今日もスルーorリアクションがテーマ。
授業でスルーしてはいけない部分、スルーすべき部分について。
今回は、国語の授業についてである。
国語は算数に比べて、指導が苦手という人が多い。
算数のように、各単元において何を教えたらいいかが明確でないからである。
その最たるものが、詩や物語を扱った授業である。
道徳と混同してしまうと、訳がわからなくなる。
詩や物語の鑑賞自体に、正解不正解はない。
鑑賞とは作品を味わうことだからである。
どう感じるかは個人に委ねられている。
しかしながら、妥当であるか否かという問題はある。
テストで「正解」とできる部分は確実に存在する。
例えば、季節。
イナゴと実った稲穂が出てくる詩を読んで「これは冬の詩だ」といえば、誤読である。
国語の読解と自由な鑑賞はイコールではない。
大人気絵本作家のヨシタケシンスケさんの絵本の中に
「自分の作った粘土作品を、先生が全然違う動物だと思って声をかける」
というシーンがある。
(ヨシタケシンスケ著 『つまんない つまんない』白泉社
https://www.hakusensha.co.jp/books/9784592762102 )
これである。
作者の意図と全く違うように鑑賞者がとらえる。
作者としては心外かもしれないが、それが作者から独立した「作品」のもつ運命である。
それがあまりに誤解されやすいように作られているなら、それはしかたない。
しかし、教科書に載るような作品はそれなりのものなのだから、鑑賞にもある程度の妥当性があるはずである。
この辺りの線引きというか、鑑賞の自由と妥当性は分けて考える必要がある。
作品鑑賞が自由だとはいえ「どう読んでもOK」では、学力がつかない。
それは、趣味で勝手に詩を読んでいるのと同じで、国語の授業ではない。
算数なら「7×3=27だと思ったんだ?音が似ているし、いいかもね」とは絶対にならない。
明確に間違いである。
ここをスルーする人はいない。
具体例を挙げる。
次の短歌である。
しらしらと氷かがやき千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
石川啄木
(出典:新しい国語 五 東京書籍)
まず、感じたことを自由に発表する。
これ自体は国語の授業というより、単なる鑑賞である。
そうすると「月が出ているから夜」という意見が出る。
これは高確率で出る。
実際に「これは朝か夜か」と問えば、過半数が夜と答える。
ここからが国語の「読解」である。
つまり、印象や感想をきくのではなく、言葉を根拠に意見を求める。
印象の強い「かがやき」に注目が集まる。
太陽の光でかがやいているのだ、月の光でかがやいているのだ、という二つが出る。
この意見は、埒が明かない。
どちらもあり得るからである。
「千鳥なく」にも注目が集まる。
百人一首に
淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ 須磨の関守
がある。
これを見ると、確かに夜に鳴いてる。
実際、千鳥が夜に鳴くというパターンが和歌には多い。
よって「夜だ」と主張する子どもが出てきた。(これはなかなか鋭い意見だった。)
「夜」に意見が傾く。
しかしこれだけで早合点してはいけない。
千鳥の鳴く時間帯は、特に決まっていないのである。
この鳥は、いつの時間帯でも鳴く。
ここから先は、指導者側が研究しておく話になるのだが、実はこの歌は、そもそも季節がちぐはぐである。
千鳥は、渡り鳥である。
寒さの厳しい釧路に来るのは、3月から4月であるという。
つまり、その視点から言えば、季節は春である。
???
もうこの時点で訳がわからなくなる。
もう少し調べていくと、この歌は後につくり直された句だと分かる。
原型は
しらしらと氷かがやき千鳥なく
釧路の海も思出にあり
だという。
(参考:関西詩吟文化協会H.P.
http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_15.html )
つまり、後で「冬の月」を追加してしまったので、季節が混じってしまったのである。
純粋な叙景句としては、これは問題があるといえる。
つまり、ここの「朝か夜か」問題は、最終的に鑑賞者の自由になる。
しかし、鑑賞の際に確定する要素だけは落とさず指導するということだけである。
「何でもOK」ではない。
しかしながら「全てに正解がある」訳でもない。
詩の作品の読解や解釈には、特にそのような面が強い。
一方、美術などの芸術作品として見る場合は、個人の自由な鑑賞を求める。
有名なマルセル・デュシャンの「泉」などはその典型である。
(参考:アートペディア)
https://www.artpedia.asia/fountain/
どこをスルーして、どこをリアクションしていくか。
教える側の見識が強く問われる部分である。
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