2011年2月25日金曜日

うたなければ100%外れる

前号のバスケやサッカーの指導に関連した言葉を一つ。
「一度も撃たなければ、100%外れる」(グレツキー)
まあ、当たり前である。
しかし、多くはシュートをうつこと自体、躊躇する。
なぜか。
「失敗するのが怖いから」である。

これについて考えるのは、結構大切である。
体育指導において「外れてもいいからシュートをうて!」という考えをしっかり植え付ける必要がある。
先日紹介した体育の大家の先生によれば、シュートをうったら「ナイストライ!」と声をかけるという。
挑戦したことそのものを評価する必要がある。
失敗しても、挑戦したことが大切なんだという意識をここでも育てられる。

我々が失敗が怖いのは、常に成功を求められ続けているからかもしれない。

2011年2月24日木曜日

スイカも授業も「甘い」所から

社会科で有名な有田和正先生が次のようなことをご自身の著書で述べている。
「スイカは一番甘い所から食べる。授業も同じ。」
今日は、体育の授業を例にあげて述べる。

サッカーやバスケットボールの授業なら、何が「おいしい」ところか。
「ゲーム」だろう。
ゲームの中の、特にどの部分か。
「得点」である。
シュートを打って入れることである。
「ディフェンスの喜び」は、本格的にやり始めてから、だんだん分かるものである。
体育の授業でそこまで求めるのは厳しい。
だから、シュートを中心に授業を組む。

具体的には
1個人的なシュートの練習
2チームでの総合得点によるシュートゲーム(ディフェンスなし)
33on3などの、攻守が完全に分かれるゲーム
4攻守入り混じる、攻撃側が数的有利な状況でのゲーム
5ルールを工夫してのゲーム

1、2辺りで、基本的な技能を指導する。
後は、たくさん打たせる。
ゲームの中で、動きの中で打たせる。
たくさんうたせるためにバスケなら「リングに上から当たったら1点、入ったら2点」などというようにルールも工夫する。
「全員打ったら○点」なども考えられるが、審判が判断できない上、いつも打ちたいの打てないという子に無用な重圧を与えるのでオススメしない。
4では、1人がビブスをつけ、その子は攻撃の時のみ参加できるというルールにする。
(ビブスをつける順番は必ず輪番制にする。)
5では、「サッカー(バスケ)を習っている子」が活躍し、「苦手な子」も活躍できるものを考える。
(どうやるかは、無限に方法があるので、個々にお考えいただきたい。)

ゲームをやらせっぱなしでもいけない。
甘い所を最初に食べさせつつ、しっかり全部食べられるよう、段階を追って指導したい。

2011年2月22日火曜日

目的と目標の違い

先日、野口芳宏氏の講演で、問われた内容である。
「目的と目標、どちらが上位概念ですか?」
(例えば「人間」は「男」「女」の上位概念である。)

答えは、・・・次の文を読んでいただけるとわかる。

教室で私も実際、子どもにきいてみた。
3分の2が「目的」、3分の1が「目標」に手を挙げた。
そこで、毎度のごとくだが、大縄を例にして
「今回の大縄の目標は?」→「1000回跳ぶ!」「大会で新記録を出して優勝する!」
「じゃあ目的は?」→「クラスの団結を深める」「一人一人が強くなる」
(自慢気になってしまうが、目的がよくわかっている子ども達であると思う。)
こう問うと、「あ、目的の方が上だ」とストンと落ちた。
時に、子ども達にも、目的は何か、目標にとらわれすぎてやしないか、問うことも大切であると思う。

ちなみに野口氏は以下のような解説をしていた。
「的」は「まと」だから、一つ。
「標」は、行く方向を示す木の立て札のことである。複数ある。
的に向かうための標であるとのことだった。
何と明快。さすが、言語のプロは違うと唸らされてしまった。

