2019年3月31日日曜日

帰りの会での一考察

いつかの帰りの会の話。

「係からの連絡」などのコーナーを設ける。
そうすると、毎年どの学年でも、必ず起きる現象がある。

子どもから子どもへの注意である。
係や当番の子どもから「みんなきちんとしてください」という類のものである。

「自治」という面からすると、悪くはないように思える。
しかし、毎日帰り(あるいは朝)にこれを聞くのは、はっきり言って不快である。

先日、時間があったので、「たまにはあれば」ということで促すと、出る出る。
その日は、6人の子どもから「注意」が出た。

さて、その直後で尋ねてみた。
「今出たもの、全部言える人?」
全く手が手が挙がらない。
4つ、3つ、2つと下げても、まだだめである。

「1つは言える?」ときくと、やっと手が挙がった。
最後の一人が言った「使ったティッシュなどのごみを床に落とさないでください」というものである。

何と、他はほとんど覚えていなかった。
衝撃である。
しかも、注意した子ども自身も、自分の言ったもの以外は全く覚えていないという有様である。
(実は大人と同じで、よく周りに注意する人ほど、他人の意見は聞いていない。
普段掃除をさぼっている子どもほど、「○〇君がさぼってました~」の告げ口が多い現象と根本は同じである。)

よく考えれば、「音声」なのだから、当然である。
聞いた刹那に消える。

ただ、2つ目、3つ目と全体で聞いていく内に、だんだんと思いだしてきたようではある。

これは、特異な現象ではない。
おそらく、どこの教室も同じである。
一年生だからではない。
実は過去十数年、何度も実験しているが、学年が変わってもどこでも同じである。

ここから何がわかるか。

1 帰り間際の注意はほとんどきいていない
2 話を聞いているようで聞いていない、あるいはすぐ消える
3 人に求める割に、みんな自分が応じる気はない

結論。
多くの教室でなされているかもしれないが、この時間は無駄である。
もっと有意義な使い方ができる。

注意はいつすべきか。
その場が一番いい。
後になって言われても「後の祭り」である。
その場ですぐ直すのが一番いい。

「今日のきらきら」のようなものも同じかもしれない。
私は長らくやっていない。
いいところを見つけたら、その場で伝えるのが一番いい。
あるいは、紙に書いて個人的に伝える方が、残るし伝わる。
(逆に、注意はよほどしっかり伝えたい場合でない限り、紙に書かないのが原則。)

実は意外と聞いてない、伝わってない。
だから、忘れる前提で、短く、繰り返し伝える。
言おうとしている本人(教師)はできているか、自問する。
注意を伝える前に、原則として押さえておくことべきである。

2019年3月29日金曜日

「お隣を見ない」理由を語る

わからないから、お隣の人にきく。
望ましい行為である。

しかしながら、テストとなるとその意味は変わってくる。
一年生であっても、自力が求められる。
(そもそも、力さえつければ一年生に本来テストは不要、というのが持論ではあるが、ここでは置いておく。)

なぜか。
テストは自力そのものの結果を計測する「実験」だからである。
普段の授業とは意味合いが異なるのである。

実験では、条件を揃えるのが鉄則である。
「自力」というのが揃える条件である。
学校等のテストの場合、必要な知識が身についているかを測定したい。

学校のテストの本来の本質的な役割は、成績をつけるためのものではない。
力をつけるためのものである。
(しかしながら、実際は手段が目的化している感は否めない。)

一方、センター試験等の入学試験系では意味が全く変わる。
完全に測定&順位付けが目的である。
だから、不正は即「ランク外」=「退場」となる。

学校のテストでは、誰が結果を知り、生かすのか。
まず自分。
採点する教師。
そして親。

三者が、子どもの「未達」部分を把握し、改善に生かす。
できるようになる。
これが望ましいサイクルである。

これを、お隣を見て書く、という行為をOKにして進める場合、力を知る場を別に設ける必要が出る。
特に、ひらがなや漢字のようなものは、未達のまま学年が上がると、大きく響く。
現在のグラフの傾きが少し緩くなれば、先々の方向は大きく下方修正することになるからである。

テストの結果自体は、不正をすれば、高得点が得られる。
しかしこれは、後で確実に痛い目に遭うのが目に見えている。

学年が上がるにつれて、どんどん差がつく。
不正をして乗り切り続けた場合は、不正のできない勝負どころで、当然がくんと結果が落ちる。
(まあ、元々あまりできないからやるという面があるとは思う。)
悲惨である。
自業自得とはいえ、無残である。

結局、学力向上に関しては、本人が地道にやる他ない。
その素地を、早めにつくる。

また、手本を見ても同じようにできないことがある。
それが、技能系。
書字や楽器の演奏、運動技能等である。
これは、不正ができないので、測定しやすい。
大いに手本を真似をさせるところである。

テストでは、隣を見ない。
その理由も話す。
そのテストの結果そのものなんて、どうでもいい。
そういうことは、きちんと教える。
その学年の内、あるいは人生の中で、その力がつくかどうかが問題なのである。

この手の不正は、本人の生涯に損害をもたらす。
道徳的な崇高な話ではなく、単に損得レベルからしての問題なのである。
短期的な利益を求めて、長期で大損害を被っては意味がない。

だからといって、不正を厳しく取り締まるのも違う。
取り締まりによって人間が改善されることはない。
表面は穏やかになったようでも、水面下で溜まるだけである。

教え、諭すしかない。
不正をする人間は、大抵、もがき苦しんでいるのである。
そこへの理解は、必要である。

不正をさせない。
長期的な損得をしっかり考えさせる。
他のあらゆることにもいえる、普遍的原則である。

2019年3月28日木曜日

一瞬で理解できる天才肌をどうするか

棋士の藤井聡太七段の言葉。

「学校では、5分で分かることを、どうして45分もかけて教えるのだろう。」

これは、天才の言葉である。
そのまま鵜呑みにして一般化してはいけない。
本当に授業を5分で終わらせたら色々困る。

一方で、必然性もなく、45分かけている授業があるのも事実。
いわゆる「できる子ども」や、逆に「理解の遅れがちな子ども」にとっては、他と同じものを与えてはいけない。
それを使って、理解するのに45分が長すぎる、あるいは短すぎるからである。

