2021年3月3日水曜日

「○○していいよ」に要注意

 新刊に関連して、リアクションとスルーの選択の大切さについて。


学級担任や親などの立場で、気を付けた方がいい口癖がある。

「○○していいよ」

である。


日常生活には「指導」すべきことがたくさんある。

子どもが何か言ったら大概「リアクション」を求められる。

よって「スルー」すべきところの判断が難しい。


事実、子どもたちは、何かと「許可」を求めてくる。


よくある一般的でわかりやすいのが

「トイレに行ってもいいですか」

である。

本来は、トイレに行きたい人に「ダメだ」などと言える訳がない。


なぜこんなことになるのか。


恐らく、長い学校の歴史の中で、かつてトイレで遊ぶとか、さぼるといったことがあったのかもしれない。

(今もあるのかもしれないが。)


「許可制」は、続けていると、どうしても依存的になってしまう。

「○○してもよい」は、責任をこちらが引き受ける言葉である。

つまりは、子どもからすれば、相手に責任をもってもらう行為である。


なぜこうなるのか。


学級担任自身も、何かと「許可制」で動くことが多いからかもしれない。

学校は、担任個人の思うようにできることは多くない。

何かをしようとすれば、何かと許可がいるし、しかも大概は許可がおりない。


その代わりに、管理職など上の立場の人に責任をもってもらえる。

その上には、もっと大きな組織が責任をとってくれている。

つまり、学級担任と子どもという関係は、巨大な責任多重構造の底辺の部分にいるといえる。


だから、学校としてのルールを越えるようなことは、担任個人では残念ながら許可ができない。

逆に言えば、ただでさえ裁量権が少ないのだから、子ども個人で完結するような事柄に、いちいち口出しをしない方がよい。


トイレへ行くことなどはその最たるものである。

例え休み時間に行っていたとしても、急にお腹の調子が悪くなるなどの個人的事情は十分に考えられる。

許可するような類のものではない。

間に合わなくなる前にさっさと行った方がよい。


小雨時や雨上がりなどに「外で遊んでもいいですか」も同じ。

本来なら適切に考えて自己判断すればよいのだが、担任に判断を委ねてくる。

「スルー」すべきところであるが、

「思い切り転んで泥まみれのまま教室に入るのは結構困る」ということだけは伝えておいてもよいかもしれない。

(要は「お気をつけて」ということである。)


子どもたちは、「正解」を常に他に求めているのである。

テストはこれを顕著に表す。

テストは提出すれば〇×がついて返ってくる。

普段から、「正解」のある世界に慣れ過ぎているのかもしれない。


自己判断の力をつけるには、漢字の小テストの相互〇つけをするとよい。

正誤の判定のきわどいものに対しては「これは〇か×か」ときいてくる。

いちいち「こうこうこういう訳で、〇(あるいは×)だと思う」と伝える。


これを繰り返していく内に、次のことが身に付く(人が多い)。


・自分の中で何が〇か×かの判定基準ができてくる

・正誤の判断をしづらいもの(雑)が〇つけの際に迷惑だとわかる

 →解答を書く時に丁寧になってくる


担任の立場からすると、最初はいちいちリアクションをとっていたのが、その内にそれが減ることになる。


原則、ここを目指す。

最初の内は、手取り足取りでもいいのである。

しかし、それはやがて手放していくもの。

スルーでいける部分を増やしていくのが学級経営のコツである。


細かなチェック機能も、最初の内だけでよい。

例えば持ち物のようなものも、習慣化さえすれば、チェック不要になっていく。


スルーできるところをいつまでもリアクションしないことである。

それだと、いつまでたっても子どもが成長しない。


今回の新著を読んでいただくとわかるが、圧倒的に「リアクション」の方が多い。

この理由は、リアクションをするのは、スルーできない段階だからである。

本の一番の想定読者は若年層ため、最初の内の「育っていない」状態を想定している。

よって、リアクションが多めの配分となっている。

ただし、適切なリアクションをしていく中で、スルーにもっていくというのが肝要である。

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