2011年2月21日月曜日

全てをプラスに転ずる

生きていると「良いこと」と「悪いこと」が起きる。
その二つは、何を基準に分かれるのか。

物事の価値は、自分が決める。
青木仁志氏の講演で、次のような内容の話があった。
「(ガラスのコップを指して)これ、何に見えます?グラス?そうですか。水を飲む道具ですよね。
実はこれ、ペン立てなんです。つまり、使う人によって、意味や価値が決まるんです。」
かなり曖昧だが、そういう内容だった。

先の話に戻るが、何を基準に決めるか。
自分の心である。
良いも悪いも、自分の受け止め方次第である。
(もちろん、どう考えても良いと思えない出来事もあるのを認める。)

縄跳び関連で話を進めてきているので、それを具体例にして述べる。
例えば、縄跳び大会で優勝できた。
みんな大喜びである。
しかし、これを良いことにできるか、悪いことにしてしまうかは、担任次第である。
「努力は報われる。この自信をもとに、他のこともがんばろう!」と持っていければOK。
「他のチームもがんばった。その上での勝利。
表彰でも、一緒に頑張った他のチームに恥じないような行動をとろう」などと持っていければなお良い。
一方で「勝った勝った!」と喜んでばかりで、他のチームをけなすようでは、本末転倒である。
「どうだ、すごいだろ!」とおごってしまうようなら、こてんぱんに負けた方がプラスになる。

負けたら、ダメか。
それはない。
なぜなら、参加したチームの分だけ、負けが存在するのである。
算数の難問で「365チームでトーナメントをしたら、全部で何試合?」というものがある。
答えは、364試合。1試合で1チームずつ負けていくからである。試合数は敗北数と一致する。
したがって「負けたらダメ」理論だと、スポーツはやらない方が良いことになる。
むしろ、敗北から学べることの方が多い。
縄跳び大会なら、教師は「努力を認める」こと、「チームワークなど得たものを意識化させる」こと、
そして「先生の中では、間違いなく君達が一番かっこよかった」と断定的に肯定してあげること。
私なら、このあたりを意識して、結果をプラスに転じていく。

何事も、明るく前向きにとらえよう。

2011年2月20日日曜日

○○と思うな 人生と思え

今日も大好きな原田隆史氏の言葉を。
「○○と思うな 人生と思え」
○○には、何を当てはめてもよい。
例えば・・・
1「勉強と思うな 人生と思え」
2「大縄練習と思うな 人生と思え」
3「掃除と思うな 人生と思え」

1なら、人生において必要な、新たな知識を身につけるための努力の方法を学んでいると考える。
2なら、人生において必要な、仲間と協力して何事かを成し遂げる体験をしているのだと考える。
3なら、人生において必要な、奉仕の精神を学んでいるのだと考える。

ちなみに原田氏は陸上部の部員に
「皿洗いと思うな 人生と思え」
と伝えるという。
中学陸上日本一の指導者が、皿洗い等の家事手伝いを重視していたこと。
大変興味深いと思う。
何事も、全て人生はつながっていると思わされる。

2011年2月18日金曜日

他人と比べない

他人と自分を比べる。
それは、何もいいことがない。

他人のある能力が、自分より勝っていると思う。
そう思うのはいい。
「○○先生みたいになりたい!」と憧れて、近づこうと努力する。
それも素晴らしい。
しかし、それで自分がダメだと思うのは、損である。
目指すのはいいが、比較しない方がいい。

他人のある能力が自分より劣っていると思う。
そういう事実は、いくらでもある。
しかし、それで相手を見下すようなら、それ以上自分は伸びない。

子どもを見る時にも当てはまる。
「うちのクラスの子どもはいい子達だなぁ」と思う。
とてもいいことだ。
「○○先生のクラスの子どもは、いいなぁ。それと比べて・・・」
これは、良くない。
○○先生は、自分とは違う人間だ。
担任している子どもも、全て違う人間だ。
みんな、それぞれ良いところを別に持っているはずである。

