2020年7月16日木曜日

ソーシャルディスタンスとマナー

ルールとマナーの境目は曖昧である。
ルールのようなマナーもあるし、マナーのようなルールもある。
マナーでありルールでもあるという類のものもある。

色々細かく考えだすと、きりがない。
ずばりこれ、という基準があれば、ぶれない。

「他人に不快な思いをさせない」
これがマナーの原則であり、ルールも本来はここに基づいて作られているはずである。

「他人」がポイントである。
自分ではない。
自分が不快でなくても、相手が不快であればアウトである。

一方、本当にマナー違反かどうかは、自分にとっては自分次第というところもある。
マナーは、文化的な面が多分にあるので、知らない人にとっては当然知らない。
俗に「地方ルール」などと呼ばれる類のものなど、知る由もない。
何なら、エスカレーターに立つのは右か左かのように、場によって真逆だったりする。

相手がマナー違反なことをしていても、それが単に相手が知らないだけで自分が不快でないなら、スルーすればよい。
初めての人や、大事な相手なら、教えてあげればよい。
マナーを知っていることを振りかざすのも、「相手が不快」という基準からすれば、マナー違反である。

感染拡大防止に関することでいえば、そこが肝である。
相手が不快に感じない距離こそが、本来守るべき「ソーシャルディスタンス」である。
根本的には、何m何cmとかの問題ではない。
心配性で距離をとった方がいいと思っている人には、なるべく近付かないことが思いやりである。

つまり、マナーは一人では成立しない。
自分以外のところで成立するといえる。

食事中に発した一言が、人によっては不快になることもある。
あるいは本人としては普通にしゃべっている音量が、人によっては不快になる。
一般受けする普通の音量でも、音に敏感な人にはうるさいし、耳の遠い人にとっては聞こえなくて不快である。

万人共通ではないのが、マナーの難しさである。
つまり、そう考えると、大きな集団を相手にする場合は、ある程度は諦める必要もある。

相手を不快にさせていないか。
そこばかりを軸にして生きるのは苦しいが、社会で生きる上では大切な視点である。

逆に、例えば人の生き方にまで首を突っ込んで勝手に不快になる人まで相手にはできない。
相手もマナー違反ではないか、という視点も同時に大切である。

そのルールは、マナーは必要か。
「不快な人がいないか」という視点で見ると、見えるものがあるかもしれない。

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