2017年9月30日土曜日

「定型発達」を考える

最近、本を読んでて考えたこと。
ちなみに、少し前に紹介した、東田直樹さんの本からである。

「定型発達」という言葉をご存知だろうか。

Wikipediaによると
「自閉コミュニティにおいて造り出された用語で、自閉症スペクトラムに当てはまらない人々を指し示す」
とのこと。
要するに「健常者の発達」を指す言葉のようである。

では、どういうことが定型発達なのか。
簡単に言うと、その年齢の平均値内だと、定型発達ということになる。
〇歳だとこれができるのが「普通」といわれるアレである。

世に出る「平均」の数値というのは、妥当性を考えると、かなり怪しい。
例えば、適当にネット検索して、日本の40歳の年収の平均を調べると、あるサイトでは「561万円」というデータが出る。
561万円周辺の人の絶対数が多いほど、この平均値の妥当性が高いといえる。
(いわゆる、数学で言う「ばらつき」や「偏差値」である。)
しかし、実際は、かなり困窮している人から、世界的大富豪レベルの層まで、かなり幅広い。
年収100万円以下だってざらだし、100億円以上だってゴロゴロいる。
しかも、それが「特異」な数人ではなく、相当な数がいる。
この場合、平均値の数値は、あまりあてにならない。

学校というのは、都合により学習指導要領で最低限身に付けるべき内容が決まっている。
これは、少数の教員で多数の子どもを教える以上、一面で仕方のないことである。

しかし、個人の発達を考えれば、年齢で一律の発達を想定して教えるというのは、全くナンセンスな話である。
「時速90kmで東京から360km離れた名古屋に向かって車で走ったら何時間でつくでしょう」という問題と同じである。
そんな一定の速度で予定通り行ける訳がない。
実際は、その日は東名高速道路が渋滞しまくって半日かかりましたという話である。
そんな算数の問題ばりに「〇歳でこうなる」という「右肩上がりの成長直線」が設定されているように思う。

個人的には、2歳児の成長発達曲線とか、ない方がいいと思っている。
あれを見ると、平均値から外れた場合に親は過剰な心配をしてしまう。
2歳ぐらいで皆が同じように発達したら、ロボットじゃあるまいし、それこそ「不自然」である。
(逆にあるから安心な面もあることは否定しない。)

現実には教育システムの基本が「定型発達」を前提に組まれている訳である。
例えば文字言語一つとっても、これがいえる。
平仮名と片仮名を覚えるのは小学1年生。
あの漢字は「難しい」から6年生。
この漢字は「簡単」だから2年生。

現実には、ある子どもにとっては3歳で平仮名も片仮名も無理なく覚えられるし、ある子どもにとってはその時は小学一年生よりずっと後である。
学級担任を数年やったら誰しもがわかることである。

「発達」を考える時は、植物を育てるとわかりやすい。
同じように同じ植物の種を育てても、個によって芽の出る時期も育ち方も全く違う。
栄養をやたら与えてもダメ。
やらなすぎてもダメ。
時期を外してもダメ。
無理にひっぱって伸ばしてもダメ。
心配になって掘り返したりしたら完全にアウト。

子どもは(大人もだが)、個の中にある「自然」の時に合わせて発達する。
「〇歳だから●●ができる」という大人の作った時計(枠)とは別の時間の流れである。

だから、特別支援教育が必要だし、インクルーシブ教育や授業のユニバーサルデザインの必要性が台頭してきている。
全体主義から「個」へ視点が移ってきている傾向にある。

平均の拠り所とは、要は「比較」である。
平均を重んずるということは、自分よりも他との比較の方が重視されている訳である。
本来、馬鹿馬鹿しい話である。

目の前の唯一無二の子どもには、可能な限り比較でない見方をしてあげたい。

2017年9月28日木曜日

夏休みの宿題 親に丸投げ禁止

夏休みの宿題の話。
今回は懺悔も込めて。

先に「懺悔」をすると、これまで散々偉そうなことを書いているが、どれもこれまでの私自身の失敗談である。
「不要に多い宿題」を出した過去がある。
「事前指導なしの自由研究・読書感想文」を出した過去がある。
それらを出した理由は、過去に書いた通りである。
↓参照URL
http://www.mag2.com/p/news/259893
平たく、かつ正直に言えば、宿題に関してそこまできちんと考えていなかったのである。
親の負担なんて「これっぽっち」も考えていなかったのである。
「前例」、即ち「前へ、ならえ!」に無思考で従っていた訳である。
考えて出す、あるいは出さないようにしたのも、ここ数年の話である。
そんな数多の失敗経験を踏まえて、現在の考えに至っていることを先に述べておきたい。
(今まで私が担任させてもらった皆さん、本当に申し訳ございません・・・。お許しを。)

ここまで、懺悔終了。
本題へ。

基本スタンスとして、夏休みの宿題は不要だと思っている。
理由は以前に述べた通りである。
ただこれも「全員一律」の課題に問題ありというだけである。

意味のある夏休みの宿題もある。
完全な「自由課題」としては存在意義がある。
ここでしかできない経験を表現することには意義がある。
それを一律に課すから問題なのである。
(選択させても提出必須であれば一律と同じことである。)

