2020年11月29日日曜日

良い理想形を示す

 前号の続き。

同調圧力の利用について。


同調圧力は、そのチーム内の「常識」からくる。

常識だからこそ、そこから外れないようにしようと力がかかる。


つまり、良い常識を作り上げることさえできれば、良い方向に力が働くというものである。

例えばかつて災害時、日本人が混乱せずに整列することが、世界のニュースになった。

日本人にとって、整列して待つのは常識である。

みんなが困っている時に、並ばずに我先に、というのが日本では常識外れである。

そういう望ましくない行動が、日本の常識の力によって制限されたといえる。


学級内でも、常識、当たり前のラインをどこに設定するかで、学級が変わる。

望ましい常識を作り上げる働きかけに成功さえすれば、後は自動的に良い行動が増えていく。


例えば、整理整頓。

常にするのが当たり前になっていれば、乱れているのが放置されなくなる。

物の紛失も減り、トラブルが減る。


例えば、落ちているものを拾うこと。

床に落ちているものを拾うのは、「一苦労」である。

やらない方が楽である。

だから、大方の人は、やれない。

これを思考時間0秒で拾えるようになれば、学級は劇的に変わる。

(しかしながら、これはかなりハードルが高い。)


例えば、困っている人を助けること。

困っている人を馬鹿にするのが常識になっている状態とは真逆のことが起きる。

助けても別にほめられないし、すごいとも言われない。

代わりに「ありがとう」「どういたしまして」が互いにさらっと出てくるだけ。

理想形である。


良い理想形を示すこと。

リーダーの役割は指針を示すことだが、学級担任にはここが重要である。

掃除用具箱と用具の在り方一つにとっても、理想形を示しているのとそうでないのとでは、雲泥の差が出る。

(だから、視覚情報に訴える写真掲示は効果的である。)


どんな常識を示しているか。

初期状態は、学級担任の背中で全て決まる。

子どもの色を出すのは、その後でも十分と考える次第である。

2020年11月27日金曜日

同調圧力は使い方次第

 他人と近づく空間では、必ずマスクを付けるようになった。

誰しもが、そうする「当たり前」の話である。


なぜマスクをするのかというと、自分の身を守るためでもあるのだろうが、他人のためにもなる。

周りの人の安全・安心のためである。

手洗いもそうで、自分のためだけでなく、他人のためでもある。


みんながそうしている。

これは、みんなが他者への思いやりがあるから、と思いたい。


しかしながら、そうではないのかもしれない。

空気である。

そうしないと、自分が白い目で見られる、という意識である。

同調圧力というものである。


そう考えると何だかよくないもののように聞こえるが、これは意味がある。

同調圧力は、心の在り様に関係なく、一定の行動を引き起こす。

(逆にここへの反発心が強い人は、そのせいで無益な諍いを起こす傾向もある。)


ところで、「心の教育」が叫ばれて久しいが、一向に望ましい効果が出ていない。

それもそのはず、心というものが外部から変化させられるものではないからである。


一方で、行動というものは、心とは別に外部からの働きかけで変化が起こせる。

卑近な例を挙げると、優先席が必要と思われる人が近くにいる場合、そこにほとんどの人は自ら座ろうとしない。

「常識」的に考えて、周りの目が気になるのが「普通」だからである。

それは優しさとはまた別の話である。


常識や同調圧力は、本人が道徳的であるかどうかとは無関係に、使い方次第で社会的に望ましい行動を引き起こすことができる。

ここが一つポイントである。


要は、どこを変化させるか、というところである。

心のようにコロコロ変わって、かつ外からは支配・コントロールができないものがある。

そこを直接どうにかしようとするから、無理が生じる。


変えられるのは、行動である。

道徳的どうこうは関係なく、慣習に沿って動いている。

新しい慣習ができれば、そこに合わせた新しい行動様式をとる。


いじめの認知件数がまた増えて、過去最多54万人ということでニュースになっている。

ちなみにこれは文部科学省が発表した

「平成30年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」

からの数である。

大分正しい認識が広がったが、学校が陰湿化している訳ではなく、些細なことでも学校が取り上げるようになった「成果」である。

その意味では、以前よりも学校が開かれた明るい場になっているともいえる。


このいじめ行為をなくしたいと、誰しもが思う。

だから心を教育しようとする。

ここに無理が生じる。

心は外的に変化させることはできない。


ここに、先の同調圧力をプラスに使えればいいのである。

「人をいじめて楽しむ人とか、かっこ悪すぎる。信じられない」という常識である。

「いじめ」が常識からの逸脱行為になっていれば、「おいおい、あなた空気読みなさいよ」ということになる。


そこをプラスの同調圧力にするためには、助け合いがスタンダードになっている必要がある。

「人を助ける・親切にするのは、普通」という状態である。


それをずっと遡ると、「仲間の物が落ちていたら拾ってあげるのが普通」という常識がある。

さらに「何かしてもらったらありがとうを言うのが普通」「人にはあいさつをするのが普通」という常識がある。


それらの些細なことから逸脱していくと、少しずつ逆の方向にいく。

先のように「弱い人をいじめるのが普通」という誤った状態になり、同調圧力が違う方向に働いてしまう。

一番落ちた状態が、正しい行動をとる人を「いい人ぶって」「かっこつけちゃって」と排除していく状態である。

変な同調圧力がかかって、あらゆる正しい行動を取りにくくなる。


これは教室だけでなく、荒れた職場など社会全体でも、この原則は同じである。

「悪ぶっている」人が幅を利かせているのは、多くの人にとって生きにくい状態である。

(だから、テレビのようなメディアに出演する人の言葉づかいやふるまいが、教室の子どもに与える影響は大きい。

人気がある=社会的にそれが「よし」とされている、ということを学ぶからである。)


