2014年9月30日火曜日

「できない」の源に着目する

子どもの「できない」の原因を考える。

先日、体育の表現運動として、フォークダンスの指導をした。
「ジェンカ」「タタロチカ」といった、キャンプファイヤーでもよく使われる踊りである。
学習指導要領上でも1,2年生の運動の例示として挙げられている。
まあ、言うなれば「簡単な踊り」である。

これが、低学年だと、思いの外うまくできない。
覚えていないだけだと思って、何回かやるが、やはりできない子どもがかなりいる。
原因を見てみると、まず、リズムがとれないのである。

思い返しててみると、音楽の授業でも、2拍のリズム打ちができていなかった。
根本的に、リズム感が十分に身に付いていないのである。
踊りの指導以前の問題である。

もう少し深く突っ込んでいくと、なぜリズム感が身に付いていないのか、ということになる。
最も考えられるのは、単なる経験不足。
これまでにリズムに乗って体を動かすような経験が少なかった可能性が考えられる。

しかし、別のもっと根本的な原因もありうる。
聴覚的な問題かもしれないし、手足の協応動作の問題かもしれない。

とにかくその場合、直接的に踊りを直そうと指導してもダメということである。
根性論でいくと悪化する可能性もある。

同じようなことは、例えば、算数の授業や漢字などにも当てはまる。

長くなるので、次回に続く。

2014年9月27日土曜日

外の視点をいただく

自分では、当たり前のようにやっていて、普通ではないことがある。
誰しもある。
例えば先日、同僚の一人の方は、理科の実験用具を作っていた。
ホームセンターで材料を購入して、トンカンやりながら楽しそうに放課後作っている。
この先生にとっては当たり前の風景である。
しかし私のように図工の苦手な人間には、結構腰が重くなってしまう作業である。

誰しも自分にとっては普通にやっていることがあって、そこが当たり前になっていることがある。
無意識にやっていることは、周りの人に聞かれないと、気付かない。

教室に実習生がいたりすると、新鮮な視点には事欠かない。
色々と質問される。
質問されて、「なるほど、なぜだろう」と新たな視点をもらえる。

先日は、大学生の方々にインタビューのようなものを受けた。
授業で心がけていることなどをきかれた。
尋ねられると、初めて考える。
言われてみると、色々意図しながらやっていることに気付く。

やはり、人様に見てもらったり、聞いてもらったりすることが大切である。
「外の視点」を時々いただくようにしたい。

2014年9月25日木曜日

授業に楽しさは必要か

低学年を持ってから、「楽しい活動」を取り入れる率が高くなった。
途中に作業をはさんだり、笑いを入れたりすることが多い。
無意識だったが、確実に高学年の時より多くなっている。

考えてみると、理由は一つ。
子どもの集中力が続かないからである。

高学年の子どもなら「やるべき理由」があれば動けることが多い。
勉強は必要と思えば、多少の苦があっても頑張ってくれる。
「○○しよう」「○○しない」という指導一つとっても、高学年なら理由の説明が重要である。
事前指導が大きな鍵である。

しかし、低学年は「雰囲気」重視である。
あまり深く考えず、何となく楽しそうならやる傾向がある。
そして、楽しければ延々とやる。
逆に、興味がないと全く動かない。
「やるべきこと」に集中させるために、「楽しい感じ」は大きな力になる。

つまり、楽しさは手段である。
楽しい授業がいいのではなく、楽しいと活動に集中するという効果がねらえる。
そして、授業の本質は学力形成。
「楽しいけれど学力はつかない」「活動あって学び無し」では、目的から外れる。
「楽しくはないが学力がついた、できるようになった」ならば、目的は達成である。
しかし、これは現実的に難しく、長続きしない。
やはり「楽しく力がつく」が理想型である。
一般企業のよく売れている通信教材などは、この辺りの工夫がすごい。
商売として成り立っているだけある。

今の子どもは、一昔前に比べて、集中力がないという。
我慢もきかないという。
確かにそうなのかもしれない。
しかし、そこを責めても、相手は変わってくれない。
授業をする側が工夫をして、授業を変えていく。
解決策は、主体変容に尽きる。