子どもが旅先で、感動することがあった。
それを「旅行記」にまとめたり、「〇〇海の生態」というレポートにしたりする。
電車で旅したことを「鉄道記」として記すのもいい。
夏休み中に読んだ本に感動して、それを伝えたくて文章にするのもいい。
とにかく、本人が好きなことで、夏休みならではの表現のチャンスとして利用するなら意義がある。
この場合、子どもが「手伝って!」と言ったら、親としても手伝いようがあるし、悪い気がしない。
本当に子どもの興味から始まっているからである。

それをはじめから「学校からの課題ありき」だから、よろしくないのである。
「宿題がある」→「ネタ探し」という順番だと、確実に「自由」からほど遠い義務感からのスタートになる。
「表現したいネタがある」「元々〇〇を作るのが好き」→「自由課題として提出」なら意味がある。
要は、「課題」から入るのと「興味」から入るのでは、子どもの動機付けに決定的な違いが生じてしまう。
読書感想文などは、その最たるものである。

課題の提示者である教師が指導ができる「授業」ならまだしも、良心的な家庭に課題を丸投げしている実態がかなり見受けられる。
事前指導なし、丸投げの自由研究や読書感想文など、もはや「親への宿題」と言っても過言ではない。

逆に、実態に応じて「強制」してでも課題を与えた方がいいものもある。
例えば、何かしらの理由で、個人的に学業に関して大幅な遅れが生じている子どもの場合。
授業のない夏休みは、遅れた分の差を埋めるチャンスである。
この場合、計算練習や漢字練習など、足りない面の「反復系」「暗記系」の課題を与えることは意義がある。
「反復系」「暗記系」というのがポイントである。
これらは、教師が横について指導する必要がない。
だから、夏休み中でも課題としては取り組める。
家庭に声かけはお願いしないといけないが、そこに複雑さはない。
全員一律の課題ではないので、家庭と本人次第である。
(ただし、この課題も、今の時代だからこそ。
今後、計算や漢字の力がどういう扱いになっていくかである。)

一年生や二年生だと、計算カードの復唱などの課題が一律に出ることもある。
これも、本人だけでできる範囲であり、かつやっていなくても家庭には影響がない点が、家庭学習の課題としては適切である。
「学校からの課題は毎日やろうね」とも声かけできるし、たまには「今日は仕方ないかな」と、調節ができる。
こういった反復による「量」が命で、かつ子どもと家庭の負担が少ないものも、一律の課題としては適切である。
(やったかどうか確認する手段をとるかどうかはまた別の問題。)

要は、親への丸投げにならないこと。
家庭の状況や個人差を無視した一律の課題にしないこと。
最近読んだある記事には「夏休みの宿題で家庭レベルがわかる」といった記事があったが、本来それではいけない。
宿題は、親ではなく、あくまで子どもに出すものである。

宿題の出し方には、教育観の一端が出る。
何が「正しい」かはわからないが、「なぜ自分はそうしたか」は、明確に答えられるようにしたい。

2017年9月26日火曜日

宿題と働き方改革

宿題について、もう少し深掘りして考える。

そもそも、宿題に法的な位置づけはない。
法的には、一つも出さなくても何ら問題ない。

しかし、現実にはかなりの量が出る。
なぜなのか。
諸々あるが、表の理由は「子どものため」。(学力の保証、生活習慣の形成云々。)
本来、これしかない。

しかし裏の理由は、「大人の都合」や「前例」という縛りである。
そんな下らない理由ならやめてしまえと思うが、そう簡単にはいかない。
ずっと続いていることを自分の代でやめるというのは、相当気合いがいるのである。
下手なことをして「学力が下がったのは宿題をなくしたせいだ」などと言われるかもしれない。

という訳で、宿題は日本の学校文化として脈々と続いているわけである。

そして多くの場合、実際に宿題のカギを握るのは、親である。
特に夏休みは顕著である。
夏休みの自由研究を子どもの自力だけで解決していくのはかなり困難である。
また、声かけもチェックもなしに、子どもが毎日ドリルをやれるかというのもある。

内心では夏休みの宿題を「面倒」と思っている親は相当数いる。
正確には「全くないのも不安だけど、あんまりあるのは面倒」という感じである。
(ちなみにこの不安感も「前例」から来るものである。その効果測定はされていない。)

その証拠として「宿題代行業」の存在がある。
ドリル1冊何千円、という感じで、「代行」してもらうサービスである。
特に受験を控えている子どもにとって、宿題が「受験の邪魔」になっているのが現実である。
こういった「代行」業の方々にとって、「大量の宿題」は金の生る木で、大歓迎だろう。
夏休みの過剰な宿題へのニーズは、すべてここにあると言っても過言ではない。
現に、この業界の売り上げは、3年間で10倍に跳ね上がったという調査結果もある。
夏休みの宿題様様である。

