2019年8月31日土曜日

自由とは枠のサイズのこと

自由についての主観。

自由というのは、枠のサイズのことであると考えている。
いつでも、枠がある中での自由である。
より自由になるとは、枠が広がることである。

これは「自分のやりたい放題」ということとは全く次元が違う。
それは自己中心性の次元の話である。
枠の話ではない。

だから、子どもを自由に育てると、わがまま放題になる、
という俗説があるが、それは前後の次元がずれた詭弁である。

実際は、大きめの自由の枠の中で育った子どもは、よく考えるようになる。
自由という枠組みは、決められた直線上を歩くのと違い、頭を使うからである。

例えば、夏休みは、自由の枠が大きめである。
何が自由か。

例えば、時間という枠である。
いつもの「毎朝8時までに登校、16時に下校」に比べると、かなり枠が大きくなる。
ただし「7月半ばから8月末まで」という枠である。

時間の使い方が自由というのは、頭を使う。
自分でタイムマネジメントしないといけないからである。

夏休みの宿題はどうか。
これも、どんな枠かどうかである。
「必ずやる」という類のものは、枠がないから、自由とはいえないかもしれない。
どちらかというと、線のイメージである。

「夏休みの友」を例にあげると、
「一問も解いてない」がスタートの点で、
「全部終えた」という点がゴールである。
この二点をつなぐイメージである。

しかし、これも考えようによっては、「自由」にできる。
「いつやるか」
「どれだけやるか」
「どの教科からやるか」
といったことが選べる。
そう考えると、地図の上に自分なりのルートを描くこともできる。
そこが自由という枠である。

つまり、全くの不自由も完全な自由も、両方存在し得ない。
どこをもって自由と感じ、不自由と感じるかである。
枠の大きさの話である。

自由の枠が大きいから、安心する、幸せ、という訳でもない。
トイレの個室と同じで、広いから落ち着くというものでもない。

ただ、自由でない方が安心、というのは、基本的に依存している状態である。
旅行プランを自分で立てるより、ツアーの方が楽、ということもある。
しかし本来は、自由に動ける方が、主体的だし頭も体も使う。
一方で、何の知識もない土地なら、現地の方に案内してもらえた方がよい結果になるかもしれない。

自由の枠の大きさと快適さは、主体のレベルに応じて変動するということである。

自由だからいい。
決められているから良くない。
どちらも、正確な表現とはいえない。

自分に任せられた枠を生かせる自分であるか。
そこに全てがかかっていると考える次第である。

2019年8月30日金曜日

幸せな人生は幸せな子ども時代から

宿題の話が続いたので、目先を変えて。

そもそも、何でそんなことに拘るかというと、学校とは、子どもが幸せに生きる力を育むことが大切だからである。
それは、今だけよければいいのでもなく、将来だけよければいいのでもない。
今の子ども時代も幸せで、かつ将来大人になっても、老年期になっても幸せに生きていることが大切である。

だから、将来のためには、学校のたくさんの宿題で苦労をしていいのだという、今を犠牲にする考えには反対なのである。
大量の宿題をどんなにこなしても、あたたかな人間関係を築く能力は身に付かない。
子どもの能力を超えた過度な習い事や受験勉強に関しても、同様の考えである。

人生における幸福は何で決まるか。
地位や名誉か、安定した暮らしか。
否。
全く別の要素である。

これは、「グラントスタディ」という80年以上にわたる縦断研究の結果で明らかになっている。
私は先日、これを大学の授業で見た。
そういえば、赤坂真二先生も以前セミナーでこの実験結果に触れていたことを思い出した。
(参考動画:TED ロバート・ウォールディンガ─ プレゼン動画
https://www.ted.com/talks/robert_waldinger_what_makes_a_good_life_lessons_from_the_longest_study_on_happiness?language=ja

要は、大人になってあたたかな人間関係を築いていることが、健康と幸福に大きく寄与するということである。
「あたたかな人間関係を築く」というための能力が、子どもの今と将来を見据えた幸せな人生のために最も必要といえる。
これは、他者との相互信頼の関係である。
人に頼り、頼られる人生ほど幸福なことはない。

学校では、あたたかな人間関係を築く、ということを当たり前に、常に行い続ける必要がある。
単なる個人的な好き嫌いを越えて、協働していく力である。
誰とでも緩やかに繋がれる力である。
多様性を当たり前として受け容れる力である。

一律の宿題は、ここを冷やす。
能力や環境の多様性を認めない。
協働もできない。
課題に対し「できた」「できない」の世界である。

受験競争も同じである。
自分はできて、あいつはできない。
あの子は自分よりランクが上で、あいつは下。
かなり注意しないと、そういった冷たい上下関係を自然と作ってしまう。
スポーツ等の競争系は注意しないと、特にこれを生み出しやすい。

失敗してもいい土台。
誰かが何かをうまくできない時には「助けて」「任せて」「ありがとう」「お互い様」と言い合える風土。
この醸成に何よりも力を注ぐ。

子どもの「今」が犠牲になってはいけない。
かつ、将来を無視してもいけない。
今も将来も生かすのは、一生続くあたたかな人間関係づくりの力である。

個人の能力を磨くのは、つまるところ他者に貢献するためともいえる。
無人島でどんなにスキルを磨いても、役立てる相手がいない以上、幸福にはならない。

自分も貢献できると感じるほどに、頼ることも容易になる。
頼ることで、自分も貢献できる人間になっていこうという順番でもいい。
これは、医者に命を救われて、自分も医者になりたい、というようなことである。
地位や社会的名誉に憧れてなるのとは全く訳が違う。

大学の授業で話し合って面白かったのは、若い人たちは、個人の自己実現に重きを置き、我々壮年期の世代は、だんだんと他者貢献に重きを置く点である。
つまり、年齢を重ねるに従って、自分の能力を磨くだけでは足りないと感じるようになる。
あるいは、自分の限界を設定しだすのかもしれない。
ただあたたかな人間関係が必要という点は、どの年代でも共通事項である。

幸せな人生は、幸せな子ども時代から。
それはあたたかな人間関係から。
各家庭の事情は違えど、せめて学校は幸せの土台づくりの場でありたい。

2019年8月29日木曜日

古くからあるもの3タイプ

宿題に関する記事をここまで書いてきたので、誤解されないように書いておきたいことがある。

一つ先に付け加えると、学習指導要領には「学習習慣の形成」とは書かれているが、宿題を出すようにとは一切書かれていない。
宿題=学習習慣の形成にはならないというのが現実である。

ただしそれは「だから宿題ゼロがよい」という訳では決してないということである。

子どもが学習習慣を身に付けるために敢えて「宿題をなくす」という選択肢も現代では存在する、と知ることが大切なのである。

なぜならば、全国のほとんどの小学校で、夏休みの宿題は「当然」「常識」としてある。
それらを「当たり前でしょ」の一言で済ますと、思考が停止する。
つまり「何のために」(=学習習慣を身に付けるため)が抜けるのである。
(あいさつ運動や運動会、ワークテストなど、学校教育の「常識」として存在するあらゆることにいえる。)

「当たり前」に認識されているものというのは、大抵古い。
古くからあるというものは、大きく分けて3方向考えられる。

A 価値が高いのでずっと使われている
B かつて価値があったが、存在自体が忘れ去られて放置されている
C 特によくもないが、何となく惰性で使い続けている

Aは、よく手入れして使い慣れている仕事道具(いわゆる相棒、お気に入り)のようなものである。
あるいは、誰もが知るロングセラー商品のようなものである。
こういったロングセラーものは、実はマイナーチェンジを繰り返しており、常に新しい。

Bは、ずっと着ないでしまわれている流行遅れの服のようなものである。
「何となくもったいない」という理由で捨てられていないで、ずっとタンスの場所ふさぎをしている。
毒にも薬にもならない「使われてもいないで放置」というのが他と違うポイントである。

Cは、親(または自分)が10年前から部屋着としてずっと着倒している色褪せたダサいTシャツのようなものである。
かつて新しかったものだが、もはや人前に出られる状態の代物ではない。
しかし、「楽」なので使いつづけている。
内部でのことであり、指摘されない以上、あとまだ10年は使うかもしれない。

