2020年7月30日木曜日

教師の職務は好悪を越えて

「食べ物を好き嫌いしてはいけません。」
子どもの頃、そういうことを言われて育ってきた人も結構多いのではないかと思う。

これは食べ物に始まり、他のことにも適用される。

しかし、人間というのは、本来好き嫌いがあって然るべきものである。
嫌いなものを無理に好きと言うようになるのは、それはそれで危ない。

実際は、好きと嫌いの間に「どちらともいえない」というものが無数に存在する。
大好きから大嫌いまでの間は、無限のスペクトラムである。

好き嫌いはあってもいい。(というより、あって当然である。)
しかし、好きなものだけを相手して嫌いなものを一切受け付けない、というのは、対応の幅を狭める。
(注:アレルギーは好悪とは全くの別問題なので、ここでは考えない。)

例えば「給食の牛乳は苦手だから飲めない」というのは構わない。
もう、過去に何度も何度も飲んだ上で判断したのだから、間違いなく嫌いなのである。

しかし、それを乳製品全般を一切受け付けない、となるとチャンスを逃す。
乳製品を用いたある料理を「美味しい」と感じるはずが、口に入れないのでわからない。
それは「食わず嫌い」である。
つまり「こういう場合もあるかもしれない」という姿勢が大切である。
極端にいうと、自分がおいしいと感じる牛乳が世の中にあるのかもしれない。

このように考えていくと、「好き嫌いがはっきりしている」というのは、実は「好き嫌いが正確に把握できている」ということである。
そういう人は、実はかなり少ない。
つまり、好きと嫌いとを決めつけない態度をもっているということである。

子どもの「野菜嫌い」などはほとんどがここの判断ミスである。
トマト一つとったって、千差万別である。
水っぽくて味がしないトマトもあれば、信じられないほど甘くて濃厚なトマトもある。
農薬を使って大量生産された野菜があれば、無農薬の有機栽培で育った野菜もある。
「トマト」「きゅうり」「キャベツ」という同じラベルが貼ってあるだけで、全くの別物ということである。

要は、カテゴリー分けが雑になると、好悪の判断も正しくできないということである。
「〇〇の類は受け付けない」は、チャンスを逃すということである。

これは、特に人間関係にも適用される。
「こういうタイプは苦手」と決めつけると、そういう色眼鏡で相手を見てしまう可能性が高い。
実はそうではないのに、苦手な部分の証拠探しをしてしまう。
過去の嫌な経験から「〇〇全般が嫌い」となってしまう人もいるが、もったいないことである。

教師がこの姿勢をもっていると、大変都合が悪い。
好悪関係なく、様々な人間を相手にすることを求められる。
一般の商売と違い「当店に相応しくないお客様はお断りして結構」ということもできない。
全員を伸ばすことが職務上の使命である以上、個人的な好悪は関係ない。

つまり、教師になる人というのは、好き嫌いがあってもいいのだけれど、相手の良い点を見つけられる能力が求められる。
どんな人にも必ず良い点があるということを、嘘偽りなく心から信じられることが求められる。
だから「○○にいいところなんてない」という姿勢の人には、お断り願いたい職業なのである。

この○○に入るものは、特に大変な性質にこそである。
人間、必ず欠点があるので、そこにばかり注目されても、苦しいだけである。
一般的には欠点と言われることすらも受け容れて、良いところを見つける。

好悪を越えて、そのような姿勢がある教師は、輝いて見えるのではないかと思える次第である。

2020年7月28日火曜日

評価を気にする子どもを育てない

まぐまぐニュースでも取り上げられた記事。

いい人に見られたい。
人から良く思われたい。
誰しもが心の底にもってしまう願望である。

どこからこうなってしまうのか。

赤ん坊の頃は、みんないい。
欲求のままに、全てを素直に出している。
相手の都合も関係なく、泣きわめく。
伝えるための言語もなく、それしか生きる術がないからである。
それを受け容れてもらえて、愛情のベースができる。

この赤ん坊の頃に虐待を受けた子どもたちは、この時点で欲求が出せなくなる。
泣いたらひどい目に遭う、あるいは無視されるとなると、泣かなくなる。
自らの欲求を外に出さなくなる。

一生懸命笑いかけても、スマホを見ている親。
やがて、無駄だと学習し、目を合わせなくなる。笑わなくなる。
恐ろしいことである。

さて、さすがにこんなひどい目には遭っていない、という人が大半だろう。
そうなると、幼児期から先の問題である。

親の要望を何でも受け容れてきた子ども。
親の願望、欲望を、自分の願望なのだと刷り込まれてきた子ども。
親に認められたくてがんばり続けた子ども。
この時、親の要望にそぐわないのは「悪い子」である。

果たして、それは子ども自身の願望なのか。
大人に問いかけるなら、自分の願望だと思っているものは、本当に自分の願望なのか。
子ども時代から周囲の評価に踊らされて、他人の価値観を刷り込まれていないか。

私は学校の「評価」に関することに、関心が高い。
拙著『捨てる!仕事術』でも通知表についての項目は力を入れて書いた。
なぜならば、子どもたちは、この評価にとても敏感だからである。

平たく言うと、子どもの学習状況にABCを付けて通知表を渡すこと自体に反対である。
そんなことしなくても、ただでさえ評価する側とされる側という力関係があるのに、それに拍車をかける。
評価を気にして動く人間を育てることは、教育的にマイナスしかないと考える。
だから、どうしてもつけるなら記述欄なぞどうでもいいから、全部評定Aになるようにせよ、と書いたのである。

一方で、指導に対して評価は必要なのである。
つまり、これが良くてこれができていない、ということのラインの明示である。
常時善導を基本とするのだから、基準をもたない子どもにそれを示すことは意味がある。
つまり、評価されるためではなく、子ども自身が評価を利用するためだけに必要なのである。
そして、その基準を示したからには、越えるところまで見届ける必要がある。
つまり、評価した後に評定までつけるなら責任をとってAをつけよ、ということである。

