2018年5月31日木曜日

学校の掃除は「当たり前」か

今回も「まぐまぐニュース」に記載された記事の原文。
http://www.mag2.com/p/news/357742

以前にも書いたことだが、ほとんどの国では、学校で子どもが掃除をすることはない。
他国における掃除は「学習内容」ではなく、「作業」であり「職業」だからである。

しかし掃除は、気付きの宝庫である。
日本においては、学校で掃除をするのはいわゆる「普通」のことである。

ところで、掃除という内容は、法的にはどこに位置付けられているのか。
2017年改訂の学習指導要領の「特別活動」には、その内容がある。
「学級活動」の中の
(3) 一人一人のキャリア形成と自己実現
の中の一つに
「イ 社会参画意識の醸成や働くことの意義の理解
清掃などの当番活動や係活動等の自己の役割を自覚して協働することの意義を理解し,
社会の一員として役割を果たすために必要なことについて主体的に考えて行動すること。」
とある。

つまり、キャリア教育の一環としてある。
当番活動の中の一例である。

ちなみに、学習指導要領解説の「生活編」の方には「掃除」の記述がある。
「・ 手や体,道具を使って掃除ができる」
という内容例が示されている。

逆にいうと、これだけなのである。
「毎日掃除する法的根拠はない」
という説があるが、これは正しい。
法的には、毎日やる必要はないといえる。

しかしながら、掃除には教育的意義がある。
教育的意義があるから毎日やるべきかどうかというのは、部活動と同じ話になってくる。
ここには色々な考え方があり、ややこしくなるのでここでは論じない。

何がいいたいかというと、掃除は気付きの場として大切だというとらえである。
掃除をするから、汚れに気付く。

一年生は、トイレ掃除をしない。
だから、汚しても平気である。

六年生が掃除をしてくれる。
だから、六年生は、一年生に少しでもきれいに使って欲しいと願う。
ただしこれは、真面目に掃除をしている六年生にしかない気付きである。

次の本から、引用する。
『スペシャリスト直伝! 小1担任の指導の極意』
宇野 弘恵 著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-135626-2

===============
(引用開始)
雑巾の役目は、汚れを雑巾に移すことです。
これがわかっていないと、雑巾を滑らすだけで「拭いた」つもりになります。
(引用終了)
================

こんな一見「当たり前」のことが、わかっていることが大切である。
自分自身を汚すことで、他をきれいにする。
それが雑巾。
こういうことを、一年生段階で教えるべきだということである。
六年生がやってくれるから、トイレのことも、教えないと気付かないのである。

自分自身が大変な思いをすることで、他を輝かせることができる。
汚れない訳にはいかない。
自分だけがきれいなものを使いたいというのは「きれいなもの好き」の人間の考え方である。
「きれい好き」の人間は、自分が汚れても周りをきれいにする。
そして、無駄に周りを汚さない。
掃除は、そういうことも気付かせてくれる。

法的には毎日やる必要がない。
しかし、やはり、意味がある。
日誌を書かせるのと同じで、大変でも継続的にやらせたいのである。
大変なことには「大きく変わる」可能性がある。

「掃除は当たり前」という考えに一石を投じてみたく、書いてみた。

2018年5月29日火曜日

かわいい子にはけがもさせよ

今回は「まぐまぐニュース」に記載された記事の原文。
http://www.mag2.com/p/news/357391
一年生を見ていての気付き。

十年以上前に、衝撃的な一年生に会った。
ジャングルジムの一段目に上れない子どもである。

なぜなのか。
理由は明確であった。

この子どもは、両親が働いていて、ずっと祖母が面倒を見ていたという。
祖母という立場は、大事な孫を親の代わりに預かっている以上
「絶対ケガをさせないように」
ということを考える。

どうしたか。
一切、外で遊ばせなかったのである。
室内でも、一切の危険から遠ざけて育てた。
よって、守られている限り、一切のケガをしなかった。

その代償として、一切の危険から身を守る術を奪われていた。
その子どもにとって、ジャングルジムの一段目から落ちることは、未知のとてつもない恐怖である。
バランスを崩して、頭を打ち付ける可能性がある。
その子どもにとっては、外を走り回ることも、転んで顔面に大ケガをするというリスクを背負う行為である。

いつも言っているが、リスクを避けて行動し続けないことが、最もリスクが高い結果を招く。

小さなケガの積み重ねが、大きなケガを防いでくれる。
自転車に乗るために練習で転びまくるから、すいすい乗れるようになるし、スピードが出ている時にも上手に転べるようになる。

