やはり有用である。

危険行為にストップをかけるのには、叱る必要がある。

良い行為を促進するには、褒める必要がある。

何がいいか悪いかわからない子どもにとって、評価がその成長の方向を決めるからである。


学校は、社会における間違いと正しさを学ぶ場である。

だから学校における子どもの間違いは罪にも罰にもならない。

だからこそ教師には、悪を悪、善を善として毅然と指導できる姿勢が求められるといえる。

2023年4月9日日曜日

自由とルールと恩恵

 オンラインで行った「学級修養会HOPE」で反響のあった話題。


子どもたちと「ルール」や「自由」について話し合う機会が多い。

憲法の学習をした時はもちろん、学級会、あるいはトラブルがあった時など、日常的に問いかける。


道徳の時間に「本当の自由とは」というテーマで話し合った。

子どもたちからは様々な意見が出たが、集約すると

「自由とは、決まったルールの中で自分のやりたいことができること」

というような意見である。


この意見は、急に出てきたものではない。

これまで憲法の学習をはじめ、様々なに話し合ってきたことが生きている。

最初の頃は「何でもやりたいことを好き勝手にやっていい」というような意見も多くあった。

これは自由ではないということ、「放縦」という言葉も教えた。

「放縦」の意味は、何の節度もなく、気ままに振る舞うことである。


私からも子どもたちに

「自分の意見を言ってもいい?」

と尋ねて、いいということだったので、意見を述べさせてもらった。

先の子どもから出た自由の定義に沿っていえば「先生も意見を述べていい」というルール上で話す訳である。


私の自由に対する見解は

「自分でしたことの結果責任がとれること」

である。

この考えだと、子どもよりも大人の方が自由である。

子どもは、社会における行動の結果責任がとれない。

結果責任をとるのは基本的に親であり、学校管理下の場合は教師である。


だからこそ、大人から子どもへ「あれはだめ、これはだめ」と教えることが出てくる。

社会の枠組みがある以上、命に関わる危険なことや、他者への侵害行為は許されないことを教える必要がある。

もし子どもが社会的な迷惑をかけたら、それは本人が反省すべきものであるものの、最終的には大人の責任である。


この自由の定義の場合、見方によってはネガティブにもポジティブにもなる。

「ここまでしか動けない」と捉えることもできる。

一方で「ここまで動いていい」と捉えることもできる。


よくある例えだと、コップの半分まで入っている水を見て

「半分しかない」と捉えるか「半分もある」と捉えるかの意識の違いである。


自由というのは、基本的に社会的な枠組みの上で定義される。

(これが無人島なら社会的ルールは全くないが、失敗すれば命を落とすという自己責任がつく。)

社会において、ルールと自由は表裏一体である。


サッカーなどのスポーツでコートが決まっていることと同じである。

そのコートの範囲の中で、自由に動き回れる権利が与えられる。

プレーの結果責任をとるのは自分であり、どのようにプレーするのも自由である。

自由だからこそ、スーパープレーも生まれるし、ラフプレーをすればファウルをくらう。


サッカーで「手を使えたらもっといいプレーができるのに。ルールのせいで不自由だ。」という不満を述べる選手はいない。

サッカーでは「足を使ってボールを蹴っていい」というルールが決まっており、これは恩恵ともいえる。

他のスポーツだと、それはルール違反であることが多い。

バスケにおいてボールを蹴って運んでいるプレーヤーがいたら、一発でファウルである。


つまりルールは「ここまでしていい」という恩恵ともいえる。


例えば学校には平日8時に全員登校完了をしていることがルールであるとする。

これを

「8時までに行かないといけない」

と捉えるか

「8時までに行けば学べる」

と捉えるか。


すべて、捉え方次第なのである。

休日の8時に登校したところで、学びたくても学べないし、人も集まらないのである。

コロナ禍でそもそも登校できなかった時期を考えれば、恩恵であると捉え直せる人も増えるのではないだろうか。


学校とは、基本的に様々なルールを学ぶ場である。

そしてルールとは、ここまでしていいという恩恵であると考えれば、学びは恩恵と捉えやすくなるという一つの提案である。

2023年4月1日土曜日

教室における共生

「共生」という言葉がある。

広辞苑の定義によると


1 ともに所を同じくして生活すること。

2 異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一緒に生活している状態。

  共利共生と片利共生とに分けられる。


学校の教室における共生は1の定義である。

ただ内実においては、2の意味も入ってくる。

異なる能力、考えの人間が一緒に生活していることで、相互に何かしらの利がある。


大人も子どもも同様に、得意と不得意がある。

教える側にもこれはある。

小学校の教員だからといって、全教科を教えるのが得意という人は、今まで見たことがない。


穏やかな人も元気いっぱいな人もいる。

ネガティブで慎重派な人も、ポジティブで楽観的な人もいる。

同じ集団内には両端及びその間がいないと、バランスが悪い。

同じ傾向の人ばかりで集まると、価値観や考え方が偏り、何かと危険である。

集団内に真逆のタイプの人がいる場合、中間でバランスをとる人も必要である。


学校は、教室内も職員室内も、共生が原則である。

それも、異なる種が雑多にいる状態が自然といえる。

特に公立の小中学校のように、偶然による集団のような場合は、尚更である。

(一方、特定の私立学校、習い事や地域の野球、サッカーチームなどの場合は目的集団である。)


