2020年12月31日木曜日

独立独歩のチームワーク

 最近の気付き。


チームワークというと、みんなで一緒に何かをやるイメージである。

しかしながら、職場における実際のチームワークは、役割分担による個人作業である。


多くの人が取り組む箇所もあれば、一人がやる箇所もある。

職人技のような分野は、多くの人が関われない。

だから、ある一人がやることになる。


また、リーダーはチームワークの核でありながら、最も孤独である。

リーダーは基本的に一人だからである。

「船頭多くして船山に上る」の諺にある通り、司令塔は基本的に一つだからである。


みんながわいわいやっている中で、孤独に作業をすることもある。

しかしながら、その孤独な作業がチームにとって不可欠なものであることも多い。


学級活動で考える。

例えば、学級でイベントをしようという時。

多くの子どもが関われるのが、飾り付けのような作業である。


一方で、全体の進行を考えたり、決断をするのはリーダーの仕事である。

また、必要なプログラムを書いてくるなども、誰か一人の役割になる。

必要なモノづくりなども、結局は一人に頼ることも多い。


それら、孤独に行ったものが集まって、一つのイベントを成功させる。

そう考えると、チームに参加して貢献するには二つの方向性がある。


一つは、みんなができることを自分もやること。

最も人手がいる箇所であり、貢献できる。


もう一つは、誰もやらないことを一人でやること。

責任も重いし孤独な作業だが、貢献度も大きい。


いけないのは、逆の発想をしてしまうことである。


みんなができることを一生懸命やっている人が、どうして自分は〇〇さんみたいに特別なことができないのかと悩む。

逆に、一人の分担を頑張っている人が、何で自分だけがこれをやらなければならないのかと、卑屈になる。


自分のやっていることに自信をもつ。

それぞれの役割であり、やっていることに間違いはない。


バカボンのパパ曰く

「これでいいのだ」

である。


即ち、真のチームワークというものには、独立独歩が求められる。

各自の分担に責任をもってこそチームワークは成り立つ。

その中で、いつまでも孤独にメンバーを信頼して励ますのがリーダーの役割である。


そう考えると、学級担任は、周りに何を言われても子どもを励ますのが仕事になる。

孤独な作業で周囲に理解もされず、辛いことも多いが、それが役割である。


チームワークは、単なる足並みを揃えることではないと考え、書いてみた。

2020年12月29日火曜日

睡眠、栄養、運動 最優先事項はどれか

 前号に続き、元気に働くことを考える。

栄養と運動について。


栄養と運動は睡眠とも連動する。


適量を食べていれば頭も身体もよく働くので、運動をやろうという気にもなる。

よく動けばお腹が早く空くので、夕飯も早くなり、寝るのも早くなる。

全てが好循環する。


逆に言えば、三つの内のひとつが詰まることで、全てが詰まる。

食べ過ぎれば寝つきが悪くなり、体を動かすのが億劫になる。

寝るのが遅くなれば何もかもが面倒になる。


そう考えると、3つの内、運動は一番捨て置かれがちである。

運動をしなくても、今すぐ直接的な害悪は出ない。

その代わり、運動の不足だけは、蓄積していく。

睡眠や栄養と違い、負債の返済が難しい。

これはこれで怖いことである。


どこから手を付ければよいか。

学校の教員というのは、割と栄養面については何とかなっている。

例え食事を作らない一人暮らしの人であっても、無敵の「給食」があるからである。


気合いの入った運動は、栄養と睡眠が揃ってからでもよい。

学級担任であれば、運動しないで過ごす方が難しい。

歩くことを意識的に増やすだけでも十分である。


そう考えると、やはり、睡眠の一点集中である。

教員の健康を蝕むものへの対策としては、睡眠不足の解消を筆頭に挙げるべきである。


つまりは、早く帰ることである。

〆切をつけて、早く帰る。

無理矢理にでもそうなる工夫をする。

(実際、そうさせてもらえない状況に追い込まれていることは百も承知での提言である。)


健康の3大要素を考えても、やはり教員にとって最優先事項は睡眠であり、退勤を早くすべし、という結論である。

2020年12月27日日曜日

睡眠最優先の仕事術

元気に働けるということについて。


元気に働き続けるには、誰しも知っている通り、運動、栄養、睡眠の3つが大切である。

それらの不足を「精神力」という根性主義で何とかしようとすることはできるが、単に体の悲鳴を無視しているだけである。

いずれその代償を払う日が必ずくる。


特に犠牲にされがちなのが「睡眠」である。

睡眠不足と酔っ払いの脳の働きは同程度かそれ以下というデータもあるぐらい、睡眠不足はだめな状態である。


それを防ぐためには、拙著『捨てる!仕事術』でも書いたが、「定刻で帰る」と予め決めておくことが大切である。

それは、健康であることに直結する。

健康であることは、職務上の責務である。

不健康は非能率と不機嫌にもつながるので、周囲の人にも何かと迷惑である。


つまりは、健康であろうと努力することは、仕事に誠実な証である。

「定刻で帰る」=「仕事に誠実」という図式である。

これをまず学校の常識にする必要がある。


さて、私も現実を見ない馬鹿ではないので、学校の(無駄な)職務の多さはよくよく知っている。

そして出る言葉は「私のこの膨大な仕事量を、時間内に終わらせるなど無理」。

しかしながら、これは、完全な「幻想」である。


なぜ「幻想」などとひどいことを言うか。

次のことを問えば、はっきり幻想とわかるからである。

「それは日本中の誰がやっても、本当に時間内に終わらせることが無理だろうか。」

ここに対し、ほぼ100%「できる人ならできる・・・」と答えるはずである。


そうなれば、「私」のやり方に原因があるといえる。

こんなに一生懸命やっている「私」に原因があるなんて言うとは、本当にひどい話である。

そんなことを言うのは、血も涙もない人間である。


しかしこれは全くの逆、誤解で、一生懸命やっていないと言っている訳ではない。

一生懸命で何とかしようとしていることに問題があると言っている訳である。

何度も書いているが「一生懸命」「真剣」などというのは多くの職業人にとって前提であり、何ら誇ることではない。


拙著にも書いたように「予め決められた枠の中で考える」という習慣をつけることが大切である。

タイムリミットがないと、どうしても仕事の濃度は薄まる。

時間があると思うと、無駄なこと、やったら多少の意味はあるが、やらなくても問題ないようなこともやるようになる。


人間の脳には、「空間補間効果」といって、自然に隙間を埋めようとする習性がある。

マスクをしていれば、勝手にマスクの下の顔を想像する。(それも都合よく。)