授業についていけない子どもを放っておくことは、一般的にも許されない。
一方で、内容を5分で理解してしまう子どもを放っておくことに対してはどうか。
こちらには、なぜかみんな寛容である。

これは、不当な差別である。
どちらも、もちろんその中間も、放っておいてはいけない。

遅れがちな子を支援する。
あるいは割合の最も大きい中間層を優先する。
この二つは、割とよくみる。

しかし、秀才、天才の含まれる層を優先する、というと、多分批判される。
理由は色々考えられるが、多分そうである。

本当は、そこがかなり大切なのである。
5分で理解してしまう子に手だてをうてていないことが、学級の機能不全を引き起こすことが結構ある。

この層は、発展的な課題にもどんどん取り組んでクリアしていくため、他の模範や目標になる。
また、サポートでも大いに力を発揮する。
本質的に「わかっている」からである。
つまり、集団全体を大幅に引き上げる力をもつ。

それはつまり一方で、放置しておくと、大変なことになるということ。
誰が担任しても、いつもふてくされているAさんなら、関わりよう、励ましようがある。
一方で、真面目で優秀、あるいは天才肌のBさんがもし反抗し出したら、凡人の手には負えない。
特に中間層の集団を引っ張る智恵と力が強いからである。

つまり深刻な学級崩壊とは、
「この人、もうダメ」
と超優秀なBさんにまで見切りをつけられた状態である。

私はよくセミナーで、これを説明するために漫画の「GTO」や「ごくせん」を例に出す。
どちらも、学校をめちゃくちゃにしている一見「悪ガキ」どもが、実は超優秀だったり心根の優しい子どもたちだったりするのである。
つまり、子どものリーダー的存在が、正の方向か負の方向か、どちらに振れているかで現象が異なって見えるだけである。
鬼塚もヤンクミも、それらの子どもの心をつかむことで、立て直しに成功している。
ストーリー自体は破天荒で完全に漫画の世界だが、本質的には現実のそれと同じである。

天才には、「普通の授業」がつまらなくて、苦痛なのである。
「自分にやれることがない」という苦痛である。
中学校以降で、数学がさっぱりわからないで授業を受けている子どもと、ある意味同じ絶望感である。
檻に入れられて、時間いっぱい耐えている感じである。
これは、肝に銘じておく必要がある。

天才だから無理、で片付けない。
本当に秀才、天才だったら、ものすごく高い課題を与えても大丈夫である。
考えて乗り越えてくる。

繰り返すが、これが結局、中間層の引き上げや、わからないで困っている層を救う手立てにもなる。

こういった「少数派」の声に確実に耳を傾けることが大切である。

2019年3月27日水曜日

「予測する能力」が名プレーヤーの所以

次は、ソフトバンクの孫正義氏の言である。

「予測する能力」が名プレーヤーの所以
(出典 「みやざき中央新聞」2772号)

何度か紹介している「みやちゅう」の記事からである。
この言葉に、とても納得した。

孫氏は、スポーツの名プレーヤーを例に挙げている。
これは、学級担任の仕事にも当てはまる。

ベテラン先生の学級を見ると、特別なことをしてなさそうのに、子どもが育つ。
欠点や苦手な面もかなりあったりするのだが、何とかなってしまう。

なぜかというと、この「予測する能力」に一日の長があるからである。

例えば難しい質問への切り返しは、適当にはできない。
相手がどう来るか、予測しているからこそできる。 

学級経営は「当たるも八卦当たらぬも八卦」では、うまくいかない。
特に小中学校の教師は、素晴らしい結果を一発出せるよりも、コンスタントに安定して学級運営ができる方が求められる。
学校全体を運営する管理職の立場で考えれば、当然である。
(一部の進学校や部活動中心の学校は、有名校への進学率や大会優勝のような方を求められるかもしれない。)

「想定外」は少ない方がいい。
ある人にとってはものすごい「想定外」な行動でも、知ってる人にとっては「想定内」である。

例を挙げる。

例えばだが、「いつも」悪さをして叱られる子どもがいる。
(「いつも」なんて有り得ないが。)
散々叱って、「もうやりません」と言わせる。

この時点で、対応がまずいことがわかる。
「もうやらない」訳がない。
「もうお腹が空かないようにします」という約束に近い。
「もう好きにならないようにします」という約束に近い。
そんなことは、無理である。

対応が間違っているのである。
こういう子どもに「もうやらない」なんてできそうもない約束をさせることのデメリットは、計り知れない。
子どもに自分を「悪い子」と認識させるための時限爆弾を仕込んでいるようなものである。

本来ならば「次は同じことになった時に、もう少し○○できるようにがんばってみる」程度の確認でよい。
「うまくいくかはわからないけど」ぐらいでいい。
ただ担任は「信じてるよ」と伝えればいい。
信じるのは「約束」ではなく、こちらの勝手かつ個人的な「信仰」なので、問題ない。

そしてここが予測力なのだが、きっと、多分、またやる。
9割9分、やる。
やらないだろうなんて期待する自分の滑稽さを、笑ってみる。
だけど、そんな中で、1分の可能性を信じている。
この塩梅がコツである。
宝くじを買って大当たりを期待するのとほぼ同じである。
(そうでないと、うまくいかないことに腹が立って、こちらがもたない。)

予測力。
それは即ち、とっさの対応力につながっている。
何事につけても必要な能力である。

2019年3月26日火曜日

「してあげる」は見返りなしのプレゼント

「してあげる」ということについての一つの観。

学校は、子どもに何かとしてあげる場である。
いくら主体的に、といっても、何もしてあげない訳にはいかない。
教育の場なのだから、当然である。
(親が子にしてあげるということも同様である。)

さて、「してあげる」の意識が多いほど、ストレスがたまる。
こんなにしてあげた「のに」が登場するからである。

ここの意識を変える。
して「あげた」のだから、返ってこなくてよいと考える。
「あげた」ものを「返せ」というのは、横暴である。
「いつになったら返すの」とか言われたら、もらったと思っている方はびっくりする。

