2021年3月5日金曜日

「スルー」で伸びる良き学び手としての子ども

 

前号に引き続き、新刊の「スルーorリアクション」の重要性というテーマ。


突然だが「授業が上手い」「授業名人」ときくと、どのような状態を想像するだろうか。

恐らく、鮮やかな発問や子どもの発言のつなぎ、楽しいネタの提供などを思い浮かべると思う。

それらは一面で正しいイメージである。

子どもの発言を上手く拾える、つなげられるなどというのは、リアクションが上手いともいえる。


ここを目指すことは価値がある。

良い授業者のモデルになるし、イメージができる。


しかしながら、今学校の教師に求められているのは、このプレゼンテーション的能力だけではない。

ファシリテーター的能力も強く求められる。

つまりは、適切に委ねていく力である。

「授業名人」と呼ばれる人々は、きちんとここもやっている。


前号でも書いたが、オールリアクションだと、子どもは依存的になる。

全ての球を担任が漏れなく拾ってくれるとなると、周りの子どもは拾う球がなくなるので、動かなくなる。


わかりやすい例で言うと、担任が授業中に子どもの発言を繰り返すことである。

「スピーカー」あるいは「拡声器」と呼んでいる行為である。

それを常にやり続けていると、子どもは子ども同士の発言を聞かなくなる。

「スピーカー」で拡大された声を聞けばいい話だからである。


更に「翻訳機能付きスピーカー」の場合もある。

子どもの発言を翻訳して拡大して伝える。


これらは、意図的に、かつ必要があってやることがあってもいい。

声が極端に小さい子どもや自信のない子どももいる。

しかし、無意識にやってしまっていると、危険である。


わかりにくい友達の発言を聞く必要はないし、自分の発言も「翻訳機」が優秀なので多少不明瞭でも適当でも構わない。

そうして、自分の発言の仕方にも責任をとらなくなり、周りの仲間にも関心がなくなり、どんどん教師依存症になっていく。

これでは、教育として逆効果である。


つまり「理解力の悪い教師」を敢えて演じることも大切である。

教師が敢えてスルーすることで、子どもに力がつくという面があることを忘れてはならない。


故人だが、元筑波大附属小の社会科授業名人、有田和正先生は、小学一年生にすら心配されるほどであったという。

「どうしてわからないの!?」「先生、何にも知らないんだね」「また間違えた-!」

これらは当然、「お釈迦様の掌」の上での出来事である。


つまり、教えているけど、教えていないのである。

「そうなの?」「わからないなあ」と敢えてスルーする。

そうすると、翌日あるいは翌週までに子どもたちが調べてくる、という算段である。

さらにそれを子どもたちがプレゼンする。

まさに授業名人である。


授業は、飲みこみやすく「噛んで含めるように教える」のが全てではない。

咀嚼力の弱い乳幼児期はそれも必要だろうが、基本的には自分で食べられる力をつけていく方向が正しい。

初めてのものでもどんな固いものでもバリバリ食べられるようにできたら、生きていく力としてはばっちりである。


私が常々「上手い授業かどうかはどうでもいい」というのは、その辺りを意としている。

「上手い学び手」をこそ育てるべきだという主張である。

何からでもどんなものからでも気付き学べる子どもが育てば、まず間違いないと確信している。


スルーかリアクションか。

それで子どもが良き学び手になるかどうかという基準で判断すると、わかりやすいかもしれない。

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