2014年3月30日日曜日

根本は聞く力

野口塾ビギナーズセミナーでの学びのシェア。

学力において、最も大切な力は何か。
野口芳宏先生は以前より「学力の根本は、聞く力」と主張されている。
今回もここについての話があり、そこから学んでの以下、私見である。

素直とは人の話をよく聞くことだが、「聞く力」不足は、その逆の状態である。
話を聞いてもらえないと、教えたいことも入らないし、相互の関係も築けない。
そう考えると、「聞く力」をつけることが、良い学級作りの根本であるともいえる。

国語の学習指導要領にはA「話すこと・聞くこと」とある。
しかし本来の学習の段階としては「聞くこと・話すこと」の順である。
赤ちゃんは、聞く学習から入り、やがてそれがたまって、意味のある言葉を話し始める。
だからこそ、その国の言語が喋れるようになる。

「アー」「ウー」などのそれ自体は意味を持たない音声段階であっても親に伝わるのは、
親の側が相手(赤ちゃん)を理解しようと努めるからである。
言い換えれば、子ども側に「話す力」が不足していても、親の側に「聞く力」があるからである。
「お腹が空いた」「おむつを替えて」「遊んで」「眠い」「吐きそう」
いつもその子を見ている親なら、総合的に判断できる。
しかし、他人様の子どもであるなら、簡単には判断がつかない。
相手理解が不足しているからである。

聞くという行為は、相手理解。
明鏡には「聞く」の解説の一つに「話を情報として受け取る」とある。
聞く時は、耳だけでなく、五感を使って情報を受け取ろうとすることで、より深い理解に近付ける。

「学力の根本は、聞く力」と考えて間違いないように思われる。

2014年3月28日金曜日

最高の姿を目指す

時期を外してしまったが、先日受けた講座の中の、横山験也先生のお話のシェア。
内容は、卒業式の作法とその教え。

卒業式に参加するにあたり、様々な練習を行う。
卒業生への指導事項は、大きく次の5つである。
1姿勢
2起立・着席
3礼
4証書授与
5返事

どれが一番大切か。
会場では「証書授与」に最も多く手が挙がった。
「一人が注目されるから」「卒業証書授与式だから」など色々ある。

では、それぞれの時間はどれぐらいか。
2と3は、10回あったとしても、数十秒。
4は壇上にいる時間が30秒から1分。
5にいたっては1秒。
一方、1の姿勢は、1時間以上である。

横山先生は「姿勢」の指導の大切さを強調されていた。
姿勢が、全体の雰囲気を決めている。
これは、教室でもいえることである。

姿勢には「心」が表れる。
心の中に持つべきは「最高の姿」を目指すこと。
極端なことを言えば、卒業式練習は、1回やれば、とりあえずの形にはなり、本番も流せる。

では一体、何をしに来ているのか。
それは「最高の姿」に近付くためである。

「最高の姿」を勉強しに来ていると自覚しているか。
もし自覚しているなら、
「最高の姿勢」
「最高の起立・着席」
「最高の礼」
「最高の証書授与」
「最高の返事」
常にこれらのイメージを持ち、近づける努力をするはずである。

残り少ない貴重な時間を使ってまでの卒業式練習。
どうせやるなら、最高の姿を目指す最高の時間にしていきたい。

2014年3月26日水曜日

子どもは大きく手を広げ

先日、俳句の実践発表をさせていただいた。
桐に関する俳句である。

桐というのは、面白い性質がある。
生物は普通、どの部分でも小さい状態からだんだん大きくなる。

桐の木は、急成長する木である。
急成長する為には、多くの栄養が必要である。
そこでどうするのかというと、桐は幼生期に、大きな葉をつける。
幼生期ほど大きな葉をつけて、秋には落葉する。
そして、幹が太く、枝が多くなるにつれて、毎年できる葉のサイズは小さくなっていく。
つまり、小さい頃ほど一つの葉を広げ、たくさんの太陽の光を吸収しようとする。

これは、人間の子どもと同じであると思う。
子どもはいつも大きく手を広げており、全力で、そして貪欲に吸収する。
やたら一つのことに熱中したりする。
大人になると、種類が増えていくが、子どもほど一つのことに熱中できないことも多い。
(そして、飽きるとさっぱりやらなくなるのも、落葉する桐に似ている。
もう必要なくなったのである。)