全てのものにはそれぞれ「個性」「特性」がある。
金づちは釘を打つのにはいいが、太鼓をたたくのには適さない。
逆に、バチで釘を打つ人もいない。
どちらも「叩く道具」という属性は、一緒である。
馬鹿にするなと言われそうだ。
しかし、こと話が人間になると、往々にしてそういう間違いを犯しがちである。

例えば、自分は母性が強いのか、父性が強いのか。
和やかなムードを作るのが得意なのか、びしっとさせるのが得意なのか。
水泳指導が得意なのか、歌の指導が得意なのか、絵画の指導が得意なのか。
もちろん、何でもできればそれに越したことはないが、誰しも万能ではない。
前にも書いたが、そこは無理せず、得意な人に依頼する手もある。

長くなった。
最後にあいだみつをの詩を。
「しあわせはいつも自分の心がきめる」
たまには、がんばってる自分も、誉めてあげたい。

2011年2月17日木曜日

全て人様からいただいたもの

先日、私の尊敬する人物の一人である、体育の大家の先生のお話を聴く機会があった。
この先生は大変博識で、はっきりとした教育理念と使命感を持っており、かつ腰が低い。
その先生が、お話の中でこんなことをおっしゃった。
「私がつくったものなんて何一つありません。全て、人様からいただいたものです。」
自分が持っている知識も理念も、持っているものも地位も、何もかも人からもらったものだという。
この言葉に、大変感銘を受けた。

思えば、命だって、いただきものだ。
知識だって、本や人の話から吸収したものを、自分なりに解釈したものである。
世の中には「独創性」を誤って解釈している人もいる。
「独創性」は、多くの知識を基盤に作られるものである。
(「独創」をテーマにした某有名附属小の研究紀要にも、そのようなことが書かれていた。)
いきなり「無」からポンと出てくるものではない。
どんな独創的なアイデアだって、全て人様からいただいた知識を基に創られる。
そういう自覚を持って、「自分独自のようなもの」を持ちたいと思う。

そのために、とにかくたくさん本を読む。
講演会に行ったり、勉強会に参加する。
そういう中で、教師としての自信も築かれると思う。

2011年2月16日水曜日

気分が乗らない時には

気分が乗らない時がある。
大抵、体調が悪い時だ。
寝不足だったり、何か疲れている時である。
何をやっても、楽しくないし、うまくいかない気がする。
絶好調の時の正反対である。

そういう時、どうするか。
寝たり、楽しいリフレッシュができれば一番いい。
しかし、それができない時もある。
そういう時は、過ぎ去るのを、じっと待つ。
そういう時があることを自覚する。
いつまでも続かないことを知っているので、やり過ごす。

たまには、そういう日もある。

2011年2月15日火曜日

「当たり前」に感謝する

「授業の組み立て」編は一旦お休みして、「観」の方の話を。

先日紹介した腰塚勇人氏の講演でも強調されていたが、「当たり前」すぎることは、感謝を忘れるという。
例えば、手が動くことは、多くの健常者にとって当たり前のことだ。
しかし、腰塚氏にとっては、そうではない。
半身が思うように動かないからこそ、自由に動かせるもう片方の手に、心から感謝できるようになったという。
大けがをして大変な思いをしたが、そこに気づけたことは大きいと言う。

我々は、子どもの前に立ったら、経験や年齢、実力等に関係なく、無条件に「先生」である。
畏怖と尊敬の対象である(本来)。
考えてみると、普通の社会から見れば全然当たり前のことではない。

病気で寝込むと、健康がいかにありがたいことか身にしみる。
いつも遅刻ばかりする子どもが休むと、遅刻でも来てくれた方がいいと思う。
管理職になると、子どもと毎日格闘している担任がうらやましくなるという。

