2014年4月30日水曜日

4月の学級作りに必要な3要素 楽しさ

前号の続き。
3は、楽しさ。
やる気と言い換えてもいい。
楽しければやる気が出る。

できる楽しさや挑戦する楽しさなど、楽しさも様々である。
笑えるということも楽しさだし、みんなで共有するというのも楽しさである。

この要素を、学級開きから必ず入れていく。
最初の内は、子どもにとって、サービスされる、与えられるものでよい。
楽しい授業も、こちらからまずは提供していく。
まずはやる気のベースとしての、教師と子どもの関係作りからである。
段階を踏んで、自分たちで作る楽しさに移行していく。
困難さの克服も楽しさの一種であるが、これらは後の方に持ってくればよい。

以上、まとめると、目標がわかっていて、安心で楽しい学級。
この方向なら、とりあえずの間違いはないように思われる。

2014年4月29日火曜日

4月の学級作りに必要な3要素 安全・安心

前号の続き。
2は、全てのベースである安全と安心。

以前に何度も書いたが、これがないと始まらない。
船が危険とわかっていれば、誰も乗りたがらない。
「全員を必ず守る」という宣言と具体的な行動が必要である。
前年度からひきずっているいじめ問題などへの対処が必要になることもあり、大切な部分である。

そして安心は、自由と規律に関わる部分である。
規律なく自由のみという状態であれば、リーダー不在の学級崩壊と呼ばれる状態になる。
自由なく規律のみという状態であれば、専制君主という状態になり、これも隠れた崩壊の一種である。
自由と規律のバランスのある、安心感を与える。
やるべきはやる、駄目なことは駄目、遊ぶ時は思い切り遊ぶ、といったこと。
ここをおさえる。

(次号に続く)

2014年4月28日月曜日

4月の学級づくりに必要な3要素 目標設定

4月の学級づくりで心がけていることについて。

毎年書いている芯は同じだが、経験と共に理論にも変化がある。
学級づくりに必要な要素を要約するなら、次の3つを挙げる。

1目標設定
2安心
3楽しさ

1は、学級の全員で決める。
全員で決めるのだが、大まかな方針は予め担任が持っておく。
それは責務である。
自由の名のもと、子どもに責任転嫁してはいけない。
「全て自由は逆に不自由」ということは念頭に置いておく。
教師の仕事の側に置き換えるとわかる。
例えば、学習指導要領のようなものがなく、全て自分で自由に決めてやれと言われたら、これはきつい。
何年生ではここまでを最低限やるということが予め決まっている。
制約や方向性があるからこそ、逆にその中で自由に工夫してやれる。
学級は大海にいる船だと思って、船長は方針を示す必要がある。
そうしないと、大海をあてもなく漂流することになる。
だから、目標は必ず設定する。

できれば、学級が「柔らかい(=変化を受け容れやすい)」内の1週間で大まかな目標を決めたい。
そして1ヶ月ぐらいまでには、具体的な目標として固める。
後で少し変わることがあってもいいので、できるだけ早く決めてしまうのをおすすめする。
方向性さえ決まればそちらの方向にみんなで進めるし、位置が多少ずれても対応できる。
どっちに漕いでいいのか全くわからないという事態だけは避ける。

そして、目指す方向を、全員で共有していること。
完全とはいかなくても、全員が納得していること。
だから、最終的には全員でつくって決める必要がある。
そちらに行きたいとみんなが思ってないと、行動がまとまらないからである。

(次号に続く)

2014年4月25日金曜日

教化より感化

今回は「日本を美しくする会」の鍵山秀三郎氏の講演から。

「教化より感化」

どうしても「教える」ということに力を注ぎがちである。
しかし、教えて相手が変化するのは「教化」であり、定着しにくい。
一方、相手が感じて変化するのが「感化」であり、これはしっかり身に付く。