受験を控えていない子どもにとっても、長期の宿題は、やはり面倒である。
大人だって、やっととれたお盆休みの最中に「毎日〇時間の作業」や「レポート&プレゼン資料の準備」という残業を課されるのは嬉しくないだろう。
お金を払ってでも代行してもらいたいという気持ち自体はわからないでもない。
逆に、中にはそれで小遣い稼ぎをしたいという子どももいる。
個人の「負担感」の違いである。

負担感といえば、教師の側。
大量に持ち込まれる35人×課題の数々=何百。
これを、一体どう「捌く」のか。
「一行日記」が30日間分書かれていたら、これだけでトータル千を越える文章を読む訳である。
「多忙」な教師生活のスタートがもうここから始まる。
多忙の根本的な原因を「捨てる」必要があると思う次第である。
参考 拙著『「捨てる」仕事術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

本質に立ち返る。
本当に、夏休みの宿題は、必要なのか。
多くの人に、歓迎されているのか。
利益をもたらしているのか。

夏休みの宿題の出し方自体に、働き方改革の根本的な問題が隠れていないか。
根本・本質・原点に立ち返り、見直す必要がある。

2017年9月24日日曜日

一律の宿題は、いらない

宿題の話。

例えば夏休み、学校では、どれぐらいの宿題が出た(または出した)だろうか。
教師の側からすれば「山ほど出した」という人は少ないと思う。
なぜなら「山ほど」かどうかは、受け手が感じることだからである。
「子どもの負担を考えて、少なめにしました」という人でも、相当多く出していると思っていい。

私がやむを得ず宿題を出す時に一番考えるのは、「負担感」である。
同一の分量を出しても、負担感は子どもによって全く違う。
だから、基本的に宿題の分量は全員一律にはしないように心がける。
漢字の宿題一つとったって、ある子には1分足らずで済むものが、ある子には2時間かかるということもざらである。
「そんな大げさな」と思った人は、ちょっと危ない。
たくさんのご家庭で普通に起きている現象である。
問題が表面化しないのは、期日までに親が協力してなんとか形にして仕上げてくるからである。
受け取る側は、普通にやってきたということで、また普通に宿題として出す。
この繰り返しである。

多くの慎ましいご家庭の方々は、面談等では教師に本音の意見を言えないのである。
「こんなことを言って、モンスターペアレントとか思われたらどうしよう」と悩んでいるのである。
もっと言うと「そんな時間をかけているのが悪い」と言われたらぐうの音も出ないと思っているのである。
子どもの能力や性質の問題を指摘されたら、反論できない。(場合によっては怒り出すしかない。)
教師の側は「人質をとられてる」ぐらい言いにくい立場の相手だと思われていると考えると、ちょうどよい。

さて、世の宿題の内容をきくと、この辺りの感覚を教師の側がしっかりともっているかは疑問である。
夏休みの宿題を見ても、一般的に結構な量が出ているようである。
ただこの辺りは、地域社会が求めるコンクールの関係とか色々あるので、学校裁量ではどうにもならない面があるのも否めない。

私個人としては、夏休みは、思い切り遊ぶべき時だと思っている。
だって、夏「休み」だから。
齋藤一人さんの言葉だが「宿題は残業」である。
休みの日に強制的に課すのだから、間違いなく残業である。
ノー残業デーを推進している大人が子どもに残業を推奨しているともいえる。
(将来の残業と持ち帰り仕事に対する耐性を鍛えているという明確なねらいがあるなら話は別である。)

夏休みの宿題は、いらないのではないか。
生活習慣の形成だとかうんたらかんたら理由は色々つけられる。
こういうことを言うと一部の人に嫌われるが、言う。
実は、大人たちが、ただ「安心したい」だけではないか。

もう一度言う。
夏休みの宿題は、大人が安心したいだけではないのか。

夏休みの宿題をやらなかった人たちは将来ダメになりましたという事実でもあるのだろうか。
ただでさえ塾だ習い事だ何だと忙しい昨今の小学生に、これ以上の課題を与えるメリットは何なのか。
生きる力って何だ。
残業に耐える力?
我慢強さが鍛えられる?
それは、他でできるのではないか。

小学生の頃、「なつやすみの友」という名の友人と常に向き合っていた。
「お前、いつかやるから、待っとけ」と、8月31日まで放置していた友を懐かしく思う。
今思えば、あれは、完全に「なつやすみの敵」であった。
言葉は表面をコーティングするから恐ろしい。

「一行日記」とかも、考えものである。
日記どころか、90%の子どもは、どこかでまとめ書きの「月記」になる。
(しかも親に怒られて手伝われながらするのも、世の常である。)
10%のきちんと書く子どもにとっては、そもそも無用の長物である。

ねらいと手立ての不明確な一律の宿題は、いらない。
夏休みなどは完全に「自由課題」のみにしてしまえばいいと思う今日この頃である。

2017年9月22日金曜日

共感と勘違い

「インクルーシブ教育」に関連した話。
最近、刺さった本。

『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』
東田 直樹 著 イースト・プレス (2014/9/5)
http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2137