同調圧力自体に善悪はない。

それよりも、この強力な同調圧力をどちらの方向に使うか。

学級経営においても有用な視点である。

2020年11月25日水曜日

誰しもが、やるからこそできる子

前号で、やる気について、私は次のように書いた。


====================

子どもの立場に対してアドバイスできること。

「誰かが自分のやる気を引き出してくれる」

「上手に教えてくれたら自分は勉強ができるようになる」

という幻想を一切捨てることである。

真実は「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」である。

自らの手足を動かしてやることでしか、できるようにはならない。

=====================


ここの

「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」

について「間違いではないか」とご指摘を受けた。


間違いではないのである。

しかしながら、誤解を生む表現だったことに気付いた。

熟読していただければわかるかもしれないが、それを読者に依存するのは、書き手の甘えである。

わかりやすい解説が必要である。


「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」

この言葉の真に指すところは、次のような意味である。


やればできるは、やっていない証。

やってみたら、できないということもあるかもしれない。

それが怖い。

だから、やらない。

いつまでも、やらない。

やりさえしなければ、いつまでも自分の「可能性」を示せるからである。

つまり「やればできる」は、卑屈な言い訳なのである。


これをひっくり返して肯定的な表現に直すと

「誰しもが、やるからこそできる子」である。

やるから、できるのである。

やってもすぐにできないこともあるかもしれない。

むしろ、その方が圧倒的に多いだろう。

だけど、やり続けることはできる。


つまり、やり続ける限り、できる可能性が、永遠に広がるのである。

本来のポジティブな表現にするならば、「やり続けていけば、いつか必ずできる」である。

この確信をもっているのは、継続にとって大変に意味がある。

この言葉を用いる時、本人は既にやっているというのが最大のポイントである。


やったらできるかできないか。

そんな保険をかけてやるかやらないか判断するようでは、到底できるようにはならない。

できるかできないかという結果など脇に置いておいて、やる。

失敗するからやりたくない、絶対できる保証がないからやらない、という人間が、果たして大成するか。

子どもの頃だからこそ、肚の底へ叩きこんでおきたい真理なのである。


「やればできる」とは、いつまでもやらないための、永遠の言い訳にしかならない。

できるかどうかは、やってみてから考えればいいのである。

十分にやってみてから判断すべきことである。

やる前からやればできるか否かなどと考えることが、行動のストッパーになっているのである。


私は、吉田松陰が黒船への密航を企て失敗した後の次の言葉が、人間の生き方としての真理を表していると思っている。


かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂


例え、うまくいかないと結果がわかっていることであっても、やる。

それは、やるべきことだからである。


ただし、それは全員がそうすべき、ということではない。

吉田松陰の生涯を見てもわかる通り、それは傷付く生き方でもある。

得をしない生き方である。

人間は、基本的に楽をしたいし得をしたい。

だから、おすすめはできない。


それでも、そうやって生きようとする人間を、潰さずに育てたい。

それが嫌だという人は、そういわれても、きちんと避けるであろうと思う。

それでいいと思っている。


誰しもが、やるからこそできる子。

この確信こそが、教育にあたる者に必要な心構えでないかと考える次第である。

2020年11月23日月曜日

勉強へのやる気が出る方法は存在するか

 やる気を出すにはどうするか。

勉強ができるようになるにはどうするか。


こういった質問を受けることが、最近特に多い。

直接受けることもあるし、メールでもちょくちょく来る。

多くの人の関心事であり、悩みなのである。


これに答える前に、誰が悩んでいるのか、ということも考慮しなければならない。


教える側なのか。

親なのか。

本人なのか。


さらには、自分の悩みなのか自分以外の他者の悩みなのか。


これによって、回答は全く異なる。


先に言うと、他者の悩みは、周りが悩んでもどうにも仕方ないことが多い。

そもそも本人の問題になっていないからである。

この場合は、申し訳ないがどうにもできないと答えるしかない。


本人の在り方について悩んでいる場合である。

自分がそこに関してどうあるべきか悩む、ということには、多少なりとも相談を受けることはできる。


教える側に言えること。

やる気に関しては、自分自身を内発的に動機付ける以外にない。

自分は何のためにこれを教えるのか、何を目指すのか。

ここがはっきりしないのにやる気が湧くのは難しい。

(娯楽のように、単なるレジャーとして楽しめるなら別である。)