不親切教師のススメ』の中でも再三述べているが、違いはあった方がいいのである。

もっと正確に言えば、不得意も多くあった方がいいのである。

自分にできないこと、苦手なことがたくさんあるからこそ、他の人の得意が生かせるのである。

他の人に「できない」「不得意」があるからこそ、たった一つしかないかもしれない自分の「得意なこと」が生かせるのである。


そういう視点で、教室も見直してみる。

ある授業でわからないといっている子どもの存在は、教師及びそれが得意な子どもの活躍の場の提供をしている。

トラブルを多く起こしがちな子どもは、教師及び子どもたちのトラブル解決能力を向上させているともいえる。

掃除が苦手という子ども、コミュニケーションが苦手、話すのが苦手、じっとしているのが苦手、全て同じ理屈である。


そういう中で、苦手、できないを放置しないのが教育における必要な「強制・矯正」である。


できないで困るという状態を矯正できるようにする。

これを助けるのは教師はもちろん、それが得意な子どもたちである。


他の権利を大きく侵害するような行為の是正に関しては「強制」することもある。

これは教室の責任者たる教師の役割である。


つまり、教室では、教師と子どもも「共生」していく必要がある。

立ち場の上下はあれど、同じチームの仲間である。

だから子どもに教師が教えてもらう、矯正してもらうことも多くある。

教室で教師に気付きを与えて成長させてくれるのは、子どもたち以外にない。


子どもが育つほど、教師も育つ。

教師が育つほど、子どもも育つ。

教室は、そこで生活する全ての人間にとっての共生の場である。

2023年3月25日土曜日

強制・矯正ベースから選択・個性ベースへ

 昨年実施したセミナーにおいて「各場面で強制、矯正をするか」という問いかけを行った。


例えば、給食の残菜が多すぎるという状況。

現在、無理矢理に食べさせることは、まずしない。

会場も満場一致で「そこは個人の選択」ということであった。


しかし恐らく、30年前に同じ問いかけをしたら、ほぼ満場一致で逆の結果になったのではないだろうか。


つまり、時代に応じて「最適解」は変わる。

一昔前の「正解」は今や「大間違い」ということはかなりある。


わかりやすい例で言えば、戦後間もない頃と、現在の食糧事情が同じはずがない。

そうなれば、食への指導のありようは全く違うものとなる。

(戦後間もない頃には、全てを底までさらっていくので、そもそも残菜自体が出ないから指導対象ですらない。)