今日も学校へ行けば、自分の机がある。
仕事がある。仲間がいる。
教室へ行けば、子ども達が「おはようございます」と迎えてくれる。

今ある「当たり前」に、もう一度感謝しよう。
それはきっと、当たり前のことではない。

2011年2月14日月曜日

国語の授業の基本的な組み立て

大分前になるが、以前書いた「パーツを意識した授業組み立て」での具体的な組み立てを述べる。
ちなみに基本は次の通り。
1シンプルで楽しい活動(仲間との交流があればなおよい。)5分
2中心教材に取り組むための補助的な学習5分~7分
3中心教材への取り組み20~25分
4発表活動・学びの共有化5~10分
5振り返りとまとめ2~3分
6おまけのゲーム2~3分

今回は国語編。

A作文指導の場合(原稿用紙1枚に限定)
1 新出漢字練習
2 例文の提示、書き出しの一文チェック
3 作文を書く
4 班の仲間と交換して読み合い、コメントを書く
5 班(または列)の代表一人が発表

B詩文、物語文、説明文等の場合
1 新出漢字練習
2 音読
3 本時の学習課題の提示(主発問)
4 班の仲間に考えを発表後、討論
5 最終結論を書く

C言語事項の指導の場合
1新出漢字練習
2言語事項の基本的な内容の指導
3問題演習
4問題を自分で作り、出し合う
5教師の考えた発展問題

お気づきのように、必ず最初は漢字練習から始まる。
すると、学習全体が安定する。
やることが明確だからだ。
なお、どれも「6」が省略されているが、余裕がある場合は次のような活動を行う。
・詩文の暗唱
・百人一首
・漢字クイズ
・辞書引き

次号は、算数編を紹介する。

2011年2月13日日曜日

面倒なバレンタインデー

今日は休日なので、少し気を抜いた話を。
明日は、バレンタインデーである。
チョコの日である。
もともとは愛を誓い合う日らしいが、日本ではチョコレート業界がうまいことやり、今日に至る。
(ちなみに先日の「恵方巻き」の習慣も、昭和50年代、大阪の寿司屋とのり業界が始めた、新しい企業戦略である。伝統はない。しかし、私も乗った。いいものには乗る。日本人的である。)

学生時代は男として何やらそわそわした日だが、もはや過去の話。
どちらかというと、生徒指導上面倒な日である。
というのも、真面目な子どもほど「先生、チョコを持ってきてもいいですか?」と聞いてくる。
いいと言える訳がない。
一方で、黙って持ってきている子どもが存在していることも知っている。
「先生がいけないって言ってたよ!」「○組の○○ちゃんが、持ってきてます!」
・・・どーでもいい。知らん。教えなくていい。
持ち物検査もしたくない。
見つけても互いに辛いだけである。

世の中には「暗黙の了解」というものがある。
それを承知しないで、物事を白黒はっきりつけたがる人もいる。
「そこ指摘するの?大変になるだけだよ・・・」と思うこともある。
まあ、正義は正しいのだが、良いことかどうかは、別問題である。

明日は何事もなく過ぎ去ってくれることを期待している。

2011年2月12日土曜日

お前のせいじゃねーよ!

昨日、市の大縄の大会があった。
回数の結果を一言でいうと、ダメだった。
一方、教育という観点から見ると、最高だった。

当日、病人が出た。
病気ならば休むべきだが、重要な回し手の役だった。
体調不良を隠して、普通にやってきた。
ここは、賛否分かれるかもしれない。
私も普段から、無理を押すのは迷惑がかかるから避けるべきといっている。
しかし、私は正直、その子どもの気持ちが嬉しかった。

病気というのも本番直前で分かったことだった。
責任感から、言い出せずにいた。
いざやってみると、いつもと様子が違う。
明らかに縄が変である。
とまどいながらも跳ぶ子ども達。
ほどなく、ひっかかった。

全員を集め、事情を伝える。
立っているのも辛い状態。
「回し手を交代するか」で臨時学級会。
回し手は「2分間跳び」用にもう1ペアいるのである。
「連続跳びは、ずっと○○さんが回してきたんだから、それで跳びたい」とリーダー。
本人も、「やりたい」との希望。
全員一致で、二回目もそのままいくということになった。