小さな諍いの積み重ねが、大きなトラブルを解決する力を与えてくれる。
小さな嫌なことやけんか、いじめのような体験を通して、克服している経験が、大きなけんかや、陰湿ないじめをも解決する力を与えてくれる。

グラウンドで動き回る一年生を見ていると、よくぶつかる。
走りながら、前を見ていないのである。
しかし、同じ広さのグラウンドでも、二年生になると、よけるよける。
慣れているのである。
転び方もうまくなっている。
ここまで、しっかりぶつかって転んできている成果である。

保健室には迷惑をかけることを、予めお詫びしておく。
少しの間小さなケガで多めに来ることをお願いしておく。
それが、将来の大きなケガを防ぐからである。

小さなケガやトラブルを経験させておく。
大人が先回りして解決しすぎない。
かわいい子には小さなけがをさせよ。
変化の多いこの世の中を生き抜ける、たくましい子どもを育てたい。

2018年5月27日日曜日

問題意識をもてる集団を育てる

前号の「気付く」が大切という話の続き。

いじめは、気付かないことが一番怖い。
低学年ならまだしも、高学年は気付かれないようにやるので尚更怖い。

しかし、周りの子どもには見えている。
見えているのに、これに「気付かない」集団になることが怖いのである。
「〇〇さんがいじめられているのは自然」
「△△さんがいじめるのはいつものこと」
という状態である。
かなり危ない。

いじめが起きないことに注力するよりも、いじめが起きた時に放置しない集団に育てることが重要である。
問題意識をもてる集団に育てることである。

そのためには「クラス会議」はうってつけの方法といえる。
「クラスの問題は自分自身の問題」と思うようになる。
アドラー心理学における「共同体感覚」であり、ここを育てることがクラス会議をやる真の目的である。
(ちなみに「課題の分離」とは別の話になる。
 自分にはどうしようもないことをくよくよ悩むこととは別である。)

この「クラスをよくしよう」という意識は、やがて
「家族をよくしよう」
「部活をよくしよう」
「会社をよくしよう」
「社会をよくしよう」
というあらゆる集団帰属意識の強化と改善につながる
教育基本法に示された教育の目的にも完全に合致する。

クラス会議も日誌も、気付く子ども、集団でよりよく問題を解決しようとする子どもを育てるための手段である。
放っておいても、気付くようにも集団の問題を自分のものにしようともならないということである。

最終的に、この学級でどんな子どもを育てたいのか。
その目的意識を明確にして、数多の教育の手法の中から適切なものを選択したい。

2018年5月25日金曜日

問題意識がないのが、問題

知り合いの先生が紹介してくれた、次の本の「9月13日」から引用する。

『毎日読みたい365日の広告コピー』 ライツ社
http://wrl.co.jp/2017/11/21/365adcopy/

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(引用開始)

問題は、問題意識がないことでした。

【迷惑駐輪啓発 札幌市】フライヤー 2011年
(引用終了)
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私の勤務する千葉大学のある西千葉駅周辺でも、迷惑駐輪がかなりある。
自転車を多用する学生街ならではともいえる。
しかし、自分が学生だった頃を振り返ると、正直、えらそうに説教できない。

なぜなのか。

問題意識がなかったからである。
「そこに停めると、たくさんの人が通るから迷惑」
「車いすの人が通れない」
「目の不自由な人がぶつかるかも」
という意識自体が足りなかった。
そこへの意識が、不十分だったと言わざるを得ない。

学生時代は、他のことで頭がいっぱいである。
さらに、指導的立場にある訳ではないので、周りに見られている意識も低かった。

一方、教育実習を経た3年生以降だと、急にそこの意識が高まる。

要は、「見られている」という意識が、問題意識を高める。
人は、「見られている」という意識がないと、あらゆる問題行動を無意識に行う傾向がある。
(だから、親や教師は、子どものマナーに関して少し口うるさいぐらいでちょうどよい。)

そして大抵、無意識に行うのは、本当の自分と社会にとって望ましくない方の行動である。
良い習慣とは、「大変な方」を意識的に連続して選択し続けた結果である。

日本人に古来からある「お天道様が見ている」という意識は、ここに大きく寄与する。
お天道様に恥じるような行為は、人生における恥であり、その罰を恐れる気持ちにもつながる。
ある意味で、「他律的自律」である。

お天道様でも自分の中の「じぶん」でもいいが、とにかく外、あるいは内から「何か」が常に自分を見ている。
誰も見ていなくとも、神様なり理想の「じぶん」という他が、今の自分を律している状態が理想である。