「あげる」は「貸し」とは違う。
「あげる」というのは、プレゼントである。
見返りを期待するものではないし、相手が喜ぶかどうかも、相手主体、相手次第である。

プレゼントの最大の恩恵は何か。
あげる側の幸福感である。
相手の喜ぶ顔を期待する幸福感である。
選ぶ段階から楽しいのが、プレゼントの本質である。

プレゼントを渡した相手が、喜ばなかったとする。
「これ、いらないや。」と言うこともある。
この時、相手を非難するのはおかしい。
(まあ、子どもでなかったら、通常「嬉しい」「ありがとうございます」ぐらいは言うという礼儀はある。)
たまたま、プレゼントの選択が良くなかったのである。
そこをくよくよしても仕方ない。

あげたら、それで終わり。
見返りを期待しない。
返してもらおうとしない。

こう考えるだけで、ストレスが大幅に減る。
例えば、ものすごく力を入れた授業研で、子どもの反応が思うより良くなかったとする。
そこに怒るのは、当然変な話である。
(授業がつまらないという証である。)

自分があげたくてあげたのだから、そこまでである。
見返りを期待しない。

あらゆることに応用の効く観なので、紹介してみた。

2019年3月25日月曜日

通知表って何なんだ

3月には数日間「短縮日課」になっている学校も多いと思われる。
通知表の成績をつけるためである。
子どもにとっては早く下校できるから、たくさん遊べるいい機会である。

ところで、通知表とは、法的にどのような位置づけのものなのか。
メルマガの方のタイトルに「二十代」を冠していることもあり、老婆心ながら記す。
以下、文科省のH.P.より引用である。
(元々が表になっているので、表記の都合上、一部改変して記す。)

==============
通知表(通信簿)
【法的な性格と内容】
・保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。
法的な根拠はなし。

【作成主体】 
・作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。
・自治体によっては校長会等で様式の参考例を作成している場合も。

【文部科学省の関与】
・なし。
================

文部科学省のH.P.に記されていながら、「関与なし」なのである。
つまり、法的には、なくても問題ない。
「慣例」である。
(ただし、指導要録の方は、教育委員会の定めた様式で作成する必要がある。)

要は、法的根拠がないとはいえ、家庭の理解や協力を求めるのが存在理由である。
「子どもを励ます」というのは、正当な気がするので誰も反論しないだけで、実は時代の流れにおける後付けの理由である。
あくまで、保護者向けである。

通知表には、課題が結構ある。
所見作成に時間を割きすぎるというのは、拙著『「捨てる」仕事術』でも詳しく書いた。
道徳科の記述評価が本当に必要かというのは、現場の恐らく9割以上の人が感じている疑問である。

「正しい評価」の弊害の面も考える必要がある。
例えば私は、当時相対評価だから仕方ないが「C」をくらった教科がいくつかある。
一生懸命やっての「C」である。
もちろん、嫌いになったし、今でもそれらの教科は不得意だと思い込んでいる面がある。
(比較して並べられて×をつけられたのだから当然である。順位付けの弊害である。)
つまり、その評価が正しくとも、教育的にマイナスの効果をもたらすことがある。

一方で、以前紹介したが、5段階で「音楽1」を付けられた子どもが、世界的な音楽家になることもある。
別に1をつけられたから発奮した訳ではない。
評価のミスをしただけである。
評価者の「見る目」の問題である。
音楽や図工などの芸術系教科は、特に評価が難しい。
例えば誰があの名作とよばれる抽象画を「良い」「悪い」と評価できるのか、という問題と同じである。

つまり、その評価が本当に適切かどうかなんて、誰にもわからない。
だから、一番わかりやすい「テスト」での〇×の数を問うのである。
合否と同じで、文句のつけようがない。
一般的に学校のテストは「成績をつけるために存在している」といっても過言ではない。
手段の目的化である。

通知表は、何のためにあるのか。
学校の「当たり前」として見直すべきものの中の一つである。

2019年3月23日土曜日

選択できる子どもを育てる

範囲を決めて選択を促すことの大切さについて。
主体性を育てるには、日常が全てである。

私は給食一つとっても、子どもに食べる量を事前に決めさせている。
今年度の1年生の自分の学級でとった給食システムについて紹介する。
(多分、ちょっと特殊である。
真似する際には色々と注意が必要である。)

最初に「少な目・早食べ」の子どもたちが配膳の場へ並ぶ。
これは、食が細い上に、ゆっくりしか食べられない子どもたちである。
かなり少ない量にも指定できる上に、この数人が配膳し終わった時点で食べ始められる。
食べる速度が他の子どもと比較して、圧倒的に遅いからである。(これは仕方ない。)

量を細かく指定できる。
他の人より早く食べ始められる。
時間が長い。
「少な目・早食べ」はメリットだらけである。

ただしこれら多くのメリットの代償として、おかわりが最後の最後までできない。
他の全員のお代わりの希望が完全に終わり、それでもなお余ったものに対し、完食できる場合のみにおかわりできる。
単に他より早く食べ始めたいだけの子どもが混ざるのを防ぐための、敢えてのデメリット設定である。
(元々があまり食べない子どもたちなので、通常おかわり自体をほぼ希望しない。
この仕組みが本当に必要な子どもたちにとっては、ノーデメリットである。)

その上で選んだ量を失敗することも多々あるが、その積み重ねが大切である。
そして、自分が選んだからには「次はがんばるか、量を考えようね」と、責任も持たせられる。
「今日は完食できたね。」と自分の選択を認める機会も増える。
一部の食の細い1年生にとって、給食は大きな壁なので、結構な配慮が必要である。

ちなみに、この方法は他の子どもにも喜ばれる。
おかわりがたくさんできるからである。
「捨てる神あれば拾う神あり」で、減らしたことで余ったものが、ある子どもにとっては大好物だったりする。
例えば昭和から現在まで定番人気メニューの「揚げパン」は、通常一人一個なので余らない。
しかし「半分」「半分の半分」「3分の1」などと指定すると、確実に余ることになる。
(ついでに1年生にして分数の学習もできる。)

長々子ども自身が選択できる大切さについて書いたが、逆の大切さもある。
大人の決めたことに従う、という場面もあって然るべきである。
一方で、範囲を決めた上で、子どもに選択させる機会も大いにあっていい。
つまり、バランスである。

周りの大人がそれぞれ異なる考えを持っていることが、子どもにとっては良い教育になる。
世の中には様々な考え方があるということも学べる。

給食一つでも、主体的に選択するための教育ができるという一例である。

2019年3月21日木曜日

「とっさ」のうまい対応は準備が命

来年度、高学年担任の方に、読んでいただきたい本。

『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』 
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237