マスクをした姿を本人の顔だと認識する人はいない。

空間を脳内で勝手に埋めてしまうのである。


これは、仕事と時間の関係にも適用される。

定まった仕事量に対し、脳が残り時間をどう認識するかである。


学級担任を想定して、16時から日々の残りの仕事に取り掛かれるとする。

残り10という量の仕事が残っているとする。


20時までに終わらせようと思うと、単純計算して1時間あたり2.5ずつ処理である。

しかし実際は、1~2時間ぐらい「休憩」「リラックス」と称してだらだらしてお喋りをしてしまう。

結果的に、1時間あたり5ずつぐらい処理することになる。

この1時間あたり5の作業量は、18時までに終わらせようと黙々と一気にやっている人と同じである。


17時までに絶対に退勤しないとならない人はどうなるか。

1時間で10である。

これを、工夫して一気にやることになる。

あるいは、元々無理と認識し、事前に2ぐらい処理するとか、緊急でないいくつかは後日にして諦めるとか、そういう工夫をする。

結果、17時には実際に帰ることができる。


ところで、22時まで残れると思うとどうなるか。

さすがに、3時間以上だらだらすることはない。

代わりに、いくつかだらだらした上に、余計な仕事を思いつき、仕事量を11とか12に増やしてしまうのである。

あるいは、10とは別のことをしだす。


結果、「今日も一生懸命22時まで働いた」ということになる。

典型的な昭和型「24時間働けますか」のビジネスマンモデルである。

戦後間もない焼け野原状態から高度経済成長期には正解だったと思うが、もう、令和なのである。

令和から見た昭和は、平成の時からみた大正時代である。

時代遅れとかいうレベルを越えて、進化の有無の問題である。


「アフター5」の用事があると、否が応でも仕事の濃度が高まる。

(もはや世の中は働く時間すらも固定化されておらず、この言葉自体が昭和時代までの死語である。

それが普通という教育現場の働き方は、果たしてよろしいのかを検討すべき時であると思う。)

例えば5時半までに保育園へ子どもの迎えという用事がある人が、残業できる訳がない。

何がなんでも5時に退勤するしか選択肢がないから、帰れるように工夫して終わらせる。

当然である。


事前に決めることである。

セミナーでも本でも何度も紹介しているが、事前に手帳、あるいはスマホのスケジュールに予定を書き込む。

特に退勤時刻と入眠時刻を入れてしまうことである。

予めスケジュールしておくと、17時以降の余白から22時の就寝までをどうしようか、考えだす。

日々の余暇として、自分のための時間や、友人との交流などの楽しい予定を組むことができる。


さらに、一度工夫しだすと、工夫された状態が習慣化するので、通常の仕事の処理速度が加速する。

必要な仕事に全力を注ぐ分、余計な仕事に余計な時間をかけなくなる。

(学級担任でいえば、基本的に子どもの成長や幸せに還元できる仕事が、本当に必要な仕事である。

各種アンケートや調査の処理、研究会等の発表資料の完成度を上げることに一生懸命時間をかけても、無意味である。)


仕事の精選が習慣化すると、日々、自然と終わってしまう状態ができていく。

そうすると、他の「緊急ではないけれど重要な仕事」を時間内にできるようになり、より力量が高まる。

これが、管理職が部下に最もして欲しい「自己研修・研鑽」に当たる部分である。

続けていれば、もっと仕事が早くなっていき、職場に貢献できるようになる。

正のスパイラルである。


話を戻して、どうやってそれを作るかは、元を辿れば、適切な睡眠である。

まず、寝る時刻を決める。

起きる時刻も決める。

起きている時刻の内、食事や入浴など必須の生活と仕事の時間を差っ引いたものが、自分の余暇である。

それしか与えられた時間はない。

そこをどう使うかである。


休日も同様である。

休日に朝寝坊した分は、その日の入眠を遅らせるため、結果的に翌朝の負債と化す。

「休日に昼までたくさん寝たからリセット」は、幻想である。

リズムが滅茶苦茶になって、余計に身体が疲れることになる。

朝無理矢理にでもきちんと起きて、途中で昼寝を楽しんだ方が100万倍よい。

(学校でも、午後まで勉強するなら、毎日20分程度の昼寝タイムを日課の中に設置した方が本当はいいと思う。)


元気に働くには、まず睡眠。

睡眠だけは絶対に犠牲にしない。

その大事な大事な仕事が終わらなくても、世界は滅亡しないし学校も潰れない。

本人が過労で倒れて死んでしまうよりずっとずっとずっといい。

これが各種病気になりがちな現代の教師に対する、仕事術の要点であるという、確固たる持論である。

2020年12月25日金曜日

働きたくない職場をどう考えるか

前号では,働けることへの感謝について書いた。

しかしながら、そうは思えないという場合の方が一般的ではないかと思われる。

次のようなニュースが報じられていた。

「公立校教員の精神疾患休職が過去最多 業務の増加、複雑化が一因か」産経新聞

https://www.sankei.com/life/news/201222/lif2012220037-n1.html


今号では現実的に、仕事に感謝できない時を考える。


次の資料を参考にしてみる。

平成30年労働安全衛生調査 【労働者調査】1 仕事や職業生活における不安やストレスに関する事項

https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/h30-46-50_kekka-gaiyo02.pdf


この調査で「強いストレスとなっている感じている事項がない」を選んだ人も41.7%いる。

半分近くは、特にストレスを感じていないということである。

仕事に対しては、二極化が起きていると考えられる。

だとすれば、色々と話が噛み合わない訳である。


この調査で「ストレスを感じている」と答えた人の中の、要因ワースト3の順位をつけてみる。

1位 仕事の質・量(59.4%)

2位 仕事の失敗、責任の発生等(34.0%)

3位 対人関係(セクハラ・パワハラを含む)(31.3%)


こういった各種ストレスを感じている以上、感謝することは難しいと思われる。


仕事にやりがいが感じられないのに、感謝することはできない。

仕事量が多すぎて毎日納得いかない残業続きでは、感謝することはできない。

その仕事で失敗できない、責任をとりたくない状態では、感謝することはできない。

人間関係で悩みをもっているままで、感謝することはできない。


要は、仕事に素直に感謝するには、あまりに障壁が多い。

勤労感謝の日が、たまには慰労して欲しい日になってしまいかねない。


より良い職場づくりがカギである。

そのカギを握るのが「上司・同僚」の存在である。

先の調査においても、職場における相談相手はもっぱら上司・同僚である。

(それ以外では、当然ながら「家族・友人」である。)