時代は、強制・矯正ベースから、選択・個性ベースへとシフトしている。


一昔前は、学校教育の多くを占めるのが強制・矯正だった。

選択・個性に対応したものの存在割合は少なかったはずである。


現代はその比率が逆転している。

教育の中に、強制・矯正を求めるものはもちろんある。

しかし、選択・個性への対応の比率が多くを占める。


つまり、どちらも全くないという訳ではない。

どちらも存在するのだが、ベースとなるものが変わったというだけである。


選択・個性ベースの現代では、強制・矯正を発揮すべき場面は少ない。

そもそも学校では罰せられることもないため、求めに従うか否かも個々の選択である。


不親切教師のススメ』では、子ども自身の自己決定を重視している。

何でも他人や上に決めてもらった方が楽なのだが、それを是としない。

可能な限りの自己決定を求める。


一方で、教室で起きたことの一切の責任は教師にある。

子どもが自己決定をしたことであっても、そうである。

子どもに「自分で責任をもって」と指導することはあっても、実際に子どもの「自己責任」となることはない。

教室という空間における一切は、教師の責任監督下である。


だからこそ、子どもには自らの行動に責任をもつという意識を求める。

どうせ実際に何かあったら、こちらの責任なのである。

せめて意識ぐらいしてもらわねば、勝手にやりたい放題やって、その失敗の責めだけを負うことになる。


ここは、子どもとの取引である。

教師の側は、教室における一切の権限を握っているからこそ、その全責任も負うという前提がある。

この権限を一部、相手に譲渡することができるが、その結果責任だけはこちらに残る。


つまりそれは、子どもに対し信用ができる時に限られる。

単に気持ちの上でこちらが勝手に行う信頼ではない。

権限を委譲する以上、約束の不履行をしないという信用である。


誰しも、なるべくなら、強制をしたくないと思っている。

一方で、強制しないと自分あるいは集団に不都合が生じる状態であれば、強制・矯正せざるを得ない。

それは、幼児に自由に街中を出歩かせないことと同じである。

交通ルールを守れるという前提ができるまで、そこへの選択の自由は与えられない。


例えば、修学旅行では、自由行動の範囲も示されるし、お小遣いの範囲も示される。

極端な話、お小遣いをどんなにもってきてどれだけ使おうが、こちらの知ったことではない。

しかし、そこを完全に自由にして「買い物ツアー」になってしまっては、修学旅行の目的自体が達成されない。

だから、行動範囲も買い物についても制限を設ける。

枠組みの中で自由に動いてよいということになる。


一番楽なのは、自由行動一切なしの集団ツアーであるが、これはこれで修学旅行の目的が達せられない。

だからこそ、普段からなるべく権限を与えて自己決定を求めていく。

いきなり大量に与えられると、使い方を誤る。

徐々に選択のできる権限移譲をしていくイメージである。


強制・矯正は教育からなくならない。

一方で、選択・個性を認めていく割合を増やす意識でいることが肝要である。

2023年3月18日土曜日

楽しむことが支援になる

先週3月11日、久しぶりに「被災地に学ぶ会」へ参加した。

今号はその報告レポートを兼ねて、考えたことを記す。


いつも通り、南相馬のボランティアセンターが活動拠点である。

南相馬の地へ入って、様子が大分変わったという印象をもった。

何というか、震災数年目までの頃と違い、そこに確実に人が暮らしているという感じがある。

土地が整備され、コンビニや他の店も増え、確実に前進しているという感覚をもった。


昼食休憩の際、毎度お世話になっているお弁当屋さんにお話を伺った。

確かに町は以前よりもかなり復興し、生活インフラも整ってきた。

しかし問題はとにかく「若い人が帰ってこない」ということだそうである。


折れ線グラフでいうと、復興の度合はここ10年で確実に右上がりになっている。

しかしマイナスから0に近づいてくるにつれ、線の傾きが横ばいになってきている感じである。


あの年に生まれた子どもたちが、もう4月から中学生になる。

つまり、他県等へ避難した場合、もうそちらの土地に慣れ親しんで育ったということである。

当然、移り住んだ土地にお世話になったと感じるほど、その土地への愛着も湧いてくる。


「人が戻ってこない」という現実の厳しさを感じた。

そして「若い人がいない」というのは被災地に限らず、地方の多くの自治体が抱える共通の悩みでもある。


その地へ移り住む人が多ければそれに越したことはない。

しかし人が多く住まなくとも、人が多く訪れる地であれば、それも町を元気にする。

人口は少なくとも観光客が多い土地はある。

また、多くの人が訪れなくても産業やインターネットの活用等で生きていく手段もある。


少し視点を大きくすれば、県単位で見て潤うことも必要である。

ある市町村自治体の財源が少なくても、他の自治体が稼ぐなどして県自体が潤っていれば、その恩恵で再分配できる。

(ちなみに我が愛する千葉県は、日本一のテーマパークや成田空港等の存在で、全国各地、世界各地から人とお金が入って来る土地である。

有難いことである。)


福島県で泊まった民宿の方のお話が印象的だった。

「もう復興という言葉は終わりにしたい」という。

確かに、復興というのはマイナスから0へというイメージが強い。

こちらは「復興支援を続けること」が大切だと信じていた。

しかし、その土地に住んでいる人が、真逆の意見を実感として述べているのである。


例えば同じ「福島県」という括りの中でも、その場所ごと、まして人ごとの悩みは違う。

特に福島は津波に直接被害を受けた土地、原発関係で避難勧告が出た土地の影響はクローズアップされやすい。

一方で、津波の影響は全くない場だが誹謗中傷やデマによる大きな被害を受けた土地や人もある。

その影響の大きさも、業種や人によってそれぞれである。

各支援金がどの土地にどう分配されるかという切実な問題もある。


民宿のご主人曰く

「とにかく遊びに来て思い切り楽しんで欲しい」

とのことである。


また「福島の野菜は世界一安全」という話も聞かせていただいた。

福島からは、他にはない放射線物質測定の厳しい検査基準を越えたものしか流通しないシステムがあるからである。

その自慢の料理は、どれも間違いなく美味しいものであった。


(参考:ふくしま復興情報ポータルサイト 農産物等の放射性物質モニタリングQ&A)

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/nousan-qa.html  


復興支援には、何か特別なことが必要だと思い込んでいた。

しかし、ただ楽しむために遊びに行くことは、その土地にとってものすごく重要である。

そもそも東北地方というのは、もともとが観光名所として名高い土地だらけである。

行けばレジャーに事欠くことはない。

その土地を楽しむことで活気づけ、喜んでお金を使うことが大切である。


今回の福島訪問で、一つ意識が変わった。

我々にできる最大の支援は、その土地へ行って思い切り楽しむことなのかもしれない。

それならば、多くの人が取り組みやすく、続けられる。

それはもはや「支援している」と言わなくていいのかもしれない。

楽しませてもらっている相手に対し、その立場は平等だからである。


そしてそれは、他の地でも同様である。

例えば熊本という土地は素晴らしい。

そこには阿蘇山をはじめとする雄大な自然と豊かな文化がある。

もう十分に観光地としての力は取り戻しているのだから、後は遊びに行くことでも力になれる。

完成が遅れるという話になっている熊本城再建にも、少しは自然と貢献できるのかもしれない。


これは被災した土地に限らない解決策かもしれない。

多くの人が、楽しみにお金を使う。

そのお金が多くの人に巡り巡って、豊かにする。


教育も同じである。

悲壮感や切迫感から行うものは、続かないしあまり身に付かない。

楽しく前向きに取り組むからこそ、よりよいものが手に入る。


節制そのものは大切だが、「悲観」や「自粛」の姿勢よりも、前向きな選択肢をとる必要があるのかもしれない。

2023年3月11日土曜日

被災地復興支援は忘れないことが大切

 東日本大震災から今日でちょうど12年である。

各地でメモリアルイベントが催される。


福島県H.P.より

https://fukushima-memorial2023.com/


東日本大震災風化防止イベント~さらなる復興に向けて2023~(汐留シオサイト)

