今日は「スルー」できない感染症の「その後」の対策について。
特活部の仲間が考えたものを、道徳で実践したものである。
「もしも自分がかかってしまったら」ということを考えていった。
想定としては、自分が感染したが完治した、あるいは疑いがあって検査したら陰性だった、という場合である。
つまり、数週間教室に来られない状況の「その後」である。
そこで「自分がその立場だったら、どんなことが怖いか」をノートに書き、全員が順に発表していった。
・いじめられる(仲間外れ・無視・避ける)
→自信を失って不登校になってしまう
・距離を置かれる、遊べなくなる
・学校や習い事などの人たちの迷惑になる(特に受験生の多い塾)
・うつしていないか心配
→他の人がその後にかかった時にも自分の責任だと思ってしまう
・デマを広められる
大体、これらのことが挙げられた。
そしてこれらは、大人社会でこそ起きている現象である。
小さな社会である学級でこそ、きちんと対策をとっておくことが大切である。
次のように問うた。
「いじめるのは誰ですか」
「仲間外れにするのは誰ですか」
「デマを広げるのは誰ですか」
・・・
それは「隣の人」だと気付く。
つまりは、クラスの仲間である。
それは、隣の人からすれば、自分自身のことである。
何をされたくないかを、共有した。
つまり、理論上、自分がそれを人にしなければ、それは起きない。
行き着いた結論は
「自分のされて嫌なことは、人にしない」
という、日常から言っている、当たり前のことである。
まとめに、市のページで、差別に立ち向かう宣言をしている動画を流した。
参考:千葉市H.P. 新型コロナウイルス感染症に関する人権への配慮について(コロナ差別がゼロのまち宣言の発出)
https://www.city.chiba.jp/hokenfukushi/iryoeisei/seisaku/sabestu_zerosengen.html
子どもたちは、真剣にきいていた。
我々にとって、ウィルスそのものだけではなく、人間の差別意識こそが立ち向かうべき相手である。
この実践のポイントは、できれば誰もその状況になっていない内に行うということである。
つまりは、予防的指導である。
治療は予防の100倍の労力を要する。
予防に力を入れておくのが上策である。
その点は、感染症対策と同じである。
この実践には、特別な準備は何もいらない。
思いの共有こそが肝である。
事が起こるその前に、予防的アクションを起こしておきたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