職場の同僚性が良ければ、職場ストレスの問題の多くは解消される可能性がある。

即ち、逆も然りである。

職場の同僚性が悪ければ、些細なこともストレスになり、大問題となる。


自分の守備範囲としては、学校現場における職場の同僚性をどう高めるか。

ここが関心事の中心である。


職員間、特に学年間の「無関心」と「過干渉」の両極端二つが、ストレスになり得ると感じている。

一方その中間にある「緩くつながっている感じ」は、働きやすい。


緩くつながるための仕組みが必要である。

自分の学級だけになれば、他に無関心になる。

他学級まで自分のやり方に染めようとすれば、過干渉になる。

自分の役割・範囲をきちんともちつつ、周りにも関心をもって仲間の守備範囲にもサポート・カバーできる仕組みが必要である。

野球やサッカーの守備と同じである。


隣の学級のことをどれぐらい知っているか。

隣の学級の子どもの顔を見て、名前を全て言えるか。

隣の学級に自然に入れるか、あるいは隣の学級の担任が自然に自分の学級に入ってこられるか。


こういったことが意識されるようになれば、同僚性は高まる。

学級担任が自分だけで責任を抱え込むようでは、ストレスがたまるばかりである。

学校には、同僚性が高まる仕組みが必要である。


仕事に感謝できるようになる。

そのためには、職場の仲間が互いに関心をもつ仕組みづくりが優先であると考える。

2020年12月23日水曜日

勤労に感謝する日

 メルマガ上で勤労感謝の日辺りに書いた記事。

クリスマス前に時期外れだが、記録として転載しておく。


勤労感謝の日は、一生懸命に働いている自分が神様のように感謝される日、ではもちろんない。

私は常々「一生懸命は当たり前。努力するのは当たり前。」と考えている。

自分にも言っているし、教えている子どもたちにも言っている。

仕事や勉強に対し、一生懸命やる、努力するなどというのは「前提」であり、人様からわざわざ褒めてもらえるようなことではない。

なぜなら、努力のすべては、結局最終的には自分のためだからである。


恐らく、仕事や勉強で一生懸命やっても結果が出ずに周囲の評価がよろしくない時、

「こんなにがんばってるのに!」

という思いになる。


しかしこれは、残念ながら単なる独りよがりである。

仕事というのはとてもシビアな面があり、結果が出ないことには評価されない。

人間的には認めていても、それとこれとは、話が別である。

算数の計算のようなものであり、正解の数がきちんと出ることが求められる。

(そもそも、一生懸命やりさえすれば正解できるというのは、大きな思い違いである。)


