2022年4月30日土曜日

聞く力をつけるために教えない

 「聞く」に関連して、教えるということについて。


本人が考えれば辿り着けることは、教えない方がいい。

これが基本である。


よく読めばわかることは、教えない方がいい。

これが基本である。


つまり、よく聞くことは大切だが、自分で考えてわかる方が上策である。


一方、聞くことは学力の根本でもある。

聞くことで、何をすべきかわかる。


大切なことを一つ伝えたら、後は活動へ移る。

長々と聞かせても無駄である。

聞いたことについて、本人がよく考え、使いこなせるようになる方にシフトした方がよい。


これは子どもに限らずだが、よく考えずにやたらとすぐに尋ねてしまう傾向がある。

その方が、楽だからである。


質問する力も大切だが、よく考えた上でする質問でないと、結局は本人にとってもマイナスである。

(これは、日頃から大切と伝えている「助けて力」とは根本的に違う。

「助けて力」は、自分ではできないことに困った際に使うべき力である。)


例えば私の学級では、毎年「自力でわかるようなことは質問しない」と4月の段階で予め指導してある。

自分で読まなくなり、結果的に子どもにとってマイナスになるからである。


だからこそ、人が話している時は真剣に聞くことを指導する。


個人的に自分が聞いていなかっただけのことを、全体の進行をしている人に対して思い付くまま質問することは、進行の妨げである。

迷惑行為である。

一生懸命に聞いている人(=前向きで真剣で真面目な人)の集中力を阻害することになる。


聞いたり読んだりして、自分でわかる

↓×

周りの仲間を見てわかる

↓×

周りの仲間にきいてわかる

↓×

先生などの大人にきいてわかる


というステップで、初めて質問にいたる、と教える。

自分で少し努力すればわかることをやたらに質問するというのは、望ましくない行為である。

(自己有用感を求めている人には歓迎される。

また例外として、1年生の最初の時期は、ただ単に先生と関わりたいだけなので、その欲求はある程度満たす必要がある。)


