2016年7月31日日曜日

道徳的な行動を選択する基準

主体変容・率先垂範。
拙著『やる気スイッチ』でも第一章で取り上げている最重要項目である。
原田隆史先生の「東京教師塾」で学んだことであり、元々は松下幸之助氏の言葉であるという。

ところで、これがなかなかできない。
教科等なら、難しいのはどれか。
運動の苦手な人は体育と答えるかもしれない。
音楽かも図工かも書写かもしれない。
人前で表現するのが苦手な人は、外国語かもしれない。
あるいは、文章を書くのが苦手で国語かもしれない。

私の思うに、主体変容・率先垂範が最も難しいのは、道徳である。
道徳で教える内容ほど、実行が難しいものはない。
むしろ、大人より子どもの方が優れている面もあったりする。
しかも、長年染みついた行動パターンは、なかなか変わらない。

何が道徳的な行動を促すのか。

一つは、必要感であると思う。
それが本当に必要とわかれば、そういう行動を起こすようになる。
例えば挨拶の必要性は、社会に出るまで案外気付かない。
親や教師に守られない一人の人間として社会に出て、上司に叱られたり接客したりする中で、初めて気付く。
挨拶せざるを得ない状況になって、必要感を持つ。(今は、必要感を持たない職種もたくさんある。)
これは、社会性に起因する。

もう一つは、自尊感情であると思う。
そういう行動を選択する自分が好きならば、そういう行動をとる。
これは、一人であってもそういう行動をする。

大きく分けて、基準はこの「社会」と「自分」の二つではないかと思う。
ここを見ないで道徳を説いても伝わらない。
「良さ」だけでは人は動かない。
「悪いこと・ダメなこと」「楽なこと」に自然と流れるのが人間だという視点も必要である。

「感謝」ということ一つ扱うにしても、ここが大切である。
感謝をしなくても生きていける。
だからこそ、感謝という行動の価値付けが必要となる。

価値は、社会にとってと自分にとっての両面で考える。
表面的に道徳を説いても、思う効果は得られないと心得たい。

2016年7月29日金曜日

かかえ込み跳び 運動の系統を考える

かかえ込み跳びの話の続き。

私がこの技を扱う時は、跳び箱は敢えて全て縦置きで行う。
理由は、跳び箱を横置きにすれば一気に難易度が下がるが、それでは「中抜き」という別系統の運動になるからである。
中抜きとは、腕を中心に振り子の原理で越える方法であり、平行棒の運動に近い。
跳び箱の上面が凹型になっている専用の跳び箱があるが、これを使った練習も「中抜き」になる可能性が高い。

一見似ているが別系統の技というのは要注意である。
似ている別系統の練習をすればするほど、本来求める動きと離れていく。
例えば、跳び箱運動の首はね跳びと頭はね跳びは一見そっくりだが、別系統である。

首はね跳びは、しなる動きであり、背骨をバネのように利用して跳ねる。
つま先までの遠心力を利用する、台上前転の発展技である。

一方の頭はね跳びは、ささる動きであり、反発力を得るために背筋を伸ばして背骨を固める必要が出る。
こちらは、倒立や側転に近い。
前方支持回転跳び(いわゆるハンドスプリング跳び)に発展する。

つまり、この二つの技は、高めていくほど、他方の技の動きから離れる。
背骨の動きと働きが、真逆なのである。

かかえ込み跳びの話に戻る。
別に中抜きでもいいという考えもある。
だが、かかえ込み跳びの楽しさの本質は、空中での浮遊感であると捉えている。
一瞬だが、ふわっと全身が浮く。
ここに本能的な「遊び」の楽しさの本質がある。
(ここについてはロジェ・カイヨワの「プレイ論」を参照。)

何をするにも、教師の側がねらいをもって指導することが大切であると思う。

2016年7月25日月曜日

閉脚跳び?かかえ込み跳び?