勉強も同じで、テストやレポートでは、がんばっていようがいまいが、正誤に対し点数という結果になって出てくる。

たとえ本人の努力する過程は認めていても、誤っている、提出物の出来がよくない以上、高得点は出せない。

それはやり方を変えて結果を変えよ、ということである。


仕事における結果とは、他者貢献の度合いである。

自分に役割として求められている貢献ができているかどうかである。

そこを工夫しなさいということである。


そして私たちは、その職場や仕事そのものに対し、つい意識下で「働いてあげている」と思ってしまう節がある。

逆である。

仕事として、役割をいただき、働かせていただいているのである。

世の中に少しでも貢献することで、普段周囲から受けているとてつもない恩恵への一部恩返しをしているだけである。


世の中の役に立てるということは、生きがいの一つになる。

人間は生きているだけで「存在価値」はあるのだが、仕事をすることで「機能的価値」の面をもつことができる。

自分の能力の提供であり、世の中の役に立てているという実感である。

だから、仕事が見つからない状態、あるいはできない状態というのは、生活的な苦しさだけでなく、そういう面でも苦しい。


学級の中で、当番活動や係活動というものがある。

例えば日直の司会進行、給食当番、掃除当番、新聞やレク等の各種係、などである。

これらはキャリア教育の一環であり、学級内における自分の役割をもつことで、機能的価値を発揮できる場である。

それが結果的に「あなたがいないと困る」ということになり、自信につながる。

だから学級においては、子どもたちが役割をもち、自分たちが教室のオーナーという意識をもって運営に携わることが重要なのである。

自治的学級づくりを目指すことが、子どものあらゆる能力と自信を伸ばす基盤になる。


これは職場内にもいえる。

学年内(会社なら部署内)の職員として、自分は何が仕事として貢献できるのか。

これをそれぞれが自覚できる職場は、単なる「集団」ではなく「チーム」であり、強い。


自分一人があれもこれもできる必要はない。

自分の最大の得意分野に全力をつくして、貢献すればよい。

サッカーに例えるなら、全員がゴールキーパーとしてがんばるより、色々なポジションで役割分担するのがチームである。


自分には何も能力も取り柄もないと嘆く人なら、誰よりも動くことである。

人が面倒がること、あるいは誰でもできることを、誰よりも進んでやってみせる、やり続ける人に、人は必ず敬意をもつ。

同じくサッカーで例えるなら、下手でもとにかくゲーム中の運動量が他の誰よりも多い選手になることである。

チームへの貢献度を上げることこそが、自分の機能的価値を高める術である。


社会での役割を持てること、即ち勤労できることは、感謝すべきものである。

自分に役割を与えていただけたのである。

自分が生かされていることへ感謝する日である。


この祝日のそもそもの起こりが「新嘗祭」であり、五穀豊穣、食べ物への感謝の日である。

太陽と地球の恵みに感謝する日であり、生かされている、生きることを許されていることへの自覚をする日である。

感謝する以外にない。


本当に働くのが嫌なら、辞めてしまえばいい。

明日から来ない、やらないと言えばいい話である。

残念ながら、私が辞めた代わりに、それをやりたいという人が必ず見つかる。

再三サッカーで例えるなら、自分がレギュラーとして占めていたポジションをずっとやりたがっていた人が必ずいる。


仕事を辞めることは、現実的に可能である。

自分の意思決定で、100%決められる。

それでも働いているのは、辞める方を選ばず、働く方を自分で選んでいるからである。


例えどんな経緯であれ、最終的には、自分が「やる」と選んだ仕事である。

私などの場合は、わざわざ自分から志願して試験まで受けさせてもらって、採用してもらった身である。

もちろん、仕事をしていれば、嫌なことなど山ほどある。

ただもっとこうしたいという思いはあれど、仕事をさせてもらえることへは感謝の念を忘れないよう、意識している。

それは、他者に無暗に服従するということではなく、自ら進んで選んでいるという主体的な態度である。


勤労感謝の日は、自分が他に生かされていることを自覚する日。

仕事ができることが有難いと思えていたら幸せなことである。

2020年12月21日月曜日

話すこと・聞くことは一括りにできるか

 国語科における「話すこと・聞くこと」の評価は悩む。

話すことと聞くことが、全く異なる能力だからである。


私は、常々、それらは別々の能力で、更には聞くことが先で大切だという立場でものを考えている。

学習指導要領の記述に対しても、同様の疑問がある。


「話すこと・聞くこと」ではなく、順序的には「聞くこと・話すこと」ではないか。

インプットとしても、聞くことが先にあって、話すことが後にくる。

読むことが先にあって、書くことができるようになるのも同様である。


要は、「話すこと」と「聞くこと」の力は、一括りにできるかという問題である。


「話すこと」が得意な子どもがいる。

この子どもが「聞くこと」が得意かというと、真逆であることが多い。


「聞くこと」が得意な子どもがいる。

この子どもが「話すこと」が得意かというと、真逆であることが多い。


ものを教える時に、どちらの力がある方がよく学べるか。

これは圧倒的に、よく聞く方である。

人の話も聞かずに、話したいように話すだけなら、教える必要はない。

十分なインプットをすれば、自ずから必要なアウトプットをするようになる。


国語の大家である野口芳宏先生の言葉にも

「学力の根本は、聞く力」

とある。

二十年近く小学校の現場で教えていて、全くその通りであると実感している。


要するに、「話すこと・聞くこと」は一括りにできる能力ではないということである。

能力としては、別々に考えた方がいい。


二つの力が、関連しているのは当たり前である。

読むのも書くのも聞くのも話すのも、語彙力もすべて関連している。

しかし、能力としてはそれぞれ別である。


聞く力が高い人。

話す力が高い人。

読む力が高い人。

書く力が高い人。

語彙力が高い人。


全て兼ね備えている人ももちろんいるが、どれかだけは得意、という人も多いはずである。

(語彙力が高いのに読めないというのは考えにくいが。)


話すとか書くとかいうのは、主としてアウトプットの能力であり、表現能力である。

一方、聞くとか読むとかいうのは、主としてインプットの能力であり、理解力である。


分けて考える。

小学校のワークテストに「話すこと・聞くこと」があるが、あれは完全に「聞くこと」のテストである。

「話すこと」の力をテストにしたかったら、スピーチをさせたり面接をしたりする以外にない。


「話すこと・聞くこと」は、一括りにできない。

そう考えると、評価の仕方もわかりやすく変わってくるのではないかと考える次第である。

2020年12月19日土曜日

主体的に教えてもらう

主体性とは何か、常々考えている。


座って黙って話を聞いている。

これは客体か。


そうとも言い切れない。

主体的な座学は存在する。


意識の問題である。

「教えられている」のか「教えてもらおう」としているのかの違いである。


「教えられている」意識は、客体である。

自分はインプットされる側であり、相手に主体がある。


一方で「教えてもらおう」という意識は、主体である。

インプットしたい内容を相手から引き出そうとしている。

それは働きかけであり、アウトプットである。


自分の内側への問がないと、教えてもらおうと思えない。

わからないから、教えてもらおうとするのである。


一方で、教えられている意識に、自らへの問はいらない。

放っておいても、お願いしなくても、求めなくても、相手が教えてくれるからである。

そこに自分は関係ない。


自分が学びに行く場を考えてもわかる。

自分の問題意識があり、それを師に教えてもらいたくて、師の話を黙ってきく。

これは、極めて主体的であると考えている。

これは座学だろうがオンラインだろうが、同じである。


授業を受ける。

ただ教えられているのか。

教わろう、教えてもらおうとしているか。


この意識の違いで、学びの質は全く異なると考える次第である。

2020年12月15日火曜日

オープンな職場や学校に必要な条件とは

 「言いたいことを言っていいんだよ」

「困ったことがあったら何でも相談しなさい」

「トラブルはすぐ報告して。一緒に解決しよう。」


そんなことを言う上司や先輩がいるとする。

素敵なことである。


しかし。

実際に相談すると、たくさん小言を言われる、

単に辛い気持ちを分かって欲しかっただけなのに、ダメ出しされてアドバイスされる、

トラブルを報告すると、「何でそんなミスをしたんだ!」と怒るばかりで、一切責任をとってくれようとしない、

周りもそれがわかっていて、仲間がミスをしても黙って見ているだけで「我関せず」を決め込む。


まあ、こういうことが続いていれば、確実に風通しの悪い風土が出来上がる。


学級経営も同じである。


子どもはミスをして当たり前である。

前提である。

新しいことにチャレンジしたら、何かしら失敗する。

その責任を取るのが担任の仕事である。

子ども自身の失敗を教えてくれたら「教えてくれてありがとう」と言って解決に目を向けることである。

(ケガや公共の物品破損、紛失等の報告もこれに当たる。)


一方、責任を取りたくないとなると、何もさせないことになる。

下手なことをさせたら、管理職や保護者にも何を言われるかわからない。

細部にわたってルールを作り、それに従わせる。

言われた通りに動く優秀なロボット候補の子ども「一丁上がり」である。

(特に今の時期は、何かと規制が多いので、よくよく気を付けないとこれになりがちである。)


挑戦させるには、リスクが伴う。

そこへのリスクヘッジを十分にした上で、リスクをとる。

子どもを外で遊ばせるの一つだって、リスクである。

遊ばせなければ、まず余計な責任は取らなくて済む。


例えば、子どもを学校のグラウンドで遊ばせれば、ケガも起きる。

子ども一人当たり一日のケガの発生確率を1%に抑えたとしても、35人いれば3日に1回は誰かがケガをする計算である。


その時すべき指導は、端的に言うなら

「なるべくケガをしないように、自分が気を付けなさい」である。

鬼ごっこをして誰かとぶつかったという場合であっても「よける」ができなかったのは、自分の運動能力に責任の一端がある。

そこを自覚させていかないことには、子どもは安全に遊べるようにならない。

「〇〇ちゃんがぶつかってきた」と本人が被害者であることを主張している間は、成長しない。


その上で、ケガが起きてしまった時は、担任が対応するのである。

外で遊ばせている以上、全くケガが起きないという都合のよい状況は有り得ない。

都度「次は同じケガをしないように気を付けなさい」を伝える。

これしかないのである。


話を元に戻すと、上に立つ人間は、責任をとる覚悟が必要ということである。

責任をとるのが嫌ならば、自由を完全に奪い、ぎゅうぎゅうに管理するしかない。

しかし、実際は、きつい管理の元にこそ、大きなトラブルは発生するというのが現実である。

(例えば外で十分に遊ばせてもらえなかった子どもは、躓いて転んだというような小さなことでも、大怪我をする。)