親という立場の人に対してアドバイスできること。

自分自身に対してやれることをやるしかない。

子どもに「やらせる」という発想をもっている間は、何もできない。

子どもが親に求めることは、勉強を教えてくれることでも、勉強へのやる気を引き出させてくれることでもない。

親の役目は、外で精一杯がんばっている子どもにとっての、安全・安心の補充基地である。

自分の在り方として、どういう親だとそれが果たせるか、考えてみてくださいと伝えるぐらいしかできない。


子どもの立場に対してアドバイスできること。

「誰かが自分のやる気を引き出してくれる」

「上手に教えてくれたら自分は勉強ができるようになる」

という幻想を一切捨てることである。

真実は「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」である。

自らの手足を動かしてやることでしか、できるようにはならない。


子どもによく言って聞かせる諺がある。

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」

これが真実である。

教える側や親のできることは、水辺に連れて行くこと、つまり環境の提供までである。

実際の行動である水を飲む、という行為は、完全に主体的な行為である。


この辺りの甘えというか勘違いが、教育の世界に蔓延しているように思えてならない。

学習塾への考え方についても同様で、難関校に多数合格者を出している塾が、我が子の頭を良くしてくれる訳ではない。

それはあくまで、水辺の一種である。

教え方がものすごい訳ではなく、難関校を目指すような子どもが集まる水辺なのである。

その水が本人に合っているかどうかは、よくよく考える必要がある。


拙著(共著)『やる気スイッチ押してみよう』も、第一章の冒頭に書いたのが

「主体変容・率先垂範」である。

これがすべてのベースである。

本を読んでやる気が出るかどうかは別として、本を置いてでも早く行動せよと書いているのである。


解決方法は、自分の中にある。

古来より言われる、普遍の原理原則である。


2020年11月21日土曜日

人間関係がすべて

 前号書いた通り、人間は周りとの関係でペルソナを付け替える。

これは、当然教える側、担任自身にも当てはまる。


ある意味、役割演技である。

新卒という役割と学年主任という役割で、演じ方が変わるのは当然である。

管理職と他が一緒の役割演技では困る。

幅はあれど、それ相応のものが求められる。


学級担任に絞って考える。

学級担任として、望ましいペルソナを出すにはどうするか。

ペルソナは関係性で決定するので、どういう関係性が望ましいかを考える。


これはいつもの逆思考発想で、望ましくないペルソナと、それを出さざるを得ない状況を考えればよい。


例えば、やたらと細かくて強制・統制的なペルソナが出る場合。

担任が、周囲にそれを求められている場合がある。

「もっと厳しくしてくれないと」

「周りに合わせて」

「もっと細かく見てください」

これらの要望が強いと、本人が本来どうこうに関わらず、統制的なペルソナが出やすい。


例えば、暖簾に腕押し、全然やる気がないようなペルソナが出る場合。

「がんばっても無駄」

「言われたことを黙ってやればいい」

「余計なことをしないでください」

こういった声かけや職場風土がある場合、このペルソナが生きやすい。

一生懸命やっても「目立とうとして」「鬱陶しい」と浮くだけである。


平たく言うと、一般的にも望ましくないペルソナが出るのは、その場の人間関係に信頼感がない時である。

出したい自分をペルソナとして出そうとすると、損害を被ると予想される関係である。

子ども同士でも同様だが、安全・安心がベースにない限り、他者貢献より自己防衛を第一に考えるようになる。


総じて、望ましいペルソナが出る場とは、人間関係が良い場、これに尽きる。

互いが他者貢献をしようという風土。

自ら動いた時にそれが認められる風土。

仲間が失敗してもお互い様、挑戦して失敗しても大丈夫と励まし合える場。


担任の元気は子どもから、と思いがちだが、実はその考えでは不十分である。

管理職をはじめ同僚の重要性はかなり高い。

また、保護者が担任をどのように見守ってくれているかも大きい。

どちらも、いちいち細かく口出しされ、批判されるようだと、防衛的なペルソナを付けざるを得ないからである。


つまりは、人間関係が全てである。

良い仲間に恵まれること。

その良い仲間の一人に自分がなろうとすること。

学級担任としての望ましい在り方と子どもへの教育は、その本質においては同様である。

2020年11月19日木曜日

ペルソナは集団で決まる

教育に関連する心理学の話。


個人の性格は、集団の人間関係で決まる。

だから、この人はこういう性格、とは言えない。


正確には「○○と一緒にいる時はこういう性格」である。


当り前だが、子どもが家庭にいる時と学校にいる時は、別人である。

例えば家庭だとぐずぐずでわがまま放題だが、学校だと品行方正、やる気と思いやりに溢れているという子ども。

これは、子どもが嘘をついているのではない。

その場にあった仮面(ペルソナ)を付け替えているだけ、という考え方である。


ちなみに、ペルソナというのは有名な心理学者のユングが提唱した用語である。

この「persona」は「個人」を意味する「person」の語源でもある。

他者の前に現れる個人というのは、一つの仮面なのである。


これは大人でも同じで、社会に出ている自分と家庭にいる自分が同一だと、色々と困る。

友人の前の自分と上司の前の自分が同一だと、やはりこれも困る。

必要な場面に応じてペルソナを付け替えるというのが大切なのである。

ペルソナは偽りの自分ではなく、他者の前で必要な自分であり、それも本当の自分の姿の一つである。


余談だが、ここには「シャドウ」という概念もセットである。

他人の前に一切出さない自分である。

普段人前では抑え込んでいる自分である。


シャドウも紛れもなく自分であり、しかしながら自分としてはあまり良くないと思える個人である。

シャドウの自分は、ペルソナの自分と正反対の性質を備えていることが多い。

シャドウの自分を認めてあげないと、苦しむことになる。


社会で真面目で通っている人は、実は不真面目にしたい自分をもっているというのが健全なのである。

社会でシャドウの面を出すと受け容れてもらえない可能性が高いと思っている。(信念として思い込んでいる。)