自分の評価が常に数値で示され、それに一喜一憂する世界。
周りもそれに喜んだり落胆したりする。
できたら良い子、できなかったら悪い子。
これが幸せからほど遠いのは明白である。

学校が、人の評価を気にする土台を作ってしまっていないか。
それは、小学校に限らず、大学まで全ての学校に言えることである。

日本という国が自由になるには、この辺りの教育における意識改革が必要ではないかと考える次第である。

2020年7月26日日曜日

人間を「揃える」ことが苦しみの元凶

今日は雨の休日の思索。
揃えようということの弊害について。

私は、整理整頓が好きな方である。
物がすっきり並んでいるのを見ると、気持ちがいい。
揃えられるものは、適度に気にして揃えるようにしたい。

しかしこれは、あくまで「物」に対する見方であって、「人間」に対してではない。

トラブルが起きるのは大抵、人間に対して「揃えましょう」という時である。
世の中のほとんどすべての争いや憎しみが、この「揃える主義」「みんな同じ」にあるのではないかということである。

具体的に考える。

学校で考えると、例えば「学年で揃えましょう」という時。
これは多くの場合「保護者からのクレーム対応」という意味合いをもつ。
学級のルールでも掲示物でも何でも、要は、揃えておけば、何かと言い訳が立つのである。
(右も左も全く分からない新卒の教諭に基本型を示すという点でのみ、本質的に意味がある。)

さて、揃え始めると、今度は「学習進度が揃ってない」ことにクレームがつく。
個を大切にしていたら、進度が揃う訳がない。
しかし、揃えよという。
そういう訳で、子どもの理解度に関係なく無駄に足踏みしたり無理矢理進めたりするという事態が起きる。

それが進むと、今度は「我が子の学力が揃っていない」ことがクレームになる。
正確に言うと、「揃える」の数値的象徴である「平均」に達していないことへのクレームである。
「学力も揃えてくれ」ということである。
(論理的に考えると、揃った場合にはまた平均値が高くなり、全員が完全に同じ数値になるまで平均以下は存在し続ける。
更に言うと、大体同質になった集団内で数人飛びぬけて数値の高い人がいると、集団の大多数が「平均以下」となる。)

どんな無茶でも「言ったもん勝ち」の社会である。
ここにいちいち対応するから、この傾向がますます加速することになる。
対応しないと「前はこうしてくれたのに」というクレームになる。
「恩恵は権利に変わる」の言葉の通りである。
あらゆる「揃えて!」の無茶な要求に対応し続ける学校の立場が、どんどん弱くなっていく構造である。

翻って保護者の側がなぜこんなにも「みんなと同じ」にこだわるかである。
乳幼児期の「成長発達曲線」への拘りから既にその傾向が見られる。
我が子が発達の平均値から外れていると、不安で仕方がなくなる。
言葉が「遅い」ことも体格が「小さい」ことも、気になって不安が募る。

これら全て、「平均」による比較を基準とした概念である。
なまじインターネットで下手な情報が得られるものだから、その傾向は加速する。

幼稚園や学校に入っても、それが続く。
習い事の量も、周りの子どもと同じかそれ以上でないと、不安で仕方ない。
そして、その不安の犠牲となるのは、常に子どもである。

学校の側は、常に多方面から「揃える」を求められ続ける。
公教育なのだから仕方ないともいえるかもしれないが、全てが違う人間が、揃う訳がない。

教育委員会等の学校訪問でも、この揃えなさい傾向が見られるところもある。
授業の流れの型や全教室の掲示物の位置とか内容まで事細かに指定されることもある。

それをしないと成り立たないと上に思われている集団の側のレベルの低さにも、問題がないとはいえない。
ただ、それに対して声を上げないので、結局は面従腹背ということになる。
(この強制・矯正をなぜか学校現場では、子どもに対してのものと同様の「指導」という用語で呼ぶ。)

また、世の全ての会議での提案は、全員で共通理解をはかって「揃えてください」ということである。
これに全員がそうしたいということはまずなく、強い意見に従って同意するということが大半である。
(世の中の大抵のことは完全トップダウンで決まるのだから、意見をきこうというだけましだとも考えられる。)
「気に入らなければ自ら変えよ。さもなくば従え」である。

話を戻すと、あらゆる集団において、同質であろうとすること、他を同質にしようとすること。
これこそが、全ての害悪の元凶ではないかという考えである。

一番大きな単位だと、国同士の争いである。
宗教・思想を揃えようということである。
土地を揃えようということである。
「正義」の戦争である。

国内を見れば、各都道府県が、ある程度の独立を保って、揃えきっていないのがいいのである。
地域性を無視して、全部東京都のやり方に揃えましょうといったら、無理に決まっている。
(全国学力テストの結果の比較に、無理がある所以でもある。)

小さな単位だと、家庭である。
家庭内という小さな集団内ですら、本来揃えることは難しい。
もし揃っているとしたら、集団内の強い者の思想に合わせている可能性が高い。
子どもが親の「呪い」を受けたまま大人になっていると言われるのも、この辺りが原因である。

最も小さな単位は?
個人である。
自分自身である。
ここの基準にこそ、合わせる必要がある。

個人に基準を合わせたら、論理的に考えて、集団で揃うはずがない。
ただ、集団に属す以上、他に害悪を与えるような傍若無人は歓迎されない。
だから、大枠や方向性だけ決めて、あとはその中で自由という形をとる。
そうすると、個の判断で自由に動けるようになる。

学級づくりのコツはまさにここにある。
大枠だけ決めて、後は自由。
最初の大枠としては「人を傷つけない」、方向性として「毎日成長する」ぐらいざっくりしたものだけでも大丈夫である。
他の諸々の決め事は、あくまで集団の利便性向上のためであり、揃える必要のないものはなるべく揃えないことである。