「主体変容」と「率先垂範」の大切さは、この感化にある。
子どもは、大人の背中に学ぶ。
口先だけでは相手は変わらないということである。

そして、感化力は、その人のために払った犠牲の量と質に比例する。
具体的には「子どもに同情されるぐらい」が良いとのこと。
それぐらい徹底的に尽くすと、感化力が高まる。
言うは易く行うは難しで、なかなかできないからこそ、価値が高い。

教える力以上に、感化できる力を高めたい。

2014年4月22日火曜日

論より証拠

ここ最近、本を紹介してきた。
良い本に出会うことで、変化のきっかけをつかめると思う。
また、講演会などで良い話を聞くことでも同様。

しかし、一方で、書物や話によって得られるものの限界も感じる。
結局は、体験を通したものしか血肉化しないようである。
それは、映画によって得る感動などと同じである。

どんなにいい本を読んで感動しても、それは知識が増えたということに過ぎない。
知識は確実に大切。
そしてその知識は実行しないと、あっという間に腐敗する。

知識を得ると、理論ができる。
理論というのは、理想や設計図。
一方、体験を通した事実というのは、目の前にある現実。

設計図を持つから、その建物が建つ。
一方、どんな良い設計図を持っていても、今目の前にある建物が事実。
設計図を書き換える作業だけでは、建物自体は変わらない。
設計図を見ながら、実際建て直して、初めて理想に近付く。
「論より証拠」である。

一番教えてくれるものは、書物より講座より、いつも自分の周りにいる人々。
全てのベースは家族。
職場では同僚。
教室なら子ども。
そして子どもの背景には、保護者。
これらの人々以上に、自分を変えてくれる人はいないようである。
身近な場にこそ、学びたい。

2014年4月20日日曜日

学校という劇場

本の紹介。

学校という劇場 「ナンバーワン」より「オンリーワン」の教育を
園田雅春著 雲母書房

1996年発行の本である。
「世界に一つだけの花」が大ヒットしたのが2003年なので、
今では有名なこのフレーズを副題として先に使っていたことになる。
付けたのは編集者の方なのかもしれないが、相当な先見の明である。

著者のお名前の如く「田園風景」な教育が展開されている。
山羊を飼おうとか豚を飼おうとか、自分のいる環境ではなかなかできる実践ではない。
しかし、この本の実践群に、今の自分にとって大切なものが詰まっていると感じた。

以下、本文から引用する。
(引用開始)
===================
そこで、ぼくは、学級を担任するといつも、学期のはじめに二つのことを子どもたちに問うことにしている。
一つ目は、どんな学級にしたいかということである。
二つ目は、学級でどんなことをしたいかである。
(中略)
しかし、そこには、学級集団に前提がいる。
それは「なんでも言える雰囲気」があるということだ。
これは、学級の成員である子どもと担任がつくり出す最も大切な学級風土なのである。
==================
わかる子どもと正答を掲げた子どもだけが胸を張れる教室は病んでいる、
と言っても過言ではない。
誤答が提示されてこそ、100点満点に向かう学習がはじまるのである。
===================
(以上、引用終了)

まだまだたくさんあるのだが、この本に問いかけられている気がした。
自分はどれぐらいできているのか。
子どもにとって「オンリーワン」の教育ができているのか。
今年度からの課題の一つである。

2014年4月18日金曜日

3ステップ「聞く」トレーニング

以前から聞く力の大切さを何回か書いた。
すると読者の方から、次の本を薦められたので購入して読んだ。

3ステップ「聞く」トレーニング
上嶋惠 著 さくら社

副題は「自律と社会性を育む特別支援教育」。
帯には「できていないのは聞いていないからだった!」とある。

学級で、極端に学習が遅れがちになる子ども。
何度注意しても、同じ問題行動に改善が見られない子ども。
これらすべて「聞く力不足」が原因である、ということが書いてある。

特別支援教育士の先生の本だけに、具体的なスモールステップが細かく示されている。
こんなにやらないといけなかった、ということに目を開かされる。
「やる気がない」と思ったら大間違い。
特別な支援が必要な場合がかなりあるとわかる。