著者の東田さんは、偶然にも私の元勤務校の市内に住んでいる方である。

紹介文にもある、帯から引用する。
=============
(引用開始)
僕は、二十二歳の自閉症者です。人と会話することができません。
僕の口から出る言葉は、奇声や雄叫び、意味のないひとりごとです。
普段しているこだわり行動や跳びはねる姿からは、僕がこんな文章を書くとは、誰にも想像できないでしょう。
(引用終了)
=============

もう、仰る通りである。
一時期、テレビにもかなり出ていたようなので、知っている方もいるかもしれない。
世の中の自閉症者に関する誤解を解くとともに、正しい理解や新しい視点を与えてくれる内容である。

もう刺さりまくる言葉だらけなのだが、次の言葉を紹介したい。

===========
共感は難しい。相手の気持ちを考えるだけでなく、そこに自分の気持ちを重ねてしまうから。
自分が主人公になった物語を創作してしまうのだと思います。
===========

「自分が主人公になった物語を創作」という表現が、ぐさりと刺さった。
共感の大切さは、言わずもがなである。
しかし、つい次のように言ってしまわないだろうか。
「わかるよ。○○だものね。」
ここが、結構、いや、かなり的外れなことが多いようである。

これは自閉症やその傾向にある人に対してだけではない。
あらゆる意思疎通の場面において起きる。
「わかるよ。○○だもんね。」
「あ、ああ、そうね・・・(汗)。
(いやいや、だからそれが違うんだって!!わかってよ!!)」
ということがないだろうか。
いや、かなりあるのではないか。
自分がそういう思いをしたことがあるということは、自分も誰かにそういう思いをさせている可能性がかなり高い。
空気が読めなくても別にいいのだが、相手の心が読めてないかもという自覚だけは常にあった方がよい。

共感。
言うは易く行うは難し。
それは本当に共感か、自問するようにしたい。

2017年9月20日水曜日

「捨てる」人間関係を考える

「捨てる」において、最も難しいのは、人間関係におけることである。
付き合いを捨てられないで、過剰な気遣いで苦しむ人も多い。

人間関係において、捨てると捨てないの基準は何か。
これは、自分なりでいいのだが、シンプルに設定しておく。

絶対捨てられないものをまず考える。
いの一番に挙がりそうな「家族」は、家庭によって微妙な問題を孕むので、一旦置いておく。

迷わないのは、親友である。
ここは切れない。というより、切ろうとしても切れない。
切れるようなら、その時点で親友ではない。
親友かそうでないかの見極めは、互いが「本当に困った時に助けてくれるか」である。
それがたとえどんな酷い状況であっても、である。
利益を度外視した付き合いである。
さらに、相手に強制や強要をしない。逆にべったりくっつくこともしない。
時折、高学年女子の間で交わされる「○○してくれないならもう親友じゃないからね」という言葉がいかに間違っているかである。

もう一つは、恩師。
これは、形式的な「先生」という訳ではない。
自分の人生の指針を示してくれる人物である。
ここが切れると、人生そのものがあらぬ方向に迷うことになる。

「良き師 良き友 良き書物」の2要素は最も大切な人間関係である。

これを基準に、捨ててよい人間関係の基準を考えればよい。
端的に言うなら、自分を良い方向に導かない人である。
その人が厳しくても、自分の人生のためになる人なら、それは切らない方がいい。
一方で、一見優しいようで、自分を堕落させたり、自信をなくさせたりする相手は、切った方がよい。

また何が「人生のためになる」かは、その人の基準次第である。
ぶつからないことを望む人なら、少し我慢してうまく渡っていけばいい。
嫌われてもいいという覚悟ある人なら、切るところを切っていけばいい。

職場の仲間ならば、一緒に働いている期間中は、好き嫌いは関係ない。
ビジネスなのだから、目的を完遂するために協力することが必須である。
ただ「職場が離れてからもまた会おうという人になるかな」と考えると、付き合い方は一辺倒ではない。
自分にとって魅力的な人なら、その後何十年でも会うし、そうでない人なら二度と会おうと思わない。(相手にとっての自分もそうである。)
今だけの人間関係と捉えるならば、適当なラインで切ればよい。
無理に気をつかいすぎたり媚びたりする必要はないし、無駄にぶつかる必要もない。

八方美人も四面楚歌も、どちらも疲れる。
職場のストレスの原因第一位は、ぶっちぎりで人間関係である。
↓参考「社会人のストレス原因」(enジャパンH.P. 厚生労働省調べ)
http://partners.en-japan.com/special/old/110601/2/
教師が仕事で疲れている原因の多くは、実は授業の準備や大変なあの子のせいではない。
八方美人または四面楚歌を作り出している自分自身の生き方が原因かもしれない。

2017年9月18日月曜日

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。

敬老の日である。
その意義は言わずもがな。

しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。
平たく言うと
「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」
というものである。

なるほど、一理ある。
確かにその通りである。
しかし、私はやはり意義があると思っている。

当たり前のものというのは、気付く機会がないと有難みがわからないのである。
空気の有難みに気付くのは、汚れた空気の中で暮らす時や、水中に潜っている時ぐらいである。
例えば毎日食事を作ってくれる相手への有難みは、意外と気付けない。
日常すぎて、感謝する機会がないからである。
病気をして倒れると気付く。
つまり、有難みに気付くための一つには、不足の状況がある。