相談できる上司や担任というのは、責任をとって解決に乗り出してくれる人である。

失敗した時に「次がんばれ」と励ましてくれる存在である。

トラブルの報告を「よく言ってくれた」と喜んでくれる上司である。

悪いことをしたのを正直に話した子どもに「ありがとう」が言えることである。

この辺りの条件が揃っていない以上、いきいきとした集団は生まれてこない。


このようなリーダーの姿勢があって初めて、いじめのような根深い問題にもやっと踏み込んでいける。

学校に限らず、陰湿ないじめが蔓延っているのなら、その集団のリーダーに責任がある。


オープンな職場、学校に必要な要素は、やはりリーダーの在り方が大きいと考えた次第である。

2020年12月13日日曜日

晴れの日の論理と雨の日の論理

 最近、感銘を受けた言葉。

私がずっと以前から尊敬しているある先生から教わった言葉である。


「晴れの日の論理」という言葉である。

これは晴れの日、つまり、順調な時に有用な論理という意味である。


晴れの日には、洗濯物を外に干すと気持ちが良い。

太陽の日を浴びて、すっきりするだろう。

他にも、晴れの日ならではのことはたくさん挙げられる。

紅葉狩りだって海水浴だって、晴れの日だからこそおすすめできるレジャーである。


一方、雨の日の論理というのがある。

雨の日は、ほこりや花粉が飛ばなくていい。

部屋で静かに過ごしたい時にも、雨のさやさやとした音が耳に心地よくていい。

アジサイは、雨あがりが一番きれいである。

他にも、雨の日ならではということはたくさんある。


これを、逆に適用してはいけないということである。

晴れの日の論理を、雨の状態の人に適用すると、非常に迷惑なことになる。

雨の日の論理を、晴れでアクティブにいこうとしている人に適用しても、やはり迷惑である。


実際の生活で考えると、いわゆるポジとネガの関係である。


辛い思いで落ち込んでいる人に対し、元気いっぱいな人が「前向きに生きていこう!」と爽やかにアドバイスしても、害悪になり得る。

辛い思いをしている人の話し相手になれるのは、同じような辛い思いをしたことのある人である。


逆に、前向きに生きて社会を自ら変えていこうと希望を抱いてがんばっている人がいるとする。

それに対し「あなたみたいなポジティブな人といると疲れる」「世の中なんて変わらないよ」などと言う人がいても、害悪である。

こういう前向きになっている人には、現場で前向きにがんばっている人がアドバイスをした方がいい。


(だから、大人が子どもの夢に対しあれこれ口出しするのは、大概害悪にしかならない。

その子どもの夢を、その大人自身は実現したことがないからである。

相談をするなら、それを実現している人にするに限る。)


この言葉を知って、私は、自分自身の言動や著作を振り返ってみて、一つの気付きを得た。


私がアドバイスできるのは、私がやってきたことだけである。

著作などを振り返ってみても、全て自分が実践してきたことだけである。


さらに言うと、私が本当にアドバイスできるのは、子どもの成長のために自分の力を捧げたいという意志のある人だけである。

「仕事で楽をしたい」「収入が安定しているから教師になりたい」「子どもの心を操作するには」という発想の人に対し、アドバイスは一切できない。

それは、そういうのが得意な人もいるだろうから、そちらの方に学ぶのがいい。

もっていないものは出せない。


ここで思い出すのが、先日のメルマガでも書いた「信賞必罰」の話である。

これは時代を越えた不変の原理である一方、傷ついている人には使えない。

傷付いている人には、指導よりも支援、ケアである。

「指導」を晴れの日の論理とすると、「支援」は雨の日の論理である。


「叱る」は晴れの日の相手には比較的きちんと届くが、雨の日の人は落ち込み過ぎてしまう可能性がある。

「ほめる」は雨の日の相手には自信を回復させる効果があるかもしれないが、晴れの日の人は勘違いする可能性もある。


人を見て法を説けという諺もあるが、これも同じである。

相手によって、適用すべき論理も異なる。


今目の前にいる人には、どちらが適切か。

人によって毒にも薬にもなる、ということを念頭において言葉を選びたい。

2020年12月11日金曜日

プロの教師を考える

 教育実習を通しての気付き。


教育実習生は、学生である。

本気で授業をしても、至らない点が多くある。

当り前である。

立派にできるレベルならば、そもそも実習自体が必要ない。


学生であり、練習期間であり、給与を頂いている立場ではない。

給与が支払われないということは、結果による責任が発生しないということである。

責任は、学生を教える正規の教員側に発生するのである。

給与を頂いている立場なのだから、当然である。


正規教員が授業をする。

授業としての合格点は、当然出る。

しかし、「合格点」というのは、「可」である。

「可」というのは、60点程度である。


プロの仕事が「可」でいいか。

職業としてはいい。

給与もきちんと支払われるだろう。

しかし、それは、プロの仕事とはいえない。


例えば、食事を作って提供するという職業。

飲食業全般がそうである。

ただ、これ自体は、アルバイトでもできる。

しかし、お客様が感動するような料理を提供する、となると、プロの領域である。

美味しいものをたくさん食べている人を唸らせるようであれば、確実にプロの仕事である。


つまり、その職業についているといっても、必ずしもプロとはいえない、ということがある。

これは、あらゆる職業についていえる。

正規教員だからといって、必ずしも本当の意味において「プロ」という訳ではない、ということである。


もっと突っ込むと、プロは、ミスをしないともいう。

「プロは絶対ミスをしてはいけない」とは、かの名選手、王貞治氏の言葉である。


プロ野球選手を見るとよくわかるが、高く上がったフライを落とすことはまずない。

プロサッカー選手でも、普通のトラップミスというのがほとんどない。

しかし、高校生や大学生の試合を見れば、別である。

例えば高校野球の最高峰である甲子園であっても、結構ポロポロ落とす。

(むしろ、甲子園のような異様に緊張する舞台だから落とすという面もあるかもしれない。)


さらにプロは、淡々と結果を出し続けるともいう。

プロになる前は趣味で楽しくやっていたことも、変わってくる。

プロの仕事には、常に結果が求められるからである。

楽しいかどうかは評価軸にはなく、淡々と結果を出し続けることが求められる面がある。


つまりその職業に就けた=プロという訳ではないということである。

新規採用者が「私はこの仕事のプロです!採用されたから!」と自信満々に宣言する姿を考えればわかる。

(そういう意識をもって全力で仕事に向かうこと自体には意味がある。)


しかし、それを笑うとしたら、何年目からならいいのか。

十年?二十年?三十年?

