2011年3月28日月曜日

練習し、本番に備える

命に関わる大きな出来事があると、価値観が一転する。
普段大切なことも、一気に吹っ飛ぶ。
学校の勉強どころではなくなる。

今回の状況下において、子ども達にとって一番役立った学校での教育は何か。
安全教育である。
具体的には、避難訓練である。
安全教育は、危険に遭遇して初めてその価値を実感する。
普段避難訓練でふざけていた子どもも、この時ばかりは真剣に避難する。
しかし、本番だけ上手くやろうとしても、失敗してしまう可能性が高い。
練習しないで試合に出るのと同じである。
試合と違う点は、失敗すると命を落とすという点である。
だから、絶対に失敗しないよう、普段から練習に真剣に取り組む必要がある。

しかし、平常時に戻ると、この大切さも、また忘れてしまう。
風邪を引いた時に健康の大切さを感じるのと同じである。
健康体に戻ったら、忘れてしまう。
だが意識すれば、その大切さを感じ続けることができる。
今回の震災での経験を活かし、次に備えられるようにしたい。

2011年3月24日木曜日

ゆとりと効率化

途中で止まっていたので、学びシェアシリーズ第5弾。
鹿毛雅治氏が次のようなことを述べていた。

「ゆとりがないと、効率化に走る。
しかし、何のための効率化なのか。」

これを考えるのは、大切なことだと思う。
効率化をねらうことで、逆にゆとりをなくしていることもある。

例えば、学力検査が近いからという理由で、理科の実験を省略する。
実験が省略されれば、時間はできる。
しかし、体験が伴っていないため、子どもがきちんと理解しにくい。
結果、テストをやったら全然できず、再指導することになる。

例えば、三角形の面積を求める公式をとにかく丸暗記させたとする。
しばらくは、それでもテストで正解はできる。
しかし、他の単元を学習後、記憶に残っているかというと、かなり怪しい。
「三角形は長方形の半分」ということを、色々なやり方で試行錯誤して学習した子どもは、記憶にきちんと残っている。

どちらも、結果的に回り道した方が結局は効率的だったという例である。
「急がば回れ」が、正しい場合もある。
また、正しくない場合も、ある。
すっと答えを教えた方がいいものもある。

何が能率的で、そこでできたゆとりで、何をしたいのか。
時々振り返る必要がある。

2011年3月22日火曜日

「ある」ものに目を向ける

今、色んな物資がないと騒がれている。
特に、都市部になる程、その傾向があるらしい。
都市部では、ガソリンを購入するのに、車の行列ができている。
整理券をもらわないと、買えないのだそうだ。
しかしそこから車で30分もしたら着く地方へ行ったら、普通にガソリンスタンドが営業していた。
行列に並ばずとも、ガソリンを入れてもらえる。
周りの人も、ガツガツと焦った様子がない。
(ちなみにガソリンを不法に値上げしている店があるらしい。
こういう店は、今儲かるかもしれないが、世の中が正常化した時に確実に潰れる。
お金と引き替えに信用を失っているのに気付かない。)

そう、ない訳がないのである。
ないと騒がれるから、なくなっている面が多い。
周囲が騒ぐほど、物資がなくなる。
余裕を持って悠々構えていると、意外にむこうからやってくる。
これは、物以外のあらゆることに当てはまる。
そういうものである。

今、自分の家にガソリンがなくなったら、本当に生きていけないのだろうか。
今、卵や牛乳、パン、納豆がなくなったら、本当に生きていけないのだろうか。
自分よりも、もっと必要としている人がいるのではないか。
被災地に比べたら、あらゆるものが圧倒的に「ある」状態である。
今すぐ食料が底をつく方が難しい。
あるものに目を向ける。
そうすれば、少し心にも余裕ができる。

今クラスの子どもと過ごせる時間も、残り少ないが、「ある」。
学期末、最後の貴重な時間である。
この時間を、大切に過ごしたい。

2011年3月17日木曜日

愛の反対は?

世界一有名な聖女、マザーテレサの言葉。
「愛の反対は○○○である。」
ご存知の方も多いかと思うが、ここに入る言葉は何か。
虐待やいじめといった、攻撃的なことではない。
愛の反対は、「無関心」。
つまり、相手に関心を持たず、何もしないことである。

マザーテレサの次の言葉も、子ども達に伝えたい。

「私達は
この世では
大きいことはできません
小さなことを
大きな愛でするだけです 」

小さなことしかできない。
しかしほとんどの場合は、小さなことすらできない。
小さいことでいい。
何か、一つ始めよう。
小さいことしか、できないのだから。
そういうことを教えるために、教師の職を与えられたのだと思う。
使命感を持って、教師の仕事に誇りを感じて生きたい。