しかしである。

問題意識がない以上、その意識すら働かない。
問題意識をもてること自体が、問題解決になるともいえる。

要は、日常からの気付きである。
気付くか、気付かないか。
ここに全てがかかっている。

だから、私は毎年、学級の子どもには常に日誌を書かせている。
日々の「気付き」が書ける子どもは、確実に伸びるという信念をもっている。
そして、自分も日誌を書いている。
問題意識が明確になるからである。

学級経営についても同様。
気付こうとすれば、改善点が見つかる。
「何も問題ない」と思っている時が一番危ない。

4月からそんな脳天気な人は少ないと思うかもしれない。
しかし、実は4月に気付いて対策をとらないが故、5月以降の荒れに繋がっている。

問題意識をもつこと。
気付こうとすること。

それには、日常がすべてである。
乱れがある状態では、見つからない。
放置自転車のある風景が日常になると、気付かない。
整理整頓がされていない環境では、乱れに気付けない。
普段からあらゆる小さな乱れに慣れていると、それがやがて大きな乱れになっても、「普通」になってしまう。

日常がすべて。
問題に気付くためにも、身の回りの小さな乱れから整えていくようにしたい。

2018年5月23日水曜日

保護者と学級担任のリスペクト関係

保護者と担任が、互いをリスペクトすることについて。

ここに関しては、担任の側から先にはたらきかけることが大切である。
上っ面ではいけない。
心から思うことが大切。
それには、やはり知識が前提になる。
「自分が知らないことを相手は知っている」という、「無知の知」である。

担任が知らなくて、保護者が知っていること。
その最たるものは、子どもそのもののことである。

担任は、「学級」という集団単位での知識に関しては長けている。
しかし、「〇〇さん」という個人に関していえば、到底その親に及ぶはずがない。
接している時間が桁違いである。
また、これから接していく時間も、桁違いである。

担任は一年、ないし長くて二、三年のほんの一時期しか一緒にいられないが、保護者は一生の付き合いである。
覚悟が違う。
だから、教育の方針は、保護者優先である。
こちらの教育方針を示しつつも、個人に関しては、可能な限り家庭の側に寄せる。
(ここに関しては、拙著『切り返しの技術』にも詳しく書いた。)

最もわかりやすい例を挙げれば、宗教。
「豚肉を食べない」という宗教をもつ家庭の子どもに対し、豚肉の入った給食を食べさせる学校はない。
そこに合わせるのが当然である。
一方で、「だから豚肉は全校の給食に一切出さない」とはならない。
それは、全体の利益を損なう。
「豚肉を食べさせたい」という家庭の方針を排することにもなる。
だから、あくまで、個人への個別対応である。
アレルギー対応と同じである。
それが全体の方針を示しつつ、個人に寄せるということである。

あくまで、各家庭の教育方針を尊重する。
ここまでその子どもを育ててきたという事実に尊敬の念を抱く。
実際、自分で一人の子どもを育てるとなると、相当な困難が予想される。
そこに関してリスペクトの気持ちをもつということである。

大体、私は家に関する大部分をパートナーに任せて仕事に思い切り打ち込ませていただいている以上、家庭の子育てに関してあまりどうこういえない。
休日にいい顔して、子どもが寄ってきて、「いいとこどり」していると思われても、仕方がないと思っている。
母親としての生みの苦しみも一生知れないし、母親なりの本当の苦労、心労も、喜びもわからないと思う。

どの家庭にも、その家庭なりのストーリーがある。
苦労も喜びも、千差万別である。
つまり、それぞれの保護者は、確実に「私の知らない世界を知っている」のである。

子育てに関しての知識自体なら、インターネット上に溢れている。
だから、「こうすればこうなりますよ」と言うこと自体はできる。
しかし、所詮、一般論である。
10人中1人当てはまれば、当たっている方ではないかと思う。
(以前、「幼児にも割れる食器を使いましょう」という記事でも書いた。
「食事の度に毎度割られてたまるか」というのが我が家の本音である。)

今の時代は、玉石混淆、様々な情報が無料で手に入る。
親の側が学校教育に関する「知識」を得られる機会が無限にある。
教師の側にも、家庭教育に関する「知識」を得られる機会が無限にある。

そして巷に溢れる情報は
「こういう風に育てればこうなる。」
「こういう子どもになるのはこういう育て方だから」
というものが大半である。

それが成立しないことは、当事者にしかわからない。
「我が子が言うことをきかないのはしつけが悪いから」
「落ち着きがなく乱暴なのはしつけのせい」
ということになる。

