2017年2月27日月曜日

日本一のびりっこ

次の本からの気付き。

『10代の君たちへ 自分を育てるのは自分』
東井義雄 著 致知出版社
http://online.chichi.co.jp/category/BOOK06/831.html

この本の中で、著者の東井義雄先生の子ども時代エピソードがある。
とにかく、運動がまるでダメで、何をどんなにがんばってもダントツビリだったそうである。
辛い中でもある日、「日本一のびりっこ」になってやろうと思い至る。
自分がビリだから、他の人がビリにならずに済む。
えらい役に立ってるじゃないか、ということである。
しかも、この思いはやがて「自分だけがビリのを独占していて申し訳ない」という境地に至る。

私のような凡人は、なかなかここまでの境地には至れない。
しかし、近い思いは何度かしたことがある。

思い返せば、父は私が子どもの頃に、
「どうせなら、ビリでもいいから一番になれ。」
と言っていた。
この言葉は、ここまでの人生で結構役に立ってきた。
一番を目指してがんばること自体には意義がある。
しかし、ビリの価値を見出すことにも、体験することにも意義がある。
父としてどうかと思うことも多々あったが、なかなか必要なことは教えてくれているものである。

結論。
人は誰かの役に立ってる。
負けるものがいるから勝つものもいる。
自分への誇り、相手への感謝。
勝っても負けても、いいことずくめ。

そんなことを、私も子どもに伝えていきたい。

2017年2月25日土曜日

これからの学校の存在意義を考える

次の本を紹介する。

『現代の学校を読み解く: 学校の現在地と教育の未来』
末松裕基(編著) 春風社
http://shumpu.com/archives/8819

前号で紹介したEdCampの際、参加者の一人の方が紹介してくれた本である。
ご存知の通り、私は自分のためにわざわざ人が教えてくれた本は即買いすると決めているので、その場でネット注文した。

さすが「是非」と薦めてくれた本だけあり、面白い。
現代の学校の抱える様々な問題が凝縮されて提起されている。

その中の一つに「超学校社会」という章がある。
勝手に自分なりに要約してみる。

1.世界の「学校に行かない」状況には大別して2種類ある。
 ①行きたいのに環境が整わない場合
 ②環境は整いすぎているが行かない場合
 前者の代表が紛争地域や貧困地域、後者の代表が不登校。
(私見だが、仕事にも全く同様のことが言えると思う。)

2.超学校社会の一つとして「スクール・コミュニティ」の概念。
 地域に開かれた学校、という発想を更に進化させ、地域が学校そのものになる。

これからの時代、学校の存在意義そのものが変わる。
学校に通わなくても学べる時代は既に来ている。
「学校に通うよりYouTubeで有名講師に学んだ方が手っ取り早い」という人もいる。
だとしたら、学校の存在意義は何なのか。

地域が学校になるという発想。
スウェーデンの過疎化地域の復活の好例が挙げられている。
例えば給食は街のレストランからの提供で、図書室は街の図書館でもある。
体育館は放課後から地域の映画館になるという。
住民の利用するあらゆるサービスが集まった場が「学校」。
普通にランチに出かけたら、我が子が同じ場で食事しているというような状況である。
風邪を引いて病院に行ったら、我が子も医師に手当を受けていたというような状況である。
地域密着というより、地域がそのまま学校である。

そうなってくると、教師の在り方も変わってくる。
教師という立場は何を求められるようになるのか。
当然だが、最も求められるのは専門的な授業である。
しかも、地域の専門家や学者と連携した、ネットでは代用できない人と人とがつながる生の授業である。

今の日本の教師は、このスウェーデンの例の逆をいっている。
多くの業務を求められすぎていて、本業を見失っている感がある。
本業の授業者以外に、S.E.であり会計士であり警備員であり警察官であり心理カウンセラーであり研究者であり職業相談所でありスポーツクラブのコーチである。(立場によっては、もっともっとある。)
しかも、そんなに「兼業」したら、どれも「中途半端」にならざるを得ない。
どの業務も本職のプロにはかなわない。
こちらの本業「教師」は、授業で子供に力をつけるのが仕事である。
何でも屋をやっている間に、本業である授業の準備に時間が割けない異常事態である。
ここを無視して「スウェーデンやフィンランドの教育を見習え」と言われても無理である。
夕方には家族全員が揃うのがスタンダードの国とは、業務内容と量が全く違う。
毎日が「本業に力をかける余裕のない緊急事態」である。
(行政的には新たな業務はこれから更に増え、減らされる案はない。
 この時代に教師になろうという若者は、それだけでもう「宝物」である。)