話を戻すと、人間を揃えようということは、利便性以上に弊害が大きいということである。

他人の生き方まで揃えようという人もいる。
自分を他人の生き方に揃えようという人もいる。
どちらも、苦しいだけである。

物は揃えても、人間は揃えない。
一つの教育の方向性として、最近考えているところである。

2020年7月25日土曜日

ノック型と試合型 

教師が発問をする。
それに子どもが一生懸命答える。
それを周りが聞いている。
また教師が何か返す。
また一人が答える。

このやり方は、野球に例えると、「ノック」に似ている。
コーチが打つのを待つ。
捕るのは常に一人。
9人が一人ずつ捕る間、コーチは9回打つことになる。
最も活動量と時間が多いのは、圧倒的に、コーチである。

野球の練習の場合、これは守備に特化した練習の一部だから、これでいい。
しかし、授業の基本が毎度この方式では、まずい。
そもそも、35人いる学級だと、35回中34回を見ている形になる。
(つまりは、聞く力が最も必要になる。)

そうではなくて、授業は行う方も受ける方も、試合のイメージで臨むべきである。

守備側だとしたら、球が誰に飛んでくるかわからない緊張感。
バッターの打力やランナーの走力に応じて、ポジショニングも考えて常に微調整する。
自分のところに飛んでこなくても、次の、そのまた次をも考えて動く。
仲間がキャッチをミスするかもしれないし、中継にもカバーにも入らないといけない。
守備という一見「受け身」ながら、能動的かつ主体的に動くことが求められる。

授業でも、この姿勢が必要である。
子どもは授業を「受ける」のだが、そこに求められるのは主体性である。

常に自分がゲームの命運を左右しているという意識。
どんな強い球が飛んできても見事に捌いてみせるという気概。
仲間のフォローアップも常に考えている。
チーム全体への自分の貢献を常に考えることで、結果的に自分自身が誰よりも成長していく。
こういう選手が伸びないという可能性を考える方が難しい。

現実は、真逆の様相を呈していないだろうか。

自分は数合わせにいるだけで、勝負に影響はないという完全に受け身の姿勢。
自分のところに球が飛んでくることはないだろうと、ぼーっとしている。
だから、当たり前に捕れるはずの球が飛んで来ても捕れない。
仲間に飛んでいったらラッキー。
ミスしても当然フォローはない。(ひどいとそのミスを馬鹿にしたり罵倒したりする。)
自分だけが良ければいいという考えで、チームへの貢献など頭の片隅にもない。
この選手が伸びる可能性は、まずない。

これが、小学校段階だけでも年間200日近くあって、かつ6年間続くのである。
両者に差がつかない方がおかしい。

教師の立場で言うと、どんな授業をしているかである。
ノック型の授業では、効果は35分の1か子どもによってはそれ以下である。
試合型の授業にしていく必要がある。

子どもの立場で言うと、どんな姿勢で授業を受けているかである。
自分がゲームの命運を左右するという意識で臨んでいない限り、例え教師が試合型の授業をしても、伸びない。

授業は、教師の環境設定と、子ども同士の相互作用によって効果が決まる。
こちらの授業改革も必要だが、同時に子どもの意識改革も必用である。

2020年7月21日火曜日

いい加減考察

大抵の言葉は、定義が一つではなく多様である。
一つの言葉で何通りも解釈できる。
場合によっては、同じ言葉で真逆の意味にとれるものもある。

美しい抽象的な言葉は特に使用に要注意である。
「優しい」「愛」「平和」などはその代表格で、自己中心的な意味で、強い立場のものに都合よく利用されることの方が多い。
(「あなたのため」も同様である。)
「元気」なども、活動的・活発であるというものと、単に粗暴・粗雑であるという場合が混在している。

さて、「いい加減」という言葉がある。
本来は「丁度いい」「ジャスト」という良い意味合いである。
一方で「だらしない」「必要な分に足りていない」という悪い意味もある。

「いい加減オヤジ」キャラで人気の芸能人がいる。
これは、「人気」なのだから、世間に良い意味で迎えられている。
しかし「テキトー」と表記されることからも、このいい加減には、「だらしない」の方のニュアンスも含まれている。
つまり、悪い意味と思ったら、それもいい意味、という複雑な面もある。

「必要悪」という言葉もあるように、善だけが歓迎されるという訳ではないのが真理である。
あまりかっちり四角四面な感じよりも、少しだらしない方が歓迎されるという面も多分にある。

学級経営も、この「いい加減」には考えるべきところがある。
これはいい意味で「丁度いい」頃合いをとれるかどうか、バランスが問われる。
規則ガチガチでも無法地帯状態でもどちらも良くない。
「いい加減」=「丁度いい」具合が求められる。

「荒れる」学級は、どちらかにふれている。
ガチガチすぎて、指導者のもとでのみ正しさが保たれるが、陰では乱れ放題になるパターン。
ルールも何もなくて、声の大きいものが幅を利かせて「自由」を叫び、弱肉強食が通っているパターン。
両者とも、担任は学級が「うまくいってる」と思ってしまっていることがあるのが、病理が何十年でも続く最大の原因である。

「いい加減」の学級は、どう作れるか。
一つのヒントは、流動性である。

船の底には、「バラスト水」と呼ばれる大量の海水が入っている。
その水を出したり入れたりして、バランスを保つ。
空っぽでは転覆するし、多すぎると沈む。
海の状態、荷物の状態によって、臨機応変に海水を出し入れする。

水は、流動的である。
海水だから、量も自在である。

つまり、動きながら変えられるということ。
とりあえずのものを決めて、必要に応じて変化させていく。
つまり、はっきり決まっておらず「いい加減」をキープしていくことになる。
「誰でもどこでもうまくいく」方法がない所以である。

