前号のルールの話と関連して、ルールを守ることと片目を瞑ることについて。
語呂合わせして、法治の放置(スルー)についてである。
前号で「ルールは集団にとって合理的かつ最小限が望ましい」ということを書いた。
もっと以前から「ルールはそれ自体がなくなっても大丈夫な状態を目指して設定する」ということも書いてきている。
ここは根幹である。
つまりは、原則としてルールは少ない方がいいのである。
ないで済むなら、ない方がよい。
特に「万が一」に備えたルールがたくさんあるので、全部完璧に守ろう、守らせようとすると、息苦しい。
現実問題として、見えているけどスルーしていることがたくさんある。
しかし、その場のルールを司っている人の目の前で堂々と破ってはいけない。
他で片目を瞑ってスルーしていたものも、当然リアクションしなくてはならなくなる。
その姿を見た周りが騒ぎ、不信感や不安感をもつからである。
例えば、高速道路ではルール違反をしている車が結構ある。
しかしそのルールを知って守っている私の真横を明らかにスピード違反で通りすぎても、別に咎めないし、捕まえることもできない。
スルーである。
私にはその権限も力もないからである。
しかし、パトカーの真横をそのハイスピードで追い越した車は、当然捕まる。
それをしてくれないと、警察という国家権力への信用がなくなり、国の秩序が滅茶苦茶になる。
学校における教師というのは、そういう面もある。
学校の法治を担当し保障している存在といえる。
自治もあくまで法治の保障の上でこそ正常に機能する。
子どもたち同士は、自分を含めた仲間のルール破りを見ているし、知っている。
それを別にいいと思っている子どももいるし、嫌だなと思っている子どももいる。
どちらにせよ、そのごちゃごちゃな現状を「そういうもの」として受け入れている状態である。
しかし、教師の目の前で堂々と破った場合は、問題である。
これはスルーできない。
周りもどうするか見ている。
それをスルーした場合「ザル法公認」である。
本当に賢い子どもは、ここも考えている。
学校のルールの中には「万が一規定」もたくさんあり、四六時中守られるものではないとわかっている。
そして、教師の目の前で「それをやっちゃあおしまいよ」というのもわかっている。
だから、その線は越えてこない。
しかし、そこまで忖度してくれるのはもはや「子ども」ではない。
多くは、やってしまうのである。
なぜなら、それが子どもだからである。
だから、言わざるを得ない状況に、四六時中なる。
教師の側も、見えているけど敢えてスルーしていることがかなりある。
「ちょっと廊下を走ってる」などその最たるものである。
そこまで何もかもきゅうきゅうに締め付けると、お互いに苦しいからである。
(廊下を走るのを完璧に0にできたら、それは「幽霊学校」であり、もはや学校ではなくて病院である。)
しかし、目の前で堂々とやられると、困る。
近所の住民の方々など、周りの人から苦情が来る場合も、絶対に全力で対処する。
「いいんだよ」とは100%ならない。
その辺りが本当にわかって欲しいところである。
何が言いたいかというと、学校や学級は、教師と子どもの絶妙なバランスでこそ成り立つということである。
「清濁併せ飲む」で、こちらも別に子どもが100%清いとは思っていない。
(こちらがそう思われていないのも、百も承知である。)
多少のことには目を瞑る度量があるのだが、目の前、あからさま、程度のひどいものは、スルーできないので、困るのである。
お互いに、気持ちよく過ごせる程度にルールを守り、時にスルーできる程度に留めること。
この辺りの寛容さは、学校に関わる全ての人に必要なのではないかと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