https://fukkou-forum.jp/


けせんぬま伝承・防災文化祭2023『未来へつなぐ私たちのメッセージ』

https://www.kesennuma-memorial.jp/event/detail.php?id=120


私も車で福島へ向かい、ボランティア活動の最中である。

まだまだ、まだまだ、ボランティアの手は足りていないというのが現実である。

現地のボランティアセンターに行けば、やるべきことは山積している。

こういったことを伝えていくのも、教育記事配信者としての一つの役割であると自覚している。


今回も所属団体は「被災地に学ぶ会」である。

被災地に行けば、自分自身が学ぶことになる。

現地で役に立てるかどうかが自分の課題である。

作業は竹林伐採かもしれないし、草刈り機での作業かもしれないし、排水溝の掃除かもしれない。

とにかく、基本は人が戻って住めるようにしていくことを目指す。

復興は、その土地に住む人たちがいないと始まらないからである。


ここは大切な視点である。

自力で生活できるインフラを整えるまでを継続的に支援する、ということである。

復興支援の目指すゴールは、支援のいらない状態である。

そう考えると、まだまだ継続的な支援が必要ということになる。


ちなみに、一人一人の住民に対して、国はどう助けてくれるのか。

国からの直接援助は、即命に関わるような「緊急」状態でないとなかなか難しい。

元の場所へ戻るための個人宅への整備人員費用は出せない。

そうなると、ボランティアの手を使うしかないというのが現状である。


そして何より大切なのは、決して風化させないことである。

継続的な支援というのを考える上で、これは超重要事項である。

だからこそ、このようなイベントが意味をもつ。

みんな自分自身のことが忙しすぎる日常だからこそ、決して忘れさせないための仕掛けが必要である。


全員が今日被災地に行く必要など全くない。

行ける機会があってたまたまその場に行ける時間のある人が行けばいい。

現場としては、全然関係ない日にボランティアに行ったり、資金援助をしたりすれば、すごく助かるはずである。

学校教員のような立場ならば、子どもに話すこと自体が大切な役割であり、未来への貢献になる。


とにかく風化させないこと。

一人の力は非常に小さいが、それが集まると、とてつもない大きな力になる。

一人がずっと年間通してやることは非常に尊いが、これはかなり壁が高い。

それよりも、日本中の人が時々、ふと思い出したようにでも、少しでもやれればいい。

それがもし日本に何千万人いたら、また世界を巻き込んで何億人いたら、とてつもないことになる。


これからも小さな小さな一燈として、たとえ断続的にでも、活動に参加していきたい。

2023年3月4日土曜日

欠点の矯正をしてあげる教育は親切と言えるか

 自分自身に「欠点」があると考えているだろうか。


恐らく「ありません」という人はごく少数派である。

大抵の人は、自分に何かが欠けている、あるいはだめだと思っている点がある。


学校に通う意味とは、自分が変わるためでもある。

全て今のまま、そのままでいいのなら、学校に来る必要はないからである。

友だちに会うためだという意見もあるが、自分の人間関係を変えるためといえる。


学校には、枠組みがある。

どんなに言い方を変えても、規定された「正解」が厳然としてある。

教育基本法に書いてあることを基に、学習指導要領に定められている。


例えば算数ができるようになることも運動ができるようになることも「正解」である。

例外と思われる道徳ですら求める姿があり、「正解」がある。

例えば暴力や他人を不幸に陥れる身勝手な振舞は「不正解」である。


そうなると教師には、枠組みから外れた「不正解」については、「正解」に近づける義務がある。

立場上「勉強なんてできなくていい」とは言えない。

たとえ自分自身が「運動をしなくても生きていける」と思っていても、放っておくのは単なる職務怠慢である。

即ち、子どもに対して矯正をすることになる。


ただし

「漢字を身に付けさせる」という目的のために矯正の手立てを打つことと、

「漢字が書けないと将来困る」と脅して強制させる、

という話は別である。


こと学習全般においては、矯正すべきだから強制をしていい、ということにはならない。

強制しないで「やろう」と思えるように導くことが、教師の職能として求められる。


一方で強制してでも矯正すべきこともある。

危険なことへの「緊急停止」の場合である。

学校の転落防止の柵によじ登って遊んでいる子どもがいたら、何はともあれ制する必要がある。

このことについては、以前紹介した『〈叱る依存〉がとまらない』(村中直人著)でも書かれている。


つまり、強制自体が悪ではない。

何かをより良い方向へ正そうという矯正自体が善でもない。

それを使う文脈が全てである。


「欠点を矯正するために強制する」という状況を考えると、これも文脈次第である。


例えば、薬物依存症で苦しんでいる人を矯正するためには、強制的に薬物から遠ざける必要があるというのは一般的認識である。

一方で、実はいきなり強制的に遠ざけるよりも、使用量を少しずつ減らす、その失敗に対し社会が受け容れるという体制も必要だという。

(参考文献 『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版)


学校では、どのような場で強制を発揮して矯正し、どのような場で矯正を諦めてそのまま受け容れるといいのか。

学校の在り方としての課題である。

2023年2月25日土曜日

「強制は悪で選択は善」は本当か

 前号でも少しふれたが、学校における「強制」について考える。


強制されないということは、「しない」「選ばない」という選択肢がある状態ともいえる。


「選択=善」。

ここについては、比較的同意を得やすい。

選べないより選べる方がいい。

常識的である。


しかし、実際はそうとは限らないというデータがある。

経済心理学で有名な「ジャム実験」である。

(参考文献

『選択の科学コロンビア大学ビジネススクール特別講義』

シーナ・アイエンガー著  櫻井祐子 訳(2014)