宿題はどれに当たるか。
これは、AかCである。

価値ある使い方を考え、相手に応じて工夫していれば、Aになる。
ただし、これを生み出すには、かなりの労力が必要になる。
「出しっぱなし」のようなものはあり得ない。
それでは、ねらいである学習習慣が身に付かないからである。
日記一つ出すにしても、毎日の一つ一つに丁寧にコメントをするような労力を伴うものである。

「例年通り」で出していれば、Cになる。
学習指導要領があれだけ改訂されているのに、私の小学生の時と同じ宿題が未だに出ていることが衝撃の事実である。
それは、かなりダサいことである。

だとしたら、一旦やめてみるのも手である。
「やめる」ということを新しくやるともいえる。
それが絶対に正しいのではなく、あくまで、選択肢の一つである。
ただ、できた空白によって、必ず新しい何かが生まれることだけは間違いない。
ものごとには「真空を避ける」という性質があるためである。

温故知新という。
古いからだめなのでもなければ、古いから正しい訳でもない。
そこから、今の時代に合った新しいことを生み出すことが大切である。

学校の当たり前を見直す入口として、宿題は最適な題材ではないかと考える次第である。

2019年8月28日水曜日

「夏休みの友」を考える

読者の方から、質問をいただいたのでお答えする。
夏休みの宿題の在り方についてである。

「どこから、どう変えていけばよいのか、ヒントをぜひ、メルマガでいただけるとありがたいです。
無しにするなら、どこからアタックすればいいのでしょうか。」

「慣習」としてある様々なあれこれを変えられないのが、現場の教師の切なる悩みである。
ここに関してお答えする。

何よりも最優先で、真っ先に考えるべき点がある。

一番の当事者である子どもと、家庭教育の主役である保護者の意見、考えである。
一番大切なこれらの人の意見が置いておかれて、すべて学校が一方的に決定していることが多いのが現状である。
(十年以上前からの「例年通り」で議論の余地も工夫もないひどいものも散見される。)

宿題について扱う場合、これは本来家庭教育の分野である。
実施時の監督責任者は、学校での教師から家庭での保護者に移る。
つまり、保護者の了解を得ない大量の宿題というのは、本来あり得ない。
負担はすべて家庭だからである。

しかし、これがまかり通っている。
なぜか。
「慣例」「暗黙のルール」だからである。
中学校あるあるの「1年生は白ソックスのみ、第一ボタンを開けてはいけない」みたいな謎の慣例と同じである。
「私たちも苦労したから」「いじめられたからいじめていい」というような理不尽な論理である。
そして慣例としてみんながそう信じているものには、強大な力がある。

ここは本来、口出ししていい部分である。
我が子がその課題をこなすのにどれぐらいかかるか、理解していない(というより全く考えていない)可能性が高い。

「夏休みの友」のようなドリル、ワーク集の類が一番わかりやすい。
あれを個別に相談せずに丸投げした宿題というのは、弊害が相当に出る。
(ちなみに、私も過去にこれを実施したことが一度や二度ではない。
深く考えていなかったという点においても、全くの同罪である。
贖罪の念を込めて書く。)

はっきりいうと、このワーク集の最大の良い点は、経済が回ることである。
教材を作る会社と売る会社に多くの利益が出る。
最近では、加えて代行業者にもお金が回っていくようである。(こちらは自由研究系の宿題の需要がより高い。)
この辺りの利益を享受できる人々からすれば、「夏休みの宿題をなくす」という考えの輩は、排除すべき存在である。
夏休みの宿題系は、お金以外にもとかく利権問題等の大人の都合が関わるものが多いので、なくしづらいのである。
一教諭の判断だけでは簡単になくせない理由がここにもある。

夏休みワーク集の宿題には、最大の問題点がある。
個人差に対応していないことと、学力面で平均値から大きく外れている子どもにとっては、全く役に立たないどころか、害悪になることである。

見開き2ページの問題をやるのに、Aさんは2~3分で終わる。
すべて理解しているこの子どもにとっては、ほぼ無意味な作業の繰り返しである。
「人生は無意味なことでも、我慢して取り組まなければならない」
という面を学ぶにはいいのかもしれない。

一方、Bさんは60分かかる。
Cさんに関しては、2時間かかる。
極端な例のようだが、どの学級でもよくあるごく一般的な話である。
(過去十数年に何度も面談等で相談されていることで、間違いない。授業をしていてもわかる。)

BさんやCさんのご家庭が真面目にこれを終わらせるとなると、とんでもないことになる。
しかも、ご両親は働いていて、日中宿題を見てくれる人はいないというパターンも多い。
たまに見てあげれば、我が子のあまりの遅さと理解の悪さにイライラして叱るはめになり、子どもの自尊感情も下がる。
当然、ただでさえ苦手意識をもっていた子どもが、より勉強嫌いになる。

どうするか。
最終的に、さっぱり意味のわからない答えを丸写しするしかない。
この行為から何を学ぶかは、言わずもがなである。

いつでも、その教育行為が「子どもを悪くしているかもしれない」という可能性を考える必要がある。
善意から発している、あるいはただの慣例としてやっていることの中に、これが多い。

ただの悪者にしてしまっているが、「夏休みの友」の類に意味のある子どももいる。
例えば、次の条件を満たす子どもであれば、意味がある。

1 学習への理解度が中程度で、自力で問題を解け、誤答の場合は答えを見て理解する力がある。
2 ドリル系学習への意欲がある。(単純に問題を多く解くことが好き。)
3 他に家庭で取り組む学習教材が一切ない。

つまり、実施するにしても、買うか買わないか、選択式にする必要がある。
同じものをやるにしても、ページ数や取り組む問題をカスタマイズできる必要がある。
一律に出すことに問題があるといえる。
もうできている子どもにはそもそも必要ないし、対極にある子どもには多すぎるのである。

こういったことが、学年内でも、家庭とも話し合われていることがプラスの効果を生む前提である。
しかし、そういう形で取り組ませている例は、聞いたことがない。

こんなこと言っても「もう出してしまった」「出されてしまった」という状況かもしれない。
その場合は、そうした事情も考慮した上で、夏休み明けに集めるだけである。
見方、接し方が変わる。
(我が子が出された場合は、残念だが「がんばってやってください」としかいいようがない。
「出さない」という選択肢もあるが、その主張をするなら、出される前にする方が筋が通る。)

これは、主体的・対話的で深い学びということとも関連がある。
夏休みの一律の宿題という教育手法自体が、受動的で一方的で浅い学びを推進しているのかもしれない。

現代の教育における問題を端的に表しているのが、この宿題問題なのではないかと考える次第である。

2019年8月27日火曜日

夏休みの宿題考察

夏休み前に書いた記事。

個人面談を終えての感想も兼ねて、学校教育の「常識」への問題提起。
再三申し上げている、夏休みの宿題についてである。

夏休みとは、何のためにあるのか。
ずばり、回復のためである。
十分リフレッシュして、「また学校でがんばろう!」となるための時間である。

子ども時代、夏休みの宿題が嬉しかった人は?
子ども時代、「一行日記」はじめ、夏休みの宿題をきちんと真面目にやった人は?
子ども時代、「夏休みの友」によって、学力向上を成し遂げた人は?