「いい加減」の妙。
学級経営に難しさと面白さがあるのは、この辺りが理由である。

2020年7月18日土曜日

努力しない人は、怠け者か

成功と努力の関係について、最近よく考える。
また「がんばりなさい」「やりなさい」と他人に言われて、本当に能力は伸びるのか、という面も考える。

努力しない人は、怠け者である。
これは、本当か。
一般に明らかに真と思われているものほど、検討の価値がある。

人間というのは、だめだとわかっている方を敢えて選択することがよくある。

食欲や嗜好の類はわかりやすい。
お腹を壊すかもと思って食べてしまって、やっぱりお腹を壊す。
飲み過ぎてはいけないと思って飲み過ぎる。
ダイエット中だから食べてはダメと思うほど食べたくなって、食べる。
身体に悪いとわかっていながら、煙草を吸ってしまう。

ちなみにこれらのだめだとわかっている方を選択する際には、必ずついて回るものがある。
言い訳、理由付けである。
世の中の全てのものには、言い訳と理由をいくらでもつけられる。
これはダメ出ししようとする時も、肯定しようとする時も同じである。

他のことについても、だめだとわかってやってしまうことは数多くある。
運動した方がいいのに、ごろごろしてしまう。
今片づけた方がいいのに、放っておく。
そこにスマホを置いておくとその内落とすかもと思っていると、実際落として画面を割ってしまうとかも、同じである。
(これを「運が悪い」と思ってしまう愚かしさも、人間である。)

これらすべてを包含して「努力不足」「意志が弱い」「だらしない」という言葉で断罪される。
これは、本当か。

検討の上での一つの方向性として、やる気が起きないことは、好きではない可能性がある。
あるいは、意志に反する行動によって起きる未来に対し、本気でないという面がある。
本気で好き、欲しい、あるいは起きて欲しくないことであれば、どんな理由があっても、そちらを選択するはずである。

つまりは、やる気や努力とは、根本は好き嫌いの本気度や、もって生まれた使命の問題ではないかというのが仮説である。
それなのに体と心が拒否するようなことを無理して続けると、よくない反動が来る。

あんなタイトルの本を書いておいてなんだが、特定の〇〇に関するやる気スイッチは、全員にはないのである。
〇〇に入るものが根本的に嫌いな人には、そのスイッチは存在しない。(代わりに、他のスイッチがある。)
もし全員に同じように○○のスイッチがあったら、悲惨である。
嫌いなことにやる気を出してしまうことになり、それこそ人生の地獄行きである。
だから、嫌いなことにやる気が出ないのは、神様からの配慮、優しさである。

あくまで、気が付いたらそれをやっていて、やっていたらやる気が出てきた、というのが正しい順序である。

一方で、好きなことだとやる気が湧くか、楽かというと、必ずしもそうでもない。

成果を挙げない、結果を問わないという条件であれば、ただ漫然と好きなことをやればいいから問題ない。
漫画やゲームにひたすら興じることなどと同じで、それこそは、趣味の領域である。
しかし、多くは、好きなことを仕事にした場合などは特にそうだが、成果を求められる。

プロスポーツ選手はいつでも憧れの職業の上位だが、成果主義の最たる職業である。
楽しいという趣味の領域だけでやれる世界ではない。
プロとして成果を出し続けることを義務づけられると、辛い面が多くなる。
最初は好きで楽しめる面があったからこそ、それでも何とかがんばれてきた、というのが実情だろう。

受験は、その面で意味がある。
望むもの、手に入れたいものに向けて、大変なことに自ら挑戦して壁を乗り越えるという素地を養える。

また受験科目は全てを選ぶことはできないが、これは仕事の場合も同じである。
好きな教科もあれば、嫌いで苦手な教科もあるかもしれない。
しかし、そんなことは自分の都合であり、相手の知ったことではないのである。

話を戻すと、要は本気で好きなこと、欲しいものがあるならば、辛抱を伴う努力もできるということである。
逆に言えば、努力ができないのは、辛抱が足りないのではなく、好きではない、欲しくない可能性が高いということである。
例えば勉強したくない、仕事をしたくないというならば、その先に本当に求めるものがないのではないかということである。

自分がそうしたいのに努力できない、がんばれないということを見つめてみる。
もしかしたら、誰かの価値観を植え付けられているだけで、自分が本当に欲しいものではないのかもしれない。

単なる雑駁な「願い」もある。
願いだと思い込んでいる、偽りの願いである。

「お金持ちになりたい」とか、その代表格である。
実際「1億円がもし手に入ったらどうしますか」
と聞かれると「〇〇に使ったら、あとは貯金」
とか答えてしまう。
そういう人は、実はお金自体は、そんなに欲しくないのである。
お金ではなく、何か別のものが欲しいのである。
(ちなみに「貯金」と答える人が求めているものは、恐らく生活の安定と安心感である。まとめて1億円も必要ない。)
本当に「お金が欲しい」人は、「何十億出してもらって、学校を作りたい」とか、そういう人である。

話を努力と成果に戻す。
やる気が出ない時は、自分を責めないこと。
そんな時こそ自分をいたわり、自分の心と話す時間が必要である。

2020年7月16日木曜日

ソーシャルディスタンスとマナー

ルールとマナーの境目は曖昧である。
ルールのようなマナーもあるし、マナーのようなルールもある。
マナーでありルールでもあるという類のものもある。

色々細かく考えだすと、きりがない。
ずばりこれ、という基準があれば、ぶれない。

「他人に不快な思いをさせない」
これがマナーの原則であり、ルールも本来はここに基づいて作られているはずである。

「他人」がポイントである。
自分ではない。
自分が不快でなくても、相手が不快であればアウトである。

一方、本当にマナー違反かどうかは、自分にとっては自分次第というところもある。
マナーは、文化的な面が多分にあるので、知らない人にとっては当然知らない。
俗に「地方ルール」などと呼ばれる類のものなど、知る由もない。
何なら、エスカレーターに立つのは右か左かのように、場によって真逆だったりする。

相手がマナー違反なことをしていても、それが単に相手が知らないだけで自分が不快でないなら、スルーすればよい。
初めての人や、大事な相手なら、教えてあげればよい。
マナーを知っていることを振りかざすのも、「相手が不快」という基準からすれば、マナー違反である。