もう一つは、言われて気付くというもの。
不足する前に、失う前に気付いた方がいい。
「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるが、全くその通りである。
子どもが可愛い時期だってそうである。
あっという間に巣立っていく。

私は今年祖母を亡くし、自分の祖父母というものが完全にこの世からいなくなってしまった。
もっと会っておけば良かった、というのは、後の祭りである。

もし今日、「いつもありがとう」が言える相手がいるなら、それは幸せなことである。
自分の祖父母でなくても、近所の方でもいい。
何なら、心の中で思うだけでもいいと思う。
これらの理由から「敬老の日に、意義はある」と思う次第である。

2017年9月17日日曜日

「気になる子」は、やっぱり神様

ある学校でインクルーシブ教育をテーマに話をさせていただいた。
教育委員会よりインクルーシブ教育の研究指定を受けているとのことである。
もう、職員室の前を通るだけで、職場の雰囲気がいいのがわかる学校である。

「気になる子を伸ばす指導」という演題であった。
私の講座内容の中心となる考えは「気になる子こそ、神様」である。
ちなみに、この本の中で私の書いた章と同じタイトルである。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181856119

現に、私が色々な場でお話ができるのは、歴代の子どもたちのお陰である。
その中でも、「気になる子」が教えてくれたことは数知れない。
(その学びを支えてくれたのは、その周囲のもっと数多くの子どもたちである。感謝しきれない。)
今回もチャンスもいただけた。
「気になる子」は、やっぱり神様だったというのが実感である。

私は、経験知で話す。
散々悪戦苦闘させてもらったお陰で「気になる子」の話はネタが尽きない。
(そんな配置をしてくれた歴代の校長先生方にも感謝である。)
元ネタがバリエーション豊富にたくさんあるから、アイデアもいくらでも生まれる。

創造性とは、表現そのものである。
創造性とは、勉強するものではなく、実践するものである。
だから、たくさん辛い思いをして苦しみ泣いた経験のある人の方が、この面は強い。
最低限の知識を勉強したら、創造性を発揮するべくあとは実践あるのみである。

一方で、この「最低限の知識」の大切さも強調したい。
知識があると、見え方が変わる。
「観」が変わるということである。
捉え方が変わるということである。
例えば、電車内で突然意味不明の言葉を叫ぶ人がいたとする。
普通にみれば「変な奴がいる」「怖い」となる。
何かしらの知識がある人なら「ああ、今フラッシュバックしたのかな」「何か思い出したのだろうな」と思う。
教室にいる「気になる子」も、知識がないと「ただのわがまま」「手のかかる子」で片付けられてしまう。

今回の講座では、前半に理論と私の実践例を紹介し、後半にワークをしてもらった。
前半の知識をもとに、後半やってみるという流れで、私はこの形をよくとる。
講座が終わった後に「(夏休みだから)明日子どもがいないのが残念でならない。」
という感想を述べていただいた。
「学ぶ」ということに真剣に向き合っているからこそ出るコメントである。
「学即実践」である。

講師をさせていただいたお陰で、誰より私自身が学べた。
今回学んだことを早く実践したくてたまらない気持ちになった。

2017年9月15日金曜日

一斉指導は時代遅れ?

最近、原稿でも講演でも、インクルーシブ教育に関わる依頼が多い。
現代のニーズがそこにあることが読み取れる。
多様な子どもにどう関わるか。
体育でも「共生」の大切さが強調されており、パラリンピックへの啓蒙意識も強い。

さて、「インクルーシブ教育」も「共生」も理想はいいのだが、現実はなかなか厳しい。
学力の面でいうと、学習指導要領には最低基準が示されており、そこへの全員到達が望まれる。
そうなると、かなり進んだ子どもへも、到底届かなそうな状態の子どもへも、その中間含めすべてへの対応を望まれる。
一人一人に完全個別指導することができれば可能だが、現実的ではない。
結局、一斉指導をどうするかという原点に行き着く。

昨今、一斉指導を否定する言がちらほら聞かれるが、これを鵜呑みにすると危ない。
そもそも授業とは、一斉指導である。
複数の相手に一人の教員が指導するのだから、一斉指導以外にない。
(制度自体が変われば話は別である。)
インクルーシブ教育における個別指導だって、個別の合理的配慮はしても、一斉指導の中での話である。
有識者が言っているのも、一斉指導の単なる否定ではなく、その真意は黙って座って聞かせる授業に限界があるということである。
(ちなみに、有識者側もそれを教えるために黙って座って聞かせていることが多い。)

怖いのは、横文字教育用語や「一斉指導否定」などを、前衛的だと思って、若者が感化されすぎることである。
一斉指導が当たり前にできない教師では話にならない。
インクルーシブ教育どうこうの前に、特に問題なく学習できる子どもたちを荒らさないことである。
そういう諸々ができた上で、理想の話に近付く、というのがステップである。