恐らく、全部逆の答えの人が多いのではないかと思われる。
あくまで予想だが、きっとそうである。

ある特定の基礎学力が低い子どもに対し、「夏休みの友」の類で何とかなるか。
それをやれば、子どもに学習習慣が身に付くか。
恐らく、無理である。
この場合、本気で考えるなら、個別の課題を出した方がいい。

なぜ、効果がないとはっきりとわかっていることを、いつまでも続けているのか。
誰が作ったか、「夏休みの一行日記」を本気で書いている子どもがどれだけいて、それを本気で読んでいる教師はどれだけいるのか。

目の前に「無意味」という結果の屍の山が築かれている。
「慣例」による習慣というのは、本当に恐ろしい。

今、学校現場にあることは、本当に必要なのか。
元号も変わった今、本気で考え直す時期である。

2019年8月26日月曜日

「問題児」が問題か

赤坂先生のセミナーでの学びの続き。

個人的には好んで使わないが、いわゆる「問題児」という言葉がある。
要は、「イレギュラーな動き」をするお子さんである。

こう言われてしまう子どもたちに対し
「どう思うか」
と投げかけられた。

近くにいるサークルメンバーと話したが、揃いも揃って
「面白いよね」
という意見である。
みんな経験豊富なので、基本的に前向きである。

仲間曰く
「それは制度設計に含まれているべき」という意見。
全く同感である。
そもそも、みんな予想通りの動きでお利口さん、みたいな学級があったら気持ち悪い。
もしそんな学級があったら、「異常に抑圧されている」というような、何か歪みがあるはずである。

講師の赤坂先生から参加者へは
「先生を楽しんでいますか?」
との言葉が投げかけれらた。

これが最も大切である。

多くの教師が集まるある大きな会で、各提案者からの実践発表があったという。
その中で最も観衆の心をつかんだのは、経験豊富なベテラン勢ではなく、新卒の初任者の先生の発表。
クラスの「元気のよい」子どもに「カエルを投げつけられた」という出来事を、実に楽しそうに語ったという。

人によっては、「問題児」扱いかもしれない。
しかし、その先生にとっては純粋に「びっくりした!」という出来事である。
それを一緒に楽しんでしまえる姿勢。
これこそが、今、すべての教師に本当に求められている姿である。

「問題行動」を問題にしているのは、実は大人の方である。
教師や親の方である。
子どもたちにとっては、問題でも何でもないかもしれない。

先生を楽しんでますか。

夏休みが明けてリスタートできる今だからこそ、見つめ直したいテーマである。

2019年8月25日日曜日

成長を「見守る」とはどういうことか

現在「西千葉子ども起業塾」というものに参加している。
子どもが「起業家」として会社をつくり、本物の企業に企画を提案するというものである。
通常の学習と違うのは、企画・提案されたものが、本物の企業の製品として制作されるという点である。
本物の会社の取引なので、企画が通るまでも甘くない。
そこが面白いところである。

そこに私のような現場教員や、学生ボランティアが補助に入る。
サポート役である。

現場教員ならわかると思うが、なるべく手出し、口出ししないで見守るというのが、なかなか難しい。
かつ、必要な手助けの方はしないといけない。
完全に放っておくと、学べない。
臨機応変のこの匙加減が、経験の少ない学生にとっては大変難しいのである。
教員を十年以上やってても難しいようなことなので、当たり前である。

ちなみに、どちらに偏るか。
これは圧倒的に「手を出しすぎ」の方である。
愛情や情熱があるが故に、こうなりがちである。
(皮肉なことだが、あまり熱のこもってない人が適当に育てた方が、伸びる面もある。)

授業でも同様の傾向がみられる。
何もかもこっちがやってしまい、子どもの学ぶ機会を奪ってしまう。
あるいは、全部教えてしまい、空白がないので、考える余地がない。
あるいは、教える側が99%喋っていて、子どもの発言が一切ない。
子ども同士の話合い活動をしているのに、いつの間にか教師が主導権を握ってしまう。

理科などでよく見るのが「全て揃っている状態で、考える余地のない実験用具の準備」などである。
お膳立てが過ぎるのである。

子どもは、やってあげればあげるほど、依存的になり、他責的になる。
自己有用感や自尊感情がいつまでも満たされないのである。
(一方、やってあげる側は自己満足するので、一方的にここが高まる。)

やがて「できないのは、教える人のせい。準備が悪い。」という論理になるのである。
高じると最終的には、その恨みが世の中全般に向くことがある。
犯罪者の心理である。

逆に、信用して任せられるほどに成長する。
自己有用感や自尊感情が高まる。
「やり遂げて自信がついた。支えてくれた周りの人に感謝。」という論理になる。
最終的には、その感謝が世の中全般に向く。
オリンピック選手や経営者、働くことに喜びを見出す人々の心理である。

「基本的なやり方」だけを教えたら、あとは一歩退いて見守る。
困っていても、すぐには助けない。

なぜかというと、人間というのはぎりぎりの困った状態に陥った時、初めて底力が発揮されるからである。
にっちもさっちもいかない状態になった後、しばらく膠着状態になってしまったら、また「起爆剤」として少し助ける。
この繰り返しである。

すぐ助けてしまうと、全く力がつかない。
やる気もなくなる。
ジムで筋トレをしている相手に、「そんなやり方じゃダメ!」と言って、代わりに自分が腕立てをして満足している状態である。
ちょっと間違えただけですぐに飛んでくるようだと、行動がびくびくするようになる。
「顔色を伺う生徒」の出来上がりである。

自分ができるほどに、口出しをしたくなる。
不備が見えるからである。
多くの親や教師、指導者にとって難しいのは、教えることではなく、教えないことである。

成長を「見守る」というのは、文字通り「見る」ということができるかどうかにかかっている。
実は、教えているつもりの指導者の側こそが、自分の「我慢できる力」を試されているのかもしれない。

2019年8月24日土曜日

信頼とは無条件のもの

次の対談ネット記事から。
「信頼」とは無条件のもの、「信じられない時にあえて信じる」のが信頼
──『嫌われる勇気』岸見一郎先生に聞く
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001281.html

とても面白いので読んでみて欲しい。
このタイトルの文からして、刺さった。

私も拙著の中で「信じてるよ」という切り返しを紹介している。
(『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
何度言っても乱暴をやめない子どもへの切り返しである。
「100回裏切られるつもりで言う」とも書いた。

自分としては経験則で生み出した切り返しだと思っていた。
しかしもしかしたら、どこかでアドラー心理学の影響を受けていたのかもしれない。
それぐらい、言葉の根幹が同じである。

子どもへの信頼。
わずかでも可能性にかけるということ。
これができるかどうかで、明暗が分かれる。

いい意味で「あきらめる」のである。
何を。
「もう悪いことをしない」ということをである。

いい意味で「あきらめない」のである。
何を。
「少しずつよくなっている」ということをである。

多くの親は、わが子に対して、これをしている。
どんなに悪さをしていても、今がだめでも、きっとよくなると信じている。

どんなに裏切られても、生意気な口をきかれても、反抗期に理不尽な目にあっても、わが子の輝きを信じている。
無条件の信頼である。

この記事でも触れられているが、調子のいい時は、誰でも信用できる。
よくなることが予想しやすい。

一方で、低調だったり、失敗した直後の時は、よくなると思えないから、信用できない。
それが普通の関係である。
ビジネス、利得の関係である。

親子関係は、そうではない。
教師と子どもの関係も、そうではない。

利害、損得を越えた関係である。
最も喜びを感じるのは、子どもが成長し、変わった瞬間に立ち会えることである。
それを知っているから、何度裏切られても、何度でも信じることができる。

赤坂先生の教えでも書いたが、やはり信頼関係が全て。
信頼さえできれば、あとは「無敵」である。

いくつになっても、子どもを信じる心は失わないようにしたい。

2019年8月23日金曜日

納得感が全て

公開研究会での学び。
講師の上越教育大学教職大学院の赤坂真二先生の言葉。

「目標は誰が決めたかは問題ではない。
納得感が大切。」

この言葉が刺さった。
ここを勘違いしていたと気付かされた。

学級目標は必ず話合いを通して決める。
「みんなで決めるのが大切」と考えているためである。

しかしながら「なるほど」という納得感さえあれば、目標は機能するのである。
みんなで話し合って決めるのも、要は納得感が高まるからである。

本校特別活動部会の研究では「最適解」が主題のキーワードである。
この最適解というのも、いうなれば納得解である。
現在最適と思われるものに納得して決まる。
(しかしながらこれは時間の経過とともに覆る。)

納得さえしていれば、結構大変なことでも耐えられる。
一方、納得していないと、簡単なことでも苦痛である。

卑近な例でいうと、納得して買ったなら、ある商品に百万円払っても苦ではない。
一方で、納得していないのに無理矢理買わされたものなら、千円の品でも嫌である。

学校だと、例えば宿題にもいえる。
量が多少あっても、納得してやるものなら、やる気を出してやれる。
先生から出されたものだろうが、自主的にやるものだろうが、それは同じである。
一方、やる意義や理由がわからないような宿題は、かなり苦痛である。