楽しさは、集中力を続かせるための手段である。
一方で楽しさは、「学校に来たい」というエネルギーを生み出す源でもある。
楽しく、学力のつく授業を目指したい。

2014年9月23日火曜日

「やる気スイッチ押してみよう!」

今回は宣伝です。

「やる気スイッチ押してみよう!元気で前向き、頑張るクラスづくり」
飯村友和・松尾英明著 明治図書

とっても売れ行きがよろしいようです。
皆様のお陰です。
ありがとうございます。

教育書が置いてあるような大手書店にはあります。
立ち読みで結構ですのでぜひ一度手にとって読んでみてください。
オンラインで立ち読みもできます。
明治図書オンライン↓
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2014年9月22日月曜日

空気を温めるのは表情

休み明け。
身体が重いのは大人だけではない。
生活リズムが元に戻るまで時間がかかる。
夏休み中に早起きを続けていようが、通常の勤務はやはり圧倒的に疲れる。
子どもも同様である。

しかし、どんより空気で進むのは良くない。

心が重いから体が重いのか。
体が重いから心が重いのか。
心と体はどちらが先かというと、相互関係である。

しかしながら、意思でコントロールできるのは、体の方である。
「ペンフィールドのホムンクルス」というものがある。
大脳の運動野と感覚野のどの部分が体のどこと繋がっているかを図示したものである。
その大部分が、顔、特に表情筋に使われるという。

つまり、表情を変えることで、脳に刺激を与えられる。
良い表情が、良い心理状態を作り出す。
ここを押さえる。

「鏡の法則」で、まずは教師の側が笑顔を心がける。
さらに「笑顔リレー」などの実践で、子どもの表情筋を動かす。
(「ニン!」と言いいながら、笑顔をクラス全員でリレーしていく実践。)
楽しい話で笑わせられたらなおいい。
笑わせること自体は目的ではなく、あくまで手段である。
良い空気作りが、良い授業、良い学級経営につながる。

表情一つ、できるところから心がけたい。

2014年9月19日金曜日

朋あり遠方より来る、また楽しからずや

またメルマガ上と時期がずれてしまうが、夏休み明けの記事。

夏休み明け、2学期初日。
やることはたくさんある。
子どもたちと久しぶりに会う。
何を最も大切にするか。
何にもっとも力を入れるか。

人によって違うが、自分なら「感謝と喜び」を伝えることを最重要視する。

兎にも角にも、重い身体を引きずって学校に来た。
普段の生活がしんどい子ほど、来るだけでもがんばっている。
来て顔を見られただけで、こんなに有難いことはない。
実際は、学校があるから来たに過ぎないだろうが、それでも来たこと自体が素晴らしい。

私の尊敬する野口芳宏先生は、講演をすると冒頭に必ず感謝の念を述べる。
論語の「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」だという。
わざわざ会いに来てくださることほど有難いことはないという。
講演の後に片付けをした後でも、もうその場にいない人への感謝の言葉を延々と口にしている。
本当に嬉しいようである。
「知恩・感恩・謝恩・報恩」の、気付きの力であると思う。

前号で書いたように、宿題忘れもいるかもしれないが、それでもよい。
最悪「宿題をやっていないから休んだ」という事態だって考えられる。

来てくれただけで、花丸。
子どもがいるから「先生」でいられる。

いつでも休み明けは、久しぶりに出会えた感謝と喜びを伝えたい。

2014年9月15日月曜日

夏休みの宿題のねらいは何か

前号の続き。
夏休みの宿題のねらいは何か。

本来は「生活習慣の形成」であると思う。
前号に書いた「ダラダラ防止」である。
これには、日記のような、日々やらないといけない課題が適切である。
毎日コツコツ続けることで、学校がある日に近い理想的な学習習慣をねらう。
(しかし、大抵ねらいが達成されないのも、この課題の持つ問題点である。)

自由研究や工作の場合はどうか。
「長期休みならではの豊かな体験・継続的な活動」
「創造性を育む」
「自由な表現の場」
というあたりでないかと思われる。

本来の目的とは別に、自由研究や工作を「親子のふれあいの場」とも捉えられる。
正直、低学年の子どもが自力で全てやるのは難しい。
「海の生き物を調べたい」となれば、海に連れて行く必要が出る。
写真を撮ったりプリントしたりも手伝う。
まとめ方や書き方も、一緒にアドバイスしながらやる。

