祝日ということで、特別に連日投稿。
敬老の日である。
その意義は言わずもがな。
しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。
平たく言うと
「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」
というものである。
なるほど、一理ある。
確かにその通りである。
しかし、私はやはり意義があると思っている。
当たり前のものというのは、気付く機会がないと有難みがわからないのである。
空気の有難みに気付くのは、汚れた空気の中で暮らす時や、水中に潜っている時ぐらいである。
例えば毎日食事を作ってくれる相手への有難みは、意外と気付けない。
日常すぎて、感謝する機会がないからである。
病気をして倒れると気付く。
つまり、有難みに気付くための一つには、不足の状況がある。
もう一つは、言われて気付くというもの。
不足する前に、失う前に気付いた方がいい。
「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるが、全くその通りである。
子どもが可愛い時期だってそうである。
あっという間に巣立っていく。
私は今年祖母を亡くし、自分の祖父母というものが完全にこの世からいなくなってしまった。
もっと会っておけば良かった、というのは、後の祭りである。
もし今日、「いつもありがとう」が言える相手がいるなら、それは幸せなことである。
自分の祖父母でなくても、近所の方でもいい。
何なら、心の中で思うだけでもいいと思う。
これらの理由から「敬老の日に、意義はある」と思う次第である。
2017年9月18日月曜日
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