2020年11月23日月曜日

勉強へのやる気が出る方法は存在するか

 やる気を出すにはどうするか。

勉強ができるようになるにはどうするか。


こういった質問を受けることが、最近特に多い。

直接受けることもあるし、メールでもちょくちょく来る。

多くの人の関心事であり、悩みなのである。


これに答える前に、誰が悩んでいるのか、ということも考慮しなければならない。


教える側なのか。

親なのか。

本人なのか。


さらには、自分の悩みなのか自分以外の他者の悩みなのか。


これによって、回答は全く異なる。


先に言うと、他者の悩みは、周りが悩んでもどうにも仕方ないことが多い。

そもそも本人の問題になっていないからである。

この場合は、申し訳ないがどうにもできないと答えるしかない。


本人の在り方について悩んでいる場合である。

自分がそこに関してどうあるべきか悩む、ということには、多少なりとも相談を受けることはできる。


教える側に言えること。

やる気に関しては、自分自身を内発的に動機付ける以外にない。

自分は何のためにこれを教えるのか、何を目指すのか。

ここがはっきりしないのにやる気が湧くのは難しい。

(娯楽のように、単なるレジャーとして楽しめるなら別である。)


親という立場の人に対してアドバイスできること。

自分自身に対してやれることをやるしかない。

子どもに「やらせる」という発想をもっている間は、何もできない。

子どもが親に求めることは、勉強を教えてくれることでも、勉強へのやる気を引き出させてくれることでもない。

親の役目は、外で精一杯がんばっている子どもにとっての、安全・安心の補充基地である。

自分の在り方として、どういう親だとそれが果たせるか、考えてみてくださいと伝えるぐらいしかできない。


子どもの立場に対してアドバイスできること。

「誰かが自分のやる気を引き出してくれる」

「上手に教えてくれたら自分は勉強ができるようになる」

という幻想を一切捨てることである。

真実は「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」である。

自らの手足を動かしてやることでしか、できるようにはならない。


子どもによく言って聞かせる諺がある。

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」

これが真実である。

教える側や親のできることは、水辺に連れて行くこと、つまり環境の提供までである。

実際の行動である水を飲む、という行為は、完全に主体的な行為である。


この辺りの甘えというか勘違いが、教育の世界に蔓延しているように思えてならない。

学習塾への考え方についても同様で、難関校に多数合格者を出している塾が、我が子の頭を良くしてくれる訳ではない。

それはあくまで、水辺の一種である。

教え方がものすごい訳ではなく、難関校を目指すような子どもが集まる水辺なのである。

その水が本人に合っているかどうかは、よくよく考える必要がある。


拙著(共著)『やる気スイッチ押してみよう』も、第一章の冒頭に書いたのが

「主体変容・率先垂範」である。

これがすべてのベースである。

本を読んでやる気が出るかどうかは別として、本を置いてでも早く行動せよと書いているのである。


解決方法は、自分の中にある。

古来より言われる、普遍の原理原則である。


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