感染拡大防止に関することでいえば、そこが肝である。
相手が不快に感じない距離こそが、本来守るべき「ソーシャルディスタンス」である。
根本的には、何m何cmとかの問題ではない。
心配性で距離をとった方がいいと思っている人には、なるべく近付かないことが思いやりである。

つまり、マナーは一人では成立しない。
自分以外のところで成立するといえる。

食事中に発した一言が、人によっては不快になることもある。
あるいは本人としては普通にしゃべっている音量が、人によっては不快になる。
一般受けする普通の音量でも、音に敏感な人にはうるさいし、耳の遠い人にとっては聞こえなくて不快である。

万人共通ではないのが、マナーの難しさである。
つまり、そう考えると、大きな集団を相手にする場合は、ある程度は諦める必要もある。

相手を不快にさせていないか。
そこばかりを軸にして生きるのは苦しいが、社会で生きる上では大切な視点である。

逆に、例えば人の生き方にまで首を突っ込んで勝手に不快になる人まで相手にはできない。
相手もマナー違反ではないか、という視点も同時に大切である。

そのルールは、マナーは必要か。
「不快な人がいないか」という視点で見ると、見えるものがあるかもしれない。

2020年7月14日火曜日

仕事とは、やりたいかではなく役立つか、喜んでもらえるか

学校の当番活動について。

当番活動は、ただ必要だから作るというものではない。
学習指導要領上でも、特別活動の中に明確に位置づけられている。
キャリア教育の一環である。
計画的になされるべきものである。

当番活動は、係活動とは違う。

当番活動は、生活を営む上で必要に応じて分業し、役割をもつという性質のものである。
「ニーズ」の活動である。

係活動は児童の創意工夫に基づき、生活をより良くしようという営みである。
「ウォンツ」の活動である。

他に貢献するという意味では、どちらも共通である。
「ないと困るもの」と「なくても困らないがあると楽しいもの」というような違いがある。

明確な線引きはできないが、例えば「電気係」は、通常当番活動である。
ただこれも、教室の電灯スイッチのオンオフ以上の何か付加価値をつけることができれば、係にできなくはない。
基本的に、何も工夫しなければ、当番活動である。

一方で「新聞係」は否応にも創意工夫が入る。
なくても困らないものだし、読んで楽しんでもらうために工夫するというような性質を自然と帯びる。
よって、当番活動にはなりにくい。

学年や発達段階に応じて、この辺りの線引きは工夫する。
二つを明確に分けて存在させることもあれば、混在させることもある。

要は、この活動によってどんな力を育てているのか、指導者側が意識できていることが大切である。
いずれもキャリア教育の一環であり、社会に出て働く上での基盤を作る重要な教育活動である。

当番や係の活動を決めると、必ず起きるのが、希望人数の偏りである。
その時にしたたとえ話。

通常、レストランに行った時、ハンバーグが食べたいなら、自分で注文してハンバーグが出てくる。
当たり前である。

しかし、社会で働くというのは、ここが違う。
自分はハンバーグを食べたいのに、有無を言わさず天ぷらうどんが出てくるのが社会の仕事である。

ハンバーグしか出てこない仕事を選ぶというのが最善手であるが、そういうものは少ない。
通常、出された天ぷらそばを頂くことになる。

仕事というのは、たくさんの人の分業によって成り立っている。
そうなると、自分の希望するものが回ってこないことの方が圧倒的に多い。
特に大きな会社、組織ほど、そうである。
(はっきりはわからないが、恐らく自営業であっても同じである。)

次は、美容師の方から聞いた話である。
専門学校を出てある大手美容院に勤め始めた新人の女の子がいた。
「これで髪を切る仕事ができる」と思って意気揚々と出勤したが、いきなり切らせてもらえるはずがない。
最初は、掃除からである。
当然、個室のトイレ掃除もあった。
そしてこの人は、掃除をするのが嫌で1日で辞めた。
しかも本人でなく親から「うちの娘は辞めたいと申しております」と連絡があったという。

こういった人を育ててしまったのは、学校であり家庭である。
大いに反省すべきところである。

仕事とは、やりたいかではなく役立つか、喜んでもらえるか。
これに尽きる。

「自分が役立てそうだと思うところへ、移動できる人は移動して結構です。」
じゃんけんなしで決まった。
どんな場であっても、輝く人は輝く。
そういうことを学ぶ場でもある。

「将来働く時に役立つ」という考え方は、教育活動において常に必要な視点である。

2020年7月12日日曜日

「嫌いだけど感謝」は時間をかけて成立する

人格的に成熟してくると、「嫌い」と「感謝」が両立するようになる。
「嫌いだけど感謝している」ということが起きる。
ただ、その瞬間、特に子ども時代は、単に「嫌いだから嫌い」ということしか感じない。

大人になってもこれが感じられない人は、精神年齢が子どものままなのである。
正義と悪をはっきり区別しがちだと、そういう思考に陥りやすい。
「正義のヒーロー対悪の組織」のわかりやすい構図を、素直に受け取ってしまう訳である。

教師の立場として、ここは考えるべきところである。
「好かれたい」という思いが先行してあると、いい仕事ができなくなる。

結果的に好かれるのは結構なのだが、そこを目的にすると、いやらしく、卑屈な感じになる。
あくまでも目的は、いい仕事をすることである。

教師にとってのいい仕事とは、長期的な視点に立って子どもの成長に資するような仕事である。

例えば目先の受験テクニックは短期的には役立つが、長期的な視点で役に立つ類のものではない。
(だからといって不要だという訳でもない。)

私は子どもに漢字一つ教える際にも、そこに附随して他のことを教える。
例えば記憶のメカニズムや、ゴールにたどり着くための思考法、そもそも勉強とは最終的に何のためなのか、などという話である。

なぜかというと、長期的に見て役立つと考えるからである。
漢字の学習自体は、目先のこととして必要だが、もっと長い目で見て他のことを一緒に学んで欲しい訳である。
「今いるものだけさっさと教えて欲しい」というコンビニ的な発想の子どもには煩わしいかもしれないが、そういう子どもにこそ必要である。