納得していること。
学級経営全般における重要キーワードである。

2019年8月20日火曜日

情動と感情を目的論で見る

大学で学んでいる心理学の話。
情動と感情について。

ポジティブ感情は奨励、共感されやすい。
「よい」とされるので感情として出しやすい。

ネガティブ感情は認めてもらいにくい。
急激な制御をされることもある。
抑圧され、出しにくい。

そうすると、感情に「良い」「悪い」というようなレッテルが貼られる。

しかしながら、感情は情動の結果であるという。
感情は、情動に比べ、長く続く。
「怒っている」「悲しい」というような感情は一瞬では消えない。
ここには思考の入る余地もある。
ある程度コントロールができる。

しかし感情の前に情動がある。
情動は何か「イライラ」「ムカムカ」あるいは「ドキドキ」「ワクワク」するというものである。
これは、短期でありながら自然発生するものである。

かのダーウィンは情動を
「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」
と表現しているという。
(参考:RIKEN BSI NEWS)
http://bsi.riken.jp/bsi-news/bsinews3/no3/special.html

つまり、生物が生き抜く必要の上で獲得した本能的なものである。
情動は止めようがない。
情動の否定は、生命への否定である。

つまり、ネガティブ感情を否定すると、不都合が起きる。
必要があってネガティブ感情を引き起こすような情動が起きた訳である。
身体からのメッセージである。

例を挙げる。
「いつもいい子」でいられることを求められたとする。
そうすると、いい加減な自分や、感情的な自分は許されない。

「怒ってはいけない」「泣いてはいけない」といった感情表出の行動を抑制する。
すると、その前段階として「イライラ」「どんより」などの情動を否定することになる。
しかし残念ながら、情動は自然発生する。
つまり、自己否定を繰り返すことになる。

これは苦しい。
それならば、ネガティブな感情を否定するよりも、その根本となる情動がどこからきたのか考える。
情動の発生には生命としての目的がある。
例えばイライラすることで何を求めているのか、そこを自分自身が「わかってあげる」必要がある。

先日セミナーで学んだアドラー心理学も「目的論」である。
目的論で見ると、見え方が変わる。
自分の感情も子どもの感情も、目的を見つめてみると、原因論で考える時とは違ったものが見えるかもしれない。

2019年8月19日月曜日

合意形成の条件

千葉大附属小の公開研究会での学び。
合意形成について。

学級会のような話合いでは最終的に合意形成が必要になる。
この合意形成をどうするか、というのが公開研究会でも話題になった。

ここについて、講師の赤坂真二先生からアドバイスがあった。
合意形成が成立するための条件として、良好な人間関係がある。
これがない状況においての多数決は、逆に悪い結果を生むという。

以前にも「多数決は少数派を排除する」ということで批判的に書いたことがある。
多数決の全てがだめな訳ではなく、無思考、無配慮な多数決がだめという訳である。
多数決は一つに決めるための最終手段としては、必要な場合がある。
合意形成による意思決定のための手段の一つである。

極端な例で考えるとわかりやすい。
例えばある会議で、発言力のある人が何か意見を言う。

この職場の人間関係が悪いとする。
そうすると、その人の意見だけで全てが決まってしまう。
多数決をとっても、誰も逆らえないから、賛成に手を挙げる。
他の人の意見は黙殺される。
これは、合意形成とはいえない。
「合意強制」である。

この職場の人間関係が良いとする。
そうすると、建設的な反対の意見も出る。
発言力のある人の意見に対しても、より良い代案を示す。
その上で多数決をとって、仮に自分の意見と違うものが採用されても、納得しているので
「じゃあ、いっちょ協力しますか」ということで折り合いがつき、合意形成がなされる。

また、合意形成に必須のベーススキルとして「傾聴」があげられた。
人の話を聞かないと、話合いにならない。
当たり前のことである。
ここが抜けているまま実践していると、話合うほどより悪くなるという結果になる。

本校の校長からも、特別活動部会の共同提案者として提言があった。
何のためのクラス会議なのか。
そこを見失わないこと。
クラス会議というのは、学級会の話合い活動の中の手法の一つでしかない。
あくまで手段である。

クラス会議は、通常の学級会とは明確に違う点がある。
それは話合いを上手にするための手法ではなく、共同体感覚を育むための手段なのである。
クラス会議の目的は、話合い活動を通しての、共同体感覚の育成である。

だから、やればやるほど、人間関係が良好になるはずである。
そうならないとしたら、何かが間違ったまま進んでいる可能性がある。

合意形成は良好な人間関係から。
学校だけでなく、すべての場においていえる共通事項である。

2019年8月18日日曜日

「責任は私がとります」は本当か

「責任をとる」ということについての気付き。

「責任は私がとります。」

かっこいいセリフである。
ところで、これはどういうことを指すのか。

ネットで「責任」という意味を調べると、辞書的には次のようにある。
「人や団体が、なすべき務めとして、自身に引き受けなければならないもの。責め。」

正直これだけだと、意味がわかりづらい。

なぜこんなことを言い出したかというと、最近「危機管理」ということについて学ぶ機会が多いためである。

例えば事故に対して責任を負うとは、どういうことなのか。
あるいは学級の子どもが「何があってもぼくが責任をもちます」ということは可能なのか。

次のように考えてみる。

責任を負う=何かミスやトラブルがあって損害を出した時には、その回収と復旧を最後まで行う

こう考えると、責任がとれるものと、とれないものが出てくる。

例えば、お金に関わること。
これは支払い能力さえあれば、責任がとれる。

「責任をとって辞表」というのもあるかもしれないが、本質的にそれで被害を回収できているかどうかが全てである。
(それができないで辞めるだけなら、人一倍働いて少しずつでも返した方がいい。)

自分が起業にチャレンジして失敗しても、責任がとれるかもしれない。
それは、あくまで自分の人生だからである。
自分で選んだことで、損害を被るのも自分だけなら、完全に責任がとれる。
(社員がいる場合は、また話が別である。)

一方で、例えば、人命に関わること。
これは、「命を蘇らせる」という神業ができるなら可能である。
つまり、基本的に不可能である。

命を失う危険性のある行為に対しては、本人以外に本質的な責任はとれない。
(だから医師は、万が一の時の責任がとれない以上、手術の際には必ず本人の「同意書」をとる必要が出る訳である。)
まして、未成年は保護者がその責任を連帯しているため、子ども自身が何かしらの責任をとるのは不可能である。

さて、卑近な例で、子どもが学級においての活動に責任をとれるかということについて。
これは、失敗した時の回収行為を最後までやり切れるかということで判断できる。

大抵の場合、これは基本的に無理である。
その許可によって学級の誰かがけがをしてしまったら、けがをさせた子どもではなく、許可を出した大人の責任である。

だから、学級での行為については、結局担任が全責任を負うことになる。
その覚悟で「自由」を与えることになる。

また別の例として、子どもが「責任を自分がとります」といって「席替えを自由」にして、仮にいじめが発生したとする。
当然、子どもに責任はとれない。
担任が100%失敗回収の義務を負うことになる。
その前提の上で「OK」を出すということである。
つまり、学級集団への信頼度がすべてである。
そこが危うい状況なら、当然OKできない。

とどのつまり、自由というのは責任とセットであり、自由の連帯保証人として責任をとる人が必要な訳である。
危うい相手への連帯保証人は「御免」というのが当然である。

また「担任が責任をとる」というのも、実は本質的には難しい。
責任の追及が、大抵は管理職にまで及ぶからである。
更には、その設置者である教育委員会にまで及ぶものもある。

つまり、学級担任のところで押しとどめられるレベルのことまでしか、本当に責任をとることはできない。
そう考えると、学級担任は、意外と裁量の範囲が狭いのである。
だからこそ、裁量権のある管理職の在り方に大幅に行動を左右されることになる。

責任をとれる。
それは、自由であるということと同義である。
せめて自分の人生には責任をとれるようにしたい。

2019年8月17日土曜日

それは「ひどい」か「勇気づけ」か

信頼関係の大切さについて。

7月、アドラー心理学の学級経営セミナーを開催した。
主催者となると、参加者の出欠管理や運営全般に責任をもつことになる。

やってみると分かるが、とにかく色々と詰めが甘いのである。
ちょいちょい、ミスが出る。

そうして落ち込んでいると、仲間の一人がこう言った。
「何言ってるの?松尾さんがやったんだから、当たり前でしょ。」

この文面だけ見ると、ひどいと感じる人が多いかもしれない。
ここがポイントである。

私は、この一言で、すっと肩の荷が下りた。
なるほどと納得した訳である。
「勇気づけ」されたのである。

この一言をかけてくれたのは、私が最も信頼を置く親友である。
つまり、この人は、私のダメな面をとてもよく知っている。
私も、相手に対して同様である。
いわゆる「気の置けない友人」である。
その上で、先の言葉なのである。