簡単に言うと、選択肢が多すぎると決定を回避する確率が高まるという心理である。

この論自体についても賛否があるが、少なくともこの実験の状況下においてはそれが正しかったようである。


この本の中では、選択に関する興味深い実験がたくさん紹介されている。

私が特に興味をもった内容が

『第2講 集団のためか、個人のためか』の中の「取り決め婚と恋愛婚のどちらが幸せか」

である。

(ちなみに続く第3講は『「強制」された選択』である。)


インドにおける結婚の幸福度調査の話である。

予想通りだが、結婚1年目以内の夫婦においては「恋愛婚」の方が幸福度は高い。

しかし、これが10年を越えると、大きく逆転するのである。


現代日本人の感覚からすると「取り決め婚」はなかなか受け入れ難い。

しかし生前に私の祖母に尋ねたところ、祖父母の時代は取り決め婚が当たり前だったようである。

私の祖父母もそうであったようだが、互いにいい関係であったし、実際に祖母の話を聞いても幸せだったようである。


現代はどうだろうか。

恋愛婚が中心ではあるが、長期の幸福度に関してはどうであろうか。

時代背景が全く異なるため、祖父母の時代との単純比較はできないが、選択できる方が幸せとは言い切れないようである。


この本には、これとは異なる「強制」「選択」の調査の結果もある。

死に関する決定権である。

例えば脳死状態の愛する家族を、このまま生存させるか、生命装置を切るか。

ナチスにおけるアウシュビッツの「生かすのは息子か娘かどちらか選べ」というような苦痛しかない選択の場合。


これら苦痛しかない選択の場合は、強制あるいは選択権がない方が、後々の精神的ダメージは少なくなる。

選択が必ずしも善であるとは限らない一例である。


また、権威ある人の「これを選べば大丈夫」という太鼓判の一押しも、自分だけで選択をするよりも良い心理結果を生むという。

自分で選んだのではないが、選択眼のある人が言ったのだから大丈夫という自信につながるという結果である。


強制か選択かということ自体に、善悪はない。


最初は無理にやらされたけど結果的に好きになったという例だってごまんとある。

自分で選んだからこそ愛着が湧く、好きになるということだってある。


自分で選択したけどどれも好きにならなかった、深く後悔したということだってある。

強制されてやらされて、心の底から嫌ということだってある。


では、学校における「強制」はいかにあるべきか。

「強制」のない学校というのは考えられるのか。

「選択」をいかに取り入れていくべきか。


「強制は悪」「選択は善」と単純思考に陥らず、考えていくべきことである。

2023年2月18日土曜日

学びは楽しい

勉強が好きかと問われたら、どう答えるか。


常々「勉強は楽しい」と考えている。

小学生の頃から、得意ではなかったが苦にしていた記憶はなく、中学生ぐらいからは比較的好きになった。

中学の担任が国語の先生で、よく本をおすすめしてくれて、読書も始めるようになった記憶がある。


テストで高得点を狙って勉強するのは、ゲームの攻略に似た感覚である。

多少手間がかかることでも、攻略に必要なことをひたすらする。

その基本はあまり変わらない。


こういうことを言うと、結構な割合で、次のように言われる。

「そんなはずないでしょ。」


つまり、勉強がゲームのように楽しいはずがない、ということである。

「そんなことは嘘」と断言されることが結構ある。


もちろん、学ぶことの全てが楽しいという訳ではない。

例えば大学生の頃、数学で全く意味がわからず解法を丸暗記したことがあるが、それは苦痛であった。

意味がわからないことは苦痛につながりやすいのかもしれない。


自分自身は好きな教科だが、「算数が嫌い」という感覚自体は、何となくわかる。

わからないから嫌いになるというのは、大きな理由の一つである。

(もちろん、それ以外の理由もある。)

「歴史が嫌い」という人も、多分年号なんかを丸暗記させられた(そして内容はよくわからなかった)結果ではないかと思う。


逆に言えば、わかることは、基本的に楽しいことである。

だから勉強は、やればやるほど楽しくなる。

一方で、やればやるほど、わからないことが更に増えるという面もある。


「勉強嫌い」を世に生んでいるとしたら、今更ながらやはりこの「わからなさ」が肝である。


「強制」という点はどうか。

この言葉自体に良し悪しはない。

全く強制されなければ、色々な教科を学ぶことはない。

その中に、面白いと思えるものが見つかる。

そう考えると、「価値ある強制」というものは、存在する。


では、人々の勉強嫌いを多く生む「わからない」の原因は何なのであろうか。


授業に対するわからなさである。

これは教える側の授業技量の問題である。


ではなぜ、同じ教室で、ある教科における勉強好きと勉強嫌いが生まれるのか。

好きという子どもは、その授業でわかった、あるいは新たな発見があったからである。

そこは確かに、本人の資質に依るところが大きい。


では、わからない相手が悪いのか。

それを言い出したら、もはやプロではない。

まして公立の小中学校教員であれば、尚更である。


「わからない授業」が世に氾濫しているのであれば「教員免許がなくても先生に」という論になるのは至極当然である。

質を一切問わないのであれば、授業をすること自体は、誰にでもできることだからである。


一般的に勉強好きが増えるためには、授業でわかるという子どもが増えることが大切である。


ここで勘違いしやすいのが「噛んで含めるようなわかりやすい授業」を目指してしまう誤りである。

そういうことではない。

わからなさの中でもがき、最終的に自力でわかるような学ぶ力がつくこと。

これがないと「与えられたわかる」になってしまう。

外から付けただけの力で、やがて剥がれ落ちる。

最終的に自力で学ぶ方向にいかねば意味がない。


この「わかる」の目指す方向については、自力で読み取れる力をつけることであると考えている。


日本の教科書は、質が高い。

教科書をよく読めば、大抵のことがわかるようになっている。

「わからない」の原因の一つが、「内容を読み取れない」にある。

まずは、教科書の内容を自力で読み取れる力をつけることである。

(これはテストにも言える。苦手な子どもは、テスト内容自体が読み取れていない可能性が高い。)