学習指導や生徒指導などで「どうにもできなかった」という苦い経験のあるすべての方に、おすすめの本である。

2014年4月14日月曜日

耳に関する漢字あれこれ

学力の根本は聞く力。
耳に関する漢字は、学力形成に役立つものが多い。

耳だけでなく、目も心も使って聞くから「聴」。
相手に心を開いて、みんなから意見を集めるのが「聡」。
心で感じて耳が赤くなるのが「恥」。
祈って神様の言葉まできけるのが「聖」。
「囁く」(ささやく)に至っては、一つの口に対して耳が三つもついている。
(よりよく聞いてもらうために、敢えて「囁く」のは有効である。)

まだまだ山ほどあるが、一つか二つでいいから覚えておく。
朝の話などでこういう話を時々する。
一度や二度でなく、何度も繰り返しする。
少しずつ、話を聞ける子どもが増える。
興味を持たせるのも、聞く力をつける大切な手段であると思う。

2014年4月12日土曜日

持ち味に優劣なし

「人事万華鏡」という本がある。
著者は経営の神様、松下幸之助氏。
発刊が昭和52年。
古い本ながら、内容は現代的である。
経営者向むけの本だが「学年経営」も「学級経営」も経営の一つであると捉える。

この本で、松下氏は、人の組み合わせと使い方に特に気を配ったと書いている。
その人の持ち味をどう生かすか。
そこにかかっているという。

ここでは、楠木正成を例に挙げている。
正成の家臣に「泣き男」という非常に泣くのが上手な男がいた。
いつもめそめそしていて、周りを暗い気持ちにする。
およそ武士には相応しくなく、みんなが家臣にするのを嫌がった。
ある戦で、正成は「泣き男」を僧に変装させ、「悲観にくれて正成を弔っているふり」をさせた。
とにかく泣くのがうまいので、相手の武将は正成が本当に死んだと思い、油断した。
その隙を見て、不意打ちをかけて敵を討ち取ったという。
(尚、この方法が道義として良いか悪いかはここでは問わない。あくまで人事の例である。)

ここからはこれを読んでの私見だが、持ち味というのは、長所にも短所にもなり得る。
使い方次第で、生かすも殺すもできる。
逆に言えば、持ち味そのものに優劣はないともいえる。
持ち味の言葉にある「味」そのものに例えて説明するなら、「苦み」に優劣はない。
一般に苦い物は嫌がられるが、ビールにとって苦みは旨さでもある。
ゴーヤは苦みが特徴だが、それが良いか悪いかも好みの問題である。
甘いカレーと辛いカレー、どちらと言われても程度があり、好みの問題である。

結論、持ち味に優劣なし。
全て、生かし方次第。
子どもに対しても勿論、自分自身の能力にもいえる。
長所は短所、短所は長所。
どちらも「持ち味」でしかない。
特徴としての持ち味をどう使うかである。
同じ持ち味なら、良い面に光を当ててあげたい。

2014年4月10日木曜日

Right now.

以前にも紹介した、遺伝子に関する研究の権威、村上和雄教授の話からシェア。

村上教授がチベット仏教最高指導者のダライ・ラマ14世に会った時、
「いつの時代が一番幸せだと思いますか」と問うたという。
その返答は
「Right now.」
意味は「まさに今」。
いつでも、「今」が幸せだという。

ここから以下は、私見。
大人になるにつれ、過去から現在を見る。
だから、限定的かつ現実的である。
過去の延長線上に今があって、その先が何となく見える。
「こんなもんかな」と思っている節がある(気がする)。

子どもは、未来を見ている。
未来の延長線上に、今がある。
過去は見ていない。
(さんざん叱られて泣いても、5秒後にけろっとしているのが、元気のいい子どもの特徴である。
叱った方はがっくりくるが、子どもの勝ちである。この点で、親は子に勝てない。)
だから、夢の描き方も大きく、輝いている。

