2021年3月31日水曜日

子どものトラブルには「どうしたの?」から入る

 学級経営学習会での学び。


新刊タイトルの「指導の本質を見抜く」「スルーorリアクション」をテーマに話をした。

その後、個別の質問を受けてみんなで考え、私も考えを述べるという形で行った。


質問の内容は書けないが、はっきりわかったことは、大抵みんな同じことで悩むという点である。

そして経験年数が多い人ほどそれを乗り越えてきているので、どう対処したかという事例は話しやすい。

また、今その最中にいて苦しんでいる人ほど、共感しやすい。

そう考えると、様々な人がいた方がよい。


少人数のメリットも感じた。

一人一人の声を聞くことができる。

今国の施策で全ての学級を35人以下にしようという動きがあるが、方向性としては歓迎である。

できれば将来的には、25人か20人ぐらいまでにできたら最高である。

それだけでも、学級内の多様性は十分に担保される。

かねてより、セミナーでもなるべく少人数を推してきた。

宣伝をほぼせずに百人以上呼べる講師の方のセミナーでも、先着40人に絞ったこともあった。

規模が大きくなるほど「講義型」「伝達」になってしまうからである。

(多人数に一斉に伝達できるという点で、これはこれで大きなメリットがある。)


さて、学級経営の学習会なので、子どもへの指導の悩みがメインである。

多くの悩みの根本は「思い通りにならない」ことへの苦悩である。


ここへの対処の基本は明確で「思い通りにしようとしない」ことである。

自分の心や行動すら思い通りにならないのに、まして他人は自分の思い通りにならなくて当たり前である。


何より前に、理解がある。

自己理解があってこそ、自分の心と行動にアプローチできる。

他者理解があってこそ、他者にアプローチ可能になる。


対処の「万能フレーズ」をいくつか紹介したが、その中の一つが

「どうしたの?」

である。


子どものトラブルへの介入には、理解が必要である。

しかし、そんなこといきなり分かる訳がない。

だから、まずは「どうしたの?」で対応し、最初の情報収集をする。


この言葉の中には「心配」が含まれる。

心配は、限りなくこちらの主体的な行為である。

相手がどんな態度であっても、使えるフレーズである。

(子ども側が抵抗できる言葉としては「うるさい」「関係ないでしょ」ぐらいである。

立場上見逃せないからこそ、こんな面倒なことをわざわざ聞いているのであって、大いに関係がある。)


子どもをどうにかしようとしない。

自分がどうにかしたいと思っていることに気付く。

指導の本質を見抜くための視点の一つである。

そういった視点から対応を考えると、突破口が見えることがあるかもしれない。

2021年3月27日土曜日

教育は「予防」と「知る」が大切

学びのシェア。

ZOOMを使ったセミナーでの勉強会が続いている。

オンラインセミナーは、この感染症対策が終息した後も主流になりそうな気配である。


さて、先日の技法研での学びと、特別支援級の先生との学習会からの学びに共通点があった。


一つ目は

「先手必勝」ということ。


技法研において、私は不当な差別を予防するという観点で、道徳の授業提案をした。

(ブログ『感染症の「その後」を予防的に指導する』を参照)


私の提案に対して、

「教育は予防」

という言葉でまとめられた。

この件に限らず、教育は事前に起きる事態を予測して、予防的に行うということである。


一方で、特別支援級の先生の言葉にも

「先手をできるだけ早く!」

というポイントが示されていた。


「こうなると助かる」が事前にわかっていることで、適切な対応ができる。

個別の教育支援計画が大切な所以である。


転ぶ程度のけがはさせることも大切だが、大きな危険があるとわかっていることには、事前に先手をうつべきである。

教育においては、「先手」「予防」というのが重要であると再認識できた。


二つ目は

「知る」の大切さである。


私の提案自体、子どもが互いの考えを知るということに重点を置いている。


また、そういういじめが社会にあると知っているから、このような授業をしようと対処ができる。


技法研では、別の例も示された。

国家というような目に見えない存在については、教えるからこそ知れる。

国家が国民を守ってくれているということなど、平和に暮らしていると当たり前すぎて、自然に知ることはできない。


今日の学びの方でも知ることの大切さが示された。


特別支援級の先生が若い頃に言われた言葉に

「知らんと差別してるかもしれへんやろ」

があったという。


自分としては差別のつもりで言ったのではないちょっとした言動が、相手を傷つけていることがある。

差別を意識しなければ差別にならないと考えていたが、自分が浅はかだったと思い知ったという。


例えば、総ルビ付のワークテストや教科書の存在。

合理的配慮に基づいて、そのように作られたものがある。

しかし、相手がそれを知らないと「そんなものない」と突っぱねられてしまう可能性がある。

知ることは大切である。


外に向けて勉強会に出ると、知ることができる。

自分の感覚・常識が「普通」ではないと気付くことにもなる。

世の中に普遍的な「普通」は存在しないと気付く。

どれも自分が「普通」だと思い込んでいるだけかもしれない。


共通点があったということから、ここにはある程度の普遍性があると考えられる。

教育では「予防」と「知る」が大切。

今後の学びに生かしていきたい。

2021年3月25日木曜日

学級段階に応じたスルーorリアクション

 文脈においてスルーかリアクションかは決まる。

それでも新刊『スルー?orリアクション? 指導の本質を「見抜く」技術』では、どちらにするかを提示している。

そして、リアクションの提案が多めである。


なぜなのか。


前提として、メイン読者に経験の少ない先生方を想定しているためである。

必然的にリアクションが多くなる。


学級が育っていれば、スルーが多くなる。

そもそも、リアクションしないと不具合が生じる事態自体が少なくなる。


ポイントは、学級の段階がどこにあるかである。

例え同じ人が教えるにしても、相手が変わればスルーかリアクションかは変わる。


本書は、実は経験のある先生にこそ読んで欲しい。

10年程度経験を積むと、大体安定して学級経営をできるようになる。

そうすると、ついついやりやすさから、余計なところまで先回りして手や口を出しがちになる。

トラブルを事前に防ぐことは大切だが、成長の機会を阻んでいる可能性もある。


大切なことは、大概面倒くさいのである。

学級が育てば、敢えてスルーして様子を見るということが多くなってくる。

自分たちの力で壁を乗り越えられるようになるからである。


例えば、本の中では

「床に物が落ちている時」

という些細な場面に対し、2項目4ページも使って両方ともにリアクションの提案をしている。

学級が育っていない前提だからである。


ある程度育ってくると、床に物が落ちていること自体が少なくなる。

(ちなみにこれは前提として、そもそもごみが散らかっていない状態が先である。

ごみも落とし物も同じになってしまうからである。)