今回は、高学年~中学生の担任、あるいはその親御さん向けの本である。
37のすべての事例について
1 問題場面の把握
2 NG対応を知る
3 OK指導例を知る
4 指導の根底を考える
という4つの流れで説明・構成されている。

ちなみに「第4章 高学年 お年頃女子への指導」は、
・高学年女子のグループ化への対応
・グループ共通で不要な物を持ってきた時への対応
等について具体的に書いてある。
ここに無策のノーガードでいくと、大けが必至である。

メルマガ上では、具体的なハウツーは控えめである。
ニーズがそこよりも、より哲学的な面にあるからである。
読者も、教師に限らないからである。

本の場合はそこも詳しく書いてある。
ニーズがより強くあるからである。
買った人が、お金を払ってまでも知りたい「職能」の具体だからである。
哲学があっても実行方法がわからないというのは、職務の遂行上困る。
医学に関する本に一般の人も興味をもつが、手術の具体に関する本を読むかどうかは別、という話と同じである。

この本の一番の願いを、巻末に書いた。
全国の一つでも多くの学級に、笑顔が増えることである。

学級担任というのは、情熱だけでは成り立たない。
たくさんの知識と、それをうまく使いこなすだけの技術が必要である。

情熱も知識も技術も、使い方次第である。
以前「善魔」という言葉を紹介したが、あれが最も厄介である。

自分では善いことをしているつもりで、相手を苦しめてしまっていることがある。
自分では最善を尽くしているつもりで、どんどん深みにはまっていることがある。

サーフィンで波にのまれて溺れている時に、底に向かって必死に泳いでいる状態。
あるいは、山道に迷っていて、どんどん森の奥深くに向かっている状態。

危険である。
努力すればするほどマイナスになる。
事前の知識と技術が必要である。

のまれたらもがかないで、じっと丸まって待つという知識があれば、対応できる。
山に入る時は、コンパスという道具をもち、それを見て進むという知識があれば、正しい方向に進める。

本は「道具」である。
読んでおけば、「ああ、これはあの危険場面だ」と察知できるようになる。
対応が変わる。

高学年の子どもに関わる人には、有用な道具になるはずである。
とっさのうまい対応は、準備が命だからである。

来年度高学年を担任される方に、ご一読をおすすめする。

2019年3月19日火曜日

強いものの共通点

あらゆる分野において、「強い」というものの共通点を見出だした。

まず、一般的な強いイメージをあげてみる。
サッカーやボクシングのようなスポーツでも、
将棋のようなものでも賭け事でも投資でも分野は何でもいい。

例えば、ものすごい攻撃力、爆発力がある。
あるいは、逆に一切の攻撃を受けない、損失を出さない。

違うのである。
確かにそれも強さの要素だが、結果を出し続けるのが難しい。
どこかでミスをした時、一発逆転でやられる怖さがある。

では、ミスをしたことがないというのはどうか。
文字通り「完璧」という状態。
「私、失敗しないんで」というやつである。
これが怖い。
失敗した時のダメージが計り知れない。
これも、一発逆転される怖さである。

本当に強いのは、打たれ強いということ。
もっと正確にいうと、ダメージを最小限に抑えられるものである。
(しつこいかもしれないが、特にプロレスでこの技術は最も顕著である。)

将棋の名人でも、ミスゼロは難しいという。
相手も考えており、ミスへ意図的に誘い込まれるからである。
本当に強い棋士は、ミスのダメージを最小限に抑え、次に備える。
ミスにくよくよせず、試合中は一旦忘れて引きずらないのだという。

ボクシングだと、「いなす」という技術である。
植物に例えると、柳である。
相手からすると、クリーンヒットしてるはずが、殴っている感触が軽いという。

投資なら「損切り」である。
ここの上手さがトレーダーとしての明暗を分けるという。
一発勝負が売りでは、安心して大事な資産を預けられない。
元手を減らされないという安心感が一番大切である。

どれも、ベテランが得意とするところである。
若手がパワーでやり込めることもあるが、二度は通じない。
いわゆる巧みさとは、そういうことである。

学級経営でも当てはまる。
安定感のあるベテラン先生の学級でも、小さな問題は起きる。
それを、解決できる力がある。
つまり、ミスを前提に、ミスのリカバリーができる力をつけるということである。

そして意外と、いわゆる必殺技的な実践はないことが多い。
その代わり、何を指導しても、きちんと成果を出す。
わからない場合には若手にも遠慮なく「教えて」と聞く。
何事においても、柔軟なのである。

私自身はベテランというほどではないが、ずっと尊敬するベテランの先生を意識をして実践している。
問題はちょこちょこ起きるし、厳しいご指摘をいただくこともある。
しかし、それでも何とかなっている。
敢えて言うなら大縄などの指導はまあ得意だが、必殺技というほどの実践でもない。
事実、なくてもやれる。

学級経営全体で小さい失敗を結構するが、大概リカバリーできる。
ダメージを最小限にして、更にその失敗を生かすことができる。
転んでもただでは起きないのである。

とっさの対応ができるとも言える。
それは、とっさに思い付くのではなく、予め似た体験で構えができているからである。
(そう、この二文は、宣伝である。
『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3

「受け」の対応技術は、強さの大きな要素の一つである。

2019年3月17日日曜日

長所伸展・短所無視

長所伸展・短所無視。

これは、私のノートに書いてある「大切にしている言葉」の一つである。
様々な方が言っていることなので出典ははっきりしないが、かの吉田松陰もほぼ同じことを言っている。

逆に一番うまくいかない教育の方針が「苦手克服」である。
よく「夏休み中に苦手の克服」とかいうが、本来「休み」を標榜する学校の出すべき方針ではない。

夏休みの短期間補講や、冬休みに一律の宿題で出して家庭教育の中で克服できることなら、普段学校にいる間にどうにかすべきである。
万が一そんなことぐらいでできるようになってしまったら、普段の授業がいかに駄目かということの証明である。
宿題に頼るのではなく、授業自体を改善の必要ありと自覚するのがまっとうである。