卒園式を見た。
子どもたちが一人ずつ、何百人の前で一言スピーチをする。
夢を語る子どもがいる。
壮大な夢を語るその目は、本気である。
だから、心に響く。

小学生が、将来の夢を作文に書く。
やはり、本気である。
友達の夢をきいても、「すごい!」と目を輝かせる。
そういう子どもたちは、エネルギーがある。
未来が見えていて、今を生きている。
夢というより、「予定」に近い。

以前も紹介した言葉だが、改めて紹介する。
「今」は英語で「present」。
生きていること自体、天からの贈り物。
贈り物を無駄にしてはいけない。
今が積み重なって未来ができる。
過去ではない。
いつでも「今」が、人生で一番若い時であり、最高の時である。

卒業式&卒園式のW参加で、夢と希望を頂けた。

2014年4月8日火曜日

一期一会

今週、多くの学校で入学式があることと思う。
お祝いの日であり、出会いの日である。

これと対比して存在する卒業式は、お祝いの日であると同時に、お別れの日である。
思えば、子どもが毎日教室に通ってくれるというのは、有難いことである。
義務教育だから来るだけとかどうこういうことではなく、会えること自体が有難い。
別れがあるから、出会いを有難く感じられる。
これが永遠に続くものであれば、なかなか感謝しにくい面もあるかもしれない。

多くの子どもは同じ中学校に上がるため、「どうせ中学で会うから」という考えもある。
一理ある。
しかし、この仲間で、この場所で、この時は、いつでも「今」しかない。
日々「一期一会」である。
一期一会は茶の湯の教えで、「一期」は一生涯、「一会」は一たび会うことを意味する。
どの茶会も一生に一度と心得て、
誠意を尽くすべきであるとすること、
そのことに専念することという心構えである。

自然と卒業式は、毎日そうであった当たり前ことへの感謝を再認識する日になる。
卒業式だけでなく、一期一会の精神を持って、毎日を新しく迎えたい。

2014年4月6日日曜日

○×かABCか点数か

指導中、子どもに次のような自己評価を促す指示を出すことがある。
「○か×か」
「AかBかCか」
「何点か」

子ども自身に判断をさせる場面である。
この時、どれを用いるのが良いか。

そんなことを言われても困るだろう。
なぜなら、どれが良いのかは、状況とねらいによるからである。

「○か×か」の場合、判別できる必要がある。
この尋ね方は、明確な基準が必要となる。
その基準から見て、良いか悪いかの二択である。
たとえば「あいさつができる」に対して、この○×評価は難しい。
どの程度で○かがわからないからである。
一方、「相手の目を見てあいさつができる」となれば、話は変わる。
意識さえしていれば、○か×か判別できる。
ただこれも、「いつも」なのか「ある一場面について」なのかで変わる。

そこで、次の「AかBかCか」がある。
Aはいつもできる、Bは時々、Cはいつもできない、という3段階評価になる。
場合によっては4段階や5段階のこともある。
(ちなみに変容を追う調査の場合、3段階より4段階が原則。
3段階だと曖昧な「B」に集まりやすく、変容が見えにくいからである。
「3点満点」ときくと、0点が入るので実は4段階評価になる。)

更にレベルを上げると「何点か」である。
仮に100点満点できくとなると、これはかなり点数がバラバラになる。
何点かの判断が難しいのが短所で、「98点」など、わずかな進歩でも表現できるのが長所である。

どう評価する(させる)かで、思考が変わってくる。
授業中の発問に対する判断などは「○か×か」が原則。
「全員」を巻き込むためには、曖昧さを排除していくのが原則である。
また、そうきこうとすることによって、発問自体が磨かれる。

例えば、国語の「ごんぎつね」で、「ごんをどう思いますか」だと、解が拡散する。
(変なきき方だが、「ごんは何点ですか」に近い。0点から100点まである。)
教師の側が指導したいことと別の方向に行く可能性もある。
それはそれで楽しみもあるが、指導にはねらいがあり、その原則からは外れる。
物語の冒頭の場面を取り上げて「ごんを良い狐だと思う人は○、悪い狐だと思う人は×を書きなさい」だと、限定される。
この場合、何をもって「良い・悪い」を判断するかにポイントが絞られる。
そこに絞った話し合いが活性化される。