授業同様、学校の教師に専門性が強く求められるのが「学級経営」であるが、こちらにも時間を割けない異状事態。
外部からは簡単そうに見えて、その業務の複雑さは筆舌に尽くし難いものがある。
「切り返しの技術」ぐらいは身に付けておかないと、いつ倒れるかわからない状況である。(さらっと宣伝。)

しかし、この学級の在り方すら、今後は急激に変わってくるだろう。
学ぶこと自体は地域でも自宅でも可能になる以上、学級は教科を学ぶ場としてより、コミュニティとしての色合いが今より強くなる。
つまり、人と人とをつなげる場としての学級、意見を交換する場としての授業がより強く求められるようになる。

結論は出ないが、今後は少なくとも今の「アクティブ・ラーニングへの転換」以上の大変身が求められる。
今までの「ゆとりと学力」の振り子のように、揺れ戻ることはない。
学校の教育内容というソフトの変化ではなく、社会というハード自体の在り方が変わる。

変革への困難は間違いないが、逆に今の現状に疑問を抱く教師たちにとっては、やり甲斐のある話だとも言えそうである。

2017年2月23日木曜日

学校を外に開く

先月行われたEdCamp in Tokyoでの学び。

教育に関心のある社会人から大学生まで、幅広い人々が百数十人参加した。
ランダムに5人集まると、その内教員は1人か2人。
参加者には教員以上に企業の人が多く、特に海外でも活躍している方が多い印象である。

企業の方が求めるのは、やはり「優秀な」人材。
ワンマンで自信過剰な一人よがりの人間ではない。
それは「アクティブ・ラーニング」の理念とほぼ一致する人材である。
つまりは、主体的で、対話ができ、深く掘り下げて考えられる人物。
双方向的コミュニケーションができ、創造的な提案ができる人物である。

この点では、どの大学を出ているから安心、ということはないという。
(逆に有名大学であっても、ある特定の大学の出身者は大抵使えない、という企業側の悪評もあるという。恐ろしい話である。)
社会が求める人材を大学に求め、高校に、中学に、小学校に・・・とおろしていく。
そうすると、それが、アクティブ・ラーニングの理念にほぼ一致する。
(※ただし、2020年版の新学習指導要領には「アクティブ・ラーニング」の用語は使用されない。)

ある公立中学校の発表では、旅行会社と提携して修学旅行を計画したという。
中学生に期間限定で会社の「社員」になってもらい、旅行プランを提案する。
修学旅行先で取材をし、それをもとにプレゼン資料をつくる。
実際に企業の前でプレゼンを行い、表彰もされ、それが実際に企業のPRに使われる。
実に興味深い取り組みだった。

他にも様々な学校の取り組みを聞いたが、多く共通しているのは、ITの活用と、企業や地域との連携である。
今、学校に求められている力をつけるには、学校を開く必要がある。
学校外のリソースを取り入れることで、一気に活動の可能性が広がる。

例えば私の勤務先の千葉大附属小でも、大学連携はもちろん、企業連携やNPO法人等との連携を積極的に行っている。
附属学校や私立学校は、先進的な取り組みによる存在意義の確立が常に必要であり、これからの時代に生き残るためには外に開くことが必至である。

時代の大転換期の今、これからの学校の在り方を真剣に考える時であるという。
経営の立場になくとも、意識していきたい。

2017年2月21日火曜日

子どもへの恋文

次の本を紹介する。

『子どもへの恋文』
灰谷 健次郎 著 大月書店
https://www.amazon.co.jp/dp/4272320238

ハウツーは全くなく、教育、というより、人間としての根本的なところが問われる本である。
一部引用する。
============
(引用開始)
子どもに学ぶ、という言葉は、どこか胡散臭い。
そして今や手垢がつき過ぎてしまったきらいもある。
こちらが子どもに変えられてしまう場合、
それまで積み上げてきたもののすべてが粉砕されてしまうほど、
圧倒的な迫力と独創性が、子どもの側にあるものだ。
(引用終了)
==============