名称の謎の話。

小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。
かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。
名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。

以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。)
かかえ込み跳びの学習指導要領での名称の表記は以下の通り。
1977年版までは「腕立て閉脚跳び」。
1989年版では「かかえ込み跳び(腕立て閉脚跳び)」。
1998年版では再び「腕立て閉脚跳び」で、3年生のみ「支持でのかかえ込み飛び越し」。
そして現行の2008年版では「かかえ込み跳び」。

つまり、名称が行ったり来たりしているのである。
人によって呼び方が違うのも仕方ない。
当然、教わる子どもの側も呼び方がばらばらである。
親の方も「何、かかえ込み跳びって?」「閉脚跳びでしょ?」となる。
ばらばらである。

理由を知っておくと、つっこまれた際に説明がしやすいと思い、紹介してみた。

2016年7月22日金曜日

インファイター or アウトファイター

教育の手法の話。

子どもに色々な個性があるように、教師にも色々な個性がある。
特に子どもとの距離感の持ち方については、人それぞれである。

ボクシングのファイティングスタイルにインファイターとアウトファイターがある。
前者は、相手との距離をぴったり詰めて、密着して打ち合いに持ち込む。
肉を切らせて骨を断つスタイルである。
後者は、相手との距離を一定に保ち、脚をつかって近付かせないようにうつ。
蝶のように舞い、蜂のように刺すというスタイルである。
そしてこの二つの中間のミドルレンジで戦うボクサーもいる。

全く異なる二つのタイプだが、どちらがいいとは一概に言えない。
個人の能力によって、合うスタイルがある。

打たれ強く、パンチ力が高いなら、インファイトができる。
リーチが長ければ相手に近付かせないアウトファイトができる。

逆にいえば、どんなにパンチ力が合っても、相手に当たらなければ負ける。
リーチが長ければ、インファイトの時に連打がしづらく、邪魔である。

逆のスタイルをとってしまえば、長所が短所に、短所が長所になり得る。
リーチなどは変えられないのだから、自分の能力に合うスタイルを適切に選ぶ必要が出る。
(ボクシングの場合なら、階級を変えるという手もある。)

たとえが長くなったが、教師にもいえる。
子どもとの距離感。

密着するほど近い距離で指導する人がいる。
子どもとあだ名で呼び合うような関係である。

距離をとって指導する人もいる。
指導上の上下関係をはっきりさせ、礼儀をもって接する関係である。

もちろん、この中間やさらにこの軸の外の関係もある。

二元論的にどちらがいいとかいうことではない。
大切なのは、どれが自分自身と子どもとの関係に合うかということである。

あだ名で呼ばれるのに違和感を感じるのに、無理をしてそういう関係を作ろうとするときつい。
もっと親しくなりたいのに、上下関係を保とうと無理をするのもきつい。

子どもにとっても、色々な先生がいた方がいい。
親しみやすくリラックスできる先生と、おっかないけど頼りにもなる先生。その中間や外。
それぞれの場面で、力を最大限に発揮する人は異なる。
だから、学年チームは個性的な方がいいといわれる。

自分にとって無理のないスタイルを選ぶこと。
色んな人がいていい。
自分らしく、ありのままでというのは、そういうことだろう。
自分の性格と真逆の外面をとる必要はない。

これは、子どもにとってもいえる。
教師との距離感を、どうもちたいか。
子ども個々に違うはずである。

教師と子ども、それぞれに個性を認めていきたい。

2016年7月20日水曜日

協働を生む学習環境は誰がつくる

前号に引き続き、次の本の内容から。
『やる気を引き出す全員参加の授業づくり 協働を生む教師のリーダーシップ 小学校編』
http://www.amazon.co.jp/dp/4182014219