結果、すぐにひっかかった。
みんな黙っていたが、顔は上がっていた。

大会終了後、全員での最後のミーティング。
「目標には達さなかったけど、目的を達成できた。団結力が深まったし、一人一人が強くなった」
とリーダー3人が立て続けに発言。
続いて
「私のせいで・・・ごめんなさい」という言葉。
一斉に「○○のせいじゃねーよ!」「大丈夫!」「いいよ!」
と、一人一人が口にした。

何とたくましい人間に育ったことだろう。
責任は、チーム全員。
まぎれもなく、自分達で「選択」した。
それを、しっかりと受け止めている。
結果がほしくなかったといえば、嘘になる。
リーダーは誰よりも、結果を求め、メンバーと対立もした。
しかし、そんなことをみじんも言わず、「良かった」と言い切る子ども達。

自慢である。
学級担任をしていて本当に良かったと思う。
熱血な感じでうるさいと思うが、どうしても書きたかった。
教師とは、かくもすばらしい仕事かと、改めて感じた出来事だった。

2011年2月11日金曜日

大縄で、縄は速く回すべきか、ゆっくり回すべきか?

大縄の縄の速度についてもよくきかれるので、お答えする。
一般的に、1秒間に1回が標準。
しかし、ねらいによってこれは変わってくる。

ゆっくり回す場合、メリットとして
①落ち着いて跳べる
②ペースを保ちやすい
③指示の声が通る
④接地時間が長いため列の微調整等がしやすい
といったことが挙げられる。
連続100回跳べない内は、ゆっくりめの方が確実かと思う。
ゆっくり回すには、腕を速く振り回すのではなく、大きな円を描くことである。
子どもは勘違いしやすいのだが、縄の速度自体を変える訳ではない。
縄の移動距離を伸ばすのである。
だから当然、20mの縄より25mの縄の方がゆっくり回せる。
ただ、自分がやってみるとわかるのだが、「ゆっくりだと逆に疲れる」ということもある。
例えば300回跳ぶのに、1秒1回なら5分で到達だが、1.2秒に1回だと6分かかる。
2割ゆっくりにすると、2割長い時間がかかる訳である。
マラソンと同じで、ペースがゆっくりすぎると同じ距離でも長い時間走るので疲れる感じがする。
特に精神的な面で、集中力をより長い時間持続させる訳だから、辛い時間が長くなるとも考えられる。

よって、結論としては、「ねらいに合わせ、学級の実態に一番合ったペースを探る」のが大切だといいえる。

8の字跳び 回し手の距離は、近い方がいいか、遠い方がいいか?

8の字跳びの、回し手二人の距離についてよくきかれる。
これは直接、縄を長く持つか短く持つかということにつながる。
縄の接地位置は必ず二人を結んだ直線上の中間の位置になるからだ。
3分間で500回も跳ぶようなチームの場合、回し手の距離はかなり近くなる。
縄の回転が速いため、跳ぶ方の移動距離を短くする必要があるからだ。
レベルが上がってきたら、二人の距離を少し詰めるようにしてもよい。
(ただし、ほんの少しずつ。)
逆に、「縄に入れない子どもがたくさんいる」というような場合、少し距離をあけるのも手である。
ただし、跳ぶ前&跳んだ後のダッシュは今まで以上に必要になる。
ちなみに、やり方を変えると、慣れないので当然しばらくは記録が落ちる。
変える時はそれを前提に早めに取り組むとよい。
(本番前に急にやり方を変えるのは避ける。)