子どもに教えているようで、子どもに教えられている。
子どもを教える立場にいる人は、何かしら思い当たる節があるのではないだろうか。

知識や技術を身に付けるほど、視野が狭くなるようではいけない。
初心忘れるべからず。
目の前の子どもは、大人の未完成版ではない。
わかっているのに、つい忘れてしまう自分を戒める良い機会になった。

2017年2月19日日曜日

子供に求めるより、自分が変わる方が早い

先月の南惠介先生のセミナーでの学び。

刺さる言葉がたくさんあった。
その中の一つに
「子供に求めるより、自分が変わる方が早い」
というのがあった。

主体変容である。
子供が変わらないと嘆いていても始まらない。
教えても伸びないのを子供のせいにしたら、当然楽である。
「あの子は〇〇だから仕方無い」と言ってしまったら、完全敗北宣言である。

自分が変わる。
そうすれば、世界は変わらないかもしれないが、自分の認識する世界が変わる。

自分の見る目を変える。
例えば、席に座らずに、歩き回って落ち着きのない〇〇君。
見方を変えれば、止まっていることが苦痛で席についていられず、苦しさから動くしかない〇〇君。(ちなみに、今の私のクラスの子供ではなく、あくまで例である。)

見方が変われば、対応は変わる。
別に子供が変わった訳ではないが、見える世界が変わる。
結果的に、子供も変わるかもしれない。

子供相手に限らず、つい人に求めてしまう自分。
自分から変われるように意識したい。

2017年2月17日金曜日

陽光に高低なし 花枝自ずから伸びる

タイトルは、野口芳宏先生のご自宅玄関に飾ってあるという書の言葉。
ただし、私が耳で聞いた記憶による文字起こしなので、正確ではない。
気になる方は木更津技法研や教育者モラロジー等に参加して、ご自宅で確認をしていただきたい。
(ちなみに私は書を見ても、教養がないので、どちらにしても読めない。)

春の温かな日差しは高低関係なく平等に降り注ぐ。
花枝はそれに向かって自ら伸びる。
しかし、植物の側は光を浴びるべく伸びるものもあれば伸びないものもある。

大体そういった意味の言葉であるという。

同じ教育を施しても、受け取れる人と受け取れない人がいる。
それが事実である。

この言葉自体は「太陽」を称賛したものであって、光を受けようとしない枝を批判したものではない。
教える立場にある者がこの言葉に胡座をかいて、「受け取らない方が悪い」となっては本末転倒である。
そうではなく、これは学ぶ者の心構えとしてとりたい。

思えば、どんなにいい書物でも、人によってはつまらないという。
いや、紹介したのに見ようともしない人が過半数だろう。
我が身を振り返ってみても、「後で」と思ってすっかり忘れてしまったことは数え切れない。
もしかしたら、すごい宝物を損失したのかもしれない。

各種研修会やセミナーでも、素晴らしい話をしてくれている最中でも、寝る人は寝る。
面白いと思うかどうかは、結局受け手が8割なのである。
どんなにつまらないと思うような話でも、面白がって聞いてくれる人はいる。

私が、自分に誇れることが一つあるとすれば、師や友との出会いを生かしたことである。
私が今師と仰ぐ人や友人たち、彼らに出会った人の数は数え切れない。
その中で、私がその出会いを生かせたことは、大きな財産である。

私は先週、友人たちとサークルのイベントを開催した。
(正確には、私でなく他の仲間たちが奔走して無事開催されたのが事実ではあるが。)
このサークル(円)ができたのも、縁を生かした結果である。

陽光に感謝し、それを生かせる自分になりたい。

2017年2月15日水曜日

学校はブラック企業か

世の中に溢れているという、ブラック企業。
よく聞くのだが、どんな企業を指すのか。
定義がかなり広汎で曖昧である。

共通するキーワードとして「長時間労働」「賃金不払い」「パワハラ」辺りが多い。
とりあえずここでは、この3つを満たすとブラック寄りと考える。

ところで、学校はどうなのか。
「学校はブラック企業」と言われることもあるが、本当なのか。
自分自身の経験を振り返って考えてみる。

長時間労働について。
これは、当てはまらないこともない。
実際、何かとやることは多い。
ただ、きちんと仕事をしつつ早く上がる人もいるので、ここは言い切れない。
自分が残業をする時を考えると、大抵は要領が悪くて終わらないからである。
それ以外を考えると、授業準備や研究等でやりたいことがあって、自ら進んで残る場合である。
「無理矢理残される感」はない。
ただし、緊急事態等で残らねばならない時はある。(どの職業でも同じだと思う。)
よってこの点については×寄りの△。

