2022年12月31日土曜日

数値化される子どもたち

今年、『不親切教師のススメ』の中の「背の順」に関する記事に大きな反響が出た。


プレジデントオンライン記事

なぜ誰もおかしいと気づかないのか…学校で「背の低い順に並ぶのは差別」と主張する現役教員の納得の理由


色んなところで騒がれ、一般の人だけでなく評論家の人も出てきてそれぞれが持論を述べるような事態となった。

結果、テレビ朝日やフジテレビなどでも取り上げられ、議論の対象とされた。

このタイトルにある通り「なぜ誰もおかしいと気付かないのか」という点こそが、今回話題となった一番の理由である。


ずばり、ポイントは「刷り込み」である。

我々は、ごく幼い頃に「普通」とされてきたことに対しては、疑いをもたない。

物心ついてすぐに背の順で並ばされていたのならば、それを「おかしい」と思うこと自体が「おかしい」ことである。


小学校、中学校と進むにつれて、序列化が進む。

その序列化の基礎となるのが、この背の順ではないかというのが『不親切教師のススメ』で指摘する問題点である。


子どもたちは、何かと数値で測られる。

もう、年がら年中何から何まで、数値化されている。


我々大人の身体も、年に一度の健康診断で数値化されたものを提示される。

数字を見て良し悪しを判断することになる。

あるいは、金銭に関するような他の測定指標もある。


いずれにせよ、他人と並べて比較されるのは、多く不快感しかない。

例えば健康診断の結果を提示して、その身長順や体重順等々で毎日事ある毎に並んで歩くように言われることを想像すれば、その不快感は容易に想像できる。

パワハラ以外の何物でもない。


数値化や序列化は、ゲームやスポーツのような競争場面では特に有効であり、有用である。

ゲームは勝敗や記録の比較こそが楽しみの中心に来るからである。

金メダルと銀メダルの価値の差は果てしなく大きい。

勝ちと負けは全く意味が違う。

競争とエンターテインメントの世界である。


つまり、教育の世界に数値化を持ち込めば、必然的に競争と比較による弱肉強食の世界に踏み込むことになる。


子どもたちは、学力が日常的に数値化される。

体力も数値化される。

通知表という形で、業績も数値化される。

日常生活の中でも、あらゆる場面で数値化がなされる。


学校生活には、競争意識を煽るものが溢れている。

数値化や比較というのは、同一の物差し、基準の上に載せてこそ成立する。

ある一定の物差しに載せて「あなたは上であなたはその下」と確定する。

まともな意識のある大人なら、まず拒否するような所業に、子どもたちは日々服従しているのである。


大人が日々背の順に並ばされることはない。

何なら、場所を移動する度に一列に並んで歩かされることもない。

大人の場合だと、「普段から一列に並んで移動する」というのは、囚人や捕虜の状態を連想してしまう。

そもそも、並ぶ必然性という点から疑うポイントである。


恐らく、子どもを並んで歩かせた方が、都合がいいのである。

管理しやすいし、時間の関係もある。

つまりは、大人の都合である。

自由な子どもたちを信用しても、思うように移動してくれないからである。


これは、鶏が先か卵が先かという話でもある。

信用していないからいつまでもできるようにならないのか、できないから信用して任せられないのか。

恐らく両方が真実だが、少なくとも何でも任せない内はずっとできないということは間違いない。


学校に通っている内に、数値化と序列化と管理に慣れる。

学校が、そんな場であっていいのかという問題提起である。


たかが背の順と侮ることなかれ。

様々な「正論」が出ているが、差別的な不合理という点を解決するものは見当たらない。

何より、これまでとても嫌な思いをしてきた人たちがかなりの数いるという事実は重く、ここはもう変えようがない。

一番前で辛い思いをする子もいれば、逆の場で辛い思いをする子もいる。

そして何より、教育の場において身体に関することで序列化し並べること自体が、不快である。


学校の人権意識の低さや非常識は、こういったところから梃入れしていくべきではないか。

不親切教師のススメ』に、そのヒントを山ほど盛り込んだので、参考にされたい。

2022年12月24日土曜日

完璧な教師をススメない理由

 毎年、学級づくりをしていると、大抵、思い通りにいかない。

授業も、思い通りにいかない。


なぜなのか。

ずばり、自分のやり方が、完璧ではないからである。

(平たく言うと、色々と下手なのである。)

