「授業の組み立て」編は一旦お休みして、「観」の方の話を。
先日紹介した腰塚勇人氏の講演でも強調されていたが、「当たり前」すぎることは、感謝を忘れるという。
例えば、手が動くことは、多くの健常者にとって当たり前のことだ。
しかし、腰塚氏にとっては、そうではない。
半身が思うように動かないからこそ、自由に動かせるもう片方の手に、心から感謝できるようになったという。
大けがをして大変な思いをしたが、そこに気づけたことは大きいと言う。
我々は、子どもの前に立ったら、経験や年齢、実力等に関係なく、無条件に「先生」である。
畏怖と尊敬の対象である(本来)。
考えてみると、普通の社会から見れば全然当たり前のことではない。
病気で寝込むと、健康がいかにありがたいことか身にしみる。
いつも遅刻ばかりする子どもが休むと、遅刻でも来てくれた方がいいと思う。
管理職になると、子どもと毎日格闘している担任がうらやましくなるという。
今日も学校へ行けば、自分の机がある。
仕事がある。仲間がいる。
教室へ行けば、子ども達が「おはようございます」と迎えてくれる。
今ある「当たり前」に、もう一度感謝しよう。
それはきっと、当たり前のことではない。
2011年2月15日火曜日
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