そんなはずがない。
同じように育てていても、「種(たね)」が違うのだから、同じものが咲くはずがない。
向日葵の種を薔薇だと思って育ててもうまくいくはずがない。
同じ花からとれた二種類の種でも、同じように育つはずがない。
みんな、そここそが「個性的」なのである。

「個性を生かす」というが、「個性は生きる」というのが持論である。
同じような条件下で育てていても、違いが出てくるのが個性。
むしろどんなに潰そうとしても、潰れないのが個性。
ルールは一律・一定にしている上で、なお違う結果が出てくるというのが個性という実感である。
兄弟を育てれば、なおよく実感としてわかることである。

そんな「個性的」な子どもを、悲喜こもごも、保護者はここまで育ててきたのである。
宝物を、預けてくださるのである。
そこへの感謝なくして、学級担任の仕事は有り得ない。

学級には、色々な子どもたちがいる。
どの学級でも、担任は、大変な思いをするだろう。
しかしそれは、保護者も大変な思いをしているのである。

結論、保護者は、担任と苦労を共にする仲間である。
担任は保護者へのリスペクトの気持ちをもって事に当たりたい。

2018年5月21日月曜日

学級担任の「一日の長」

学級懇談会があった週に書いた記事。
次の本から引用する。

『最高の学級づくり パーフェクトガイド 指導力のある教師が知っていること』
赤坂 真二 著 明治図書
https://www.amazon.co.jp/dp/4181695158
============
(引用開始)
先ほども言いましたが、学級崩壊前の子どもたちは、学校に来ると児童・生徒になりました。
役割にはルールが伴います。
したがって、児童・生徒としての行動は、学校が、子どもたちに与えたルールであるとも言えます。
皆さんも、素の自分と教師である自分は、異なっていると思います。
(引用終了)
============

端的に言って、学級崩壊という言葉が登場する前の時代では、児童・生徒という立場のルールが成立していたといえる。
素の自分はどんなにやんちゃであっても、児童・生徒としての振る舞い方があったということである。

一昔前は、親が「先生の言うことをききなさい」で子どもを送り出してくれたことは何度も述べた。
つまりそこには一つのルール、前提があった訳である。
「児童生徒は先生の言うことをきくもの」
という前提である。
(「親と先生はおっかない」という前提でもある。)

今の時代、この前提があると思って指導をすると、当然破綻する。
捉えている前提が間違っているからである。
時代が違えば指導法が変わるのは当然である。

では、なぜこうなっていったのか。
一言で言うと、教師に対する「尊敬」の念が失われたことにある。
尊敬の念は、相手に対して「すごい」と認める時に発生する。

例えば、子どもが教師に対する「尊敬」の念を抱く瞬間の一つは、授業中である。
知的好奇心を刺激する授業。
できずにくじけそうになるところを励まし、導くような授業。
「授業がおもしろい!」と感じ続けることで、少しずつ築かれていく。

教師の仕事の本質は、学力形成。
すなわち授業。
つまりは、尊敬のポイントの一つが「知的権威」である。

親に対してもこれはいえる。
親から見て、「知的権威」があるという状態が望ましい。
平たく言うと「私は知らないが、相手は知っている」という状態である。

学問は先生任せ、という時代ならこれは成立する。
しかし今の時代、学問に関しては、親の側も知識が豊富である。
学問の話だけだと、分が悪いことも多い。

「教育」という大きな分類で考えると、家庭教育も子育ても学校教育も含まれる。
だから、教育全般で語ろうとすると、分が悪い。
情報化社会の今、インターネットを検索すれば、いくらでも「情報」や「知識」は手に入る。
「子どもは褒めて伸ばすものです。」「怒らない方がいいですよ」
などとしたり顔で言われても、情報も知識も経験もある親からすれば「そんなことはわかってる」と思われるのがオチである。

担任側に分があるとしたら「学級担任としての経験」だけである。
時に傷つきながらも、子ども集団と共に前進してきた経験がある。
うまくいったことも、うまくいかなかったこともある。
そういった経験は、インターネット上の情報とは全く質が違う。
そこにだけは、プライドをもってよい。

「知的権威」を確立できるポイントがあるとしたら、そこである。
机上の空論でなく、事実で語る。
その経験と知識は、同職の親でない限り、絶対にもっていない。
確実に「一日の長」がある。