2011年2月10日木曜日

大縄 10の基本技術

大縄の基本技術を次のように考える。
 ①声をそろえる(低く地面を這うような声はNG。高く張りのある声で。)
 ②列の幅をそろえる。(小さく前ならえの幅。)
 ③真っ直ぐ並ぶ(前の人の頭以外は見えない状態を保持。回し手を見たがるので注意。)
 ④一定のリズムでとぶ(1秒で1回。後半疲れるとはやくなりがちなので注意。)
 ⑤省エネジャンプ(高くとびすぎない。1回旋1跳躍が基本。慣れてからでよい。)
 ⑥列を整える(詰まったら背中をたたき、広がったら肩をたたいて知らせる。)
 ⑦列の端には体力のある子(端にいくほど高くとぶ必要があるため。)
 ⑧列の真ん中にリーダー(最初に手を挙げて列を整え、左右を見て指示を出す。) 
 ⑨回し手を育てる(重要。「無理矢理でもとばせる」意識で回す。)
 ⑩全員でとぶ(最重要。とんでいない人も役割を持つ。)

回し方は「かまぼこの板」。
上にある時はきれいな円を描き、足の下を通す瞬間は水平にすばやく抜くイメージ。
縄が下におりて地面につく前あたりで、回し手両方が縄をひっぱると、縄が張力で自然に上がる。
「びゅんびゅんごま」と一緒の原理である。(ちなみにかつての同僚から教わった)。
縄が上にある間も、互いに軽くひっぱりあって、きれいな円を保てる。
縄がびよんびよんと揺れていたら、バランスが悪い証拠。
                            
技術的には色々あるが、一番大切なのは、⑩「全員でとぶ」ことである。
全員とは、回し手、中でとぶ人、それ以外の人全て。
中でとんでいない人にも必ず役割をふる。
「声出し係」「計数係」「位置調節係」など。
「見学」はありえない。
必ず一緒に参加する。
文字通り「クラス全員」で。
そうすることで、列が整ってとびやすくなるだけでなく、一気にひきしまり、中でとぶ人の集中力も増す。
以上、まだまだあるが、たくさん練習する中で発見することが多いと思う。
学級経営に生かすという視点から、とにかく子どもとたくさんふれあって、悩んで、解決していくことが何より大切だろう。

2011年2月9日水曜日

8の字跳び 10の基本技術

8の字跳びの需要が非常に多いようなので、ここについての情報を優先的にお伝えする。
8の字跳びの10の基本技術は以下の通り。
 ①声をそろえる(低く地面を這うような声はNG。高く張りのある声で。)
 ②列を詰める(くっつくぐらい。というよりくっつく。)
 ③真っ直ぐ並ぶ(②と関連。縄にスムーズに入れる。特に列の後ろの方に影響。)
 ④入り口から出口まで一直線に抜ける(意外とできない。コーンを置く練習法が有効。)
 ⑤縄の当たる真ん中あたりを前にとびこえる(苦手な子は大抵手前で真上にとんでいる。)
 ⑥片足ジャンプ(できない子には無理させない。素早く抜けられる。)
 ⑦とんだ後は列を詰めるまでダッシュ
 ⑧手は胸に(小さくなって縄に当たりにくくなる&ジャンプしやすくなる効果あり。)
 ⑨列の先頭と最後には得意な子   
 ⑩回し手を育てる(重要。以前アップした1月の記事を参照。)

基本的に全て「周りの人を楽にさせるために」という技術である。
勘違いしやすいのは、「いつもひっかかる子ども」に目がいってしまうこと。
実はその前の人達や、回し手に原因があることが多い。
例をあげると、前の方が②「列を詰める」ができていないせいで、後ろの人が⑤「縄の真ん中まで移動」をやる余裕がない、という事態。
高速の渋滞と一緒で、後ろの人ほど、前がさぼった分のしわ寄せがくる仕組みである。
また、縄に入れない子、苦手な子をどうするかは
 ・前後を得意な子ではさむ(おすすめ。後ろの人が軽く背中を押してあげる。)
 ・苦手な子達を後ろの方でまとめ、回し手が途中からテンポを遅く回してあげる。
などなど色々ある。
目的は「よりよい学級作り」なので、苦手な子をどう指導するかは最重要課題。
一番苦しくて、一番楽しいところでもある。
長くなったので、今回はここまで。