そもそも落ちている物が少ないので、気付いてすぐ拾う子どもが少数でもいれば、きれいな環境を保てる。


少し落ちている状態でもすぐに担任が拾ったり声かけをしたりしてしまうと、その少数が育たなくなる。

担任が、いつまでも自分が一番ではいけない。

自分よりも上の状態に育つには、ある程度育ったら余計な手出し口出しはしないことである。

(ここも勘違いしやすいのだが、どんなに全体的に育っても、クラスの全員がそういう状態になることはない。

トータルとして全体を良い状態に引き上げるが、個人差は大きいままでも構わないという感覚の方が健全である。)


この些細な場面一つでも、段階を見誤ると真逆の結果となるといえる。

育っていないのに放置してたら荒れ放題になるし、育っているのに構い続けてたら依存的になる。


段階によってスルーかリアクションかは変わる。

教育全般において、万人共通の絶対的な方法はない。

「個別最適な学び」の指すところもそれで、決して全てにきめ細かな個別指導をせよということではない。

個々に最適な学び方が別に存在することをまず認識せよということだと捉えたい。


「ハンマーを持つ人には全てが釘に見える」という言葉があるが、ここが要注意ポイントである。

うまくいく方法を一つ持っていると、全てにそれを適用したくなる。

しかしそれはハンマーでねじを無理矢理打ち込もうとするのと同様な行為であり、誤りのもとである。


たくさんの道具を持っている方が対応できる。

一方、どんなにたくさんの道具があっても、実際に使わないと使えるようにはならない。

学級段階に応じて、また個に応じて、ここはスルーかリアクションかを教育の本質という視点から見極められるようにしたい。

2021年3月23日火曜日

その文脈における適切な方法を選ぶ

 教育改革が進んでいる。


一人一台端末とデジタル教科書の導入検討。

35人学級。

一部の教科担任制の導入。


どれも一見、やってみたらいいような気がするものばかりである。

ただどのような方法であれ、前提や文脈によって良い方法は全く異なる。


例えば、中学校の制服問題。

ジェンダーフリーの観点から制服のスラックスかスカートかを男女問わず選択制にしようという動きがある。

制服をやめて私服化し、自由にしようという運動もある。

その中間の「標準服」を設定しようという動きもある。(私は高校時代これだった。)


しかし、制服の方が助かるという地域もある。

貧困の問題である。


例えば小学校で制服というのもある。

これは私立の裕福な学校というイメージがあるが、実際は逆の理由で採用されている場合もあるという。


一概にどちらの方法がいいとはいえない。

前提と文脈によって異なる。


この「文脈」というのは非常に大切である。

国語科の読解などは、この文脈を読めるようにするというのが主たる内容である。


(補足)

以前にも紹介したが、国語でつけるべき力は3つである。(「野口塾」にて野口芳宏先生の言葉より)

A 読字力

B 語彙力

C 文脈力


文脈を読むには、前提として言葉の意味や用法がわかっていないといけない。

一つの言葉なのに、全く異なるたくさんの意味を含むものがある。(例「すみません」)