協働の主役は誰か。
つまり、誰が協働するのかということ。
この答えは、当然子どもたちである。

では、協働を生む学習環境は誰がつくるか。

こちらは、教師の仕事である。
子どもではない。
ここを間違えると、ただの放任になり、余計に学級がぐちゃぐちゃになる。

先ほどの本の中で、赤坂真二先生は次のように述べている。
「多くの子どもたちには学習環境に対する決定権がないのです。」

全くその通りで、学習環境の決定権は教師が有する。
「自分たちで学習環境づくり」という実践があるが、それをやろうという雰囲気をつくったのは担任である。
放置していたらそんな夢のようなことは起こりえない。

では、学習環境の中で、最も重要な要素は何か。
教室の広さや机・椅子の状態?
ICTの整備状況?
地域性?
・・・どれも大切ではあるが、最重要ではない。

最大の学習環境は、教師。
教師自身である。
それも「教え方」ではなく、「在り方」。
ここが最も感化・影響を与える。

いじめのないクラスを本気で目指す教師は、子ども、同僚はもちろん、あらゆる人々をいじめたり見下したりしない。
全力で学ぶことを求める教師は、自分も全力で学ぶ。
思いやりを求める教師は、自身も思いやりが深い。
協働を求める教師は、自身が職員と協働をしようと努力している。

無論、すべてできる人などいない。
だからこそ、自分はどこを大切にしているのか、できているのか、自己理解が必要である。
自分ができていないことは、当然子どもには求められないのである。

学習環境の決定権は、教師にあり。
そして、自分自身の在り方が反映しているという自覚を持って学級経営にあたりたい。

2016年7月18日月曜日

やる気を引き出す全員参加の授業づくり

タイトルは、6月16日発売した本のタイトル。
私も執筆している『学級を最高のチームにする極意』シリーズの第9弾である。
https://www.amazon.co.jp/dp/4182014219

このシリーズでは、全て第一章の理論編を赤坂先生が執筆している。
その後で、我々現場教師による実践編という構成である。
以下の、赤坂先生の「著者インタビュー」を読んでいただきたい。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20160380

この中で、重要なことが述べられている。
一つは「子どもたちが教室においてもつ基本的な願いを教師がしっかりと把握し、満たし続ける」ということ。
これは、願いの共有。ルールの共有でもある。
学級目標づくりや、クラス会議などの手法がここを担保する。

次の言葉も、この本の核心をついている。
「活動に必要なルールを設定し、それを定着させて、あとはそれを見守ることです。
何もしないで任せることは、放任です。
子どもの自由度の高い活動は、その活動が成り立つためのルールや人間関係の調整などしっかりとした下準備に支えられます。」
自由にさせたいから、ルールを設定するのである。
完全な自由は、逆に大きな不自由を生む。
よく私が例えに使う、ルールも枠もないサッカーの試合である。

一定の制限が、自由を生む。
これは、本当にそうなのである。
例えば授業では、制限すればするほど発想が自由になるという側面がある。
私は今回の本の中で、俳句の授業の紹介をしている。
俳句は、まさに制限だらけ。
五七五の究極に狭い制限の中で、無限の発想が生み出される。
制限されるからこその自由である。

授業そのものにもいえる。
ねらいを絞る。
教材を絞る。
制限をかけてぎりぎりまで焦点化すれば、火がつく。
やる気を引き出す全員参加の授業づくりのコツである。

制限が自由を生む。
自由な学級づくりを目指す人こそ、読んで欲しい本である。

2016年7月17日日曜日

願いと嫌なことを吸い上げる

本当に自由なクラスでは、授業中に学習に集中する。

これは逆にいえば、休み時間には大いに遊ばせる必要が出る。
休み時間が来ているのに授業を続けるのを「教師の罪悪」と糾弾する人もいるぐらいである。
(一方、子どもたちが本当に熱中している時に、「時刻だから」と機械的に打ち切るのもまた違う。)