賃金不払い。
これは一切ない。
学校でこれは聞いたことがない。
よってここは全く当てはまらず完全に×。

パワハラ。
これ自体の定義が難しいが、ここも考えてみる。
要は、有無を言わさぬ上下関係である。
ここも、現在は当てはまらない。
上下関係はきちんとあるが、立場の上下には関係なく、ものを言い合える。
例えば研究論文についての意見などは、立場は関係ない。
良くするために意見するのだから、誰でも言いたいことを言える。
今までのすべての学校では、職員自身だけでなく家族が体調を崩しても休みを認められた。
しかし、話を聞くと、この点でかなりアウトな学校も存在するという。
私も、過去に経験がないとはいえない。
(どの職種でも同じだとは思う。)
よって、ここも現任校は×だが、広くみると△。

結論、少なくとも私が今まで赴任してきた学校は、「ブラック企業」の類ではない。
むしろ、新任の頃からこんなにたくさんの人に意見を聞いてもらえる仕事も珍しいのではないかと思う。
(新卒からいきなり責任と裁量のある学級担任というのは、良し悪しあるとは思うが、チャンスでもある。)

しかし、学校現場からも事によっては、辛い声が聞こえる。
人によっては「ブラック企業」のように映ることも間違いなくある。
長時間労働という点についてだけ考えると、こと中学校教員の平均労働時間は尋常でないところもある。
「日本の中学教員が世界一の長時間労働」という世界的な調査結果がその事実である。

学校が「ブラック」になるか「ホワイト」になるかどうかは、システムの問題だけでなく、そこにいる人間次第である。

2017年2月12日日曜日

当たり前を「見て留める」

前号の成人式で「意図的な無視」の効果について書いた。
無視される行動は減少していくという原理である。
この原理は、教育において逆にも働くので要注意である。

ここに関連して以前、次の記事を書いた。
http://www.mag2.com/p/news/26271

子どもは、注目して欲しいのである。
せっかくいい言動があっても、無視していると、減る。
いい言動ほど「無意図な無視」になってしまっているのが要注意ポイントである。

先の記事の例でいくと、たとえば夕飯の準備中、子どもが自分の絵を持ってきた。
「ねー、見て!」「忙しいから後でね。」
割と普通のやりとりである。
忙しいのは事実だし、後で見る気もある。
しかし、これは受け取る子供にとっては「無視」行動に近い。
自分の伝えたい感動を、認めてもらえないのである。
自然、その内見せにこなくなる。
絵に限らず、作文やテストや諸々のものも見せなくなる。

「じゃあどうすんのよ」とお怒りの声が聞こえそうである。
「一旦承認」の一言である。
「まぁ、素敵。ゆっくり見たいから、夕飯の後でもう一度見せて。」
(そんな余裕の対応はできないとまた怒られそうだが、あくまで理想である。)
内容的には同じことを伝えている。
要は「忙しいから後でね。」である。
ただ、子供の受け取り方が変わる。

親に作品を見せにくるというのは、望ましい行動である。
親自体が親として認められているといえる。
有難いことである。
強化すべき行動である。

学級で考えてみる。
当たり前の行動を当たり前のようにしている子供。
ここを決して無視してはならない。
超注目すべき行動である。

話を真剣に聞く。
宿題や提出物を毎回忘れずに出す。
手をきちんと洗う。
掃除を黙々とやる。
朝の歌を歌う。
あいさつができる。
返事をする。
ありがとうを言う。
ごめんなさいを言う。