今の仕事は、人生で苦手を克服したから、成功しているのか。

大抵、答えはノーである。
多くは、長所を伸ばして成功している。
あるいは、やりたくないことを我慢し続けて、表面的に「成功」しているかもしれない。

克服しようと努力し続けられること自体、既に特筆すべき長所である。
(早起きと同じで、良いとわかっていても、単に向いてない人には向いてないので、できないという面がある。)

学級がうまくいかなくなるのも、大抵この視点である。
学級の中の欠点をなくしていこうとがんばってしまう。
つまり、ダメなところに着目して指摘していく。

そうすると、子どもは不適切な行動をとればとるほど、着目してもらえる。
つまり、悪ければ悪いほど報酬がもらえる。

普通、あらゆる場面において、不適切な行動が多いのは少数派である。
それを、敢えて増やす行為に出る。
自然、中間層も不適切行動に流れていく。

逆である。
優れた方に目を向ける。
長所伸展・短所無視である。

適切、という言い方をするならば、学級というのは最初過半数は適切な行動をとる。
なぜなら、自動的に同調圧力が働くからである。
逸脱行為は好まれない。

変な目立ち方をしようとする子どもの行動に対しては、一旦受け流す。
不適切行為への対応をできるだけ優先しないのが肝要である。

逆に、優れた行為はしっかりと認めていく。
すると、子どもたちは素直なので、当然真似をする。
自然、その行為をする子どもを増やすことになる。
必然、そういった行為の多い集団になっていく。

それができない、という子どもでも、特段に注意されたり叱責される訳ではないので、問題ない。
他の面で良い面があれば、そちらで注目してもらえるし、その気になれば真似をしだす。

そして人間は認めてもらえて自己承認が満たされると、人に優しくなる。
困っている人を自然に助けたくなる。

そうなると、自分ができることは助けてあげるし、自分ができないことは助けてもらうということが自然になっていく。
相互協力が当たり前の集団に育っていく。

単純にいうと、そういう仕組みである。

そもそも、人間というのは、不完全さをどうにかしようとすると、おかしくなる。
「不完全なようで完全」である。

自然のままの作物を見ればわかる。
スーパーに並んでいるきれいで揃った野菜や果物は、「商売」を目的として生き残った、ある意味「不自然」な品々である。
品種改良や農薬、さらには廃棄を含めて、人間の「こうあるべき」の手が入りまくっている。

人間は、そうではない。
一見駄目なところもありつつ、ありのままの自分でできることをしていくというのが大切なのである。

自分にできないところがあるからこそ、他人にその素晴らしい能力を発揮する場を提供できるともいえる。
商売の基本も、そういう仕組みである。
世に不足や不備があるからこそ、商品を提供できる。
全員が万物を作り出せる完璧な存在だと、需要と供給が成り立たない。

細々したことはあっても、大きなコツは、それだけのことである。
逸脱行為や欠点を「放っておけない」と変な正義感を出して矯正しようとするから、失敗する。
駄目なところは、とりあえずでいいので、放っておいてほしいのである。
そんな暇と洞察力があるなら、いいところを一つでも指摘して気付かせてほしいのである。

長所伸展・短所無視。
吉田松陰はじめ、数々の優れた先人たちの、共通の教育方針である。

2019年3月15日金曜日

反抗期の猛攻に「受けの美学」

「受けの美学」について。
読者のお便りからの気付き。

「受けの美学」は、教師にはもちろん、親にも必要であると気付かされた。
特に、反抗期の子の親には、我が子の理不尽な猛攻を「甘んじて受ける」という気合いが必要である。

この攻撃を、やたらと避けたり封じたりしてはいけない。
確実に負のエネルギーとして蓄積する。
プロレスよろしく、「ばっちこーい!」と(できれば)余裕をもって受けとめ、エネルギーを解放するのである。
親的には瀕死の重傷レベルに痛いかもしれないが、だからこそ展開をドラマチックに盛り上げる大事な要素になるのである。
やはりドラマは「死の淵からの生還」が一番盛り上がる。

逆にこれをやらないと、将来が相当大変なことになる。

中学生に
「〇〇ちゃんは、いい子だからそんなこと言わないわよね・・・」
と涙ながら、あるいはしたり顔で諭す親を想像してもらいたい。
かなり気持ち悪い。
かつてのドラマの「冬彦さん」の親よろしく、である。
(昭和の方にしか伝わらない。)

この攻撃の封じ方は
「いい子封じ」という裏技である。
(教師も無意識に使いがちなので要注意。)
攻撃自体をさせない最強の裏手であるが、プロレス的「受けの美学」からすると、一方的な攻撃であり、醜悪の極みである。

手順は次の通り。
1 「悪いことを言ったりしたりする子は悪い子」というレッテルを貼る。
 (世間全体に対して貼る。近所の子ども等に貼ってもよい。)
2 「悪い子は愛されない」と子どもに認識させ、全ての子を「良い子」と「悪い子」の二分化させる。
3 親の言う通りにしたことや望む良い成績をひたすら褒める。望ましくない行為や結果は全て叱る。

これで、ばっちり出来上がりである。
一つも悪いことをしなくなり、結果を求めて努力する模範的な「良い子」になる。
ただし、親の目の届く表面的に、である。

特徴として、なぜかこの子は、学校の担任から意味不明な呼び出しがかかることが多い。
我が子は「良い子」なのに、納得いかない。
結論、担任もクラスの子どもたちも含め、我が子以外の学校側が全て「アホの集まり」ということで納得する。
当然「クレーム」をつけるのが「正義」なので、そうしてあげる。
学校の側の教育を直してもらわないと、困るからである。
全く、困った愚民どもである。

まあ、こういう思考になるが、ある日間違いに気付く。
「良い子」がある日突然の反旗を翻す。
自我が発達し、自分の親が変なんじゃないかと気付き始めたからである。
自分をこんな風にしたのは、親のせいだと強い憎悪が生まれる。
この後は暴力行為はもちろん、最悪、殺傷事件に至ることもある。
(ちなみに暴力行為自体は、適切に育っている子どもであっても、制御不能なエネルギーの暴走として発生する。
「受けの美学」発揮である。)

つまり、小さいころから適切に「不適切」を出させて、周りが受けていないとダメなのである。
けんかもするしいたずらもする。
悪口を言うこともいじめをすることもあるし、怠惰な面もある。
朝は起きられないし、忘れ物ややるべきことの先延ばしも日常茶飯事である。

