2022年5月28日土曜日

主体的に聞く

 「第3回学校教育のリアルな本音を語る会」は、「聞く」をテーマに開催した。

「聞く」というありふれた行為に対し、改めて問い直すことで、認識の違いがはっきりと出た。


「聞く」に関する学校のリアルな悩みは何か。

それは、多くの場合、態度面である。

しかしながら、態度が本当にその人間の内面を映し出しているとは言い切れない。

そんなことについて参加者と共に話し合っていった。


やはり、画面上であっても、顔を突き合わせての議論というのは、意義がある。

毎月のオンライン学習会もそうだが、前向きな議論からは、何かしら新たに生まれるものがある。


聞くという行為は、読むという行為と同じで、インプット作業である。

同時に、インプットしながら、頭の中で自分との対話が起き、アウトプット作業がなされる。

聞くや読む、見るという行為も、話すや書くという行為と同様に、主体的な行為といえる。


逆に言えば、頭の中で対話が起きないようでは、本質的に聞いた(あるいは読んだ、見た)とは言えない。

ただ聴覚的あるいは視覚的な刺激に脳が反応しただけである。

それでは「馬耳東風」「馬の耳に念仏」である。


(ここでなぜ「馬」ばかりがそんな扱いを、という疑問が湧く。

これは、決して馬を見下している訳ではなく、馬が他の何よりも人間の生活に密着した動物だったからだという。

永六輔さんが、「子ども電話相談室」で答えてくれている内容である。

なるほど納得である。

https://www.tbs.co.jp/kodomotel/etc/20020728.html


そう考えると、子どもがやたらと「何で?」を連発してくることには深い意味がある。

子どもの脳内で知的作業が為されている証拠である。


成長するにつれて、だんだん「何で?」と思わなくなってくる。

大人の社会で「何で?」を連発していると、仕事が進まないし、不適応扱いされる可能性もある。

だから、言わない。


これは、知的退廃である。

見たこと、聞いたこと、読んだことに「何で?」「変だな?」「どうしてだろう?」と思わなくなる。


子どもは、その点、遠慮なくぐいぐい来る。

低学年の子どもなど、かなり根本的な問いかけをしょっちゅうしてくる。

ごく日常的に使っている用語にも「それって何?」が出てくる。


先日は、「ゲームって何ですか」と問われた。

あまりにわかっていると思いこんでいたことへの質問に、改めて問われて戸惑う。

わかった気がしているだけで、よくわかっていないことに気付ける。

(ちなみにゲームの定義としては「遊び」「勝敗」がキーワードである。)


全ての学習は、主体性が命である。

受動的と思われている行為にも、主体性が内在する。


真に聞く行為は、極めて主体的である。

「聞く」をテーマに深堀りしていき、自分自身の理解が深まったのが何よりの収穫である。

2022年5月21日土曜日

物分かりがいい教師は良い教師といえるか

 ここ数回「聞く」がテーマだが、まとめに入る。


前回は子どもが「聞かない」ということの必然性について書いた。

今回は教師が「聞かない」ということについて考える。


子どもが話し手になる状態を考える。

聞くのがこちらという立場である。


優れた聞き手は、優れた話し手を育てられる。

聞く力を磨く必要があるのは、教師の側にも同様である。


ところで、教師の「聞く力」あるいは聞く技能というのを、どう捉えるか。

理解力があるとか、よく話を聞いてくれるとか、色々あるだろう。


それらを一言で言えば、「物分かりがいい教師」である。

いつも話をよく聞いてくれる。

わがままを聞いてくれる。

愚痴も聞いてくれる。

分かりにくい話も理解して、更に噛み砕いて説明してくれる。


子どもにとっては、ありがたい存在である。

しかし、それが子どもの将来にとってプラスになっているかは、疑う余地がある。


先のような存在は、「ガス抜き」として必要である。

癒しである。

つまりは、本来的には家庭の担う部分である。

(実際はそれがままならないから、学校のスクールカウンセラーのような仕事に需要がある。)


物分かりが良く、自分のことをわかってくれて、だめなことでも何でも話せる居心地のよい聞き手。

親友のような関係である。

あるいは、理想のパートナーのような関係である。


ただこれは本来、学校の教師や、会社の同僚や上司など、自身の属する公の社会に求めるべき存在ではない。

公的ではない、私的な関係である。

もしこれを公的な社会に求める場合は、聞いてもらいたい側が時間単位でお金を払う仕組みになっている。

医師やカウンセラー、占い師等のプロの提供する時間は、無料ではないからである。


教師があまりに物分かりが良いと、不都合が生じる。

自分勝手なタイミングで話していいという認識となる。

あるいは、分かりにくい話でも分かってくれるとなると、分かりやすく話そうという必然性がなくなる。


すると、分かりやすく話すための努力や工夫も生じない。

結果、身勝手で冗長で私的で分かりにくい話し方になる。

相手のことを考えて、短くズバリと言う「公的話法」(師の野口芳宏先生の言葉)は身に付かない。


最も良くないのが、「オウム返しスピーカー教師」である。

子どもがどんなに小さい声で話しても、分かりにくい説明をしても大丈夫。

教師が全て「翻訳」「拡大」して全員に話してくれる。(しかも長々と。)