そういう風にしていると、一定数には好かれるが、同様に一定数には嫌われる。
「めんどい」「口うるさい」「厳しい」と感じるためである。

それでもいい。
後のことを考えれば、将来的に「嫌いだったけど役に立った」となる日が来る可能性がある。

感謝されたいからする訳ではない。
大人になった時に、役立つと実感できれば、結果的にいい仕事をしたことになるからである。
いい仕事をしたということは、後世の世のため人のために一つ貢献したことになり、自分の生きた証の一つになる。

つまりは、自分自身に対しても、長期的な視点をもつことである。
今短期で楽な道を選ぶと、長期で見て苦しいことになる。
「好かれたい」という思いは、長期的に見て大抵マイナスにつながる。
(本当は行きたくない飲み会やカラオケに参加した時と同じである。その時無理に誘った上司や同僚も、後で恨まれるのである。)

自分自身の学生時代を振り返って、印象に残っている先生を思い返してみる。

一方は、好きだったし、たくさんの学びをくださり、感謝している先生。
文句なしに素晴らしい出会いである。

もう一方は、嫌だったけど、後々の人生に役立つことを叩きこんでくれた先生。
当時は悔しくて陰口も叩いていたが、結局今、確実に生きた学びになっていることを思うと、感謝である。

それ以外は、残念ながら、大して印象にないのである。

印象ランキングとしては
1位 好きな人
2位 嫌いな人
ランク外 どちらでもない人 
という感じである。

どちらでもない人は、多くの人にとって実は「3位」ではなく、「ランク外」なのである。
なぜかというと、人間の記憶力には限界があり、刺激の弱いものは「覚えていないから」である。
これは、職場の人間関係や友人関係、恋愛関係、他のあらゆることに言える大原則である。

「好きだったけど学びがない」という人も、意外と存在しないというのも面白い。
そう考えると「好き」には、一定の妥当性がありそうである。
だからといって他人に無理に好かれようとすると、逆に「ランク外」の可能性が一気に高まるので要注意である。

『嫌われる勇気』という本がベストセラーになったが、納得である。
自分の信念をもって行動し、勇気をもって、嫌われる覚悟をもつこと。
軸を世のため人のためにすることで、教師としての自分が生きやすくなると考えた次第である。

2020年7月10日金曜日

要望をやたらにのまない

前号で、クレームが有難いことを書いた。

しかし、これを勘違いしてはいけない。
理不尽なクレーム、単なるわがままや全ての要望を無条件に受け容れる、ということでは決してない。

教師であれば、常に「どの対応が子どもの長期的な成長のためになるか」を柱に考えればよい。
もう少し大きい視点で言うと、つまり「これは世のため人のためになるか」ということである。

学校でよくありそうな例を挙げる。

「〇〇さんと隣にしないでくれ」という要望を受けたとする。
理由は「うちの子が意地悪されるから」とか「〇年生の時にトラブルがあった」とか色々ある。
(実は単に親同士が仲が悪いだけということもある。)

一番だめな対応は、よく理由もわからないが、言われたままにそのまま要望を受け入れて対応すること。
これで、「何でもとりあえず言えばきく」ということを相手側に学習させることになる。
「この保護者は面倒だから」とか「一人ぐらい例外があっても」と思うと、甘い。
以前にも紹介した「恩恵は権利に変わる」の言葉の通り、特別な対応が、いつの間にか権利化して当然のこととされる。

今は、ラインなどのSNSで、一気に広がる。
裁判の事例と同じで、一つの要望が通ったら、他も通さなければ筋が通らないのである。
特別な事情があって、本当にそれが必要な子どもに対しての特別対応であれば、そのような偽りの噂が広がることもない。

時々「この学校はわがままな親が多い」という教員の嘆きの声をきくが、実は学校がそれを育てていることが多々ある。
保護者と教師で上下関係を作ってしまうからだめなのである。
本来この両者は、共に子どもの成長を願う「同志」「仲間」の関係である。(だからこそ「PTA」と称す。)
確実に子どものためにならないと判断したら、こちらの意思と意図をはっきりと伝えるべきである。
それは、相手の年が上であろうが下であろうが、保護者であろうが同僚であろうが上司であろうが、同様である。

ただ実際の場合、それはほとんどの人ができないと思う。
大抵は、「いざとなったら自らがたたかうことも辞さない」という覚悟と気合いと気概がない。
きっと「学校が」「管理職が・・・」「学年が・・・」などと言って逃げるだろう。
確かに、組織が腰抜けなのかもしれない。
しかしそれでできないなら、つまり、その組織に属する本人も腰抜けの仲間なのである。

子どものため、世のため人のためを考える。
これに尽きる。
それ以外に、教師の存在価値はない。

席が〇〇さんと隣になったら、我が子が困るのだろう。
それはわかる。
しかし、いつまでそれを続けるつもりなのか。
いつ、我が子が成長するための挑戦をさせるつもりなのか。

もっと言うと「クラスを・・・」などという要望も珍しくない。
気持ちはわからないでもないが、果たしてそれが本当に我が子にとっていいことなのか、ということである。
いつまで責任をもって逃げ切れらせてあげられるのかということである。
人生の基本が「逃げ」と「庇護」でいいのかということである。
(時に必要になることも、重々承知である。だから、理由を深く探るべしということである。)

そもそも、社会に出て、自分と合う人ばかりの職場に入る、などという状況が、どこにあるのか。
超意地悪な同僚や先輩、腰抜け上司に仕えることなど、ざらである。
そことたたかえるだけの力、あるいはひらりとかわす力をつけないで、本当にこの社会でやっていけるのか。
職場でも親が守ってあげるつもりなのだろうか。
そんな親のすねかじりの「スネ夫的」な性質の子どもを育てあげて、本人が充実した人生を送れるのか、大いに疑問である。

