2020年11月25日水曜日

誰しもが、やるからこそできる子

前号で、やる気について、私は次のように書いた。


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子どもの立場に対してアドバイスできること。

「誰かが自分のやる気を引き出してくれる」

「上手に教えてくれたら自分は勉強ができるようになる」

という幻想を一切捨てることである。

真実は「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」である。

自らの手足を動かしてやることでしか、できるようにはならない。

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ここの

「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」

について「間違いではないか」とご指摘を受けた。


間違いではないのである。

しかしながら、誤解を生む表現だったことに気付いた。

熟読していただければわかるかもしれないが、それを読者に依存するのは、書き手の甘えである。

わかりやすい解説が必要である。


「やればできる子とは、いつまでも言い訳をしてやらない子のこと」

この言葉の真に指すところは、次のような意味である。


やればできるは、やっていない証。

やってみたら、できないということもあるかもしれない。

それが怖い。

だから、やらない。

いつまでも、やらない。

やりさえしなければ、いつまでも自分の「可能性」を示せるからである。

つまり「やればできる」は、卑屈な言い訳なのである。


これをひっくり返して肯定的な表現に直すと

「誰しもが、やるからこそできる子」である。

やるから、できるのである。

やってもすぐにできないこともあるかもしれない。

むしろ、その方が圧倒的に多いだろう。

だけど、やり続けることはできる。


つまり、やり続ける限り、できる可能性が、永遠に広がるのである。

本来のポジティブな表現にするならば、「やり続けていけば、いつか必ずできる」である。

この確信をもっているのは、継続にとって大変に意味がある。

この言葉を用いる時、本人は既にやっているというのが最大のポイントである。


やったらできるかできないか。

そんな保険をかけてやるかやらないか判断するようでは、到底できるようにはならない。

できるかできないかという結果など脇に置いておいて、やる。

失敗するからやりたくない、絶対できる保証がないからやらない、という人間が、果たして大成するか。

子どもの頃だからこそ、肚の底へ叩きこんでおきたい真理なのである。


「やればできる」とは、いつまでもやらないための、永遠の言い訳にしかならない。

できるかどうかは、やってみてから考えればいいのである。

十分にやってみてから判断すべきことである。

やる前からやればできるか否かなどと考えることが、行動のストッパーになっているのである。


私は、吉田松陰が黒船への密航を企て失敗した後の次の言葉が、人間の生き方としての真理を表していると思っている。


かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂


例え、うまくいかないと結果がわかっていることであっても、やる。

それは、やるべきことだからである。


ただし、それは全員がそうすべき、ということではない。

吉田松陰の生涯を見てもわかる通り、それは傷付く生き方でもある。

得をしない生き方である。

人間は、基本的に楽をしたいし得をしたい。

だから、おすすめはできない。


それでも、そうやって生きようとする人間を、潰さずに育てたい。

それが嫌だという人は、そういわれても、きちんと避けるであろうと思う。

それでいいと思っている。


誰しもが、やるからこそできる子。

この確信こそが、教育にあたる者に必要な心構えでないかと考える次第である。

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