よってこれは無暗に出さずに、しかし自分の中では否定せず認めるという姿勢が大切である。


学校だと素晴らしいのに家だと正反対で残念になる子どもというのは、家庭でシャドウの面を出せているという解釈もとれる。

それは家庭的には残念かもしれないが、社会で活躍する分にはいいのである。

家庭の本来の役目である「補充と安全・安心」という基地の役割をしっかり果たしているともいえる。

やがて成長するにしたがって、家族に対してもシャドウを出し過ぎるのは良くないと思うようになり、調整するようになる。


ちなみに、イラっとする相手というのは、自分のシャドウの面をペルソナとして用いている人である。

だらしない人にイラっとする人は、本当はだらしなくしたい自分がシャドウにいる。

自分の子どもに対してイラっとしてしまうのは、自分のシャドウを素直に出してくるからかもしれない。


話を戻す。


そう考えると、その子どもがどういう子どもであるかは、集団そのものに左右される。

望ましい個人(ペルソナ)を出しやすい集団の雰囲気を作る必要がある。


悪ぶった方が優位に立てそうな集団だと、賢い子どもほどそれに合ったペルソナを付けてくる。

逆に、真面目な方が良いことが起きそうな集団だと、それに合ったペルソナを付けてくる。


つまり学級担任は、集団にとって望ましいペルソナが出やすい環境を整えることが大切である。

真面目や他者の尊重が優遇される風土か、批判や揶揄、ふざけやいい加減が幅を利かせる風土か。

従順で黙っていることがほめられる風土か、自由闊達な意見が尊重される風土か。


授業でいうと、不真面目にやっていた方が構われたり心配されるのか。

真面目にやっていた方が構われたり賞賛されたりするのか。

これによって、子どもは必要な(最適解と思われる)ペルソナを付け替えてくる。


話を聞けば簡単にできることにも「わからなーい」「もう一回言ってー」が出た時に対応する授業なのか。

多少難しいことに対しても「挑戦すべし」「諦めずに取り組むこと」と鍛える授業なのか。

子どもが自分でできることも教師がやってあげるのか。

できることはもちろん、困難なことにも簡単には手を貸さない教師なのか。

ここの対応の違いで、子どもの用いるペルソナは180度変わってくる。


集団の在り方で子どもの性格は決まる。

どういう集団にするかは、実は担任がかなりの裁量権を持っている。


時々「子どもの元々の性質がダメ」という理由で、学級を否定する意見を耳にすることがあるが、これは全くの誤りである。

ストレートに言うと酷なようだが、ダメ集団にしたのは、直接的には、学校と教師である。


望ましい集団づくりこそが、担任の仕事である。

子どもの性格どうこうを言う前に、集団としての在り方を見直すことが大切である。

2020年11月17日火曜日

「〇〇ファースト」は天国か地獄か

 「○○ファースト」という言葉がある。

これは、一つの観であり、世界の見え方に関わってくる。


世界は 思い通りである



自分だけが 得をしたい

自分だけが 先に行きたい

自分だけが 楽をしたい

自分だけが すごいと言われたい


自分だけが 大事にされたい


周りを見れば

「自分だけ」の人があふれ

争い合う世界がある



みんなに 得をさせたい

みんなに 先に行ってもらおう

みんなに 楽をしてもらおう

みんなに すごいと言ってあげたい


みんなを 大事にしたい


周りを見れば

周りを大切にする人があふれ

自分を助けてくれる世界がある



世界は 思い通りである



集団全体が相互扶助の関係というのが理想形であり、十数年に渡り、いつも子どもに話していることである。

何のことはない、日常の些細な出来事の一つ一つが、これである。

学級経営そのものが、これである。


日常のものすごく些細な例を挙げる。


プリントを列毎に配る。

配る側が数え間違えて、足りないとする。


「自分」の世界で固まっている集団は、自分の分をとるので、最後の人が足りない。

列から最も遠い、一番後ろの子どもが「足りません」と取りにくる。


「みんな」の世界の人は、先に相手に渡すので、途中で気付いた子どもが自分の分をもらいにいこうとする。

列の一番後ろの子どもにはプリントは既に行き届いている。

しかし気付いた子どもが取りに行こうと思った瞬間に、その前にいる他の子どもが気付き、さっとそれを渡してその子どもが取りにいく。

あるいは、足りなくて困っている子どもではない子どもが、代わりに取りにくる。


些細なことだが、こういう場面が一日の中で連続的に現れる。

当然、後者の方が気分がいいし、日々が過ごしやすい。


注意点は、誰かを犠牲にしないことである。

よく気が付く子どもが一人二人という状態だと、この子どもたちが犠牲になりやすい。

全体にその傾向があれば問題ないのだが、少ないとやはり少数の「みんなに」が多数の「自分だけが」に搾取される形になってしまう。