自由なクラス。
自由な職場。
自由な家庭。
自由な〇〇。

一人の場合なら、全てが自由で構わない。
しかし、二人以上である場合、その構成員の全ての自由を考えなければ、自由な〇〇とはいえない。

つまり、自由なクラスに近付くためには、その時とその場における集団の目的、願いの共有化が大切となる。
つまり、自由の根底は、考え方にある。
授業を受けている自分に自由を感じているか。
発言する自由もあれば、黙って聞いている自由もある。
外で遊ぶ自由もあれば、一人で読書する自由もある。
本当は一人でいたくないのに一人でいるのであれば不自由。
本当に一人でいたいから一人でいるのであれば自由。

自由なクラスでは、願いをはっきり伝えられることが大切になる。
個々の願いの理解と共有化。
このあたりにクラスの自由のキーワードがあるように思う。
そう考えると、やはり学級目標づくりの際に全員の願いだけでなく、嫌なことまで吸い上げるのは、大切な作業ではないかと思う次第である。

2016年7月15日金曜日

自由なクラスを考える 後編

前号の続き。

例えば、自習の時の自由。
わかりやすく、極端な例で考える。

自習中に大騒ぎする子どもが全く注意されない状態は、騒ぐ子どもにとっては自由。
真面目にやりたい子どもにとっては不自由な状態である。

一方、一言もしゃべることが許されない静寂状態は、静かに取り組みたい子どもにとっては自由。
しゃべりたい子どもにとっては不自由である。

この差はどこから生まれるかというと、目的の違いである。
騒ぎたい子どもは、遊ぶことが目的になっている。
静かに取り組みたい子どもは、学習を進めることが目的になっている。

この場合、どちらに合わせるべきかというと、やはり後者であろう。
自習時間は本来学習の時間であるからして、遊びのために設定された時間ではないからである。

では、前者はどうするかというと、これは学ばせるしかない。
自習は、遊びの時間ではないことを理解するしかない。
騒ぐことが悪いのではなく、「自習の時間に」騒いで本来の学習が進まないことが悪い。
また、他に迷惑をかけることが悪いのである。

どう伝えるかだが、子どもによって伝わりやすい例は異なる。
サッカーを知っている子ども向けに、サッカーの例で伝えてみる。
ワールドカップの試合で、ドリブルで5人抜きさって強烈なシュートを決める。
このプレーは〇か×か。
普通に考えれば〇どころか◎で、大称賛されるであろう。
しかし、これが「試合終了の笛が鳴った後」に選手が故意にしたことであれば、どうだろう。
恐らく、世界中から非難の嵐である。
今後の公式戦での出場停止処分を食うかもしれない。
数秒の差であるが、「試合中」と「試合終了後」の差は果てしなく大きい。
同じ行為でも、いつやるかによって、それが良いか悪いかは180度変わる。

時と場によって目的が変わる。
この区別を理解することは「自由なクラス」を志向する上でも重要である。
自由と放縦を混同させないようにしたい。

2016年7月13日水曜日

自由なクラスを考える 前編

学級目標を作る時、子どもたちから必ず出るキーワードの一つに「自由」がある。
「自由」なクラス。
いい響きである。
しかし、現実には「自由」をうたいながら、一部の自分勝手な子どもだけがやりたい放題やっている場合もある。
民主主義をうたいながら、内実は声の大きい一部の子どもの意見だけが尊重されている場合もある。
その時、「自由」を求める他の子どもは、この上ない不自由を感じて過ごすことになる。

そこで今回は、「自由なクラス」について考える。

その前に、まず「教員」という仕事は自由か。

不自由だという人からは「拘束時間が長すぎる」「多忙すぎる」という声が聞こえる。
特に、年間で部活動を主担当している教員は土日も含めて常時勤務している状態である。

そんな現状を鑑みて、若手教員数百人を対象に部活動について実態調査を行ったことがある。
(たまたま偶然、そんな役職を与えられたのである。)
内実は、部活で苦しんでいる人と、楽しんでいる人、まあまあという人が混在していた。
まあまあという人も、部活の意義を強く感じていたようである。
本当にやりたくないと苦しんでいる人もいる反面、部活は大変だけどやり甲斐があるという意見も強い。
特に中高には、部活動指導がやりたくて教員になった人がたくさんいる。