なお、メルマガ下部に記されているメールアドレスへご一報いただければ、以前講座で用いた資料を無料でお送りするので、遠慮なくどうぞ。

2011年2月8日火曜日

授業組み立てのパーツ

授業はパーツを連続させて作る。
まあ、ガンダム等のプラモデルを作ったことのある人なら分かる。
頭のパーツ、胴体、手足、武器。
どれが抜けても、未完成品である。
どの順番で作ってもいいのだが、基本はある。

全教科共通のパーツを意識した授業組み立ては、次のように考える。
1シンプルで楽しい活動(仲間との交流があればなおよい。)5分
2中心教材に取り組むための補助的な学習5分~7分
3中心教材への取り組み20~25分
4発表活動・学びの共有化5~10分
5振り返りとまとめ2~3分
6おまけのゲーム2~3分

全てがこのようになっている必要はないが、これを基本に考える。
具体的に、教科別にはどのようにするのか、次号以降で紹介する。

2011年2月7日月曜日

夢を信じる人 信じない人

先日、授業参観で「2分の1成人式」というものを行った。
一人ずつ、全員が参観している家族と友人の前で、家族への感謝と将来の夢を語った。
これは、結構勇気がいることである。
多分、「超」緊張する。
だから、力がつく。
表現力と自信をつけるのに、この上ない場である。

さて、子どもが語った夢だが、教師は、親はどうとらえているのか。
「夢が熱く語れていいわねぇ~」ではいけない。
「自分はどうなのか」である。
自分の夢を信じられる人は、きっと他人の夢も信じられる。
逆もまた然り、である。
以前、「ドリームキラー」と「ドリームメーカー」の話を書いたが、あれと関連する。

夢を持たない大人に教えられた子どもが、夢を持てるか。
夢を信じない大人が、子どもに「夢は信じれば叶う」と言えるのか。
自分は夢を持って信じて、行動しているのか。

これは、他のあらゆることに当てはまる。
勉強しない大人に勉強しろと言われて、するのか。
あいさつしない大人に言われて、あいさつするのか。
子どもは大人の背中を見て育つ。
かっこいい背中を見せてあげたい。

2011年2月6日日曜日

「めざす」と「がんばる」の違い

久々に仕事術の話を一つ。
残業が常態化しないようにする話を。

(以下、「人生のプロジェクト」 山崎拓巳著 サンクチュアリ出版 より引用)
「めざす」と「がんばる」は違う。
「がんばっている」が「めざしていない」ときがある。
この違いは見分けにくいが、大きく違う。

「めざす」とは”目標と期限”が明確で、
その達成のために、意思を持って行動することである。
(中略)
最小の努力で、最大の結果を出すために。
すべてはめざすことからはじまる。
(以上、引用終了)

この話を「ノー残業」に当てはめてみる。
要は、「定刻までにこれとこれを終わらせる」と心に決めることである。
「必」という字は「心」にくさびを打ち込んだ字である。
「必ず」終わらせると「心」に決めるのである。
決めたら、目標に向かって全力を尽くす。
途中、おしゃべりをしているヒマはない。
「意思を持って行動する」のである。
もし、終わらなかったら?
私は多くの場合、その時点で終了する。
一番大事な2割の部分は、終わっているはずである。
それでも「まだ残れる」と自分に甘くすると、常態化する。
それは「がんばっている」気にはなれるが、「めざせ」ていない。
この意識の差が、仕事の速度につながる。

2011年2月5日土曜日

子どもの力を信頼する

赤ん坊は、ほとんど何もできない。
寝っ転がって、泣きわめくことしか、自分を表現できない。
笑うことすらしない状態で生まれてくるのである。
それが、日を追うにつれ、だんだんできることが増えてくる。
母親としては、手取り足取り育ててきている訳である。
何もかも、心配でならないだろう。
4月、1年生を見送る母親の目に涙が光る訳がわかる。