どれも、当たり前の素晴らしい言動である。
強化したい言動である。
つまり、時に取り上げて認めるべき言動である。

「当たり前」を「認める=見て留める」こと。
理想の姿に近づけるには、これを意識するしかないと思う次第である。

2017年2月10日金曜日

「素晴らしい成人式」とみる

メルマガ上で、成人の日に書いた記事。

まずは昨年発行して「まぐまぐニュース」で反響のあった次の記事の振り返りを。
http://www.mag2.com/p/news/139065

ここにおける現象もその原理も、学級経営と全く同じ。
原理原則を一言でまとめると、
「注目行動の強化」である。

学級で、誰に着目すべきか。

全く不勉強の何も知らない状態で学級担任をすれば、確実に「目立つ子」に目がいく。
担任や友達が話している途中でも、お構いなしに自分の好き勝手な言動を繰り返す子供。
「真面目」な教師は、その都度注意したりなだめたりする。
学級崩壊の典型パターンである。
不適切な行動に着目して指導を入れていけば、その行動はますます強化される。
何度も繰り返しになるが、「叱責も報酬」だからである。
先の記事で言えば、「荒れる成人」にスポットを当てた各種報道である。

どう対応すべきか。
「不適切な言動」に対しては「意図的な無視」で対応するのが基本である。
その代わりに、何に着目するか。

適切な言動である。
なすべきをなしている子供をこそ、認める。
それは、ある意味で大変「地味」な言動である。
例えば人の話は真剣に聞くといったことである。
そんな「当たり前」がいかに素晴らしいことかを伝える。
不適切な言動を繰り返している子供も、そこに学ぶ。
こちらを先の記事でいうなら、素晴らしい参加態度や代表スピーチをした成人式の報道である。
(東日本大震災の後は、これがかなりあった。復興には若い力が絶対に必要である。)

不適切な言動をしている子供が悪いのではない。
不適切な言動そのものがその場において「不適切」であり、悪いのである。
だから、その言動自体は無視する。
実は子供を無視しているのではなく「意図的な無視」という教育を施しているのである。
そして、不適切な言動を無視することは、その意図まで事前に全体へ伝えておくことも大切である。
「立派な成人への称賛」が、次の立派な成人式を生む。
逆をいかないことである。

この学級経営の原理原則は、社会に適応できる。
注目される言動は、正負に関わらず強化される。
「日本の成人はダメだ」という点に着目すれば、事実とは別に全体の自尊感情は当然下がる。
歴史を含め、そこに着目させるのだから「日本の子供の自国のへ自尊感情は世界一低い」なんて、当たり前である。

全国各地で、素晴らしい成人式が多数開かれているのが事実である。
偏った見方だと、都市部の成人式が「荒れる」と見えるのは、当然である。
実は荒れているのではなく、分母が大きいだけである。
分母が大きければ、割合の関係上、当然不適切な言動をとる「子」の絶対数も増える。
「10人の荒れている成人(?)」を見るか。
「9990人の立派な成人」を見るか。
どちらも同じ事実を、違う視点で見ているだけのことである。
何度も繰り返すが、99.9%の立派な新成人にとって、偏った報道は誤解を招く大迷惑である。
自尊心を構成する一つである「地域への誇り」も傷つけられる。

日本の未来を担う新成人を、祝福・歓迎したい。

2017年2月8日水曜日

「長期の幸福」を行動の軸にする

行動や判断の軸は何か。
気分や状態でぶれてしまうが、本来は「長期の幸福」が大切である。
ただ、実際は短期の安易な方向に負けてしまうこともある。

教室で子供がよくない事をしたのに、自分が嫌われたり反発するのを避けて叱らないでいたら、子供と教師の双方が不幸である。
子供は自分を高め、幸せになるために学校に来ているのだし、教師はそこに向かうよう導くのが仕事であり「志事」である。
だから、きちっと叱る。命や人としての尊厳に関わる場合、怒ることだってある。
その時は双方が痛いが、長期的な幸福の方が優先である。
叱るか流すかどうかの軸は「どちらが子供の将来のためになるか」である。

さて、「長期の幸福」の視点は、あらゆるリーダーの立場の人間に必要不可欠である。
逆に、あまり考えないと、楽な「短期の不幸回避」に安易に流れがちである。
先の「叱るべきなのに叱らない」というのもその悪例の一つ。
企業で、顧客からのクレームが怖いから失敗を隠したり誤魔化したりといったことも、この典型。
双方の長期の幸福を考えるなら、他に指摘される前に社長自らが失敗を公にして謝罪し、是正に取り組む姿勢を示した方がいい。
その時は辛いし経営も一時的に悪化するだろうが、その後の回復力に雲泥の違いが出る。
信用を取り戻せる。