俳句の勉強から、思いがけないことを知れた。
知識が増えるというのは、いくつになっても楽しいことである。

2014年3月24日月曜日

当たり前のレベルを上げる

「成長とは、当たり前のレベルを変えること。」
「教育の鉄人」こと、杉渕鉄良先生のメルマガ上で発見した言葉である。
加えて次のような話があった。

例えば、算数のテストで、全ての問いの解法を説明できることを目指すとする。
そうすると、「テストで100点」は目標ではなく前提となる。
(そもそも普通はそこに行き着くのが大変なのだが)それは「当たり前」。

つまり、指導者側の意識レベルが、全く違う。

以前、山口県の福山憲市先生の「算数の市販テスト平均99点」というのを紹介した。
こちらも同様である。

このお二人の対談講座を聴く機会があり、福山先生は次のような話をしていた。

100点は、当たり前。
そこを目指しているのではなく、結果的にそうなっただけとのこと。
目指すものからすれば、「平均100点」で然るべきなのにという話だった。

二人の先生の共通点がある。
100点の遙か上を目指して指導している。
かなり「非凡」なことも、二人にとっては「平凡」。

これは、算数に限ったことではない。
あらゆることに応用して考える。

例えば、「たまには家事をがんばろう」と思ったとする。
(夏休みの記事に、そんなことを書いた覚えがあるが。)
そこで「自分の子どもの弁当作り」があったとする。
私のように、まともに弁当を作った経験がほとんど無い人間には、かなりの難題である。
加えて、自分が食べるならまだしも、子ども用。
やるとなればまさに「挑戦」である。
しかし、先に紹介した福山先生のように、毎朝自分の娘の弁当を作るのは当たり前の人もいる。
それは弁当作りが「挑戦」ではなく「習慣」となっている。
難なくこなせる。

この習慣形成がカギで、有名な森信三先生の躾の3原則も、これに当たると思う。
挨拶、返事、履き物を揃える。
この3つが当たり前になっていると、それ以前の部分がついてくる。
相手を尊重する態度、思い遣り、物事に丁寧に取り組む姿勢・・・
あらゆることが嫌でも一緒に身に付く。
「意識しなくてもできる」=「自然体」=「当たり前」になる。

結局は、どんな習慣が身に付いているかである。
子どもの指導にもいえるが、まずは主体変容。
自分自身の低い当たり前レベルを変えることから始めたい。

自由と規律

今回は本からの私見。

「規律なき自由は放縦につながり、自由なき規律は専制につながる。」
(「自由と規律」池田潔著 岩波新書 より引用)
イギリスの学校についての本である。

教育基本法では、「規律」ということが重んぜられている。

「規律」というと、どうも堅苦しくて嫌いだという人もいる。
だから流行歌には「規律を壊せ」というような意味合いのものも少なくない。
「アウトロー」である。
一時期多かった中高生の喫煙も、これの一つの表現であるように思う。
この「アウトロー」の傾向が強くなると、世の中が荒れたりする。
盗んだバイクで走り出す人もいる。
廊下でバイクとかもあったらしい。
勢いはあるが、これは、学校としてはよろしくない。
「規律なき自由」=「放縦」、つまり「わがまま」の状態である。

バイクを盗んだり廊下をそれで走ったりというのが「自由」ではないのは明白。
しかし「何でもかんでもルールで縛り付ける」のが「規律」でもない。

「規律」を辞書で引いてみる。
1 人の行為の規準となるもの。のり。おきて。
2 秩序。きまり。
3 規制すること。

「規律が嫌い」という傾向はこの中の3のみを注視している為ではないかと思われる。

自然には、秩序ときまりがある。
地球は一定速度で周り、不規則に休んだりすることは決してない。
えんぴつを手から離したら、引力の法則に従って下に落ちる。
「今日は浮きました」とか「今日は水平方向に進んでみました」ということがあっては、何もかも落ち着かない。
秩序ときまりで、成り立っている。