もしここでこの友人に「元気出して」「大丈夫だよ」などと優しく言われたら、相当凹んでいたと思う。
むしろ「何に凹んでるの?」「頭大丈夫?」ぐらいの勢いであった。
狭窄的になっていた視点から、正しくメタ認知させてくれた。
だから、一気に元気が出た。

ところで、なぜ私が小さなミスぐらいで落ち込んだのか、分析してみたらわかった。

そう。
ここ最近、サークルに参加できていなかったのである。
そうすると、人間関係も職場が中心になる。

私は、職場の中でも勤続年数が二番目に長く、年齢的にも上の方である。
しかも立場が学年主任である。
つまり、何かと意見されにくい立場にある。
「できる」でなければならないと勘違いされやすい&勘違いしやすい。

この友人の一言で、我にかえった。
そう。
私は、もともとミスが多いのである。
だから、『「捨てる」仕事術』でも書いたように、机上整理の大切さが実感できているのである。
仕事が遅いしミスが多いから、そうならないための工夫を編み出せたのである。

何で一人でがんばろうとしていたのか。
責任感という名の、独りよがりである。
信頼できる仲間たちへ、任せていけばいい話だったのである。

思えば、いっぱいいっぱいの人というのは、大抵人にうまく仕事を頼めない人である。
「人に任せるより自分がやった方がはやい」と言って、全部抱え込んでしまう人である。
責任感があるといえばきこえがいいが、多くは単に無理しすぎである。
(逆に、無責任すぎて自分でやるべきことをやらない人がいたら、それはそれで困る。)

話を元に戻す。

字面だけだとひどいと思うような文面でも、文脈によって意味は全く変わる。
例えば関西の人にとって「アホ」は挨拶でもあり、誉め言葉ですらある。
文脈、つまりそこでの文化や、相手との関係性が全てである。

子どもへの声かけも同様。
何という言葉が響くのか、何という言葉が「最適解」なのか。
励ましたい時に褒めればいいというものではないし、悪いことをした時に叱ればいいというものでもない。
その答えは、関係性の中、信頼関係の中にしかない。

教育に限らず、人間関係においては、信頼関係の構築が何より優先されるべきことである。

2019年8月16日金曜日

学年担任制度の成立条件とメリット

「スイッチオンサークル」での学び。

この日の会場は千葉大学の一室を借りて行い、学生の参加もあった。
特別ゲストとして、上越教育大学教職大学院教授の赤坂真二先生にも来ていただいた。

私の提案は、学年担任制度の実施について。
文科省から、小学校高学年で教科担任制を一部取り入れていこうという動きがある。
私自身も、これに賛成の立場である。
ただ、実施にあたっては壁もあり、何かと配慮が必要だと考えている。

ここについて、ゲストの赤坂先生より示唆をいただいた。
先進的に取り組んでいる小学校の校長先生にお話を聞くと、この成立には一つ大切な条件があるという。

それは、生徒指導を中学校なみにきちんと行うこと。
つまり、共通ルールの理解である。
特に学年主任には、子どもたちへの説明責任がある。
そのために、学年集会を利用する。

実施の大きなメリットとして、保護者からの不満が減るという。
学年担任の中の誰に相談してもいいので、保護者にとっても選択肢ができる。
人間同士だから、相性もあるし、内容によって相談したい相手も変わるはずである。
結果的に、学校が保護者といい関係を築きやすいという。

これは、子どもたちにもそのまま当てはまることである。
困ったことやトラブルがあった時に、どの先生に相談してもいい。
これは、子どもにとっても大変助かることである。

見方を変えれば、職員の側も助かる。
困っている子どもがいれば、それはみんなにとっての課題となる。
保護者との関係についても同様である。
一人で悩むことがなくなり、課題が共有化されやすくなる。

学級担任という狭い枠組みを越えた学年経営。
自分の立場では制度をいじるといった大きなことはできないが、やれる範囲で試行錯誤し、進めていきたい。

2019年8月15日木曜日

できない、悪いは、思い込み

前号の続き。
歪んだものさしと苦手意識について。

苦手意識は、「できない」という思い込みから起きる。
錯覚である。

脳は、錯覚を起こす。
「適当」に調節して、現実を歪める。
そうでないものを「絶対そう」と思わせる。

錯覚の例。
ネットで見つけた次の文字列。



猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
 猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
  猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー
   猫マナー猫マナー猫マナー猫マナー



猫マナーが、斜めである。
いや、どう見ても、斜めである。
しかし、実際は、スマホやPCの直線状にある。
真っ直ぐ水平である。

こういう例は、心理学でたくさん出てくる。
色や形について、周囲の影響で脳は錯覚する。

つまり、良いかどうかも、周囲の影響による錯覚である可能性が高い。
テレビを毎日見ていれば、何度も画面上に出てくるタレントに好意をもちやすい。
これは「単純接触効果」である。
人間は自身がたくさん接触するものを、よいものだと思い込む。

つまり、苦手だとか下手だとかも、かなりの割合で、思い込みである。
見方の問題である。
誰の基準で優劣を決めているかである。

世間に自分のものさしを渡さない。
子どもにものさしを押し付けない。

「自分は悪い子だ」などと思っている子どもには、全力でその思い込みを否定すべきである。
悪い子なんていない。
周りの評価が、大人基準が本人を悪くしているだけである。
(だから、子どもの前で他人様の家の子どもの悪口を言うというのは、我が子にとって最低の教育になる。
学級担任が同じ子どもを何度も叱るのも同様である。)

悪い思い込みは、極力排除してあげたい。

2019年8月14日水曜日

ものさしを疑う

大学の授業からの気付き。

美術の教授の授業である。(物凄く面白かった。)
刺さった言葉。

「いいものに見えなくても、素晴らしいことがある。」

曰く、「ものさし」に振り回されすぎだという。
特に、教師である。

芸術表現の歴史の移り変わりを見ると、「抽象」への飛躍の時代がある。
「3次元の世界を2次元で表現する」という命題の、写実主義からの脱却。
その象徴的な存在として「ポスト印象派」のゴッホ、ゴーギャン等が挙げられるという。

ご存知の通り、ピカソは写実画もできる。
(できるなんてレベルではない。
中学生ぐらいの時点の絵で、写実画に関してはかなり極めている。)

これを「上手い」と評価(表現)してしまうのが、大人(含教師)である。
写実的だと、上手い。
この「ものさし」が、100年以上前と同じで、進化していないという。

抽象画を楽しめるというのは、価値観からの一つの脱却である。
写実主義の物差しからすると、抽象画は「下手」である。
全く写実的でないからである。

従来のものさしでは到底はかれないからこそ、ピカソは天才であり、創造的であるともいえる。
そもそもものさしというのは、誰かが決めた一定の尺度である。
好き嫌いで考えれば、揃わなくて当たり前である。
だから、それが本質的にいいか悪いかは、わからないはずである。

一方で、これは授業で出た話ではないが、高精度のカメラの存在する現代における、写実主義の発展も面白いと思う。
カメラで捉えられる現実「以上」の姿を、写実的に描きだす。
「こうあって欲しい」という願望が、現実以上のものとして描き出される。
それは、理想形である。
現実とは違う。
しかし、それもその人間が表現として求める世界である。

話が逸れた。
「いいもの」の基準についてである。

作品だけでなく、子どもそのものに対する見方についても、同じようにいえるのではないか。
子どもたち一人一人には、それぞれの異なる輝き、美がある。
しかし、社会に生きる大人の価値観では、それが見えない。
さらにいうと、子どもの大切にしている世界も見えない。