つまりは、授業を聞いてよくわかったというより、授業の内容を自力である程度わかる力をつけたいのである。

予習の大切さが見直されているが、まさにここである。

自力で読める力をつけることである。


そのために、子どもが「自分で学ぶ」という習慣を、授業中に動機づけられるかどうかである。

そこが授業技量の分かれ目である。

単に宿題を出せばいいというものではない。

自宅で自ら学ぶのは、授業で動機づけられているからこそである。


最初は興味なかったけれど、やっている内に段々楽しくなってきた、やるようになってきたというのが理想形である。

その方向にもっていけるものであれば、方法は選択的な学習であろうが一斉授業であろうがどちらでも構わない。

それによる結果(=自ら学びたくなること)こそが大切である。


そう考えると、教える側が勉強嫌いの場合、ハードルが高い。

「仕方がないものだ」と思って教えるのと「学ぶことは楽しい」と思って教えるのでは、やはり教える側の動機に違いが出る。

(ただし、それでも「勉強好き」の子どもを育てられるという結果が出せるのであれば、全く問題ない。)


こんな文字だけのブログをわざわざ読むような人は、学ぶことが嫌いということは考えにくい。

学ぶのが好きという少数派側の可能性が高い。


この「学び好き」を、少しでも増やしていきたいのである。

特に社会に出てからの学びが、楽しくないはずがない。

学んだことが即実践できて結果として出るのだから、楽しいはずなのである。


だから、子どもに教える立場の人は、たくさん学びの場に出るのがいい。

学び好きの先生からは、学び好きの子どもが育ちやすい。

ごく自然なことである。


一方で「勉強嫌い」の子どもの気持ちを慮ることも大切である。

そのためにも、やはり様々な場へ学びに出た方がいい。

「さっぱりわからない研修会」「催眠術をかけられているかのような話」は、その点でとても有益である。

教える側には、時に教わる側の苦痛体験を思い出すことも必要である。

自分もそんなことをしている可能性を考えるきっかけになる。


学ぶことは楽しい。

本を読むこと然り、学びの場に出ること然り。

そして何より、その学びを用いた日々の実践から、最大の学びが得られる。

勉強しているからこそ、受けるテストに意味も価値も出るのである。


「進みつつある教師のみ人を教うる権利あり」(ジェステルリッヒ)


「学びは楽しい」と思える子どもが増える教育をしていきたい。

2023年2月11日土曜日

愛国心は自分と他人を大切にする基盤

 建国記念の日である。

第二次世界大戦後に旧紀元節が廃止された後、1966年に復活し、翌年より実施された祝日である。


6年生担任の場合に限らず、必ず子どもたちへする問いかけがある。


「世界で最も長く続いている国はどこでしょう」


これは師の野口芳宏先生の実践の追試である。

これを聞いて適当に予想を聞く。

有田和正先生の有名な言葉「予想はうそよ」であり、完全な当てずっぽうでよい。


「1位はどこで2位はどこで、それぞれどれぐらいだと思う?」とも予想しておく。


大体中国とかイギリスあたりがあがる。

中国は「4000年の歴史」という言葉があるし、イギリスは王が統治しているイメージがあるからだろう。

アメリカという意見も毎年出る。

世界史については未習で、アメリカ合衆国の建国が比較的新しい1776年ということは全く知らないだろうから当然である。


長く本メルマガの読者の方なら耳タコというぐらい書いた話だが、ずばり答えは日本である。

今日で皇紀2683年である。

西暦より660年長い、と認識しておくとすぐに出てくる。


その長さについては諸説あるものの、2位以下の国に比べても断トツに長く、世界最古の王室という点はギネスブックも認定の事実である。


参考:図録世界の王室 何でも長さランキング(本川 裕 「社会実情データ図録」サイト内より引用)



なぜ他国の王室が続かないかというと、王が途中で殺されてしまったり国自体が侵略により滅んでしまうためである。

地政学の視点から言って、地形というのは国が栄えるにあたり最も重要な要素である。

侵略されやすい地続きの国々と違って、四方を海に囲まれた日本とイギリスの王家が長く存続していることは偶然ではない。


その点、第二次世界大戦は本当に存続の危機だったといえる。

天皇がGHQにより処罰されて皇室の制度が禁止されれば、その時点で歴史に終止符が打たれたかもしれない、という事態である。

日本を占領しているGHQにとっては、天皇ほど邪魔な存在はなかったはずである。

これがなぜそうならなかったかという背景も、是非子どもたちに歴史で学んで欲しいところである。


愛国心を育むことは学習指導要領上でも明記されている。

そして国防は国の最重要事項である。


日本の一部には未だに「愛国心をもつこと」=「戦争賛美」という残念な思考パターンがある。

これはある時期の教育の結果である。

私の子ども時代の教育にも、その傾向が確実にあった。

国旗掲揚→愛国心→戦争という荒唐無稽な思考パターンである。

(特にこの教育を受けた世代は、外で学ぶ機会を自ら設けないと、このプログラムが書き換わることはないかもしれない。)