つまり、部活動を楽しんでいる教員は、自由である。
嫌々やっている人は、不自由である。
だから、部活動という一面だけ切り取っても、教員が自由かどうかは、一概にいえない。
少なくとも、仕事を楽しんでいる人は、自由といえる。

子どもの話に返る。
クラスにおける自由とは何か。
それは、そのクラスを楽しんでいる状態である。
個人レベルで見れば、自由派と不自由派が混在する。

長くなったので、次号に続く。

2016年7月11日月曜日

脱・「仲良し集団」幻想 その2

前号の続き。
ことクラスになると、往々にして「みんな仲良く」の幻想を求めてしまう。
なぜなのだろうか。

そんなはずはないのである。
その証拠に、「好きな人同士」という方法を何かしらで安易に採用すれば、人間関係のトラブル発生率がぐんと高まる。
この「好きな人同士」というのは、裏返せば「好きでない人」「一緒になりたくもない人」がいるということも暗に示す。
「好きな〇〇」にものやら何やらが入るのはいいが、人はよろしくない。
現実的に考えて、トラブル発生必至である。

みんな仲良しということはあり得ない。
どんな小集団だって、仲良し、まあまあ、敵対という関係性が生ずる。
もう一つ、重要なところで「知らない」という関係性もある。
これが最も深刻で、かつ一気にプラスに転ずる可能性も秘めている。
だから、担任は、色々な子ども同士を関わらせるのが大切な仕事になる。

どうせ仲良し集団ではないのである。
だったら、意図的にぐちゃぐちゃに混ぜてあげればいい。
面白い化学変化の起きる可能性がある。
これは、席替え一つとってもいえる。
親密度と距離は大切で、物理的距離が近ければ確実に関係性も近付く。

色々書いたが、要は幻想を抱かないで、きちんと対策を立てること。
そして、仲良し集団であることを求めないこと。
敵対もまたよし。
一番いけないのは、知らない関係性。
これぐらいの心構えで、ちょうど良いのではないかと思う次第である。

2016年7月9日土曜日

脱「みんな仲良し集団」幻想 その1

前にも書いたが、「友だち百人」もいらない。
現実の世界としては、基本、一人でも理解者がいれば十分である。
真の親友と呼べるような存在が一人いれば、世界が敵に回っても戦える。
そして、この親友は、べったりくっついたり、束縛する必要もない。
互いに自立して勝手に動き、必要な時にはがっちり助け合える関係である。
(一緒にトイレに連行したり、「〇〇と話したらダメ」という征服者と手下の関係とは次元が全く違う。)

裏を返せば、クラス全員が本当に「友だち」と呼べる関係であるか。
答えは否である。
中には、過去のいじめ等で、根底で恨んでいる関係性すらある。
それでも同じクラスであれば、一致団結して物事を遂行することがある。
それが目的を持った集団のクラスというものである。

このことは、職場に置き換えるとすぐわかる。
職場の仲間は、友だちの集まりではない。
共通の目的に向かって、目標を達成するための集団である。
運命共同体である。
そこには、好き嫌いを超越した関係性が求められる。
「人として好きじゃないから協力しない」とか、「好き同士だからうまくいく」という類のものではない。
無論、仲間同士の関係性は良好な方が円滑に進むが、仲良しであることは必須ではない。