今の時代は、ここが厳しい。
いきなり難しい状況に放り込まれて、さあ努力と工夫でがんばれ、という感じがある。
まずは、マニュアル的ノウハウが必要である。
マニュアル否定は、マニュアルを越えた時にすればよい。
最初からゼロベースのオリジナルのやり方では、非効率すぎる。
大学の実習時代に最低限教えておきたいところである。

まずは、一斉指導。
ここの大切さを、今一度強調したい。

2017年9月13日水曜日

音読を考える

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。
音読をどう評価するか、というのはなかなか難しい。

音読は、あくまで現象。
そして音読は一つの技法、技能である。
読解力と関連づけたいところだが、実際は音読の現象からその力を評価するのは難しい。
内容がよくわかっていなくても、上手い子どもはいる。
内容がよくわかっていても、読むのはあまり上手くない子どももいる。
それが現実である。

では、授業における音読の意味、形成学力は何なのか、と全体へ尋ねてみた。
一番は、間違いの発見だろうということで、意見が一致した。
わかっているつもりが、声に出して読むことで、初めてわかっていないことに気付く。
不備・不足・不十分に気付けるのである。
あとは、量。
やはり、何はともあれ、量を積むことは大切である。

ここに関連して「素読」の大切さについても述べられた。
教科書のない時代などは、写すことと素読だけで学習が成立していた。
それぐらい、時代を越えて根源的に大切な学習である。
声に出して読むことで、身体に染みこませることにも意味がある。
齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」が大ヒットしたのも、そういう原点回帰といえる。

また、一方で高学年における「黙読」の大切さについても述べられた。
低学年の教材などは、短いのでそれほどの負担感もなく何度も読める。
しかし、高学年は、長い教材文も多い。
やはり、量が不足しているという。
「黙読」も大切にしてもっともっと読ませたい。

結局、読む力というのは、一朝一夕、うまい方法で身につくものではないらしい。
現代は何でも効率化が重視されるが、一見非効率な量の積み重ねは、何にもまして学習の基本である。

2017年9月11日月曜日

学習指導要領は「たたき台」

今年の3月に学習指導要領が公示されてから、教育界の動きは大きく変わった。
そもそも、学習指導要領とは何なのか。
文部科学省のH.P.には次のように解説されている。
============
(引用開始)
学習指導要領とは何か?

 全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省では、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めています。これを「学習指導要領」といいます。

「学習指導要領」では、小学校、中学校、高等学校等ごとに、それぞれの教科等の目標や大まかな教育内容を定めています。また、これとは別に、学校教育法施行規則で、例えば小・中学校の教科等の年間の標準授業時数等が定められています。
 各学校では、この「学習指導要領」や年間の標準授業時数等を踏まえ、地域や学校の実態に応じて、教育課程(カリキュラム)を編成しています。
(引用終了)
===========

国として、一定の教育水準を保つためのものである。
つまり、あくまで土台、たたき台である。
だから「地域や学校の実態に応じて、教育課程を編成」とある。

つまり、あくまで基準であり、すべてこの通りにやれというものではない。
マニュアルはあくまでマニュアルであり、応用されるべきものである。
たとえ何かのバイトであっても、マニュアル通り一辺倒の対応にはならないはずである。

時にマニュアルから大きく外れても良いが、目的を見失ってはいけない。
例えば一般企業であれば「顧客満足」と「長期的利益」の双方は落とせない。
学校であれば、子どもの「学校が楽しいこと」と「長期的な成長」である。
それを最低限保証するためのものである。

学習指導要領にこう書いてあるからそうするという思考は、危険である。
それは「先生がこう言ったから」と言うことを鵜呑みにして聞く子どもと同じ。
ロボットみたいな人間に教えられたら、ロボットみたいな子どもに育つのは必然である。
そんな姿勢で「主体的・対話的で深い学びを」などとは、口が裂けても言えない。
アクティブ・ラーニングの視点は、むしろ、教える側の心構えである。

「偉い人」がそういうからするのか。
それも同じこと。
自分の頭で考えていないことこの上ない。
先頭に立っている人間がもし間違えていたら、全員アウトである。
(無責任で依存的な人ほど、その人が失敗した時に手の平を返したように文句を言う傾向があるのも見逃せないポイントである。)

結局、最終的に頼れるのは自分自身だけである。
失敗しても成功しても、自分が決めたことなら納得がいく。
「文科省がこう言ったから」と過去の施策を批判するのは誰でもできる。
「学校がこうだから」「校長が、教頭が」「学年が」「子どもが」。
誰かのせいにさえすれば、言い訳は無限にできる。

自分の責任においてなら、一切の言い訳はきかない。
「自分がこう決めたから、こうした。」
といえば、自分で自分の人生を背負える。

学習指導要領は、あくまで土台、たたき台。
それをどう実践して形にするかは、すべて自分の創意工夫。

すべては私の責任。
そう言い切れるように、自分の実践をしていきたい。

2017年9月10日日曜日

議論より対話

今日は教育のネタというより、雑感、エッセイ。

最近、記事を書く度に、色々な場で反応が得られるようになってきた。
本メルマガの記事でも「まぐまぐニュース」に取り上げられると、他のサイトで転載される。
私に全く興味のない人の目に触れ、様々な意見がコメントされる訳である。