2011年3月16日水曜日

行動で示す

非常時だからこそ、一つ書いておきたいことを。
今回の災害に対し、どんな行動を起こしたか。

被災地の方々は、当然自分達のことで手一杯である。
周りの人々は、どうだろう。
情けないことに、震源地でもない首都圏周辺で、食料の買い漁りが行われているという。
ガソリン不足(に見えるもの)も、おそらく人的要因が大きいと思われる。
誰が被害を受けて、食料やエネルギーを本当に必要としているのか。
被災地の方々ではないのか。
周辺の人間がうろたえてどうする。
そう思わされる出来事がたくさんある。
(逆に感動するほどすばらしい出来事もある。)

万が一に備えることは大切だ。
誰しも、自分がかわいい。
だからといって、自分だけがよければいいのか。
「情けは人のためならず」ではないのか。
自分が無事で元気だからこそ、他人のためにできることがあるのではないのか。
そういうことを、子ども達と話し合ってみた。

今、何か、人のためになる行動を起こすこと。
日本人としての誇りを、行動で示す。
これ以上の道徳教育の場はない。

2011年3月11日金曜日

根底の価値観

今回は学びシェアシリーズから閑話休題。
中国のオリンピックメダル剥奪の件で感じたことを。

教育技術は大切である。
しかし、その根底にある教育観はもっと大切である。
土台がガタガタでは、どんなに立派な建物でも崩壊してしまう。
しかし、教育技術はすぐ使えて、教育観はすぐ役立つというようなものではない。
だから、どうしてもノウハウ本の方が、人気が出る。
しかし、私はこの「観」を磨いていく方をより大切にしたい。

先日の中国の女子フィギュア選手の年齢詐称問題も、「観」にある。
中国の価値観の根底に「勝利」がある。
「勝ち方」はどうでもよく、結果のみがそこにあるように思える。
経済成長著しい国ならではの考え方である。
ばれなければよいという考え方なので、食品などにも、とんでもない材料が使われてたりする。
そこから、何を得ているのか。
これは、価値観の違いから来るので、一概にどうこう言えないかもしれない。
例えば、日本人には、なかなか宗教の価値が理解できないようにも思う。
イスラム教の人が毎日決まった時刻に敷物をしいてアラーの神の方向に向かってお祈りをする。
何もそこまでと思う。
しかし、イスラム教の人々にとっては、何より価値の高いことである。

子どもに授業をする時も、そこにどんな価値を見出して教えているのか。
その授業をして、どんな力が子どもについたのか。
はっきり言えるよう、意識して日々の授業に臨みたい。

2011年3月10日木曜日

教師は傲慢になりやすい

「教師は傲慢になりやすい」
先日の「学びをシェアする」で実践発表をした京都の先生の発言である。
本当に、その通りだと思う。
以下は、それを聞いての自分の考えである。

教師は「学級王国」の王様であるという。
子どもの側に降りるといっても、教室内の全責任も全権限も教師が持っている。
権限を子どもに分譲することはできるが、最終責任は分譲できない。
そういう意味で、誤解を恐れず「王様」という表現をしていた。

有田和正先生の6年生の社会科実践で「有田国憲法」を作るというものがある。
最初に示すのは、大日本帝国憲法の条文で、「天皇」を「先生」、「国」を「教室」にしたものである。
作ってみると笑ってしまうのだが、これが意外と実際の教室に当てはまっている。
「専制君主」ならぬ「先生君主」の国ができあがっている。
これじゃまずいということで、日本国憲法にならって民主的な教室の憲法作りが始まる。
まあ、そういう流れである。
(詳しく知りたい方は有田先生の著書「『六年生に育てたい学習技能』明治図書」を参照)

子ども達は、多くの国の民衆と同じで、腹の底では、トップに対して不満も抱いている。
それでも、何だかんだで、先生に従ってくれている。
新卒だろうがベテランだろうが、人格者だろうがそうでなかろうが同様である。
そのことに、教師自身が畏れを抱いていかないと、傲慢になる。
いつも一緒にいてくれる子ども達に対しても、感謝の気持ちを持ち続けたい。

2011年3月8日火曜日

「ない」から、人は助け合う

講演会の学びシェアシリーズ4回目。
今日は、事例発表をした沖縄の先生の話から。
この先生の勤務する石垣島の特別支援学校では、学校を中心とした「島ネットワーク」を築いた。
地域のあらゆる人々が学校のために動き、学校も地域のために動くというものである。
この先生が、どうやってこのネットワークを作ったかについて次のようにコツを話していた。

謙虚であるから、人は集まる。
何かが「ない」からこそ、お互いが頼り、助け合う。
つまり、不足しているからこそ、互いにその穴を埋め合えるということだ。
自分が完璧だと思ったら、助け合えない。
自分も相手も欠点があることを認めることから、始まる。
そういう中で「シェア」ができるのではないか、そういうことだった。
教育の様々な場面で応用できそうな考え方である。

2011年3月7日月曜日

「予定調和」より「ドラマ」を

鹿毛氏の講演の内容の続きを紹介する。

授業の指導案を書く。
または構想を立てる。
大抵の授業は、その指導案通りに進むことを教師が期待する。
つまり、教師の求める解に子どもの解を誘導していく。
これが「予定調和」である。