しかし、ことクラスになると、往々にして「みんな仲良く」の幻想を求めてしまう。
なぜなのだろうか。
長くなったので続きは次号。

2016年7月7日木曜日

がたがたの土台を想定して学級目標をつくる

今更と思う人もいるかもしれないが、学級目標の話。

今年度、学級目標は6月末に完成した。
例年に比べると、ゆっくり作った。

その理由は、先週まで運動会でクラスがまとまっていたからである。
運動会が方向を示してくれていたので、その間は必要がなかったのである。

さて、運動会で燃えまくった。
クラスとしての大成功も収めた。
そうすると、終わった後の反動も大きい。
俗にいう「〇〇ロス」の状態である。

そういう訳で、新たな目標が必要になる。
ちなみに、運動会時点から目的は変わらない。
クラス集団の協働による自治力を高めること、子ども一人一人の成長である。
その「的」への「標」を新しく立てたいのである。
しかも、卒業までずっと使える標がいい。
途中変わるかもしれないが、そういう長期的な視点でつくる。

私の場合、アンケートを使ってつくる。
何度も紹介している、原田隆史先生の手法である。

最高の学級、最悪の学級とはどんなものか。
して欲しいこと、して欲しくないことは何か。
自分はどんなことをがんばりたいか。
そんなことを全員から吸い上げ、共有する。

学級目標を作るだけなら、良いことだけ書けばできる。
しかし、敢えてマイナスの悪いこと、嫌なことも書かせる。
これには、明確なねらいがある。

共有時は、誰が書いたものかはわからない状態にする。
そうすることで、嫌なことも遠慮なく書ける。
毒出しである。
今までためてきた不満をここでぶちまけてもらう。
「こんなことをされると嫌なんだ」ということを、クラスの仲間にも知ってもらう。
やってしまった人には、今後の反省材料に使ってもらう。
ただし、個人的な攻撃ではないので、すんなり受け容れられる。

がたがたの土台の上にきれいな建物をつくっても、崩れる。
理想だけ語ってもダメなのである。
クラスは、様々な人間の様々な感情が入り混じり、キレイゴトだけでは済まされない。
そういう毒というか、マイナス面も抱えて、受け容れて進むものである。
地盤がそうなのだから、それを想定して建物をつくる必要がある。
それが、自分たちの与えられた場なのだから、そこから始める。
どの年のどの地域のどこのクラスだって、そうである。

学級目標づくり一つとっても、ただの理想論に終わらせない。
本当に実のある、実効性の高いものをつくりたい。

2016年7月5日火曜日

運動会エピソード ~正々堂々とやる~

運動会等の勝負事では、勝ち方が大切である。
正々堂々、ということを重視する。

私は高校時代、サッカーをやっていた。
1年生は、公式戦に出られるのは突出した能力の1人か2人である。
多くの1年生は、試合の時、コートの周りで球を拾う係になる。
その時言われていたことで、嫌で嫌でたまらなかったことがある。
「試合終わり間際で、勝っている時はゆっくり拾いに行け。
負けている時は、すぐに拾ってこい」というものである。

実にくだらないと思った。
そんな勝ち方をしてどうするのか。
プライドはないのか。
勝てばいいのか。
そんなことを友人に話したら「勝ちにこだわることも大切」とのことだった。

これは、観によるのかもしれない。
私には、この考え方がダメだった。

これを思い出させる出来事が運動会であった。
球運びのような競技で、隣のチームと五分五分で争っていた。
その時、隣のクラスの子どもが、ボールを結構な勢いで落とした。
ころころと転がり続け、私のクラスの子どもの列に入ってきた。

ここで、その子どもは、ボールを止めて、相手に返した。
原則、相手チームのボールが転がってきたら「さわらない」というルールである。
子どもが「しまった」という顔をしたので、「当然のことしただけでしょ」と言ってあげた。
ボールが転がってきたから、相手に返した。ごく普通のことである。
こういう場面で、普通のことを普通にできることが大切である。

美談に仕立てているように見えるが、本当に普通のことを普通にしただけである。
「相手のために」とか高尚な思いがあったとは思えない。
親切を、ただ普通のこと、当然のこととして行う。
日常生活でもいえることである。
私はクラスの子どもを、素敵だと思った。