本来は「全部自分でやらせればいい」と思うが、理想論であって現実的でない。
授業で算数の問題を解く時と同じである。
自力でどんなに考えたって、わからないものはわからない。
「自律と自立」が基本なので、自力でやれることは極力手を出さないが、やれないことは手伝う。
親と子どもが協力する場となる。

逆に考えると、親が協力できない環境にある子どもには、本当に厳しい課題となる。
どこにも連れて行ってもらえない子どももいるかもしれない。
一緒に課題をやれない家庭もあるかもしれない。
たくましい子どもや要領のいい子どもなら、それでも何とか終わらせるだろう。
可哀想なのは、そうでない子どもたちである。
そういう子どもにとっては、どうしたらいいのかわからないまま、夏休みが終わることとなる。

始業式、夏休みの課題をたくさんの子どもが持ってくる。
中に、忘れる子どももいる。
担任として「忘れました」ならまだしも「やってません」は、「1ヶ月もあったのに!?」と思う。

ここで、一呼吸。
家庭環境に思いを馳せることが一つ。
もう一つは、我が身を振り返ること。
自分自身「夏期休業中にやるべきことは完璧にやれました」と胸をはって言えるか。
自律の力が高い(はずの)大人にだって難しい。

どう対応するか、マニュアルは無い。
ここは子どもによって、多少違いが出る。
ただし芯は「育てる」ことである。

宿題忘れを、予想しておく。
忘れたら、「想定内」の対応。
もし持ってきたら、めちゃくちゃ褒める。
2学期をお互い気持ち良く過ごすために、こんな作戦でいってみた。
(結果、最終的に全員きちんと課題提出が完了し、めでたしめでたし。)

2014年9月13日土曜日

夏休みの宿題は何のため

メルマガからちょっと時期がずれてしまったが、夏休みの自由研究の話。

子どもに宿題として出した方が多いことと思う。
地域の審査会等もあるので、必須課題にしているかもしれない。

この自由研究、実際やってみると、かなり大変である。
1年生などは、字を習いたての状態で、文章を書く経験も少ない。
論文にまとめるというのは、一部の例外を除き、自力では厳しい。
材料集めだけで数日間、作るのも1日がかりかそれ以上である。

選択なのだから、工作にいけばよいものをと思う。
しかし、工作も自力でやるとなると、これまた大変。
工具やら材料やらがたくさん必要になる。
わざわざ手作り風になる「自由研究・工作キット」なるものも販売されているのも頷ける。

そんな世の親子の悲鳴、ニーズに応えて「夏休みの自由研究教室」もたくさんある。

ここで、何のための夏休みの宿題なのか、と考える。
「夏休みにダラダラしないため」という人もいるが、宿題があろうがなかろうがダラダラする人はダラダラする。
その考えなら「ダラダラする子どもを苦しめ、自責の念を負わせるため」の方がまだ真実に近い。

逆に、自律ができる子どもは、課題を自分で見つけて、与えられずともどんどんやる。
大半の子どもは「宿題があるからやる」というのが本音である。

一体、夏休みの宿題の存在意義は、何なのだろうか。
昔からあるので続けているが、これがないと、どんなデメリットがあるのだろうか。
「自由研究・工作」は、なぜ必要なのか。

この辺りを、考えていきたい。
(長くなったので次号へ続く)

2014年9月10日水曜日

切っていいもの、ダメなもの その対策

前号の続き。
休み時間にやる作業をいかに減らすか。
切っていいもの、ダメなものはどれか。

端的に言うと、「子どもの命や安全に関わるかもしれないもの」だけは切れない。
他は、後回しでも大丈夫である。

一つが、連絡帳や「マラソンカード」「プールカード」のチェックである。
保護者からの大切な連絡や、健康状態について書いてあることがある。
「コメントがある場合はこちらへ」などというように、他と区別して回収するなどして能率化を図る。