大人の都合と理想を押し付けているのかもしれない。
それは、それぞれの子どものもつ「価値」や「美しさ」に、そぐわないかもしれない。

世の中には、あまり「よくない」ものでも、評価されていることがある。
一方で「いいもの」だけど、注目されない、よい評価をされないものもある。

例えば、その目の前の子どもは本当に「よくない」のか。
それは誰にとっての「問題行動」なのか。
大人の側の価値観が偏ったり、濁ったりしていないか。

自分の中の「ものさし」を、いつでもアップデートできるようにしていたい。

2019年8月13日火曜日

身体サインの自覚

人間は、いつも周囲にサインを出している。
それを解き明かすのが心理学の分野の一つである。

例えばビジネスで腕を組むと、相手への警戒のサインになるという。
相手に心を開いていない証拠である。
あるいは、契約等に対して熟考している段階である。

この腕組みは、癖になる。
腕組みは、威圧的なポーズになる。
学級担任がやる場合、「支配」のポーズである。
(あくまで「支配」であり「統治」ではない。)
相手を上から見下ろすポーズになる。

腕一つで、パフォーマンスができるということでもある。

腕を広げた状態で話すと、心を開いている感じが出る。
一緒にやろうというメッセージになる。
やる気に満ちた感じになる。

前で手を重ねる。
これは、基本的には服従のポーズである。
接客業の基本姿勢である。
これだと、少し弱さや柔らかさを出せる。
学級担任であれっば、強いイメージが出すぎる人にはちょうどいいポーズである。

頬に手を当てて顔を傾ければ、「困った」とか「一緒に考えて」というメッセージになる。

結論何でもいいのだが、身体が常にメッセージを発しているということである。
子どもが全員前を向く「講義型」あるいは「スクール型」と呼ばれる机の配置であれば、尚更その影響を子どもは強く受けるということである。
学級担任の気分がそのまま子どもに反映し続けるといっていい。

だから、学習形態や、教師の立ち位置は大切である。
特に感情の上下を隠しきれないという人は、子どもの目が教師から逸れる工夫をしないといけない。
発表の時も教師を見続けているとすると、こちらの「評価」まで見抜かれてしまう。
つまり、教師の求める答えを模索する子どもが育つ。

これだと「鵜飼い」状態から脱することはできない。
(常にコントロールし続けたいなら、子どもが常にこちらを見ている状態は好都合である。)
主体的で対話的で深い学びからどんどん遠ざかることになる。

教師は、教室にいる間中、身体全体でサインを発し続けている。
それを子どもは受け取り続ける。
だから、自分の機嫌が悪いと、何もかもが悪意に満ちて見えるようになる。
逆に、自分の調子がいいと、何もかもが上手くいっているようにも見える。

そういった自覚をもって臨めば、自ずと授業のやり方や自分の立ち振る舞いも変わってくるのではないかと思う次第である。

2019年8月11日日曜日

自由な学級とは

自由。
この言葉ぐらい、解釈次第で毒にも薬にもなる言葉も珍しい。
(対抗馬は「愛」ぐらいかもしれない。)

最近、自由な学級とはどうあるべきか、ということがずっと関心事である。
これは、どちらの視点かで、変わってくる。

担任視点でいうと、自由度とは「懐の深さ」である。
子ども視点でいうと、自由度とは「裁量権の広さ」である。

担任からすると、どこまで許容できそうか、ということが自由度である。
放っておいても整列して教室移動ができそうか。
席替えを自由にしてもうまくいきそうか。
必要な秩序は保ちつつ、どこまで任せられるか、という塩梅である。

子どもからすると、逆にどこまで自分たちに任せらるかである。
やることが完全に決まっているなら、自由度は低い。
例えば校外学習。
列に並んで一つずつの場所を見学するのか。
決められた範囲を自分たちの計画で動けるのか。
自由度は全く違う。

どうすれば自由度を高められるのか。
自分で責任をとれるほど、自由度が高まる。
相手からの信用が高まるほど、自由度が高まる。
(銀行の融資と同じである。)

逆説的だが、きまりを当たり前に守れる集団ほど、自由になれる。
自由を履き違えて他人に迷惑をかけるほど、制限が増え、不自由になる。
(一般社会と同じである。)

自治的学級とは、「自治」の文字通り、自らが治める学級である。
守るべききまりというのも、ルールというよりほぼマナーに近い。
互いを不快にするような行動をとる場合、自治よりもトップダウンの統制の方がよい。
徐々に自由度を高める方向を目指す。

そうなると、まずは、指導力。
自由を目指すにしても、一斉に指導してまとめる力がないと、やはりきつい。
なぜなら、多くの場合、最初から任せられるような、互恵の関係性がうまくつくれないからである。
子ども同士をつなぐ指導力が必要である。

そして学校自体に空間的、時間的制約がある以上、完全な自由はない。
学校という枠の中の自由である。
その中でも、やれることはたくさんある。

今、目の前の子どもたちを自由にすべきか、統制すべきか。
何でも自由がいい訳でも、いつまでも統制していていい訳でもではない。
学級担任には、その辺りの判断が大切である。

2019年8月10日土曜日

善意には責任が伴う

大学の危機管理に関する授業中「善意には責任が伴う」という言葉に出会った。

学校の、様々な「特別対応」。
昔はなかったものが、かなりある。
今は、「当然」のこととして、様々な新たな業務が、日常的に行わている。

学校として、できれば「より良い」もの、あるいは、みんなと「同じ」状況を提供したい。
そんな思いがある。
この流れの根幹にあるのは、子どもへの善意である。

しかしながら、善意には責任が伴う。
特に危険を伴うあらゆることを特別対応として行う場合、徹底する必要が出る。
この「徹底」というのは、いうほど簡単なことではない。

普段の教育の世界における「失敗してもいい」という価値観が通用しない場面がある。
人命がかかっている場面である。
たった一つのミスで完全にアウト、という可能性のある場面である。
まさに「危機管理」である。
これが毎日の対応であれば、日々危ない橋を渡るような緊張感をもつ必要が出る。

例えば、登下校時の交通事故や不審者への危機管理である。
例えば、重いアレルギーをもつ児童への危機管理である。
例えば、虐待が疑われる児童への危機管理である。

「忙しい」という状況は、ここに致命的なミスをもたらしかねない。
ばたばたしていると、危機を見過ごす。
「うっかり」では済まされない恐ろしさがある。
しかし、学級担任が「忙しくない」という状況も考えにくい。
常に危機管理に直面している状況である。

そういう覚悟をもって、3つの「マネジメント」が必要であるという。
1リスクマネジメント→未然防止
2クライシスマネジメント→事故対応
3ナレッジマネジメント→知の共有化
の3つである

書き出してみると、学級経営そのものに相通じるものがある。
事故が起きてからのクライシスマネジメントというのは、結局応急処置でしかない。
そこのナレッジマネジメントからのリスクマネジメントという流れの、根本的な改善が望まれる。
過去何度も書いている「失敗学」の大切さである。
重大な失敗、事故ほど、起きる前によく知っておく必要がある。

話を戻すと、それらの対応には責任が伴う。
以前はなかったものであっても、やるとなったら責任が伴う。
以前紹介した「恩恵は権利に変わる」という話とも関係する。

一度善意で何かをやると決めたからには、最後まで責任をもつ覚悟が必要である。
何でもかんでも、個人の「善意」で対応しようとすると、それ自体が大きな危機を招くかもしれない。
「善意」も一人で行うより、チームマネジメントが必要である。

2019年8月9日金曜日

教育は価値づけの連続

何でもそうだが、人を作為的に操るというのは卑しい。
心理学を学ぶのは、人を操るためではなく、自分が操られないためである。

力で支配しようとする人などは、心理学で分析するとよくわかる。
力とは、物理的なものと心理的なものが合わさってできている。

DVなどは、物理的な攻撃に加え、心理的にも罪悪感を植え付ける行為である。
暴力を振るわれる側にも落ち度がある、暴力を振るわせているあなたが悪いという、無茶苦茶な論理を通す。
「そうかも」と思わせて支配するのが上手いのである。

マイナスの力による支配というのもある。
涙や落ち込んだ態度で、相手に罪悪感を植え付ける方法である。
「かわいそう」「これを助けないあなたは人でなし」というような心理にさせるのが上手い。
いわゆる「泣き落とし」である。
これもよろしくない。