全部自分のことなのではないかと思った人は、正解である。
子どもも大人と一緒の人間である。
大人だって、全然完璧じゃない。
穴だらけのようだが、実はそれも含めての完全なのである。
駄目な感じの自分がたくさんいるけど、それもすべて愛で受け止める。
子どもに対しても、そこは同じである。

プロレスの「受けの美学」は、なかなかに深淵な哲学を含む。
攻撃を甘んじて受けられる、強い心と身体とを鍛えていきたい。

2019年3月13日水曜日

3.11 復興支援の継続が必須

3.11の震災から,ちょうど8年が経過した。

土曜日、また南相馬へボランティアに行ってきた。
今回はそのレポートと気付き。

南相馬のボランティアセンターには、3.11直前の土曜日ということで、たくさんの人が集まっていた。
中には、海外の若い人たちも参加していた。

海外からも「何かしよう」という人がいること。
国という単位は生活の上で必要だが、国境を越えて同じ仲間として活動しようとする人がいる。
希望のもてることである。
インターネットの国境がなくなったこれからの世界は、現実の面でもそうなっていくのかもしれない。

さて、例のごとく依頼内容は、お得意の「竹林伐採」である。
8年間以上手つかずの竹林というのは、密度が違う。
今回の任務は「完了」「ゴール」ではなく、長距離リレーの第一走者のような感じである。
そして「被災地に学ぶ会」と他団体との合同作業である。
とにかく角の一画をどうにかしようということで作業を開始した。

竹林伐採作業は、大きく6つの作業が入る。
0.下草刈りと作業場の確保
1.チェーンソーで竹を伐採
2.枝打ちと枝部分の処理(機械で粉砕)
3.50センチの長さに切り分ける
4.竹内部の節に穴を開ける(燃焼時の破裂事故を防ぐため)
5.処理場へ運搬

なかなかに、煩雑な作業である。
量が多く、とにかく進まない。
竹もまあすくすくとよく伸びていて、一本一本の作業量が多い。
しかし、やらねば進まない。
どんどんやる。

今回私は、初のチェーンソー使用担当である。
使い慣れた人の数が足りなかったからである。
エンジンのかけ方から分からず始めたが、慣れてきたら段々手際もよくなってきた。
竹は丸く空洞なので、丸の形に沿ってチェーンソーの根本部分を当てていくとうまく切れた。
大きな竹は切りきってしまうと、切れた瞬間にチェーンソー上に竹の全ての重さが載ってしまうので、注意が必要である。

やっている内に楽しくなるというのは、いつものことである。
そしてお昼の休憩時に気付いた時には、腰を中心に全身筋肉痛になっていた。
普段いかに使っていないかである。
肉体労働の後、青空の下で丸太に腰かけていただくお昼ご飯は格別である。
(昼食のお弁当も例の如く、鍵山秀三郎相談役からのご厚意の提供である。)

午後4時まで作業をし、終わった後、くたくたの身体を起こして、竹林を眺めてみた。

正直、見た目、あまり変わっていない。
全体の10%もいってない感じである。
時間と人数をかけた割に「まだまだ」という感じである。

帰りのバスの車窓から街の風景を眺めていて気付いた。

コンビニが増えた。
食事する店が開いている。
新しい家ができた。
駅では、電車から結構な数の人が乗り降りしていた。
工事車両がたくさん入っている。
街に、多いとはいえないけれど、以前よりもずっと車や人の往来が増えた。

8年も経ってまだこれぐらい、という思いはある。
住んでいる人たちにとっては、これは日常に感じていることなのかもしれない。
しかし、確実に、着実に、よくなっている。

ここの捉え方は、結構重要である。
決してよくはない状態なのだが、よくなってきている。
つまり、希望はあるけど支援は必要という状態である。
「復興したからもう大丈夫」では決してない。
一方で、「僅かずつながら、確実によくなってきている」というのも事実である。

集約すると
「決してあきらめないで、復興支援を続ける。」
ということが大切になる。
竹林への対処と同じで、一人が一回分でできる支援量は微量だが、これをリレーしていくことが大切である。
回数も人も、多ければ多いほどいい。
あきらめずに、みんなで長く続けることである。
必ず変化が起きる。

南相馬の地区では、仮設住宅の供与がこの3月で終了する。
(ただし特例で、もう1年延長の場合もある。)
この3月が、住民の人々にとって、またその支援をしようとする人たちにとっても、新たなスタートラインである。

絶対に、絶対に、あきらめない。
人間がこの思いをもっている限り、世界は確実によくなっていくという希望を学べた、今回の活動だった。

2019年3月9日土曜日

残業したい人としたくない人

残業の是非について。
1月のセミナーで少し話した内容をやや詳しく。

「遊びとプライベートを分けるか」ということに関心が結構集まった。
結論、どちらでもよいが、自分のタイプを見極めること、と伝えた。
完全に分けた方が心地よい人間と、一緒の方が心地よい人間がいる。
(私は後者である。)
幸せや価値観において、他人軸で生きないことが肝要である。

残業の考え方についても、同じことが言える。
結論、残業しようがしまいがどちらでもいい。
正義はそれぞれの自分の中にしかない。
究極、全ての残業は、仕事を優先したいからするのである。
(「上司が遅くて帰れない」という理由も、広義に見れば仕事に関する人間関係等を優先している。)

今の私自身を言えば、基本的にルールに則って動く方が心地いいと思っているので、しないのである。
自閉症スペクトラムの子どもが、急に時間割を変更したり時間を延長したりすると、当然パニックになることの延長である。

残業は、原則からするとルール違反である。
試合終了のホイッスルが鳴っているのに、無視してプレーし続けている状態である。
「蛍の光」が流れ終わったのにまだ買い物を続けている状態である。
それが気持ち悪いと感じる人間がいる、といえば、そんなに変なことではないだろう。

自分の哲学に則って残業している人がいる。
自分の哲学、美学に従って、仕事を完璧に仕上げたいのである。
思う存分するのがよい。
それが、エネルギーになる。

周りとの調和を気にして残業している人がいる。
自分だけ先に帰ると、和を乱すから、後々自分が困るという。
思う存分するのがよい。
それが、自分の精神衛生状態と立場を守ることになる。