さて、そういった長期の幸福の視点に立って、「常識」、特に「学校の常識」を見直してみる。
身の回りの「常識」は、自分と子供を長期的に幸福にしているだろうか。
「前からあるから、そうだから」というだけの理由で続けているものはないか。

今年度が終わるのを機に、一つ見直してみるのもいいと思う。

2017年2月6日月曜日

冬休みの宿題ゼロを考える

メルマガ上では正月に書いた、冬休みの宿題の話。

どんなものを出しただろうか。
定番は、書き初め。
ポスター等の図工作品。
加えて、冬休みパワーアップドリル的なもの。
年度末の学力検査対策のねらいがあるのかもしれない。
日記からの冬休み新聞で〆という感じである。
よくあるパターンだし、私も過去に出したことがある。

宿題を出す側も大変だが、やる方も大変である。
特に低学年になればなるほど、どれも、「親への宿題」と化す。
もしかしたら、今日はこれから鬼と化して我が子にびしばしやらせる予定のご家庭もあるかもしれない。

冬休みというのは、見た目に比べて案外短い。
年末から正月にかけては、家の行事も多く、意外と出かける暇もない。
夏休みほどの宿題の量はないこともあって、最後の追い込みでやる子供の割合が高いと思う。

私は、かねてより長期休みの宿題反対派である。
義務系の宿題は、可能ならば一切ない方がいいと思っている。
(好きで描くポスターや旅行記など、その時ならではのものに子供が自主的に取り組むのには賛成である。)

学校や学年の事情や意向もあるので、そこを無視はしない。
やると決まれば出す。
しかし、実は個人的には長期休みは宿題ゼロでいいと思っている。

なぜ自分の考えが多数派にならないのか。
なぜ宿題ゼロはなかなか実現されない、または歓迎されないのか。
理由を考えてみた。

私の分析によると、教員になる人は結構小学校時代が優秀であることが多い。
宿題を計画的にこなせる数少ないはずの人種が、職員室には結構いる。
そういう人には「計画的にやれば大丈夫」という論理になる。
無理である。
いや、無理である。
私自身は子供の頃、そこでえらい苦労をした覚えがある。
今でこそ色々と計画的にこなすようになったが、それは大人になってからの話である。
(何度も言っているが、「夏休みの友」(4教科の1学期の内容が全部入っているやつ)が強敵であった。
復習の「夏休みの友」。
友とは名ばかりである。
復讐の「夏休みの悪魔」に改名した方がいいと思っていた。)

また、宿題ゼロにすると、保護者から反対の意見が結構出ることがある。
それは、家でダラダラして困るということである。
まあ、ダラダラする子は宿題を出してもダラダラするので、最後に怒るだけ損な気もする。
ただ意外にもそういった意見が出る家の子供は、宿題を出さなくても何かしらやる。
よって、どちらにせよやはりあまり意味がない。
子供・親・教師の三者の苦労が増えることだけは間違いない。

つまり、出す出さないどちらの場合にせよ、教師の側が「宿題を出す理由・出さない理由」を明確に言える必要がある。

今まで普通にやっていたことを止めるのは、勇気がいる。
しかし、時代は変わっているし、決断して行うことが必要な時もある。
宿題を「当たり前」に考えない視点も大切ではないかと思う次第である。

2017年2月4日土曜日

クラスの荒れを防ぐ「周りの目」

前号の続き。
「周りの人はきまりを守る」と認識するクラスにするにはどうするか。

超具体的に「通学路の信号を守る」ということに例を絞って考えてみる。
互いに「信号を守らない人が多い」という認識をしているとする。
この場合、前号の規範意識の法則によれば、どんどん守らない人が増えることが予想される。

普段の生活や道徳の授業で、「信号を守ることは命を守ることなので大切です」と言ったり書いたりしても、全く意味がない。
本音の伴わない「良い子ちゃん発言」は無意味である。(無意味だが、別に悪いことではない。)
素晴らしい言動があっても、その子供が急いでいる時に赤信号で渡ってしまうことは十分考えられる。
それなら「習い事があって急いでいる時に、つい渡っちゃうことがある」と言う方が本音である。
つまり前提として「自分も守れていない」という認識に立っての話し合いが必要である。