動物にだって、秩序ときまりがある。
例えば肉食獣とて、やたらに小動物を襲う訳ではない。
腹が減っている時や、必要な時にだけ、襲って食べる。

まして人間には「行為の規準」=「あるべき姿」がある。
それが教育基本法にある「規律」であると解す。
どういう姿がいいのか、描いていなくては近づけない。

「自由と規律」は、相反するものではなく、いわば車の両輪である。
どちらかが欠けると、「放縦」か「専制」になり、曲がった方向に進む。
「自由と規律」は、両方がバランスよく必要である。

2014年3月22日土曜日

人生の師

おすすめの本の紹介。

人生の師 「一期一会」をどう生かすか 童門冬二著 三笠書房

吉田松陰、上杉鷹山、伊藤仁斎といった教育者の逸話から、
項羽に劉邦、徳川吉宗といった国の指導者の逸話、
坂本竜馬、勝海舟といった改革者の逸話、
二宮尊徳、佐久間象山のような学問を究めた人の逸話。
そして締めにはクラーク博士の「少年よ大志を抱け」の逸話である。

他にも書き切れないほどたくさんの「人生の師」の逸話がつまっている。
特に教師にとっては為になる話が多い。
自分の生き方を反省させられまくるので、読んでて凹む部分も多い分、反動でやる気も出る。
「伝記を読もう」と思ってもなかなか踏み出せていない方には、特におすすめしたい。
これ一冊でかなりの人物の逸話が詰まっている。

とても感動した本なので、紹介してみた。

2014年3月20日木曜日

漢字で書きますか?

1学期、テストをするとよく子どもが質問してくる。
「先生、漢字で書きますか。」
高学年の社会科のテストで特に多い。

答えはいつも「漢字で書きましょう。」である。
この返答はいつでもぶれない。
国語の漢字テストではさすがに質問してこない。
「漢字テストでなければ漢字を書かなくていいのか。
それならば、何のための漢字テストなのか。」と問い返すこともできる。
日常のノートや日記などの文章で、習った漢字を書いて、初めて意味がある。

質問を受けた時はチャンスである。
逆に子どもに問う。
平仮名だと何がいけないのか。
なぜ漢字で書きなさいと言うのか。

平仮名でも別にいいのではないか?
漢字である必要はあるのか?
改めて問われると、初めて考える。

ユーモアをいれて、
「実は、みなさんを苦しめるため・・・
では、ありません。」
などとやりとりをする。
答えの一つとして、「漢字の方が良い」という実例を挙げる。
例えば、黙って次のように板書する。
「すもももももももものうち」
子どもたちは口々に読む。
読み方は当然滅茶苦茶で、ピンときた数人を除いては、正しく読めない。
隣に「李も桃も桃の内」と板書する。
李の読みも、ここで教える。(これも学力形成である。)
これなら、きちんと読めると実感する。
これは「うらにわにはにわにわとりがいた」でも、何でもいい。
とにかく、平仮名だと読みにくい例を挙げる。

文章の基本は「達意」である。
意味が伝わらないといけない。
仮名は音を表すものであり、それ単体では意味を成さない。
だから、通常の文章では、意味の通る漢字を用いる。
読みやすさを考えた、相手本位の思いやりである。
詩などで柔らかさを表現する為に敢えて平仮名にするのとは、訳が違う。

だから、小学一年生の作文を読むのは中学生の作文を読むよりはるかに大変である。
漢字が少なく、ぱっと見て意味が伝わってこない。
漢字が書ける子どもの文章ほど、楽に読める。
逆も然りで、高学年なのに平仮名だらけの作文を読むのは、かなり労力がいる。
(ここに気付かせるには、作文を交換して読み合う活動が有効である。
子どもにとって作文は、書きっぱなしで人のものを読む機会が少なくなりがちである。)

ちなみに、漢字は書けることよりも読めることの方がより大切である。
書く機会より読む機会の方がはるかに多い。
そもそも、パソコンの普及により手書きの機会がぐっと減っている。
書けなくても、変換すれば出る。
しかし、読めないと読書一つにもかなり支障がでる。

そこで、書ける字を敢えて平仮名にさせない。
書けば読めるようにはなる。
読めるようになるためにも、書かせる。
板書ならば、学年配当漢字とは無関係に漢字&振り仮名。
子どもの学力向上を見据えて、敢えてそうする。
日常の大切な言語教育であると思う。