自分自身が完璧だったら、全て思い通り、予定通りにいくはずなのである。


よって、私の真似を誰かが完璧にやったとしても、思い通りにはいかない。

本人だって、大抵は理論通り、思い通りになんていってないからである。

それが上手くいく時もあれば、そうでない時もあるというのが事実である。

本に書いてあることだって、毎年100%実施されているはずがない。


そんなことができていたら、結果的に恐ろしいことになるからである。

なぜか。


もしも、私が完璧な指導ができる人間だったとする。

そうなれば、私の思い通りの「完璧な子ども」が育つことになり、周りの教室にもそれを実施させることができる。

そうなれば、私の理想の外にいる子どもたちは、全て排除されることになる。

つまり出来上がるのは、規格通りの完璧で、単一な工業製品のような子どもたちである。


そんなことが実現したら、恐ろしいことである。

学校は多様な人間が共に育つ教育の場であり、単一の規格品を作る工場ではない。


これは斎藤一人さんの言葉だが、人間は誰しも「しっかり」なんてしていない。

「うっかり」している生きものである。


どうせ、うっかりしている人間が教えているのである。

大したことは教えていない。

全部聞いていなくても、実はどうってことはない。

ただ、時々役立つことやいいことを言うことがあるので、それを聞き逃さないようにすればいいのである。


不親切教師のススメ』には、こういった思想が根底にある。

申し訳ないが、自分は子どもたちにとっての「正解」をもっていないのである。

その子どもなりの「正解」を探求していく旅路に、ほんの少し、一時的に同行させてもらっているだけである。


不親切教師には「自分は正しく導けるし、そうせねばならぬのだ」というプレッシャーがない。

子どもにも「自分は色々と抜けてるから、全部信用してはいけない」「だから助けてね」と伝えてある。

子どもの自力に、かなり頼っているのである。


こういうことを聞くと「教師のくせにだらしない」とお叱りを受けそうである。

しかし、先に述べたように、教師が正しく子どもを導けるなんて、それ自体が恐ろしい思想なのである。

うっかりな人間が、正しい道なぞ示せる訳はない。


大体、たかが10年後に、どんな仕事が残っていて、どんな新たな仕事が生まれているかすらも、予想できないのである。

そんな人間に子どもの将来の保証なぞできるはずがない。

できることと言えば、今自分がこれが大切だと思うことを、今できる全力で伝えることぐらいである。

信じるか信じないかも本人次第で、なぜならば、その人生を生きるのは、結局子ども自身だからである。


不親切教師のススメ』は、過激なことが書いてあると評されることがあるかもしれない。

しかしながら、その根底にあるのは、子ども自身のもつ成長の種への信頼である。

大人が手出し口出しするのはごく最小限にとどめ、子ども自身の人生を尊重したいという思想なのである。


だから、やることが子どもにとっていいかどうかわからないようなことは、とりあえずやらない。

例えばドリルの○つけとか、作文の細かい添削とか、学級における様々なお世話とかである。

理由もわからず無思考に言うことをきかせることとか、序列をつけることとかも、余計なこととしか思えない。


これは確実にやらないと困る、知らないだろうということは、やる。

学び方とか、今それをされてどんな気持ちになったかとか、最低限の安全に関することとかである。


そういう視点で、もう一度『不親切教師のススメ』を再読していただきたい。

新たな発見があるかもしれない。

2022年12月17日土曜日

「自分の子ども時代と同じ」は危険信号

 最近、国語の先生の話を伺う機会が多い。

自分は特別活動を中心に据えているが、国語は必須である。


国語の指導は大きく変わってきている。

例えば、次の事柄について、どのように指導をしているか。


・漢字

・音読

・読解

・作文

・ノート

・話し方と聞き方


これらの事柄について、「自分の子ども時代と同じ」というものがあったら、それが危険信号である。

自分の子ども時代と現代が同じ指導でいいはずがないである。


一人一台端末の時代、子どもが触れる情報量は、一昔前と桁違いである。

必要なスキルも、質が違う。

十年一日のようになっている学校教育は、疑うポイントだらけである。


これは、昔の実践の否定をしている訳ではない。

三十年前のパソコンは、三十年前には輝く最新型だったのである。

それを今も使うべきか、という話である。


個人的にずっとガラケーを使用していても全く構わないのである。

ただ、ガラケーが現代のスタンダードだと子どもに教えるのは、明らかな虚偽である。

そこは、本当のことを教える必要がある。


学校は、本当のことを教えているか。

「将来」ということを口にする時、それは本当か。

未来が、せめて現代が見えている上で、子どもに語っているか。


「自分の子ども時代と同じ」は、ノスタルジックな良さはあるが、非現実的である。

「これが正しい」と思い込もうと、自分を騙していないか、自問自答して、疑ってみる必要がある。

2022年12月10日土曜日

流水の清濁はその源にあり

 先日「モラロジー」の学習会に参加してきた。

モラロジーとは、「道徳科学」であり、法学博士・廣池千九郎氏の創設した総合人間学である。


そこで三人の先生の話を伺ったところ、全ての話が繋がった。


野口芳宏先生から「孝」の話があった。

「孝」の部首はどちらかと問われる。

A 老いがしら

B 子


これは、何とBである。

親孝行の中心にいるのは、される親だろうと思うが、「子どもがさせて頂く」のが孝である。