実はその傾向を育てているのが、学校教育である。
保護者批判のように聞こえるかもしれないが、違う。
これははっきりと、学校批判であり、教師批判である。
教育の専門家は、学校の教師なのである。
現在の教師の国家公務員化の案は追い風だが、それよりもまず教師の側の気概なくして、その地位向上もあり得ない。

一時期「NOと言えない日本人」などと揶揄された頃があった。
今の実感として「NOと言えない学校」からして問題がある。

これら全ての間違いの根源は、自分軸の考えである。
自分が面倒だから、自分を守りたいからNOと言うのではない。
子どものため、世のため人のためにならないから、NOと言う。
逆にそうでなければ、前号のクレームの話同様、すぐに受け容れて迅速に対応すべきである。

子どもため、世のため人のため。
何かを要望された時は、ここを軸に考えると間違いがないように思われる。

2020年7月8日水曜日

有難いクレームとは

以前、メルマガ配信で、ミスをして2号一気に配信してしまったことがある。
(しかも1800号という、節目の記念号である。)
まずこれが申し訳ないことである。

しかし、ミスには質の幅がある。
多くの人に許されるミスと、多くの人に許されないミスがある。

ミスをした日に、他にもミスが見つかることは多い。
その時に新たに発覚したものは、この2号配信ミスとは全く質が違う。

この日、登録されていたとある方から「解除画面に行ったら、解除できず不快」という主旨のメールが来た。
要は、クレームを受けた訳である。

急いで手元のスマホで確認すると、確かに登録画面に行ってしまい、そこにあるはずの解除ボタンがない。
私の記憶が間違っていなければ、以前は確かにこのページで登録&解除ができたはずなのだが、ない。

試しにPCの方でも確認してみると、これはすぐに「登録」と「解除」ボタンがポップアップして出てきた。
つまり、自分が当時作った時にPCで確認したので「これで大丈夫」と十年近く安心していた訳である。

改めて、スマホ版の方もよく見ると、右上の「三」みたいなマークのところをクリックすると、「解除」ボタンが出てきた。
ただこれでは、すぐに見つからないのも無理がない。
これを案内もなしに自力で見つけて解除してくださいとは、確かに不親切である。
これは、私のミスである。

代わりに、今後は、確実にすぐ解除できる別ページのURLを貼り付けることにした。
これで同じように不快な思いをする人をなくせるはずである。

しかしこれは、恐ろしいことである。
指摘される今の今まで、全く気付かなかった。
つまり、これまでの長きに渡り、同じような不快な思いをさせてしまった方が、どれだけいたかわからない。

こちらのミスを指摘されないで、その方々は、離れていってしまった訳である。
実に痛いことである。
長きに渡る痛恨のミスである。

何を最も言いたいかというと、「クレーム」を送ってくださる人は、味方だということである。
何も言わずに解除して去ることもできたのに、改善すべき点を教えてくれているのである。
文字通り「有難い」、滅多にない貴重な存在である。

これは、他のあらゆるクレームに言える。
クレームを避けたくなるのは、図星だからである。
指摘が的確すぎて、逃げられないほどに自分の過ちに向き合うことになるからである。
(これは、単なる無茶な要求とは一線を画す。)

これはビジネス書などでも、常識として知られていることである。
クレームをくださるお客様は、今後のファンになってくれる可能性もある。
クレームをつけるということは、「次」を期待しての行為だからである。

今回の自分の件は、メルマガ解除に関することなので、残念ながらこれには該当しない。
しかしながら、自分のメルマガにとって、今後の大きなプラスになる指摘であることは間違いない。

クレームを受けたら、それは「有難い」こと。
観念的なことではなく、真理である。

2020年7月6日月曜日

学級の雰囲気を一変させるには

「しれっ」とした雰囲気の学級がある。
入った瞬間でわかる。
子どもの目がどろんとしている。
基本的に態度が横柄で、居心地の悪い空気が流れている。

オープンな雰囲気の学級がある。
入った瞬間でわかる。
子どもの顔が明るい。
基本的に人への接し方が丁寧で、かつ人懐っこい。
研修や公開等で初めて訪問する場でも、空気の良さが伝わってくる。

何が違うのか。
子ども個々の質が違うのではない。
集団への安心感の差である。

安心感があると、人間は明るくなる。
学校では暗いのに家ではとても明るいという子どもは、学校は不安で家が安心なのである。
同じ人間なのだが、場によって生じる現象が違うので、性格が異なって見えるということである。

子ども同士、あるいは教師との関係がぎすぎすするのは、安心感の欠如が最も大きな要因である。

ここで勘違いしてしまうのが、「優しい先生」「面白い先生」の方向である。
これは確かに安心感を与える一つの形態なのだが、優しさと面白さが、自分軸によるものだと、結果が変質する。
愛情や信頼感が、頼りなさや優柔不断、だらしなさや卑下に変質する。

先に必要なのは、信頼感である。
昨年度まで、周りと違うといじめられていた、ルールが通らないで苦しい思いをしていた子どもがいる。
この子どもたちが、自分を出しても大丈夫、正しいことをすると認められると感じる必要がある。
それがあれば、子どもたちは安心して過ごすことができ、表情も柔らかくなる。

ここは、リーダー次第である。
最初から素晴らしく出来上がった集団でない限り、リーダーシップをとらないと、ここは自然には出来上がらない。

これは、大人の通う職場でも同じである。
しれっとした雰囲気や、皮肉屋が幅を利かせるような職場は、安心が確保されていないのである。
立場や経験が上の人が威圧的で抑え込んでいたり、逆に無法地帯化していて、常に不安なのである。

リーダーの最初の仕事は、安全・安心の確保。
学級づくりの基本のキである。

2020年7月4日土曜日

学級の状態がわかる3つのポイント

他学級の参観でも何でもそうだが、学級の状態をはかるのにわかりやすい指標がある。

あいさつ。
歌。
掃除。

この3つである。

共通していることは何か。

それは、他者貢献の視点である。

あいさつは、自分のためではない。
元々、敵味方が入り混じる社会で、相手に警戒心を抱かせないために作られたものである。
「私はあなたの敵ではありません」ということを示すためのものである。