それ以上だと、退職が近くなっているし、多分その仕事のプロというより、管理職等の別の立場である。

その面で、職人は、プロが生まれやすいといえるかもしれない。


プロは、年数ではない。

感動を含め、具体的な結果を出し続けられるのが、プロである。

年数自体は、直接的には関係ない。


プロの仕事というのは、評価にするならば5段階の5、10段階の10を付けられる実力である。


師の野口芳宏先生の言葉を借りると、関わる子どもたちに良い「感化・影響」を与え続けられる人物である。

子どもの「向上的変容の連続的保障」ができる教師である。

そう考えると、プロの教師というのは、かなりハードルが高い。


恐らく、そんな高みを目指そうとは思えない状態の学校現場が多いのかもしれない。

今の「やるべき」で埋め尽くされた現状からの余裕を作らない限り、プロの教師は生まれてこないというのが私見である。

2020年12月9日水曜日

アラビア語で説教されたら反省できるか

 最近読んだ、次の本から。


ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治 著 新潮新書


各章のタイトルだけ紹介すると

第1章 「反省以前」の子どもたち

第2章 「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年

第4章 気づかれない子どもたち

第6章 褒める教育だけでは問題は解決しない

・・・・


このタイトルだけでも考えさせられる内容である。


医療少年院という特殊な場所での経験を元に筆者が書いている。

筆者が対する少年(男女関係なく少年と呼ぶ)たちは、決して「特殊な子ども」たちではない。

しかしながら、小・中学校をはじめとする周囲の理解・認識不足により、奈落の底まで落ちていってしまった子どもたちである。


「反省以前」の子どもたち。

どういう意味か。


「反省」ができるのは、高度な認知能力である。

自分を客観的に見る、メタ認知能力である。(実は大人でも苦手な人の方が圧倒的に多いのではないかと思う。)

認識能力自体が欠けている、あるいは異なる認識・情報処理方法だとしたら、すべてが成立しない、ということである。


もしも物事が歪んで見えていたら、図形を正しく書き写すことはできない。

もしも話が歪んで聞こえていたら、意味を理解することはできない。


以下、私の解釈である。


例えば誰かに説明されている途中、突然アラビア語が随所に混じるようなものである。

相手がどんなに真剣に話していても、それをこちらが真剣に聞こうと思っていても、意味がさっぱりわからない。

わかりようがない。


しかし「わかったね」と言われたら「はい」と答えるしかない。

「わからない」などと答えたら「真面目に聞け!」とどやされると相場が決まっているからである。


こんなことを繰り返して生きている子どもたちが、日本中(いや、世界中)にいる。

自暴自棄にならない方が奇跡である。


学級担任をしている皆さんに思い浮かべていただきたい。

クラスに何度言ってもさっぱり反省しない、改善しようとしない子どもがいないだろうか。

いわゆる「やる気がない」子である。


そう、例の「やる気」である。

やる気はやった後に起きるものであって、やれる前には起きない。

やる気がないのではなくて、やれない。

この見方が大切である。

この可能性を考えることで、対応は変わる。


自分自身に問うてみる。

他の人にとっては容易にすぐできるようなのに、自分に大きく欠けている認識能力がないだろうか。


ひどい方向音痴。

なぜかまともな料理ができない。

字が下手。(字形が正しくとれない)

ひどく忘れっぽい。

話がうまく聞き取れない。

考えていることをうまく喋れない。

味覚が人とずれている。

物との距離感がうまくとれないで、よく頭などをぶつける。

片づけられない、捨てられない。

等々。


どれも、本人の心がけとか努力の問題ではないかもしれない。

根本が、認識能力の問題である可能性がある。

しかし、普通にできる他人から見ると「ふざけてる」「やる気がない」「努力不足」に見えるものばかりである。


もしこれがたまたま「聞く」という人間関係で重要な認識能力だったら。

「見る」という社会で最も使う認識能力だったら。

全てが歪んで見えて、雑音になって聞こえてくる世界。

恐ろしく生きづらいのが想像できる。


目の前の子どもは、やる気がないだけなのか。

あるいは、反省できないようなひねくれた性格の持ち主なのか。

恐らく、多くの場合、違うと考えた方がいい。


そうなると、手立ては変わってくる。

一生懸命教え諭しても、無駄である。

相手にとって、それはアラビア語だからである。

違う手段、方法をとる必要がある。


認識能力の矯正には、専門的なトレーニングが必要になる。

その知識を小学校教員に求めるか否かは別として、そういうものの存在は知っておいて損はない。

(小学校教員は、度重なる教育改革、ビルド&ビルドで、全方向への対応能力を求められすぎである。

全部真面目に応じてたら本当に過労と心労で死んでしまう。

もしこのまま求め続けるなら、せめて新規採用の給与額を倍にしないと必要な人材が集まらなくなるかもしれないと思う。

それは無理だろうから、今後の改革はせめてスクラップ&ビルドの方向にしていって欲しい。)


教員だって、うまくいかないことを「ふざけてる」「やる気がない」「努力不足」で断じられたら、かなり辛い。

人によって、できないこともある。

それを子どもにも認めて、対応を変える必要がある。


教室に「困ったあの子」がいる人には、特に一読の価値ありの本である。

2020年12月7日月曜日

続 信賞必罰 醒めた目と温かい心

前号の続き。

信賞必罰、醒めた目と温かい心が大切である。

しかし、この真逆をいっていることがある。


実例を挙げて考える。


子どもが、自分で考えて一生懸命何かをした。


例えば、自分のことは自分でしよう、あるいはお手伝いをしようと食器を運んだとする。


それらの行為が、結果としてうまくいかなかった、あるいは大人から見て出来がよくないことがよくある。


食器は特にわかりやすいが、うっかり落として、がちゃん!べちゃ!である。




もしここで叱ったら、これでアウトである。


これを続けば「私はできない、認められない、だめな人間だ」となること必至である。




ここは、褒めるべきところである。


挑戦による失敗だからである。


まずは運ぼうとしたことを認める場面である。


その上で、次はこうするとうまくいくよと教え、励ます場面である。




ここまで書いて、反論の声が聞こえてくる。


そんなことは重々わかっているが、頭に来るし、そんあ仏様みたいな対応できるかと。




そう、仰る通り、この正しい信賞必罰の方が、圧倒的に難しい。


表面上は「失敗」なので、大人としては心配したりイラっとしたりして当然だからである。


子どもが食器を落として壊して食べ物をぶちまけたのにも関わらず、笑顔で包み込むような対応をできる度量が必要となる。


気持ち的には釈迦かキリストか、あるはマザー・テレサ辺りにならないといけない。




だから、教育は失敗しやすい。


人間としての器の大きさが必要となる。


器の大きい大人は、どれぐらいの割合で存在できるのだろうか。


体が大きければ偉い訳ではないのに、幼児や小学生相手についひどい対応が出てしまう。


人間的な弱さ故である。




もう一つ、叱るべき時に褒めてしまったり、認めてしまったりという大失敗もある。


例えば、子どもが電車で大騒ぎしていたとする。


乗客の冷たい目線を気にして「あそこのおじさんが怒るからやめようね」と諭す。


これは「元気なあなたは正しいのだけれど、怒るあの人が間違っている」というメッセージとなる。


最悪の教育である。




これと類似した現象が学校現場でも散見される。


叱る時は、叱る側も叱られる側も他を引き合いに出さず、間違いなく「私対私」の責任でもって叱るべきである。


(第三者の大人は、子ども同士のけんかにはやたらと首を突っ込まないことである。大抵、真逆の教育になる。)