特にプレジデントオンラインの記事は、ヤフーニュースに転載されやすいので、コメント数が多い。
肯定的なものから否定的なものまで、あらゆる意見が出る。
作者は完全にそっちのけで、議論が盛り上がっている。
話題の提供ができたという点で、そこは意味があると捉えている。

ちなみに、それらの議論に対し、作者は首を突っ込まないに限る。
子どものことで夫婦げんかしている状況とほぼ同じである。
下手に介入すると
「あんたは関係ないから引っ込んでなさい!」
となって、その内
「大体あんたがね・・・!」
と巻き込まれること必至である。

私は、争い事全般が嫌いである。
スポーツやゲームなどの、ルールに基づいた正々堂々とした勝負ならばいい。
勝ったら嬉しいし負けたら悔しいが、それも爽やかである。
それは、正義や主張を通すための無益な争い事とは区別する。

争い事や喧嘩は、ルールがない上に、双方が無駄に傷つくから嫌なのである。
生産性がないともいえる。
不条理に傷つけられて黙っているほど、皆お人好しではない。
腹の底に溜まった怒りは、数倍、数十倍に膨れあがる。
非生産的というより、むしろ反生産的である。
人を馬鹿にしたり傷つけたりしたら、それが必ず自分に返ってくる。
その個人の権益争いが最悪に発展した形が、国家間の戦争である。
人に喧嘩を売る時は、それぐらい考えるべきである。

対話する力が求めらているが、それが議論で主張する力と混同されている感が否めない。
本来求められていることの中心は「人の話を聞く力」である。
共感しながら話す力である。
「自分の主張をしゃべりまくって相手を説き伏せる力」ではない。
それはアメリカの大統領選挙で勝つような力であり、一部には必要だが、そういう子どもを多く育てたい訳ではないだろう。
ある議論に勝った時、人生レベルで見た時に、多くは「実質的に負け」なのである。

どうせなら議論ではなく、対話をしよう。
私は、色々な意見があって然るべきという立場である。
教育実践一つとっても、様々な主張があっていい。
どれかが絶対的に正しいということは、ないと考える。
(絶対は絶対にないという矛盾を主張している点が悩ましくはある。)

これからも、様々な立場の方と対話するために、堂々と自分の意見を発信していきたい。

2017年9月8日金曜日

子どもの「量」を阻むもの

前号の「質か量か」の話の続き。
質と同様、量は大切ということについて、自分の大失敗談を交えてお伝えする。

うまくいくまでの、試行錯誤。
子どもがそれをやり続けられる鍵は何か。
一つに、親や教師は、それを見守る余裕があるかどうかである。
余計な手出し口出しはせずに、励まし見守ってあげられるかどうかである。

この「余計な手出し口だし」が、厄介である。
親や教師の側は、自分ができたり、「正解」の理論がわかったりしているだけに、やきもきする。
「何でこんなことができないの?」と、疑問と同時にその不甲斐なさに苛立ってきてしまう。
この態度こそが、子どもが自由に試行錯誤しながら挑戦する最大の障壁になる。

わかっていても、やってしまうものである。
私は以前に担任していた子どもへの体育の指導で、深く深く反省し、後悔していることがある。
その当時、器械運動が苦手な子どもに、できるようにさせてあげたいという純粋な願いで、様々な方法を試した。
しかし、思うような成果が一向に上がらない。
その時、ぽそっと
「これもダメか・・・」
とつぶやいてしまったのである。
それが、子どもに聞こえてしまったのである。

これは、大失敗の極み。
苦手なことも前向きに努力し、我慢するその子どもは、直接私には言わなかった。
後日、面談の際に、親御さんに言われて知ったのである。
言った本人は全く気付いていないが、言われた方は深く傷ついている。
最悪である。
救われる唯一の点は、親御さんが私に伝えてくれたことである。
これは決して「クレーム」ではない。
適切な言葉を選ぶとすれば、「願い」である。
我が子の気持ちをわかって欲しいという願い。
担任の教師によりよく変わって欲しいという願いである。
伝えることで、角が立つかもしれないことを、言ってくれたのである。
深く反省し、謝罪し、改善して感謝するしかない。

何が言いたいかというと、教える側の強すぎる願いは、時に子どもの「量」を阻むということである。
うまくいくはずという思い込みが、最大の障壁になるということである。
親や教師の心ない一言が、子どものやる気を大きく挫くということである。

指導の知識をもった上で、手出し口出しは最小限に。
しかし、最後は子どもの可能性を信じる思いを腹の底にもつこと。

結局、子どもに量を積ませる指導の肝は、教師のエゴを捨て去った上での我慢強さと、思いやりがすべてである。

2017年9月6日水曜日

質か量か

前号の続き。
技能不足をルールに逃げてはいけないという話に関連して。
先日、船橋でのサークル「スイッチオン」で話した内容である。

実際、成果が上がらない時、「やり方」に原因があることは多い。
漢字練習しかり。
水泳指導しかり。
やり方は大切である。

一方で、やり方以前に、量に問題があることも多い。
正しいやり方を知っていればすぐに成果が上がるはずという思い込みである。
とんとんと上手くやれてきた人が壁に当たると弱いというのは、この点にもある。
やり方さえ上手ければすぐにできるというものもあるが、そうでないものもある。