しかし、子どもは成長している。
昨日できなかったことも、今日はできるようになっている。
子どもは、毎日「できないこと」「新しいこと」にチャレンジしているのである。
それを見守り、邪魔しないのが、周りの大人の役目である。

一番悪いのが、親や教師が先回りして勝手に判断したり、失敗させないようにすること。
小さな親切、大きなお世話である。
成功体験の大切さは分かる。
しかし成功の反対は失敗ではない。
成功の反対は何もしないことである。
挑戦を避けることである。

子どもの力を信頼して、どんどん自分でやらせよう。
挑戦する意欲を持つような環境を整えることが大人の役割である。
機会を設けてやれば、あとは自分でやる。
きめ細やかに指導したって、たかがしれてる。
自分で学ぶ者だけが、成長する。
それしか、成長の方法はない。

2011年2月4日金曜日

5つの誓い

人様の話であまり書くのは気が引けるが、もう一つ紹介したい。
昨日紹介した、腰塚勇人氏の言葉である。
腰塚氏は、教育現場に復帰するにあたり、次の5つの誓いを立てたという。

1口は…人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう
2耳は…人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう
3目は…人のよいところを見るために使おう
4手足は…人を助けるために使おう
5心は…人の痛みがわかるために使おう

往々にして、我々教師は逆の行為をしがちである。
感謝を忘れてないか、子どもと向き合って話を聴いているか。
自戒の言葉として、常に心に持っておきたい。

2011年2月3日木曜日

「命の授業」

先日、腰塚勇人氏の講演を聴いた。
元中学の体育教師で、事故により首から下が動かなくなってしまい、そこから復活した驚異的な人物である。
昨年、フジTVの「奇跡体験アンビリーバボー」にも出演している。
まさにアンビリーバボーな人物である。

「命の授業」というタイトルの7分間の動画がユーチューブ上にある。
それを冒頭で視聴し、講演が始まるというものだった。
講演の内容が濃すぎて書き切れないが、その中で学級で即使える話を一つ。
「自信」とは「『自』分のことを『人』に『言』う」こと。
(『信』=『人』+『言』)
自分を表現できるか。
夢を人に語れるか。
子どもに自信をつけさせたいものである。

また、自分は子どもの「ドリームメーカー」か「ドリームキラー」かという話も印象深かった。
多くは後者になりがちである。
「そんなことできる訳ない」「現実を見て」「あなたのためを思って言ってるの」
どれも、夢を殺す言葉である。
気をつけたい。

書き切れないので、早い話、腰塚氏の講演を聴きに行った方がいいと思う。
とりあえずは、動画を見るだけでも勉強になる。
腰塚勇人オフィシャルサイト(PC用)http://www.inochi-jyugyo.com/
(なお、このブログ右側にも同サイトのリンクが貼ってある。)

2011年2月1日火曜日

V.S.インフルエンザ

旬なところで、病気とのつきあい方(?)の話を一つ。
インフルエンザが流行ってきた。
まあ、当たり前のことである。
当たり前のことだから、予防と対策はきちんと立てる。
「もしも」に備えるのではなく、「必然」に備える。

縄跳びの話が続いていたので、それに関連していうと、例えば私は回し手を4人育成しておく。
2人だと、1人休まれたらアウトになるからである。
3人だと、通常の練習に支障がある。
だから、4人。(今更言うなという声が聞こえてきそうである。)

話がちょっと逸れた。
教師が病気にならないことも大切だ。
予防注射等のできる対策は万全を期す。
それでもかかることがある。
ダメなのは、そこで無理して出勤すること。
若い先生ほどありがちである。
「自分がいないと、子ども達が・・・」という精神は美しいが、うっとうしい。
病気の菌をまきちらされてはかなわない。
「自分は無理してでもがんばる」=「他人もそうすべき」という図式ができる。
嫌である。迷惑である。ウィルスが増える一方である。
病気をしたら、休む。
健康第一。
今健康であることに、感謝の念を持って生きたい。
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