2014年3月16日日曜日

日本に対する世界の評価

毎年恒例で開かれるモラロジー研究所主催の「教育者研究会」での学び。
特別講師は筑波大学名誉教授の村上和雄先生。
遺伝子研究に関する世界的な権威である。
次の話があった。

イギリスのBBCが毎年「世界に良い影響を与えている国」という世論調査を毎年行っている。
世界22ヵ国に調査を行い、評価対象は17ヵ国。
ヨーロッパ諸国やアメリカ、ロシア、中国、インドなどの国が参加。
もちろん日本も参加している。
果たして、日本はどの辺りか。

2012年の調査では、日本が1位。
2013年はやや順位を落とし、4位。
世界的な世論でも、日本という国は高い評価を得ている。
この調査はインターネット上に詳しく載っている。

日本という国は、世界的に認められながらも、国民の自己評価が低い。
自国のみならず、他国への評価も軒並み低い。
自尊心と他を尊重する態度は、相関がありそうである。

2014年3月13日木曜日

できないことでも教えられる

前号の道徳の授業の話の続き。
自分が感動した資料でないと、授業が空々しくなる。
自分がやったりできたりしていないことは、心に響かない。
これは一つの真理である。

しかし、これだけが正しいとなると、不都合が生じる。
一流アスリートのコーチは、選手よりも運動が得意とは限らない。
体操金メダリストの内村選手と同じレベルの技を、コーチが見せてやることはできない。
それでも、選手の動きを見て、的確な指導をすることができるのがコーチである。

同様に考えると、教師ができないからといって、教えられないという訳でもない。
そこに正しい理論や理念があれば、自分ができなくても教えられる。
その際、うわべだけの理解では、教えられないし伝わらない。
だから、道徳の授業では、教師が感動した資料の方が良い。

自分の失敗談。
一時期、本やインターネット、セミナー等で力のある資料をとにかく集めた。
片っ端からやってみた。
自分の感動を伴わない場合も、いいと思ったらやってみた。
素晴らしい人物の生き方を示し、「かくあるべし」という感じである。
それで、実際子どもがどうなかったというと、どうにもならない。
「努力が大切」とわかっても、努力するようになるものでもない。
それは、一つの価値を教えたにすぎない。
価値観が変わるには至らなかったということである。
今思えば、せめて下手に自分の講釈をいれないで「読むだけ」にしておけば良かったと反省である。

私は、野口芳宏先生の「人間は無限多面体」という考え方に共感している。
ある面からみると立派な人に見えるが、違う面も無限にある。
例えばすごい人だが、ある面だとかなりだらしない、ということがあったりする。
しかし、それがダメかというとそうでもなく、意外とそういう人間くさい人に、人は集まる。
そこに甘えてはいけないが、完璧な人間などいない。
「努力が大切」とわかって教えていても、さぼりたくなるのが人間である。
そこを克己心でもって成し遂げるのが、偉人の生き方なのだと思う。

結論。
自分ができないことでも、良いことなら教えた方がよい。
ただ、特に道徳においてのその場合は「自分も修行中です」というスタンスで、共にがんばろうという形で教える。
教師よりその一面において優れた人格を持つ子どもなど、ざらにいる。
(いや、ほとんどがそうかもしれない。)

教えることを躊躇せず、かつ「畏れ」は持って教育にあたりたい。

2014年3月9日日曜日

自分が感動するもので授業する

道徳の研究会での学びの続き。

複数の価値が集まって価値観が作られる、という話を一週間前に紹介した。
価値は教えられるが、価値観は自分の中で作るものである。
価値に個性はないが、価値観には個性があるともいえる。

だから、同じ作品を見たり読んだりしても、人によって感じ方が異なる。
子どもの頃に読んだ本を見返すと、違った味わいがあるのは、同じ人間でも価値観が変わったからである。

道徳の授業では、自分自身が感動した素材を用いる。
自分が感動しないもので授業をしても、子どもの心に響かない。
教える側が感動していないもので授業した場合、何か虚しさが残る。
それも子どもに伝わる。

もしそれでも子どもに紹介した方が良さそうな話なら、「読むだけ」という手が良い。
力のある資料を、ただ読む。
そこに属する価値観を持っている子どもなら、読むだけで心に響く。