学級経営の肝は、この「みんなに」の気風を強めていくことである。

これは全体に行き渡ると、自己犠牲の精神ではなくなる。

逆に個性尊重の動きになる。

互いが互いの良いところを生かそうとするので、自然と互恵の関係になる。

授業中にできないことを恥じる風潮や、挑戦できない雰囲気もなくなっていく。

いじめも自然と減っていき、何かあっても集団に解決できる力がつく。


「自分だけが」の人間を育てたいなら、学校はいらない。

授業中の交流も話合いもいらない

係活動も給食当番も掃除も何もいらない。


「みんなに」という人間、つまりは社会で活躍する人間を育てるために、学校は意義がある。

個性が生きるのは、社会に自分を必要とする人がいてこそである。

だから、自分の能力を磨く価値がある。


教育基本法の第一条が全てである。


教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、

個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


繰り返すが、「みんなに」とは、自己犠牲の精神では決してない。

社会へ自分を役立てて生かそうという考え方である。

究極的に、誰よりも自分のためになってしまう考え方である。


「○○ファースト」という言葉は、使い方次第で天国にも地獄にもなる言葉である。

2020年11月15日日曜日

いじめをなくすには

 いじめ問題についての一考察。


11月は、その発生頻度の多さなどから、いじめ防止のための取り組みが全国でも多い時期である。

最近あまり世間で大きく取り上げられていない気がするので、逆に問題意識としてあげるべきと思い、書く。

(いじめのニュースがブームとして波のように来るだけで、いじめ問題自体はそれに関係なく常に存在し続けてる。)


いじめ問題に限らず、学校における問題というのは学校だけの問題に留まらない。

学校を卒業して社会に出ればその問題が解決するかというと、全く逆で、社会に出てからこそ深刻な問題になる。


いじめは、社会に出てからも対象と形を変えて続く。

社会や人間への恨みが続くといってもいい。

ひどい場合だと、学校への恨みを無差別に無関係な人にまき散らす攻撃行為となる。


いじめは、心の奥底、無意識レベルまでを浸食する。

いじめは、解決されないままだと、した側、された側両方の心を歪める。

それは、人や社会への攻撃行動となって現れる。


SNSや掲示板等による誹謗中傷も、過剰な自己承認欲求も、根は同じである。

いじめの快感と、いじめられないようにするために上に立とうとする心理。

大人になってもなお、誤った競争意識が働いてしまう。

弱肉強食の動物的行為であり、人間としての成熟した姿ではない。


そう考えると、いじめ問題というのは、社会をよくするという面からも、学校で最優先事項として解決すべきことである。

そしてこれだけ長年にわたり問題としてあり続けているのだから、根本的に考え直さないと解決できないということである。


いじめをなくすには、道徳や正しい在り方、みんな仲良くといったことを口で説いてもだめである。

みんなで合言葉にしても、結局お題目にしかならない。


具体的行動である。

ほんの些細な日常の行動が全てである。


例えば、言葉遣い。

乱暴な言葉遣いが容認されている空間では、いじめはなくならない。

言葉が心と人間関係を規定するからである。


例えば、掃除。

汚れて荒れた空間では、いじめはなくならない。

環境が人の心を左右するからである。

自分の始末を自分でつけることで、人のお世話になっていることに初めて気付ける。


例えば、ちょっとした親切。

誰かが物を落とした時に自然とひょいと拾ってあげられる。

「ありがとう」の一言が言える。

たったこれだけのことでも、教室の雰囲気は変わってくる。


小さな小さな具体的行動の積み重ね。

こうした些細なことが、相乗効果で教育的効果を生む。


「当たり前」の些細なことを大切にする。

そういったベースの上でこそ、言うべき時に「言う気」=勇気が湧くというものである。

正しいことすらまともに通らないような風土では、言う気も勇気も湧いてこない。


いじめ問題のような大きなことにこそ、日常の小さなことが大切になると考える次第である。

2020年11月14日土曜日

苦しみは「○○が正しい」と決めつけることから

 以前、私の意見をテレビで都合良く編集されて放映された話を書いた。


箒か掃除機かお掃除ロボットか。

どれがありかなしか。


根本的に、間違っている。

なぜ同族、仲間同士で争わねばならないのか。

どれも掃除道具であり、得意の相互提供による役割分担である。


低コストで電力いらず、一斉にみんなで行うなら自在箒。

階段のように一段ずつが狭い場所も、幅がちょうどいい大きさの自在箒。

(ほこりを吸着するちょうどいい大きさのモップがあるなら、モップも便利。)