次に、会場の校長先生からのお話があった。


教員という立場の「権力」をふるえば、反抗する相手との争いになるという。

人間は、権力をふりかざされると、反抗したくなる。

これは、一昔前に学校が荒れに荒れた時期の構造であり、暴走族と警察との争いの構図でもある。

立場ではなく、人間性からの真の権威が滲み出ていて「この人の言うことには従いたい」と思えるかどうかである。


最後に、地元の開業医の先生のお話があった。


若い頃、酔った勢いで「うちのスタッフは使えない」と、モラロジーのとある方にこぼした。

するとその方は「流水の清濁はその源にあり」(『貞観政要』の言葉)という趣旨のことをさらりと述べられたという。


川の源、即ち、病院の院長は誰かということを、やんわりと、しかし厳しく諭されたとのことである。


これら3つの話は、全て教師にあてはまる。


まず、「孝」の話。

私はここから「教」の字を連想した。

「孝」をもって「むちをふるう」のである。(旁のぼくにょうの意は鞭である。)

教えるという行為には、実はそれを「させて頂いている」という気持ちが必須であると解釈した。

さらには、教わる側にも「孝」の気持ちがベースにないと、その教えも入らないということではないだろうか。


それは即ち、二つ目の「権威と権力」の話にもつながる。

教える側がどういう人間だと、教わる側がどういう姿勢になるのか。

示唆に富んだ話である。


さらに三つ目が、これらのまとめである。

子どもにああしろこうしろこうなれと言うが、全てそれを発している「源」次第である。

結局、主体変容・率先垂範しかない。


さて、子どもたちに主体性がないとしたら、なぜなのか。

面従腹背しているとしたら、なぜなのか。


今回の話で、特に胸を打った話があった。

ある時、モラロジーの方に講演をしてもらったが、話自体はとてもいいのに、聞く側の態度が大変悪い。

主催者として申し訳ないと思っていたところ、講演者の方が頭を畳にこすりつけるようにして謝ったという。

「自分が至らないばかりに聞いていただけなかった」ということである。


この姿勢を、教える側が、果たしてとれるか。

「流水の清濁はその源にあり」を実践できるか。


子どもを変えようと躍起になっているが、真に問われているところは、ここである。

道徳を子どもに語る前に、己を振り返る必要があると痛感した学びの場だった。

2022年12月3日土曜日

懲罰、叱責、ストレスの効能

夏休みに読書感想文を書かされるのは心の底から大嫌いだ。

しかし、自分が好きに本を読んでその本についての文を書くのは大好きである。

強制されると、魅力が半減どころか、嫌悪に変化するという好例である。


夏休み中には、本の虫とまでは言わないが、時間があるのをいいことに、何十冊と、様々なジャンルの本を読んだ。

以下に、読んだ本の一例を挙げる、


『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』武田 信子 ポプラ新書

『〈叱る依存〉がとまらない』村中直人 紀伊國屋書店

『知的好奇心』波多野誼余夫/稲垣佳世子 著 中公新書

『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版

『死刑について』平野啓一郎 岩波書店


読んだ多くの本に共通しているメッセージがあった。


それは

「他者に苦痛を与えることは有害」

という一点である。


苦痛とは、肉体的、精神的両面を指す。

有害とは、個人的、社会的両面を指す。


苦痛を与えることで、改善をねらう。

しかし、結果はマイナスにしかならない。


一方、有用な苦痛、ストレスは存在ないのか。

これも、実はある。


自ら求める苦痛、ストレス。

自らが求める何かを目指し、頭や体を鍛えるために負荷をかけるようなもの。

これのみが有用である。


同じストレスであっても、他者が強制的に与えるものは、有害でしかないというのが多くの識者の結論である。

実は、何十年も前から今まで一貫して主張されている話なのである。

つまりは、一方で、逆の主張もずっとあるということでもある。


ものを教える立場(子どもから見た権力者の立場)にある、自分の経験則から考える。

やはりこれら「与える苦痛」は、有害という実感がある。

長い目で見て、後悔しか生まない。


「悪さをしたから裁いていい」

「叱らないと子どもがダメになる」

「然るべき報いを」

という考えは、社会全体に根強い。


教員をしていても、まだ幼い子どもの口から

「悪い子はこらしめないと」

というような言葉が出て、ぎょっとすることがある。


わかりやすい「勧善懲悪」のアニメや物語に囲まれているのだから、当然そうなる。

周囲の大人の「観」の影響は大きい。

まさに、マルトリートメントである。


SNSやネット上が「公開処刑場」と化している。

善男善女による「正義」の鉄槌が下され炎上する現代に、歯止めをきかせるにはどうするのか。


まずは「他人の悪いことを正そう」という、他者改善の姿勢を改めること。

被害を受けた当事者でない限り、糾弾するようなことはしないこと。


ただしこれは「決して叱ってはいけない」ということではない。

特に自分がその場の責任者である場合、他者に危険が及ぶ時やルールを逸脱した時などは、叱ってストップすることは十分に有り得る。

それは仕事であり、個人的な好き嫌いの問題とは一線を画す。

警察が違反の切符を切るのと原則は一緒である。


教室内であっても、この辺りから考えていくと良いのではないかという提案である。

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