テストはどうするか。
放課後に全て回せば、とりあえずは解決する。
しかし、忙殺に拍車をかけることになるので、一工夫。
「終わった人から提出」で○つけするのはよくある手法。
漢字テスト程度なら、隣同士で○つけ&回収で、ざっとチェック。
点数の記録もまた時間がかかる。
少し勇気がいるが「点数を記録しない」という手もある。
単元を絞って記録する先生もいる。
「クラスのほぼ全員が100点」のような状態であれば、○つけも記録も楽々である。
つまり、「良い授業をする」ことが、能率化にもつながる。
(そもそも、それができれば苦労ないが。)

宿題も、なかなか切れないので工夫。
自主学習などは、班や隣同士でコメントする。
○つけも答えを掲示したりして、自分達でできるシステムにする。
相互交流にもなる。
また「きちんと見るけど基本的にコメントしない」と宣言しておく手もある。
真の理由をきちんと伝える。
ずばり「休み時間はみんなと話したり遊んだりしたいから」である。
(書くことが早い&得意な人は、本当はコメントも書いた方がいいとは思う。)
どうしてもじっくり見たいものは、子どもに頼んで預からせてもらう。

他にも色々あるが、視点は
A能率化できないか
Bやめられないか(他の時間に移せないか)
の2点。

2学期は、1学期よりも子どもと話をしたい。

2014年9月7日日曜日

子どもの話を聞くための余裕を作るには

前号の続き。
休み時間に、子どもの話を聞くための余裕を作るにはどうするかというテーマ。

休み時間に、「子どもとふれあうこと」以上に大切な仕事があるのか。
これは本当は「ない」のだが、現実として「やるべきこと」は厳然と存在する。
重要度はそこそこでも、緊急度が高い(毎日が〆切)という仕事が多い。

具体的に、細切れの休み時間中にやらねばならないことをいくつか例に挙げると
1テスト等の丸つけ
2連絡帳を見る
3宿題に目を通してコメントする
4次の授業の準備

ざっと見ても、これぐらいは日常的にある。
これに「提出物チェック&回収」や「探し物」などのようなものが加わる。
更に、生徒指導のような突発的トラブルが不定期にでも入るとなると、もうお手上げ状態である。
「話を聞く」どころか、宿題も見られず返却というような状態に陥る。

対策をうたない限り、同じ状態が繰り返される。
気合いや心がけの問題ではないからである。

対策を、大きく二種類で考える。

一つは、A「能率を上げる」。
つまり、スピードアップを図る。

もう一つは、B「やめる」。
つまり、そのものをなくすか、他の時間に回す。

どちらを先に考えるべきか。
真面目で一直線な人は、Aを選択して頑張る。
やれる能力があるなら、その方がいい。
頑張れる人も多い。

しかし私のように、いつも人よりちょっと遅れがちになる人なら、先に考えるべきは、Bである。
やらなくていいものは、やらない。
文字通り「決断」する。
その上で、どうしてもやめられないものに厳選し、Aの能率化を図る。

先の例で考える。
絶対切れないものはどれか。
また、ご自身の休み時間であれば、何がどうできるか。
次号でまた考えていく。

2014年9月5日金曜日

聞き方の「あいうえお」とは言うが

やる気スイッチセミナーでも話した、「聞く」ということについて。

ある指導の一場面。

話を聞くときは、「あいうえお」を意識しましょう。
あいての目を見て
いっしょうけんめい
うなずきながら
えがおで
おもしろがって
・・・・・・

実際に自分もそう指導する。
しかしこれが、自分自身できているかというと、かなり怪しい。
いや、正直に言うと、できていない。

どれができていないかというと、どれもできていないことがある。
どういう状況かというと、余裕のない時である。
具体的に言うと
・テストの丸つけ中
・連絡帳を見ている時
・宿題のコメント中
・探し物
といった作業中が主である。
制限時間があるので、急がざるを得なくなる。
作業を中断しないと、子どもの話を「あいうえお」で聞くことができない。
一言で言うと「余裕」が全てである。

対子どもだけでなく、職員室でも同様のことが起きる。
特に朝が要注意である。
朝の準備時は、みんな忙しい。
忙しいところへ、放課後顔を合わせられなかった人から「ちょっといいですか?」というのも頻繁に起きる。
同僚へのあいさつすら顔を上げないという事態になりかねない。
かなり意識しても、「あいうえお」が難しい。
やはり、「余裕」が全てである。