親に対しての知的権威が確立した時、その真の受益者は子どもである。
「先生の言うことをききなさい」ということになり、児童・生徒の立場というルールが成立し始める。
役割とルールを自覚した上で生活できれば、安定し、力もつく。
至極単純な話である。

ところで、初任者はどうすればいいのか。
これは、「知らないことも多い」という前提で、それでもプロとして努力していくという姿勢を伝えるしかない。
経験がない内に大きな話はできない。
できないなりに謙虚に学ぼうという姿勢が伝われば、大抵の人は温かく見守ってくれるものである。
心ある親なら「先生の言うことをききなさい」ということになる。(はずである。)

ただし、これだけでは、足りない。
教師の側だけが「尊敬」を得ようとしても、ダメである。
ここから互いの「リスペクト」に至るには、互いを認める必要がある。
つまり、教師の側から、親の側への尊敬の念である。
むしろ、「主体変容」ということを考えた時、こちらの方が先になる。

ここについては、長くなったので次号。

2018年5月14日月曜日

周りの支えがあってこそ

今年度は、一年生の担任である。
入学式も、いつもと違う立場で参加させていただいた。

学んだこと。
それは、自分の力では全く成立しないということ。

会場設営から教室の飾り付け、各種用具や配付物の準備まで、すべて他力である。
何から何まで、事細かにやってもらった。
有り難みを感じると同時に、自分が何もできないことを感じた。

これでも、教職は17年目である。
担任としての仕事は、ある程度までわかっているつもりだった。

わかってないのである。
知らないところの仕事が多すぎる。
比喩とか冗談ではなく、本気で新任者の気分である。

入学式後の翌日は、各種提出物ラッシュだった。
「出し方」も知らないところへ、紙の山。
そして、質問&お話攻め。

「筆箱はしまうの?」
「ノートはしまうの?」
「先生、私ね、」
「筆箱はしまうの?」
「あのね、僕ね、」
「筆箱の中の鉛筆削ってきたよ」
「クーピーはどこで削るの?」
「筆箱は?」
「あのね、弟がね…」


聖徳太子を心から尊敬した。
十人いっぺんの音声とか、無理。

笑顔で、とりあえず紙類は全部受け取っておいたが、質問は止まらない。

そこで、サポートの先生である。
ヒーロー見参。
同僚が、神様に見えた。

バタバタだが、子どもたちは本当にかわいい。
そして「真っ白」である。
一つずつ、ゆっくり色をつけていく。
(ちなみに、低学年のスペシャリスト、宇野弘恵先生のご著書からの言葉である。)

初任者が音を上げるのもわかる。
切り返しの対応の術と、入念すぎるほどの事前準備が必要である。
学年団はじめ周りの人々の支えなくして、成立はない。

何はともあれ、新鮮な日々である。
今年度は、今までとは少し角度もカラーも違う話題が提供できることと思う。

2018年5月12日土曜日

叱るのは、信頼関係があるからこそ

何年やっても、叱るという行為は難しい。
なぜなのか考えてみた。

まず叱るという行為は、「落としどころ」がない。
その場では、「次は気を付けて」と伝えるものの、結果は出ない。
叱ったら、改善を見届けて、更にフィードバックする必要がある。
大変に手間である。

しかも、改善されないことの方が多い。
手間な上に、能率も気分も悪いことこの上ない。
最悪の場合、「逆恨み」という形で返ってくる。

世の中に「叱らない」理論が広く受け容れられる所以である。
「とにかく褒める」が人気を博す所以である。

その点、社会は、楽というか、すっきりしている面がある。
なぜかというと、ルール違反が見つかっても、一切叱られない。
その代わり、容赦なく罰を受ける。
そこに選択肢や感情の入る隙はない。
警察官と違反者の間に、信頼ベースの人間関係はないからである。

スピード違反や駐車違反で捕まったら、減点されたり、罰金を払ったりするだけである。
警察官は基本的に、説教をしたり叱ったりはしてくれない。
淡々と、粛々と手続きが進められる。
それでも言うことをきかなければ、次は「裁判所」のお世話になるだけである。
それが「法治国家」の本来あるべき姿である。

「ゼロトレランス」という教育方針がある。
ウィキペディアによれば、
「 zero」「tolerance(寛容)」の文字通り、
「不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式」
とある。

これはこれで、意義のある方針だとは思う。
特に、どうしようもなく荒れた状態に対しては、てきめんに効果がある。
荒れ果てた状態には、信頼関係が成立せず、情緒の入る隙間がないからである。