これは、全く違う。

国を愛することの本質は、自分自身を愛することである。


前号でも書いたが、確かにどの国にも、歴史の中で肯定しがたい事実がある。

侵略したこともされたことも、決して喜ばしくない事実である。

世界中でたくさんの人が死んだ戦争を肯定できるはずがない。

大航海時代に遡るまでもなく、各国間の略奪もある。


だからといって自国とその歴史を否定するのは、自分自身を否定する行為である。

自国というのは、自分の属する最小コミュニティである家族と同様、アイデンティティの一つである。

家族や家の過去にどんな歴史があろうが、それ自体を否定して自分自身を傷つける必要はない。

人間はただでさえネガティブ情報に着目する本能があるのだから、良いところに着目する教育をする方が健全である。


愛国心をもつことは、戦争賛美の方向では決してない。

むしろ、自国を尊重することは、そのまま他国をも尊重することであり、平和への希求ともいえる。

(「自国ファースト」とも全く違う。自分さえよければいいという姿勢は周りを侵害し、結果的に自分自身を傷つける。)


愛国心をもつとは、誰しも自分自身とそのコミュニティが大切で、尊重される存在だということを認めるためのベースである。

また、こちら側、例えば家族が傷つけられるのを黙って見ている訳にはいかないことが、世界が未だに平和にならない原因でもある。

自分や家族が傷つけられそうになったら抵抗するしかないのだから、互いに傷つけないようにうまく関係調整することが最優先事項である。

また、飢えて死にそうになっている人がもしいたら、裕福な自分のところへ米やパンを死ぬ気で盗んだり奪い取ったりしにくるかもしれないことも、考えるべきことである。

戦争そのものの存在を否定しても意味がないというのは、そのためである。


ロシア・ウクライナ間のような哀しい戦争が今でも各地である。

これを避けるためにも、自国を愛し同時に他国も尊重する姿勢が必要である。

自分自身を傷つけることを肯定すると、他を傷つける行為を肯定することに繋がるからである。


自己防衛の不安から攻撃行動をとったり、自暴自棄でやけになったりした状態からの行動が一番怖い。

だからこそ、自分と周りを大切にするということは、強調して教えるべきことである。


教えるべきを教える。

建国記念の日は、本当の愛国心とは、世界の平和とは何かを考え、教える契機である。

2023年2月4日土曜日

自縄自縛を解く

 「自縄自縛」という言葉がある。

文字通りの意味は、自分のなった縄で自分自身を縛るということ。

転じて、自分の心がけや言動によって、自分自身が身動きとれなくなって苦しむことである。


学校教育におけるあらゆる問題は、まさにこの自縄自縛に端を発しているものがほとんどである。


たとえば、採用試験の倍率低下に歯止めが止まらない。


参考:外部サイト「大人んサー」

「小学校の採用倍率、1倍台が続出、全国平均は過去最低更新…教師人気は回復できるのか?」


一部には定員割れを起こしている県もあるということで、各誌ニュースにも取り上げられている。


教育実習や採用試験の在り方の検討など、様々な対策が講じられている。

これらの諸対策は、確かに大切である。


しかしながら、ここの根本・本質は、教員という職業への

「メリット・デメリット」

をどう感じているかのバランスの問題である。


その職業に対して感じるメリットがデメリットを大きく上回ると多くの人が判断しない限り、倍率上昇は望めない。

学生に限らず、教員免許はもっているけどやらないという人が多く存在している事実が、それを象徴している。


平たく言うと、そのための方向は二つである。

A メリットを大きくする

B デメリットを小さくする


企業でも家計でもそうだが、利益や貯蓄を増大するには

A 収入を増やす

B 支出を減らす

のどちらかしかないということと同じである。


今、低倍率問題を解決するのは、どちらの方向で考えればいいのか。


Aである、と言いたいところだが、恐らくBの方が現実的である。

教員の仕事の魅力は、恐らく多くの学生たちがわかっている。

子どもと共に成長し泣き笑いする感動やら何やらがあること自体は、自分自身も学校の子どもという体験をしている以上、伝わっているはずである。


また、給与を含めて教育公務員という立場が、不安定なこのご時世でそう悪いものではないことも、恐らく十分に伝わっている。

「給与を大きく上げれば人は増える」というのはその通りだが、これは手段として最も現実的でないともいえる。

「全員の成績を上げるには全員の勉強量を増やせばいい」というのと同じ理屈であり、量に頼った力技である。

(それが本当にできるなら、恐らくとっくに現場の人員を増やしているはずである。

猫の手も借りたいという現状の昨今、多人数にそんな高給を支払える余裕は尚更ない。

飲食店と同じで、人件費こそが最も高コストだからである。)