わかりやすい例で言うと、水泳である。
「畳の上の水練」という諺がある通り、どんなに理論がわかっていても、実際泳がないことには始まらない。
理論の上でどうすれば泳げるか完璧にわかっていても、そのままプールに入っていきなり泳げるはずがない。
時に水を飲んだり鼻に水が入って痛い思いもしながら、段々に上手くなる。

そのためには、量である。
正しいやり方を知った上で、やはりまずは量。
たとえ非論理的な方法であっても、量は何かを残す。
どんなに質の高い方法であっても、量がなければ机上の空論にすぎない。
十分な経験や量があればこそ、理論も生きるというものである。

そして量をこなすには、数え切れない失敗体験が必要である。
うまくいかないからやらない。
その考え方では、量を積めないからうまくいかないという悪循環である。

とにかく、量を積ませる。
これができると、少なくとも子どもに力は確実につく。
ただやらせ方によっては嫌いになって長期的にみて逆効果になるので、そこが難しいところである。
(小中学校の大会でとんでもない新記録を出して、その後二度とその競技をやらないというパターンは結構多い。)

逆に言えば、進んで量を積もうとさえ思わせるようならば、それは指導として成立しているといえる。

量か質か。
この問いの答えは、二者択一ではない。
質と量は、車の両輪である。
どちらもないと成り立たない。
今回、様々な指導を通して、痛感した学びである。

2017年9月4日月曜日

技能は「次」を見通して確実に指導する

公開研究会での気付き。

公開研究会で行ったネット型ゲームで、技能が問題の一つになった。
ゲームを通して技能を徐々に身に付けさせればよい、という考えで行った。
実際は、技能が身につかないまま、ルール変更で対応してしまったのである。
具体的にいうと、バレーボールでいうレシーブの動きにいかず、終始キャッチにはしった。
「キャッチばかりでは面白くないからはじくようにしよう」という方向にもっていきたかったが、いかなかった訳である。

代わりに、落とさないでつなぐにはどうするかということにばかり目がいってしまった。
「ボールを落とさない」ということを、自分たちのメリットとしか捉えなかった訳である。
自分たちがボールを落としにくいルールということは、相手にとっても落としにくく、得点しにくいということに気付かなかった。

つまり、できあがっているスポーツにとってのルールや技能というのは、相当に妥当性があるということである。
やたらにいじると、問題が起きる。
簡易化されたゲームを楽しめればよい、という視点に立脚していたが、やはり問題があることに気付いた。
協議会でも出たが、次の活動への見通しやつながりが大切なのである。
それが、生涯スポーツにつながるのである。

仮説が打ち砕かれるのも、チャレンジした結果であり、成果である。
安全地帯に安住していては、この発見はない。
この成果を次に生かしたい。
協議会や批評箋で意見をくださった方々に深く御礼申し上げたい。

2017年9月2日土曜日

捨てれば、得られる

先週、新刊が出た。

『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

タイトルからして、そのまま仕事術の本である。
よく「いつ書いてるの?」と聞かれるが、その答えもここにある。
自分が一番好きな時間に書いている。

とにかく今の時代、新しく求められることが多すぎる。
しかも、求める方は増やす一方で減らす発想がない。
何も捨てずに全てまともに受けていれば、当然パンクする。

クローゼットと同じである。
古い洋服やいらなくなった服まで大事にとっておく必要はない。
新しい服を着たいなら、古くて使わない服をさっさと捨てることである。
その際、最も強敵なのが「これ、高かったのよね」という服と、「思い出」のある服。
要は、時間と労力を費やしてきたことと、義理関係である。
気に入っていないけど、理由があって捨てられないというものもある。

必要な理由も、不要な理由も、いくらでも述べられる。
様々ある中で、最も大切な資源は何か。
それは「時間」。
これに尽きる。
時間とは、命そのもの。
もし時間が無限に与えられたなら、無限にすべてをこなすことができる。
クラスのあの子がどんなに勉強が遅れても、準備が気の遠くなるほど遅くても、ひたすら待てる。
しかし、現実に時間は有限。
お母さんの口癖ナンバーワンは「早くしなさい!」というのも、なるほど納得。
幼稚園バスも小学校の始業も電車の発車時刻も、一人一人への合理的配慮をもって待ってはくれないのである。

だから、我が人生において本当に大切なもの以外は、捨てる必要があるというのが本論である。
捨てることは手段。
目的は、得ること。
何を。
教師人生における、一人の人間としての人生における、本当に欲しいものをである。

吐けば、吸える。
水泳指導の基本である。
吸うために、しっかり吐くこと。
得るために、しっかり捨てること。

このロジックが何となくわかったという方は、何となく買ってみてはいかがというのが、最重要で伝えたいことである。
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