昇降口や玄関のように、砂が多い場所は土間帚。

トイレのタイルのような場所も箒か土間箒。


カーペットのように、ほこりが入り込んでしまうものは、吸引力のある掃除機かお掃除ロボット。


狭いフローリングならワイパー型の掃除シート。

体育館のような大きなフローリングの場合は、大きなモップ。


窓やドアのレールのような砂の入り込む細かい場所や、黒板の下の粉が溜まる場所なら、小帚。


どれも、ほこりやごみを取り除く道具だが、得意分野が異なる。

役割に応じて、それぞれ使えばいいのである。

どれか一つだけが掃除道具として絶対的に正しいと決めることに、全く意味がない。


また、実態の違いもある。


予算がものすごく潤沢にあるなら、全教室掃除機か、ロボットもあり得る。

もう少し抑えて、多少の予算があるなら、化学モップ。

または、子どもの数自体が少なくて掃除が無理なら、予算を組んででも機械や外の手を多少借りる手もある。


そうでなくて、子どもの数は多いが予算が少ないなら、教室掃除では役割分担も多くできてコストのかからない箒を主力に用いる。

あるいは、自分の手を使ってきれいにすることや、仲間と協力して頭を使って順序よく事を進めることを学ばせたいなら、やはり箒。


それだけのことである。


考えるべきことは、物事の真理として、二者択一論や絶対解の思い込み、対立の無意味さである。


あれがよくてこれはだめ。

○○の方がよい。

○○が絶対正しい。


そんなことは、絶対的には言えないのである。

多くの物事は、相対的である。


例えばこれを読んでいるあなたは今、どんな髪型をしているだろうか。

それに対し、ある人から「人間の髪型は○○に限る」と言われたら、どう思うか。

恐らく、大きなお世話と思うか、あるいはその人は相当偏った人なのではないかと疑うだろう。


子どもの将来の進路は、何が正しいのか。

大きな会社に勤めることと、規模は小さいが堅実な会社、あるいは新しく立ち上がったばかりのベンチャー企業、どれが正解なのか。

あるいは、就職をしないで、起業する方が正しいのか。

はたまた、生産者側に回る方が正しいのか。


そんなこと、絶対的に言える訳がない。

人それぞれである。

例えば全員が社長になってしまうと、社員がいなくて困ることになる。

あるいは全員が同じものの生産者だと、買い手がいなくて困ることになる。


世の中、絶対の解というのは、ほとんどの場合、ないのである。

人によって、状況によって、よりよいと思われる解は違う。

異なる者同士の相互扶助の関係であり、役割分担である。


だから、自分と違う選択をする人を、否定しない方がよい。

「○○すべき」「○○が絶対正しい」は、大きなお世話になりやすい。

それぞれ、事情があるのである。


生きる上での苦しみの根源的な部分であると思い、書いた。

2020年11月13日金曜日

自分で調整して走る子どもに育てる

 主体的に学習に取り組む態度と、個々の成長について。


ランニングをする場面をを考える。


ランニングは、自分のペースで走る。

レジャーで友達と話しながらでもいいが、その場合双方に余裕が必要である。


成長の機会、トレーニングとしてのランニングがある。

実力があまりに違いすぎる者同士だと、一緒に練習するのが難しい。

集団で走っている場合、実力が近い者同士なら切磋琢磨になる。


ペースが速い者にとっては、遅い相手に合わせてゆっくり走ることが無意味になる。

ペースが遅い者にとっては、速い相手に合わせること自体が困難である。


もしこの両者が一緒に走れている状態があるとしたら、速い方が遅い方に合わせているのである。

あるいは、遅い方が速い方に、後先考えず死にもの狂いでついていっているのである。

いずれにしろ、不幸である。


成長は、このランニングに似ている。

成長のためには、あくまで、自分のペースで走ること。

それも、自分をストレッチしてくれる程度の「少しの無理」をするペースに自ら設定していく。

それが「自己調整」の一面である。


その点、一緒に走る集団の実力が近いと、よい意味での競争が生まれる。

集団の全員が一団となって走る必要はなく、あくまで個々のペースで近い者同士が互いに励まし合い、高め合えばよい。


ここまでは、学習集団の在り方という話である。

次は、教えるという側面から。


コーチとして子どもと一緒に走ることもある。

しかしその場合、一緒に走って励ますことはできても、代わりに子どもの分を走ってあげることはできない。

走るのは、あくまで子ども自身なのである。

息が上がって足が重くなって辛い思いをするのも、子ども自身なのである。

どんなにこっちに余裕があっても、そこの代行はできない。


教えるというのは、そういう面がある。

走るのはあくまで子どもである。

励ましても何をしても、本人に走る意思がなければ何もできない。


人間は、本質的に孤独である。

一人として生まれ、一人として死んでいく。

支えあうことがあっても、誰も自分の代わりには生きてくれない。

人間は一人では生きられない一方で、一人としてしか生きられないのである。

主体的に生きていくしかないのである。


やたらに群れたがるのは、生き物として弱いからである。

あくまで一人で生きた上で、必要な時に必要な協力をすればよい。

他の協力が必要な時は助け合い、そうでない時は一人でいるのが自然である。

(だから、トイレぐらい一人で行きなさいと、やたらつるみたがる子どもに対して言う。)


主体的に学習に取り組む態度の育成は、授業だけで成立するのではない。

普段のあらゆる生活全てで育んでいくものである。

2020年11月12日木曜日

セーフ!はアウト

 

「セーフ!」という言葉がある。

多分、広まる前の大元を辿れば、野球である。


野球における進塁は、多くがギリギリの勝負である。

そのために、野球では滑り込み(スライディング)の練習があるぐらいである。

審判がいないとセーフかアウトかが判定できない。

その緊張感が、野球の面白さの醍醐味である。


しかしこれは、そういう勝負の世界だからいいのである。

日常生活において「セーフ!」という場面があったら、実質はアウトだと思った方がよい。


日常生活においてギリギリになるというのは、多くが計画性のなさ、不甲斐なさの表出である。

それは、時刻の場合もあるだろうし、相手の反応どうこうということもあるかもしれない。


会議ギリギリに間に合って「セーフですよね!?」と言ったとする。

まあ、周囲にいい印象を与えないのは間違いない。

実質、アウトである。


明らかに自分に落ち度があって失敗をしたのに、許してもらえた。

「セーフ!」と言ったとする。

明らかに、アウトである。


ねらった電車に駆け込み乗車した。

閉まるドアに鞄を挟ませて、駅員さんにドアを再度開けさせて乗り込んだ。

乗り込んだ電車としては「セーフ!」である。

社会的には、アウトである。


食器棚の高い所に無理に食器をしまおうとして、服に引っ掛けてコップを落としてしまった。

その時、割れなかったから「セーフ!」である。

しかし、そもそも落ちるような状態になっている時点で「アウト」である。


学校の場面で考える。


子どもが何か提出してきて「これでいいですか?」と聞いてきたとする。

それは「審判」である教師に対し「セーフですか?アウトですか?」ということである。

ここでいいか悪いか(セーフかアウトか)答えると、次からも審判を求めてくる。

ちなみに、あまり出来がいいとはいえないが「いいんじゃないですか」と答えると「よっしゃー!セーフ!」と言ってくることがある。

かなりアウトな反応である。

(ちなみに、そうならないための切り返し対応は「あなたとしてはどうなの?」である。)