子どもは、自然に定められたように伸びる。


一方で、子どもは育てたように育つというのも真理。


子どもは、ジャングルの伸び放題の植物ではないし、かといって盆栽でもない。


光に当てて自然に伸びるのを見守りつつ、必要な水と栄養は与え、社会に適応した形に手入れをするのが教育の在り方である。


その内、それを必要としない大木に育つかもしれない。




人を育てるのは、信賞必罰。


醒めた目と温かい心。




どちらも教育の真理を突いた言葉である。

2020年12月5日土曜日

信賞必罰・醒めた目と温かい心

 教育における、褒めると叱るということへの誤解について。


褒めると叱るはバランス、というのは割と世に広がってきている。

一方、褒めてはいけない、叱ってもいけない、認めよというのがアドラー心理学の立場である。


どちらも理論としては正しいのだが、理解する側が誤解すると、どちらも誤りになってしまう。

褒めると叱るはバランスというより、使う場面次第で両者とも薬にも毒にもなり得る、というのが真理である。


ある考えは、自分というフィルターを通して自分のものとなる。

フィルターを通してどう解釈するかに全てがかかっている。

フィルターとは、観である。

観が大切なのである。


今回の話題に関連して、次の本を紹介する。


『愛と祈りで子どもは育つ』渡辺和子著 PHP文庫


著者の渡辺和子氏はシスターである。

累計200万部越えのベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』の著者といったらわかる人もいるかもしれない。


さてこの本の中に「醒めた目と温かい心」という項目があり、そこから引用する。

=================

(引用開始)

醒めた目で子どもをしっかりと見つめ、

叱るべき時には、はっきり叱り、

誉めるべき時には、しっかり誉めて、

どんな時にも子どもに変わらない愛情と、

導いていく温かさをもつ時、

子どもは、親の顔色や機嫌を見ることなく、

良いことと悪いことのわかる子に育ってゆきます。

(引用終了 改行は松尾による)

=================


教育とは、これである。

叱るべき時にはっきり叱る、誉めるべき時にしっかり誉める。

これはアドラー心理学でいう「認める」とも通じる考え方ではないか。

即ち、ある事象を「見て留める」である。


子どもは、他の動物と同様、小さな命を平気で殺してしまうことがある。

それは、善悪の基準というのが、文化的に定められたもので、教えられて初めてできることだからである。

(宗教で特定のものを食べるのが悪、と信じるということと根本原理は同じである。)


善悪の基準をもたない子どもに、それを与えるのが教育の役割である。

即ち、教育は文化的な行為であり、意図的な行為である。


ただ自然のそのままに育つ、というのは教育ではない。

もし自然のままが教育的に正しいなら、野生に放てば人間が立派に育つということになる。

完全に野生で育った場合、それは「ヒト」であっても社会的な人間とはなり得ないことを証明したのが「オオカミ少女」の実例である。


この本を読んだのと同時期に、師の野口芳宏先生が

「信賞必罰」

という話をサークルでしてくださっていた。(正確には、それを動画で見た。)

これこそが教育において大切ということである。


どういうことか。

私が話を聞きながらとった電子メモをそのまま以下に載せる。


===============

人を育てるには、信賞必罰でなくてはならない。(あるいは必賞必罰)

賞=ほめること

信=まこと

褒めるに値することを必ず褒めること。

叱るべき時には、遠慮せず叱る。

これは時代を越えた教育の原理。


何でも耳に心地よい言葉しか受けずに育った子ども。

社会はそうでない。


ただし、ケアの心も大切。

苦しんでいる人に信賞必罰は必ずしも当てはまらない。

相手の人格を尊重し、ケアする心遣いも必要。


信賞必罰とケアの両方を。=公平無私

これを日常生活の指針に。

その一日一日が積み重なること。

人生が慈悲に彩られる。

================


この逆をいかないことである。

褒めるに値しないことを褒めれば、子どもはそれがいいことと勘違いをする。

叱るべきところを叱らずにいれば、子どもはそれが悪いことではないと勘違いする。


もっとよくないのは、褒めるべきところで叱り、叱るべきところで褒めること。

こうすれば、自尊感情が傷ついた、受け身のひねくれものの出来上がりである。


そうしないためにはどうするか。

次号で続きを書く。

2020年12月3日木曜日

やる気いらない説

やる気を起こすにはどうするか。

自分のかつての著書のタイトルにもあるように、長年の関心事である。

最近でもこのテーマで何本か記事を書いて、ますますよく考えるようになった。


その中で辿り着いた一つの考え方は

「やる気の有無はどうでもいい」

というものである。

今回提案するのは「やる気いらない説」の考え方である。

(一応前置きしておくと、全ての方法は万人共通ではないので、数ある考え方の内の一つである。)


やる気はたくさんの人の関心事であり、どうでもいいはずがない。

それはわかっている。

しかし、それでも、どうでもいいという考えに基づいた説である。


どういう考え方か。


やる気を「物事を自らすすんで実行しようという気持ち」と定義する。

諸説あると思うが、自分として一番しっくりくるので、ここではそう定義する。


まず、多くの人が進んでやる気を起こすことは何かと具体的に考えてみる。


例えば、ゲームをすること。

放っておいてもやるどころか、禁止されていても何とかやろうとする。

何時間も熱中する。

文句なしにやる気を起こすものの一つである。


例えば、飲酒。(あるいは、甘い物など、好きな物を食べ過ぎるほど食べることでもいい。)

飲まなくていいのに飲む。

身体にもお財布にも優しいといえないほど、進んでたくさん飲む。

アルコール中毒でなくても、毎日のように飲む人がかなりいる。

翌日に支障をきたすほど飲む。

これも、かなりの「やる気」を起こしているといえる。


ネットショッピングもそう。

趣味の読書や音楽、車いじりやコレクションなどもそう。


他にも諸々、やりすぎてマイナスになるほどにやる気を出してしまうものは、身の回りに溢れている。

もし何もなくても、SNSを数分眺めていれば、それらのあらゆるやる気を引き出しまくってくれる。


もう既にこの時点で、やる気はない方がいいのではないかと思ってしまう。


しかしここで多くの人からツッコミが入る。

「勉強やエクササイズのような、役立つものへのやる気が必要なのだ」と。

その通りである。

では、ここについて考える。


なぜゲームのように勉強に没頭しないのか。

なぜ飲酒のようにエクササイズに没頭しないのか。

両者の違いは何なのか。


違いの一つは、やる気が出やすいものの方は、単に楽しむためのもので、かつ他者からの達成目標が義務付けられていないものばかりである。

ゲームにはクリア目標が無数にあるが、誰に強制された訳でもない。(そもそも達成目標自体はゲームの要素の一つである。)