そのままだと、まさに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」である。
どうすると抑制されるのか。
ずばり「周りの人が見ている」状況である。
本当は規則を破りたい気持ちがあるけど、互いに牽制し合っている状態である。
(この牽制心理が悪い方向にはたらいているのが、授業中、わかっているのに誰も手を挙げない状態である。
手を挙げて発言するのが、批判対象の「危険行為」と認識されている。)
集団で下校中に、30人が信号待ちをしている時に一人で無視して渡るのは、よっぽどである。
このレベルの子供は、個人的な問題が大きいので、集団の問題とは切り離しての個人的な指導が必要である。

よくある問題は、3人以上で一緒に渡ってしまうパターン。
これは、小学生だと、ギャングエイジのはじまる3年生や、気が大きくなっている6年生に多い。
ここを抑えるのは何か。

3年生なら、6年生からの注意である。
自分より上の立場の人からの叱責の力は強い。
きまりを破ることに対しては、注意や叱ることも大切である。

6年生なら、1年生はじめ下学年からの信頼感である。
「自分を信頼している1年生が見ている」ということを認識させる必要がある。
「1年生に交通ルールを教えてあげてね。」と、信頼して任せる。
縦割り活動やあいさつ運動などが有効に働くのも、信頼による責任感があってこそである。
「自分は信じられている」という感覚は、すべての行動改善に有効である。

要は、自分だけでは行動抑制できないので、他者の目が大切である。
そこに本人の道徳的規範意識は直接関係ない。
「周りの目を育てる」という意識が、クラスの荒れを防ぐ一助になるかもしれない。

2017年2月2日木曜日

荒れるクラスとそうでないクラスの違い

今回も上越教育大学教授の赤坂真二先生からの学びの続き。
連続で伝えるのは訳がある。
「自分が学んだことを周囲に還元すること」がこの合宿の約束だからである。

規範意識についての面白い調査がある。
ある刑務所で、囚人同士の喧嘩が絶えないということで、道徳向上プログラムが組まれた。
片方の群にはプログラムを施し、もう片方の群には何もしないという比較対照群での実験である。
結果は、全く効果なし。
その場でどんな良いことを学ぼうが、実際の行動には反映されないというのである。

別の調査で、荒れているクラスとそうでないクラスの規範意識を調べたという。
すると、どちらの群でも、有意な差が出ない。
クラスが荒れるかどうかは、本人たちの規範意識とは関係がないということになる。
では、何が違うのか。
ここが重要で、違うのは「他者の規範意識への認識」であるという。
簡単にいうと、荒れるクラスでは、自分はさておき「周りの人はきまりを守らない」と認識しているということである。

ちなみに、これは原田隆史先生の教師塾で教わる、学級調査の手法に似ていると思った。
「きまりを守っている」という項目に対し、4段階で回答するのだが、「自分」の欄と「クラスのみんな」の2つの欄が設けられている。
自分への評価とクラスへの評価がほぼ一致している子供は、状態が安定している。
自分が低くてクラスが高い場合、自尊感情が低いとみなす。
(「みんなに比べて私なんか・・・」という自分を責める状態。)
自分が高くてクラスが低い場合、他責、攻撃的であるとみなす。
(「私はいいけど、周りのみんなはダメ」という批判的な状態。)

どちらが個人の状態として危ないかというと、後者である。
前者は、色々な場面でその子供を認めていくことで何とかなる。
後者は、「わがまま」「俺様」「御子様」状態になっており、指導が入りにくいため、なかなか改善されない。

さて話を戻して、こういう調査結果が出た時には、鵜呑みにせずによく分析する必要がある。
これは「鶏が先か卵が先か」という話にもなる。
「荒れているから、周りの人がきまりを守らないと認識している」ともいえる。
逆にも読める。
つまり、本人はさておき、「周りがきまりをきちんと守る」と認識できれば、「クラスが落ち着く」という結果が得られる。
規範意識については個人に着目しすぎずに、集団として見る必要がある。

それでは、具体的にどうするか。
長くなったので次号に続く。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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