勝手に「善行」「サービス」を施して、見返りを要求する手法もある。
(身近なところだと、試食や無料サンプルである。)
サービスを受けると、返さないとまずいという返報の法則が働く。

徒然と羅列したが、こういうのはたくさんある。
他人には使わないが、使われて操作されないように心がけてはいる。

これをいつも教育に当てはめて考えている。
教育は、心理学でいう「価値づけ」行為の連続なのである。

例えば以前「100点を褒めない」ということを書いた。
(プレジデントオンライン記事 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234
100点というのは、自分の力がついた結果なのである。
「それはよかったね」という感じである。
それ以上でもそれ以下でもない。

なぜか。
まだ個人の力で終わっているからである。
それは、何ら他に貢献していないからである。

100点がとれなくても、勉強ができなくて困っている仲間を助けている子どもがいる。
これは「君はすごい人だ」といってやっていい。
助けてもらっている方も立派である。
力があるから、気持ちよく与えられる。
足りない部分を、与えてもらえる。
互恵の関係である。

これが、価値づけである。
学級教育において、価値のあることは「社会に出てはたらく力」である。
筆頭は、協働。
これは必須の力である。

個人の能力は、もちろん高い方がいい。
しかしながら、高い能力をもちながら、それを自慢して分け与えないようでは、組織にとって邪魔者である。
価値がないというより、害悪ですらある。

だから、100点を自慢したり自分の成績・成果に得々としていることは、集団にとって無価値どころか害悪であると考える。
もっているものや経験を自慢するのも鬱陶しい行為である。
能ある鷹は爪を隠す、というのは、ずっと引っ込み思案なのではなく、いざ必要な時に爪を出せるということである。

その行為を褒めるとどうなるのか。
繰り返すが、教育は、価値づけの連続である。

2019年8月5日月曜日

分福

セミナーで話したことのシェア。

分福。
読み方はそのまま「ぶんぷく」である。
音がかわいらしいが、なかなかに深淵な言葉である。
昔話の「分福茶釜」の分福である。(あれは「ぶんぶく」と読むらしいが。)

ちなみに、これは明治の文豪、幸田露伴の唱えた「幸福三説」から来るらしい。(「ウィキペディア」参照。)
「惜福」「分福」「植福」の三つからなるという。
どれも深淵な言葉である。

私がこの言葉を知ったのは、師の野口芳宏先生からである。
野口先生は
「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る。」
という言葉を座右の銘にしておられる。
(引用文献『利他の教育実践哲学』小学館 私が「最も好きな本」の筆頭に挙げる一押しの名著である。)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09837391 

つまり、与えるということが全てである。
良いものを自分だけで抱え込んで、持っていてはいけない。
良い知識を得たら、人に分けること。
自分の幸せを分かち合うこと。
即ち、分福である。

メルマガも本もセミナーも、すべて分福が基本である。
相手の幸せに貢献できるかどうかが価値の全てである。

なぜこれを話したのかというと、「どういう学びをしてきたのか」という質問があったからである。
私は、周りの人に恵まれた。
たくさんいいことを教えてもらって、このまま自分だけで抱え込んでいたら地獄に落ちると思ったからである。
何より、そういう師をもつことが大切である。
そんなことを話した次第である。

分福。
子どもは教師の自己実現の道具ではない。
むしろ、教師が子どもの自己実現の道具足りうることが大切である。
人生において人様から学ばせていただいたことを、子どもたちにしっかりと還元すれば、地獄行きは免れるかもしれない。
学級経営においても、分福の視点を忘れずにいたい。

2019年8月4日日曜日

「散歩行ってきます」宣言を考える

出版記念セミナーでの学びのシェア。

教室で座っていられない子どもをどうするか、というのが複数の方の共通の悩みに上がった。
「教室を飛び出す」という悩み。
もう一方は「お散歩に行ってきます!」といって廊下からぐるっと他の階を回って帰ってくる子ども。

これは、明らかに後者の状態の方がよい。
つまり「飛び出してしまう」を「出ます」と言ってから出るようにするということである。

衝動的に飛び出してしまうのは、身体的・精神的な欲求不満の爆発である。
一方で、宣言してから出るというのは、かなり自覚している。

「いや、教室で座っていてくれる方法が知りたい」と言われるかもしれない。
これは、無理である。
「動くものは動く」のである。
子どもは、自然に動く生き物なのである。
十分動いたら、自然と疲れるか飽きるかして座ることもある。
(注:こともある、程度である。)
これが前提として必要である。
動かさない方法ではなく、安全に動く方法を考える方が成功する。

一方、お年寄りは、あまり動かないのが一般的、自然である。
「いや、うちのおじいちゃんは徘徊して困る」という声もあるかもしれない。
しかし徘徊という行為も、背景には目的があるという。
何かを探しているのである。
目的があって動いているといえる。

子どもが動き回るのも、目的がある。
本能が動きたいのである。
本能を抑えることはできない。
それが自制できるまで発達を待つのが自然である。

だから、動き回らせる。
ただし、教室に帰ってこないのも困る。
ついていける人がいればいいのだが、大抵はいない。
校外に出るなどして、危険な目にあってはいけない。

だから、ここは交換条件の提示である。
「廊下を歩いてきていいから、一周して帰ってきて。」
というように、その子どもができそうな条件を提示してあげる必要がある。
無理めなやや高めの条件を提示した後に、「じゃあ」と条件を落としてうまく譲歩する。
「緩くしてもらった」と思わせることが大切である。
(セールスの手法と同じである。)

さて、「お散歩行ってきます!」宣言の子どもはどうレベルアップさせるか。
あくまで一つの例だが、「そろそろお散歩行ってきたら?」と逆にこっちから先手をとって促す方法がある。
言われると、やる気が失せる。
欲求は、抑えようとするから大きくなるのであって、促されると逆にしぼむという性質がある。
(「勉強やりなさい」の声かけが最悪の手法ということと同じ理論である。)
いつでもいくらでも、と言われると、それの価値が下がるのである。

これでもちろん「じゃあ、行ってきます!」となってもいい。
また促す。
また促す。
するとやがて「いや、今はいいや。」「結構です。」と言い出す可能性がある。
これは、私の実際の体験で、こんな感じで段階を踏む手もある。

このセミナーでも冒頭から言っていたことだが、どの方法であっても、「文脈」が大切である。
どういう関係性の中で使うかが全てである。
万人への正解はない。
ただ「子どもは動くものだ」という前提をもつことで、解が広がるのではないかと思う次第である。

2019年8月3日土曜日

セミナーも主体的・対話的で深い学びに

先日、友人が出版記念セミナーを開いてくれた。
(新刊といっても出たのが今年の頭なので、半年近く経った後だが。)
参加者は友人の一部の声かけだけで集まった方々である。
そして出版セミナーを冠している割に、私の本の話ではなく、参加者の悩みの解決を中心に行った。

これが、とてもよかったので、学びをシェアする。

ちなみに、私の話が良かった訳ではない。
参加者全員で悩みを解決する、というクラス会議に近いスタイルで行ったからである。
こうすると、たくさんの解決方法が出る上に、主体的・対話的に学ぶことができる。
あくまで「対話」であり「議論」ではないので、相手の話をよく聞いた上で前向きな提案をしていく。
(これは実は、木更津技法研で長らく野口芳宏先生がとっているのと同じ形の学習スタイルである。)

この会で、たくさんの話題と解決策が示された。

例えば「専科の先生の授業の時に子どもが騒ぐ。担任が入ると落ち着く。」といったケース。
「相手によって態度を変える問題」として、対話が行われた。
「あるある」な話であり、これを解決してきた経験のある人もいる。

参加者のお一人から
「子どもに専科の先生の授業の感想を書かせ、専科の先生に渡す」
という実例のアイデアが出た。
もちろん、いいものを渡すのである。
騒ぐ子ばかりではなく、中には、専科の先生の授業をとても楽しく受けている子どもが存在するからである。

そうすると、専科の先生の子どもの見方が変わる。
それにより、子どもも変わる。
+の相乗効果が生まれる。

つまり、担任がコーディネーターの役を務めるということである。
子どもの監視役でもなく、専科の先生に改善を求める役でもない。
子どもと専科をつなぐコーディネーター。
素敵な発想である。