勝負事は、勝てばいいのではない。
勝ち方が大切である。
勝ちにいく時は、爽やかに勝ちにいきたい。

2016年7月3日日曜日

実施時期でねらいが変わる運動会

運動会後に書いた記事。

勝負事には、真剣に取り組む方である。
特に「強くなる過程」や「勝ち方」には、こだわる。

自分たちで強くならねば、学級として取り組む価値がないと思っている。
教えられた通りにやって強くなって結果を出しても、「先生に言われた通りにやっただけ」と思われては意味がない。
まして「〇〇先生のクラスだから勝てる」と思われては元も子もない。
「自分たちだから、この仲間がいたから勝てた」と思えるようにしたいのである。

以前書いた「あれは僕の絵じゃありません」という話と同じである。
指導されまくって書いた特別賞受賞作品の絵は、その子にとって自分の作品ではないのである。
指導されまくって強くなっても、自分たちの獲得した力ではないのである。

最低限のポイントを教えたら、後はなるべく任せる。
実践&ミーティングの繰り返しである。
自分たちで作戦を考え、練り直していく。
試行錯誤の繰り返し。
当然失敗もたくさんする。

指導するのは、仲間同士のコミュニケーションルールというか、マインド面。
成功したら一緒に喜んだり拍手をしたりする、失敗したら「ドンマイ!」の声かけ。
一人の失敗はみんなの失敗、自分の失敗と思って、工夫してやり直す。
8の字跳び&大縄指導と原理・原則はすべて同じである。

うまくいこうがいくまいが、あまり褒めたり叱ったりもしない。
ただ、感心はする。
よく考えたことや、励まし合う姿を素敵だと認めることはする。

そうしていく中で、クラスが単なる集団からチーム化していく。
運動会で勝つためによいクラスづくりをするのではない。
よいクラスづくりと一人一人の成長のために、運動会を利用する。

5月に運動会がある場合と10月にある場合では、意味合いが異なる。
5月は、クラスづくりの意味合いが強い。
10月は、そこまで培った力の発表の場という意味合いが強い。
時期が違えば、ねらいが変わるということである。

また、勝ち方も大切である。
長くなるので次号。

2016年7月2日土曜日

大人は入れません

エッセイというか、雑感。

どうも、子どもには通れて大人には通れないところというのが、結構ある。

先日は低いところの下にボールが通ってしまって、取れないでどうしようと思ったら、子どもがするっと下を抜けてしまった。
「そこはくぐったらダメなんだよ」とこっち側から呼びかけたら、するっと戻ってきた。
何か、言ってて虚しい感じである。

ある時は、破れた金網を抜けて「こっちが近道なんだよ」と教えてくれた子どもがいた。
「そこは通っちゃダメだよ」と教えると、残念そうに戻ってきた。

ある時は、学校のフェンスを軽々と跳び越えられてしまった。
「勝手に出たらいけない」と注意したら、そそくさと戻ってきた。

どれも立場による対応として、当然のことである。
一方で、時々、馬鹿らしくもなる。
大人は、人目を気にしない訳にいかない。
まして、立場があれば、尚更である。
ただ、子どもには、普通に通れる場所なのである。
でも「大人は入れません」という場所が、確実に存在する。

子どもの頃なら、できたことが、できなくなっている。
子どもの頃なら、できた発想が、できなくなっている。

私は子どもの頃、「自分が先生になったら毎日全部体育にする」と豪語していた。
大馬鹿である。体育嫌いには、かなり迷惑な存在である。
しかし、そういうことを本気で考えられるのが、羨ましくもある。

教室にいると、やらねばならないことがたくさんある。
しかし、学級経営の本質は何なのか。
学習指導要領に定められた内容をきちんとこなすこと、ではないはずである。
それはあくまで、子どもの力のある一面を育てるための手段にすぎない。
もっと、学級集団の力を生かして、何か違うことができるのではないかという思いが強くある。

学びの夏休みを迎える前に、まずは新たな試みを色々としてみたい。
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