2020年7月26日日曜日

人間を「揃える」ことが苦しみの元凶

今日は雨の休日の思索。
揃えようということの弊害について。

私は、整理整頓が好きな方である。
物がすっきり並んでいるのを見ると、気持ちがいい。
揃えられるものは、適度に気にして揃えるようにしたい。

しかしこれは、あくまで「物」に対する見方であって、「人間」に対してではない。

トラブルが起きるのは大抵、人間に対して「揃えましょう」という時である。
世の中のほとんどすべての争いや憎しみが、この「揃える主義」「みんな同じ」にあるのではないかということである。

具体的に考える。

学校で考えると、例えば「学年で揃えましょう」という時。
これは多くの場合「保護者からのクレーム対応」という意味合いをもつ。
学級のルールでも掲示物でも何でも、要は、揃えておけば、何かと言い訳が立つのである。
(右も左も全く分からない新卒の教諭に基本型を示すという点でのみ、本質的に意味がある。)

さて、揃え始めると、今度は「学習進度が揃ってない」ことにクレームがつく。
個を大切にしていたら、進度が揃う訳がない。
しかし、揃えよという。
そういう訳で、子どもの理解度に関係なく無駄に足踏みしたり無理矢理進めたりするという事態が起きる。

それが進むと、今度は「我が子の学力が揃っていない」ことがクレームになる。
正確に言うと、「揃える」の数値的象徴である「平均」に達していないことへのクレームである。
「学力も揃えてくれ」ということである。
(論理的に考えると、揃った場合にはまた平均値が高くなり、全員が完全に同じ数値になるまで平均以下は存在し続ける。
更に言うと、大体同質になった集団内で数人飛びぬけて数値の高い人がいると、集団の大多数が「平均以下」となる。)

どんな無茶でも「言ったもん勝ち」の社会である。
ここにいちいち対応するから、この傾向がますます加速することになる。
対応しないと「前はこうしてくれたのに」というクレームになる。
「恩恵は権利に変わる」の言葉の通りである。
あらゆる「揃えて!」の無茶な要求に対応し続ける学校の立場が、どんどん弱くなっていく構造である。

翻って保護者の側がなぜこんなにも「みんなと同じ」にこだわるかである。
乳幼児期の「成長発達曲線」への拘りから既にその傾向が見られる。
我が子が発達の平均値から外れていると、不安で仕方がなくなる。
言葉が「遅い」ことも体格が「小さい」ことも、気になって不安が募る。

これら全て、「平均」による比較を基準とした概念である。
なまじインターネットで下手な情報が得られるものだから、その傾向は加速する。

幼稚園や学校に入っても、それが続く。
習い事の量も、周りの子どもと同じかそれ以上でないと、不安で仕方ない。
そして、その不安の犠牲となるのは、常に子どもである。

学校の側は、常に多方面から「揃える」を求められ続ける。
公教育なのだから仕方ないともいえるかもしれないが、全てが違う人間が、揃う訳がない。

教育委員会等の学校訪問でも、この揃えなさい傾向が見られるところもある。
授業の流れの型や全教室の掲示物の位置とか内容まで事細かに指定されることもある。

それをしないと成り立たないと上に思われている集団の側のレベルの低さにも、問題がないとはいえない。
ただ、それに対して声を上げないので、結局は面従腹背ということになる。
(この強制・矯正をなぜか学校現場では、子どもに対してのものと同様の「指導」という用語で呼ぶ。)

また、世の全ての会議での提案は、全員で共通理解をはかって「揃えてください」ということである。
これに全員がそうしたいということはまずなく、強い意見に従って同意するということが大半である。
(世の中の大抵のことは完全トップダウンで決まるのだから、意見をきこうというだけましだとも考えられる。)
「気に入らなければ自ら変えよ。さもなくば従え」である。

話を戻すと、あらゆる集団において、同質であろうとすること、他を同質にしようとすること。
これこそが、全ての害悪の元凶ではないかという考えである。

一番大きな単位だと、国同士の争いである。
宗教・思想を揃えようということである。
土地を揃えようということである。
「正義」の戦争である。

国内を見れば、各都道府県が、ある程度の独立を保って、揃えきっていないのがいいのである。
地域性を無視して、全部東京都のやり方に揃えましょうといったら、無理に決まっている。
(全国学力テストの結果の比較に、無理がある所以でもある。)

小さな単位だと、家庭である。
家庭内という小さな集団内ですら、本来揃えることは難しい。
もし揃っているとしたら、集団内の強い者の思想に合わせている可能性が高い。
子どもが親の「呪い」を受けたまま大人になっていると言われるのも、この辺りが原因である。

最も小さな単位は?
個人である。
自分自身である。
ここの基準にこそ、合わせる必要がある。

個人に基準を合わせたら、論理的に考えて、集団で揃うはずがない。
ただ、集団に属す以上、他に害悪を与えるような傍若無人は歓迎されない。
だから、大枠や方向性だけ決めて、あとはその中で自由という形をとる。
そうすると、個の判断で自由に動けるようになる。

学級づくりのコツはまさにここにある。
大枠だけ決めて、後は自由。
最初の大枠としては「人を傷つけない」、方向性として「毎日成長する」ぐらいざっくりしたものだけでも大丈夫である。
他の諸々の決め事は、あくまで集団の利便性向上のためであり、揃える必要のないものはなるべく揃えないことである。

話を戻すと、人間を揃えようということは、利便性以上に弊害が大きいということである。

他人の生き方まで揃えようという人もいる。
自分を他人の生き方に揃えようという人もいる。
どちらも、苦しいだけである。

物は揃えても、人間は揃えない。
一つの教育の方向性として、最近考えているところである。

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