信用と信頼についての話の3回目。
今回は、主に信用について。
信用は、契約関係である。
条件付きといえる。
つまり「〇〇しているから信用できる」が積み重なることが大切である。
「信」の字を分解したごとく、その人の在り方と言葉との一致である。
例えば、学級開きで方針やルールを示したとする。
「いじめをなくしていく」や「真面目な人を優先する」というような方針。
あるいは「人が話している時は黙ってきく」「人に迷惑になることや危険なことはしない」といったルール。
これら言葉として発したものを、きちんと守っているか、子どもは見ている。
言ったのに守っていなければ、「信用ならない」ということになる。
当然、最も欲しい信頼にもつながらない。
このことを見るだけでも「ルールを細かくたくさん作る」ということの有害性がおわかりいただけるかと思う。
ルールを多く作るほど、信用を得るのが難しくなるのである。
どうしても守れない場面が多くなるからである。
つまり基本的にルールは「ざっくり」でよい。
また、常に見られていると同時に、いざという時にこそ信用は試される。
「真面目な人を優先する」と宣言したからには、常にそこが優先されることを行動で示す必要がある。
例えば授業開始時にきちんと準備をしている子がいたら、まだ準備せずに遊んでいる子どもは放っておいてでも始める。
例えば「いじめをなくす」と宣言したからには、事が起きた際にはそこから逃げない姿勢を見せる必要がある。
こういったことの、小さな信用の積み重ねがあって、最終的に「本当に頼れる」という信頼になっていく。
こちらから子どもへの信頼が「デフォルト」であるのと違い、子どもからこちらへの信頼は、無条件には得られないのである。
さて、子どもからの信用を得て、信頼にまで発展したら一安心、とはいかない。
「子ども自身が周囲への信用を積み重ねる」ことも、同じく重要な要素である。
「周囲から見た子どもへの信用」というのは、確実にある。
(例えば、地域社会にその学校の子どもがどう見られているか。)
ここを無視した手立ては、ことごとく失敗する。
特に子どもの側にこの視点が欠けていることが多い。
学校が子どものための場だからといって、無条件に優遇されると勘違いしている場合がある。
ここはきちんと伝え、教えねばならない。
例を挙げる。
子どもはよく「座席を自由にして欲しい」と要望を出してくる。
「私たちの自由」の主張である。
これ自体は自然なことであり、全国どこの教室でも見られる光景である。
これを承諾するか否か。
ここは、単に「無条件の信頼」では事故になる。
子どもへの信用度の発揮どころである。
つまりは、合理的に考えて「断るべし」ということが大いにあり得る。
これについては拙著『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』に詳しく書いた。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3
要するに、子ども同士のトラブルが容易に予想される学級では、信用ができないため、到底承諾できないのである。
逆に、そこに「信用」を積み重ねている学級であれば、承諾できる。
具体的には、普段の様子である。
体育や遊びの中で、「3人組」などをさっと誰とでも作る、それもメンバーが固定しないというような姿が毎度見られるか。
「周りの人と相談」という指示を出した時に、本当に誰とでも話せているか。
いつも同じ子どもが「ぽつねん」としているような学級の状態であれば、とてもではないが信用できない。
一部に特定のメンバーがいつも集まっているような状態があるなら、これも信用できない。
学級内に差別やいじめがありますという状態で「自由」にするのは、信号が判断できない幼児を自由に外に出歩かせるようなものである。
敢えてここでは「信頼」ではなく「信用」を用いているのがポイントである。
あくまで「安全・安心にできる」という約束・条件付きなのである。
それは無条件の信頼ではなく、「的確な行動ができる」という条件付きの信用である。
普段のあらゆる行動において「自由」にした時にどうなるかを観察しておく。
教室移動時の廊下の歩き方一つでもわかる。
試しに自由に移動させてみて、授業中の他教室の前を大声でふざけながら歩くようなら、まず他者意識はない。
この場合、自由な席替えなどもっての他である。
逆に、そういう場面でもほとんど全員が意識して歩けるような学級ならば、自由にした時にも周りを考えて座席を決められる可能性がある。
(さらっと書いたが「全員」ではなく「ほとんど全員」がちょっとしたポイントである。)
ただこれは、いつも単純に黙って整然と歩くということとは別問題である。
それは単に命令に従順で「無思考」になっている場合もあり、こうなった集団に自由を与えると、おどおどする。
従順なロボット化している状態の集団にとって、もっとも苦手なのが「自由」である。
もしロボット集団にしてしまったら、責任をもって担任がすべてにコマンドを打ち続けるしかない。
話を戻すと、子どもに対する信用度は、常に測定しておく必要があるということ。
こちらからの信用度に応じて、自由度を高めていけるということは、常に伝えておく。
なぜならば、全ての責任はこちらにあり、だからである。
こちらは聖人ではないので、傷つけられるとわかっている相手に無防備に頬を差し出す訳にはいかない。
個々に見れば、普段の様子からこの子どもは信用できるが、こちらの子どもは難しいということに、当然なる。
きれいごとを言えば「みんな平等」なのだが、公平に見た上でそう判断できる。
日常の姿が、個々で全く違うのである。(というより、みんな一緒は異常である。)
これは差別ではなく、はっきりとした区別である。
成績が個別にAからCがつくのと全く同じ原理である。
単純に、約束を普段から守れない相手には、危なくて自由を与えられないというだけである。
一方で、十分に信用に値する相手をいちいち縛って管理するのも無粋なことである。
信用に値するのであれば、どんどん自由にしていく方がよい。
難しいのが、先に述べたように、個々で見た場合に凸凹があるという点である。
全体として合理的に見た時に、GOが出せるか否かという判断力が問われる。
理想論の信頼関係だけでは、学級経営は成り立たない。
いつか良くなると信頼はしてても、今は信用できないということが多々ある。
何度も紹介しているが、次の言葉でまとめる。
「日常がすべて」
これこそが、お互いに信用を積み重ねる唯一無二の手段である。