まして、全体に対して話している人にストップをかけてどうでもいいことを尋ねるというのは、言語道断のマナー違反である。


要するに、聞く力をつけるにも、読む力をつけるにも、教えないことである。

常日頃より話を最後まで聞き、粘り強く読み直す習慣を身に付けるように指導し、やたらと教えてあげないことである。

懇切丁寧に教えてあげる行為が、学力を総合的に下げる原因となっている可能性が高い。


教師の仕事は、教えることである。

だがその本質は、子どもに力がつくことである。

一生懸命教えたつもりで力がついていないのでは、本末転倒である。


教えて力をつけたいからこそ、やたらに教えない。

これは、結構な恐怖である。

勇気と根気と我慢のいる行為であるが、教え導く立場にある全ての人に必要な姿勢である。

2022年4月23日土曜日

聞けないは欲求不満の表れ

「聞けない」について。


話を聞かないで、自分の思いを一方的に好き勝手に喋る。

人間関係で問題を起こす大きな要因である。


大人でも子どもでも見られる。

なぜなのか。


それが、欲求を満たす行為だからである。

社会的承認、関わりの欲求である。


一方で、聞く方は、忍耐を要する。

他人の欲求を満たすために聞いていることもある。

「興味ある楽しい話を聞いている」という幸せな状態を除き、基本忍耐である。


欲求をきちんと満たすことは大切である。

特に、生理的欲求の類は最優先事項である。


トイレに行きたいのを我慢する理由などない。

空腹を我慢する理由もない。


我慢を検討すべきは、他人に悪影響を与える場合のみである。


自分がトイレに行って、嫌な思いをする人はいない。

自分が好きなものを食べて、嫌な思いをする人もいない。


一方で、好き勝手に喋るという行為に関しては、聞き手がいる以上、嫌な思いをする人も出る。

これは、コントロールが必要になる。


食べるということに関しても、人を押しのけて奪うような場合は、コントロールが必要になる。


要は、他者との関わりが全てである。


聞けない、勝手に喋って騒がしい問題を多く抱える場合、この「他者を押しのける」という行為が随所に見られる。

他者を尊重する視点がないという根本・本質がある故に、聞けないという現象が起きているとみなす。


何かを取りに行く状況の時、我先にと群がる。

靴箱では人を押しのける。

列に割り込み、順番に並べない。

プリント等が足りないとわかった時は、自分の分を確保し、あとは知らない。

モノを好き勝手に置き、散らかっていても平気。


とにかく、他者を困らせて自分優先な状態である。

「我」が拡大している状態である。


何でもかんでも我慢が大切という訳ではない。

自分で満たすべき欲求は満たすことが、自分自身の適切なコントロールにつながる。


眠いのなら寝ればいい。

勝手に無理して起きているから、不機嫌になって周りに迷惑をもたらす。


身体が要求する、本当に食べたいものをきちんと食べればいい。

お腹が空いているから、イライラして周りに迷惑をもたらす。


自分で満たせる欲求は満たしている上で、我慢の力もつく。


他人でないと満たせないと思っている部分がある。

愛情の欲求や承認欲求がそれである。

これも本当は自分自身でしか満たせないものであるが、先に他人に満たしてもらわないと、やり方がわからない。

優しさの示し方は、周囲の大人たち、特に多くの場合は親が示してくれて初めて知るものだからである。


要は、聞けないという行為は、欲求不満の総合的な表れではないか。

聞けないことそのものをどうこうしようとしても、なかなか上手くいかないというのが、長年やっていての実感である。

2022年4月17日日曜日

「話を聞く」は前提だが

 話を聞くことについて。


前号では、道徳を例に価値観を押し付けないが、前提をおさえるという話を書いた。


人の話は聞くものである。

これは前提。


ただし、聞いたことをすべて素直に受け容れるべきということではない。

これが価値観の自由。


究極のところ、前提すらも絶対的な正解ではない。

前提は多くの場合、自分の育った国の文化によって作られる。

世界基準で見た時、その常識的絶対解は、不都合なものの可能性もある。


例えば、他人との待ち合わせ時刻に遅刻してはいけない。

これは前提。

ただし、これは国によって大分程度の差の大きい前提である。


かなり時間に対しての概念が寛容な国もある。

待ち合わせの1時間遅れでやってきて、笑顔で「お待たせ」という国だってある。

こちらが怒っても「何が問題なの?」と不思議がられる羽目になる。


では、日本の子どもたちにそのように教育をしていいかというと、これは不都合が生じる。

日本の企業や一般社会には、時刻にきっちりしているものが多い。

(少なくとも、現在の鉄道運営関係の仕事に就くのが難しくなるのは間違いない。)

常識的に、時間は守るべきというのが日本の一般社会の大前提にある。


常識とは「common sense」であり、直訳すれば一般感覚である。

多くの人が共通でもつ一般的知識である。


日本で電車が少し遅延しただけで文句が噴出するのは、「電車は時刻通りに来る」という常識があるためである。

それが前提になければ、文句を言おうという感情自体が湧いてこない。


そして常識に絶対は存在せず、常に相対的なものである。

ある時期を境に、地球を中心に回っていたはずの太陽に対し、逆に地球が太陽を中心に回りだすようなことも起きる。

月に行きたいと思った人が非常識と馬鹿にされていたのに、今ではそれは常識的な考えとみられるようなことも起きる。


だから、絶対解は存在しないという大前提があるものの、とりあえず前提となる相対的な解としての道徳がその時代に決定している。

常識は文化的な知識であり、それは教えないと決して知り得ないものである。

そうすると、道徳の授業で何をすればいいのかわかる。


仮にだが、自分がブラジル育ちで日本に来て教師になったとする。

「別に時間にルーズでもゆったり生きるのがいい」という価値観をもっているとする。

これ自体に何ら問題はない。

ただそうであっても、子どもに基本的生活習慣を身に付けさせる上で「時間を守る」と教えるのが職務上の使命である。


その前提があった上で、もし相手との時間を守れなかった時にどうすべきか、初めて考えられる。

「素直にひたすら謝る」という選択肢もあるし、「相手に事情を理解してもらうよう努める」という選択肢もある。

そこは価値観の違いがあっていいところである。


ここに「時間を守る」という前提がないと、先の「何で怒ってるの?」という反応になってしまい、人間関係に支障をきたす。

前提があれば「遅れてしまったのは申し訳ない。ただ知って欲しいのが・・・」という話になる。

道徳教育において教える前提は、社会全般における円滑な人間関係の前提である。

(無人島で自給自足して暮らすのであれば、全く不要の知識である。)


だから、宗教が根付いている世界の国々では、道徳の授業がない代わりに、宗教教育や公民教育等が実施される。

前提となる常識(一般知識)は、学校で教えずとももっているからである。

例えば、神の教え、意志に反するものはいけないという常識がある。


日本では、学校がその常識的な面を教育する役割を担う。

「なぜ人に親切にするのか、できない時をどう考えるか」

「なぜ誠実であるべきか、相手が不誠実な対応をした時にどう考えるか」

「なぜ差別がいけないのか、いけないことなのになぜ根強く存在するのか」

といったことを、一つずつ丁寧に扱っているといえる。

(もちろん、先に家庭教育があってこそより有効に機能する。)


そのように考えると「話を聞く」というのは、子どもに身に付けさせたい前提の姿勢といえる。

これは取りも直さず「人を大切にする」ということと同義である。

「聞く」という主に国語科における技能面と同時に、道徳的な面を併せもつ。


基本姿勢として、誰かが話している時は「聞こう」と思えるようになることが理想であり、それが教育の方向である。

では、そう思えない子ども、そうしようとしない子どもに対し、どうアプローチすべきか。


つまりは、前提が抜けている子どもたちへの教育である。

ここに苦戦している現状が、全国の教室に散見される。

ここについて、次号以降も考えていく。

2022年4月9日土曜日

価値観は押し付けないが大前提はおさえるべし

 前号で「言うことを聞かない」ということについて書いた。

相手が話を聞いてくれるかどうかは、完全に相手側に主導権がある。

こちらがどうこうできるものではない。


ただ、これを自分の側に適用していいか、ということである。

つまり、私は人の話を聞かなくていいのか、ということである。


これは、どう考えてもよろしくない。

相手の言うとおりにする必要はないが、相手が誠実に話をしているなら、こちらは聞くのが筋である。

(それを理解できるかどうかということは、また別問題である。)