教師が感動できる素材を用いて授業しても、感動しない子どももいる。
そこに感動するような工夫をするのが「教師のウデ」であるとのことだった。
あれども見えずの、見えない価値に気付かせるのが、発問。
そこで価値を見出すと、価値観が変わってくる。

自分が感動する素材を探したら、その価値に気付かせる発問を考えたい。

2014年3月6日木曜日

実感道徳「おおきな木」

先日の道徳研究会での学びの続き。

「おおきな木」という絵本がある。
作者はシルヴァスタイン。
アメリカのお話である。
複数の翻訳者と出版社が出している。
翻訳者により、大分文章の感じが違うので、好みのものを選択して欲しい。

少年時代、大好きな「おおきな木」で毎日遊ぶ。
しかし、成長するにつれ、少年は大人になり、だんだん離れていく。
成長にしたがって様々な欲求が出るが、その都度、木は自己を犠牲にしてでも相手を満たしていく。
多くを失い、それでも木は幸せだった、というお話である。
この本を読み聞かせする模擬授業の展開があった。

ここについての協議が、意見が分かれて面白いものとなった。
作品自体に力があるので、本来はあれこれいじらない方が良い。
しかしながら、この作品の良さに気付かない子どももいる。
ここに気付かせるのが指導である、と講師の野口先生の言葉があった。

次の発問を提案された。
「おおきな木と少年、どちらが幸せか。」
ここを中心発問とし、生き方を問う。
少年の生き方を「自己凝視」させることで、自分の中にいる「少年」に気付かせていく。

参加者の先生の中から、
「木はあれでいいのか。
 本当に少年のためになっているのか?」
という意見も出た。
「2つの生き方を見せている。」
「木は教育者ではない。親でもない。」
等々、興味深い意見をたくさん聞けた。

自分なりの解を確定して、授業に活用してみたい。

2014年3月4日火曜日

小寒の氷大寒に解く

大分前になるが、1月20日は大寒だった。
(この記事はメルマガ上のものなので、時期が外れてしまうのが申し訳ない。)
寒さのピークであり、これ以降寒さは緩むはずである。

タイトルにある慣用句の意味は、広辞苑によると次のように書かれている。
「大寒がかえって小寒よりも暖かなこと。
物事が必ずしも順序通りにゆかないことにいう。」
(ちなみに小寒は1月5日頃をいう。)

事実、1月20日は、前日に比べ暖かであった。
大寒だからといって、必ずしも最も寒いとは限らない。
天候に関しては、順序が前後することもしょっちゅうである。

学級集団にも、同じことが言える。
3学期になったのに、2学期よりできてないこともある。
突然良くなることもある。
人間相手である以上、順序通りにいかないのが道理ともいえる。

全ての物事に、法則性はある。
しかしながら、法則通りにいかないことがあるのも、また一つの法則である。

まあ、こんなこともあると、余裕を持って構えたい。

2014年3月2日日曜日

教師の「礼」は誰にする

今回は、次の本を読んで考えたことから。

「教師の心に響く55の名言」野口芳宏 著 学陽書房

授業の前に礼をする。
誰に向かってするのか。
子どもの側について考えたことはある。
では教師の側の礼についてはどうか。

「子どもに対してしている」とする。
何と言っても、目の前の子どもがいないと授業にならない。
いてくれるだけで有り難いことである。
また、相手の人格を認めるという意味も含め、礼をしている。

それ以外はどうか。
教師は、子どもにだけ礼をしているのか。

本の中にある言葉を引用すると、
「大事なお子さんをお預かりして一時間話をさせてもらいます」
とある。
つまり、親に礼をしている。
その背後にいる子どもの祖父母にも礼をしている。
そのずっと後ろにある、大きな存在に対して礼をしている。

子どもには、「誰に礼をしているのか」という話をしたことがある。
目の前にいる先生、共に学ぶ仲間、送り出してくれた家族。
加えて算数を学ぶならそれを大成していった数学者も含め、関わる全ての人への感謝。
そういうものに礼をしよう、と話してはいた。
それでも、まだ軽い感じがしていた。

なるほど、原因は自分自身である。
子どもに教える前に、教師自身の礼の深さである。
礼一つをとっても、主体変容、率先垂範。
甘い自分を反省させられた。
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