従って、語彙力も必要になる。


話を元に戻すと、国語に限らず何事も文脈が大切なのである。

同じものでも、どの文脈で用いるかによって、良くも悪くもなる。


学級経営で考える。


ルールを守ることを重視するとうまくいく学年、学級がある。

一方で、ゆるく自由に楽しくを重視した方がよい学年、学級がある。

自由どうこうよりとにかく安全、安心に全力を注ぐべき学年・学級もある。


自由な学級の方がいいと思いがちだが、秩序のない自由は混沌である。

芸術ならそれもよいかもしれないが、教育活動は一定の目的を担っているため、混沌状態は何かと都合が悪い。


規律的な学級はぴしっとしていて良いように見えるが、柔軟な対応が必要な時に弱い。

命令系統に従うべき時に都合の良い状態である。


自分たちである程度の規律を保てるのなら、あまり縛る必要はない。

手綱を緩める方が生きる。

場合によっては、完全に手放して自由に動ける状態にしても、必要な秩序を保てる。


一方で、自由に動き回ったら他を傷つけたり自身が傷ついたりする状態の集団もある。

この場合は、きちんと手綱を握っておくべき時である。

手綱を緩めるのは、生きていく上での最低限のルールを教えた上で、それが身に付いてからである。


つまりは、文脈によって適切な方法は異なる。

自由と規律はどちらが良い悪いという単純なものではない。


ところで、学級や学年というのは、言うなれば単に偶然に集まった集団である。

特に公立小中学校はそうである。

スポーツ少年団や習い事、学習塾のように、特定の共通の目的をもった子どもだけが集まった集団ではない。

当然、個々の文脈が全く異なる。

学級毎の集団間の違いも大きくてある意味当然である。


それら分脈の違いに対応するにはどうしたらよいのか。


これは、学年や学級担任の裁量権を調節することである。

学年で揃えるべきところは、その学年の文脈に合ったものにする。

揃えなくても問題のないところは揃えない。

これは「ルールは少ない方が良い」ということと同義である。


例えば、教師の側の経験値や力量によって調節する。


初任者が含まれている学年団で「各々好き勝手にやっていい」は無責任すぎる。

揃えるというより、教えるべきところである。

逆に、4人中4人ともに十分な力量があるなら、何も無理にやり方を揃える必要もない。


例えば、子どもの状態によって調節する。


昨年度までに十分な経験をしてきて、秩序を守りながら豊かな学びをしている集団に対し、突然厳しい規律が入ったらおかしくなる。

逆に、昨年度に崩壊あるいはその寸前になっていた学年には、秩序をもたらすことが最優先である。

それをしないと、学力低下やいじめ問題などがより深刻化する恐れがある。


「前の年はこうやったらうまくいった」を踏襲することの危険性がこれである。

教師も子どもも文脈が全く違う。

異なる対応になって当然なのである。


これは「有名な〇〇先生がこう言ってたから」の方法が必ずしもうまくいかないことにも通じる。

鵜呑みはいけない。

どんな優れた方法であっても、あくまで「提案」である。

試してみて、それが自分と目の前の子どもに使えるものかどうか検討すべきである。


新刊の『スルーorリアクション』の1章のまとめのコラムにも、そのことを書いた。

スルーかリアクションかを考えるには、学級の段階を見抜き、文脈を考えることが大前提である。

2021年3月21日日曜日

法治の放置を考える

 前号のルールの話と関連して、ルールを守ることと片目を瞑ることについて。

語呂合わせして、法治の放置(スルー)についてである。


前号で「ルールは集団にとって合理的かつ最小限が望ましい」ということを書いた。

もっと以前から「ルールはそれ自体がなくなっても大丈夫な状態を目指して設定する」ということも書いてきている。

ここは根幹である。


つまりは、原則としてルールは少ない方がいいのである。

ないで済むなら、ない方がよい。

特に「万が一」に備えたルールがたくさんあるので、全部完璧に守ろう、守らせようとすると、息苦しい。


現実問題として、見えているけどスルーしていることがたくさんある。

しかし、その場のルールを司っている人の目の前で堂々と破ってはいけない。

他で片目を瞑ってスルーしていたものも、当然リアクションしなくてはならなくなる。

その姿を見た周りが騒ぎ、不信感や不安感をもつからである。


例えば、高速道路ではルール違反をしている車が結構ある。

しかしそのルールを知って守っている私の真横を明らかにスピード違反で通りすぎても、別に咎めないし、捕まえることもできない。

スルーである。

私にはその権限も力もないからである。


しかし、パトカーの真横をそのハイスピードで追い越した車は、当然捕まる。

それをしてくれないと、警察という国家権力への信用がなくなり、国の秩序が滅茶苦茶になる。


学校における教師というのは、そういう面もある。

学校の法治を担当し保障している存在といえる。

自治もあくまで法治の保障の上でこそ正常に機能する。


子どもたち同士は、自分を含めた仲間のルール破りを見ているし、知っている。

それを別にいいと思っている子どももいるし、嫌だなと思っている子どももいる。

どちらにせよ、そのごちゃごちゃな現状を「そういうもの」として受け入れている状態である。


しかし、教師の目の前で堂々と破った場合は、問題である。

これはスルーできない。

周りもどうするか見ている。

それをスルーした場合「ザル法公認」である。


本当に賢い子どもは、ここも考えている。

学校のルールの中には「万が一規定」もたくさんあり、四六時中守られるものではないとわかっている。

そして、教師の目の前で「それをやっちゃあおしまいよ」というのもわかっている。

だから、その線は越えてこない。


しかし、そこまで忖度してくれるのはもはや「子ども」ではない。

多くは、やってしまうのである。

なぜなら、それが子どもだからである。

だから、言わざるを得ない状況に、四六時中なる。


教師の側も、見えているけど敢えてスルーしていることがかなりある。

「ちょっと廊下を走ってる」などその最たるものである。

そこまで何もかもきゅうきゅうに締め付けると、お互いに苦しいからである。

(廊下を走るのを完璧に0にできたら、それは「幽霊学校」であり、もはや学校ではなくて病院である。)


しかし、目の前で堂々とやられると、困る。

近所の住民の方々など、周りの人から苦情が来る場合も、絶対に全力で対処する。

「いいんだよ」とは100%ならない。

その辺りが本当にわかって欲しいところである。


何が言いたいかというと、学校や学級は、教師と子どもの絶妙なバランスでこそ成り立つということである。

「清濁併せ飲む」で、こちらも別に子どもが100%清いとは思っていない。

(こちらがそう思われていないのも、百も承知である。)

多少のことには目を瞑る度量があるのだが、目の前、あからさま、程度のひどいものは、スルーできないので、困るのである。


お互いに、気持ちよく過ごせる程度にルールを守り、時にスルーできる程度に留めること。

この辺りの寛容さは、学校に関わる全ての人に必要なのではないかと思われる。

2021年3月19日金曜日

ルールを活用できる子どもに

 学校や学級のルールについて。


学校におけるルールとは、集団において公共の利益を損なうことがないように設定される。

それらは合理的かつ必要最小限ものであることが望まれる。


制服問題などの議論が活発になっているのは、この合理性に疑問符がついているからである。

つまり、ルールを無条件にのむのは正しい姿勢とはいえない。

一方で、ルールの存在意義や背景を理解しようという姿勢もなく、ただ単に従わないというのはそれ以上に大きな問題がある。


学校で注意すべきはどちらか。

実は両方の問題が生じる。

ルールに無条件に従うようにしている内に、必要なルールも平気で破るようになる。


表面的に言うことを機械的にきくようになるのと、裏でのルール破りの多さは表裏一体である。

一方で、自分で判断できることとルールを正しく利用できる力も表裏一体である。


前者は、どんどん理解力がなくなるが故に生じる「故障」である。

正しい判断力と思考力及び道徳性を失う。


後者は、理解力が高まることによって生じる進歩・成長である。

ルールが何のためにあるかを理解し、必要な場面で必要な適用ができる。

そしてそれが不要な場面では、時に上手にルールを越えて行動する。

どういう場合に、そのルールを越えて行動しても人々のためになるかがわかる。

緊急時の判断力などはここに属し、これは、とても高いレベルの行動である。


レベルが低い状態、機械的な状態だと、自分に都合の良いように解釈をして、平気でルールを破る。

あるいは「みんながやっているから」というのが判断基準になる。

内部から腐っていく会社と同じ構造である。


学校のルールは、理解をした上で活用させていくものである。

無暗に従わせるのも害悪だし、平気で破らせるのも同じくらい害悪が大きい。


学校のそのルールは何のためなのか。

大人の側こそ、理解できているか再点検すべきかもしれない。

2021年3月17日水曜日

学級担任に解決できない状況をどうするか

学級担任が辛い状況になった時の具体的方策について。


学級が成立していないという状態になったとする。

私の中の定義としては、教師の話が大部分に通らなくなった状態である。


これは国立教育研究所で「学級がうまく機能しない状況」として20年以上前からきちんと定義されている。

以下、引用する。


======================

(引用開始)

「子供たちが教室内で勝手な行動をして教師の指導に従わず、

授業が成立しないなど、集団教育という学校の機能が成立しない学級の状況が一定期間継続し、

学級担任による通常の手法では問題解決ができない状態に立ち至っている場合」

(引用終了)

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引用:「国立教育研究所広報第124号」(平成12年1月発行)