問題は、そういった自覚症状のない残業である。

例えばあなたの上司が、完璧主義で残業肯定タイプだったとする。
品質向上のためには、どんなに時間と予算を投資しても構わないというタイプである。
一方で、あなたが私と同じ、決められた範囲内できっちり仕上げることを喜びとするタイプだとする。

これは、ニーズが食い違うので苦しい。
必然、部下であるあなたが相手に合わせる形となる。
裏で愚痴る羽目になる。

どうするか。

きちんと伝えることである。
自分はこういう哲学・信念・考えをもっているということを伝える。
あるいは、そういう行動をとって伝えるしかない。
時間外に、今でなくていいことをいきなり頼まれても、笑顔で「今日は無理です~」とかわせる切り返し力が必要である。

多くは「もっと見通しもって仕事をふってください」という本音が言えない。
その場合、仕事の人間関係を優先して喜んで残業するのが精神衛生上最も良い。

自分が上の立場の場合は、それを理解しようとする必要がある。
正義を押し付けていると犠牲が生じる。
相手には相手の考え方がある。

残業したくてしている人を、無理に帰そうとしない。
残業したくない人を、無理に引き留めようとしない。
仕事で大切なのは、正常に業務が回ることである。
労働時間の多寡ではない。
いずれにしろ、部下の働き方に不満があるとしたら、自分の仕事の振り方に少なからず問題があると考えるのが正常である。

自分のタイプの見極め。
何にもまして、大切なことである。

2019年3月7日木曜日

プロレスから「受けの美学」の学び

先日のプロレス観戦からの学び。

1月に東京ドームで行われたプロレスを観戦してきた。
初プロレス観戦である。

ご存知の方も多いと思うが、私はエンターテインメント関係にはさっぱり興味がない。
以前にもお伝えした通り、誘われたからである。
チケットまで全て手配してくれて、有難いことである。

結論からいうと、何もかもが大変勉強になった。
やはり、誘いに従って行ってよかった。

まず、あれだけの人を熱狂させる魅力があるということ。
4万人近くの来場者があったらしい。
セミナーを開催しますといって50人集めるのも大変なのに、桁違いの恐るべき集客力である。

次に、エンターテインメント性。
観客を喜ばせるというのがどういうことなのか。
そこに「お約束」の重要性がある。

関連して、主役と同等の悪役の存在価値の高さ。
対戦相手への信頼感とリスペクト。
相手を後ろから殴り飛ばして足で蹴っ飛ばして踏みつけて挑発ポーズをとっているけど、リスペクトなのである。
(この辺りはかなり一般的に理解しづらいが、そういうものなのである。)

特にあの、コーナーポストからジャンプしてのボディプレス等を「敢えて避けない」理由がよくわかった。
避けると、相手が大ケガするからである。
大ケガをして欠場になるということは即ち、次以降の大切な対戦相手を一人失うことになる。
特に場外へのダイビングは大変危険なので、確実に受ける必要がある。
敵である対戦相手も、大きな視点でいうと仲間だといえる。

また、エルボーや張り手も避けない。
敢えて受ける。
受けて受けて受けて受けて我慢してから、やっとやり返す。
一緒にいたプロレスファンの方々の言葉だと「受けの美学」なのだという。

(翌日の話になるが、ここに関連して講師の俵原先生の教えが印象的であった。
教師は子どもからの攻撃を「敢えて受ける」というこの「受けの美学」が足りない。
避けすぎずに、敢えて受けまくる必要があるという。
これは、カウンセリングマインドの考えにもつながる。
なかなかに深淵である。)

プロレス自体で考えずに、多くの人が観る、映画に例えるとわかりやすいかもしれない。
映画で悪役が倒されるシーンで、悪役が演技そっちのけで本気で戦って主人公を倒してしまったら、映画が成り立たない。
(というか、普通に撮り直しである。)
そこで悪役がやっつけられる演技を見て「やらせだ」とかいう人はいない。
観る側は何となく主人公が勝つことはわかっているけれど、完全には確信できない。
たまに悪役が勝つという展開が、エンターテインメント的にあり得るからである。

つまり、八百長とかやらせとかとは、別の次元なのである。
観客も審判も含めた全員での「お約束」であり、全員で作り上げる一つの作品なのである。

それも、ミュージカルの舞台やクラシックのコンサート等と同様に、その場の生の作品である。
ある程度の筋書きだけが決まっていて、その枠の中で出演者同士が自由に掛け合う。
観客はそこに興奮し、熱狂する。
映画よりもより舞台芸術に近い、やり直しのきかない作品であるという点に共通点がある。
(出演者同士や舞台裏との信頼関係が大切で、そこを失敗すると大けがするという辺りも、舞台に近い。)

また、別の面も学べた。
やはり、楽しむには知識である。
90%の人が盛り上がる時のその波に、さっぱり乗れない。
なぜ今この場面で盛り上がるのか、知識がなくてわからないからである。
(隣のプロレスファンの方の解説のお陰で多少はわかったのが救いである。通訳状態である。)

何事も、経験である。
そして、何事からも、学べる。
毎度思うが、師の野口芳宏先生の「誘われたら断らない」の教えは、本当である。

次も、木更津の近くで行われるとあるライブに行こうとお誘いを受けた。
もちろん誘われたので断らないが、更なる未知の領域に実はちょっと怖気づいている自分である。

2019年3月5日火曜日

犬のしつけと幸せ

今回は人間ではなく、犬の話題。
教育とも深く関わる部分があるので、書かせていただきたい。
犬のしつけの大切さと社会の相互影響について。

犬を飼っている。
そうすると、他の犬も見るようになる。

散歩をしていると、よくしつけられている大人しくて従順な犬がいる。
うるさく吠えかかってしまう犬もいる。
やはりここは、しつけらていて大人しい犬の方が、より幸せなのだと思う。

なぜか。
多くの人から可愛がられやすいからである。
安心して撫でてもらえるからである。
また、犬同士でも、無駄に吠えなければ仲良くなりやすいからである。

やたらと吠える犬は、噛まれそうだし怖くて手が出せない。
特に犬が苦手な人にとっては、尚更である。
(そして、単純にうるさい。)

なぜ無駄に吠えるかというと、要は不安感が強いからである。
実は、可哀そうなのである。
人間と同じく、強がりは怖がりの証である。
自身の困り感から生じているといえる。