廊下を走っていたとする。

たまたま注意する教師に見られなかった。

セーフ!である。

また次も走る。

いつかアウトになる。

ちなみにこれは、車における信号無視でも同じである。

いつか覆面パトカーに当たる。


学級経営でもいえる。

明らかにつまらない授業、理不尽な指導をしたのに、子どもが特に不満も言わずに、事なきを得たとする。

その時は「セーフ!」である。

しかし、これを続けていれば、確実にアウトな事態が待っている。

それが、学級崩壊や授業崩壊と言われる事態である。


「セーフ!」な事態に自分がなった時に、何をすべきか。


まず、「セーフ!」な事態とは、とりあえず今回は事故に至らなかっただけなのである。

その時、天に預けてある「事故ポイントカード」には1ポイント以上加算されたのである。

30ポイント以上たまると、もれなくアウトな事故となって出現する。

そんな感じである。

だから、「セーフ!」は「アウト!」へ一歩近づいた事態といえる。


「セーフ!」な事態になってしまった時は、アウトに至る前に対策を練るべき時である。

「セーフ!」は、適切で余裕な状態では出てこない言葉なのである。

「セーフ!」は、天からの注意、警告である。

直ちに対策を取るべきである。

そのままの習慣で生きていれば、確実にアウトに至るからである。


最近「セーフ!」と言った、あるいは思ったことがあったか。

そここそが、生活習慣等においてテコ入れすべき部分である。

2020年11月7日土曜日

成長する人は、変わろうとする人

 成長する人は何が違うのか、ということをよく考える。

子どもでも大人でも、自らどんどん成長する人がいる。


成長する人の性質を考えても、案外わからない。

本人に聞いても、本人もわからない。

それが本人にとって「普通」で、自覚がないからである。

普通の人というものは実は存在せず、全ての人はユニークである。


逆思考で「それをこの人がするか」という望ましくないことを考えるとよい。

それをしない人が成長するということである。


ずばり、成長する人は「周りのせいにする」ということが一切見受けられない。

本来、環境要因はものすごく大きいのである。

特にうまくいかないこと、自分の思うようにならないことがある時、どう考えても「あのせいで」と思うのが人情である。


ただ、それが真実でも、うまくいかないことを周りのせいにする人は、確実に伸びない。

なぜなら、自分を正当化すれば、自分を変える必要がないからである。

それは、成長の必然性にさらされないということと同義である。


ちなみに仏教の教えでは、人生は基本的に「苦」であるという。

何だか後ろ向きに聞こえるが、真理はそうではない。

どちらにせよ苦であるのだから、それを受け入れ、生きていくのが自然であるという、究極に前向きな教えである。


苦は、自分のためにあると考えるのを基本にしてみる。

そうすると、そこへの対処を自然と考えることになる。


「克服」は一つの方向性ではあるが、何でも必ずしも克服しないといけない訳ではない。

逆に、受け容れるというのも一つの方向性。

受け容れるの一種だが、「諦める」=「明らかに認める」というのも一つの方向性である。


見方ややり方を変えてみるというのも一つの方向性で、これは成長につながる。


成長するには、自分の認識と行動を変えることである。

うまくいかない相手がいた時に、自分の何を変えるといいか。

うまくいかない仕事が出た時に、自分の何を変えるといいか。


相手が変わってくれたら楽だが、それを求めるのは難しい。

子どもの立場であれば、教えてくれる人が変われば勉強をできるようになる気がする。

また、あの教科が、あのテストがなくなってくれたら、と思う。

実際はなくならない。


だったら、今の自分の勉強の仕方を、自分から変えるしかない。

うまくいかない方法をただがむしゃらに続けるのではなく、勉強の仕方を変える工夫をする。

学習の調整である。

それこそが、今学校で求められている主体的な学習への態度である。


成長する人は、自分から変わろうとする。

子どもに教えるべきことであると同時に、大人の働き方改革においても心がけることである。

2020年11月5日木曜日

教員採用試験の倍率を考える

 少人数学級の実現に向けての考察。


少人数学級の実現に向けて、大量に新規採用する必要が出る。


ここで考えるべきことが出る。

採用試験というのは一般的に、採る側からすれば、倍率が高いほどいい。

適性の高いと思われる人物を厳選できるからである。


採用枠が広がるということは、この質の部分が甘くなるということでもある。

一般的に、選抜試験では倍率5倍以上が適正と言われている。

5倍が4倍になるぐらいならまだ質は担保できるが、「危険水域」といわれるのは3倍である。

(地域によっては、教頭試験の倍率が1倍を切ったという。そうなると数の確保最優先で、質の担保は不可能である。)