子どももそれを学ぶため、子ども同士の発言は一切聞かず、教師の話す内容にのみ集中すればよい。

分かりにくい説明をしたら、それは全て翻訳下手の教師のせいなのだから、そこを責めればよい。


これは、必ず教育実習生に教える話である。

ついつい、良心的サービスでやってしまうのだが、子どもの成長を大きく阻害する。


一方、(一見)物分かりの悪い教師が担任だと、子どもの側に苦労がかかる。

算数の解き方の説明一つとっても、話し方に工夫と努力がいる。

下手に説明しても、担任教師を含めみんな「?」であるから、発言者の子どもへ「もう1回お願いします。」となる。

子ども同士も、教師が何も言ってくれないものだから、発言者の子ども自身の方を見て真剣に聞くようになる。

話す側も本気になって話す。

結果、子どもたちには、話す力も聞く姿勢も同時に身に付く。


至極単純化すると、そういうことである。

これが、日常生活の全てにおいて行われるのだから、当然子どもの成長の度合いが変わる。

子どもが主体となって進行する理想的な「クラス会議」で行われていることは、まさにこの状態である。


物事は表裏一体であり、「聞かない」という否定的に見える現象にも利がある。

「聞かない」の肯定的な面も、見直す必要がある。

2022年5月14日土曜日

「聞かない子ども」になる方法

 前号に続き「聞かない」を考える。


逆説的アプローチで「聞かない子ども」を育てるような指導を考える。


一つは、前号で書いた「どうでもいい話をする」「分かりにくい説明を長々とする」である。

これを日常化していけば、子どもが聞かなくなる。

全ての子どもにとって防衛的かつ合理的手段ともいえる。


もう一つは、聞いてなくても問題ない状態にするということである。

例えば、単に聞かずに騒いでいる子の「もう1回言って!」のリクエストに易々と応じてしまう。

例えば、ルールを決めたけれど、破っても何もなし。

端的に言って、真面目に聞いている人が損をする対応である。


どちらにも共通しているのが「熱心さ」である。

熱心に、説明をする。

熱心に、相手の要望に応えてあげる。


いずれも、良い結果を結ばない方向の努力である。


努力をするなら、逆の方向に力を入れるべきである。


短い説明で済む努力。

あるいは、説明しないで済む努力。


真面目に聞いている人が得する努力。

必要だから決めたルールは守るよう促す努力。


当たり前のことが抜けることで、聞かない子どもになってしまう。

「最近の子どもは話を聞かない」という声もあるが、指導の在り方も大きく関与しそうなところである。

2022年5月7日土曜日

「聞かなくてもいい」はあり得るか

前号では「教えない」の大切さについて書いた。

教えすぎるから、聞かなくなるのである。


今号ではここについて取り上げる。


「聞く」に関する指導の悩みが存在するのは「聞けない」からである。


前提から疑う。

「聞かなくてもいい」という状況はあるか。

ある。


教師が時にリラックスしてはさむ雑談など、別に全員が聞いてなくてもいい。

下らない話であり、ただお互いのリラックスのためでもある。

話す側にとって必要でも、聞く側にとって必ずしも要るものではない。

(聞いてないでぼーっとしている方がむしろリラックスしているかもしれない。)


全員のいる場で、特定の一人に用があって話しかけることがある。

(「○○さん、連絡帳を提出してください」など。)

これも全員が聞いている必要はない。

この問題点を挙げるとしたら、全員が聞かなくていいことを、全員に聞こえるように話している側にある。

個別に声をかけるべきところである。


つまりは、話す側にとっての自己都合的なニーズがあって話すという場合、相手は聞かなくていいという状況があり得る。

無理矢理売ろうとしている下手なセールスマンのようなものである。

教える側が「テストに出るからよく聞いて欲しい」と思っていても、相手はそう思っていない。

相手側に聞くニーズがない場合である。


(教師の側は「子どものため」と主張するかもしれないが、その内実は自分のためであることも多い。

私は若い時分、テストの平均点にやたら拘っていた時期があったのでよくわかる。

とても駄目な行為であったと反省しきりである。)


ここで反論が予想される。

子どもは授業中ぐらい全てきちんと聞くべきではないかと。


それはその通りなのである。

その通りなのだが、その通りではないこともある。

教師がいつも訳のわからない話をしていたり、下らないことばかり言っていたとする。

そうなると「真面目に聞く価値なし」と聞き手である子どもに判断される。


集中力というリソースには、限界があるからである。

無駄づかいはできないのである。


厳しいことを言うと、いつも訳のわからない説明をしているから、聞かないということである。

客観的に見て「聞かなくてもいい」状況である。


つまり「聞く」という行為は、話し手と聞き手の両方で成立する。

「聞かない」相手の中に問題を探しがちだが、実は話し手の側に問題が存在することも多々ある。


逆に言えば、どんなに相手のためを思って話しているつもりでも、最終的に結局は相手次第である。

相手が「聞きたくない」と思っている以上、「聞く」という状況は成立しない。

「日常が全て」である。


「聞く」という行為も、損得の問題なのである。

聞いて得するなら聞くし、得をしない(=損をする)なら聞かない。

大人も子ども同じであるが、そこはむしろ、忖度しない子どもの方がシビアである。


それは決して不道徳な話ではない。

メリットとデメリットは、人間の行動を決定づける最重要の要因である。


聞く子どもを育てたいなら、「聞かなくてもいい」を促進するような話はなるべくしないよう心がけたい。

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