2020年11月13日金曜日

自分で調整して走る子どもに育てる

 主体的に学習に取り組む態度と、個々の成長について。


ランニングをする場面をを考える。


ランニングは、自分のペースで走る。

レジャーで友達と話しながらでもいいが、その場合双方に余裕が必要である。


成長の機会、トレーニングとしてのランニングがある。

実力があまりに違いすぎる者同士だと、一緒に練習するのが難しい。

集団で走っている場合、実力が近い者同士なら切磋琢磨になる。


ペースが速い者にとっては、遅い相手に合わせてゆっくり走ることが無意味になる。

ペースが遅い者にとっては、速い相手に合わせること自体が困難である。


もしこの両者が一緒に走れている状態があるとしたら、速い方が遅い方に合わせているのである。

あるいは、遅い方が速い方に、後先考えず死にもの狂いでついていっているのである。

いずれにしろ、不幸である。


成長は、このランニングに似ている。

成長のためには、あくまで、自分のペースで走ること。

それも、自分をストレッチしてくれる程度の「少しの無理」をするペースに自ら設定していく。

それが「自己調整」の一面である。


その点、一緒に走る集団の実力が近いと、よい意味での競争が生まれる。

集団の全員が一団となって走る必要はなく、あくまで個々のペースで近い者同士が互いに励まし合い、高め合えばよい。


ここまでは、学習集団の在り方という話である。

次は、教えるという側面から。


コーチとして子どもと一緒に走ることもある。

しかしその場合、一緒に走って励ますことはできても、代わりに子どもの分を走ってあげることはできない。

走るのは、あくまで子ども自身なのである。

息が上がって足が重くなって辛い思いをするのも、子ども自身なのである。

どんなにこっちに余裕があっても、そこの代行はできない。


教えるというのは、そういう面がある。

走るのはあくまで子どもである。

励ましても何をしても、本人に走る意思がなければ何もできない。


人間は、本質的に孤独である。

一人として生まれ、一人として死んでいく。

支えあうことがあっても、誰も自分の代わりには生きてくれない。

人間は一人では生きられない一方で、一人としてしか生きられないのである。

主体的に生きていくしかないのである。


やたらに群れたがるのは、生き物として弱いからである。

あくまで一人で生きた上で、必要な時に必要な協力をすればよい。

他の協力が必要な時は助け合い、そうでない時は一人でいるのが自然である。

(だから、トイレぐらい一人で行きなさいと、やたらつるみたがる子どもに対して言う。)


主体的に学習に取り組む態度の育成は、授業だけで成立するのではない。

普段のあらゆる生活全てで育んでいくものである。

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