実際、現状の小学校の教員採用試験の倍率はどうなっているのか。

これについては、文科省が公表している。

【参考PDF】令和元年度公立学校教員採用選考試験の実施状況


小学校の倍率は、「2.8倍」である。

既に「危険水域」と言われる3倍を切っている。


これも自治体ごとに見てみると全く実態が異なる。

5倍を超えているところも少しある一方で、2倍を切っているところもかなり多い。

それらを平均しての「2.8倍」である。


何ゆえの不人気なのか。

世間に流れるニュースや噂をきいていれば、当然かもしれない。

教員の仕事については、ろくなニュースが流れない。

あれだけマイナスの情報ばかりが流れていて、大変そうだ、なりたくないと思わない方がある意味おかしい。

(今日〇〇先生は子どもたちと平和に楽しく過ごしました、なんてニュースが流れることはないので当然である。

しかし、現実は大変なことももちろんあるが、こちらの方が圧倒的に多い。)


自分の通ってきた学校の先生たちを見てきての不人気なのかもしれない。

子どもから見ても、大変そうに見えているのである。

「先生、いつも暇そうだね」と子どもに声をかけられるようになる必要がある。

実際に暇になることはないのだが、そう見せるためにも職場の働き方改革が必要になる。


さて、それでもなろうと思うような人は、どうやっても来てくれる超優秀で貴重な人材である。

つまり、今の新卒採用のような人は、学校全体でかなり大事に育てないといけない。

とにかく、やる気のある人は、希少価値なのである。


だから授業が下手でも一生懸命やっているような人を、挫けさせるような扱いでは、学校教育の未来が危うい。

(適当なやる気のない人を甘やかせというのではない。一生懸命さが前提である。)


新卒に高い技術を求める方が間違っているのである。

ある程度年齢を重ねた人には真似できないような、溢れる情熱があるだけで最初は100点満点である。

それらの人材を、時間をかけて鍛え、励ましながら育成していくのが、現状の学校の役目である。

つまり人間関係の良さが、仕事のやる気や技術の向上に直結する。


まとめると、教員の仕事を魅力的にして、それを周囲に見せていくことが、学校教育の未来を明るくすることにつながる。


小学校教員という仕事の、最大の魅力は何か。

思うに、それは、子どもと関わる面白さである。


子どもは、とんでもない発想をする。

意味のわからない行動、理屈に合わない行動をいっぱいとる。

自分ではとても思いつかないような、素晴らしいアイデアを出してくることがたくさんある。

さらに、工夫しないと乗り越えられない難題をどんどん出してくる。

身体と脳みそが退屈する暇がない。

ここが最大の大変さでもあり、楽しさでもある。


また、子どもの姿に教わることがとても多い。

立派な子どもたちの姿を見て、反省することしきりである。

自分の経験では、争いを全く好まない子どもを見て、勝負ごとが大好きだったかつての自分の人生観が変わったということもある。

多様な人間と多く関われることから、人生観が変わる仕事でもある。


小学校教員は、大変だけど、楽しい。

少人数学級の効果的な実現のためにも、全体でもっとアピールしていきたい点である。

2020年11月3日火曜日

学級のルールはどうやって作るか

 本日11月3日は、日本国憲法公布の日で「文化の日」である。

憲法というのは、国家の根本・基本となるきまりである。

ここにちなんで、学級のルールについて。


以前学校へ観察で学びに来た学生に質問を受けた。

「学級のルールはどうやって作るものなのですか?」


次のように答えた。


1.まず大枠だけ担任が示す

例:仲間が全体の場で話をしている間は、黙って聞く。

  給食のお代わりは、最初に1品だけ選ぶ。多い場合はじゃんけん。

  等々、必須のものや、放っておくと大きな混乱になりそうなもののみ設定。


2.とりあえずやってみる

あまり細かいルールがないので、色々と問題が起きてくる。


3.子どもたち発でルールを新設する

問題となっている事柄に対し、話合ってルールや取り組みを決める。

全体で決めたことは全体で守る努力をする。


4.ルールをなくしていく

これまでに決めたルールが不要になってきたら、それ自体をなくす方向で話し合う。

「ルールはそれ自体をなくすことを目指してつくる」を基本理念にする。

例:整列係が整列させてから移動することにしていたが、自分たちでできるので係による整列をなくす。

等々。


ちなみに経験上、給食に関するルールのみは、ある程度担任が担保し続けておいた方がよい。

食は根源的な欲求であり、好みや量もバラバラで、子どもの手で平等に考えるのがなかなか難しいからである。

また「黙って話を聞く」などという心がけに関するものは、定着すれば当たり前になってルールという意識ですらなくなるので、放っておいてよい。


逆に私が学生に尋ねたのが

「なぜ授業前と終わりに号令をかけさせるのか」(ちなみに私は授業前後に礼と挨拶はするが、号令はかけさせない)

「なぜ小学生は一般的にランドセルで登校しないといけないのか」

「上靴が指定されているのはなぜなのか」逆に「それらに自由な学校があるのはなぜなのか」

というようなことである。


当たり前になっているようなルールや慣習にも、見直してみると色々と発見がある。

ルールについて考えると、当たり前の壁にぶつかることがしばしばある。


常識に囚われない視点で、学校を見直してみることも必要である。

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