一方、理想的な授業は、教師の考える解を越えた解が出てくる。
前号の「てぶくろを買いに」の話に出てきたようなことである。
これが「ドラマ」である。

予定調和ではなくドラマを目指す。
そういう授業を先生方にはしていただきたい。
そういう内容だった。

2011年3月6日日曜日

教師と子どもの学びのシェア

前回の続きを。
学びのシェアができる時、教師は一方的に知識を伝達するのではなく、教師自身も子どもから学ぶ。

新美南吉の「てぶくろを買いに」という作品がある。
きつねとわかっていたのにてぶくろを売ってくれた人間に対して
「人間って、ちっとも怖くない」と子ギツネが母ギツネに伝える場面がある。
これを読んだある子どもが、次のように発言したという。
「たった1回の体験で、人間をいいと決めつけていいのかなぁ」
それを受けた他の子どもが
「やっぱり、親子だね!」
「何で?」と先生。
「だって、母ギツネも1回の体験で、人間を怖いと決めつけたじゃん。」
これらの発言に、担任教師は子どもに脱帽したという。

ちなみにごんぎつねの授業でも、最後の場面で「ごんがかわいそう」という子が多数の中、
「兵十がかわいそうだ」と発言する子ども。
「だって、兵十はもうお礼を言えなくなっちゃったから。」

子どもは、色々な見方をするものである。
教師のように先行知識がないだけに、発想が自由である。
それらの自由さの中から、教師も学んで欲しい。
大体、そういう内容だった。

2011年3月5日土曜日

学びをシェアする

先日、上記タイトルの名前の教育フォーラムに参加してきた。
「学びをシェアする」の学びをシェアしようと思う。
基調講演で、講師の鹿毛雅治氏(慶應義塾大学教授)が次のようなことを言っていた。
「メルマガやブログのような手段は、発信、受信ではあるが、シェア(共有)ではない」
確かに。
シェアというなら、相互関係が必要である。
というわけで、今回の報告も「発信」ではあるが「シェア」ではない。
学級通信も然り。
そして、普段の授業もそうなっているのではないか。
そういう提案だった。
次号から紹介していく。

2011年3月4日金曜日

波の立つ場所へ動く

サーフィンの話でもう一つ。
今日、いつもの場所で波が立たなくても、探せば他に波が立つ場所がある。
逆に言えば、一回いい波が来たからといって、毎日同じ場所に入っても駄目なのである。
熱心なサーファーは勉強し、波の予測を立て、風を読んでその場へ向かう。
「いい波立ってるらしい」という情報が流れると、そこにあっという間に人が集まる。
大混雑である。
本当に上手な人しか乗れない。
それが嫌ならば、人があつまる前の早朝に先に入るしかない。

何が言いたいかというと、勉強して先に動こうということである。
二十代はチャレンジが許される。
失敗しても若気の至りで笑い飛ばしてもらえる面も多い。
三十代、四十代になるにつれ、失敗が難しくなる。
新しいことにチャレンジしにくくなる。
だったら、人が少ない内に先に海に入って、せっせとパドリングした方がいい。
今が、人生で一番若い時である。
20代後半はもとより、二十歳の大学生や高校生にきいても、「もういい歳だから」と答える。

始めるなら今しかない。
これから多くの人にとって新しいスタートの時期が来る。
チャンスをしっかり活かしたい。

2011年3月3日木曜日

波を読む

気分が乗らない時と、乗る時がある。
何をやってもダメだと思う時、何をやってもうまくやれそうだと思う時。
人間だったら、誰しもそういう波がある。
大切なのは、その波を読むことだと思う。

サーフィンなら、小さな波に一生懸命パドリング(水をかいて進むこと)しても、乗ることはできない。
もがくばかりで、必要以上に疲れる。
日が悪いか、場所が悪いのである。
日を改めた方がよい。
諦めて海から出る。
逆に、良い波が来た時、「どうしよっかなー」などと言っていると、あっという間に逃す。
または、他の人に乗られてしまう。
よく、「チャンスの女神は前髪しかない」という。
後ろからはつかめないそうだ。

ダメな時は割り切り、機を見て行動することが、大切である。

2011年3月2日水曜日

学力検査の利用

学力検査があると、子どもに必ずきくことがある。
「学力検査、好き?」
大抵、嫌いと答える。
中に数名、面白いと答える子どももいる。

私は、何でもプラスにとらえたいので、次のように話す。
「サッカーでも何でも、試合があるから、練習をがんばれる。
ピアノなら発表会があるから、練習をがんばれる。
テストがあるから、勉強をがんばれるのではないか。」
努力の成果を発表する場は、大切だ。
がんばったのに試す場がないのは、やり甲斐がない。
だから、これからずっと続く様々なテストも、前向きに捉えて欲しい。

テストは、ゲーム。
脳トレなら、一生懸命高得点を目指すだろう。
時に高得点目指してがんばるのも、楽しいことである。
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