我が家の犬は、千葉県柏市にある、下記URLのアニマルシェルターから仔犬の時に譲り受けた。
(よければ一度サイトを訪れていただきたい。)
参考:外部サイト「ライフボート」
http://www.lifeboat.or.jp/

我が家の犬は、保護犬故なのか、トラックが大の苦手である。
最初に保護・回収された時が、トラックだったのかもしれない。
普段は大人しいのだが、散歩中にトラックを見ると異常に怯えてパニックになり、ダッシュで逃げようとする。
(特にネット通販で最もよくお世話になっている某運輸業者のトラックが「超」がつくほど苦手である。)

また縄張り意識が強く、家の中に入ると気が強くなって、客人に吠えることがある。
これが大変困る。
(他の場だと誰に対しても一切吠えず、とても穏やかなのである。)
可愛がってもらおうにも、家で会うと、とにかく最初がうるさいのである。
しつけは普段からしているのだが、ここばかりはなかなかうまくいかず、残念無念である。

ちなみに、子どもよりも大人、女性よりも男性の方が慣れるまで時間がかかるらしい。
犬なりに「安心・安全」上の問題のようである。
庭に入ったものに向かっても吠えるので、家を守りたい意識もあるらしい。

繰り返すが、犬はしつけがしっかりしている方が、その犬自身にとって幸せである。
あらゆる人に可愛がってもらえる可能性が高まるからである。
最悪、飼い主に不幸があった場合も、次に引き継いでもらえる可能性がぐっと高まる。

残念なことに、「飼いにくい」と判断された犬や猫は、捨てられることもしばしばある。
ペットショップで、愛くるしくおもちゃのような子犬・子猫状態で買う際は、ここを十二分に承知しないといけない。
大きくなるにつれて大変になるのは当たり前だし、そこまでをしつけたのは飼い主自身である。

犬や猫は「飽きたから」「いうことをきかないから」「壊れたから」「汚い、古くなったから」
等の理由で捨てられるおもちゃと同じではない。
世話の覚悟もないような子どもがねだった、孫が可愛いぐらいのノリで簡単に買うのは迷惑千万である。
死ぬまで一切のすべてを背負う覚悟がないのなら、何百万円支払おうが買う権利はあっても飼う資格はない。
捨て犬猫一匹を保護して死ぬまで世話する団体や人の社会的なコストは、金額的にも精神的にも計り知れない。

これは、供給側のモラルの大きな問題でもある。
一方で需要があるから供給が成り立つという経済の関係性もよくよく考慮すべきである。
ネットで調べればすぐわかるが、ショーウィンドウ内で犬猫を展示販売できる日本は、世界的に見てもかなり奇異である。
それでも日本のペットショップが成り立つということの背景には、経済的に見ても大きな需要があるからである。

そして多くのペットショップは、買い手も売り手も本当にペットが好きな人たちで成り立っている。
ペットショップ自体が悪いのでは決してなく、法と社会構造自体に根深い問題がある。
参考:外部サイト「わんこライフ」
http://wankolife.net/pettogyoukainouragawa/pettosyoppumondai/

熱く語ってきたが、要は犬も猫も好きなのである。
好きなものを大切にしたいというのが当たり前の感情である。
そして単に好きだということと、大切にできることは別物なのである。

子どもに対してもそこは同様。
本当に好きならば大切にしたいと思うが、どうすることが本質的に大切にするということなのか考える必要がある。
ここで適切な躾がなされていることが、人間の子どもが育つ場合にも大きな意味をもつ。

次号で、犬の「しつけ」ではなく、人間の場合の「躾」の適切な在り方について考えていく。

2019年3月2日土曜日

やってあげてることは、一生できない

冬休みの時期に書いたメルマガでの気付き。

長期休みは、多少なりとも生活リズムが乱れる。
そうすると、家族の食事時間がずれる日も出る。
(私も度重なる様々な友人・知人との会合続きで、あまり偉そうなことを言えない立場である。)

下の子どもが、お腹が空いたという。
自分でトースターを使ってパンを焼けばよい。
そう伝えた。

意外にも、自分でやったことがなかったようである。
トースターの使い方がわからない様子。
他のことは結構自分でやれるのである。

やり方を教えて、今後は自分でやるのだと伝えた。
そして、1枚だけということを忘れたせいで、時間設定を失敗し、端の方が結構な具合に焦げた。
父の面目丸つぶれである。

料理の類は、覚えたての初期は焦がしたり駄目にしたりするのが前提である。
失敗するからといってやらせないでいると、いつまでもできない。
下手すると、一人暮らしするまで料理をしたことがない、という状態すら起きる。
私は幸か不幸か、小学生時代から親が家にいないことが多かったため、必然的に色々と作って覚えられた。

これは、教育においてかなり重要なことである。
やらせないとできない。
当たり前のことである。

しかし、多くはここにおいて失敗をしがちである。
自分は熱心で愛情深いと思っている教師や親ほど要注意ポイントである。

なぜやらせないのか。
(または、なぜ自分もやらないのか、挑戦しないのかという話にもつながる。)
次の二つが主な理由(言い訳)である。

1 危険だから
2 うまくやれなそうだから(失敗しそうだから)

この2つの理由が駄目なのは明白である。
やらせないから、いつまでも危険なのである。
やらせないから、いつまでもうまくやれないのである。

つまり、やれるようになることを「親切」にやってあげ続けるということは「無能教育」である。
親から切り離してやれるようにするのが、本当の親切である。

実は、潜在的にもう一つの理由がある。
こちらの方が、自覚しにくいので、気付きにくい。

ずばり、自分の存在価値のためである。

つまり
「自分がいないとダメなんだから」
と言いたい。

自分の能力誇示なのである。
存在の誇示といってもいい。
存在価値への固執ともいえる。

それは、いらない。
人ができるようになることは、やれるように教えればいいのである。

それよりも、自分にしかできないことに集中すべきである。
その方が、よほど自分の存在価値が高まる。
職場でも、ノウハウやデータをシェアした方が、自分だけで抱え込むより良い。

とりあえず、やらせてみる。
できない100の理由はいらない。
いいから、やらせてみる。

自主・自立を促す「生きる力」を育む教育の要諦であり、自己教育においても同様である。
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