問題はBの方の、デメリットの大きさである。

学生たちは、何が嫌なのか。


「長時間労働」を筆頭に「部活動指導」「授業がきちんとできるのか」「保護者対応をできる気がしない」「給与が低い」等々。

不安の内容を聞くと色々だが、全てはたった一つに集約される。

要は


「やらねばならないことが多すぎる」


これではないかと思われる。

報酬や裁量権の大きさに対して理不尽だと感じているのかもしれない。


教員の問題は、残業時間そのものに焦点が当てられることが多い。

苦しさの本質はそこではない。

余計な業務量の多さそのものが問題なのである。


大切なのは、日々に集積したささいな、小さな業務群の量を包括的に減らす工夫である。

あるいは、理不尽なことへは対応をしないと決めることである。

それが常識にならないと、デメリットは伝わり続ける。


全ての人にとって、使える時間(=命)というリソースは、限られている。

どれも「いいことだから」「仕方ないから」と言ってやっていたら、あっという間に尽きる。

一見「いいこと」に見える余計なことを全てしているから、自縄自縛に陥る訳である。


「やらなくてもいいこと」の線引きができるかどうかである。


学校側が、ルールとして設定できる線引きもある。

例えば業務時間外でも電話に出ることが当たり前になっていれば、そこは当然「いつまでも帰れない職場」になる。

ここに、けじめとしての線を引いてもらう。

対外関係のアンケートやコンクールにもれなく協力していたら、これも大きな負担になるため、線をひいてもらう必要がある。


しかしこれらは管理職的な仕事であり、一般教員の立場からでは、どうにもしようがないことである。


自分たちでできる業務の工夫がある。

「理不尽にやらねばらないことが多すぎる」に自ら着手すればよい。

これこそが、実は自縄自縛によるものである。


なぜ理不尽なことややらねばらないことが多く存在しているのか。

ずばり、子どもや周囲の人に対し、その理不尽を自分が求めているからである。


無限に例を挙げられるが、『不親切教師のススメ』で書いたものや各種関連記事は、そこを訴えている


どれも、現代においては非合理で理不尽である。

理由はわからずとも「慣例」としてやらせる。

慣例は人権に優先する。

例えば「みんな」がやっているのだから、個人の「休み時間」は関係ない。

意味があるかは別として、周囲のみんながやっていることは日々やらねばならない。


そういうことである。

やっている側も、同じように感じていることはないだろうか。


つまり、普段自分が人にやらせていることにより、自分もそのルールに縛られることになっている。


慣例であれば、理不尽にも耐えねばならない。

それがやりたくないものであっても、屈辱的であっても、耐えねばならない。

みんながやるのであれば、私も絶対にやらねばならない。

規律が何より大切だ。

自分勝手はいけないことだ。

何より和を大切にし、乱してはならない。

・・・・・


道徳的である。

それも、考え、議論する余地を与えない道徳である。


自分が理不尽だと思って不満を抱いていることであれば、何でもいいのである。

自分も子どもや周囲にそれをやっている可能性が高い。


「コロナ対策」と銘打って、不必要なまでの過剰な感染症対策や消毒作業を命じられて日々行っているとする。

その場合は恐らく、子どもにも厳しくそれを求めているはずである。

「そこまでやらなくても」と心の奥で思うほどにやらせているのなら、自分自身も普段それをやらされているのである。

自分が一生懸命やっている分だけ、相手にもそれと同等の基準を求めてしまうという当然の心理である。


例えば「子どもたちが言うことをきかない」でもいい。

それは自分が普段から無理矢理言うことをきかせようとしている姿勢の裏返しである。

その根本は、自分自身が心の底で管理に対し反発しているからかもしれない。


例えば「子どもが勉強をせずにだらしない」でもいい。

それは自分が普段から「勉強をさせて成果を上げねばならない」という強迫観念で強制している証拠である。

そして、自分自身が勉強していない現実を見たくないのかもしれない。


例えば「保護者の要求が激しい」でもいい。

それは、普段子どもや家庭にこちらが激しく求めている証である。

根本は、やはり自分自身が管理職や周囲から強く要求を出されて苦悩している可能性がある。


あるご家庭に「もっときちんと見てください」と言えば、周囲も「先生、もっとよく見てください」と返ってくる。

それも、直接ではなく、間接的に返ってくる。

Aさんの家に言ったことが、Bさん、Cさんの家に周り回って、やがてDさんの家から来るのである。


「宿題をきちんとやりなさい」と全員に強く指導する。

そうすれば「宿題をきちんと見なさい」と全員がこちらにも強く要求してくる。

作用反作用の法則で、当然のことである。


不親切教師のススメ』では、この苦しみから脱する提案をしている。

苦しみの根源は、教師の善意による過剰な親切である。

その善意が、人を苦しめているかもしれないという自覚をもつか否か。

それこそが自らの苦しみの根本的解決への道標である。

例えば7章で「子どもの家庭を覗かない」ということを提案しているのは、そのためである。


その過剰な親切をやめれば、自縄自縛が解ける。

自分自身の手で、自分自身を縛る縄をきつく握りしめ、引っ張っている事実に気付くことである。

その手を緩めれば、さらっと縄が解け落ちる。


そして無理なく教室での生活を子どもと一緒に楽しんでいる教師の姿を事実として示すこと。

「先生って、いつも暇そうだね!」と子どもに言ってもらえる&世間に認識されるようになったら、ある意味大成功である。


全国の教員が一斉にその気になれば、すぐにでもできることである。

絶対に解けないと固く信じているその手を緩めてみる。

隣の人の縄があっさり解けるのを見た人が、自分もそうしようと真似して緩めて解く。

この連鎖である。


採用試験の倍率を上げる鍵は、実は私たち現役教員の手にこそ委ねられているかもしれない。

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