つまり、相手のためである。
それが巡り巡って、結果的に自分のためになるというだけである。

あいさつがまともにできない。
なぜなのか。

性格が悪いから。
そんな訳がない。

要は、そういう習慣になっていないからである。
あいさつをしなくても困らない、教えてもらえない環境にいるからである。

実は、掃除と歌と同様に、多くは集団の状態に規定される。
周りがどういう雰囲気、空気なのかが、ここに反映されるのである。

当たり前レベルが低いと、どれもやらない。(やれない。)
あいさつできない。
歌えない。
掃除しない。

ダメな状態の学級がもつ「3ない」である。
この3つができなくて「いい学級」と主張することは、事実上無理である。

これら3つができないのは、自分軸で生きているからである。
自分さえよければいい。
そして、逆に自分がはみ出てはいけない。
危険だからである。
最もつまらない、下らない集団である。

だからといって、あいさつ運動などであいさつを「させて」もダメである。
自然とやれる、やらないと気持ち悪いという状態を作らないといけない。

環境である。
あいさつが当たり前という雰囲気、常識づくりである。

どうやってその環境を作るのか。
それは、人である。

どんな集団にも、優れた人物というのはいる。
誰に対しても笑顔で接し、相手を慮り、自分は大変な役を進んで引き受ける。
このタイプの人物は、集団の状態に関係なく、あいさつもできるし、歌も歌えるし、掃除も真面目に楽しくやれる。
そういう人物(子ども)をまずは見抜き、認め、そこから広げていくことが大切である。

逆に、声が大きく自己主張が強い人物に先に注目してしまうと、自分軸の集団が進む。
(こちらの方が目立つので引っ張られやすく、流されやすい人は要注意である。)
こちらのタイプの人が本当に生きるのは、集団が自分軸でなくなってから、更に殻を破る段階になってからなのである。

周囲を思い遣って、譲ったり黙ったりを子どもが自分でコントロールできる状態を優先していく方が、集団としては確実に伸びる。
担任の仕事としては、まずは安全・安心を作って、互いを思い遣れる環境づくりからである。

あいさつ、歌がまともにできないのは、声を出すのが安心ではないからである。
ここから変えていく必要がある。

掃除がまともにできないのは、自分軸だからである。
無欲の他者貢献の気持ちよさを、学習していく必要がある。

あいさつができるようにしたい。
しかし「AさせたいからAの指導」では、だめである。

本質的に何を指導すべきか。
まずは、安全・安心という状態を、担任自身が集団へ担保する。
そこからすべてはスタートである。

2020年7月2日木曜日

一流の思考と行動様式を真似る

過去に何度か書いている、一流について考えるシリーズ。

当代一流の教師を考える。
人によって思い浮かぶ人は異なるだろう。

私なら、師の野口芳宏先生を考える。
小学校の先生で有名な人は各地にいるが、それらの方々の話からも野口芳宏先生の名前はよく出る。
数十年の長きに渡って人々に認められているという証である。
今を輝く時代の寵児のような人を考えるよりも、間違いがないように思われる。

一流を考える時には一流以外の行動と比較して考えるとわかる。
一流は他とは全く異なる思考回路をもち、異なる行動をとる。

何度も紹介しているが、孔子の言葉、
「君子もとより窮す 小人窮すればここに濫る」
などは、まさにこれを言い表している。
困って乱れてしまっては、普通である。
たとえ困っても乱れないのが、君子、即ち超一流である。

どういう行動様式をとるのかを知ることで、一流の思考に近づけるのではないかと考える次第である。

木更津技法研サークルで、メンバーが侃々諤々の議論を交わす。
そしてああでもないこうでもないと、糸が絡まったようになる。
最後に師の言葉が入るのがだが、これが正に快刀乱麻を断つといった様相である。

例えばかつて、食育とはどうあるべきかという議論がなされた。
食べ残すことへの是非、栄養学、様々な意見が飛び交った。
そこへの見解は「食育は、感謝教育。」この一言で決着がついた。
我が身一つも、授かりものである。
与えられたすべてへの感謝の心をもつことが、食育の本質である。

サークルでは、結構悩みのような愚痴のような話も出る。
しかし、大抵の場合、その悩み自体が枝葉末節である。
「それは間違っている」と言われて、姿勢を正す。
(表現としてはやんわり伝えてくださるが、言葉に芯が感じられるため、しっかりと伝わる。)

本質を見据えた時、自分のなすべきことは、それが子どもを伸ばすことになるかという一点のみである。
相手が誰であろうが、どんな状況であろうが、その本質さえぶれなければ、なすべきことははっきりする。
少なくとも、子どもが悪い、親が悪い、同僚が上司が環境が悪いと言っている間は、一流たり得ない。
(一流ではないからこそ悩むのだから、そこを責めるのも酷である。通常、愚痴ることも必要である。)

ところで、今子どもの学習の後れや課題云々で議論が飛び交う。
野口先生のご自宅に飾ってある次の書の言葉は、ここに光が差すように思えるので紹介する。
特に子どもたちに贈りたい言葉である。

陽光に高低なし 花枝自ずから伸びる

春の温かな日差しは高低関係なく平等に降り注ぐ。
花枝はそれに向かって自ら伸びる。
しかし、植物の側は光を浴びるべく伸びるものもあれば伸びないものもある。

そういう意味の書である。

少なくとも、真っ暗ではなく、光は注いでいる。
受け取るかどうかは、自分で決めて良いのである。
ただ、常に光は降り注いでいるのだから、いつでも伸びることはできるということである。
日本というこの恵まれた環境に生まれてきたのだから、チャンスを生かさない手はないと思う。
最後は、結局自分次第なのだという強い意志をもって生きて欲しい。

一流の思考を身に付ける。
自分が一流でないと自覚しているならば、一流の人に近づくことが一番の近道である。
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