学級経営をめぐる問題の現状とその対応

─関係者間の信頼と連携による魅力ある学校づくり─ 教育経営研究部 学校経営研究室長 小松 郁夫

https://www.nier.go.jp/kankou_kouhou/124komatsu.htm


ここから、どう立て直すかである。

結論から言えば、担任一人の努力では無理である。

どんなに頑張っても無理である。


先の定義内にもはっきりと

「学級担任による通常の手法では問題解決ができない状態」

と明記されている。


この前提の認識に全職員が立つことが、立て直しには必須である。

最低限すべきことは、学級を担任一人に任せないことである。

T.T.として入れる人員を常につける必要がある。


二人以上で見るメリットというのは、想像以上に大きい。

実質的な実務分担ができるのももちろんだが、精神的負担がかなり軽くなる。


担任のAさんは、当然だが既に自信を大きく喪失している。

そこでBさんが補助に入るが「これはきついね」と大変さを共有できる。

さらに交替でCさんが「自分なら」と入るが、やはり「きつい」と感じたことを共有する。

「みんなでがんばろう」ということになる。


こんなに単純にはいかないかもしれないが、そういう構造である。


学級が成立していないというレベルでもない学級担任にもこれはいえる。

ある特定の子ども、あるいはその保護者への対応に苦戦している。

しかし、この大変さは自分にしかわからない。

そうなると、自分の対応が全て悪いのではないかと思えてくる。


しかし、実際はそうではない。

代々の担任も苦労し続けているのだから、自分だけが能力不足というはずはない。

時々でも学級に入り、一緒に見てくれる人がいれば、苦労に共感してもらえる。


逆もありきで、クラスにとても優秀な能力をもった子どもがいたとする。

まるで自分の指導が素晴らしいかのように思える。

しかしそれは完全に錯覚で、何もしなくても、単に本人が極めて優秀なだけである。

そういう子どもを「自分の」と抱えこまないためにも、やはり共有が大切である。


この一番のポイントは、倒れそうだから始めるのではなく、予防的に、日常的に行うことである。

倒れそうになってからでは、担任本人も学級自体も立て直しは厳しい。


学校にそんな人的余裕がないことは、百も承知である。

だからこそ「交替」で学級に入る仕組みが必須なのである。


完全に学年担任制を導入している学校もある。

つまり、1学級に1人の担任が決まっていないという学校である。

これはこれで可能性が大きくあると思う一方で、仕組み自体の大幅変更であり、導入への壁も大きそうである。


ここは「朝の会の交替」程度の小さな導入から、日常的に始めてみてはどうかという提案である。

どんな方法にせよ「抱え込まない、所有しない」で「共有」がカギである。


現場レベルでも工夫できる、先生が幸せに働ける方策を真剣に探っていきたい。

2021年3月15日月曜日

詩の授業の「鑑賞の自由」を考える

今日もスルーorリアクションがテーマ。

授業でスルーしてはいけない部分、スルーすべき部分について。

今回は、国語の授業についてである。


国語は算数に比べて、指導が苦手という人が多い。

算数のように、各単元において何を教えたらいいかが明確でないからである。


その最たるものが、詩や物語を扱った授業である。

道徳と混同してしまうと、訳がわからなくなる。


詩や物語の鑑賞自体に、正解不正解はない。

鑑賞とは作品を味わうことだからである。

どう感じるかは個人に委ねられている。


しかしながら、妥当であるか否かという問題はある。

テストで「正解」とできる部分は確実に存在する。

例えば、季節。

イナゴと実った稲穂が出てくる詩を読んで「これは冬の詩だ」といえば、誤読である。

国語の読解と自由な鑑賞はイコールではない。


大人気絵本作家のヨシタケシンスケさんの絵本の中に

「自分の作った粘土作品を、先生が全然違う動物だと思って声をかける」

というシーンがある。

(ヨシタケシンスケ著 『つまんない つまんない』白泉社

https://www.hakusensha.co.jp/books/9784592762102 )


これである。

作者の意図と全く違うように鑑賞者がとらえる。

作者としては心外かもしれないが、それが作者から独立した「作品」のもつ運命である。

それがあまりに誤解されやすいように作られているなら、それはしかたない。

しかし、教科書に載るような作品はそれなりのものなのだから、鑑賞にもある程度の妥当性があるはずである。


この辺りの線引きというか、鑑賞の自由と妥当性は分けて考える必要がある。

作品鑑賞が自由だとはいえ「どう読んでもOK」では、学力がつかない。

それは、趣味で勝手に詩を読んでいるのと同じで、国語の授業ではない。


算数なら「7×3=27だと思ったんだ?音が似ているし、いいかもね」とは絶対にならない。

明確に間違いである。

ここをスルーする人はいない。


具体例を挙げる。

次の短歌である。


しらしらと氷かがやき千鳥なく

釧路の海の冬の月かな


石川啄木

(出典:新しい国語 五 東京書籍)


まず、感じたことを自由に発表する。

これ自体は国語の授業というより、単なる鑑賞である。

そうすると「月が出ているから夜」という意見が出る。

これは高確率で出る。


実際に「これは朝か夜か」と問えば、過半数が夜と答える。


ここからが国語の「読解」である。

つまり、印象や感想をきくのではなく、言葉を根拠に意見を求める。


印象の強い「かがやき」に注目が集まる。

太陽の光でかがやいているのだ、月の光でかがやいているのだ、という二つが出る。

この意見は、埒が明かない。

どちらもあり得るからである。


「千鳥なく」にも注目が集まる。

百人一首に


淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ 須磨の関守


がある。

これを見ると、確かに夜に鳴いてる。

実際、千鳥が夜に鳴くというパターンが和歌には多い。

よって「夜だ」と主張する子どもが出てきた。(これはなかなか鋭い意見だった。)


「夜」に意見が傾く。


しかしこれだけで早合点してはいけない。

千鳥の鳴く時間帯は、特に決まっていないのである。

この鳥は、いつの時間帯でも鳴く。


ここから先は、指導者側が研究しておく話になるのだが、実はこの歌は、そもそも季節がちぐはぐである。

千鳥は、渡り鳥である。

寒さの厳しい釧路に来るのは、3月から4月であるという。

つまり、その視点から言えば、季節は春である。


???

もうこの時点で訳がわからなくなる。


もう少し調べていくと、この歌は後につくり直された句だと分かる。

原型は


しらしらと氷かがやき千鳥なく

釧路の海も思出にあり


だという。

(参考:関西詩吟文化協会H.P.

http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_15.html )


つまり、後で「冬の月」を追加してしまったので、季節が混じってしまったのである。

純粋な叙景句としては、これは問題があるといえる。


つまり、ここの「朝か夜か」問題は、最終的に鑑賞者の自由になる。

しかし、鑑賞の際に確定する要素だけは落とさず指導するということだけである。


「何でもOK」ではない。

しかしながら「全てに正解がある」訳でもない。

詩の作品の読解や解釈には、特にそのような面が強い。


一方、美術などの芸術作品として見る場合は、個人の自由な鑑賞を求める。

有名なマルセル・デュシャンの「泉」などはその典型である。

(参考:アートペディア)