評価や判断の方法一つとっても、ねらいが全てである。

2014年4月4日金曜日

指導と評価のバランス

指導と評価の一体化の大切さは、既に何度か書いている。

「指導をした」なら「評価をした」とは、必ずしもならない。
一方、「評価をした」なら、必ず「指導をした」ということになる。

歌の指導の場面を例に説明する。
A「口を開けて歌いましょう」と言うことは指導であるが、評価にはならない。
B「○○さんの口の開け方は素晴らしい」と言うことは、評価であると同時に指導である。

この場合、Bの、評価による指導の方が効果が高いことが多い。
「多い」というのは、前提として、「○○さん」の口の開け方が、周りの子どもにとっても、
本当に素晴らしいと思えることが条件になるからである。
そうでもないのにそこを評価すると、マイナス効果の指導にもなることもある。
「あんな程度のものでいいのか」「自分の方ができている」と思われないこと。
場合によっては「ひいきだ」などと思われる可能性もある。
そこまで考えて、真剣に評価する必要がある。
(なお、全体の前でなく1対1で評価する場合は、この限りではない。)

つまり、○か×かの基準を示すことになる。
「○○さん」と同レベル以上ならば○で、それ以下なら×ということである。
どのレベルに設定するかも、勝負の分かれ目である。
高すぎず、決して低すぎず、多くの子どもにとって現在到達していないが、努力したらいけそうなレベルが望ましい。
無論、個人差へは配慮するが、目指すレベルが明確になる。
目標がはっきりすると、やる気が出る。
どうしたらいいのか分からない状態が、やる気の低下を引き起こす。

基準を示したら、「どうしたらそうなるか」の指導を加える。
「口の形は、鳥のくちばしのように、縦に開くことを意識しましょう」と言えば、そちらの方向に動く。
なるべくイメージ化できる表現がよい。
つまり「指導」→「評価」→「指導」→「評価」→・・・の繰り返しである。

指導だけで評価なしだと、これで良かったのかどうかがよくわからない。
評価だけで指導なしだと、どうすればいいのかよくわからないこともある。
「こともある」というのは、あるレベルになると、評価の繰り返しだけでも上達するからである。
上達するにつれて、自己修正ができるようになる。
どうすればより良くなるのか、自分で考えられるようになる。
つまり、指導者の手を離れていく。
「守・破・離」である。
ただ、どの場面であっても、最初は指導を多めに、だんだん評価だけになっていくのが原則である。

新年度が始まる。
手を離れた子どもたちも、次のステージへ行く。
自己修正(自律)ができる状態に育って、巣立って(自立)いってくれていたら嬉しい。

2014年4月2日水曜日

全て「選ぶ」教育

次の言葉は、山口県の福山憲市先生からの学び。

特別支援は、全て「選ぶ」教育。
「やらされた」と思った瞬間に、落ちる。

特別支援教室の学級の指導法に、全ての基本があるという。
普通は1段でのぼれるところにも、100のステップを入れるのが特別支援。
だからこそ、通常学級で同じように困っている子どもにも対応できるという。

自分で選択したと思えば、それをやれる。
しかし、やらされたと思うと、全くやらなくなる。

だから、一つ一つの行動に、選択肢を示せることが大切なのだと解釈した。
例えば、卒業式の練習。
卒業生は、結構な練習量になる。
ずっと良い姿勢を保つのも、なかなか大変である。
これを「やっている」のか「やらされている」のかで、効果が全く違う。
卒業式は「お祝い」である。
大勢の人が、自分たちを祝福するためにに来てくれる。
そこで最高の姿を見せて、感謝の念を示そうと思えば、練習は「選択」になる。
ただ練習があるから参加するのであれば「やらされた」になる。

あらゆる場面で通用する原則的な考え方であると思い、紹介した。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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