飲酒時にはここまで飲むべしという規定もないし、誰も毎日飲めとは言っていない。

ただ、楽しんでいるだけだから、延々とやる。


一方の勉強やエクササイズには、自分を含めた誰かしらに義務付けられた達成目標がある。(場合がほとんどである。)

すると自分の中で「やらねばならない」という強迫観念が働く。

「やれば後々いいことがある」ということ自体はわかっている。

しかし、どこか「ねばならない」という義務感があるのである。

あまり楽しんでいないといえる。


逆に考えれば、その楽しさと義務感さえなければ、両者は「行動」という点では同じである。

ただただやっている状態。

ゲームに没頭し続けている時、飲み続けている時と、これはほとんど同じ状態である。

やり続けると体が疲れる、眠いなど、それなりに苦痛が伴っている点も同じである。


では、どうすればいいのか。


一つは、何も考えないことである。

やる気を出そうとかしないで、やる。

ただ、これがあるからやる。

それだけしか考えない。

考えれば考えるほど、やれない言い訳、やることによる苦痛を探し出すからである。

元々楽しいと思っているものではないのだから、考えるだけマイナスである。


洗い物などはわかりやすい。


やる気が出るまで置いておくと、溜まりまくる。

「今は食べた後の幸福感を無駄にせず味わいたいから」「次のものと一緒に一気にやった方が時間の節約になる」等々、非論理的な理由を並べたて始める。

結果、いつまでたっても、やらない。

一人暮らしなのに食器が結構な数あるような人だと、尚更やらない。

(家族がいる人は、強制力が働くので、どこかで必ずやる。しかし、他の誰かしらがやってくれるとなると、毎回やらない。)


一方、「食べ終わる→洗う」という流れを、自分の中で無思考で行うルールにしておけば、洗い物は終わる。

その時、途中で何も考えないことがコツである。


長くなったので、それをどうやって身に付けるか、ということを次号で考えていく。

2020年12月1日火曜日

理想形の例外を認める

 前号の続き。

良い理想形にも、落とし穴がある。


良い理想形を抱き、それを広げていくことは必要である。

しかしながら、それにより「同調圧力」という言葉に示されるように、「良い」「正しい」が押し付けられる可能性がある。

そうなってくると、元々は良かったはずのものも、やはり害悪と化す。


昨今の「自粛警察」などはそのわかりやすい例である。

他人への感染防止に気を払うこと自体は大変いいことだが、これを他に強制し始めると、おかしなことになる。

つまり、自分がやっている、できるからといって、他人にその価値観を押し付けることが間違いの元である。


前号で「良い習慣」として紹介した、整理整頓を例に挙げてみる。

実はこれとて、気を付けないと害悪にもなり得る。

世の中には、整理整頓が本当にできないという人がかなりいる。

ふざけている訳でもやる気がない訳でもなく、できないのである。


そういう人が一定数いることを理解しているのであればよい。

しかしながら、それが共通理解されていない場合、周囲は同一を求めることになる。

「何でできないの!?」「また散らかして!」という怒声とともに正義が振りかざされる。


冷静になって考えてみれば、周りの人には余裕でできるのに、自分にはできないことというのは、かなりある。

逆もあって、周りの多くの人にとっては苦手なことなのに、自分は大した努力もせずにすいすいできるということもある。


前者が、助けてもらうところで、「助けて力」発揮ポイントである。

後者は、助けてあげるところで、「任せて力」発揮ポイントである。

多様性の尊重、互恵の関係である。


例えば私は、子どもの頃から忘れ物が多い。

更に言うと、物忘れが多い。

別に病気とか大げさな話ではなく、昔から忘れっぽい性質なのである。

(代わりに、嫌なこともすぐ忘れる。)


自覚症状があるから、付箋メモや手帳、スマホのメモ・カレンダー機能は欠かせない。

更に、周囲の人の記憶力に頼ることもしばしばである。

(大概、いつでも、頼れる人が偶然そばにいる。)


きちんとした人にとっては「だらしない奴だ」と思われるかもしれない。

しかし、それが自分であると自覚している。

そうすると、自分に合ったうまく生きる術が身に付いてくる。


この自覚があると、他の人の欠点にも寛容になれる。

あらゆる他人の欠点も「自分よりはまし」とも思える。

相手もそう思ってくれていれば、なお有難いことである。


あらゆることに、この原則は適用される。

全員が同じようにできることなどない。

(あったら気持ち悪い。)

どんな簡単に見えることであっても、ある人にとっては困難なのである。


学校現場でよくあるのが「人前で発表できない」というものである。

ものを言おうとすると、過度に緊張するらしい。(場合によっては、固まる。)

そういう子ども(または大人であっても)に無理に発言させることはできないし、そこを矯正しようとする意味はない。

意見を書いてもらうとか周りが助けるとか、代わりの手段を用いればいいだけの話である。


過度に動く子どもというのもよく見られる。

これも、動きを制限することはできない。

動くものは動く。

他の子はきちんとしてるでしょ、などと比較して説教しても、できないものはできない。

その子どもが動いても問題ない環境を作る方が賢明である。


さて、これらの特質を認めるにあたり、前提がある。

前号までに大切だと言ってきた「当たり前」「常識」「理想形」の在り方である。


滅茶苦茶に散らかった教室の中だと、その子どもの特質を見抜けない。

集団の多くがだらしないので、その子どもも単にだらしない中の一部にしか見えない。

分からないので、支援できないということになる。


基本的にぎすぎすした雰囲気の中だと、緊張して発言できないという特質の子どもが見抜けない。

単に何を言っても嫌なことを言われるから言わない、という子どもが多数出るためである。


授業中に私語が飛び交い、誰彼構わず勝手に遊びまわる教室では、動いてしまう子どもへの支援はできない。

当り前基準が真面目に授業を受けるという状態だからこそ、動き回る子どもへの対応も、みんなで一緒に考えられるのである。


「滅茶苦茶な方がそういう子どもが目立たなくていい」という見方もあるが、それでは教育にならない。

本人の特質を見抜き、それに合った生き方を考えていくことが大切である。

うまくできないことを自覚できれば、対策の立てようがある。

単に滅茶苦茶な環境だから目立たない、となると、そのまま育つことになる。

結果、自覚症状も自信もないまま大きくなるので、社会に適応できなくなり、本人が不幸になる。

これは、教育の敗北である。


理想形をもつこと。

その上で、理想形に全く当てはまらない人も認めること。

この両立が必要である。


「清濁併せ呑む」という言葉があるが、世界の在り方からしてこうである。

世界にはS極とN極があるように、プラスとマイナスが両方存在して成り立っている。

理想を抱きつつ、一見マイナスに見えるものも許容し、それすら必要と思える教室を作っていきたい。

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