https://www.artpedia.asia/fountain/


どこをスルーして、どこをリアクションしていくか。

教える側の見識が強く問われる部分である。

2021年3月13日土曜日

学級の段階を成長させるには

 今回も「スルーorリアクション お悩み&質問にお答えします」シリーズ。

リアクション多めの状態からスルー多めの状態へどうもっていくかという話。


ちなみに今回も、動画解説を実験的につけてみた。



リアクションが多くなる理由は、手放せない段階だからである。

スルーが多くなるには、手放す段階へもっていくことである。


手放せない理由は、「信用ならない」からである。

前に例に挙げた、信号が判断できない幼児を外に一人で出歩かせない話である。


そしてわかっているのにいつまでも手放せない理由は、やらせないからである。

そしてやらせない理由は、失敗が目に見えているからである。


恐れず失敗をさせることである。

その時必要なのは、叱責ではなく励ましである。

初めてやらせたら、必ず失敗する。

必ずである。


つまり、失敗は成長にとって「必要不可欠」の要素である。

避けるべき対象ではない。


ところで、失敗した責任は誰がとるのか。

当然こちらである。

幼児に初めて食器をもたせて自分で食べさせたら、こぼしまくるに決まっている。

片づけるのは、そうさせた親である。


この「面倒」なステップを踏まない限り、いつまでも「はい、あ~ん」をしないといけない。

長い目で見れば、実はそれが一番面倒である。

子育て、教育は愛情ベースだからこそ、自立に向けて育てるのが基本である。


学級経営を見ていても、いつまでもこの「はい、あ~ん」を続けているところが結構ある。

それ、子ども、自分でできますから。

例えば「一年生だから無理」なら、二年生になると急にできるようになるのかとツッコミを入れたくなってしまう。

「一年生をなめてもらっては困る」と幼稚園や保育園の先生たちは思っている。


木に登らせなければ、当面はケガをしない。

しかし、将来いつか高い位置から落下した時に大ケガをする可能性が格段に高まる。

自然の中で体験できない現代の子ども相手なら、「見守りながら登る」というステップが一つ必要である。


ステップを踏んで、「大失敗しないと信用できる」という状態に、徐々に高めていくことである。

多少の失敗はいいのだが、回収不能の大失敗は困る。

先の幼児の例でいうと、交通事故は「大失敗」であり、絶対に防がなければならない。

一年生までに「見守りながら登校できる」段階まで、親が一緒に練習をする必要がある。


逆に、回収可能な失敗、指導者が責任を取れる範囲なら、どんどんさせる。


クラス会議を例にすると、子どもに司会をやらせれば、教師がやった場合に比べて、間違いなく進行は滞る。

話し合いもうまくまとまらない。

しかし、これを経なければ、次の段階には絶対に進めない。

自治を目指す以上、下手でもうまくいかなくても、何とか我慢して任せてやっていく段階が必要である。


子育てと同じで、いつまでもやってあげていては、成長がない。

これはきっと、一般の社員教育などでも同じではないだろうか。

上司や先輩がやった方がうまくいくプロジェクトを、若手に敢えて任せるからこそ、会社全体が将来的に伸びるのだろう。

(そして、任せて任せず。無事に責任をもって見届けるまでが「任せる」である。)


その際のリスクは「必要経費」である。

経費がかかりすぎると感じるようであれば、それはまだ相手を「信用できない」段階であり、時期尚早といえるかもしれない。


スルーを多くすることは、自治的学級づくりのステップと似ていると感じた次第である。

2021年3月11日木曜日

絶対に絶対に諦めない

昨年から今年と、被災地に全く行くことなく過ぎてしまった。

いつもなら被災地のレポートをするところだが、今回は見ていないので書けない。

まだ10年にして記憶を風化をさせないため、2019年の記事を再録する。

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(引用開始)

南相馬のボランティアセンターには、3.11直前の土曜日ということで、たくさんの人が集まっていた。

中には、海外の若い人たちも参加していた。


海外からも「何かしよう」という人がいること。

国という単位は生活の上で必要だが、国境を越えて同じ仲間として活動しようとする人がいる。

希望のもてることである。

インターネットの国境がなくなったこれからの世界は、現実の面でもそうなっていくのかもしれない。


さて、例のごとく依頼内容は、お得意の「竹林伐採」である。

8年間以上手つかずの竹林というのは、密度が違う。

今回の任務は「完了」「ゴール」ではなく、長距離リレーの第一走者のような感じである。

そして「被災地に学ぶ会」と他団体との合同作業である。

とにかく角の一画をどうにかしようということで作業を開始した。


竹林伐採作業は、大きく6つの作業が入る。

0.下草刈りと作業場の確保

1.チェーンソーで竹を伐採

2.枝打ちと枝部分の処理(機械で粉砕)

3.50センチの長さに切り分ける

4.竹内部の節に穴を開ける(燃焼時の破裂事故を防ぐため)

5.処理場へ運搬


なかなかに、煩雑な作業である。

量が多く、とにかく進まない。

竹もまあすくすくとよく伸びていて、一本一本の作業量が多い。

しかし、やらねば進まない。

どんどんやる。


今回私は、初のチェーンソー使用担当である。

使い慣れた人の数が足りなかったからである。

エンジンのかけ方から分からず始めたが、慣れてきたら段々手際もよくなってきた。

竹は丸く空洞なので、丸の形に沿ってチェーンソーの根本部分を当てていくとうまく切れた。

大きな竹は切りきってしまうと、切れた瞬間にチェーンソー上に竹の全ての重さが載ってしまうので、注意が必要である。


やっている内に楽しくなるというのは、いつものことである。

そしてお昼の休憩時に気付いた時には、腰を中心に全身筋肉痛になっていた。

普段いかに使っていないかである。

肉体労働の後、青空の下で丸太に腰かけていただくお昼ご飯は格別である。

(昼食のお弁当も例の如く、鍵山秀三郎相談役からのご厚意の提供である。)


午後4時まで作業をし、終わった後、くたくたの身体を起こして、竹林を眺めてみた。


正直、見た目、あまり変わっていない。

全体の10%もいってない感じである。

時間と人数をかけた割に「まだまだ」という感じである。


帰りのバスの車窓から街の風景を眺めていて気付いた。


コンビニが増えた。

食事する店が開いている。

新しい家ができた。

駅では、電車から結構な数の人が乗り降りしていた。

工事車両がたくさん入っている。

街に、多いとはいえないけれど、以前よりもずっと車や人の往来が増えた。


8年も経ってまだこれぐらい、という思いはある。

住んでいる人たちにとっては、これは日常に感じていることなのかもしれない。

しかし、確実に、着実に、よくなっている。


ここの捉え方は、結構重要である。

決してよくはない状態なのだが、よくなってきている。

つまり、希望はあるけど支援は必要という状態である。

「復興したからもう大丈夫」では決してない。

一方で、「僅かずつながら、確実によくなってきている」というのも事実である。


集約すると

「決してあきらめないで、復興支援を続ける。」

ということが大切になる。

竹林への対処と同じで、一人が一回分でできる支援量は微量だが、これをリレーしていくことが大切である。

回数も人も、多ければ多いほどいい。

あきらめずに、みんなで長く続けることである。

必ず変化が起きる。


南相馬の地区では、仮設住宅の供与がこの3月で終了する。

(ただし特例で、もう1年延長の場合もある。)