余裕は、自然発生したり、気合いや心がけだけで生まれたりはしない。
やるべき作業が消える訳ではないからである。
話を聞くための余裕を生むにはどうするか、きちんと考えていく必要がある。

2014年9月3日水曜日

素材研究は授業の「基礎」づくり

先月行った「やる気スイッチセミナー」で、素材研究について扱った。
しかしながら時間が足りず、「詳しくは次回!」ということになってしまった。
(そもそも、前半の「ゲーム」ワークで楽しくなりすぎて時間をオーバーした。
セミナーだけでなく、授業でもよくあるパターンである。)

今回の本の中にも、素材研究の大切さは書いてある。
この大切さは、なかなか伝わりにくい。

そんな折、たまたま関連する記事を見付けた。
大体、次のような内容である。

「オリジナリティ(独創性)の語源は、オリジン(起源)。
つまり、独創性を発揮させるためには、素材そのものを深く理解していること。
何より基礎基本が大切。」

気にしていると「心のフィルタ」に引っかかるものである。

授業で当てはめて考えてみる。

「授業名人」の授業を見る。
実に単純明快で、すぐにでもやれそうである。
実際に自分でもやってみる。
全然うまくいかない。

こういうことはよくある。
授業で見える部分は、いうなれば氷山の一角。
簡単にやっているように見えて、見えない部分がとても大きい。
素材研究の深さが違うのである。

そうすると、対応の厚みが違う。
子どもの言動の「予想外」がぐっと減るので、本当に価値のある発言に気付ける。
また、表面的な理解であることも見抜けるので、浅いと思ったらつっこんだ対応ができる。
わざと間違えるとか、意見が割れる発問をするとか、高度な対応ができる。
それらの発言を、最終的に束ねることもできる。
意見をかき混ぜるのも固めるのも自在にできる。

逆に素材研究が浅いと、「予想外」の発言にひっかき回される。
または、「宝石の原石」の発言の価値に気付けず、捨ててしまう。
本線から全く外れられない、まさに指導案通りの授業にしかならない。
(それにすら至らないことも多い。)

家なら、土台(基礎)。
木なら、根っこ。
何でも、見えない部分が見える部分をがっしり支えている。

素材研究は、授業の「基礎」づくりである。
素晴らしい実践に憧れるなら、見えない泥臭い部分をこそ真似したい。

2014年9月1日月曜日

「必要」か「欲しい」か

前号の続き。
素材研究の大切さについて。

素材研究は、一見余計な作業である。
極端な話、やらなくても授業できる。
教科書と「赤本(指導書)」を見て授業することもできる。
これで指導案を書くこともできる。
ではやらないでよいではないかというと、そうとも言い切れない。

「必要」と「欲しい」は別物である。
読者のみなさんは、どちらが大切だろうか。
どちらに、よりお金や労力をかけるだろうか。

「必要」の方が、上に見える。
しかし、人間にとって、実際は「欲しい」の方が、上位である。

例を挙げると、車好きな人は、車にものすごいお金をかける。
車に興味の無い人にとっては、別にタイヤのホイールが標準だろうがアルミだろうが変わらない気もする。
どちらでも「走る」という必要性からすると、全く同じである。
しかし「欲しい」から、お金をかける。
車好きにとって、標準ホイールのタイヤで走るなど、言語道断なのである。
別の例だと、服を買う時に「あなた同じ物持ってるじゃない」と周りに言われるのも同様。
同じように見えるものでも、やはり違うのである。
よく考えると「必要」はないかもしれないが、「欲しい」ので、お金をかける。
より理想に近づけたいのである。

「必要最低限の授業」であれば、何もしないでできるかもしれない。
しかし、理想を持って授業をする人にとっては、「欲しい姿」がある。
そのために、素材研究である。
授業で実際に使う部分は一部かもしれないが、周辺部分を持って授業に臨める。
そうすれば、指導案の流れと関係ない様々な意見にも対応できる。
授業自体を楽しめる。

少し無理してでも時間をとって、素材研究はしておきたい。
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