昨日、市の大縄の大会があった。
回数の結果を一言でいうと、ダメだった。
一方、教育という観点から見ると、最高だった。
当日、病人が出た。
病気ならば休むべきだが、重要な回し手の役だった。
体調不良を隠して、普通にやってきた。
ここは、賛否分かれるかもしれない。
私も普段から、無理を押すのは迷惑がかかるから避けるべきといっている。
しかし、私は正直、その子どもの気持ちが嬉しかった。
病気というのも本番直前で分かったことだった。
責任感から、言い出せずにいた。
いざやってみると、いつもと様子が違う。
明らかに縄が変である。
とまどいながらも跳ぶ子ども達。
ほどなく、ひっかかった。
全員を集め、事情を伝える。
立っているのも辛い状態。
「回し手を交代するか」で臨時学級会。
回し手は「2分間跳び」用にもう1ペアいるのである。
「連続跳びは、ずっと○○さんが回してきたんだから、それで跳びたい」とリーダー。
本人も、「やりたい」との希望。
全員一致で、二回目もそのままいくということになった。
結果、すぐにひっかかった。
みんな黙っていたが、顔は上がっていた。
大会終了後、全員での最後のミーティング。
「目標には達さなかったけど、目的を達成できた。団結力が深まったし、一人一人が強くなった」
とリーダー3人が立て続けに発言。
続いて
「私のせいで・・・ごめんなさい」という言葉。
一斉に「○○のせいじゃねーよ!」「大丈夫!」「いいよ!」
と、一人一人が口にした。
何とたくましい人間に育ったことだろう。
責任は、チーム全員。
まぎれもなく、自分達で「選択」した。
それを、しっかりと受け止めている。
結果がほしくなかったといえば、嘘になる。
リーダーは誰よりも、結果を求め、メンバーと対立もした。
しかし、そんなことをみじんも言わず、「良かった」と言い切る子ども達。
自慢である。
学級担任をしていて本当に良かったと思う。
熱血な感じでうるさいと思うが、どうしても書きたかった。
教師とは、かくもすばらしい仕事かと、改めて感じた出来事だった。
2011年2月12日土曜日
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