しかしである。
小学校にこれを取り入れられるかというと、かなり心配がある。
まして、まだあらゆるルールへの理解が乏しい低学年には無理である。

私が教育実習生時代に教わったことの一つに
「叱るのは、関係性ができてから」
というものがある。

何事も「誰が言ったか」「どういう文脈で言ったか」が大切である。
先の例だと、警察官が、法に基づいて言うから聞くのである。
一般の人が言っても、効力を発揮しない。
違反の取り締まりという行為は、信頼関係ではなく、一つの社会契約の上に成り立っているのである。

担任が叱ったことが通じるとしたら、そういう関係性だからである。
ここには明確な法律はなく、あるのは人間関係だけである。
普段から「先生の言うことをききなさい」と言われている子どもならいい。
一昔前は、そうだったのかもしれない。
しかし今の時代、大部分は、そうでないと考えるのが妥当である。

つまり、関係性が浅い内は、叱ることがマイナスに働きやすい。

自分がやられて嫌なことは、伝えていい。
その場合の主語は「私」である。

しかし、「叱る」という行為では、「あなた」が主語になる。
叱っているのは「私」だが、その行為のねらいは「あなた」の行動改善である。
つまり、相互の信頼関係がベースになる。
(だから、電車の中でのマナーが悪い人に説教をするというのは、大変に難しい。)

学級では、「叱る」という行為が成立する関係を目指す。
「愛があるから叱るのだ」という言葉も、相互に愛が感じられる素地があってこそである。
叱られることを当然と思って「受容」し、「感謝」する関係性まで高めていく。
文字にするのは簡単だが、成立するには時間もかかり、相当に難しいことである。

これは、職員間でも言える。
信頼関係のある間柄だと、叱られた後に反省し、自然と感謝の念が湧く。
一方、信頼関係がないと、恨み節や無視という形で現れる。

新しい子どもたちとの関係。
新しい同僚との関係。
どちらも、まずは信頼関係の構築から。
互いを知ることからである。

叱るのは、その後で十分間に合う。
子どもに対しても、同僚や管理職に対しても、やがては叱る、叱られるが成立する関係を目指したい。

2018年5月10日木曜日

羽生名人のミス考察

今回も「まぐまぐニュース」で掲載されたものを再掲。
http://www.mag2.com/p/news/356747

何度もおすすめして紹介している「みやちゅう」こと「みやざき中央新聞」2736号からの記事。
https://miya-chu.jp/

ここ4回ほど連載されている、棋聖の羽生善治名人の記事である。
これが面白すぎたので、紹介したい。

棋士の方の書いた記事や本というのは、面白いものが多い気がする。
論理的である一方、直感的である。
文章がぎりぎりの勝負の実感に基づいており、迫力がある。
読んでいてどきどきする。

羽生名人曰く、
大事なのは「ミスをしない」ことではなく「ミスを重ねない」ということ。

羽生名人ほどの人であっても、
対戦を終えて「今日はどこも悪くなかった」と思えるのは、1年で1回あるかないか
だという。

「完璧」と思われる名人ですら、これである。
いわんや私のような凡人が、である。

ミスを重ねてしまう原因は二つ。
1 気持ちの動揺
2 難易度が上がる

1は、後悔によって、冷静さを欠くから。
2は、1によって、それまでの考えや予想が崩れ、未来の方針も見えづらくなるから。

対策としては、
「一息つくこと」と
「反省と検証は後回しにする」。

ミスの最中に後悔しても、「はまる」だけである。
要は、とりあえず置いておき、今の状況に集中することを心がける。

他にも、ミスについての考察がある。
こちらが先にミスすることによって、相手のミスを誘発して、勝つこともあるという。

30年経って気付くミスもあるという。
それはつまり、今の自分にもミスがあるかもしれないということにつながる。

ミスへの考察も、さすがの名人である。
これは、ぎりぎりの真剣勝負を続けている人にしか書けないと思う。
うなりまくりの記事である。

ミスは必要。
曰く「自分なりに許容していくことが大事」。

学級づくりも同様である。
「荒れない学級」を目指すのではない。
ミスをしないことよりも、ミスも含めて自分の学級づくりである。
理想を目指せば、ミスは「必修科目」である。
「名人」が誰よりも多くミスを体験しているのだから、ここだけは間違いない。

犬も歩けば、棒に当たる。
ケガしたくなければ、中に引っ込んでればいいと考える。
しかし、外に出ないことほど、危険なことはない。
ずっと「安全地帯」に引っ込んでいることは、リスクマネジメントの視点からいくと、最悪の手である。
外を歩くからこそ、世界が広がるし、様々な危険にも対応できるようになる。