つまり、人の話は聞く方がよい、というのがまず大前提にあり、ここは外せない。

前提を疑うという姿勢自体は大事だが、全てを疑っていると何も決められないという面もある。


これは、道徳教育にも通ずる話である。


昨今の道徳教育において強調されているのが

「価値観を押し付けない」

という点である。


つまり、ある出来事についての価値観は、人それぞれだから尊重しようということである。

例えば互いが異なる宗教同士、あるいは無宗教であることも尊重される。

だから、価値観の違いも生じるし、それらは互いの権利を侵害しない範囲で最大限尊重される。

(そしてここが当然になっていないから、戦争や差別といった問題になっている。)


では、道徳授業では、何も教えてはいけないのか。

あるいは、とにかく子どもが自由に考えて発言すればよいのか。


そうではない。


ある教材を扱うにあたり、それぞれ中心となる価値項目がある。

思いやりだったり公正・公平だったりと色々ある。

ここから完全に離れた「話し合い」は、単なる勝手なおしゃべりの場であり、それは授業とはいえない。


ただ、どれをもって「思いやり」があるとするか、あくまでここを押し付けないということである。


前提として「思いやり自体は大切」ということがある。

ここを外してしまうと、訳がわからない道徳授業もどきになる。


例えば、以前にも書いた、「アラジン」の行為をどう見るかという問題である。

主人公がどんなに不遇であろが鮮やかな手口でかっこよく盗もうが、盗みは犯罪である。

ここは絶対に外してはいけない前提の部分である。


ただ、貧しくて盗みをせざるを得ない相手の生活状況というのを、配慮して想像する必要はある。

その場合でも、あくまで大前提は「盗みは犯罪で良くないこと」ということだけは外さない。

前提がおかしいと、全てがおかしくなる。


道徳授業でも、この前提はまずおさえる。

物語の主人公が作中で色々な判断をするが、それが適切かどうかという判断は、個々人の価値観の違いでいいのである。

ただし、前提として例えば「公正・公平は大切」といった部分は共通の土台としておさえた上での話合いである。


「優先席は本当に必要か」ということについて、必要派と不要派に意見が割れていいのである。

ただし、その場合も「困っている人や弱っている人は労わるべき」ということは大前提にあった上である。

「だからこそ優先席が必要」

という意見と、

「だからこそ優先席でなくても譲るべきなのだから不要」

という意見の違い、価値観が自由なのである。


道徳授業で迷路にはまりこむ光景を随所で見るが、この辺りが根本原因でないかと考え、提示してみた。

2022年4月2日土曜日

「言うことを聞かない」を考える

 言うことを聞かない。

時代を問わず、子育てや教育に限らず、広く人々の頭を悩ませている事柄である。


さて、この「言うことを聞かない」だが、辞書では色々な扱いで正式な言葉としてある。


「明鏡ことわざ成句使い方辞典」によると

1 人の言うことを聞き入れようとしない。

2 体などが思うように動かない。


「広辞苑」によると

1 命令に従わない。

2 身体や機械などが思い通りに動かない。


とある。

「聞く」について問題としているのは、明らかに1の方である。

しかしながら、2のように考えているのが問題なのではないかというのが、今回の問題提起である。


2については、明らかに「自分の身体」についての話である。

しかしながら、言うことを聞かせたい相手(子ども)は、他人である。


人の身体を、思い通りに動かせるものなのか。

そして、広辞苑の解説にもあるように、それは自分の身体でないなら「機械」相手とみなしている場合である。


そもそも、他人が自分の「言うことを聞く」のがおかしいという前提をもってみる。

「言うことを言う」のは、自分にできるのである。

しかし、それを「聞く」主体は、相手である。


そう考えると、古今東西問わずに人々を悩ませている原因がわかる。

他人の体は、自分の思い通りには動かない。

自然の摂理であり、普遍の真理である。


「聞き入れるかどうか」ですら、相手の意思決定であり、こちらにはどうにもできない。


さて、それでも動かしたいという強い欲求にかられると、何をするか。


威圧的態度や怒りといった感情で動かそうとする。

場合によっては集団圧力や哀しみと言った感情で動かそうとすることもある。


要するに、それが出てしまった時点で、教育的には失敗である。

もしそれで動いてしまったら、相手が「モノ化」したと同然である。


怒っても泣いても教育的には負け。

それでも、感情が出てしまうのが人間である。

それは、その手が手っ取り早いからである。

しかし、それは本来、言語が使用できない赤ん坊のための手段である。


感情に頼らない「聞く」ための教育はどうするのかを考えていく。

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