コーディネーターとしての力。
これこそが、これからの学級担任に必要とされる力である。
学級担任が全知全能の存在として全てを授けるのではなく、子どもと周りをつなぐ役割をもつということである。
そうしている内に、やがて、担任の力を必要としなくなる。

これは一例だが、こんな話題がいくつも続いた。
一応それぞれにコメントしたものの、私の方が勉強になったぐらいである。

授業もセミナーも、一人からその方法の全てを学ぶ、というスタイルは、終焉を迎える時期に来ているのではないか。
これからの学校で教えることは、答えが一つのものばかりではない。
だからこそ、仲間との協働で多様な解を求めることがより必要になってくる。
大学入試の問題もそのように変わってくるはずである。

主体的・対話的で深い学びは、形の話ではない。
教育観と哲学の話である。

素晴らしい学びの機会をくれた友人と、その仲間の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいである。

2019年8月2日金曜日

いつ主体的・対話的で深い学びをやるか

主体的・対話的で深い学びについて。
文科省の示す方向性自体は、ほぼ完全に浸透した。
それがわかっているのに実現しないのはなぜなのか考える。

問題は、これを、いつ、どうやるかである。

答えは、子どもが学校に来ている間、常に、ずっとやるのである。
朝から放課後、それ以降まで、すべてで行う。

例えば授業研の時だけがんばってもダメである。
何かいい手をうったから、突然主体的な学びを始めるというのは有り得ない。
普段からつまらない授業をしているのだから、急に気合いを入れてもやっぱりつまらないのである。

いつも指導者の方を向いて話を聞くということが染み込んでいる子どもたちに、突然「さあ話合いましょう」といっても無理である。
そんなご都合主義は通らない。
(子どもは気を遣って形だけ整えてくれるかもしれないが。)
いつでもどこでも対話をしている状態でないと、対話的な学びにはならない。

急に深い学びに至ることもない。
普段の学びからして浅いから、突然深くしたくても、浅いままなのである。
いつでも些細な一つのことを深く掘り下げて考える習慣が身に付かないと、深い学びにはなり得ない。
あいさつ一つ、礼の仕方一つをとっても「なぜ」「なんのために」を常に問うことである。

それは、教師自身の一挙一動をとってもである。
例えば今回の夏休みの宿題は何のために出したのかを、教師の側が本当に深く真剣に考えていないのならば、子どもが深い学びをする訳はない。

そもそも主体的に学んでいるなら、宿題はいらないはずである。
主体の反対は客体。
指示されて動くのが常では到底身に付かない。
授業中ずっと黙って椅子に座って、出された課題に黙って従っているだけなのに「主体的」というのは考えにくい。
(それを進んでやろうと「自主的」にはなるかもしれない。
自主的な姿は、主体的な姿とは全く違う。)

対話的に学んでいるなら、必ず学習中に仲間と意見交換したり、話したりしているはずである。
それも、自然にやっているはずである。
けんかして相手をやりこめるのではなく、異なる意見から新たな解決方法を自分たちで見出しているはずである。
黙ってひたすら教師の話を聞き続けているということはない。

深く学んでいるなら、気付きがあるはずである。
問題を教わった手順通り解いて答えが出ればいいという浅いレベルにとどまらない。
その答えが本当に正しいのか、他のもっといい解や、考え方はないのか、考えるはずである。

また、なぜそれを学ぶのか、それがどう役立てていくのかも考えているはずである。
与えられた課題を終えて〇をつけてもらって、同級生より先だ上だ100点だと満足しているのは、極めて浅い証拠である。
(塾の点数によるクラス分けや習い事のレギュラー等の他者評価で、クラスメイトをランク付けして差別するなど最低最悪の姿である。)

主体的・対話的で深い学びを、日常に、当たり前の「普通」にすること。

朝のあいさつだろうが歌だろうが給食だろうが掃除だろうが、休み時間だろうが登下校中だろうが、常にである。
例えば掃除一つでも「もっときれいにするには」「みんなが快適になるには」「より短時間で終わらるには」と工夫し続ける。
あるいは、集中し、没頭している。

理想論と言われるかもしれないが、そこを目指さないのなら、実現はない。
何かこっちの求める時だけ、都合のいい姿に子どもがなるなんてことはない。
普段から行儀がよくない子どもであれば、大切ないざという時でも当然行儀が悪いというのと同じ理屈である。

「本番」だけ本気を出そうとしても、無駄である。
付け焼刃と厚化粧と一夜漬けと愛想笑いは同類で、どれも醜い偽物である。

これは、自戒を込めての言葉である。
初任者の頃の授業研で、やんちゃ坊主が全く興味をもたずに、強く叱ったことをよく思い出す。
エゴと見栄にまみれた、その醜い自分の姿を思い出すたびにぞっとし、嫌悪感で身震いする。
「やんちゃ坊主」たちは忖度しない分、その反応は正直で妥当性がある。
教師という立場は、自分が完全に間違っていても通るのが恐ろしいところである。

結局、主体的・対話的で深い学びも、日常が全て。
いつでもどこでも、自らがまずその姿を求め続ける姿勢をもちたい。

2019年8月1日木曜日

仕事への「適応能力」を高める

「とっさ!のうまい対応」について。
今年出た新刊のタイトルの一部である。
「とっさの対応」はどう身に付くのかという話。

以前にも書いたが、今大学の授業で、健康教育について学んでいる。
面白い話を知った。

日本人と熱帯地域に暮らす人々の暑さへの適応能力の比較である。

両者の「汗腺」の数に差があるか。
汗腺とは、身体から汗を出す腺のことである。
これは、差がある。
熱帯地域の人々の方が約2割増しで多いという。

では、汗をより多くかくのはどちらか。
これは意外にも、日本人の方である。
暑さへの反応が強いため、すぐに汗をかく。

そうなると、何のために熱帯の人々の汗腺数が多いのかということになるが、これは後述。

続いて、同じ量の汗の塩分濃度。
どちらが濃いか。
これも、日本人の方が濃いらしい。

総じて、これらの特性は「暑さへの適応能力」ということで説明される。
つまり、暑さという環境要因に上手に対応できる能力の高さである。

普段からちょっとした暑さに敏感に反応していると、水分も塩分も出切ってしまう。
だから、熱帯地域の人々の身体には、水分も汗も「節約」する機能がある。

一方で「突然の異常な暑さ」に適応する能力もある。
これが、汗腺の数の多さである。
普段すべての汗腺がフル稼働している訳でなく、余裕がある。
「とっさの対応」用として、他が控えているという状態である。

ちなみに、これらの身体的機能は、遺伝性ではなく後天性であるという。
日本人の赤ん坊を熱帯地域で育てれば、そのようになるということから証明されている。
よくできたものである。

話を戻すと、つまり、とっさの対応能力というのは、「普段からの無駄の排除」と「余裕の多さ」に関係するともいえる。
(お金の話に似ている。)
普段が全力100%でいっぱいいっぱいだと、それに加わる緊急の事態に対応できない。

それはとりもなおさず、より良くするためのプラスアルファにかける力も残っていないということでもある。
「緊急で重要」という事態に苦労する上に、「緊急でないが重要」というレベルアップのための活動もできない。
常に「今すぐやるべきこと」ばかりに追われ続けることになる。

これを防ぐには、働き方を変えて、余力、余裕を生み出す工夫が必要である。
方向は、大きく二つ。

一つは、減らす、捨てる方向。
暑さの適応の話でいうと「節約機能」の方である。
無理・無駄をなくし、環境自体を快適にするという方向である。
仕事術の本などを参考に、モノの廃棄や仕事の精査をすることがこれに貢献する。

もう一つは、増やす、余裕をもつという方向。
暑さの適応の話でいうと、「汗腺の数を増やす」の方である。
普段から余力を残し、対応できる幅自体を増やす。
リラックスタイムと勉強の両方がこれに貢献する。

勉強の時間すらもろくに取れないという状態は、常に「ジリ貧」が続き、がんばっているのに後退することになる。
(レベルアップなしで常に同じレベルの相手と戦い続けている状態である。常に苦戦が続き、いずれ体力が尽きる。)

仕事へも「適応能力」という視点で見つめ直すと、見えるものがあるかもしれないと感じた次第である。
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