ミスをしない人生でなく、ミスも含めた自分のチャレンジを肯定していきたい。

2018年5月8日火曜日

リスペクトの気持ちをもつ

3月には、連続で学級開きについての講座を行った。
やり方や考え方を色々と伝えたが、大事なことを伝え忘れていた。
実は懇親会の席では話したことなので、ここに書いておく。

学級開きからずっと大切なこと。
それは、子どもへの「リスペクト」である。

これは、単に「尊敬する」というのとは違う。
「存在を認める」という方が近い。
無条件の肯定的感情である。

何度も伝えているが、子どもがいるから担任になれる。
子どもが親にしてくれるというのと同じである。

同時に、我が子を預けてくださる親へも感謝である。
親にとって子どもは文字通り「たからもの」である。
ここへは、できれば言葉で伝えた方がよい。
有名な実践にあるように
「大切な大切なお子さんを、確かにお預かりしました」
というような言葉できちんと伝える。

たまたま、先に生まれた自分が、「先生」の役をさせてもらっているだけである。
相手は、知識や技能といった面では現在未熟だが、今だけである。
どれだけ立派になって、社会に貢献する人になるかわからない。
「先生」なんて呼ばれて話をきいてくれるのは、今だけである。

数いる「先生」の中で、たまたま、自分に当たったのである。
そこに、管理職の方の責任で、配置してくれたのである。
多少なりとも、申し訳ない気持ちがある。

数々の人の支えのお陰で、偶然にも出会えた子どもたちである。
その喜びと感謝を、きちんと伝える。
マインドは表に出るので、上っ面ではいけない。
そう思って前に立たせていただく。
その思いは、雰囲気となって全身からにじみ出るものである。

何か、精神的な話なので、うまく伝えられないかもしれない。
目の前に起きていることの価値に気付くということである。
気付こうとしなければ、どんな素晴らしいことが起きていても感謝できない。

子どもに、そして周りの人々へのリスペクトの気持ちをもつ。
5月になると、人間関係にも「慣れ」が生じてくる。
4月の出会いの時に抱いた、新鮮な気持ちを大切に思い返していきたい。

2018年5月6日日曜日

負けるとわかっていても、やる。

先日の鍵山教師塾での学び。
(なお、今回の記事は「まぐまぐニュース」でも取り上げられたので、こちらでもほぼ同様の記事が読める。↓
http://www.mag2.com/p/news/357447

この学習会は、「こうすればこうなる」系のノウハウは全く身につかない。
徹底的に話し合い、考え方を身に付ける、ある意味哲学的な学習会である。

講師の執行草舟先生の話で、
「負けるとわかって誰かに味方して、負けた人に、人は魅力を感じる」
という話があり、これがすとんと腑に落ちた。

なるほど、歴史上の人物を見ていくと、成功者ばかりではない。
最高の社会的地位を捨て去って、敢えて負ける道を行く者も多い。
その中でも特に人気のあるのは、西郷隆盛だろう。
土方歳三もそうである。
若き日の高杉晋作も、その無茶に従った伊藤博文も、明治維新の志士はみんなそうである。

吉田松陰の有名な言葉、
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
の精神である。
損するとか失敗するとかは、志の前には二の次なのである。
講師の執行先生は、これらの精神に対し「不合理を愛する」と表現している。

やはり、人の心を惹きつけるのは、そういう人物である。
後生の人々の心に残るのは、不合理を愛した人達である。
逆に、うまく時流に乗ってとんとんといったと伝えられる人物は、意外と不人気である。
(しかしながら、そういった人達の作った制度に、救われている面も否めない。)