この3月が、住民の人々にとって、またその支援をしようとする人たちにとっても、新たなスタートラインである。


絶対に、絶対に、あきらめない。

人間がこの思いをもっている限り、世界は確実によくなっていくという希望を学べた、今回の活動だった。

(引用終了)

==============

今の世の中にもいえることだと思う。

やれることを地道にやる。

困難にも諦めずに立ち向かいたい。

そして、今年こそはまた被災地ボランティア活動への参加を再開していきたい。

2021年3月9日火曜日

「歌わない」をどうするか

 今号も指導の「スルーorリアクション」について。

読者の方からのお悩みにお答えという企画である。

一応動画も作ってみたが、書いた方が詳しく説明できる気がするので書く。

(これはこれで、ニーズが別々にあるような気がする。)


お悩み内容は「高学年になると歌わなくなる」である。

さらに「歌わないと周囲の先生からサボっていると見なされる」という他者目線の悩みでもある。

まずは、このブログの過去記事が参考になると思い、紹介する。


参考:教師の寺子屋(2013.1.16)「歌えるようにするには」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2013/01/blog-post_16.html


対応については、この記事とほぼ同じことだが、一応動画でもお答えした。




「高学年」というポイントだけでもいくつあるのだが、今回は普遍的で基本的な対応に絞る。


まず、スルーとリアクションという視点で書く。


スルーすべきは

「あまり意欲的でない層」

である。


逆に、優先的にリアクションすべきは

「非常に意欲的な層」

である。


2:6:2の法則というのを聞いたことがある人もいると思う。

「働きアリの法則」などともいう。


元々はパレートの法則(80:20の法則)から出たものと思われる。

パレートの法則とは、2割の事業が全体の利益の内の8割を生んでいるという経済の法則である。

(逆にいえば、残り8割の事業は全体の2割分の利益しか生んでいないということになる。

単純計算すると、生産性としては、わずか2割の事業は残り8割の事業の16倍である。)


さて、働きアリではないが、学級を見る時には、この2:6:2が何かと出てくる。

あらゆる場面において、2割はすこぶる意欲的だが、2割はやる気が全くない。

そして一番多い6割は「浮動票」である。


学級経営の基本として「真面目を優先する」を掲げているが、これである。

意欲的な2割に最優先して着目する。


どうしても一番多い6割を優先したくなるが、ぐっと抑える。

どうしても一番気にかかる意欲のない2割に目がいってしまうが、ここもぐっと抑える。

意欲的な2割を優先する。

もっというと、その中の「トップランナー」にこそ着目する。


なぜか。

意欲のある2割に着目すると、その2割は更に意欲的になり、ハイパフォーマンスを発揮する。

そうなると、6割はその意欲的な2割の層に引っ張られる。

自分もそちらに行きたいからである。


ちなみに、決してパフォーマンス自体は高くなくても、強い意欲が見られる子どもは優先的に見てあげる対象である。


そうなると、「2:6」だったのが「3:5」になり「4:4(=1:1)」になっていく。

「一生懸命やっている人が評価し注目される」のだから当然である。

さらに、最初の「2」の群の中からは更にハイパフォーマーが出るので、更に全体のパフォーマンスは上昇する。


ところで最初の「意欲的でない2割」はどうなるのか。

実は、全体が上がるのにしたがって、ここの意欲もパフォーマンスも上げられる。

全体が上昇しているので「そんなしてないで一緒にやろうよ」「教えてあげるよ」というメンバーが増える。

結果的に、指導者が実は一番気にしていた意欲的でない2割も、そこですくえることになる。

(ちなみに、例外的に全くのってこない1割弱もいるにはいるが、それは個人の意思の尊重で、それもまたよしとする。)


学級の朝の歌などは、この傾向が顕著に出る。

歌わないメンバーだらけの中で放っておくと、意欲的なハイパフォーマーすらも歌わなくなる。

指導者は何よりも優先的にハイパフォーマーに着目し、まずここだけでも引き上げる。

みんな根本は「良い方が良い」と思っているので、素直な層が追従してくれる。


これは決して不当な差別でも贔屓でもない。

「こうしよう」という提案に対し、それを素直に一生懸命に実行するものが高く評価される。

当然のことである。

逆の姿が見られる子どもを高く評価したら、それこそが不当な差別で贔屓である。


(ちなみに学習障害や自閉症スペクトラムなどの特別な支援が必要な子どもへの対応、という話とは全く別の話である。

これはまた個別に専門的な知識による対応が必要である。)


真面目な人を損させない。優先する。

歌の指導に限らず、あらゆる面で適用できる学級経営の基本である。

2021年3月7日日曜日

感染症の「その後」を予防的に指導する

今日は「スルー」できない感染症の「その後」の対策について。


特活部の仲間が考えたものを、道徳で実践したものである。


「もしも自分がかかってしまったら」ということを考えていった。

想定としては、自分が感染したが完治した、あるいは疑いがあって検査したら陰性だった、という場合である。

つまり、数週間教室に来られない状況の「その後」である。


そこで「自分がその立場だったら、どんなことが怖いか」をノートに書き、全員が順に発表していった。


・いじめられる(仲間外れ・無視・避ける)

 →自信を失って不登校になってしまう

・距離を置かれる、遊べなくなる 

・学校や習い事などの人たちの迷惑になる(特に受験生の多い塾)

・うつしていないか心配

 →他の人がその後にかかった時にも自分の責任だと思ってしまう

・デマを広められる


大体、これらのことが挙げられた。

そしてこれらは、大人社会でこそ起きている現象である。

小さな社会である学級でこそ、きちんと対策をとっておくことが大切である。


次のように問うた。

「いじめるのは誰ですか」

「仲間外れにするのは誰ですか」

「デマを広げるのは誰ですか」

・・・


それは「隣の人」だと気付く。

つまりは、クラスの仲間である。

それは、隣の人からすれば、自分自身のことである。


何をされたくないかを、共有した。

つまり、理論上、自分がそれを人にしなければ、それは起きない。


行き着いた結論は

「自分のされて嫌なことは、人にしない」

という、日常から言っている、当たり前のことである。


まとめに、市のページで、差別に立ち向かう宣言をしている動画を流した。

参考:千葉市H.P. 新型コロナウイルス感染症に関する人権への配慮について(コロナ差別がゼロのまち宣言の発出)

https://www.city.chiba.jp/hokenfukushi/iryoeisei/seisaku/sabestu_zerosengen.html


子どもたちは、真剣にきいていた。

我々にとって、ウィルスそのものだけではなく、人間の差別意識こそが立ち向かうべき相手である。


この実践のポイントは、できれば誰もその状況になっていない内に行うということである。

つまりは、予防的指導である。

治療は予防の100倍の労力を要する。

予防に力を入れておくのが上策である。

その点は、感染症対策と同じである。


この実践には、特別な準備は何もいらない。

思いの共有こそが肝である。

事が起こるその前に、予防的アクションを起こしておきたい。

2021年3月5日金曜日

「スルー」で伸びる良き学び手としての子ども

 