ともすれば「こうすればうまくいく」に飛びつきたくなる。
私自身、そういう方法を使うことが実際に多いし、紹介もしている。

しかしである。
「スマート」はほめ言葉だが、人間というのは心の底で、泥臭い方が好きという面がある。

「負けるとわかっていても、やる。」
その覚悟をもって事に当たれば、こわいことは何もない。

新しい職場、新しい学級。
逆風が吹くことがあっても、自分の信念をもって前向きにチャレンジしていきたい。

2018年5月4日金曜日

感覚が鈍くなる恐ろしさ

3月末に参加した「鍵山教師塾」での学び。

会の冒頭に、鍵山秀三郎先生の講演があった。
その中の「人間の感覚が鈍くなっている」というお話が最も印象的だった。

人間は、便利なものができると、不器用になる。
簡単に調べてわかるようになると、頭を使わなくなる。
そして、様々な感覚が鈍くなる。

「すれ違う人をよけようとしない」というお話があった。
立派な体格をした高校生たちが、集団で道を広がって歩いてきて、そのまま突っ込んでくるという。

相手が「歩くのもきつい」という状態が想像できない。
恐らく「邪魔」「よけろよ」という感覚である。

本質は、人間としての感覚が鈍っているということだろうと解釈した。
相手を思いやったり、譲ったりすることができないということ。
「こうすればこうなる」という想像力の欠如。
いきすぎた暴力やいじめも、この一環である。
あらゆる自己中心性、自分勝手も、この一環である。

高校生を例に挙げていたが、それは私たち教育に関わる人間の問題だと突きつけられたように思う。
結局、社会の問題の全ては、教育が第一義の責任を負うものである。
そもそも、私たち教員をはじめとした社会の大人に欠如している感覚かもしれない。
何でも「便利」「楽」「早い」を追求した結果、利己主義に走り、大切なものを失っている気がする。

4月から、新しい学級が始まった。
新しく出会った子どもたちに何を伝えているか。
どんな子どもに育って欲しいのか。
そのために、どんな自分で「在る」のか。
真剣に向き合っていきたい。

2018年5月2日水曜日

桜先生

今日はエッセイ。
(一月前のメルマガ記事からの転載なので、季節外れであることはご容赦願いたい。)

関東は、お花見シーズンのピークである。
桜の花を眺めていると、不思議と心がわくわくしてくる。
別に何がある訳じゃないのに、不思議なことである。

花を見て、心が満たされるというのが大切である。
花を見ても何も感じない、ましてお花見で怒っているとかだと、無意味、あるいは害悪ですらある。

要は、心持ちである。
余裕がないと、何もいいと思えない。
余裕があると、何でもいいと思える。

この心持ちというのは、自分でしか決められない。
幸せや穏やか、平安は、意識的な選択である。

無意識に任せていては、不幸や不満、不安、怒りに流される。
本能は、生存すること自体を第一義に考えるため、不安や恐れのある状態の方が、生き延びやすいという。
(大自然の中で何の恐怖心も警戒心ももたずにうろついてたら、他の生物に食い殺される可能性が高い。)

だから、意識を放っておくと、人間は自然とネガティブを選択することになる。
無意識状態は、ネガティブなのである。

わかりやすく、身近なSNSを使用する場合を例にする。

桜並木でも何でもいいのだが、美しい風景をSNS上にアップしようとするとする。
満たされた心で「この素晴らしい景色をあの人にも見せてあげたい」と思うか。
欠けた心で「私のリア充生活」をアピールしたいがために行うのか。
まずこの発信の時点で心持ちが分かれる。

次に、受け手である。
満たされた心で「何て美しい風景だろう。シェアしてくれてありがとう。」と純粋に思うか。
欠けた心で「羨ましい。それに比べて私なんて・・・こんな自慢して腹立たしい。」と受け取るか。

この辺りが、SNSの難しさを作っている。
純粋な心で行っても相手にマイナスに受け取られたら「そんなつもりじゃなかった」となる。
そもそも傲慢な心持ちで発信した場合、確実にマイナスに受け取られる。
自分の心持ちまでは決められるが、受け手の心持ちは決められないのである。
見た相手を無駄に嫌な気持ちにさせる可能性があるなら、そこのリスクは敢えて負わないという選択肢もある。

要は、花を見るにしても、極論自分の中だけで満たされれば良いのである。
外向けにアピールする必要はない。
外に意識が向きすぎるから、自信がなくなり、自身がなくなる。

子どもにもいえる。
本物の自信のある子どもは、落ち着いていて、公平で優しい。
他で決まる「自信」、何かができることで価値を決めている子どもは、自慢や他人の卑下、いじめという形で現れる。

大人でも同じである。
すごいことをしているのに、常に淡々としている人がいる。
自分の中に、本物の自身がある人である。
逆に、妙に偉ぶっている人や高圧的な人、仕切りたがりや支配的な人は、自信がなくて不安なのだと考えて間違いない。

桜は、誰もいない山奥でも咲く。
褒められることを求めていない。
評価を求めていないからこそ、純粋な美しさがある。
評価を求めない美しいものにこそ、高い評価がついて引きつけられる。
厳しい寒さに耐えるほどに、美しい花をつける。
そして、散り際も潔い。

桜は「美しさ」という教科の最高の先生である。
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