前号に引き続き、新刊の「スルーorリアクション」の重要性というテーマ。


突然だが「授業が上手い」「授業名人」ときくと、どのような状態を想像するだろうか。

恐らく、鮮やかな発問や子どもの発言のつなぎ、楽しいネタの提供などを思い浮かべると思う。

それらは一面で正しいイメージである。

子どもの発言を上手く拾える、つなげられるなどというのは、リアクションが上手いともいえる。


ここを目指すことは価値がある。

良い授業者のモデルになるし、イメージができる。


しかしながら、今学校の教師に求められているのは、このプレゼンテーション的能力だけではない。

ファシリテーター的能力も強く求められる。

つまりは、適切に委ねていく力である。

「授業名人」と呼ばれる人々は、きちんとここもやっている。


前号でも書いたが、オールリアクションだと、子どもは依存的になる。

全ての球を担任が漏れなく拾ってくれるとなると、周りの子どもは拾う球がなくなるので、動かなくなる。


わかりやすい例で言うと、担任が授業中に子どもの発言を繰り返すことである。

「スピーカー」あるいは「拡声器」と呼んでいる行為である。

それを常にやり続けていると、子どもは子ども同士の発言を聞かなくなる。

「スピーカー」で拡大された声を聞けばいい話だからである。


更に「翻訳機能付きスピーカー」の場合もある。

子どもの発言を翻訳して拡大して伝える。


これらは、意図的に、かつ必要があってやることがあってもいい。

声が極端に小さい子どもや自信のない子どももいる。

しかし、無意識にやってしまっていると、危険である。


わかりにくい友達の発言を聞く必要はないし、自分の発言も「翻訳機」が優秀なので多少不明瞭でも適当でも構わない。

そうして、自分の発言の仕方にも責任をとらなくなり、周りの仲間にも関心がなくなり、どんどん教師依存症になっていく。

これでは、教育として逆効果である。


つまり「理解力の悪い教師」を敢えて演じることも大切である。

教師が敢えてスルーすることで、子どもに力がつくという面があることを忘れてはならない。


故人だが、元筑波大附属小の社会科授業名人、有田和正先生は、小学一年生にすら心配されるほどであったという。

「どうしてわからないの!?」「先生、何にも知らないんだね」「また間違えた-!」

これらは当然、「お釈迦様の掌」の上での出来事である。


つまり、教えているけど、教えていないのである。

「そうなの?」「わからないなあ」と敢えてスルーする。

そうすると、翌日あるいは翌週までに子どもたちが調べてくる、という算段である。

さらにそれを子どもたちがプレゼンする。

まさに授業名人である。


授業は、飲みこみやすく「噛んで含めるように教える」のが全てではない。

咀嚼力の弱い乳幼児期はそれも必要だろうが、基本的には自分で食べられる力をつけていく方向が正しい。

初めてのものでもどんな固いものでもバリバリ食べられるようにできたら、生きていく力としてはばっちりである。


私が常々「上手い授業かどうかはどうでもいい」というのは、その辺りを意としている。

「上手い学び手」をこそ育てるべきだという主張である。

何からでもどんなものからでも気付き学べる子どもが育てば、まず間違いないと確信している。


スルーかリアクションか。

それで子どもが良き学び手になるかどうかという基準で判断すると、わかりやすいかもしれない。

2021年3月3日水曜日

「○○していいよ」に要注意

 新刊に関連して、リアクションとスルーの選択の大切さについて。


学級担任や親などの立場で、気を付けた方がいい口癖がある。

「○○していいよ」

である。


日常生活には「指導」すべきことがたくさんある。

子どもが何か言ったら大概「リアクション」を求められる。

よって「スルー」すべきところの判断が難しい。


事実、子どもたちは、何かと「許可」を求めてくる。


よくある一般的でわかりやすいのが

「トイレに行ってもいいですか」

である。

本来は、トイレに行きたい人に「ダメだ」などと言える訳がない。


なぜこんなことになるのか。


恐らく、長い学校の歴史の中で、かつてトイレで遊ぶとか、さぼるといったことがあったのかもしれない。

(今もあるのかもしれないが。)


「許可制」は、続けていると、どうしても依存的になってしまう。

「○○してもよい」は、責任をこちらが引き受ける言葉である。

つまりは、子どもからすれば、相手に責任をもってもらう行為である。


なぜこうなるのか。


学級担任自身も、何かと「許可制」で動くことが多いからかもしれない。

学校は、担任個人の思うようにできることは多くない。

何かをしようとすれば、何かと許可がいるし、しかも大概は許可がおりない。


その代わりに、管理職など上の立場の人に責任をもってもらえる。

その上には、もっと大きな組織が責任をとってくれている。

つまり、学級担任と子どもという関係は、巨大な責任多重構造の底辺の部分にいるといえる。


だから、学校としてのルールを越えるようなことは、担任個人では残念ながら許可ができない。

逆に言えば、ただでさえ裁量権が少ないのだから、子ども個人で完結するような事柄に、いちいち口出しをしない方がよい。


トイレへ行くことなどはその最たるものである。

例え休み時間に行っていたとしても、急にお腹の調子が悪くなるなどの個人的事情は十分に考えられる。

許可するような類のものではない。

間に合わなくなる前にさっさと行った方がよい。


小雨時や雨上がりなどに「外で遊んでもいいですか」も同じ。

本来なら適切に考えて自己判断すればよいのだが、担任に判断を委ねてくる。

「スルー」すべきところであるが、

「思い切り転んで泥まみれのまま教室に入るのは結構困る」ということだけは伝えておいてもよいかもしれない。

(要は「お気をつけて」ということである。)


子どもたちは、「正解」を常に他に求めているのである。

テストはこれを顕著に表す。

テストは提出すれば〇×がついて返ってくる。

普段から、「正解」のある世界に慣れ過ぎているのかもしれない。


自己判断の力をつけるには、漢字の小テストの相互〇つけをするとよい。

正誤の判定のきわどいものに対しては「これは〇か×か」ときいてくる。

いちいち「こうこうこういう訳で、〇(あるいは×)だと思う」と伝える。


これを繰り返していく内に、次のことが身に付く(人が多い)。


・自分の中で何が〇か×かの判定基準ができてくる

・正誤の判断をしづらいもの(雑)が〇つけの際に迷惑だとわかる

 →解答を書く時に丁寧になってくる


担任の立場からすると、最初はいちいちリアクションをとっていたのが、その内にそれが減ることになる。


原則、ここを目指す。

最初の内は、手取り足取りでもいいのである。

しかし、それはやがて手放していくもの。

スルーでいける部分を増やしていくのが学級経営のコツである。


細かなチェック機能も、最初の内だけでよい。

例えば持ち物のようなものも、習慣化さえすれば、チェック不要になっていく。


スルーできるところをいつまでもリアクションしないことである。

それだと、いつまでたっても子どもが成長しない。


今回の新著を読んでいただくとわかるが、圧倒的に「リアクション」の方が多い。

この理由は、リアクションをするのは、スルーできない段階だからである。

本の一番の想定読者は若年層ため、最初の内の「育っていない」状態を想定している。

よって、リアクションが多めの配分となっている。

ただし、適切なリアクションをしていく中で、スルーにもっていくというのが肝要である。

2021年3月1日月曜日

信用積み立ては日常がすべて

信用と信頼についての話の3回目。

今回は、主に信用について。


信用は、契約関係である。

条件付きといえる。

つまり「〇〇しているから信用できる」が積み重なることが大切である。

「信」の字を分解したごとく、その人の在り方と言葉との一致である。


例えば、学級開きで方針やルールを示したとする。

「いじめをなくしていく」や「真面目な人を優先する」というような方針。

あるいは「人が話している時は黙ってきく」「人に迷惑になることや危険なことはしない」といったルール。


これら言葉として発したものを、きちんと守っているか、子どもは見ている。

言ったのに守っていなければ、「信用ならない」ということになる。

当然、最も欲しい信頼にもつながらない。


このことを見るだけでも「ルールを細かくたくさん作る」ということの有害性がおわかりいただけるかと思う。

ルールを多く作るほど、信用を得るのが難しくなるのである。

どうしても守れない場面が多くなるからである。

つまり基本的にルールは「ざっくり」でよい。


また、常に見られていると同時に、いざという時にこそ信用は試される。


「真面目な人を優先する」と宣言したからには、常にそこが優先されることを行動で示す必要がある。

例えば授業開始時にきちんと準備をしている子がいたら、まだ準備せずに遊んでいる子どもは放っておいてでも始める。

例えば「いじめをなくす」と宣言したからには、事が起きた際にはそこから逃げない姿勢を見せる必要がある。


こういったことの、小さな信用の積み重ねがあって、最終的に「本当に頼れる」という信頼になっていく。

こちらから子どもへの信頼が「デフォルト」であるのと違い、子どもからこちらへの信頼は、無条件には得られないのである。


さて、子どもからの信用を得て、信頼にまで発展したら一安心、とはいかない。

「子ども自身が周囲への信用を積み重ねる」ことも、同じく重要な要素である。

「周囲から見た子どもへの信用」というのは、確実にある。

(例えば、地域社会にその学校の子どもがどう見られているか。)

ここを無視した手立ては、ことごとく失敗する。


特に子どもの側にこの視点が欠けていることが多い。

学校が子どものための場だからといって、無条件に優遇されると勘違いしている場合がある。

ここはきちんと伝え、教えねばならない。


例を挙げる。


子どもはよく「座席を自由にして欲しい」と要望を出してくる。

「私たちの自由」の主張である。

これ自体は自然なことであり、全国どこの教室でも見られる光景である。


これを承諾するか否か。

ここは、単に「無条件の信頼」では事故になる。

子どもへの信用度の発揮どころである。

つまりは、合理的に考えて「断るべし」ということが大いにあり得る。


これについては拙著『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』に詳しく書いた。

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3


要するに、子ども同士のトラブルが容易に予想される学級では、信用ができないため、到底承諾できないのである。

逆に、そこに「信用」を積み重ねている学級であれば、承諾できる。


具体的には、普段の様子である。

体育や遊びの中で、「3人組」などをさっと誰とでも作る、それもメンバーが固定しないというような姿が毎度見られるか。

「周りの人と相談」という指示を出した時に、本当に誰とでも話せているか。

いつも同じ子どもが「ぽつねん」としているような学級の状態であれば、とてもではないが信用できない。

一部に特定のメンバーがいつも集まっているような状態があるなら、これも信用できない。

学級内に差別やいじめがありますという状態で「自由」にするのは、信号が判断できない幼児を自由に外に出歩かせるようなものである。


敢えてここでは「信頼」ではなく「信用」を用いているのがポイントである。

あくまで「安全・安心にできる」という約束・条件付きなのである。

それは無条件の信頼ではなく、「的確な行動ができる」という条件付きの信用である。


普段のあらゆる行動において「自由」にした時にどうなるかを観察しておく。

教室移動時の廊下の歩き方一つでもわかる。

試しに自由に移動させてみて、授業中の他教室の前を大声でふざけながら歩くようなら、まず他者意識はない。

この場合、自由な席替えなどもっての他である。

逆に、そういう場面でもほとんど全員が意識して歩けるような学級ならば、自由にした時にも周りを考えて座席を決められる可能性がある。

(さらっと書いたが「全員」ではなく「ほとんど全員」がちょっとしたポイントである。)


ただこれは、いつも単純に黙って整然と歩くということとは別問題である。

それは単に命令に従順で「無思考」になっている場合もあり、こうなった集団に自由を与えると、おどおどする。

従順なロボット化している状態の集団にとって、もっとも苦手なのが「自由」である。

もしロボット集団にしてしまったら、責任をもって担任がすべてにコマンドを打ち続けるしかない。


話を戻すと、子どもに対する信用度は、常に測定しておく必要があるということ。

こちらからの信用度に応じて、自由度を高めていけるということは、常に伝えておく。

なぜならば、全ての責任はこちらにあり、だからである。

こちらは聖人ではないので、傷つけられるとわかっている相手に無防備に頬を差し出す訳にはいかない。


個々に見れば、普段の様子からこの子どもは信用できるが、こちらの子どもは難しいということに、当然なる。

きれいごとを言えば「みんな平等」なのだが、公平に見た上でそう判断できる。

日常の姿が、個々で全く違うのである。(というより、みんな一緒は異常である。)

これは差別ではなく、はっきりとした区別である。

成績が個別にAからCがつくのと全く同じ原理である。


単純に、約束を普段から守れない相手には、危なくて自由を与えられないというだけである。

一方で、十分に信用に値する相手をいちいち縛って管理するのも無粋なことである。

信用に値するのであれば、どんどん自由にしていく方がよい。

難しいのが、先に述べたように、個々で見た場合に凸凹があるという点である。

全体として合理的に見た時に、GOが出せるか否かという判断力が問われる。


理想論の信頼関係だけでは、学級経営は成り立たない。

いつか良くなると信頼はしてても、今は信用できないということが多々ある。


何度も紹介しているが、次の言葉でまとめる。

「日常がすべて」

これこそが、お互いに信用を積み重ねる唯一無二の手段である。

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